もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!

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鈴木一真(すずき かずま)と結婚して三年目、佐藤梨花(さとう りか)はようやく一真の心の中に誰がいるのかを理解した。 その人物、一真の兄...

Chương (1)

第1章

鈴木一真(すずき かずま)と結婚して三年目、佐藤梨花(さとう りか)はようやく一真の心の中に誰がいるのかを理解した。 その人物、一真の兄の妻、小林桃子(こばやし ももこ)だった。 兄の鈴木啓介(すずき けいすけ)が亡くなった夜、一真は傍らにいる梨花の存在など少しも気にならず、容赦なく梨花に平手打ちをくらわせた。 その瞬間、梨花は全てを理解した。 一真が自分を娶ったのは彼女が「従順で言うことを聞く」からにすぎないのだ。 確かに、彼女は本当に「いい子」だった。 気を遣いすぎて、離婚さえも彼を少しも煩わせなかった。 一真はまだ気づいていなかった。 梨花はすでに離婚届を受け取っている。 彼女がもうすぐ他の人と結婚しようとしていた。 癌の特効薬を開発した日、世界中が彼女の成功を称賛した。 ただ一人、一真だけが片膝をつき、目を真っ赤にして彼女に懇願した。 「梨花、ごめん……僕が間違ってた。どうか、もう一度だけ、僕のことを見てくれないか?」 あの完璧な男が間違うはずがない。 それでも梨花は、ゆっくりと一歩後ろに下がった。 その瞬間、世間では最も高嶺の花と噂される若い男性が彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、傲然と宣言した。 「悪いけど、彼女はもうすぐ結婚するんだ。俺と」 第1話 結婚して三年目、鈴木一真(すずき かずま)の義兄・鈴木拓海(すずき たくみ)が亡くなったその日、佐藤梨花(さとう りか)は彼に離婚を切り出した。 一真は眉をひそめ、困惑した顔で問い返した。 「僕が桃子を庇って平手打ちされたから?」 桃子。なんて親しげな呼び方だろう。 けれど、桃子は彼の義姉のはずだった。 梨花は口角をほんの少し上げた。 「そうよ、ただそれだけ」 夫婦関係を崩す理由が、こんなにも単純なことで済むわけがない。 あの病院の廊下で残った赤い印は、一真の整った顔立ちに鮮やかに残っていた。 あの時、彼は全身全霊で桃子を守っていた。 鈴木家の人々が戸惑う中、驚きもしなかったのは梨花だけだった。 三日前はちょうど二人の結婚記念日だった。 梨花はサプライズを用意し、飛行機で彼の出張先へ向かった。 しかし、そこで耳にしたのは、彼と二人の友人との会話だった。 「一真、毎年記念日にこうやって逃げるのはどうなんだよ。あんなに真剣にお前のことを想ってる梨花ちゃんが可哀そうだろ」 普段は穏やかで気品のある男が、そのときはどこか陰を落としていた。 「僕だって、そうしたくてしてるわけじゃない。でも、こうしないと、彼女は信じないんだ。僕が一度も梨花に触れていないことを」 「は?」 友人は一瞬驚き、そして怒気を含んだ声で呟いた。 「まさか桃子のこと?一真、お前本当に頭おかしいぞ。桃子、二人目まで妊娠してんのに、お前まだ引きずってるのかよ」 彼は口調を変えて、こう続けた。 「それに、そんなふうに梨花を傷つけて、黒川竜也(くろかわ たつや)に怒られないと思ってるのか?」 「怒られないさ」 一真は指先を弄びながら言った。 「梨花と僕が結婚してから、彼とは仲違いしたんだ。三年もLINEをブロックされたままだ」 個室の外にいた梨花は静かにその場を離れた。 歩みは平静だったが、指先が微かに震えていた。 一真に心に決めた人がいることは彼女も知らないわけではなかった。 何度も誰かに問いただしたが、誰一人として相手が誰か教えてくれなかった。 いろんな可能性を考えた。 だけど、まさか「義姉」だったなんて。 三年間も、あんなに従順に「お姉さん」と呼んでいたのに。 あまりにも惨めだった。 会所を出た瞬間、土砂降りの雨が降りしきっていた。 それでも梨花は傘も差さず、濡れたまま歩き続けた。 そのまま深夜便のフライトで潮見市に戻った。 帰宅後すぐに体調を崩し、高熱を出して倒れた。 二日間寝込んだ末にようやく起き上がれたが、今日は義兄の拓海が事故に遭ったという報せが届いた。 七日後、拓海の葬式が潮見市で行われた。 ここ数日、実家に戻っても一日二、三時間しか眠れず、葬式が終わった直後、梨花は墓地を出て、まるで魂が体から抜け落ちたような感覚に襲われていた。 運転手の中村智也(なかむら ともや)はすでに待機していた。 彼女は助手席に乗り込むと、目を閉じて呟いた。 「智也さん、おうちに帰ろう」 「実家には戻らないのか?」 「もういいの」 葬式が終わっても、鈴木家の混乱は続いていた。 拓海は長男であり、家族全員の誇りだった。 事故死の原因は桃子が彼をスカイダイビングに誘ったからだった。 そして、装備の不具合で高空から落下し、その場で即死だった。 病院に運ばれたが救命処置のためではなく、遺体の縫合処理のためだった。 鈴木家の怒りはまだ収まっていなかった。 梨花はもう、そんなものを見たくなかった。 夫が他の女を守る姿なんて。 自分の人生を生きることに決めた。 車が発進しようとしたその時、後ろ席のドアが急に開いた。 そこには漆黒のスーツを身にまとった一真の姿があった。 整った顔立ちに、珍しく気まずそうな表情が浮かんでいた。 「梨花、家に戻るつもりか?」 「うん」 梨花が頷くと、彼の隣に桃子とひとりの男の子が見えた。 それは桃子と拓海の息子である鈴木啓介(すずき けいすけ)、まだ四歳。 ふっくらした頬が愛らしい。 意味が分からず梨花は眉をひそめたとき、啓介が元気よく車へ乗り込んできた。 「おばさん、僕とママを家まで乗せてってくれない?」 梨花は一瞬黙ったまま、一真をじっと見つめた。 彼は唇を引き結びながら言った。 「父さんたちの怒りがまだ収まってないんだ。しばらく桃子と啓介は僕たちの家に住ませてくれないか」 そして彼女の拒否を恐れてか、こう付け加えた。 「梨花、子供が欲しいって言ってただろ?ちょうどいい、まずは啓介の世話から慣れてみれば?」 思わず笑い出しそうになった。 いや、今は墓地の帰り道、さすがに不謹慎だ。 一真は桃子と啓介を家に連れて帰る一方、実家に戻って一人で怒りの矢面に立つなんて、本当に偉いよね。 帰宅後、一真から連絡があったのか、家政婦の木村恵(きむら めぐみ)がすでに客室を整えていた。 梨花はそのまま風呂に入り、ベッドへと倒れ込んで、ぐっすり眠った。 目を覚ましたのは夜の九時だった。 スマホを手に取ると、ちょうど電話が鳴った。 