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初恋を忘れられないあなたへ、継母なんてもうごめん
名門の令嬢・高瀬彩乃(たかせ あやの)は、一族の猛反対を押し切り、勘当されてもなお、未婚ながら子ども二人を抱え、事業も傾いた水野蒼司(...
Chương (1)
第1章
名門の令嬢・高瀬彩乃(たかせ あやの)は、一族の猛反対を押し切り、勘当されてもなお、未婚ながら子ども二人を抱え、事業も傾いた水野蒼司(みずの そうじ)との結婚を選んだ。
結婚して六年――彩乃は二人の子どもをわが子のように育て、夫を支えて事業を軌道に乗せた。
子どもたちは素直で聡明な子に育ち、蒼司の会社も見事に上場を果たした。
だが、蒼司がついに、上流階級の仲間入りを果たした祝賀会の夜、二人の子どもの実の母親が突然姿を現した。
理性的だったはずの蒼司は、その女を狂ったように引き留め、彩乃が街中の笑いものになることすら厭わなかった。
その夜、彼は一度も帰らず二人の子どもを連れて、大好きだった彼女と再会の時を過ごした。
やがて蒼司は離婚を切り出した。「これまでの尽力には感謝している。でも、子どもたちに必要なのはやはり実の母親だ」
実母もまた言った。「この数年、私の子どもたちを育ててくれてありがとう。でも継母は所詮継母。本当の母親には敵わないわ」
――育てた恩は、生んだ恩に及ばないのか?
ならばこの継母の座、きっぱり降りさせてもらおう。
ところが、義娘も義息も実母を受け入れず、実の父親すら拒絶した。
さらにこう言い放った。「この先一生、私たちのママは彩乃だけだ!離婚するならママについていく!」
第 1 話
桜峰市。
夜の八時。
水野グループの祝賀会は、グラスを合わせる音と笑い声、軽やかな会話で賑わっている。
人々に囲まれていた水野蒼司(みずの そうじ)は、かつて家が没落した後、ゼロから立ち上がり、水野グループを再上場へ導いた人物だった。今日の祝賀会は、その功績を称える場でもあった。
「おめでとうございます、蒼司さん。本当に若くして有能でいらっしゃいますね」
「これからもぜひ、お付き合いさせていただきたいですな」
「お仕事だけじゃなく、ご家庭も円満だとか。うちの奥さんなんて、いつも『良妻がいれば何も心配ない』って言ってますよ。あんな奥さんがいるなんて、本当にうらやましいです」
無理もない。若くして継母となり、二人の子どもを立派に育て上げた彩乃を妻に持ち、それを羨ましく思わない男はいないだろう。
その名が出た瞬間、人々に持ち上げられた蒼司は周囲をゆっくりと巡った。
黒のイブニングドレスをまとい、上品に来客と会話を交わす女性――それが蒼司の妻、高瀬彩乃(たかせ あやの)だった。
この祝賀会は、ひと月前から彩乃が自ら準備してきたものだった。それでも忙しい合間にも子どもたちの世話を欠かすことはなかった。
今、子どもたちは健やかに成長し、蒼司の仕事も安定している。その陰には間違いなく彩乃の貢献があった。
この点については、蒼司もはっきりと認めていた。
彩乃が子どもたちを連れて近づき、蒼司の腕にそっと手を絡めた。
人々はすかさず褒め言葉を贈った。「蒼司さんと奥さま、それにお子さんたち……まさに理想の家族ですね」
「本当にお幸せそうで」
彩乃は柔らかく微笑み、応えた。「皆さんのおかげで、これまで蒼司がやってこられました。これからも……」
その言葉を遮るように、会場入口で驚きの声が上がった。「真理?あなた、真理じゃない?」
警備員が怪訝そうに言った。「美佐さん、この人、ずっと入口付近をうろうろしてましてね。お知り合いですか?」
声は小さくなかった。瞬く間にその名は会場中に広がった。
彩乃は「真理」という名前を聞いた瞬間、心臓がぎくりと跳ねた。
反応する間もなく、腕から蒼司の温もりが消えた。
彼は早足で入口へ向かい、その表情には緊張と期待が入り混じっていた。
――真理?
この世に何人の真理がいるというのか?
ましてや、この場に現れるのは、ほかに誰がいるというのか?
入口では、警備員が一人の女の腕をつかんでいた。「どなたです?招待状は?」
「放せ!」その低く鋭い声は、蒼司の口から発せられた。
人々も慌ててその後を追った。
藤沢真理(ふじさわ まり)という名を知らない者はいなかった。
それは蒼司の幼なじみで、かつて婚約までしていた女性。そして彩乃が育ててきた、二人の子どもの実母でもあった。
「真理……本当に君なのか?」蒼司はその腕をつかみ、信じられない様子で見つめた。
その切迫した様子は、彩乃の胸にも鋭く響いた。
「蒼司……子どもたちがあまりにも恋しくて……どうしても会いたくて来ただけなの。邪魔するつもりはなかった……ごめん……」
質素な服をまとい、赤く潤んだ瞳の真理は、彩乃のそばにいる二人の子どもを名残惜しそうに見つめた。
蒼司の胸に痛みが走った。
昔の真理は明るく笑い、堂々としていた。今のように怯え、落ちぶれた姿ではなかった。
蒼司は彼女をじっと見つめ、まるでまた突然姿を消すのを、恐れているかのように問いかけた。「……この数年間、どこにいたんだ?」
会場の空気が一気に冷え込む。
「蒼司さんがつかんでいるあの人は誰?愛人か?」
「真理だよ。あの藤沢家のお嬢さん。昔、蒼司さんと婚約してたけど、金融危機で両家とも傾いたんだ。確か双子を産んだあと、行方をくらませて、結婚も果たせなかったはず」
「彼女があの双子の実の母親なのか?じゃあ……奥さまは?」
視線が一斉に彩乃へ注がれた。
彩乃は二人の子どもを連れ、夫が自分の目の前で他の女を気遣う様子を見ていた。
真理の目には深い悲しみ、そして懇願の色があふれていた。「産後すぐ病気になって……あの頃はお互いに苦しかったわ。これ以上、あなたの足を引っ張りたくなかったの。勝手にいなくなったのは私が悪かった。でも子どもたちは何も悪くない。あなたはもう出世したのね……でもどうか、子どもたちを大事にして……」
その言葉は他人にはまるで、彩乃が継母として子を粗末にしているかのように、聞こえてしまった。
蒼司は眉をひそめた。――産後に病を?
