月明かりはあなたの瞳に沈んでいく

Đang tải thông tin quảng bá...

月明かりはあなたの瞳に沈んでいく

GoodNovel Hoàn thành

10年前、私は成瀬風馬を救うために失明した。 10年後、彼は愛人と私を同じ別荘に住まわせ、夜の前半は私を寝かしつけ、後半は愛人と密会してい...

Chương (1)

第1章

10年前、私は成瀬風馬を救うために失明した。 10年後、彼は愛人と私を同じ別荘に住まわせ、夜の前半は私を寝かしつけ、後半は愛人と密会していた。私の息子まで、こっそり彼女を「ママ」と呼んでいた。 彼らは知らない。私の目はもう見えていること、そして、ここから消えようと画策していることを。 第1話 「友里、交通事故を仕組んでくれない?死者は私でいい」 花岡凛音(はなおか りおん)は親友に電話をかけ、かすれた声でそう切り出した。 電話の向こうから、高橋友里(たかはし ゆり)の心配そうな声が聞こえた。「どうしたの?まさか風馬に何かされたの?」 凛音は顔を上げた。成瀬風馬(なるせ ふうま)の浮気を知ったあの瞬間、涙はもうすべて乾ききっていた。10年ぶりに感じる陽光を見つめながら、彼女は呟いた。「もう、ここから消えたいの。頼れるのは、あなただけなんだ」 友里は即答した。「半月後、うちの兄がちょうど隣町で契約の話があるの。そのとき、一緒に連れて行かせる」 「うん」 ちょうどそのとき、背後の寝室のドアが開いた。凛音は慌てて通話を切った。 背後から、広い腕が彼女を抱きしめてきた。 「ごめん、急に会社でトラブルがあって、次は必ず一緒に病院に行くから。 それより、今日の診断結果は?佐藤先生、なんて言ってた?」 風馬の言葉に、凛音の思考は朝の記憶へと引き戻される。 十年前、凛音は風馬を助けるために事故に遭い、その代償として視力を失った。 風馬は彼女の目を治すために、成瀬病院を立ち上げ、世界中の眼科専門医を高額で招き、数百億円もの資金を投じて視神経の再生治療に取り組んだ。 それから十年間、凛音は毎週欠かさず病院での治療を続けてきた。 521回、一度も奇跡は起こらなかった。 本当は、もう諦めたかった。けれど、風馬が何度も彼女の前で膝をつき、泣いて頼んだ。やがて、彼らには子供も生まれ、風馬の説得には子供のためにという理由が加わった。 「俺たちの子の顔、君もこの目で見たいって思わない?お願いだから」 彼女の息子も、毎年の誕生日に「ママの目が見えるように」と願ってくれた。 風馬への愛と、我が子の顔を一目見たいという執念それだけが、凛音を支えてきた。 でも、ようやく視力が戻ったその日、彼女は期待に胸を膨らませて風馬の会社を訪ねた。そこで目にしたのは、見知らぬ女をデスクに押し倒し、欲望にまみれて絡み合う風馬の姿だった。 男の荒い息遣いと女のあえぎ声が、冷たい氷水のように彼女の全身を打ち付けた。 これが、風馬がどうしても参加しなければならない緊急会議だったのか。 ドアのそばから机にかけて乱雑に散らばる衣類、床に落ちた書類、それらすべてが、ふたりがどれだけ我慢できなかったのかを物語っていた。 デスクで絡み合うふたりの姿は、凛音の目を鋭く刺した。いっそ、見えるようになんてならなければよかった。 心臓が潰れそうなほど痛み、息もままならなくなった。凛音はその場から逃げ出した。 まさか、その女を家まで連れてくるとは思わなかった。 しかも、家政婦たちは何事もなかったかのように仕事を続けていた。 つまり初めてじゃなかったのだ。 最も衝撃的だったのは、身ごもって産んだ息子が、その女にニコニコと手を振っていたこと。しかも、声を出さずに。 彼女の愛する息子が、あの女の存在を知っていたなんて。 みんな知っていた。彼女ひとりだけが、騙されていた。 今日だけで、どれだけの真実に気づいたのだろう。凛音は風馬の腕を忌々しげに振りほどいた。 振り返ると、風馬のシャツの襟元には無数のキスマークと引っ掻き傷が残っていた。 彼女の目が見えなかったあの年月、信じていた温もりも、頼っていた肩も全部が、汚れていた。 