「離婚届、あなたの望みどおりに作っておいたよ。後日届けに行こうか?」 「ありがとう」 まだ寝起きで、梨花の声は弱々しく、少しぼんやりしていた。 「大丈夫。宅配便で送ってもらって」 「そんなに急ぐのか?本当に覚悟はできてるの?一真はいい夫とは言えないかもしれないが、ある意味では......」 中田綾香(なかだ あやか)は数多くの案件を扱ってきた、経験豊富な弁護士だった。 一時の感情で動いてないか、心配していたのだ。 梨花は明かりをつけて身を起こし、思考がどんどん冴えていった。 「うん、ちゃんと考えた。綾香、彼は他の女の写真を見ながらオナニーしたことがあるのよ」 第2話 「え?」 綾香の頭は真っ白になった。 あの内気でおとなしい梨花が、そんな言葉を口にするなんて、思いもよらなかった。 けれど、それ以上に信じがたかったのは、一真、あのクソ野郎が、ここまで人を侮辱したことだ。 綾香は小さな声で罵った。 「もう宅配便なんかやめて。私が送ればいいじゃない。渡したらまた戻って残業すればいい」 電動バイクの宅配便より、自分の車のほうがずっと早い。 電話を切った後、梨花自身もこんなに簡潔に、率直に言えたことに驚いた。 たぶん、この思いがずっと喉に詰まっていたんだ。 心の奥から泥のように溜まっていた。 呼吸さえもうまくできないほど、苦しくて、悔しくて。 そう、まるであの夜、一真が言ったように。 「一度も触れたことはない」 言ったところで誰も信じないだろう。 結婚して三年、彼女はいまだに「処女」だった。 最初は思った。 もしかして、一真は体に問題があるんじゃないか? けれど、その考えをすぐに否定した。 なぜなら、梨花は何度も見てしまっていたから。 一真が書斎でアルバムを抱きながら自慰している姿。 男のくぐもった息が、まるで平手打ちのように何度も梨花の顔を叩いた。 一度、見つかったことがあったが、一真は梨花を抱き寄せ、首元に顔を埋めながら、低く言い訳をした。 「ごめん、梨花......あんたを傷つける気がして、どうしてもできなかったんだ。だからあんたの写真で、我慢してた」 おかしかったのは梨花がそれを信じてしまったこと。 そして、顔まで赤らめてしまったこと。 でも、あの夜。 彼女は高熱に耐え、薬を飲んで、最後の意識を振り絞り書斎に向かい、彼が鍵をかけていたキャビネットをこじ開けたとき、見てしまった。 そのアルバムの中身。 そこに並んでいたのは全部、桃子の写真だった。 生き生きとした、魅力的な笑顔。 一枚一枚、まるで宝物のように大切に保管されていた。 その瞬間、梨花は自分という存在がただの冗談のように思えた。 ふと思い出した。 昔、自分が一真のあとをついて回っていた頃。 本当は、一真を追いかけていたわけじゃない。 ただ、兄がいつも彼と一緒にいたから。 何度も見ているうちに、自然と、「この人と結婚できたら、きっと幸せだろうな」と思うようになった。 一真は穏やかで、辛抱強く、兄の友人の中でも群を抜いて優しかった。 来るたびに梨花にお土産をくれる、礼儀正しい青年だった。 そんな彼が、桃子の写真で自慰しても、目の前の妻には一度も触れようとしなかった。 翌朝、綾香が予想外に早くやってきた。 梨花が洗面を済ませ、まだ階下に降りていないうちに、玄関のチャイムが鳴った。 まるで「市役所が開いていれば、今すぐにでも手続きを済ませる」勢いだった。 離婚届を受け取り、ようやく胸が落ち着いた時、二階から何かの割れる音が響いた。 すぐ後ろから、恵が沈んだ顔で駆け下りてきた。 言葉を選ぶように、口ごもりながら告げた。 「奥さん......」 「どうしたの?」 「お部屋に飾っていた家族の写真が......啓介くんに壊されちゃったんです」 梨花は写真立てが割れただけだと思っていた。 けれど、恵が差し出したのはバラバラに裂かれた写真の断片だった。 彼女の顔がサッと青ざめた。 五歳で両親を亡くした梨花にとって、それは彼女に唯一残された大切な思い出だった。 断片を握りしめながら、階段を駆け上がった。 ちょうどその時、桃子は啓介を抱えて、梨花の部屋から出てきた。 梨花は鋭く桃子を睨みつけた。 「お姉さん、ここは私の部屋なんだけど」 「一真が言ってたの。ここはこれから啓介の家になるって」 啓介も負けじと叫び返した。 「おじさん、これからママと啓介をパパみたいに守るって言ってた!」 桃子はまったく子どもを諫める気配もない。 梨花はふっと笑って、啓介に言った。 「ねえ、クリスマスにサンタさんが何をするか知ってる?」 「いっぱいお菓子をくれる!」 「違うわ」 彼女は首を横に振り、微笑んだ。 「さっき私の写真を壊した君の両手を切り落として、オーブンで焼いて、鬼に食べさせるの」 「わああああああ!」 まだ子どもだ。啓介は泣きながら桃子にしがみついた。 桃子は眉をひそめ、梨花を非難するように睨んだ。 「子どもにそこまでしなくてもいいでしょ」 「子どもすらちゃんと育てられないのね。エクストリームスポーツ以外に、あなた何ができるの?」 梨花はそれだけ言い捨てて、部屋に戻った。 夜。 黒のマイバッハが静かに敷地内に入ってきた。 梨花は窓際に立ち、その様子を静かに見ていた。 一真が車を降りた途端、啓介は桃子の手を引いて駆け寄っていった。 まるで理想的な家族のような光景だった。 しばらくして、部屋のドアがノックされた。 白いシャツ姿の一真が中へ入り、やや苛立った声で言った。 「啓介を怖がらせたのか?」 「うん」 梨花は無表情でベッドを指さした。 「彼は私の家族写真を破いたの」 一真は一瞬に動きを止めた。 ようやく状況を理解したらしい。 長い腕を伸ばし、彼女の頭を撫でようとしたが、梨花はさっと身を引いた。 怒っていると思った彼は優しく言う。 「僕が悪かった。啓介の代わりに謝るよ。何か欲しいものがあれば、償いになるなら何でも買うよ」 梨花は微笑んだ。 「何でも?」 一真は頷いた。 「もちろん」 「じゃあ、この二つ」 そう言って、梨花はあらかじめ用意していた二通の書類を差し出した。 一真は何も疑わず、それを受け取った。 一枚目は不動産契約書。彼はすぐにサインした。 二枚目は内容も見ず、すぐに名前を書いた。 彼はお金に関して、昔から一切渋らない男だった。 サインし終え、安堵の息を吐いた後、彼女の細い腰に腕を回し、そっと抱き寄せた。 「梨花、あんたの兄さんはどうやってこんなに素直で賢い妹を育てたんだろうな?」 鳥肌が立った。 梨花は拒もうとしたが、ノックの音が聞こえた。 ドアの前に立っていた桃子の姿を見た一真は、条件反射のように梨花を突き放した。 梨花は一瞬、驚いた。 だが、すぐに納得した。 彼は桃子への忠誠を証明するために、三年間も妻に指一本触れなかった男だ。 