だから自分から去ったのか?病気で迷惑をかけたくない一心で。
真理はもがきながら言った。「もう行くわ、蒼司。手を離して……」
それに対し蒼司は静かに「まだ行くな」と返した。
その言葉を聞いて、周囲の人々はそれぞれ思惑をめぐらせたが、ひときわ多くの視線が彩乃に向けられた。
しかし、彩乃にこの場の雰囲気を止めることなどできるはずもなかった。
真理が子どもたちの実母である事実は、誰にも覆せないのだから。
そのとき、双子の姉の水野若葉(みずの わかば)が顔を上げて彩乃に尋ねた。「ママ、パパが抱いてるあの人、誰?」
弟の水野陽翔(みずの はると)も無邪気に言った。「パパ、なんで他の人を抱っこしてるの?」
場はさらに静まり、幼い声がはっきりと響いた。
蒼司は一瞬はっとしたように周囲を見渡し、口を開いた。「皆さん、もう遅いですし、また改めてお招きします」
「では、蒼司さん、お先に失礼します」
人々が去り、静けさが戻った。
蒼司は真理の涙をそっとぬぐった。「泣くな。子どもに会いたいなら、今夜は泊まっていけ。好きなだけ一緒に過ごせ」
「……本当に?」怯えたような笑みを浮かべ、真理は彩乃に向き直った。
「彩乃さん、ごめんなさい。ただ子どもたちに会いたいだけなんです。気を悪くなさらないで」
ここまで言われて、「嫌です」とは言えなかった。
実母が子に会うのは、当然のことだった。
彩乃は目を伏せ、答えた。「もちろん、構いません」
彼女の了承を聞いた蒼司は、ほっとしたように執事へ指示を飛ばした。「ゲストルームを用意してくれ。埃ひとつないように。真理は潔癖だから」
潔癖症があるまで覚えていたことに、真理は感謝と喜びをにじませた。
彩乃は黙って視線を落とした。
真理は部屋に入ると、子どもたちの前に膝をつき、そっと頬に触れようとする。
だが、若葉も陽翔も本能的に数歩後ずさる。
真理の顔に絶望の色が浮かんだ。「……蒼司、あの子たち、私を嫌ってるの?」
蒼司はすぐに子どもたちに向かって言った。「若葉、陽翔。この人こそ、お前たちのたった一人の母親だ。ほら、『ママ』と呼びなさい」
――たった一人の母親?
彩乃の胸が締めつけられた。
それじゃ、自分は何なんだろう?
家の家政婦たちも眉をひそめた。
彩乃は実母ではなかったが、生まれて間もないころから、双子を育ててきた存在だった。
その言葉はあまりにも酷かった。
「やだ!」陽翔が怒って声を上げた。「この人、ママじゃない!ママはこっち!」
そう言って彩乃の腕にしがみつき、その背中に隠れた。
――ママが本当のママじゃないなんて嘘だ。
パパが嘘をついてるんだ!
蒼司は子どもたちに優しく説明した。「彩乃はお前たちの実の母じゃない。真理こそが……この世で一番、お前たちを愛している人だ。親に勝る存在なんていない。そんな態度をするな、礼儀がなってないぞ」
彩乃は顔を上げ、蒼司をまっすぐ見据えた。
母が子を愛することを否定はしない。だが、その言葉は自分の存在を完全に否定していた。
この数年間、二人をわが子のように育て、自分の子さえ持たなかったというのに。
若葉は鼻を鳴らし、きっぱりと言った。「そんなの知らない!一番優しい人はママよ!私たちを育ててくれたのもママ!彩乃だよ!他の女なんかじゃない!」
第 2 話
蒼司は子どもたちがここまで真理を拒むとは思ってもみなかった。
真理は泣きじゃくり、今にも倒れそうなほどに肩を震わせる。
「全部、私が悪いの……私のせいなの……小さい頃から、あの子たちは私を知らないんだから……」
蒼司は彩乃がその場にいるのも構わず、真理の肩を抱き寄せて慰めた。
「君のせいじゃない。事情があっただけだ。もう泣くな、まずは上に行って顔を洗いに行こう」
その姿はどこからどう見ても、落ちぶれて可哀想な女性だった。
弱り切った真理の様子に、蒼司はゲストルームまで付き添う。
二人は彩乃のそばを、まるで彼女の存在などなかったかのように通り過ぎ、彩乃を気にする様子はまったくなかった。
それでも彩乃は胸の奥のざらつく感情を押し殺し、自分に言い聞かせる。
真理はただ子どもたちに会いたいだけ。
蒼司は父親として場を収めようとしているだけ。
彩乃は努めて笑顔を作り、声をかけた。
「さあ、寝る準備しましょう」
「はーい、ママ!」
二人の子どもは嬉しそうに彩乃の後についていった。
ゲストルームでは、真理が軽く顔を洗い、着替えを終えた。
不安げな眼差しで尋ねた。
「蒼司、子どもたち……もう寝る時間よね?」
「そうだな。もう遅い」
今日が祝賀会でなければ、とっくに休んでいる時間だった。
湯のみを置いた真理は赤く縁取られた目でためらいがちに言った。
「私、あの子たちをお風呂に入れてもいい?少しでも距離を縮めたいの。あまりにも会えなかった時間が長すぎて……心が苦しいの」
その瞳には、我が子を求める切実な思いがあふれていた。
蒼司は母親としての愛情を抑えられるはずもない。
まして彼らの別離は互いの感情が壊れたせいではなく、運命のせいだった。
二人の子は真理が苦労して産んだ子なのだ。
蒼司は静かに頷いた。
「……いいだろう」
子ども部屋の前ー
「若葉、陽翔?」蒼司がノックする。
ドアを開けたのは手を濡らした彩乃だった。
並んで立つ蒼司と真理を見て、彩乃は唇をわずかに噛み締める。
「……何かご用?」
「真理が子どもたちと一緒にお風呂に入りたいそうだ。仲を深めたいと」
その程度の願いなら、拒む理由はない。
彩乃は黙って道を開けた。
「若葉は右の浴室にいるわ」
双子といえどもう六歳、当然別々に入る。
真理は慌てて右の浴室へ向かい、そっと声をかける。
「若葉?ママよ」
突然現れた、しかも母親の座を奪おうとする女性に、若葉はタオルで身体を覆い、冷たく言い放った。
「手伝ってもらわなくていいです」
娘の拒絶と刺すような言葉に、真理の目は再び赤く染まる。
浴室の外で背を向けていた蒼司が言った。
「若葉、母親にもう少し優しくしなさい」
真理はすぐに割って言った。
「いいの、蒼司。私を知らないんだもの、警戒して当然よ」