凛音はゆっくりと首を振った。「何も、変わってないわ」 もう決めたのだ。彼の前で目が見えることを明かすつもりはない。 このまま、彼と成瀬大地(なるせ だいち)の世界から消える。 親子そろって、いらない。 第2話 風馬はため息をついた。それが落胆なのか、それとも安堵なのか、自分でも分からないようだった。 「大丈夫、君がこの先ずっと見えなくても、俺はずっと君を愛してるよ。明日また病院の眼科に20億円投資するよ。研究、もっと早く進めてもらうから。 でも、今はご飯の時間だ。ちゃんと食べないとな。行こう」 そう言って、風馬は凛音を抱き上げた。 かつては甘く幸せだったその仕草も、今の凛音にはただただ気持ち悪いだけだった。体がこわばり、力が入る。 ダイニングに着いた。 「ママの隣がいい」 大地がはしゃいだ声を上げた。だがその手は、まだ椅子の上に立ったまま、あの女の口元をナプキンで拭っていた。 しかも、食卓では大地とその女が向かい合って座っている。彼らが凛音にあの女と同じ側に座れと言うはずもなかった。 すべては出来レースだ。彼らは決められた配役を、凛音の目の前で演じているだけ。 あの女はバスローブ姿で風馬の隣に座り、まるでこの家の女主人のような顔をしていた。 風馬は凛音のためにステーキを切り、エビの殻を剥き、大地は凛音のために水を注ぐ。 すべてがかつてと同じ日常のように見えた。ただ違っていたのは、今の凛音には、その女の目に宿る嫉妬がはっきり見えたこと。 凛音は口に運んだ食事が砂のように味気なく感じた。風馬が自分のためにエビの殻を剥くその手は、今朝、他の女の体を撫でていた。 吐き気がこみ上げる。 凛音が席を立とうとした瞬間、その女は堂々と風馬の手をバスローブの中に引き入れた。 風馬は一瞬抵抗しようとしたが、彼女の手に押さえつけられ、そのまま彼女の動きに合わせて手を動かされた。 ついには、その女の手が離れても、風馬の手は動こうとしなかった。 猛烈な嫌悪感が凛音を襲った。もう抑えきれないテーブルに手をつき、彼女は激しく嘔吐した。 大地が急いでティッシュを取りに走り、風馬が背中をさすろうと手を伸ばしてきた。 だが、その手が今まで何をしていたかを思い出すと、凛音はぱっと手を払いのけ、冷たい声で一言放った。「汚い」 風馬は意味が分からない様子で、傷ついたように眉をひそめた。「俺、エビ剥いてた手だぞ?本当に大丈夫か?病院に連れていく」 凛音は彼を押しのけるようにして立ち上がった。「平気」 彼女は寝室に戻り、シャワーを浴びた。湯気が立ち上り、鏡の中にぼんやりと自分の顔が浮かび上がる。 そのとき、今日オフィスの外で聞いたあの言葉が頭に蘇る。 「成瀬さん、奥さんの目を見るたびに、全然その気にならない?だから私に夢中になるよね」 「黙れ。お前は所詮、遊びだ。自分の立場をわきまえろ」 否定は、なかった。 凛音は鏡に手を伸ばし、曇りをぬぐった。ハッキリとした自分の顔が浮かぶ。 あの頃、目が見えなかった自分はどんな姿だったのか? それほどまでに風馬にとって、見るに堪えない存在だったのか。幼馴染の絆も、命をかけて救った過去も、長年連れ添った夫婦の想い出も全部捨てて、他の女に走るほどに? 新婚の夜、彼は何度も何度も彼女の目にキスをして、涙が彼女の頬に落ちたのが、ちゃんと感じられた。 「凛音、やっと君は俺のものだ。愛してる。愛してくれてありがとう。ずっと大切にする。もしこの誓いを破ったら、天罰が下っても構わない」 風馬は、確かに彼女を大切にしていた。 家には30人の家政婦が雇われ、それぞれに感知センサーがあり、彼女がリモコンを押せば、誰かがすぐに駆けつけてきた。 目が見えなくても、他の奥様方が持つスキンケアから高級ジュエリーまで、風馬は常により高級なものを買い与えた。 家にいて退屈しないようにと、点字編集部まで作り、書籍や雑誌はすべて点字で届けられた。 風馬は、本当に彼女を愛していなかったのだろうか? 凛音の中に、ひとつの答えが生まれた。