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霧中の春は幻に
結婚七年目になって、松本琴音(まつもとことね)は初めて知った。夫に六歳の息子がいることを。 幼稚園の滑り台の陰に隠れ、彼女は黒澤光希(...
Chương (1)
第1章
結婚七年目になって、松本琴音(まつもとことね)は初めて知った。夫に六歳の息子がいることを。
幼稚園の滑り台の陰に隠れ、彼女は黒澤光希(くろさわみつき)が小さな男の子を抱き上げて遊んでいるのを見ていた。
「パパ、ずっと来てくれなかったよ。」
「いい子だね、アンくん。パパは仕事で忙しかったんだ。ママの言うことをちゃんと聞くんだよ。」
ゴォンッと頭の中で音がした。琴音はその場に立ちすくみ、頭の中が真っ白になった。
大人と子供、ふたりの姿。七分どおり似た面差し。
それらが一つ一つ、彼女に告げていた。口では「一生愛する」と誓ったあの男が、とっくに浮気していたんだと!
二人は幼い頃から一緒で、何年も愛し合ってきたのに。
彼女はかつて、彼をかばって腹を一刺しされ、流産しただけでなく、一生妊娠できなくなった。
あの時、光希は彼女のそばに膝まづき、真っ赤な目をして言った。「子供なんていらない。琴音一人で十分だ…!」
あの時の震える声が、今も耳元に残っているのに。今、目の前の光景が、あの誓いを粉々に砕け散らせた!
第1話
結婚して七年目で初めて、琴音(ことね)は自分の夫に六歳の息子がいることを知った。
彼女は幼稚園の滑り台の裏に身を隠し、光希(みつき)がかがんで小さな男の子を抱き上げて遊んでいる姿をじっと見ていた。
「パパ、もうずっと長い間会いに来てくれなかったんだもん」
夫は男の子の頭をやさしく撫で、「いい子だな、陽向。パパは仕事で忙しいんだ、ちゃんとママの言うことを聞くんだぞ」と言った。
「ゴーン」という轟音が響いたと同時に、琴音はその場で立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。
パパ? ママ?
その大人と子供の影はあまりにもよく似ている顔立ちで並んでいた。
どう見ても明らかだった。その「一生愛してる」と何度でも言ってくれた男は、とうの昔に自分を裏切っていたのだ。
二人は幼い頃から一緒に育ち、長い間愛し合ってきた。
琴音は彼を守るために刃物で刺され、子供を失い、生涯子供を産めなくなった。
あの時の光希は彼女の隣でひざまずき、真っ赤の目で言った。「子どもなんてもういらない、俺には琴音だけで十分だ!」
あの震える声はいまも耳に残っている。しかし、今目の前の光景は、その誓いを容赦なく粉々に打ち砕いたのだった。
琴音はよろよろと後ずさりした。心は鋭い刃で無数に切り刻まれるように痛み、血まみれになったようだった。
もうこれ以上見ていられなかった。自分が今にも光希に詰め寄ってしまいそうで、それよりもピエロのように泣いて、惨めな姿をさらして嫌われるのが何より怖かった。
彼女は背を向け、その場から逃げるように去っていった。
幼稚園の門の前では、親友の山本莉子(やまもと りこ)が車の中で待っていて、彼女の青ざめた顔に気づくと、あわてて車から降りてきた。「琴音、どうしたの?」
「颯はあなたが忘れ物したって取りに戻ったって言ってたけど、何があったの?」
颯(はやて)は莉子の息子で、今日は莉子に頼まれて琴音も一緒に保護者会に来ていた。
琴音の顔は真っ青で、目には涙が溜まっていた。「莉子、人調べを手伝って」
「誰を?」
「光希……」喉が詰まり、かすれた声で言った。「彼、子どもがいるの」
……
【琴音、俺はあと一週間帰れないけど、ちゃんと俺のこと考えてる?】
琴音は光希からのメッセージを見つめながら、涙が糸の切れた数珠のようにぽろぽろと落ちた。
光希は毎年七月になると二週間、出張だと言って海外の支社を見に行くと話していた。
この六年間、彼を一度も疑ったことがなかった。
しかし現実は、彼女に容赦ない一撃を与え、その愚かさをしきりに嘲笑っているかのようだった。
光希は出張ではなく、愛人と隠し子に会いに行っていたのだ。
もし今日の偶然がなければ、彼女はまだ騙され続けていただろう。
琴音は自虐的に手元の写真を何度も見返した。窓の外では激しい雨が降り、時おり稲妻が彼女の青白い顔を照らした。
この状況はもっと早く気付くべきだったのかもしれない。
黒澤家は昔から伝統を重んじる家だ。子供を産めない女が黒澤家の妻でいられるはずがない。
きっと、彼らはもうすべてを準備していたのだろう。
それなら、あれほど自分を愛してくれた光希は一体何を担っていたのだろう。
琴音の胸は、引き裂かれるような痛みに襲われた。光希と子どもの頃から共に過ごし、誰もが「一生添い遂げるだろう」と言っていたのに。
彼女が八歳で木から落ちたとき、光希は危険を顧みず、身を投げ出し腕を骨折した。それなのに、自分は平気だと笑っていた。
十二歳のとき、初潮でスカートを汚した彼女に、事情が分かっていながらも光希は泣きながら「琴音のために死ぬ」と叫んだ。
十八歳のとき、光希はこっそり危険なレースに出場し大怪我をしながらも指輪を勝ち取って彼女に告白した。
光希はこう言った。「琴音のことを一生愛する」
その少年の愛は純粋で熱烈で、琴音の心はとっくに奪われていた。