彼女の声には身を引き、耐え忍ぶ思いが滲んでいて、蒼司はますます胸を痛めた。
実の母親が実の子どもに近づけない。これが公平と言えるのか。
蒼司の視線は陽翔に渡すおもちゃのアヒルを手にした彩乃へと向く。
「君は普段、こんなふうに子どもを育てているのか?」
突然の言葉に彩乃は瞬きをした。
「……どういう意味?」
「真理は実の母親だ。たとえ知らない人でも、礼儀くらい教えるべきだ」
子どもが真理を拒むのは、彩乃の育て方に原因がある。そう蒼司は決めつけた。
「……子どもたちは彼女に慣れてないのよ。私にどうしろっていうの」
「もういい。真理と一緒に若葉を風呂に入れてやれ」
そう言い捨てて、蒼司は陽翔の浴室へ向かった。
彩乃は一度だけ彼の背を見つめ、静かに浴室に入った。
真理は勝手にボディーソープを手に取り、声をかける。
「若葉、ママが泡立ててあげる」
若葉は押しのけたい気持ちをこらえる。
先ほど父親に責められた彩乃を思い、唇を噛んで耐えた。
浴室の片隅でその姿を見守る彩乃の胸が痛む。
母娘の時間を私が邪魔できるはずがない。
幸いにもすぐに洗い終わり、真理は必死にご機嫌を取ろうと、小さなガラス瓶を手に取った。
「若葉、これイチゴの香りがするボディクリームなの、塗ってみる?」
「……大丈夫です。ママに塗ってほしいの」
「私がやるわ」彩乃が歩み寄る。
真理は娘にここまで拒まれて、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「そう……わかったわ」
しかし、彩乃が瓶に手を伸ばす前、真理の手がふと震えた。
ガラス瓶は床に落ち、ぱっくりと割れた。
その音に若葉は驚き、足元が乱れ、割れた破片の端を踏みつけた。
小さな足から鮮血がにじむ。
「ママ!血が出てる!」
彩乃は一瞬だけ息を呑み、すぐに若葉を抱き上げて浴室を出た。
真理が慌ててついてくる。
「どうしたの?何があったの?」
物音に気づいた蒼司が駆け寄ると、娘の足は真っ赤に染まっていた。
彩乃は迷わず救急箱を手に取り、手際よく手当を始める。
「どういうことだ?」
真理は泣きそうな顔で言った。
「彩乃さん……私の存在が嫌だからって、子どもを危険にさらすなんて……瓶が割れたら危ないでしょう?もしあなたが無理に取ろうとしなければ……」
彩乃の手が一瞬止まり、綿棒が危うく傷口に触れそうになる。
今は言い返す暇などない。処置が先だ。
幸い、破片は刺さっておらず、皮膚の裂傷だけだった。
蒼司は眉をひそめた。
「不満があるなら俺に言え。子どもに八つ当たりするな」
「私は……瓶を取ろうとしただけよ。怒ってなんかいない」
真理は泣きながら言った。
「蒼司、悪いのは私よ……あの子たちと距離を縮めようなんて思わなければ、こんなことには……全部私のせい」
だが蒼司は首を振る。
「君のせいじゃない。実の母親がこの子を傷つけるわけがない」
彩乃の手の中で、綿棒がぽきりと折れた。
つまり、彼は私がわざとやったと思っているの?
胸の奥に込み上げる悔しさを押し殺す間もなく、若葉が彩乃に抱きついた。
「ママ、泣かないで。ちっとも痛くないから」
彩乃は胸の奥がじんわりと温かくなり、込み上げる涙を必死にこらえた。
「……ママは大丈夫」
蒼司は若葉に視線を向けた。
「実の母親が泣いてるんだ。慰めてやらないのか?」
真理はそっと蒼司の袖を引く。
「いいの……子どもだもの、まだわからないわ」
結局、すべては彩乃の教育が悪いという結論になった。
蒼司の声は冷たかった。
「明日から、子どもたちのことは真理に任せる。君は関わらなくていい」
「……何ですって?」
彩乃が立ち上がるより早く、若葉が口を開いた。
「パパ、ママは瓶なんか奪ってない!ママが取る前に、あの人がわざと手を離したのよ!」
第 3 話
真理はまるで雷に打たれたかのように、信じられないという顔をした。
「若葉……どうしてそんなふうにママを陥れるの?」
その傷ついた瞳を見て、蒼司は娘が嘘をついていると思った。
彩乃をかばうために、わざと真理を悪者にしているのだと。
母親が自分の子を傷つけるはずがない。
蒼司は諭すように言った。
「若葉、子どもが嘘をつくもんじゃない。それに、彼女は他人じゃない。君と陽翔の実の母親だ。彼女がいなければ、君たちはこの世にいなかったんだ」
「嘘なんかついてない!」
真理は涙をにじませながらも微笑み、蒼司をなだめる。
「いいのよ、子どもは嘘なんてつけないわ。ただ一番近しい人を守ろうとするだけ。彩乃さんを好きでいてくれるのは、彼女が優しくしてくれた証拠。それで十分よ」
子どもは嘘をつかない。
そうなると、彩乃が子どもにそう言わせたのだろうか。
真理の瞳に浮かぶ切なさと耐えるような表情に、蒼司の苛立ちは一層増した。
「家政婦は?」
呼ばれた家政婦が慌てて入ってくる。
蒼司は彩乃を見据えた。
「子どもたちを連れて行け」
彩乃から子どもたちを引き離す、ということだ。
家政婦が二人の子どもを連れて出て行くと、蒼司は怒りを残したまま真理と共に部屋を後にした。
彩乃はひとりその場に立ち尽くした。
相手は実の父親と実の母親。
自分に何を言う権利があるというのだろう。
床に転がる血のついた綿棒が目に入り、胸が締め付けられる。
けれど、それ以上に心に刺さったのは、失望だった。
結婚して六年、家庭と子どもを守り、蒼司が仕事に専念できるよう全力を尽くしてきた。
彼は浮ついた噂もなく、夫としての責任を果たしてくれていると、彩乃はどこか信じていた。
だが、それは真理が現れる前のこと。
たった一晩で、真理をかばう蒼司の姿は、この六年間で彩乃をかばってきた時よりも多かった。
そう考えると、これまでの「優しさ」など、滑稽に思えてしまう。
夜ー
彩乃が入浴を済ませてベッドに入ると、ほどなく蒼司もシャワーを終えてやってきた。
二人は背を向け合い、沈黙が落ちる。
やがて蒼司が口を開いた。
「真理はただ子どもに会いたかっただけだ。なのに君はあんなに拒絶して、挙げ句に子どもに嘘をつかせた。今日みたいなことは、もう二度とするな」
二度とするな?