違う、彼は心をふたつに分けてしまったのだ。 第3話 浴室から出ると、風馬がソファに座って彼女を待っていた。 彼はすぐに凛音を抱き上げ、布団の中へ押し込むようにして強く抱きしめた。 「凛音、今日どうした?病院で何かあった?何でも俺に話して。俺が君の支えになるよ」 彼女は、風馬が佐藤(さとう)先生に電話でもしたら厄介だと考え、適当に誤魔化した。「大丈夫。多分、ちょっと寝不足なだけ」 ちょうどそのとき、風馬のスマホが鳴った。 風馬は凛音に隠すこともなく、画面を開いた。「夕子ちゃん」と登録された人物から、写真が送られてきた。猫コスチュームを着た女がベッドに跪き、上目遣いでカメラを見つめる。 【寝室でご主人様をお待ちしてます】 風馬は呼吸を止めたまま、思わず口元を緩めて返信した。【凛音を寝かしつけたら行くよ】 【今すぐがいいな。彼女は見えないから、一人じゃ階段降りられない。私、会いたくてたまらないの】 風馬はスマホの画面を消し、凛音の額にキスを落とした。「会社で急ぎの用事が入った。書斎に行ってくるから、先に寝てて。待たなくていいよ」 そう言い残して、そそくさと部屋を出て行った。 ベッドに取り残された凛音は、真っ白な天井をじっと見つめていた。 きっと風馬の心の奥底では、彼女の目はもう治らないと、どこかで諦めているのだろう。ここまで好き放題に振る舞い、何の遠慮もない。 凛音は静かにベッドを出て、階段を降りる。一階には誰もおらず、右手の寝室から、男女の戯れ合う声が漏れていた。 「夕子(ゆうこ)、誰の許しを得てこんなことを?凛音がまだ寝てないのに、よくも俺を誘ったな」 「ちゃんと来たじゃない」 ドアはわずかに開いていた。凛音はその隙間から、ベッドの上で絡み合うふたりを見た。部屋全体がおしゃれでピンク色に装飾されており、少なくとも1年以上前から使われているようだった。 つまり、彼女が信じていた幸せな三人家族には、とうの昔に愛人の存在がいたのだ。 風馬は、正妻と愛人を同じ屋敷に住まわせていた。前半夜は凛音と過ごし、夜更けには階下の自分の部屋へ戻り、夕子と抱き合う。 なんと刺激的なことだろう。 凛音は口を押さえ、心の悲鳴が漏れないようにした。しかし、振り返ると、夜勤の家政婦と鉢合わせた。 「奥様?なんでここに?」 寝室のドアが開き、風馬が、乱れた服装のまま飛び出してきた。 その後ろからは夕子が彼に腕を絡ませ、腰に手を回して、まだその手はあちこちを這っていた。 風馬は夕子を部屋に押し戻すと、凛音に駆け寄った。「凛音、何か、聞こえた?」 凛音は拳を握り締め、手のひらに爪が食い込む痛みで、風馬を平手打ちにする衝動を抑えた。 「ううん、喉が渇いてただけ。水を飲みにきただけよ」 風馬は安堵の表情を浮かべた。「おバカさん、ベッドの横に水置いておいたのに、わざわざ降りてくるなんて危ないよ」 彼は凛音を抱きかかえ、再び寝室へと連れ戻した。 しばらくして、風馬が小さな声で呼びかけた。「凛音?」 彼女は返事をしなかった。風馬は、もう眠ったのだと勘違いした。 そのとき寝室のドアが再び開かれる。 風馬の声が、低く鋭く、耳元に届く。 「誰が上がってきていいと言った。下に戻れ!」 続いたのは夕子の甘い声。「さっき中断されちゃったから、自分でご主人様を探しにきちゃった」 服が擦れる音、そして風馬の声が低く押し殺された。「下に戻れ」 「嫌よ。ここでいいじゃない。どうせ彼女は何も見えない。それにこういうの、興奮するでしょ?」 答えたのは、男の荒い息遣いだった。 暗闇の中、ふたりの影が凛音のすぐ横のソファに倒れ込んだ。 涙が静かに頬を伝い落ちる。彼女は唇を噛み締め、泣き声を押し殺した。 誰も知らない夜の中で、凛音はすべてを見た。 布団を被る前、視界に映ったのは、ベッドサイドに置かれた冷たくなった水のコップだった。 水が冷めたように、彼女の心も凍りついていた。 「風馬、あなたに地獄を見せてやる」 冷たく、静かに、凛音は心の奥で誓った。 第4話 それからの数日間は、凛音が真実を知った日と、何もかもが同じだった。 