その後、結婚直前に彼女は光希の敵に誘拐され、三日間監禁された。発見されたとき、彼女は瀕死の状態だった。
光希は彼女を救うために肋骨を三本折られ、そのとき彼女は彼を守るために刺され、母親になれる希望を失った。
光希の母・黒澤結衣(くろさわ ゆい)はそれを知って二人を別れさせようとした。
それでも、光希は全身傷だらけで家族の墓前に座り込み、「黒澤家なんかいらない、俺は琴音と一緒にいたい」と言い切った。その言葉に結衣も折れるしかなかった。
怪我が治ると二人はすぐに結婚し、霧島市中の誰もがその壮絶な愛の証人となった。
だが結局、光希は彼女を裏切った。
携帯の着信音が鳴り、画面には「夫」と表示されていた、なんという皮肉だろう。
琴音は無感情なまま応答ボタンを押すと、彼の優しい声が流れてきた。「琴音、一人でちゃんとご飯食べてる? 俺のこと、想ってくれてるか?」
以前なら、彼女は愛の甘さに溺れてすぐ光希に返事をしていただろう。
でも今は――口を開いたら涙をこらえきれなくなるのが怖かった。
「琴音?何かあったのか?怖がらなくていい、今すぐ帰るから!」
光希の声は焦りに満ち、今にも帰ろうとしていた。
でも琴音は今、彼に会いたくなくなった。
「なんでもない」必死に平静を装ったが、声はひどくかすれていた。「本当に大丈夫、仕事の方が大事でしょ。帰ってこなくていい、ただちょっと風邪ひいただけ」
彼女が光希に嘘をついたのはこれが初めてだった。
彼は何も気づかず、何かに気を取られた様子だったが、それでも何度も念を押した。「じゃあ、ちゃんと休んで。あとで俺に電話して。心配だから」
琴音は小さく「うん」と答えた。
電話を切ろうとしたとき、向こうから艶めかしい女の声が聞こえてきた。「光希、陽向はもう寝たよ。私たち……」
彼女は男の呼吸が荒くなったのを敏感に察知し、通話は唐突に途切れた。
琴音は思わず携帯を強く握りしめた。指の関節が真っ白になるほど力を入れても、心の冷たさを抑えきれなかった。
彼はあの女と一緒にいる。もうこれ以上考えたくもなかった。
彼女の喉から、自然に嗚咽が漏れた。それは自分の意思ではどうにもならない、まるで心を大きな手で握り潰されるような耐え難い痛みだった。
一度は、光希が子供のために仕方なくやっているのだと思いたかった。
でも今、それは彼が自分で選んだことだとわかった。
莉子は異変に気づき、すぐに部屋のドアを開けた。しかし琴音の絶望した様子に、普段は気の強い彼女も呆然と立ち尽くした。
「琴音、男のために泣くなんて、もったいないよ」
涙が写真の上にぽたぽたと落ちた。
莉子は胸が張り裂けそうになり、琴音をぎゅっと抱きしめ、歯を食いしばって叫んだ。「光希なんて最低!」
「プロポーズのときはあんなに甘い言葉を並べてたのに、今になって平気で他の女と子供を養うなんて」
琴音は目を閉じ、流れるままに涙をこぼしながら、すでに心の中で決意を固めていた……
第2話
翌朝、雨は上がり、空には晴れ間が広がっていた。
琴音は一睡もできなかった。
彼女は夜通し考え続けていた。愛の最も純粋な形を知っているからこそ、すでに変わってしまった気持ちに耐えられなかった。
彼女は光希を深く愛していて、松本家のお嬢様であるとして、こんな屈辱に耐えることができなかった。
そう思いながら、彼女は実家である松本家に電話をかけた。「父さん、松本家はA国で事業を拡大したいって話してたよね。ちょうど莉子の夫はA国の王室出身だし、莉子も半月後に子供を連れて帰国する予定だから、私も一緒に行ってみたいの」
松本奏太(まつもと そうた)は訝しげに聞き返した。「それは光希に頼まれたのか?」
「違うよ。今回は自分の意思で行きたいの」琴音は苦笑した。みんな彼女と光希を一心同体だと当たり前のように思っていて、自分の父でさえもそうだった。
奏太は驚いていた。これまで琴音は光希から離れることを嫌がっていたのに、なぜ突然遠くへ行きたいと言い出したのか。
「琴音、もしかして光希が何かしたのか?」奏太の声は急に険しくなった。
琴音は唇を結び、本当のことを隠すことを選んだ。「お父さん、今は聞かないで。A国に行ったら、全部話すから」
黑澤家と松本家は長年の付き合いがあり、近年は縁戚関係も深まっていた。琴音は自分のことで松本家に少しでも迷惑かけたくなかった。
奏太は最終的に琴音に押し切られ、承諾した。「分かった。あとで松本グループに来て、向こうでの業務に慣れておきなさい」
琴音はうなずき、電話を切って身支度を始めた。鏡に映る自分の目はひどく腫れていて、胸が締め付けられるように見苦しかった。
弁護士はすでに離婚届を用意してくれていた。琴音はまだ光希にどうやって離婚を切り出すか決められずにいた。長年の愛情は、そう簡単に断ち切れるものではなかった。
彼女は泣き腫らした目元を化粧でを隠し、きちんとしたビジネススーツに着替えて部屋を出た。
階下では莉子が颯の朝食に付き添っていた。昨日の彼女の様子が颯を驚かせたのだろう。
「おばちゃん、おはよう!」颯は小さな足で琴音のそばに駆け寄り、彼女の手を取って口元に当てて息を吹きかけた。「ママが言ってたよ。昨日、おばちゃんは心が痛かったんだって。俺がふーってすれば、もう痛くなくなるんだよ」