彩乃は歯を食いしばる。
「私は六年間、あの子たちを育ててきたのよ。生まれた時から、誰よりも安全で幸せに過ごせるように願ってきた。それなのに、私がそそのかしたって言うの?」
「じゃあ真理が嘘をついたっていうのか?」蒼司の声は冷たい。
「わかっているよな、真理はあの子たちの実の母親だ」
その言葉は矢のように彩乃の胸を貫いた。
六年の全てが真理の涙ひとつに負けるというのか。
では、この年月はいったい何だったのか。
翌朝。
目を覚ますと、蒼司の姿はすでになかった。
休日の今日は「家族の日」で、彼は仕事を休んで子どもと過ごすはずだ。
階下に降りると、執事である木村が気まずそうに声をかけた。
「奥さん……朝食の用意ができております」
ダイニングに入った彩乃は、その理由を知った。
朝食を作ったのは真理だった。
「彩乃さん、おはようございます。どうぞ召し上がって」
その笑顔は柔らかく、蒼司の目には彩乃に歩み寄る善意として映ったらしい。
「そんなに気を遣う必要はない。ここは君の子どもの家なんだ。遠慮せずにいていい」
彩乃の足が一瞬止まり、頬が熱くなる。まるで平手で打たれたようだった。
真理は笑って、「ええ」とだけ答える。
彩乃が席に着くと、真理が勧めた。
「これ、ぜひ食べてみて。味噌汁は昔から得意で、蒼司も大好きなの。今日はあなたと子どもたちにも食べてもらいたくて」
蒼司は確かに味噌汁が大好きだった。
「腕が上がったな。お疲れさま!でも無理して作らなくてもいい。彩乃も作れるから」
蒼司は惜しみなく褒め言葉を口にした。
お疲れさま……
彩乃も作れるから……
だから真理はやらなくていい、自分にやらせばいいってこと?
彩乃は黙って味噌汁の入った椀を見つめた。かつて陽翔が病に倒れたとき、二晩も付きっきりで看病し、目が真っ赤になるほど眠らずに過ごした。それなのに、あのときの蒼司は一言も「お疲れさま」と一言すら言わなかった。
反論したい気持ちを必死に抑え込み、ただ蒼司が真理を客として礼儀正しく扱っているのだと、自分に言い聞かせた。
「ええ、私も作れます。でも、若葉は味噌汁が嫌いだから食べられません」
「嫌い?」真理は驚いた顔をして蒼司に向き直る。
「それは小さい頃の体質管理が足りなかったのね。子どもの過保護はダメよ。いろんな菌に触れて免疫をつけるべきなの」
蒼司は彩乃を見たが、それ以上は口を挟まなかった。
彩乃はこの数年間、子どもたちに対しては本当に非の打ち所がなかった。
だから今回は蒼司も真理の言葉にあえて乗ることはしなかった。
真理も蒼司の沈黙に気づき、話題を変えた。
「今日は子どもたちを連れて出かけたいの。蒼司、付き合ってくれる?」
そして彩乃に向き直る。
「彩乃さんも一緒にどう?」
「彼女のことは彩乃と呼べばいい」蒼司が横から口を挟む。
「……わかったわ、彩乃」
二人のやり取りは、彩乃の返事を求めることもなく進んでいく。
「私はいいわ。友達と会う約束があるから」
「君に友達なんていたか?」
「以前の友達よ。桜峰市に引っ越したから、会いに行くの」
彼女には友達が多かったが、蒼司と結婚して桜峰市に引っ越してからは、首都・朝霧市にいる友達とはほとんど交流がなくなっていた。
蒼司はそれ以上何も言わず、「気をつけて帰ってこい」とだけ告げた。
彩乃が部屋を離れると、蒼司は真理に料理を取り分けた。
「もう体は大丈夫か?」
「ええ、心配しないで」
「……今まで大変だったろう」
「そうね。でも、もう苦労も報われたわ」
実際のところ、彼女は苦労などしておらず、むしろそこそこ満ち足りた暮らしを送っていた。
ただ、過去の出来事だけは決して口に出せないだけだった。
子どもたちが起きると、彩乃は出かける準備を手伝った。
水筒、ウェットティッシュ、子ども用カメラ、着替え。
「今日はママは行けないけど、パパの言うことを聞いて、走り回っちゃだめよ」
「じゃあ、誰が一緒にいてくれるの?」陽翔が唇を尖らせる。
「パパと……あなたたちの実の母親よ」
「やだ!ママが実の母親じゃないなんてありえない!あの人が嘘ついてるんだ!」
「若葉、彼女は本当にあなたたちの母親よ。拒めばパパが悲しむわ」
渋々うなずいた二人だったが、心の中の拒絶は強まるばかりだった。
階下に降りると、彩乃はテーブルに一枚の紙を置いた。
「食事の好みとアレルギー食品はここに全部書いてあるわ」
そう言い残し、彩乃は外出した。
夕方まで、彩乃は友人の経営するバーで過ごしていた。
「家族の日なのに、珍しいわね、こんなに長くいられるなんて」石田美玲(いしだ みれい)が果物を運んでくる。
「一家四人でお出かけよ。私はやることないもの」彩乃は自嘲気味に笑った。
美玲はため息をつく。
「あなたはもっと自分の仕事をすべきよ」
「桜峰市には、私の仕事はないの」
彼女は金融投資の専攻だが、ここには彼女の能力を活かせる大型プロジェクトはない。