三人で外出して、帰ってきたら、彼女に隠れて、静かに家族ごっこを演じる。 夜になると、風馬は決まって階下に降りて夕子と体を重ね、明け方には何事もなかったかのように彼女の元へ戻ってくる。 凛音は黙って、その茶番を見守った。それからは、必要がない限り、二階の寝室から出なくなった。 そして、また診療の日がやってきた。 朝、目覚めると風馬はいつものようにキスをくれ、凛音を支えながら階下へ降りて朝食を取った。 その時だった。いつもルールを守り、絶対に口を挟まない夕子が、突然、えずき始めた。 風馬と大地の顔色が変わった。風馬はとっさに夕子の口元を覆おうとし、大地は心配そうに彼女を見つめながら、口パクで訊いた。「夕子おばさん、どうしたの?」 凛音は、慌てふためく父子の姿を見ながら、あえて問いかける。「どうしたの?」 「家政婦が、急に吐いちゃって」 風馬はとっさにそう答えた。そして信ぴょう性を持たせるために、空中に向かって家政婦を罵り始めた。 そのとき凛音は見た。風馬が家政婦と呼んだ瞬間、夕子の目に嫉妬と悔しさがよぎったのを。 朝食は慌ただしく終わり、三人は夕子の部屋へ入っていった。 中で何を話していたのかはわからない。だが、突然、大地が小さく「やったー」と叫び声をあげ、すぐに静かになった。誰かに聞かれたくないというように。 しばらくして三人が出てきた。 大地は真っ先に凛音の頬にキスした。「ママ、幼稚園に行ってくるね」 風馬も彼女の前でしゃがみ込んだ。「今日も会社に行く。凛音と離れるのが寂しいよ」 もし凛音が本当に見えていなければ、彼の声音だけで信じてしまったかもしれない。優しく口元にキスを落とし、「子どもみたいな人ね」と笑ったかもしれない。 「今日は診察日よ。前に次は必ず一緒に行くって、約束したわよね?」 風馬の表情を見れば、彼が完全にその約束を忘れているのがわかった。 日付も。 そして約束も。 「あっ、思い出した。今日は幼稚園で保護者会があるんだった」 大地もすぐに額を叩き、「パパが行かなきゃダメなんだよね」と続ける。 「そうだそうだ、すっかり忘れてたよ」 見事な演技を披露する父子を見て、凛音は微笑んだ。「いいわよ。行ってらっしゃい」 ふたりが出かけてすぐ、凛音は「一人で静かに過ごしたい」と言って、全ての家政婦たちを別棟に追いやった。 凛音はタクシーで風馬たちの車を追いかけ、ふたりが夕子を連れて産婦人科に入るのを目撃した。 彼が診察についてこなかった理由は、夕子が妊娠したかもしれないから。当然のように、自分よりも夕子が優先された。 しかも彼らは、あえて成瀬病院を避けて、遠慮なく喜びを分かち合っていた。 「やったー!夕子おばさんが、僕に妹をくれるんだって」 風馬は夕子を慎重に支えて、まるで宝物を扱うかのようにそのお腹を優しく撫でた。顔には隠しきれない喜びが浮かんでいた。 「夕子、君は最高だ」 その言葉を聞いた瞬間、凛音は涙を堪えようとした。でも、堪えきれなかった。 あの日、彼女が妊娠を告げた時、風馬は同じように、激しく彼女を抱き締め、そっと離れ、こう言ったのだ。「凛音、君は最高だ」 彼女の人生に残った数少ない未練は自分の結婚式をこの目で見ることができなかったこと。そして、自分が妊娠したとき、風馬が初めて父になるその瞬間を見届けられなかったこと。 今、見た。 その後、風馬は夕子と大地を連れてオークションへ行った。彼らが夕子のために惜しげもなく金を使っているその頃、凛音は、病院の霊安室にいた。 友里が彼女に告げた。入れ替わり用の遺体は、もう手配済みだ。 誰かが、その遺体を彼女そっくりに整形していた。 だが、本当は整形なんて必要なかった。凛音があの父子に残すのは、ただの肉塊でいい。それは一生、逃れられない悪夢になる。 第5話 風馬は凛音が、生気を失っていることに気づいた。 以前の彼女は、目が見えないにも関わらず、庭でコーヒーを飲むのが日課だった。「自然を感じたいの」と言ってた。大地と一緒に積み木で遊んだり、テレビのニュースに耳を傾けたり、時には家政婦の手を借りて、彼らのために料理までしてくれた。 