六歳の子供もは本当に無邪気だ。琴音は彼の頬を撫でた。「颯はいい子だね。もう痛くないよ。ママのところへ行ってあげて」
颯はきょとんとした様子でうなずき、嬉しそうに莉子の元へ走っていった。
琴音は昨日の光希とあの子の楽しげな笑い声を思い出した。
もしあの時、自分たちの子供も生きていれば、あの子より少し大きかったはずだと思った。
琴音は深く息を吸い、胸の痛みを必死に押し殺して、簡単な挨拶だけして家を出た。
だが、別荘の門を出た瞬間、少し離れた場所に停まっているマイバッハのそばに人影が見えた。
光希は疲れた様子で、煙草を軽く咥えていた。煙が彼の周囲に立ち込め、顔がはっきりとは見えなかった。
琴音は驚いた。資料によれば、中村紗英(なかむら さえ)とその子供の誕生日はどちらも七月だ。今は紗英の誕生日が終わり、息子の誕生日はまだのはず。光希はどうして急に戻ってきたのだろう。
琴音の強い視線に気づいたのか、彼は遅れてこちらを見た。その瞬間、彼の曇った瞳がぱっと明るくなった。
彼は大股で琴音の前に歩み寄り、彼女を腕の中に引き寄せた。
光希の腕は相変わらず温かかったが、その温もりが今は痛いほどに彼女の体を震わせた。
「風邪、少しは良くなってきた?声が変だったから、夜中に急いで帰ってきたんだ」
「家に戻ったけど、誰もいなくて……きっと莉子のところにいると思った」
光希の声には心配が滲み、表情にも嘘はなかった。
琴音は今も分からなかった。あんなに愛してくれていた彼が、どうして平然と他の女と愛し合い、子供まで作れたのか。
彼女は唇を微かに震わせ、喉の痛みを必死で飲み込んだ。問い詰めたい気持ちを押し殺して、小さく言った。「もう大丈夫、今ちょうど家に帰るところだったの」
光希は安心したようだった。「これからは体調悪いときはちゃんと俺に言ってくれ。じゃないと、すごく心配なんだ」
光希の優しく低い声は、ほんの一瞬だけ、彼女に穏やかな日々の錯覚を与えた。
だが、琴音の視界の端には、少し離れた場所に細身の人影が見えていた。
紗英は木の下で携帯を持って何か話していた。すると次の瞬間、光希の携帯が鳴った。
彼は下を向き、携帯の画面を一瞥し、困った顔をした。「会社でちょっと急用ができちゃって、今対応しに行かないと」
琴音は息が詰まりそうだった。馬鹿馬鹿しすぎた。彼の携帯に一瞬見えた名前は、紗英だった。
胸の奥から込み上げる痛みに耐えながら、琴音は必死でこらえて口を開いた。「うん、行ってっらしゃい。会社のことが大事だから」
光希は申し訳なさそうに彼女を見つめ、彼女の額にキスしてから、車に乗り込み、急いで去っていった。
紗英は光希が車に乗った後、電話を切り、腰をくねらせながら琴音の方へ歩いてきた。「琴音さん、こんにちは。私、紗英っていうの」
彼女は途中で言葉を止め、琴音が唇を固く結んでいるのを見てすべてを悟った。
「どうやら琴音さん、もう私と陽向のことを知ってるみたいね。なら、これからが見ものだわ」
第3話
琴音はタクシーを捕まえ、紗英の後を追った。
たどり着いたのは病院だった。
病室の入口に立った琴音は、扉の隙間から中の様子ををじっと見つめていた。ただ鋭い痛みが心の奥底から突き上げてきた。
彼女は唇を固く噛みしめ、声を漏らさないように必死に耐えた。
そのとき、光希の息子は点滴を受けていて、小さな顔にはやつれが浮かび、見るからに痛々しかった。
光希はひどく取り乱していて、病室の中を何度も往復しながら、苛立ちをぶつけていた。「本当に役に立たないな!子供の熱も治せないのか!」
そばで忙しくしている医師は、琴音もよく知る光希の親友・高橋大輝(たかはし だいき)だった。
「お前、自分の息子が風邪で熱が出たんだ、ちゃんと面倒見てやれよ。友人に八つ当たりするな!」
「光希、お前、一体どうなってるんだ。あの女が子供を産んだら金を渡して追い払うって言ってただろ?今じゃちょっとした風邪でも俺を呼び出してるなんて、もし琴音にバレたらどうするつもりだ?」
しばらく沈黙が流れ、光希の声がやっと響いた。疲労と諦めが混ざった声音だった。「俺にどうしろって言うんだよ。母親と子供の絆は深い、毎回紗英を帰そうとすると、陽向が泣き止まなかった、子供をずっと泣かせておくわけにはいかないだろ?」
「ふん、子供が離れたくないだけなのか、それともお前自身がそうしたいのか、自分でよく考えろよ!」大輝は鼻で笑った。
その言葉に光希はますます苛立ち、痛む額を乱暴に揉んだ。「バカ言うな、俺が一生愛するのは琴音だけだ。でも黒澤家には跡継ぎが必要なんだ。このことは絶対に琴音に知られたくない。彼女を傷つけたくないんだ」
「紗英にしても、俺の子を産んでくれた以上、ないがしろにはできない」
その言葉を聞いて、紗英がようやくドアを開けて入ってきた。彼女はひどく泣いていた。「光希、全部私が陽向の面倒をちゃんと見ていなかったからよ。昨夜帰った後、陽向は熱を出して、パパに会いたいって泣きだして……でもあなたと琴音さんの邪魔はしたくなかったから、ずっと言えなかったの」
光希は子供の熱い頬に触れ、ため息をつくと、少し落ち着いた。
彼は紗英を抱き寄せ、優しく慰めた。「もう泣くなよ、俺は紗英を責めているわけじゃない、陽向は俺たちの子だ。父親である俺の責任が至らなかっただけだ」