最も見込みがあるのは水野グループだが、彩乃は蒼司の仕事に口を出したことはない。
美玲は惜しそうに首を振った。
「もったいないわ。十七歳で投資の現場に立って、あれだけの利益を家にもたらしたのに」
だからこそ、彩乃が未婚で二人の子を抱える蒼司と結婚すると決めた時、実家は猛反対し、勘当までしたのだ。
学生時代からずっと憧れていた男が、今は夫になったのだから、全身全霊で尽くすのは当然のこと。
そのことに関しては、美玲も特に非難する理由はなかった。
しかし、こうしたことを蒼司は何ひとつ知らなかった。
彼は、彩乃がただの普通の家庭の出身で、実家が辺鄙で遠く離れているため、この何年も両親が一度も姿を見せなかったのだとばかり思っていた。
「……少し酔ったみたい。もう帰るわ」
その時、スマホが震えた。
蒼司からの電話。
彼が電話してくるのは珍しい。いつもはメッセージで済ませるのに。
「もしもし?」
低く冷えた声が返ってくる。
「すぐ、児童病院に来い」
彩乃は美玲に別れも告げず、外へ飛び出した。
第 4 話
児童病院・救急外来。
「どうしたの?」彩乃は息を切らしながら駆け込んだ。
「陽翔が誤ってマンゴーを口にして、アレルギー反応を起こしたんだ」蒼司の声には焦りが滲んでいた。
彩乃は胸が締めつけられる。
「アレルギー?私、ちゃんと食べられない物は全部書いて渡したでしょう?注意しなかったの?」
真理が慌てて頭を下げる。
「私のせいよ。陽翔が少しマンゴーを食べたくらいでこんなことになるなんて思わなかった。本当にごめんなさい……」
「真理も悪気があったわけじゃない」蒼司はかばうように言った。「それに、君が書いた紙はなくなってしまったし、そもそも書き漏れがあったんじゃないか?」
「書き漏れ?」彩乃の怒りが一気に込み上げる。
子どもが口にできないものは彼女が一番よく分かっている。渡す前にも何度も確認したのだ。どうして書き漏れるはずがある?
しかも、それをなくしたのはそっちだ。
その時、蒼司がふと鼻をひくつかせた。
「……酒の匂いがするな。子どもがこんな状態なのに、酒を飲んでたのか?」
彩乃は怒りに震える。「子どもを連れ出したのはそっちでしょう。なのに私を」
「彩乃!」
蒼司の目は鋭く、冷たく光った。
「今君がやるべきなのは子どもの様子を見に行くことで、責任を押しつけ合うことじゃない。継母は所詮継母だな!」
胸の奥で何かがはっきりと裂けた音がした。
この言葉が蒼司の口から出るなんて。
彩乃は自分が二人の子を完璧に育ててきたと言うつもりはない。
けれど、心血を注ぎ、何よりも子どもたちの幸せを願ってきたのだ。
それを、真理をかばうためにこうして突き放すなんて。
自分のことは、ただの出来の悪い継母だと思っているの?
やり場のない悔しさと息苦しさが胸にたまる。
「陽翔君の保護者の方、こちらへ」病院スタッフの呼びかけに、三人は同時に診察室へ入った。
主治医は五十代ほどの女性医師だった。
「どなたが保護者ですか?」
「私たちです!」真理はすかさず蒼司の腕を引き、前に出る。その表情は愛情深い母親そのもの。
彩乃は二人の後ろに立ち、ただ子どもの様子を聞くことだけを願っていた。
医師は険しい表情で言った。
「もう六歳ですよ?何が食べられて何が食べられないのか、分かっていないんですか? アレルギーを軽く見てはいけません。命に関わることもあるんです。今日はまだ食べた量が少なかったからよかったものの、もっと多ければ間に合わなかったかもしれません」
真理は再び謝る。「私の不注意です……」
「あなたもですよ、お母さん」医師は容赦なく言った。
真理は困ったように視線を揺らし、「……私は小さい頃から一緒にいなかったので、アレルギーのことは知らなかったんです。それに、この子たちってよくアレルギーを起こすんです。育った環境のせいじゃないですか?」
それはまるで、彩乃の育て方に責任があると言っているようだった。
医師は淡々と答える。
「アレルゲンが多いのは、環境や遺伝など色々な要因があります。ただ、一番影響するのは母親の妊娠中の食生活です」
真理はわずかに顔を下に向ける。
妊娠中、家の状況が激変しでメンタルも不安定になり、食事にも気を遣わず、酒まで口にしていたあの頃を思い出したのだろう。
医師は察し、さらに尋ねた。
「離婚されているんですか?じゃあ、誰が育てているんです?」
蒼司の視線が彩乃に向けられる。
彩乃は一歩前に出て、「……私が子どもたちの継母です」
「アレルギーのことは存じてましたか?」医師が問う。
「知っていました。実母が連れて出かけるので、注意事項を書いて渡しました。でも、その紙は失くされたんです」
蒼司の眉がわずかに寄る。
彩乃に真理を責めさせたくないのだろう。
だが、彩乃は構わず医師に尋ねた。
「子どもは大丈夫ですか? 吐いたり、熱は出ていませんか?」