そんな彼女は明るく、自由だった。 けれど今の彼女は、食事以外はずっと二階の寝室に閉じこもり、窓の前に座って、ただ空を見つめているだけ。まるで、もうすぐ枯れてしまう花のように、色も香りも、何一つ残っていない。 風馬は突然変わった彼女の様子に、胸中で慌てふためいた。 「凛音最近、なんだか変だよ。もしかして、この前も診療に付き添えなかったから、怒ってるのか? 次は絶対、一緒に行くから。約束するよ。 だから、無視しないでお願いだよ」 最後の言葉には、かすかに涙がにじんでいた。 そんなに彼女を失うのが怖いなら、なぜ他の女をそばに置く?なぜ、あの女と同じ家で、しかも堂々と暮らしている? ついさっきまで夕子の部屋にいたくせに。 唇の端には、まだ口紅の痕が残っている。 彼女の目が見えないからって、好き放題にしていいと思ってるの? その目は、誰のために失ったと思ってるの? 凛音は手を上げた。風馬はいつものように、彼女の手を自分の頬に導いた。 指先で、彼の顔をなぞる。愛したあの少年の面影は、確かにそこに残っていた。少しだけ、大人びて、落ち着いた顔立ちになった。 でも心は、もう変わってしまった。 もう、あのとき命を懸けてでも守ろうとした人じゃない。 その時外から、ドン、ドン、ドンと音がした。空には花火が打ち上がり、川面を色に染めていた。 遠くから、聞こえてきた。芝生の上で、大地が夕子の耳元に叫ぶ。「見て、見て!これはパパが夕子おばさんのために用意したんだよ!妹が生まれるお祝いだって」 凛音は、かすかに笑みを浮かべながらつぶやいた。「外で花火が上がってるの?久しぶりに、見たかったな」 風馬は優しく微笑みながら言った。「君の目が治ったら、三日三晩、花火を上げ続けるよ。思う存分見られるように、ね? 凛音、君は絶対、自分を諦めないで。俺も、大地も、ずっと君のそばにいるから」 彼は彼女を抱きしめ、優しく囁いた。 風馬は凛音が診療の結果が悪かったから落ち込んでると思ってる。 でも、風馬、本当に一度でも一緒に病院へ行ってくれていたら、真実に気づけたはず。でも来なかった。 だから、もう終わるべきなの。 そう思った凛音は、そっと彼の腕を解いた。「いいわ、そんな無駄なことしないで」 風馬は彼女の鼻を指でつついて笑った。「無駄なんかじゃないよ。俺、前にも言っただろ?他の人にあるものは、君にも全部あるべきだって。俺は、世界中に言いたい。俺は凛音を愛してる、凛音がいなきゃダメなんだって」 凛音は、黙っていた。 だって彼女にはわかっていたから。この「愛してる」と言う男が、夜になるとこっそり階下へ降り、他の女と抱き合っているということを。 凛音の気分が晴れないのを感じたのか、風馬と大地は「気分転換に」と、彼女をパーティーへ連れて行こうと提案した。 彼女は断ろうとしたが、その前にもう運転手に車を出すよう指示され、風馬は彼女のためにドレスを選び始めていた。 大地も宝石箱を開けて、「ママにはこれが似合うよ」と無邪気に言った。 風馬は笑った。「お前が言うまでもないよ。凛音は何つけたって綺麗なんだから」 彼らは彼女を丁寧に着飾らせ、手を取って階段を降り、車に乗せた。 車中では大地が幼稚園での出来事を話し続けて、凛音を笑わせようとしていた。 しばらくして、車はある豪邸の前で停まった。 その時、凛音はふと疑問に思った。夕子は来ていないのかしら?だが、すぐにその疑問は打ち砕かれる。煌びやかなドレスをまとい、ふっくらとしたお腹を見せながら、まるで主役のように中央に立っていたのは他でもない、夕子だった。 第6話 そのとき、凛音はやっと気づいた。今日、風馬と大地が彼女を連れて来たのは夕子の誕生日パーティーだった。 しかも、風馬の両親も友人も、全員そこにいた。 記憶にある顔が、ひとつ残らず夕子の周りに集まり、笑い合い、祝っている。これが、風馬の言っていた「君を元気づけたい」なのか? 彼女は父子にスピーカーの近くへ案内され、水とケーキを渡された。 「凛音、ちょっとここで座ってて。