紗英は光希のシャツを握りしめ、指先で彼の胸元をなぞった。「光希、自分が琴音さんに及ばないって分かってる。でも、うちの子が辛い思いをするのだけはどうしても耐えられなくて……」
光希の表情がきゅっと引き締まった。「俺の息子に辛い思いをさせるようなことをする奴なんていない。紗英こそ、自分の体を大事にするんだ。ほら、泣きすぎて綺麗な顔が台無しだ」
彼はそっと手を伸ばし、紗英の目尻の涙を優しく拭った。その親密な仕草が、琴音の心をえぐった。
琴音は強く拳を握りしめ、爪が掌に食い込み三日月型の痕ができても、何の痛みも感じなかった。
それとも、すべての痛みは心の痛みにかき消されていたのかもしれない。
外では激しい雨がまた降り出し、琴音はそのまま病院を後にした。
彼女は雨に打たれながら、無感覚のまま歩き続けた。
雨粒が頬を伝い視界を曇らせても、どれだけ流しても心の惨めさだけは洗い流せなかった。
松本グループに到着した頃には、ハイヒールで足首にできた血豆が真っ赤に膨れ上がっていた。
その姿を見た受付の女性スタッフが驚き、慌てて支えに来た。「琴音さん!どうしたんですか?私から光希社長に連絡しましょうか?そんな姿を社長に見せたら、きっと心配しますよ」
琴音は心が痛みすぎて、もう何も感じなかった。そう、誰もが当たり前のように光希が自分を愛していると信じて疑わなかった。
だが誰も知らなかった。この愛の中に、どれほどの嘘と裏切りが隠れているのか。
彼女はそっとスタッフの手を払いのけ、かすれた声で言った。「大丈夫、途中で雨に降られただけよ。新しい服を買って持ってきて」
手にしていたキャッシュカードを渡すと、そのまま近くの会議室にこもった。
扉が閉まると、琴音はもう涙を堪えることができなかった。あの写真を見たときには、もう辛い現実に免疫ができていると思っていた。
だが、目の前で「本物の家族三人」の姿を突きつけられると、心の奥の傷は再び剥がされ、血まみれになった。
広い会議室には、彼女の叫びが木霊した。
永遠の愛を誓ってくれたのに、なぜ今は他の女性と子をもうけ、愛し合っているのか――琴音は光希に問い詰めたくて、たまらなかった。
ノックの音が響き、彼女はようやく胸を締めつける痛みから解放された。
ドアの外にはすでに誰の気配もなく、静かに新しい服とキャッシュカードが置かれていた。その隣には湯気の立つ熱いお茶が一杯添えられていた。
コップの下には手書きのカードが挟まっていた。【琴音さん、ご安心ください。光希社長には連絡していません。社長に心配をかけたくない気持ち、ちゃんとわかっていますから】
琴音は複雑な思いを抱えながらも、結局カードを破り、ゴミ箱へと捨てた。
彼女は服を持って洗面所で着替えた。ほどなくして、琴音はまた松本グループの堂々たる令嬢の顔に戻っていた。もう、何も恐れるものはなかった。
ハイヒールを履き、社長室へ向かい、そのまま一日中仕事に没頭した。
その間、光希からは何通ものメッセージが届いたが、琴音は一通も目を通さず、返信もしなかった。
夕方、疲れた体を引きずるようにして別荘に戻り、翌朝出発するために荷造りを始めた。
しかし、ドアを開けた瞬間、リビングから子供のあどけない笑い声が響き、紗英が彼女の目の前に現れた。
第4話
紗英は黒澤家の本邸で使用人の制服を着ていた。少し離れた場所では、小さな男の子がリビングを散らかしながら遊んでいた。
琴音が玄関に入ると、紗英は光希のそばから立ち上がり、落ち着いた優雅な微笑みを浮かべた。「琴音様、お帰りなさい。本邸からお坊ちゃまのお世話を任されたメイドです」
琴音は無意識に唇を噛みしめ、息をすることさえ苦しくなった。
光希はなぜこんなことができるのか。どうしてこの二人を平然と家に連れてくることができるのか。
琴音の様子がおかしいことに気づき、光希は慌てて説明した。「琴音、午後にメッセージを送ったけど、たぶん見てなかったよな。陽向は母さんが孤児院から連れてきた子で、俺たちに縁があるって言ってたんだ」
すべての心の痛みは、もうあの無人の会議室で吐き出してしまった。今の琴音の胸には、ただ怒りだけが激しく渦巻いていた。
こいつら、本気で私を馬鹿にしている――。
「光希、わざと私の心をえぐりにきたの?」彼女の声は震えていて、その怒りが限界まで高まっているのが伝わった。
その言葉に、光希は眉をひそめ、まさか琴音がここまで強く拒絶するとは思っていなかった。
彼は少し動揺しながら弁解した。「琴音、怒らないでくれ!」
「黒澤家に後継ぎが必要であることも分かってるだろ?琴音がずっと死んだ子供のことで悲しんでいるのを見たから、母さんの頼みを聞き入れたんだ」
「もし琴音が嫌なら、すぐこの子をどこかにやる!」
誰もが知っていた、光希が琴音を心から愛していることを。彼の原則は、いつだって琴音を最優先することだ。
今も、琴音が嫌だと言えば、たとえ実の子供であっても迷わず手放すつもりだった。
けれど、そんな極端な偏愛こそが、琴音には耐えがたいほど嫌悪感を呼び起こした。
彼女が口を開き、すべてをはっきりさせようとしたその瞬間、あの子供――黒澤陽向(くろさわ ひなた)が唇を曲げて、わっと大きな声で泣き出した。
「この悪い女め!パパ、なんでこんな悪い女と一緒にいるの?僕のこと、もういらないの?」
子供の鋭い泣き声が響き、光希は頭痛に苛まれた。「陽向、誰にそんな言葉を教わったんだ!」