同じ屋根の下に住む今、より一層気を遣うのも当然だ。 桃子は困ったような笑みを浮かべて言った。 「一真、啓介があなたと一緒に寝たいって言ってるの」 「今行く」 一真はうなずき、梨花に視線を戻した。 「怒ってないよね?」 「ううん、怒ってない」 彼が部屋を出たあと、梨花はそっともう一通の書類を引き出した。 離婚届だった。 そう、私は本当に素直で賢い妻だ。 離婚すら、自分で用意した離婚届を笑って差し出せるほどになった。 第3話 翌朝。 梨花は体内時計に目を覚まされ、カーテンを引くと、外は真っ白な雪景色が広がっていた。 天気予報では予想されていなかったが、初雪は思ったよりもしっかり降っていた。 窓ガラス越しに、冷気がひんやりと感じられた。 彼女はワンピースに着替え、洗面所で顔を洗っていると、廊下から大きな物音が響いてきた。 ものすごく騒がしかった。 誰かが聞けば、リフォーム工事が始まったのかと思うだろう。 「恵さん、何が......」 梨花は髪をざっとまとめ、部屋のドアを開けた途端、言葉を失った。 リフォームどころか、まるで戦争でもあったかのようだった。 普段は整然としている家が、今ではめちゃくちゃに乱れていた。 一階のソファにあったはずのクッションが、彼女の部屋の前に転がっていた。 さらに、見たこともない茶色いシミがついていた。 床には落ちて割れた花瓶、廊下に飾られていた数百万はするであろう油絵も無残な姿になっていた。 まさに圧巻の光景だった。 恵は懇願するように、啓介を追いかけていた。 「お願いです、啓介くん、それだけはダメです!それは奥様のお気に入りの茶器で......」 ガシャーン! 言い終える前に、茶器は床に叩きつけられて粉々になった。 啓介は小さな暴君のように舌を出して言った。 「べーっだ!おじさんが言ってたよ、ここはもう僕の家だって!メイドのくせに、なんで僕に指図してんの!」 言い終えると、彼の視線が上がり、梨花と目が合った。 彼女は無表情で彼を見下ろした。 啓介は本能的に首をすくめ、後退した。 この悪い女! 昨晩の夢にも出てきたんだ。 サンタクロースと鬼に追いかけ回される悪夢だった。そうだ、この女を追い出せばいいんだ! ママが言ってた。この女さえいなくなれば、おじさんは自分とママだけのものになるんだって! 梨花は静かな目で啓介を見つめた。 「いいわ。好きなだけ遊びなさい」 「ほんとに?」 啓介は信じられない様子で、目を丸くした。 こんなにたくさん、この悪い女の好きなものを壊したのに、怒らないなんておかしい! 梨花は手すりに寄りかかり、リビングで何も知らないふりをしている桃子をちらりと見て、にこっと笑った。 「うん。でもね、リビングに飾ってある墨絵だけは絶対に触っちゃダメ。あれは、私が一番大切にしているものだから」 これは、桃子の仕向けか、それとも啓介の独断か。梨花にはどうでもよかった。 どうせ自分は「良い人」じゃないから。 昔誰かが教えてくれた。他人に虐げられたなら、その分、いや何倍にもして返してやれって。 啓介は目をきらりと光らせ、「うん!」と元気に走り去った。 それを見た恵は、困ったように眉をひそめた。 「奥さんも旦那様も、この子に甘すぎますよ......」 「いいの」 梨花は微笑んで言った。 「恵さんも、もう止めなくていいわ。彼は鈴木家の唯一の男の子。彼が楽ければ、それが一番でしょう?なにより、桃子だって彼を放任してるんだから。私たちもその教育方針を尊重しなきゃね。何かあったときに責任を取らされるのは、私か、恵さんでしょ?」 「......分かりました」 恵は渋々頷いた。 「奥さんって、ほんとにお優しすぎるんですよ。だから、みんな調子に乗るんです」 梨花はただ笑って返し、話題を変えた。 「ねえ、家に余ってるギフトボックスってあったかしら?」 「どんなのがいいですか?」 「何でもいいわ。A4サイズが入るくらいの大きさで」 「物置にありました。すぐ持ってきますね」 恵が箱を取ってきたあと、梨花は部屋に戻り、扉を静かに閉めた。 そして、署名済みの離婚届を箱の中に入れた。 彼女は丁寧にリボンを選び、箱の上に綺麗な蝶々結びを作った。 「ドンッ!」という凄まじい音が下の階から響いた。 梨花はまるで何も聞こえなかったかのように、リボンを整え、結び目を軽く撫でた。 きれいに仕上がった。 完璧。 するとすぐドアを叩く音がして、恵の慌てた声が聞こえた。 「奥さん!下に来てください!お祖父様の遺作が啓介くんに壊されました!」 「え?」 梨花は顔色を変えて立ち上がった。 「それって、リビングに飾ってた墨絵のこと?」 「そうです......」 梨花は急ぎ足で階段を駆け下り、途中で足を捻ってバランスを崩してしまった。 到着すると、啓介が得意げにあごを上げて立っていた。 まるで「どうだ、文句あるか?」と言いたげに。 「恵さん、鈴木家に連絡した?」 「まだです」 「今すぐかけて」 梨花の言葉が終わる前に、啓介が突進してきた。 「だめだ!告げ口するな、悪い女!」 梨花は避けきれず、啓介に体当たりされ、床に転倒した。 尾てい骨を強打し、激痛が走った。 「梨花、大丈夫?」 桃子が駆け寄り、梨花を抱き起こした。 「啓介は私が甘やかしすぎたのよ。遊んでるつもりでも加減を知らないの。でも子どもってそんなもんだから、怒らないでね?」 梨花は腰を押さえながら、砕けた墨絵と、荒れ果てた家の中を見渡した。 「なるほど、子どもが他人の家をめちゃくちゃにするのも、あなたのしつけってわけね?」 桃子の目に涙が浮かんだ。 「ちょっと目を離しただけでしょ?それで全部私のせいって言うの?」 「へえ、ちょっと目を離しただけ、ね」 梨花は静かに頷いた。 「じゃあ、あなたが目を離さなかった時なんてあったの?」 「梨花!」 誰もいないのをいいことに、桃子は「優しい」仮面を脱ぎ捨てた。 「あなたって、なんでいつも人のミスを責め立てるの?それを鈴木家まで報告して、どうなると思ってるの?おばあさまたちがたかが一枚の絵で私を責めるとでも?」 梨花は冷静に訂正した。 「たかがじゃないわ。あれは、お祖父様が残した最後の絵よ」 話した後、黒い車がゆっくりと屋敷に入ってきた。 鈴木家からの使いが想像以上に早く着いた。 第4話 桃子の表情が一瞬で凍りついた。 外に停まっている見慣れた車を目にした途端、心の奥で何かがざわついた。桃子の瞳が怒りに震え、梨花を鋭く睨みつけた。 「わざとよね?わざとやったんでしょ!」 「お姉さん、何をおっしゃってるの?私、さっきまで二階で一真へのプレゼントを用意してたのに......そんなことまで私のせいにするなんて......」 梨花の瞳は涙を浮かび、まるで深い悲しみに沈んだようだった。 その瞬間、鈴木家から来た執事の高木大輝(たかき だいき)が玄関から入ってきた。 