大地と挨拶してくる」 そのまま、風馬は夕子の前に片膝をつき、彼女の膨らんだお腹にキスを落とした。 大地も跳ねるように彼女に向かって叫んでいた。「ママ!」 風馬の友人たちは、興奮して言った。「義姉さん」 そして、風馬は凛音の方をちらりと見てから、人差し指を口元に当て、彼らに合図を送った。 「静かにしろよ。凛音に聞かれたらどうする」 かつて、彼女が風馬を助けて怪我をしたとき、一週間寝ずに看病してくれた風馬の母親は、今やこう言った。「何をそんなに恐れてるの?聞かれたって関係ないでしょ。あの女は目が見えないんだから、あんたなしでどこに行けるっていうのよ。夕子のお腹にはうちの孫がいるんだから」 友人たちも笑いながら続けた。「そうそう、俺たちみたいな身分なら、女が何人いるのは当たり前。お前は一人だけだし、凛音に誠意見せてるだろ」 風馬は顔をしかめ、真剣な表情で言った。「俺の妻、成瀬家の奥様は凛音だけだ。このことは絶対に外に漏らすな」 「わかった、わかった。俺たち、口は堅いから。だいたい、お前がずっと凛音さんを屋敷に閉じ込めてるから、俺たちも話す機会なんてないしな」 彼らは、彼女がスピーカーの近くに座っているから聞こえないと思っている。だが、盲目として生きた十年の中で、彼女の耳は常人以上に敏感になっていた。 凛音は黙って、そのやり取りを聞いていた。もうすぐだ。あと少しで、ここから抜け出せる。 まさか夕子が風馬と大地が目を離した隙に、直接自分に向かってくるとは、凛音は予想もしていなかった。「凛音、私が誰か分かる?今日の朝、風馬は私のベッドから出てきたばっかり。今、あなたはその風馬が心を込めて開いてくれた私の誕生日パーティーに参加してるのよ。義父母たちは私をお嫁さんって呼んでくれるし、あなたが産んだあの子も、さっき私のことママって呼んだ。 私たちはもうすぐ2年一緒にいるの。1年前には、もうあなたたちの別荘に引っ越してきたのよ。真下の寝室で毎日愛し合ってたの。あなたは目が見えないから、彼が私に夢中になる姿を見られないけどね。さっきだって、私のお腹を撫でながら感動の涙を流してたもの。 私もね、黙ってようと思ってたの。だってあなたより、私の方が成瀬家の奥様らしく振る舞ってきたんだもの。でも、妊娠しちゃったの。だから、この子のためにも、私の立場が必要になったの。 だから、潔く成瀬奥様の座を譲りなさい。そうすれば、風馬を救って盲目になった手柄があるから、外にアパートでも用意して、のんびり飼われていられるようにしてあげる」 凛音は勝ち誇ったような態度の夕子を一言も発せずに見つめていた。 夕子は凛音の平静さに戸惑った。「信じられないの?私……」 さらに言葉を続けようとしたが、慌ただしい足音が近づいてきた。風馬が夕子を睨みつけ、いつもの柔らかい声で取り繕うように言う。「凛音、何を話してたの?」 凛音はほのかに微笑んだ。「別に。夕子さんが、旦那様がとても優しいって自慢してただけよ。少し、うらやましいと思っただけ」 風馬の肩が、ほっと緩んだ。 凛音の目には嘲りの色が浮かんだ。風馬は彼女が些細なことも許さない性格だと知っている。もし夕子が何か言っていたら、とっくに詰問していたはずだ。 だが彼は忘れていた。それは十年前の凛音だ。人は変わるものなのだと。 風馬は彼女を抱きしめて言った。「他人を羨むことなんてないさ。俺は、君に全てをあげてるつもりだよ」 凛音は、返事をしなかった。 「帰りましょ。疲れたわ」 家に戻ると、風馬はシャワーを浴びに行った。 その間に、彼女のスマホが震えた。夕子からのボイスメッセージだ。 「風馬があなたをまだ愛してると思ってる?全部演技よ。彼はもう私に償うって約束してくれた」 凛音は、そのメッセージには目もくれなかった。代わりに、友里から届いたメッセージを繰り返し読んだ。 【全部準備完了。兄が予定どおり迎えに行く】 「スマホを触って何をしている。本が見つからなかったのか?」 そのとき、風馬の声が頭上から落ちてきた。凛音はとっさに画面を消し、手探りで机の上をなぞるふりをした。 