「何してる!早く陽向を部屋に連れて行け!」
数人のメイドが慌てて近づき、泣き止まない陽向をすぐに部屋へ連れて行った。
紗英も動揺し、何度も謝罪した。「光希社長、すべて私のせいです。どうか陽向君を責めないでください」
そう言いながらも、光希を見つめるその瞳には、男心をくすぐるほどの切なさがあった。
光希はため息をつき、少し声を和らげた。「責めていない、まだ小さいから何も分からないだろうな。早く様子を見てきてくれ」
琴音はその一部始終を見届け、心の奥底まで冷え切っていった。
彼女は黙って光希の手を振りほどき、無言で階段を上がっていった。そして、後を追ってきた光希を部屋の外に閉め出した。
光希はドアの前で苛立ちを抑えながら言った。「琴音、全部俺が悪い、明日の朝には絶対あの子を送り出すから」
「俺のことは気にしなくていい、ゆっくり休んで、何かあれば明日話そう」
琴音はドアにもたれて座り込み、彼の足音が遠ざかるのを聞きながら、胸の痛みは、もはや麻痺して何も感じなかった。
送り出したところで何になる?血のつながりは、どうしても断ち切れない。本当は――出て行くべきなのは自分なのだ。
琴音は返事をせず、ドアに鍵をかけた。
彼女はひとり、冷たいドアにもたれて彼の足音が消えていくのを聞きながら、もう立っていられず、その場に崩れ落ちた。
心も体も限界まで疲れ果てていた。
どれくらい時間が過ぎたのか分からない。ふと携帯の通知音が鳴り、無意識のまま画面を滑らせると、知らない相手から友達申請が届いていた。
それは紗英からだった。
【琴音様、光希社長を部屋から追い出した以上、私のところに来ても責めないでね】
琴音は瞳を見開き、すぐに寝室を出て、廊下の先にある書斎の灯りがぼんやりとついているのを見つけた。
ドアは半開きで、隙間から女の艶やかな声が漏れていた。「光希、痛いよ」
男が低く唸り、荒い口調で言った。「痛いのが嫌なら呼ぶな。子供ができてるのに、まだ落ち着かないんだな」
一瞬で琴音の体温は凍りついた。
まさか光希が、ここまで自制できなかったとは――
部屋の中ではまだ会話が続いていた、紗英は抑えた声で言った。「光希が琴音様にいじめられて、辛そうだから、元気になってほしくて……」
「自分勝手にするのはいいけど、言い訳しないで。陽向を黒澤家に残したいなら、琴音様を不愉快にさせないでって覚えておいて」
琴音はもう限界で、どうやってその場を離れたのかも覚えていなかった。
部屋に戻るなり浴室に駆け込み、洗面台に突っ伏して激しく嘔吐した。
胃がきしむような痛みをこらえながら、ゆっくりと顔を上げ、鏡に映る惨めな自分を見つめた。
琴音の涙は、もうすっかり枯れていた。松本家の令嬢で、あんなに誇り高かったのに、どうしてこんな姿になったのか。
彼女はどれほど浴室にいたか分からなかった。空が白み始める頃、ようやく体を起こし、ベッドに戻った。
今度こそ――光希はもういらないと決めたのは、琴音の方だった。
第5話
翌朝、琴音が階段を下りると、紗英がダイニングテーブルで食器を並べていた。
彼女はついに使用人の制服を脱ぎ捨て、首筋のラインが際立つ和服に着替えていた。その姿は女性らしい雰囲気を醸し出した。
しかも、その顔立ちはどこか琴音と似ていた。それで光希が彼女を選んだのも無理はないと思えた。
琴音の姿に気づいた紗英は、親しげに声をかけた。「琴音様、起きたんですね。早く朝ごはんを召し上がってください」
彼女は何気なく体を傾け、首筋に残ったキスマークを見せつけた。その細い手首には、鮮やかな緑色の翡翠のブレスレットが光っていた。
琴音は一目でそれが結衣がかつて身につけていた、黒澤家に代々伝わってきた宝物だと分かった。
以前、結衣からその話を聞いたことがあった。光希も欲しがっていたが、結衣は「子供を産めないから」ということを理由に断ったという。
それが今、紗英の腕にある。
琴音は拳を握りしめた。これまで守ってきたもの全てが急に空しく思えた。
彼女は家同士の関係を大事にしてきたし、問題を大きくしたくなかった。だが結局、結衣に義理の娘と認められたのは、紗英だった。
昨日の病院でも、光希の親友は紗英の存在を知っていた。
琴音だけが何も知らず、光希の甘い誓いに振り回されていた。
思わず苦笑がこぼれた。もし光希が最初から子供が欲しいと決めていたなら、自分だって覚悟を決めて、身を引けたはずだ。こんな泥沼に巻き込まれることもなかった。
昨夜の書斎での出来事を思い出すたび、胸はズキズキと痛み、光希を思いきり叩きたくなる衝動が湧き上がった。
だが、それは自分が望む結末ではなかった。自分は光希に一生後悔させてやりたかった。
そのとき、光希が階段を下りてきた。彼は一晩中何もなかったかのように爽やかな顔をしていた。
紗英のそばを通る時、二人の間にははっきりと甘い空気が漂い、紗英は恥じらうようにうつむいた。
光希は振り返ると、ようやく琴音の顔色が悪いのに気づき、不安げに声をかけた。「琴音、昨日雨に濡れて風邪でも引いちゃったのか?今日は会社休んで、一緒に家にいようか」
今の琴音は一刻も早くこの家から出て行きたかった。光希と同じ空間にいるだけで息が詰まり、心の底から汚らわしく思っていた。
「そんなことする必要はやめて」琴音は冷たく答えた。「会社のほうが大事なんじゃない?私は家でゆっくりするから」