混乱した屋内を見渡して、思わず眉をひそめた。 彼は桃子に向き直ると、静かに言った。 「桃子さん、おばあさまからのお言葉です。子どもの教育が行き届いていないとのことで、まずはあなた自身を教育し直さなければならない、と」 桃子の唇が小さく震えた。 「え?」 大輝は穏やかな笑みを浮かべたまま、手で「どうぞ」と示した。 「では、お庭で三時間、跪いてもらいます」 「大輝さん......」 梨花が口を開こうとしたが、大輝はそれを察したように制し、にこやかに言った。 「梨花さん、お願いですから、取り成しなどしないでください。数日前の拓海さんの葬式でも、あなたは本当に頑張ってくださいました。どうかお体を大切に」 「......」 違う。 彼女が本当に聞きたかったのは、おばあさんの体調が少しは回復しているかということだった。 その隙に、離婚の件を切り出すタイミングを探していた。 鈴木グループは確かに一真が経営しているが、鈴木家の問題となると、常に本家が口を出してくるのが通例だった。 桃子がどれだけ不服でも、跪くしかない。当然の報いだ。 梨花は一瞥もくれず、階段を上がろうとした。 恵が困ったように声をかけた。 「奥さん、あの絵はどうなさいますか?」 「放っておいていいわ。あとで誰かが取りに来るから。修復が終わったら戻してもらうわ」 梨花は淡々と答えた。 もちろん誰にも言うつもりはない。リビングに掛けてあった墨絵は偽物だ。 本物は友人が経営するギャラリーで展示されている。 無傷のまま。 だって、おじいさんの生前の願いは、自分の作品をもっと多くの人に見てもらうことだったから。 家の中で眠らせておくなんて、あまりにももったいない。 「悪い女!」 階段を上がろうとしたその背中に、啓介が声を荒げて叫んだ。 「おじさんに電話したからな!帰ってきたら、絶対にお前なんか......終わりだ!」 「そう。じゃあ、待ってるわ」 「お前なんかと離婚するって!お前はもう誰にもいらないボロ雑巾だ!」 梨花はふっと笑いながら言った。 「でもね、一真は君の言う通りにはしないわ」 彼と桃子には、まだ隠れ蓑としての彼女が必要だから。 彼女と離婚したら、おじさんとお姉さんが同じ屋根の下に暮らしているということになる。 そうすれば、桃子の名声は地に落ちる。 一真はそんなことを許さないだろう。 一真が帰宅したのは約二十分後のことだった。 桃子が庭に跪き始めてから、まださほど時間は経っていなかった。 黒のカシミヤコートを着た一真は、すらりとした体型に凛とした気配を漂わせ、車を降りるやいなや、まっすぐに桃子のところへ駆け寄り、彼女を抱き上げた。 彼は屋内へ入り、リビングのソファへ彼女を下ろし、凍えた膝に薬を塗りながら、眉を寄せた。 「馬鹿か、君。跪けって言われたからって、本当に跪くなよ」 「だって、おばあさまに言われたのよ?仕方ないじゃない......」 桃子は彼の袖をそっと握りしめ、目を赤くしながら震える声で訴えた。 「一真......お願い、彼女と離婚して。梨花、あの人、本当に怖いの......」 一真は微かに眉をひそめた。 「梨花のこと?」 「そうよ!」 桃子は唇を噛み締めた。 「啓介があの絵を壊したのも、彼女がわざと仕向けたのよ!」 「ママの言う通りだもん!」 啓介も泣き顔で口を挟んできた。 「おじさん、おばさんが言ってたの、あの絵の中に僕の腕を食べる怪物が隠れてるって......だから......」 「そんなこと、あるわけないだろ」 一真ははっきりと否定した。 その手で啓介の頭を優しく撫でながら言った。 「聞き間違いじゃないか?おばさんは鈴木家で一番穏やかで優しい人だよ。昨夜だって、君のこと怒ってないって言ってくれただろ?それに、おじいさんが一番可愛がっていたのは、彼女なんだ。彼女がおじいさんの遺作をそんなふざけて扱うわけがない」 その言葉は桃子に向けたものだった。 桃子の顔が引きつった。 「つまり、私と啓介が彼女を陥れようとしてるって言いたいの?一真!あなた変わったわ!」 その非難の言葉に、一真の中で怒りが湧き上がった。 けれど桃子の失望した瞳を見た瞬間、怒りをぐっと飲み込んだ。 「桃子、僕はずっと何も変わってない」 「じゃあ......聞くけど」 桃子は一真を真正面から見据える。 「梨花のこと、少しも好きになったことないって言い切れる?一度も、彼女に触れたことないって言い切れる?」 一真はずっと彼女の前ではやましいことは何もないと思ってきた。 だが、この問いには、なぜか答えが出てこなかった。 背筋が固まり、長い睫毛の影に表情を隠しながら、ぽつりと呟いた。 「一度も触れてない」 そう。彼が梨花に本当に申し訳ないと思っている証拠だった。 ちょうどそのとき、階段から梨花がゆっくりと降りてきた。 腰を軽く押さえながら、片手にプレゼントボックスを持って。そして、耳に入ったのが、今のその一言だった。 迷いもなく、濁りもない、はっきりとした言葉だった。 梨花は苦笑し、軽く唇を歪め、まっすぐ彼らに歩み寄った。 「一真、明日の晩、黒川家の宴会があるの。お祖母様があなたに出席できるか聞いてって」 黒川家のお祖母様は、梨花の両親と長い付き合いがあった。 両親が事故で亡くなったあと、梨花は黒川家に引き取られた。 世間からは黒川家の人間と見なされていた。 そして彼女が鈴木家に嫁いだあとも、黒川家と鈴木家のビジネスは続いていた。 一真はちょうど罪悪感が込み上げていたのだろう。すぐに返事をした。 「分かった。明日の夜、迎えに行く。いっしょに帰ろう」 「うん」 梨花は手に持ったギフトボックスを見つめ、彼の隣に座る親子を見た。 空気を読んで、それ以上何も言わず、くるりと背を向けて玄関へ向かった。 今日は綾香と食事の約束があった。 彼女の裁判が無事勝訴となり、お祝いのため街に出る予定だった。 梨花が足を痛めたことを知って、レストランでの食事だけに変更された。 「梨花!」 一真がなぜか思わず呼び止めた。 「その箱、何?」 梨花は振り返り、手にした箱を軽く揺らす。 「プレゼント」 「プレゼント?今日、誰かの誕生日だったっけ?」 「結婚三周年の記念日。あなたに渡すつもりだったの」 「梨花、ごめん......」 「気にしないで。お仕事忙しいもんね。忘れちゃうことだってあるよ」 梨花はいつものように、澄んだ瞳で彼を見つめ、手にした箱を差し出した。 「ちょうど半月後、あなたの誕生日でしょ?だからこれを。一真、お誕生日おめでとう」 それともう一つ、私からの祝いを。 離婚おめでとう。 第5話 一真はプレゼントボックスを受け取った瞬間、胸の奥で何かが鋭く触れたような感覚を覚えた。 痛いというほどではない。 ただ、少しだけ息が詰まるような感じがした。 