風馬は本を渡す代わりに彼女を抱き締め、温かい息が首筋にかかった。「凛音……」 その瞬間、凛音の胃の奥から込み上げるものがあった。眉を寄せて、冷たく言い放った。「疲れたの。休ませて」 これは何? 夕子が妊娠してるから、そちらを傷つけたくないとでも? 夜半過ぎ。風馬はベッドを抜け出して階下へ向かった。 そして、下の部屋からは、わざとらしい女の声が響きはじめた。続いて、口を塞がれたような押し殺した呻き声が聞こえてきた。 第7話 翌朝、大地が甘えるように凛音の胸に飛び込んできた。 「ママ、幼稚園で研修旅行があるんだって。保護者の同伴が必要なんだけど、パパと一緒に行ってもいい?」 これが、夕子の言っていた補償なのだろうか。 凛音は腕の中の息子を見下ろした。彼は無邪気に話しかけながら、こっそり夕子に向かって変顔をしている。 話し終えると、大地は親しげに彼女の頬に顔を擦りつけてきた。 凛音は彼の顔を両手で優しくなぞる。この子が、自分の息子だ。口元こそ父親に似ているが、その他はすべて彼女にそっくりだった。 もし風馬の浮気が刺激を求めた結果だとしたらでは、大地はどうして? 彼女は何も見えなかった。だからこそ、産婦人科医の説明一つひとつに耳を澄まし、どんな顔をして生まれてくるのかを想像していた。 見えない分、妊娠中は誰よりも慎重にならざるを得なかった。万一の事故を避けるため、凛音は尊厳さえ捨て、トイレに行くときですら付き添いをつけていた。 あらゆることを我慢して、十ヶ月かけてようやく産んだ子が、自分の目の前で愛人を「ママ」と呼ぶなんて。 もし彼の顔が自分に似ていなければ、誰かと取り違えられたのではと疑っていただろう。 ようやく凛音の沈黙に気づいた大地が、彼女を見上げた。 「ママ?」 風馬も横から口を挟む。「自らの足で各地を旅行したほうがいい。幼稚園の行事で他の親子も参加するから、君が目が不自由じゃなかったら、一緒に行きたかったんだけど」 彼らは凛音が拒めない理由をうまく選んでいる。風馬はもう自信たっぷりに秘書にチケットの手配を指示している。 いわゆる「意見を聞く」など、単なる知らせに過ぎなかった。 凛音は旅行先を見た。それは、視力を失う前にずっと憧れていたヨーロッパの町だった。 「いいわ、行ってきて」 出発前、風馬は家中の家政婦たちを集め、凛音の世話について一つ一つ細かく指示した。 「寝る前に、必ず水を枕元に置いて。夜に喉が渇かないようにね。 毎日、庭を一緒に歩かせて。運動になるから。 ブルーベリーは必ず食べさせて。フォークを使わせると危ないから」 風馬はまるで百億円規模の契約を交わすかのように、30分もかけて細かく指示を出し続けた。 最後に彼は凛音に軽くキスをした。「俺と大地、行ってくる。何かあったらすぐ連絡して。すぐに戻るから。 研修が終わったら、すぐ目の治療に付き添うよ」 大地も手を握りしめてくる。「ママ、おみやげ買ってくるからね」 凛音は窓際に立ち、風馬が夕子を抱き、大地の手を引いているのを見つめた。それはまさに幸せな三人家族のようだった。 彼女は家政婦が向けてくる哀れみの視線を無視し、部屋へ戻る。 彼らは外でよほど楽しんでいるようだった。 以前なら、仕事中でも一日に十回は電話をしてきた風馬が、今回は一度も連絡をよこさない。 大地も、すっかり母親の存在など忘れてしまったのだろう。 代わりに、夕子からは一日たくさんのメッセージが来る。 【今日は教会で、神父の前で風馬とキスしたの。彼、愛してるって言ってくれた】 【あなたの息子、外ではずっと私をママって呼んでるの。ホテルのスタッフも、私たちが理想の家族だって言ってくれるわ】 【もう妊娠してるのに、風馬ったら我慢してくれないの。コンドームが切れて、また大量に買いに出かけたのよ】 どの言葉も、風馬がどれほど自分を愛しているかを誇示するものばかり。 だが、凛音の心は微動だにしなかった。 彼女は待っている。約束の日が来るのを。 もうすぐだ。 第8話 今日は病院での診察日、そして彼女が、この家を去ると決めた日でもあった。 