春の花と冬の雪

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春の花と冬の雪

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江崎愛乃(えざき あいの)は人混みの中に立ち、手には二つの書類を握りしめていた。 一つはアレキシサイミアの診断書、もう一つは戸籍謄本だ...

Chương (1)

第1章

江崎愛乃(えざき あいの)は人混みの中に立ち、手には二つの書類を握りしめていた。 一つはアレキシサイミアの診断書、もう一つは戸籍謄本だった。 三時間前、病院のシステムに登録された婚姻状況が「離婚」と表示されていることを不審に思い、わざわざ市役所まで足を運んだのだった。 職員が顔を上げた。 「江崎さん、確かに相川さんとは三年前に離婚されています」 愛乃の表情が一瞬固まった。 「そんなはずはありません。三年前、私たちはちょうど結婚したばかりです」 職員はもう一度確認し、少し困惑した様子で言った。 「申し訳ありませんが、システム上、確かに離婚の記録は三年前となっており……ご結婚から七秒後に登録されています」 第1話 江崎愛乃(えざき あいの)は人混みの中に立ち、手には二つの書類を握りしめていた。 一つはアレキシサイミアの診断書、もう一つは戸籍謄本だった。 三時間前、病院のシステムに登録された婚姻状況が「離婚」と表示されていることを不審に思い、わざわざ市役所まで足を運んだのだった。 職員が顔を上げた。 「江崎さん、確かに相川さんとは三年前に離婚されています」 愛乃の表情が一瞬固まった。 「そんなはずはありません。三年前、私たちはちょうど結婚したばかりです」 職員はもう一度確認し、少し困惑した様子で言った。 「申し訳ありませんが、システム上、確かに離婚の記録は三年前となっており……ご結婚から七秒後に登録されています」 そしてさらに続けた。 「また、相川さんはその後一年で再婚されており、配偶者欄には麻生楓(あそう かえで)さんの名前が登録されています」 愛乃は、魂が抜け落ちたようにその場で呆然と立ち尽くした。 瞳は虚ろで、ただ腕だけがわずかに震えていた。 誰もが知っていた。 愛乃と相川諒(あいかわ りょう)は幼い頃からの知り合いで、互いに成長していく姿をずっと見守ってきたことを。 諒はいつも彼女を守り、特別扱いし、誰もが羨む「お姫様」にしてくれた。 そして麻生楓は、彼のビジネスライバルの家に残された孤児だった。 「大丈夫ですか?」 職員の声に、愛乃はなんとか立ち上がり、手を振って応えた。 心ここにあらずのまま街をさまよい、やがて中央広場の大型ビジョンに映る諒のインタビューに足を止めた。 男はベージュのスーツに身を包み、長い脚を組んで座っていた。 インタビューが不意に途切れ、彼は腕時計をちらりと見た。 「すみません、今日はここまでにしましょう。これから家に帰って妻と夕食をとる時間です」 カメラに向かって笑みを浮かべると、生中継はそのまま終了した。 人混みからは羨望のため息が漏れ、「妻を大切にしている」「一途だ」といった称賛の声が上がった。 愛乃は薬指の指輪を撫でながら、その言葉を皮肉に感じていた。 彼が言う「妻」とは、一体どちらのことなのだろうか。 思考は遠くへ漂い、あの頃の光景がよみがえった。 毎朝一時間早く起き、遠回りしてでも彼女を迎えに来てくれた「王子様」。 学校行事でも必ず隣に立ち、「自分は彼のものだ」と世界に示していた。 だからこそ、卒業と同時に諒はプロポーズをした。 「他の誰かが君を見るだけで、俺は嫉妬で狂いそうになる」 その年、愛乃は両親と共に実家へ帰省し、大雪で道が塞がれた夜、彼は数キロを徒歩で進み、零時ちょうどに玄関先に現れた。 花火が夜空に咲き誇る中、「ずっと一緒にいよう」と言った。 翌年、春の花が咲く頃、二人は結婚式を挙げた。 「本当に覚悟はできてる?私が求めているのは、あなたが一生私を愛し続けることよ」 「じゃあ、俺はもっと欲張りだ。来世も、再来世も、ずっと君だけを求めるよ」 結婚後も甘い日々は続いた。 ——あの日までは。 彼のビジネスライバル一家が事故で亡くなり、諒は突然弔問に行くと言い出した。 その日、出張帰りの愛乃は急ぎ会場へ向かった。 そして扉を開けた瞬間、黒いドレス姿の楓が彼の胸に身を寄せ、彼はその額に口づけを落としていた。 