光希は眉をひそめ、得体の知れない不安に駆られた、いつもなら、琴音は一緒にいられることを喜んだはずなのに、今は全然違った。
それでも琴音の意志の強さを知っている光希は、それ以上は何も言わず、使用人たちに言った。「家では琴音のことをしっかり頼むよ」
周囲の使用人たちは顔を見合わせ、二人の仲睦まじい様子にすっかり慣れているようで、誰も何も言わずにうなずいた。
そのとき、紗英が突然立ち上がり、光希のもとへ行き、自分から彼の服を直し始めた。
「襟元が崩れています。私が直しますね」
光希も自然と頭を下げて、彼女の手を受け入れていた。
その何気ない仕草が、いちばん琴音の胸に突き刺さった。
使用人たちはみな驚いて息を呑み、琴音の方を見て、場の空気が一瞬で凍りついた。
そのときになって、ようやく光希は状況の異常さに気づき、慌てて一歩下がって紗英と距離をとり、軽く礼を言った。
「俺は会社へ行ってくるよ」そう言って琴音のそばに来ると、彼女の額にキスを落とし、優しくささやいた。「いい子で待ってて」
その甘い声は、昨夜の書斎で聞いたものと同じだった。
第6話
ダイニングテーブルの前で、琴音は湯気の立つ朝食を見つめていたが、いくら口に運んでも味がしなかった。
光希の優しさや気遣い、紗英の挑発や誇示などが全部頭の中で繰り返されていて、どうしても食事が喉を通らなかった。
琴音は静かに立ち上がると、そのまま階段を上がり、自分の荷物をまとめ始めた。
この別荘には、二人の思い出があまりにも多く詰まっている。琴音はその一つ一つを自分の手で整理し、すべてを置いていく覚悟を決めた。
いつの間にか、紗英が背後に立っていた。「琴音様、本当に肝が据わっていますのね。陽向は黒澤家の跡取り、私はその子の母親なの。この家には、もう琴音様の居場所なんてありませんのよ」
琴音は顔を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。「だから何?」
琴音のあまりに落ち着いた態度に、紗英は少しだけ戸惑いながらも、眉をひそめて、続けた。「離婚したくない気持ちは分かります。でも、そんなふうに黒澤家の嫁の座にしがみつくのはやめたらどうです?黒澤家が子供を産めない女を嫁にすることなんてあり得ないんだから」
琴音は冷ややかに鼻で笑った。その目はあからさまな嘲りで満ちていた。「黒澤家の嫁の座?そんなに欲しいなら、あげるわ」
そう言って、彼女は鞄から離婚届を取り出し、紗英の目の前に差し出した。
「光希の気持ちも知ってるわよね、彼に離婚させるのは簡単なことじゃないって」
「これを渡すわ。もし本当に力があるなら、光希にサインさせて私に返して。もしできないなら、永遠に正妻になれない覚悟をしなさい」
紗英はその言葉に顔を輝かせ、離婚届を奪い取った。
すでに琴音のサインが入っているのを見て、今度は疑うような目で見つめてきた。「本当に光希を諦められるの?」
琴音の胸がわずかに痛んだ。人生のほとんどを捧げて愛してきた人と、別れを口にすることは簡単ではなかった。
彼女はそっと目を閉じ、心に渦巻く苦しさを抑え込んだ。そして、再び目を開けたとき、そこにあったのは静寂だけだった。
「他人と男を取り合うなんてくだらないことはしない」
光希のためなら命さえ投げ出せる――そう思ったこともあった。でも、裏切りだけは絶対に許せなかった。
紗英は琴音を小馬鹿にしたように笑い、結局はただの頑固者だと決めつけて、そのまま離婚届を持っていった。
琴音はクローゼットに山のように積まれた光希からの贈り物を見つめていた。しかし心の中は、ただ空っぽだった。
彼女は無心で荷物をまとめていった。服、書類、大切なもの――何ひとつ残さずスーツケースに詰め込んだ。
光希からのプレゼントはひとつ残さず箱に詰め、全てをオークション会社へ送った。
出て行くと決めたからには、過去もきれいに精算しなければならない。
使用人たちは遠くからこっそり様子を伺い、何があったのかと噂していたが、琴音は気にも留めなかった。
すべての荷物を詰め終わったころには、もう午後になった。琴音は荷物を持ち、リビングで休みながら莉子が迎えに来るのを待っていた。
その時になって、ようやく思いだした。一日中、陽向の姿を見ていなかった。もしかして本当に連れて行かれたのだろうか。
そんな疑念が頭をよぎった瞬間、光希が慌てて戻ってきた。紗英、そして結衣もその後ろにいた。
「琴音様、お願い、陽向がどこにいるのか教えて!」紗英は泣きながら琴音のもとに駆け寄り、両腕を掴んで激しく揺さぶった。
突然の衝撃に、琴音はよろめき、背中をテーブルの角にぶつけて、鋭い痛みが体中に走った。
彼女は息を詰まらせるように苦しんだ。「何を騒いでるのよ、どこにいるかなんて私が知るわけないでしょ」
だが、紗英はますます激しく泣き始め、今度はテーブルの上にあった果物ナイフをつかみ、琴音の喉元に突きつけた。
「琴音様、あなたが陽向を嫌っているのはわかる。でも、光希社長に黙って勝手に陽向を連れ去るなんて許せない!陽向を返して!」
第7話
陽向がまさか失踪した――
琴音はその場に凍りつき、身動き一つできなかった。果物ナイフはすでに彼女の首元に浅い傷を残し、ヒリヒリとした痛みがじんじん広がっていた。
「目を覚ましてよ。息子の居場所なんて知るわけないじゃない」