箱の上に丁寧に結ばれた蝶々結び、それだけで彼女がどれだけ心を込めたのかが伝わってきた。 なのに、自分はそんな彼女に、影で薄暗い欲望を抱えている最低な男だった。 何も返す間もなく、梨花はすでに玄関へ向かっていた。 淡いベージュのウールコートを羽織り、マフラーを巻いて、小さな顔のほとんどを覆い隠すようにして外へ出た。 ただ、彼女の歩き方がどこかぎこちない。 声をかけようとしたその瞬間、「痛い!」桃子が叫んだ。 一真は反射的に意識を戻し、彼女を支えてソファに座らせた。 「膝がそんなに痛むのか?病院へ行こうか」 「行きたくない」 桃子は唇を噛み、彼の手にあるギフトボックスをちらりと見て、ぽつりと呟いた。 「彼女に気がないって言うくせに......その贈り物、大事そうに持ってるじゃない」 「......」 一真は少し眉を寄せた。 「桃子、僕は彼女に対して後ろめたさでいっぱいなんだ」 桃子の目が大きく見開かれ、涙がこぼれ落ちる。 「じゃあ、私は?一真、あなたは一体何を考えてるの?彼女が私と啓介をいじめても、あなたは何も言わないの?」 「だから言ったろ、梨花はそんなことしないって」 「もういい!」 桃子は立ち上がって叫んだ。 「あなた、気づいてないの?今のあなた、何を言っても彼女ばかり庇ってるじゃない!」 彼女は泣きじゃくりながら啓介の手を取り、二階へ上がっていった。 一真はその場にしばらく立ち尽くし、深く息を吐きながら考え込んだ。 自分でも、何を思っているのか分からなかった。 ただ一つ、誰にも、彼女の悪口だけは言わせたくなかった。 雪は二日間、ちらちらと降り続けた。 午前中、梨花は漢方医院で診療をして、午後には海外から来た医師の鍼治療の相手をすることになった。 本来は先輩の担当だったが、急用で彼女に任されることになった。 夕方五時、業務を終えて帰宅し、着替えと軽いメイクをした。 梨花は元々整った顔立ちをしており、少し手を加えるだけで十分に人目を惹いた。 階下へ降りると、家の中が妙に静かだった。 あの母子も今日はやけに大人しい。 そのとき、背後から艶やかな声が響いた。 「梨花」 振り返ると、桃子が笑みを浮かべて立っていた。 「一真はあなたと私、どっちを選ぶと思う?」 梨花は一瞬目を見開き、すぐに笑った。 「お姉さん、何言ってるの?意味わからないよ。あなたは鈴木家で自分の義弟を誘惑するドラマでも演じるつもり?」 「梨花!」 あまりに直球な物言いに、桃子は歯噛みして怒った。 梨花は悠然とカシミヤのマントを羽織り微笑んだ。 「じゃあ、もう行くわね。一真がもう待ってるから」 桃子が視線を窓の外へ向けると、一真の車がすでに玄関先に泊まっていた。 まるで血が逆流するような衝撃を覚えた。 かつて、この女との結婚を許したのは「扱いやすくて、従順そう」だったから。 今ではすっかり牙をむいた、野うさぎだった。 梨花は車に乗り込み、微笑んだ。 「待たせてない?」 「いや、今着いたばかりだ」 一真は彼女の手を取り、優しく握った。 視線が自然と彼女の膝に向き、スカートの裾から伸びる、白く艶やかな足に思わず眉をひそめた。 「寒くないのか?なんでそんなに薄着なんだ?」 「車の中も、家も、暖房入ってるでしょ?」 梨花はにこりと笑った。 診療所では、彼女はどれだけ丁寧に患者に保温を勧めていた。 自分のこととなると、どうでもよくなるのが不思議だった。 一真は苦笑するしかなかった。 「風邪引いたら、知らないぞ」 「風邪なんて薬で治るでしょ。慣れてるし」 彼女はあくまで淡々としていた。 この三年間、風邪を引くと誰にも頼れず、自分で治してきた。 いや、そもそも頼れる誰かなんて、最初からいなかった。 一真は黙ったまま、胸の中がざわつくのを感じていた。 「僕のこと、まるで無関心な夫みたいに言うなよ」 「そう?」 梨花は不思議そうに目を瞬いた。 「昨日のプレゼント、まだ開けてないの?」 「うん」 「誕生日プレゼントって言ってたし、誕生日まで取っておこうと思って」 「......そう」 ならちょうどいい。 私には、まだ準備したいことがある。 その後の道中、二人の会話はほとんどなかった。 ただ、車窓を見つめる梨花の横顔だけが、美しく静かで、まるで何もかも諦めたような、優しい目をしていた。 なぜ、桃子は彼女のことをあんなにも憎むのだろう。 そんなことを考えていた矢先、突然スマートフォンが鳴った。 「一真さん、桃子さんはお見合いに行かれました」 男の声は抑揚なく静かだった。 けれどその一言で、車内の空気が凍りついた。 梨花もはっきりと聞いた。 一真が怒りを必死に押し殺していることが、伝わってきた。 「場所を送ってくれ」 彼は低く冷たい声で返し、電話を切るとすぐに梨花へ顔を向けた。 「梨花、悪い、急用だ。今夜の宴会には一緒に行けない」 急事か。 言わなくても、何のことか分かる。 彼女は何も言わず、ただ静かに頷いた。 「分かった。智也さん、ここで停めて」 車がゆっくり止まった。 けれど一真は動かない。 「一真さん、早く降りて。ここ、長く止められないから」 彼女の柔らかな声に促され、ようやく彼は車を降りた。 黒川家の宴は、月に一度開かれる。 他の名門家とは違い、賑やかさや華やかさとは無縁。 静まり返ったその空間は、まるで墓場のようだった。 梨花が家に入ると、執事がすぐに声をかけてきた。 「梨花さん、お祖母様は朝からずっとお待ちでしたよ。首を長くして、梨花さんをお待ちです」 「うん」 彼女は小さく頷きながらも、内心で緊張していた。 食堂に入ると、主座にはお祖母様だった。 左手には、長女と次女が並んでいた。 「おばあさん、お姉さん、お姉ちゃん」 梨花は順に頭を下げて挨拶した。 姉妹たちはどこか素っ気なく頷くだけ。 お祖母様は彼女の背後を見て、鋭く眉をひそめた。 「一真は?」 「急用ができて、来られなくなったって」 その瞬間、茶碗とともに、彼女の頭から怒号が降り注いだ。 「外で跪いてこい!」 第6話 黒川家から出るとき、梨花の足取りはますます重くなっていた。 この三年間、一真が彼女を伴わずに帰省するたび、この「しつけ」がいつも彼女を待っていた。 驚くことではなかった。 ただ、一真は気づいていなかった。彼は好きな人に心を証明するたび、梨花は少しずつ逃げ道を失っていた。 黒川家には、「夫の心すら握られないダメ女」なんて、必要とされていなかった。 執事の黒川健太郎(くろかわ けんたろう)はため息をついた。 「もう少しうまくやればよかったのに......適当にもっとらしい理由でも作って、お祖母様を騙せば、こんな目には......」 「健太郎さん」 梨花の顔には、少しの恨み言も浮かんでいなかった。 「お祖母様は私を育ててくれた恩人です。誰を騙しても、あの方だけは騙せません」 「......