その真剣な様子に、医師はすぐ分かった。
この継母は本気で子どもを大切にしている。
一方で、実母はここまで一言も症状を聞こうとしない。
医師は彩乃を手招きし、点滴や入院の必要性を説明した後、「数日観察して問題なければ退院できます」と伝えた。
「ありがとうございます」彩乃は深く息をつく。
そして医師は二人を睨むように言い放った。
「子どもをきちんと見られないなら、無理に連れ出さないように。育児は決して簡単なことではありません」
真理は顔を赤らめ、泣きそうになりながら病室を出ていった。
病室へ向かう途中、真理は自嘲気味に言った。
「私、母親失格だね。私の不注意で……」
蒼司はすぐ否定した。「君のせいじゃない。何にアレルギーがあるか、知らなかっただけだろう。大事にはならなかったし」
病室に入ると、彩乃が陽翔を見ようとしたが、真理が先にベッドへ近寄った。
二人は両側に立ち、陽翔を見守る。あの光景は本当に和やかで温かかった。
蒼司は小さな手を握り、「陽翔、パパが悪かった。これからはもっと気をつける。ごめんな」
陽翔は唇を尖らせ、真理の存在に不満げで、何も答えない。本当は彩乃にそばにいてほしいのだ。
その様子を見た彩乃は若葉を連れて病室を出た。
廊下の椅子に座ると、若葉が首に腕を回し、「ママ、悲しまないで。パパがいなくても、私がいるから」
彩乃は胸の奥がさらに痛んだ。
「……ママは大丈夫よ」
病室では、真理が穏やかに微笑んでいた。
「よく息子は母親に似るって言うけど、陽翔の目、私そっくりでしょ。若葉の性格も……まるで私みたい」
蒼司は若い頃の真理を思い出す。
恐れ知らずで、真っ直ぐだったあの頃。
「確かに似てる」
真理は少し目を伏せた。
「でも、昔のアルバムは全部なくなっちゃった」
破産し、家も手放し、慌ただしく逃げるように去った日々。何も残せなかった。
「また撮ればいいさ」
真理は涙を浮かべ、「妊娠したばかりの頃、あなたが作ってくれた天ぷら、美味しかったな……」
「……まだ食べたい?」
「もういいわ。昔のことだから」真理は鼻をすすり、立ち上がったが、すぐにベッドの足元にぶつかった。
「真理!」蒼司は慌てて支える。
「平気よ……ただ、体力がなくて。栄養不足が長引いたせいかも」
「無理するな。送っていく」
「いいの。今日は慎太郎たちと食事の約束があるでしょう?私のせいで行けなくなるなんて嫌よ。顔だけ出して、帰りに洗面道具を取ってきてくれる?」
昔の真理は明るく笑顔を絶やさず、彼の友達たちとも打ち解けていたものだが、今では……
蒼司は「じゃあ、ちょっと行ってくる」と応じた。
「ええ」
廊下に出ると、蒼司は若葉を抱く彩乃に言う。
「昼間、慎太郎たちと食事の約束をしていて、人も多いし欠席するのも気が引ける。すぐ戻るから」
彩乃は、それがただの伝達だと分かっているので、軽くうなずくだけだった。
蒼司が去ると、彩乃は若葉を連れて病室へ戻る。
父親がいなくなった途端、陽翔は真理を睨み、「ママがいるから、あなたは出てって」
真理は唇を震わせながらも、「陽翔、ママは心配なのよ」と声をかける。
陽翔が何か言い返そうとした瞬間、彩乃がそっと遮った。
「……陽翔、休みなさい」
やがて病室は静まり返り、若葉は彩乃の腕に身を預けた。
真理はスマホを握り、何度も振動を確認している。
「用事があるならやってきていいよ。弟のそばにいなくても大丈夫です」若葉が言った。
6歳の子どもたちは、まだ「実の親かどうか」という意識からくる関係を理解していない。
ただ、自分たちを育ててくれたのが「母親」だという事実だけを知っている。
だからこそ、今の幸せな生活と大好きな母親が脅かされていると感じれば、突如現れた真理に強く拒否反応を示すのだ。
真理は優しい笑みを作る。
「違うの、パパからのメッセージよ。洗面道具をお願いしたの」
そう言って、わざわざ画面を若葉に見せた。
その瞬間、彩乃の心は冷たく揺れた。
目に映ったのは、蒼司の細やかな気遣い。けれど、それは自分に向けられたものではない。
ほどなく真理が頬を少し赤らめて言った。
「ごめんなさい彩乃、蒼司には分からない私物もあるから、自分で取りに行くわ。すぐ戻るから、それまでお願いね」
第 5 話
彩乃は唇を閉じ、歯を噛みしめて言った。
「行ってきて」
その日は一晩中、彩乃は病院で若葉に寄り添い、陽翔の看病をし、片時も離れなかった。
一方、「すぐ戻る」と言っていた蒼司と真理は、最後まで姿を見せない。
彩乃の胸には、どうしようもない苦さが広がっていく。
その間に蒼司と真理がやり取りしていたLINEの写真には、蒼司が家にいて、あれこれ一つひとつを「これで合ってる?」と真理に確認している様子が映っていた。
それはもはや「客人への礼儀」でも、「子どもたちの母親への配慮」だけでもない。
まさか、彼はい今でも真理を愛しているの?