愛乃の手から荷物が「ガタン」と落ちた。 諒は慌てて追いかけ、必死に説明した。 「麻生家はもう彼女一人だけだ。あのキスは慰めで……兄のような気持ちで」 タクシーに乗る愛乃を、彼は走って追いかけた。 その時、一台の車が彼の脇をかすめ、転倒した彼は、それでも這うように追おうとしていた。 ——彼女は心を許してしまった。 葬儀後、楓は忽然と姿を消し、留学したとの噂が流れた。 ある日、愛乃は会社からの命令を受け、ネアシアへ出張することになった。 白い鳩が飛び交う木陰の下で、彼女は諒と楓がアイスクリームを食べさせ合っている姿を見つけた。 そういえば、彼は最近海外で不動産を購入し、国外での予定も増えていた。 愛乃は歩み寄り、その足音で白い鳩が一斉に飛び立った。 帰りの飛行機で、諒は席を隣に替えた。 「最初は本当に偶然だったんだ。仕事がメインで、そのついでに彼女を気にかけただけだ。 彼女は麻生グループの無条件での買収に同意してくれたからな。 愛乃、俺はただ彼女が可哀想だと思っただけなんだ」 愛乃は窓の外をじっと見つめ、もう一度信じることを選んだ。 ただし、今回はこう言った。 「じゃあ、これからは彼女のことは私が面倒を見る」 諒はすぐに頷いたが、それでも不安は消えなかった。 その後、医者から告げられた。 「長期的な不安と緊張が原因で、アレキシサイミアを発症しています。徐々に、普通の人のような感情を感じられなくなるでしょう」 ——それでも、心に突き刺さるような痛みは、鈍くなっても消えなかった。 「愛乃!」 諒の車が止まり、彼女が近づくと、楓はわざわざ後部座席に移った。 諒が言った。 「楓が卒業して帰国したんだ。みんなで歓迎会を開いたから、一緒に行こう」 愛乃は真っ直ぐに彼を見つめた。 「他に、私に話すべきことはないの?」 彼は一瞬言葉に詰まり、少し困ったように言った。 「彼女が会社に入ったことは、本当に知らなかったんだ。 彼女は身分を隠して面接を受けたんだ。すごく優秀で、知ったときには人事部がすでに決めていた。 愛乃、誤解しないで」 愛乃は拳を握り、心の波を必死に抑え込んだ。 突然、数え切れないほどの問いや怒りが、すべて消え去った。 もう、この果てしない嘘を暴く気力もなくなった。 諒の後ろ盾がある楓は、かつてのお嬢様としての輝きを失うことなく、パーティでは人々に囲まれて楽しんでいた。 人の多さに息苦しさを感じた愛乃は席を立ち、洗面所へ向かった。 戻ると、諒が廊下で煙草を差し出されていたが、彼は眉をひそめてそれを断っていた。 「今は妊活中なんだ。煙草も酒もやめた。愛乃のために」 「さすがだな」男が親指を立てた。 「でも、この子が生まれて戸籍に入れるとき、お前の婚姻状況がバレちまうぞ。江崎さんの性格なら、一生許してもらえないだろうな」 諒の目が一瞬だけ揺れたが、すぐに元の表情に戻った。 「なら、彼女には知られないようにする。俺が全部手配する」 男は視線を賑やかな部屋の中に向け、楓が人に囲まれているのを見て言った。 「数年ぶりに会ったら、ずいぶん気が強くなったな。江崎さんの前で騒がなければいいけど」 諒は口元を緩めた。 「それが愛乃と違うところだ。俺は彼女のそういうところが好きなんだ。 何があっても、愛乃はずっと俺のそばにいる。たとえ実際に結婚していなくても。でも楓は違う。そうしなければ、彼女は素直に俺のそばにいられない」 ドアの影でそれを聞いた愛乃は、その縁を強く握りしめた。 爪が割れても気づかず、血が滴り落ち、床の水滴と混ざり合いながら広がっていった。 予想していた痛みは訪れず、ただ底なしの苦しさだけが心に残った。 場所を移して、彼女は酩酊するまで酒を飲んだ。 朦朧とした中で、誰かが「どこへ行くのか」と尋ねた。 彼女は答えた。 「……飛行機でも何でもいいから、誰にも見つからない場所に行きたい」 その人は少し考えた後、言った。 「飛行機はないけど、船ならありますよ」 第2話 愛乃は、見知らぬ部屋で目を覚ました。 枕元には、一枚の付箋が貼られていた。 【二週間後、港で会おう】 アルコールに沈んでいた記憶が、じわじわと浮かび上がってくる。 昨夜、彼女が会ったのは――西園寺慶(さいおんじ けい)。 浪崎市で諒と肩を並べられる、ただ一人の男。 そして、彼女をこの街から遠くへ逃がせる唯一の存在だった。 スマホの画面には、百件近い不在着信とメッセージが並んでいた。 