はぁ」 その言葉に、健太郎の目にほんの少し、優しさが滲んだ。 彼女の手のひらの赤く腫れ上がった傷を見て、心から心配した。 「いいから、早く病院に行きなさい」 「うん」 それ以上何も言わず、梨花は頷いた。 智也はすでに家に帰らされていた。 梨花は一歩踏み出すたびに、体中が痛むのを感じる。 子どものころから思っていた。 彼女はお祖母様がまるで大河ドラマに出てくる意地悪な女みたいじゃないかと疑った。 鈴木家のお祖母様はせいぜい「外に跪かせろ」という程度だが、黒川家のお祖母様は容赦なく砂利道に跪かせ、棒で手のひらを打てと命じた。 最初は雪のおかげで少し冷たくて気持ちいいくらいだった。 けれど、次第に雪が溶け、尖った石がじきに肌に食い込んでくる。 体が冷えきった頃、使用人が現れて、容赦なく棒を振るった。 この季節に叩かれるのが一番痛い。肉が裂けるほどに。 黒川家は山に沿った環境の良い場所にある。山道を下りてようやくネットで車を呼べたが、深夜で雪も降っているため、運転手は山のふもとにしか来なかった。 帰り道が梨花には地獄のように長く苦しかった。 真冬なのに、背中は痛みで汗ばむほどにびっしょりだった。 そのとき、遠くから黒いベントレーがゆっくりと近づいてきた。 「旦那様、前にいるのはおそらく梨花さんです」 男は長身をシートに無造作に預け、脚を組んだ姿勢で、顔は車内の暗がりに沈んでいた。その顔立ちは凛々しくて、まさに支配者のような気質だった。 「うん」 彼は目すら上げず、ただ一言で答えた。 助手席のアシスタントは見かねて声を上げた。 「旦那様、本当に放っておくんですか?」 「君がそんなに気になるのか?」 低く響く、冷ややかな声。 その一言で、アシスタントは黙り込んだ。 しばらくして、男はようやくフロントガラス越しに、あの頼りない背中を見つめ、目を細めた。 「一真は今夜どこへ行った?」 「確認済みです。おそらく桃子さんと一緒にいると思われます」 男はアシスタントの返答に無言だった。 「梨花さんは今夜もまた雪の中で数時間は跪いていたはずです。そろそろ......」 その時、彼女が前方で倒れた。 「旦那様!」 バンッ! 車のドアが乱暴に開く音が響いた。 男は言葉もなく車を降り、雪に倒れた女をそっと羊毛のコートに包み、抱き上げた。 アシスタントは慌てて後部座席のドアを開けた。 「病院に?それとも家に戻られます?」 「家に戻る」 「かしこまりました」 「医者を呼べ」 「すでに連絡済みです」 運転手はエアコンを強め、車内はすぐに暖かくなった。 灯りの下、男の視線が彼女の膝へと落ちた瞬間、その黒い瞳に冷たい光が宿った。 口調は変わらぬ静けさを保っていたが、その一言には冷酷な意志が滲んでいた。 「容赦ねえな」 アシスタントが静かに呟いた。 「お祖母様は容赦したことなんて、今まで一度もなかったのですよ......」 「黒川貴之(くろかわ たかゆき)はそろそろ帰国する頃だな?」 「はい」 「手配しろ」 「どこまでですか?」 男はちらりと視線を向けた。 その目には、鋭い怒りがこもっていた。 「言わせるな」 ...... 梨花が目を覚ましたとき、体は軽く、痛みもほとんどなかった。 あれほど腫れ上がった手のひらと膝も、嘘のように楽になり、尾てい骨の痛みさえ、ずいぶん和らいでいた。 ただ、ここがどこか、よく分からなかった。 眉をひそめてホテルフロントに電話しようとしたが、動いた拍子に、ふわりと香る微かな沈香の香りに気づいた。 この香り、どこかで嗅いだことがある...... 我に返った梨花は苦笑しながら立ち上がり、ベッド脇の薬を手に取り、チェックアウトした。 帰宅すると、家の中は嘘のように平和だった。 あの母子はまるで何もなかったように笑っていた。 「梨花、おかえりなさい」 桃子はにっこりと挨拶してきた。 昨晩、一真にしっかり機嫌を取ってもらったのだろう。 梨花は無言で通り過ぎようとしたが、桃子がわざと足早に近寄ってきた。 耳元に手をやり、髪をかきあげ、きらりと光るピンクダイヤのピアスを見せつけた。 それは、梨花がずっと探し続けていた限定品だった。 ようやくオークションに出たとき、一真は「あなたのために落札する」と約束してくれた。 「あなたには、この淡いピンクが一番似合うよ」 彼はきっと桃子にも同じことを言ったに違いない。 桃子は彼女のわずかな表情の陰りを見逃さず、笑みを深めた。 「お祖母様が言ってたのよ。あなたは宝石にちょっと詳しいんだって?これ、どう思う?一真が2億4000万円で落札してくれたのよ。値打ちあると思う?」 「まあまあかな」 梨花は微笑み、スマホを取り出した。 「でも、私と彼はまだ法的には夫婦なの。この2億4000万円の半分は夫婦の共有財産だわ。だからお姉さん、今日中に1億2000万円をこの口座に振り込んでおいて。振り込まれなければ、お祖母様に話を持っていくわよ」 彼女の言葉が終わるや否や、桃子のスマホにLINEの通知が届いた。 開くと、そこには口座番号が記されていた。 桃子の顔が真っ青になった。 この女、またお祖母様を持ち出して脅してきた! 1億2000万円? 拓海が亡くなった後でもやっとの思いで相続できたのが1億だったのに! 梨花は桃子の顔色に興味も示さず、さっさとシャワーを浴びて、断捨離を始めた。 余計なものは早めに処分しておくに限る。 ゴミ箱を手に、ためらいなくポイポイと捨てていった。 結婚式で着たウェディングドレスも包んで恵に渡した。 「処分しておいて」と命じた。 そのとき、玄関のドアが開き、一真がちょうど帰ってきた。 彼の視線が包まれたドレスに向き、胸の中がざわざわする。 「そのドレス、どうして出してるんだ?」 「捨てるの」 梨花は一瞥もくれず、淡々と答えた。 「もう、要らないから」 要らないものは、捨てるのが一番だ。 第7話 彼女の何気ない声を聞いた瞬間、一真の心臓がチクリと刺されたような気がした。 彼は思わず眉をひそめた。 「どうして急に捨てるの?あんなに大事にしてたウェディングドレスなのに」 梨花は黙ってうなずいた。 この三年間、彼女はわざわざクローゼットにスペースを作り、そのドレスを吊るしていた。年に一度はクリーニングにも出して手入れしていた。 大切にしていたのは「人は一度の結婚を大事にしなきゃ」と思っていたからだった。 だからこそ、結婚式のドレスも記念として大事にすべきだと。 しかし今は離婚を決意した。 一真はきっとすぐに好きな人を嫁に迎えるのだろう。 あのドレスも、自分も、この家の中では「余計な存在」に過ぎなかった。 梨花は静かに微笑んだ。 「破れちゃったの。つい最近、大きな穴を見つけてね」 「でも、そんな簡単に捨てるものじゃないだろ」 一真は彼女の作り笑顔を見て、きっとまだ未練があるのだと思い込んでいた。 