最初は、蒼司が真理に償おうとしているだけだと思っていた。子どもたちを産んだ相手だから、と蒼司自身もそう言っていた。
けれど、今日の彼の態度、そして「継母は所詮継母だ」というあの一言が、過ぎた六年を雇用関係のように思わせる。
まるで、彼女の価値は子ども次第。彩乃の責務はただ子どもを世話すること。
子どもが無事なら「賢い妻」。少しでも行き違いが起きれば「責任逃れの継母」。
どれほど完璧に尽くしても、真理という「実母」の肩書には敵わない。
たとえ、真理が何もしていなくても。
夜九時半。
「ママ、もう大丈夫だよ。お家に帰ろう?」点滴を終えた陽翔はこれ以上病院にいたがらない。
彩乃は少し考え、「わかった。じゃあママが退院手続きしてくる。あなたとお姉ちゃんは、病室から出ちゃダメよ。いい?」
「うん、うん!」
彩乃は何度も振り返りながら急ぐ。
手伝いは誰もいない。蒼司が家政婦を寄越すこともなかった。
二人を病院で見失うのが怖くて、廊下では看護師に少しだけ見ていてもらうよう頼み、手続きを済ませると、三人でタクシーに乗って帰路についた。
水野家。
家の明かりは眩しいほど灯り、玄関先には何台もの高級車。
彩乃はふと、昼に蒼司が「友だちと会う」と言っていたのを思い出す。ここで集まっているのだろうか。
「ママ、この車、高そう?」陽翔が一台を指さす。
「そうね、まあまあ」
彩乃の感覚では「まあまあ」。彼女にとっては、昔の自分が所持した車の中から一台適当に選んでも、ここに並ぶ何台分にもなる。そんな世界だった。
家に入った瞬間、彩乃は凍りついた。胸の奥から頭の中まで、ドン、と轟音が走る。
家の中は大勢が集まり、どんちゃん騒ぎの最中。
玄関は遮音が効いていて、扉を開けて初めて歓声が耳に飛び込んでくる。
「キース! キース!」
「蒼司さん、照れてる場合じゃないって!」
「真理さん、もうお子さんも大きいんだし、いいでしょ?」
誰も入口に気づかない。
ただ、家政婦たちは気づいていた。止めに入りたいが、今の彩乃の顔色が怖くて声が出せない。
人垣の向こう、蒼司と真理が向かい合って立っていた。
真理は笑って友人たちをたしなめる。
「からかわないで。昔、蒼司と私は婚約者だったけど、今は違うの」
「でもさ、あの騒動がなかったら今ごろ幸せの絶頂でしょ。蒼司さんの上場と、幼なじみの再会を兼ねて、ほら、もう一回お祝い! キ〜ス!」と慎太郎。
昔話が出ると、蒼司はみんなの矛先からさりげなくかばってくれる真理を見て、胸が痛む。
彼は彼女に何も与えられなかった。
真理は微笑む。「もう昔のことは言わないで。今の蒼司は本当に素敵だもの。私にはそれだけで十分」
その言葉で、蒼司の罪悪感は一気にせり上がり、衝動のように真理の頬へと顔を寄せる。
「キス! キス!」
囃し立てる慎太郎。
だが、もう一人の幼なじみは眉をひそめ、沈黙したまま。
全員がその瞬間を待ち、急に静まり返る。
静けさのおかげで、彩乃の声がやけに鮮明に響いた。
「……楽しい?」
平らかで静かな、たった四文字。なのに、その場の心臓が一斉に震える。
蒼司は我に返り、二歩さがって距離を取る。真理の頬にも、気まずさが差す。
誰も、彩乃が突然戻るとは思っていなかった。
彩乃の心は、じわじわと揺れる。
もし彼女が来なければ、二人は、もうキスしていた。
蒼司は、強制など利かない男だ。さっき真理に近づいたのは、自分の意思。
やっぱり、彼の心には真理がいる。
一人で子どもを看ていた間に、「すぐ戻る」は真っ赤なウソ。
二人はここで、いちゃつきながら宴を続けていた。
蒼司の友人たちは彩乃を数度見たことがある。でも多くはない。
彼らの多くはこう思っている。
「彩乃は棚からぼた餅で双子を手に入れ、肩書もない、たぶん普通の家の出で、仕事もせず、ただ美貌だけが取り柄。だから、かつて桜峰市の金持ちだった蒼司に拾ってもらえたのだ」と。
だが、今この瞬間、彼らもさすがに後ろめたい。なにしろ彼女は現役の「奥さん」なのだから。
慎太郎がおどける。
「奥さん、帰ってたんすか。病院じゃなかった?」
彩乃は薄く笑い、視線を蒼司と真理の方へ滑らせる。
「ええ、病院にいたわ。あなたたちは、何をしていたの?」
その一言で、さらに気まずい空気が広がる。
若葉がぷんと頬をふくらませる。
「パパ、さっき『友だちとちょっと挨拶したらすぐ病院に戻って来る』って言ったよね?」
陽翔もむっとする。
「パパはもう、ぼくのことどうでもいいんだ。ぼく、マンゴーで死にかけたのに、ぼくを病院に運んだ人と一緒にここで遊んでたんだろ。パパ、きらい!」
友人たちは顔を見合わせる。そんな事情、誰も知らなかった。
子どもたちの言葉は、顔を強くひっぱたかれたかのように蒼司の頬に響く。
彼は本当は病院に戻るつもりだった。だからパーティーを早めに切り上げ、着替えやらを持って向かう段取りにしていたのに、場が白熱し、慎太郎が真理まで呼び戻し、ズルズルと。
彩乃は客間を見渡し、きっぱりと言う。
「皆さんは蒼司の大切なお友達です。お越しいただくのは歓迎します。でも、どうか節度はお忘れなく。真理さんは私たち夫婦の客です。礼をもって接していただけると助かります」
遠回しに、いや、真正面から「礼義も分からないの?」と言い放った。
誰の耳にも、そう聞こえた。反論したい者もいる。けれど、ぐっと飲み込む。
彩乃は真理を見た。
「真理さん、あなた、蒼司が既婚者だって事実を、忘れてない?」
いつもなら温厚で、何を言われても笑って済ませる彩乃が、この場で堂々と切り込む。誰も予想しなかった。
慎太郎の目には、真理は守られるべき「弱者」、彩乃こそ「強圧的な女」。
「拾ってもらったくせに、偉そうに」とでも思っている。
真理はおろおろして、「ごめんなさい、私、そんなつもりじゃ……」
蒼司が口を挟む。「彩乃、言い過ぎだ」
「私が?」
彩乃の目が潤む。
「病院で子ども二人を見てる間に、あなたたちは人目もはばからずキス寸前?道義も礼節も、どこへ置いてきたの?」
「いい加減にしろ!」蒼司が怒鳴った。
場が凍った。
彩乃はその一喝に一瞬固まった。
目の前には険しい蒼司。周りには野次馬の目。背後では子どもたちが「ママ」と呼ぶ声。
脳裏をよぎったのは、結婚の日——手を握って「誓います」と言った蒼司の顔。
六年の苦労。見返りは何?