すべて――諒からのもの。 家に戻ったときには、すでに夕暮れが迫っていた。 諒は進行中のビデオ会議を即座に切り上げ、彼女のもとへ駆け寄った。 「愛乃、どこへ行ってた?昨夜出てから一晩中帰ってこなかったじゃないか。 もう少し遅かったら、市中に捜索願を貼り出すところだった」 赤く充血したその瞳を見れば、一晩中眠っていなかったことがわかった。 テーブルの上ではパソコンの画面が光り、そこには彼女の結婚式の写真が映し出されていた。 初めて彼女が純白のウェディングドレスに身を包んだあの日――彼は子どものように声を上げて泣いていた。 愛乃はしばらく黙って彼を見つめた。 その瞳には、今もあふれるほどの愛がある。 ただ、その愛はもう――唯一でも、純粋でもなかった。 視線を逸らし、淡々と言った。 「友達に会ってたの。話し込んでしまって、連絡するのを忘れた」 諒は肩の力を抜き、彼女をダイニングへ導くと、自ら袖をまくって海老の殻を剥き始めた。 「最近、顔色があまり良くないな。病院に行ったほうがいいんじゃないか?」 箸を動かしていた彼女の手が止まった。 愛乃は、出かける前には必ず行き先を告げてきた。病院へ行ったあの日も例外ではなかった。 だが、彼は楓のことで頭がいっぱいで、そのことをすっかり忘れていた。 「暑くて、食欲がないだけ」 そう答えると、諒はすぐにキッチンへ声をかけた。 「木村さん、これからはもっとあっさりした料理を。愛乃の好きな果物も、暑気払いのデザートにして、毎日違うものを用意してください」 木村(きむら)は「はい」と返事をしたものの、すぐにはキッチンへ戻らず、玄関そばの棚に何かを置いた。 愛乃はその動きにつられて視線を向ける。 そこにあったのは――弁当箱だった。 あっという間に、愛乃の皿には、諒が骨を取り除いた魚と、殻を剥いた海老が山のように盛られていた。 諒は立ち上がり、彼女の額にそっと口づけを落とした。 「ゆっくり食べて。会社で急な会議が入ったから、行ってくる」 彼は手を洗い、出がけにあの弁当箱を忘れずに持ち出した。 愛乃はキッチンへ向かい、鍋の中を覗き込んだ。 そこにあったのは――ピーナッツ入りの粥だった。 その瞬間、瞳の光がすっと消えていった。 彼女はかつてピーナッツアレルギーでショック症状を起こしたことがあった。 それ以来、諒は家の中に一切ピーナッツ製品を持ち込ませなかった。 袖に少しでも殻のかけらが付いていれば、その場で使用人を解雇するほどだった。 だが、彼女にとって毒にも等しいピーナッツは――麻生楓の大好物だった。 愛乃は静かに階段を上り、スマホの監視アプリを開いた。 諒と楓の関係を疑い始めた頃、安心させるためだと言って、諒は自らのオフィスにカメラを設置したのだ。 『これで、もう誤解することもなくなるだろう』 しかし今、その画面は真っ暗だった。 予想通り――彼女の前で尻尾を見せるはずがない。 そう思った矢先、映像がふいに戻った。 聞こえてきたのは、楓の声だった。 「私はあなたの正妻なのに、どうしてこんなこそこそしなきゃいけないの?」 諒は粥をふうふうと冷まし、彼女の口元へ運んでいた。 「欲張るな。愛乃を失う危険を冒してまで、君にこの立場を与えているんだ」 楓は甘えるように彼の胸へ飛び込み、 「わかってるって。これはスリルってやつよ、ね?」 と笑いながら、カメラの方へ挑発的に視線を向けた。 だが、その声はあくまで穏やかだった。 「私には、あなただけでいいの」 しばらくして、諒は彼女の髪に口づけを落とし、低く呟いた。 「順番って大事だな。もし先に君に出会っていたら……愛乃は選ばなかったかもしれない」 その瞬間、愛乃の全身から力が抜け落ちた。 七歳の誕生日の記憶が蘇った。 母が階下の少年たちを指さし、柔らかく言った。 「愛乃、どの子が好き?これからその子に一緒に学校へ行ってもらいましょう」 長く考えた末、彼女は部屋の隅に立つ一人を指差した。 「あの子、ひとりぼっちみたいだから……私がそばにいてあげる」 ――諒、あなたが私を選んだんじゃない。私があなたを選んだの。 でも今は……後悔している。 愛乃は壁にかかる大きなウェディングフォトを見つめ、スマホを投げつけた。 ガラスが鋭い音を立てて砕け散った。 第3話 砕け散ったガラスの下で、スマホはまだ映像を流し続けていた。 諒は身をかがめ、腕の中の彼女をソファに押し倒した。 「俺だけでいいのか?