だが、紗英は正気を失ったようにナイフを握る手を震わせていた。
「そんなはずない!陽向を嫌うのはあんただけ。今日だって車を何台も呼んで荷物を運んでたのはあんたしかいない!」
紗英の目は真っ赤に腫れ、まるで本当に子どもをなくした母親のようだった。かすれた声で泣き続け、「琴音様、お願い、陽向を返して、あの子は私の唯一の拠り所なの」と訴え続けた。
そしてついに、彼女はナイフを投げ捨て、その場に膝をつき、琴音の前で崩れ落ちた。
「琴音様、陽向は私のすべてなの……」
ようやく紗英の束縛から解放された琴音は、その言葉の薄っぺらさに皮肉を感じざるを得なかった。
「返して?――孤児院から引き取った子と何の関係があるの、なぜ返さなきゃいけないのよ?」
「この子は、私の……」紗英は咄嗟に何かを言いかけたが、すぐ口をつぐみ、静かに泣き出した。
だが、今度は琴音が一歩も引かなかった。
彼女はすべてを見抜くような眼差しで紗英を見つめ、あえて追い打ちをかけた。「どういうことなのか、ちゃんと言ってみなさいよ」
「もうやめろ!」光希が鋭く声を荒げた。「琴音、そこまで追い詰めるな!」
琴音は思わず絶句し、信じられない思いで光希を見返した。瞳がわずかに揺れていた。
子どもの頃からずっと一緒だった光希は、今まで琴音に一度もきつい言葉をぶつけたことがなかった。さっき紗英に脅されていた時でさえ、琴音をかばってくれなかった。
なのに、人生で初めて声を荒げたのは――愛人と隠し子のためだった。
「失望」――その言葉だけが頭の中でこだまし、琴音の胸をひたすら重く圧迫した。
光希は琴音の表情の変化に気づき、自分の言い方がきつかったことを察してすぐ声を和らげた。「琴音、責めるつもりじゃなかった。陽向は最初から彼女が面倒を見てきたし、ただ今は取り乱してるだけなんだ……」
琴音は冷たく遮った。「もういい、聞きたくないわ」
「もう一度言うけど、あなたの息子の居場所なんて知らない、本当にいなくなったなら警察でも呼びなさい」
その瞳には一切の感情がなく、あまりにも平静すぎて、光希は心の底から不安になった。琴音が「あなたの息子」と口にしたことすら気づかないほどだった。
その時、外から慌ただしく助手が駆け込んできた。「光希社長、子供が見つかりました!」
「町を出る途中のトラックの荷台にいました。車が遠くまで行かなかったので、陽向様はもうすぐ戻ってきます」
その場にいた全員がようやく肩の力を抜いたが、琴音だけは気を緩めることができなかった。今日荷物を運ぶために複数の車を手配していたせいで、ますます自分への疑いが強くなったのを感じた。
結衣はソファで冷たく鼻で笑った。「自分が子供を産めないくせに、わざわざ連れてきてやっても不満なのね。結局、黒澤家に後継を残させたくないんじゃない」
その言葉は琴音の心の傷口をえぐり、さらに塩を塗るようだった。
反射的に光希を見たが、彼の視線はじっと紗英に向けられていて、何かを考えているようだった。
琴音は急に胸が苦しくなり、息をするのさえつらかった。自嘲気味に微笑みながら呟く。「そうよ、あのとき命をかけて光希を助けたのが間違いだった。あのまま死なせてやればよかったのに」
口にした瞬間、心が粉々になった。
光希は顔を上げ、琴音の悲しい瞳をまっすぐ見つめた。
首元の鮮やかな赤い傷がいっそう痛々しく、光希の胸にも鋭い痛みが走った。「琴音、そんなこと言わないでくれ」
彼は急いで琴音の手を取ろうとしたが、琴音は冷たくかわした。
完全に心が離れてしまい、昨夜その手が紗英に触れていたことを思い出すだけで、琴音は耐え難いほどの嫌悪感を覚えた。
琴音はもう光希に目もくれず、携帯を操作して莉子に連絡を取ろうとした。しかし、なぜか返事は返ってこなかった。
別荘の中は静まり返り、紗英の断続的なすすり泣きだけが響いていた。
ほどなくして陽向が帰ってきた。
彼は光希の背中に隠れ、琴音を指さして叫んだ。「パパ、この人が僕を捨てようとしたんだ。この人だよ!」
その言葉に、結衣はすぐに立ち上がり、厳しい口調で言った。「琴音、まだ言い訳があるの?陽向はまだ子供よ、子供が嘘をつくはずがないでしょ」
光希もまた、琴音をまっすぐに見つめた。その瞳に浮かぶ複雑な感情を、琴音ははっきりと読み取った。
――光希は、琴音を疑っているのだ。
第8話
琴音の心には、突然どうしようもない無力感が広がった。
彼女は苦く唇を歪め、静かに言った。「もういい、どう思われても構わない。どうせ何を言っても無駄だから」
「パパ、この悪い女が認めたよ、ちゃんと罰を与えないと!」
陽向は光希の袖をしっかりと握りしめながら、こっそりと紗英の方をうかがった。
目が合うと、紗英はわずかにうなずき、陽向の強張った顔がほんの少しだけ緩んだ。
光希はしゃがんで陽向の頭を優しく撫で、「いい子だね、陽向。俺が必ず守ってあげるから」と慈しむように言った。
そして、声色を一変させて冷たく命じた。「誰か、琴音を家の仏壇の前で反省させろ。俺が許すまで絶対に出させるな」
光希の決断は絶対的で、誰にも変えられなかった。
そう言い終わると、光希が自ら紗英を立ち上がらせ、三人家族で何も言わず玄関へ向かった。彼は、最後まで琴音の方を一度も振り返らなかった。
紗英だけが挑発的な視線で琴音を見つめ、その勝ち誇った目が琴音の心を鋭く刺すようだった。