凛音が身支度を整えて階段を下りると、ちょうど風馬が扉を開けて入ってくるところだった。背後には大地と夕子の姿も見える。 風馬が必ず診療に付き添うことはわかっていた。 このところの彼女の異変が、彼を不安にさせていたのだろう。 「凛音、俺たち帰ってきたぞ」 風馬は彼女を抱き上げてリビングでくるくる回ろうとしたが、凛音に押し返された。 彼女の顔には、彼らの帰宅を喜ぶような色は一切なかった。 風馬は不安げに声をかける。「凛音?」 「ママ」 大地が建築模型を彼女の手に押しつけてきた。「これ、お土産だ。触ってみて、気に入るかな?」 凛音はそれを無造作に脇へ置き、冷たい声で返す。「病院に行く時間だから。話は帰ってから」 風馬はすぐさま彼女を抱き寄せた。「俺も一緒に行くよ」 大地も足にしがみついてきた。「僕も行く!なんだか久しぶりにママと一緒にいられる気がする」 車に乗る直前、凛音は振り返って、別荘を最後に一瞥した。 風馬が心配そうに問う。「どうかした?」 彼女は首を振る。「ううん、なんでもないわ」 ただ、10年過ごした家を最後に目に焼きつけておきたかっただけ。 成瀬病院は市外の海辺近くにある。車は広い道を走り抜けていく。 大地が無邪気に笑う。「パパ、ママの診察に間に合うように、急いで帰ってきたんだよ」 凛音は窓の外に視線を向けたまま、ふと口を開く。 「幼稚園の研修旅行じゃなかったの?そんなに早く帰れるの?」 その一言で、大地はハッとし、口をつぐんだ。 風馬は彼女の手を握りながら言う。「そう、早めに切り上げたんだ。君との約束は必ず守るって決めてるから」 彼はかつて、永遠に愛すると言っていた。 裏切ることは絶対にないと、誓っていた。 あまりに多くの約束をして、きっと忘れてしまったのだろう。 凛音は何も返さなかった。 車内は重い沈黙に包まれた。 突然、風馬のスマホが鳴り響いた。 彼は見もせずに切った。 だが相手は諦めず、十数回もかけ続けてきた。 凛音が淡々と言う。「出なさいよ。会社の急ぎの用かもしれないわ」 風馬は窓を下げ、大きな騒音が車内に流れ込んだ。 電話の相手が何を言ったのか、彼の表情が一変し、運転手に怒鳴りつけた。「止めろ!今すぐ」 車が急ブレーキをかけた。 風馬は落ち着いた声に切り替え、凛音に向かって言った。「凛音、会社でトラブルが起きた。すぐ戻らなきゃ。ここで大地と一緒に少し待ってて。すぐに別のドライバーを手配するから」 そう言って、彼は扉を開けようとする。 大地は察しが早い。父親にとって、会社のことより母親が大事なはずがない。きっと、きっと、夕子おばさんに何かあったのだ。 彼は慌てて理由をつけた。「僕も行く。将来はパパの会社を継ぐんだもん。一緒にいれば勉強になる」 「じゃあ、ママはどうするの?」 風が凛音のスカートを揺らす。彼女が口を開いた。「いいのよ、二人とも行きなさい」 風馬はほんの数秒ためらっただけで、頷いた。 「ここで絶対動かずにいて。十分でドライバーが来るから」 彼は彼女の返事を待たず、すぐに車に乗り込んだ。 凛音が、そっと彼の背中に手を伸ばし、裾をつかむ。 「行かないでって言ったら?」 風馬は彼女の手をそっと振り払った。「凛音、会社のことは本当に大事なんだ。分かってくれ、いい子で待ってて」 そのまま扉を閉め、車はすぐに視界から消えた。 風馬が消えた方向から、トラックが近づいてきた。 凛音は一歩、後ずさる。運転手が車からある女性の遺体を降ろした。 車が遺体を轢き潰そうとした瞬間、大きな手が彼女の目を覆った。 凛音がその手を払いのけると、目の前にはボロボロになった遺体と、広がる血痕があった。 風馬と大地が、これを見たときの顔は、どんなだろう。 見えない妻を道路に置き去りにして、他の女のもとへ走った末に彼女は、事故で命を落とす。 今日が、彼らと過ごす最後の一日だ。 この先の人生で、彼らがこの光景を思い出すたび、胸が裂けるほど後悔すればいい。 「もう見なくていい。行こう」 その声に、凛音は頷いた。大きく一歩を踏み出す。 これから先、彼女と風馬の道が交わることは、もう二度とない。