「だったら、ドレスショップにお願いして修理してもらうよう手配しようか」 「大丈夫」 梨花は首を横に振り、真っすぐに一真を見上げて言った。 「壊れたものは、もう修復できない」 彼女が言ったのはドレスではなく、人の心と、この「縁」だった。 言い終えると、彼女は背を向けて家に入っていった。 その歩き方にどこかぎこちなさが残っていて、一真はようやく思い出したように彼女を追いかけた。 「そういえば、あなた......怪我でもしてるのか?もう二、三日も足引きずってるだろ」 全てがもう手遅れだった。 でも、彼女には彼の罪悪感が必要だった。 梨花は静かに目を伏せて、淡々と事実を告げた。 「もう治りかけてたけど、昨夜、黒川に戻って、雪の中で四時間に跪かされてたの」 「え?」 一真の顔が変わた。 彼女の赤く腫れた手のひらに視線が落ちた瞬間、彼の瞳が収縮した。 「手も......どうして?」 「打たれたの」 梨花の声は淡々としていて、まるで他人のことを話しているかのようだった。 彼は眉を寄せた。 「どうして、そんなに長く......それに叩かれるなんて......」 最後まで言葉にするのが怖かった。 梨花は黒川家の娘ではなかったのか。 一体なぜ、一度戻っただけでここまでの仕打ちを...... 梨花はふと顔を上げ、じっと彼を見つめた。 頭の中にかつて彼と結婚する未来を夢見ていた日々が浮かんだ。 本気で彼と一生添い遂げたいと思っていたのに。 言葉が詰まり、しばらく黙っていたが、やがて、押し殺した苦さを呑み込み、笑顔で答えた。 「だって、一真が一緒に帰ってくれなかったから」 彼の喉が軽く鳴った。 「笑ってるけど......痛くなかったのか?」 「痛かったよ」 梨花は素直に頷いた。 「でも、もう慣れてるの」 「慣れてる?」 「うん」 手のひらを軽く握りしめながら、まるで他人ごとのように言った。 「一真が付き添わずに帰る時は、決まってこうなるから」 実際には、それだけじゃない。 小さい頃から、お祖母様が気に入らないことがあれば、罰は避けられなかった。 敷き詰められた石の上で跪く場所は、彼女専用の場所だった。 六歳で黒川家に引き取られた頃には、すでに完璧に跪くことを覚えていた。 膝、下腿、足の甲が一直線になるように、石にぴったりと沿わせる。 一真は膝をつき、彼女のロングスカートをそっとめくた。 膝は大きく腫れ上がり、広い範囲に青あざができていた。 ふくらはぎの肌も綺麗なところは一つもなく、あちこちに青い痣が広がっていた。 その白く繊細な肌との対比で、いっそう目を引く痛ましさだった。 先日の桃子のほんのり赤くなった膝など比べ物にならない。 一真の胸に、燃えさかるような怒りが込み上げた。 彼は梨花を抱き上げファへ運んだ。 「なんで僕に電話しなかったんだ?」 鈴木家と黒川家は、以前こそ互角だったが、竜也が跡を継いでからは、急激な改革で差がつき始めていた。 だが、彼の妻がこんなふうに踏みにじられるほど、弱い立場ではない。 梨花は澄んだ瞳で、無垢な口調で問い返した。 「だって、急用があるって言ってたじゃない?きっと、大事なことなんだろうと思って、邪魔しちゃ悪いかなって」 「......」 一真は言葉を失った。 もし、桃子のお見合いを止めに行った代償がこれだったとしたら、自分はそれでも行っただろうか。 そんな問いが頭をかすめた瞬間、見上げてくる彼女の大人しい顔が目に映った。 胸が詰まるような感覚に襲われながら、彼は救急箱を取り出して、手当てを始めた。 「今までも打たれてたのか?なんで一度も言わなかったんだ?」 梨花は黙っていた。 ずっと鈴木家の奥さんとしてちゃんと振る舞いたかった。 一真のことも本気で信じていた。彼が「いい夫」でいてくれると。 外から見れば、黒川家は彼女の実家同然。そんな家で自分の夫の悪口を言えるわけがない。 だって、彼は自分をそこまで愛していなかったから。 いや、愛されていなかった。 ようやく、先日知っただけだ。 けれど、幸いだったのは、彼の愛に頼って生きてきたわけではないということ。 梨花は手を膝の上に置きながら、指先を軽くつまむ。 「あなたを黒川家との間で困らせたくなかったの。鈴木家にとって黒川家との関係は大事でしょ?」 彼女は本心を語れなかった。 けれど、嘘をつくなら、本気でつかなければ。 一真は、その言葉を聞いて、喉が詰まるような罪悪感に襲われた。 彼女の「思いやり」は、自分が彼女を傷つけるための材料にされるべきじゃなかった。 深く息を吸い込み、彼は彼女の髪を撫でて、優しく語りかける。 「ごめん。僕が悪かった。結婚記念日だって一緒に過ごせなかったしな。梨花、欲しいものは?何でも買ってやる」 「うん......」 梨花は一瞬考えて、微笑む。 「じゃあ、私からの誕生日プレゼントを、ちゃんと喜んでくれたら嬉しいな」 「それだけ?」 「うん、それだけ」 二十歳の誕生日の梨花は、「一真と結婚したい」と願った。 二十四歳の今の願いは、「一真ときっぱり離れること」 彼の真摯なまなざしと目が合ったとき、一瞬、心が痛い気がした。 だが次の瞬間、彼のスマホが鳴った。 いつもと違う、専用着信音。 ちらりと画面を見て、梨花は名前を確認した。 「桃子」 一真が電話に出た。 「そんなにひどいのか?どうして運転手を呼ばなかったんだ。足を捻った?すぐ場所を送って、今直ぐに行く!」 電話を切ると、彼はすぐ立ち上がった。 だが、まだ梨花の薬は塗りかけたまま。 綿棒に薬がついたまま、彼は少し戸惑った様子で手を止めた。 梨花は黙ってその綿棒を受け取り、柔らかく微笑んだ。 「私がやるから平気。急ぎの用なら、早く行ってあげて」 「うん」 一真は少し安心したような表情を浮かべ、思わず説明を加えた。 「桃子が怪我したみたいで。子ども連れて一人だったし、ちょっと見てくる」 そう言い残し、彼は家を出て行った。 背中を見送る中、梨花はふとした疑問を口にした。 「一真......どうして一度も、彼女のことお姉さんって呼んだことないの?」 第8話 一真の心がドキッと跳ね、足が思わず止まった。 一真は彼女の澄んだ瞳と目が合い、無意識に名前を呼んだ。 「......梨花」 梨花はふっと微笑み、淡く軽やかな声で言った。 「もう、大丈夫だよ。そんなに緊張しなくても。桃子と昔から知り合いなのは分かってるし、名前呼びに慣れてるのも仕方ないでしょ?」 黒いマイバッハが屋敷を出ていくのを見届けると、梨花はゆっくりとソファに身を沈めた。 まさか自分があんなに衝動的になるとは思わなかった。 ずっと、お利口で優しい妻を演じることに慣れていたのに。 ただ一真の罪悪感を利用して、スムーズに離婚すればよかっただけなのに。 どうしてあんな余計な一言を口にしてしまったんだろう。 彼女は天井を仰ぎ、乾ききった目を細めた。 