外で車のエンジンがかかるのを見て、結衣はようやく満足そうにうなずき、年長者らしい態度で手を振り、そばの使用人に琴音を無理やり連れていくよう命じた。
この家で何年も仕えてきた使用人たちは、みな心苦しげな顔をして、そっと琴音の耳元でささやいた。「琴音様、心配しないでください。私たちは琴音様がそんな人じゃないって信じてます。光希社長もきっと何か事情があるんだと思います。本当に琴音様のことを愛しているから、絶対に苦しめたりしませんよ」
琴音は力なく微笑み、もういいやと心の中で呟いた。どうせもうこの家を出ていくのだから、すべてがどうでもよかった。
彼女は仏壇の前で三日三晩ひざまずき、想像以上に苦しい日々を過ごした。
本邸の使用人たちは明らかに誰かに命じられ、罰を与えていた。数えきれないほどの嘲りや罵り、数時間ごとに連れ出されては何度も殴打された。
棒で打たれる痛みが全身に降り注ぐ中、琴音は必死で声を出さずに耐えた。
唇を強く噛みしめ、口の中に広がる鉄の味にも、心の奥に沈む絶望にも、ただじっと耐えた。
ふと、七年前のことがよみがえった。光希が自分を嫁入りさせるために黒澤家の仏壇で三日三晩ひざまずき、骨折した肋骨がつながったばかりで、一生残るかもしれない後遺症と闘ったあの時のこと。
結衣が光希を追い詰めただけでなく、莉子や琴音の両親も皆で琴音に説得した。黒澤家が代々、跡継ぎを何よりも重んじてきたことは誰もが知っていた。
その時、琴音は光希を思いやり、ふたりの愛が何よりも強いと信じて、大きな重圧の中で彼と結婚した。
今思えば――これは自分が愛を見誤った報いなのかもしれない。
ただ、光希――どうか一生、後悔などしないでほしい。
四日目の朝、ようやく仏壇の部屋の扉がゆっくりと開いた。光希が中へ入ってきた。
「琴音、迎えに来たよ」光希はそう言い、かすれた声でやつれた表情を浮かべていた。
琴音はその声をまるで耳に入れず、ただ呆然と無数の位牌を見つめていた。
そう、黒澤家の仏壇は歴代の当主たちがずらりと祀られ、香の煙が絶えることはなかった。
自分が愚かだった。光希が子供を手放すと信じてしまって。
――この結末はすべて自業自得だった。
琴音は光希のことを無視し、ゆっくりと立ち上がった。長く膝をついていたため脚は痺れ、少し動いただけで背中の傷もずきずきと痛んだ。
なんとか立ち上がったが、そのまま崩れるように前に倒れかけた。
光希がとっさに抱きとめて、転倒を防いだ。
「琴音、悪いことをしたら罰を受けるべきだ。そうでないと子供に示しがつかない。しかも今回の罰はただの正座だけだろう?」
「ただの正座?」もしそうなら、この服の下の傷は一体どうするというのだ。
琴音は苦笑し、光希を振り払った。「光希は前、私に何て言ったのかを覚えてる?私が嫌がるならその子を追い出すって」
光希は眉をひそめ、ため息混じりに答えた。「琴音、黒澤家には跡継ぎが必要なんだ。陽向は最良の選択だ。夫婦は一つなんだから、ちょっとは俺のことを考えてくれよ」
この言葉を、琴音は何度聞かされただろう。自然と冷笑がこぼれる。「そう、てっきり本当の息子なのかと思ってた」
光希は一瞬息を詰まらせ、視線を逸らした。「そんなわけない、俺が愛してるのは琴音だけだ。でも、陽向は本当にいい子なんだ」
もはや愛しているかどうかなど、琴音にはどうでもよかった。
何年も積み重ねてきたものが崩れ去り、心の奥に閉じ込めていた感情が今にも溢れ出しそうだった。
「光希、いつまで――」騙すつもりなの?
そう言いかけた時、紗英が突然部屋に入ってきた。
「光希、陽向が遊園地に行きたいって駄々こねてるの。一緒に行こうよ」そう言いながら琴音を見て、「でも琴音様、その顔色じゃ無理そうだね……」
「彼女は行かない」光希は冷たく決めつけ、琴音の意思を無視した。
無表情で琴音を見下ろし、「明日は陽向の誕生日だから、黒澤家は本邸でパーティーを開くんだ。その場で陽向の身元を発表する、母親としてしっかり準備しておいてくれ」と命じた。
「陽向の母親」…その響きに琴音は心底嫌悪を覚え、心の中で冷笑した。
彼女は足を引きずりながら仏壇の部屋を出て、遠くに莉子の姿を見つけた。彼女は心配そうに琴音を待っていた。
琴音は迷わず莉子のもとへ向かった。背後から光希の声が聞こえた。「琴音、俺は陽向を遊園地に連れて行くから、今夜は帰らない。ゆっくり休んで。明日迎えに来るから」
琴音は振り返らず、小さく「うん」とだけ答えた。
なぜだろう、その背中が遠ざかっていくのを見ていると、光希の胸に不安が広がっていった。
でも自分に言い聞かせた、もう甘やかすことは許されない。琴音のプライドを知っている。陽向が黒澤家に戻るためには、この対立を避けては通れない。
光希は琴音がきっと自分を愛していると信じていた。最初の反発が過ぎれば、きっと受け入れてくれると――
一方、琴音は莉子に支えられながら車に乗り込んだ。
「琴音、荷物は全部持ってきた。それと、この封筒は紗英から預かったものよ」
琴音は封筒を開き、中の離婚届を見た。最後には光希のサインがしっかりと記されていた。
車窓越しに、三人家族が笑いながら別の車に乗り込むのを見つめ、琴音の瞳は冷ややかに光った。「莉子、空港へ行って。今すぐここを出る」
光希、今回の選択で、私はあなたを捨てることにした。