何かが、胸の底で静かに砕ける。
六年……
彼女は、「継母」でも「奥さん」でもなく、「彩乃」に戻るべきなのだ。
彼女の涙はあまりに鮮烈だ。彩乃は笑いながら頷いた。
「いいわ。続けて」
蒼司の心臓が鷲づかみにされる。思わず手を伸ばすが、彩乃は身をかわし、その手は宙で止まった。
若葉が慌てて立ちはだかる。
「ママ、どこ行くの? わたしと弟も連れてって!」
我に返った蒼司も動き、陽翔を抱え、若葉の手を取る。
「パパが一緒にいる」
真理が寄ってきて、優しくささやいた。「ママもここにいるからね。」
二人の合わせ技で、彩乃ははっきり悟った。
この家は、私がいなくても崩れない。
家族四人は、あの三人と真理。
余計なのは、彩乃だけ。
そのとき、唯一はしゃがなかった井上直樹(いのうえ なおき)が立ち上がる。
「さっきは失礼しました、彩乃さん。慎太郎は飲み過ぎて、口が過ぎました。どうか許してやってください」
慎太郎が何か言い返そうとして、直樹に睨まれ、口を閉じる。
「今日は引き上げます」直樹は慎太郎を連れ出し、他の面々も続く。
車内で慎太郎が噛みつく。
「何なんだよ、さっきのは。真理の悪口まで言って、あの女に頭下げるって? ただの棚ぼた女だろ?」
直樹は運転手に合図してから静かに言う。「次、同じことしたら、もう友達やめるよ」
「は?」
「彼女がどうだろうと、気に入らなくても、今の妻は彩乃だ。法律上の妻だ。真理が堂々と家に住む筋合いがあるか?それを焚き付けて『キスしろ』? 正気か?」
慎太郎は食ってかかる。
「普通の女が蒼司に嫁げるなんて、幸運以外の何物でもねーだろ。双子までタダで手に入れて、世話くらい当然だろ。何で怒る?」
「実子のように育て上げたからだ。お前、自分の妹が後妻になるって言ったら、どうする?」
「俺の妹がそんなこと言ったら、ぶっ飛ば……」
言いかけて、慎太郎は口を閉じた。
水野家の玄関。
出て行こうとした彩乃の視界に、靴棚の上に忘れ物のスマホが目に入る。
画面には写真。高校生くらいの時の蒼司。
彼の着ているシャツが、写真の真理の服とおそろいペアのシャツだ。
そして、そのシャツを蒼司はいまも捨てず、大切にアイロンがけしてクローゼットに掛け、家政婦に触らせもしない。
母親からの贈り物なのかも、と彩乃は推測していた。
まさか真理とのペアだったなんて。
不意打ちの事実が彼女に衝撃を与える。
涙があふれ、胸の奥に亀裂が走る。言葉が出ない。彩乃は踵を返して外へ。
「先に休んでて」蒼司は真理にそう言い、若葉と陽翔は彩乃を追って玄関を飛び出す。
すぐ追いついた若葉が彩乃の手を掴む。彩乃は顔を伏せ、頬に涙を光らせて言う。「今日はママ、友達の家に行くの。二人はお利口にしてね」
「やだ!」陽翔が即座に反対する。
若葉は必死に守る。「出てくのはあっちでしょ。なんでママが行くの。ママはわたしたちのママで、この家の人間だよ!」
そう、彼女はこの家の人間。
なのに、蒼司は何度も私の顔に泥を塗った。
駆けつけた蒼司は、ようやく子どもたちがどれほど真理を拒み、どれほど彩乃を愛しているかに気づく。
同時に、夜通し子どもたちに付き添ってきた彩乃の姿が頭の中で蘇った。
六年間の彼女の献身は誰の目にも明らかだった。
「彩乃」
彼女はうつむいたまま。
その呼びかけで、彩乃の頭の中に、初めて出会った訓練合宿の朝がよみがえる。
涙はもう止まらない。
「まだ、彼女を愛してるの?」
蒼司は沈黙する。
彩乃は自嘲気味に笑った。
「愛してるかどうかに関係なく、君は妻だ。夫婦なんだ」
「つまり、私への気持ちは夫婦の務めだけ?あなた……」
華のように育った彩乃は、その現実に粉々にされかける。
人は極限まで無力になると、本当に声が出なくなるのだ。
その瞬間の彩乃は、もう一度だけ問いただしたくなった。
「じゃあ、私と結婚したのは、あなたの二人の子どもの世話をさせるためだけだったの?」
まるで長い夢から醒めたように、彼女はふと悟る。自分は本当に間違っていたのだ、と。
間違いは、最初に両親や兄の忠告に従わなかったこと。
結婚後、彼とその二人の子どもだけにすべてを注いでしまったこと。
仕事を手放し、自分の価値を失い、彼の目には「責任=子どもの世話」だけの存在になってしまったこと。
一歩進むごとに、誤る一方。
親という立場は枷だと思い込み、彼のために自分でその枷を外してしまった。
けれど現実は残酷に告げる。それは彼女の命を守る盾であり、尊厳だったのだ、と。
涙は糸がぷつりと切れたようにあふれた。
蒼司は眉根を寄せ、「彩乃、君は……」
こんなふうに泣いたことはない。結婚して六年、一度だって。
蒼司の胸がきゅっと軋み、思わず抱き寄せたくなる。
そのとき、真理の声が割り込む。「彩乃、誤解を解かせて。お願い、まだ行かないで……」
「きゃっ!」
さきほど二階で休むはずの真理が、慌てて階段を降りようとして足をひねってしまった。
悲鳴に蒼司がはっと振り向く。
「真理!」
真理はかなりひどく捻ったらしく、痛みに額にたちまち汗が滲んだ。
「動けない……痛い……」
蒼司は真理を抱き上げ、そのまま車に乗せて病院へ直行した。ひとときの逡巡もない。
エンジン音だけが耳のそばで響いた。
取り残された彩乃は、胸の痛みがしびれに変わっていくのを感じるばかり。
抱いていた期待も、言い聞かせてきた慰めも、音を立てて粉々に砕け散った。
深夜。
家には家政婦しかいない。彩乃は出ていくに出ていけず、眠気に負けた二人を寝かしつけた。
小さなベッドで若葉の手を撫でながら、彩乃は思う。
娘がいつも自分をかばってくれる。それだけで、この六年が無駄ではなかったと胸を張れる。
同時に、子どもという絆の重さも、嫌というほど分かった。
ドアが開き、蒼司が戻った。
彩乃はちらりと見るだけで、言葉を飲み込む。
「二人は寝た?」
「ええ」彩乃は立ち上がり、子ども部屋を出る。
そして横顔のまま言った。
「話をしましょう」
蒼司は黙った。
寝室。
彩乃は腰を下ろし、はっきりと告げる。
「離婚しましょう」