その時、綾香から電話がかかってきた。 「梨花、今夜飲みに行かない?」 「うん、いいよ」 梨花は即答したが、少し間を置いて付け加えた。 「でも少し遅くなるかも。今夜はヘルスケアのライブ配信があって、終わるのが十時頃になりそうなの」 それは漢方館の仕事だった。本来は彼女の担当ではない。 でも、以前担当していた同僚が急遽お願いしてきて、代わりに出ることになった。 梨花は最初、黒川家と鈴木家のことを考えて断っていたが、同僚に美肌フィルターを教わってしまえば話は別だった。 加工された自分を見て、実の母親ですら気づかないかもしれない。 顔立ちが整っていて、話し方も優しい彼女の配信は予想以上に評判がよかった。 それ以来、定期的に配信を頼まれるようになった。 「わかった。仕事終わったら車出すね、ちょうどいい時間になりそう」 「うん、よろしく」 綾香と簡単に会話を終えたあと、梨花の気分もいくらか晴れた。 彼女は部屋に戻り、今夜の配信用資料を再確認する。 一真との結婚で得た最大の自由。 それは、彼が彼女のことに無関心だったということ。 黒川家は彼女が目立ちすぎるのを警戒していたが、鈴木家の存在もあって今は以前のように彼女を監視できなくなった。 そのおかげで梨花は自分の医術を磨きつつ、定期的に漢方館で診療も続けていた。 三年の積み重ねで、貯金もかなりの額になっていた。 夜10時、配信がきっちり終わると同時に、綾香もタイミングよく車を停めた。 車に乗り込んだ梨花に、綾香が眉を上げた。 「その顔......うまくいったみたいね?」 「うん、悪くない。今日はお祝いしないとね」 二人はバーに到着したころには、ちょうど一番賑わう時間帯だった。 だが、綾香はオーナーと顔見知りだったため、事前に席を用意してもらっていた。 綾香がトイレに立っている間に、梨花はすでにグラスを手にしていた。 「一真って、梨花がお酒飲めるの知ってたっけ?」 「知ってるわけないじゃん」 梨花は首をかしげ、口元に柔らかな笑みを浮かべ、顔に小さなえくぼが浮かんだ。 「私もね、前は知らなかった......あの人の好きな人が、桃子だったなんて」 「キース!」 「キース!キース!キース!」 「ほらほらお姉さん、早く!」 「......」 騒がしい歓声が舞台から響いてきて、梨花の言葉が中断された。 振り向いた瞬間、彼女の表情が凍った。 綾香もその視線を追って、顔色を曇らせた。 「あれ、一真じゃない?」 ダンスフロアの中央、揺れるライトに照らされた彼の顔。 その腕の中には、赤いドレスを着た美しい女、桃子がいた。 いつもは冷静沈着な彼の目に、今はただただ優しさが滲んでいた。 綾香が桃子の顔を認識した瞬間、目を剥いた。 「彼の好きな人って、桃子だったのかよ......」 「うん、驚くでしょ」 梨花はグラスの酒を一気に飲み干し、かすれた声で続けた。 「私も、前は思ってもみなかった」 その瞬間、桃子がつま先立ちになってキスをした。 一真は反射的に彼女の腰を抱き寄せた。 まるで、絵に描いたような美男美女のカップル。 「おおー!」 「お姉さんやるねぇ!」 「一真、今夜は帰れないかもな!」 「......」 梨花を「お姉ちゃん」と呼んでちゃかしていたあの連中が、今は大はしゃぎしていた。 綾香が突然立ち上がると、梨花が慌てて彼女の腕を掴んだ。 「待って」 「バカじゃないの、私が直接行くわけないでしょ」 綾香はスマホを取り出し、連写モードでシャッターを切った。 「でもさ、こんなとこに長居する気はないわ。他のところに行こうか」 梨花は典型的な酒弱いのに飲みたがるタイプだった。 次の日の午後、彼女はようやく目を覚ました。 頭がズキズキし、目は少し腫れていた。 そんな状態で見たスマホの入金通知。 1億2000万円。 送金元は桃子だった。 記憶が少しずつ戻ってくる。 まさか本当に振り込まれていたとは。 桃子が鈴木おばあさんに相当恐れているのがよくわかった。 とはいえ、昨夜あのふたりは一緒だった。 この金も十中八九、一真のものだろう。 婚姻中の財産。 つまり、半分は梨花のものだ。 彼女はスマホを握ったまま、階下へ降りた。 恵ははちみつ入りの水を作りながら、気遣うように声をかけてきた。 「奥さん、何か召し上がりますか?薬やツバメの巣スープ、あるいは鶏ガラスープのラーメンなど、胃に優しいものを少しでも口にされた方が……」 一年中、季節に合わせて、梨花は一真と自分の体質を考慮した薬レシピを恵に渡していた。 「ツバメの巣スープにして」 胃がまだムカムカしていて、何も食べたくなかった。 家の中を見回しながら、彼女は他人事のように口を開いた。 「一真と桃子は昨夜帰ってきてないの?」 「そうみたいですね」 恵は深く考えず、台所へ向かった。 甘党の梨花のために、砂糖を多めに入れて。 啓介は走ってきて、腰に手を当てて彼女に鬼のような顔を向けた。 「昨夜、おじさんはママと一緒だったんだぞ!すぐにお前なんかおばさんじゃなくなる!悪い女はおじさんにふさわしくないんだ!」 ぷくぷくの指で彼女を指差した。 「ふうん......」 梨花は考えるようにうなずき、ふわりとその手を払いのけた。 「じゃあさ、君の母がおじさんと結婚したら、君は何になるか、知ってる?」 「な、何?」 「お荷物」 梨花は優しく啓介の顔に触れ、穏やかな声で言った。 「教えてあげるね。お荷物っていうのは、邪魔な存在のこと。もうすぐ、君のママとおじさんの間に弟か妹ができると思う。そのときは、もう誰も君を好きじゃなくなるよ」 「うわあああああ!」 啓介は泣き出し、大粒の涙をボロボロと落としながらタブレットを取り出して桃子にビデオ通話をかけた。 繋がらない。 彼は泣きながらも何度もかけ続け、梨花を睨んだ。 「う、うそだ!ママとおじさんは絶対赤ちゃんなんか!」 まるで自分の存在を証明するかのように。 連続でかけるが、誰も出ない。 「ね、ほら。言ったとおりでしょ。もう、君のことは誰も愛してないの」 しかも、梨花は嘘なんか言っていない。 昨夜の様子では、桃子のお腹に弟か妹ができていてもおかしくない。 「うああああ......」 啓介は涙を手で乱暴に拭きながらも、泣き声を止めることができなかった。 梨花ははちみつ入りの水を手に、ダイニングテーブルへ向かった。 スマホを開くと、綾香からのメッセージが届いていた。 エンタメニュースのリンクが貼られていた。 その時ちょうど、恵がツバメの巣スープを運んできて、泣き声に驚いて尋ねた。 「啓介くん、何があったの?」 梨花はスマホの画面を恵に向けた。 「きっと、ママが愛人になったってニュースを見て、ショックを受けたんでしょうね」 恵は記事の写真と見出しを見て、目を丸くした。 鈴木グループ社長の一真は深夜のバーで美女と熱烈キス!