じゃあ、これはどう思う?」 彼は手を上げ、一つのネックレスを垂らした。 愛乃の瞳は一瞬で縮んだ。 まったく同じネックレスを、彼はかつて彼女にも贈ったことがあった。 しかも、それは世界に一つしかない「一点物」だと言っていた。 彼女はすぐに手元のネックレスの写真を撮り、宝飾業の友人に送った。 返ってきた答えは―― 「贋物」 その二文字を見つめながら、愛乃はふっと笑みをこぼした。 手の中のネックレスも、この「妻」という肩書きも、全部偽物だ。 彼女はスマホを握りしめたまま、感極まって涙ぐみ、甘えるように話す楓の姿を見つめていた。 「もう一つだけ、願いがあるの……」 そのとき、諒から電話がかかってきた。 「愛乃、急に二日間の出張が入った。俺がいなくても、ちゃんと食事はしっかりとるんだぞ」 電話を切ると、彼女は無意識に車を走らせ、彼の会社の前まで来ていた。 ちょうど諒の車が出ていくところだった。 長い時間運転し続け、車はやがて山道へ入り、霧雨に煙る坂を進み、山門の前で止まった。 滑りやすい石段を、諒は楓を背負いながらゆっくりと登っていった。 ここは、愛乃にとって見覚えのある場所だった。 千段の石階段を登りきった先には、古い寺がある。 結婚してもなかなか子どもに恵まれなかった頃、義母の相川一荷(あいかわ いっか)が彼女をここへ連れてきた。 「一歩一礼、心を込めて祈れば、子宝に恵まれる」 一荷は結婚してからずっと、江崎愛乃に「相川家の男の子を産め」と強く求めていた。 どこかでこの寺の子宝祈願がとても効果的だと聞きつけ、雨の日でも構わず連れてきていたのだ。 一歩進むたびに額を地につけ、彼女の膝は苔に覆われ、やがて擦りむけて血がにじんだ。 最後の一段にたどり着いたとき、諒が駆けつけ、一緒に手を合わせた。 彼は母の迷信を責め、その後半年間、相川家には一度も帰らなかった。 彼女はまだ覚えている。あの日、寺で二人は縁結びの錠を掛けたことを。 噂によれば――この寺で祈願した二人が、門前の橋に錠を掛ければ、仏様が二人の絆を永遠に守ってくれるという。 まさか、再びここに来たのは、彼と別の女を追ってのことだった。 二人は橋の上で立ち止まった。 楓はぎっしりと掛けられた錠の中を探し回り、やがて一つの錠に手を伸ばした。 諒は笑みを浮かべ、ポケットから鍵を取り出した。 「まさか本当に見つけるとはな」 木陰から見つめていた愛乃は、無意識に拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだ。 次の瞬間、楓はその錠を外して山の下へ放り投げ、新しい錠をかけた。 「約束したでしょ?あなたと江崎さんの錠は、私が見つけたら好きにしていいって。 もう彼女は『元妻』なんだから、あなたとの錠なんて残しておく意味はないわ」 ――元妻。 愛乃は思い出した。 婚姻届を提出した日、諒が差し出した分厚い書類。 「君名義にするための不動産や資産だ」と言われ、彼女は中身も確認せずにすべて署名した。 その中に離婚届が混ざっているなんて、誰が想像できただろう。 たった七秒。 青春のすべてをかけて夢見た結婚生活は、七秒で終わった。 彼が楓と結婚したのは、その一年後――彼女が結婚適齢期に達するのを待つためだった。 楓の一年を待つ男が、愛乃に与えたのはわずか七秒。 これが、彼の言う「愛」だった。 諒が家に戻ったのは、予定より二日も遅れてからだった。 玄関先で木村が驚きの声を上げた。 「まあ、なんて綺麗な花……見たこともありません」 彼は誇らしげに花を差し出した。 それは寺の裏山の断崖絶壁にだけ咲く、希少な花。 代金は不要だが、手に入れるには命懸けで崖を登らなければならない。 愛乃はちらりと花を見て、「木村さん、花瓶に活けてください」とだけ言った。 「気に入らないのか?」 彼は彼女の冷たい態度に気づき、そっと抱き寄せた。 「怒らないで。遅くなったのは、テレビ局から君と一緒に出演する番組のオファーがあって、先に現地を下見していたからなんだ。 屋外ロケで景色もいいし、この機会に気分転換してほしい。最近、忙しいだろ?」 愛乃が返事をする前に、彼は木村に旅行の準備を指示した。 だがその直後、楓のSNSが更新された。 彼女は同じ花束を抱え、首筋には赤い痕がはっきりと見えた。 【彼が去ったばかりなのに、もう恋しくてたまらない】 愛乃は胸を押さえた。 この三年間、彼女が大切にしてきた幸せも、きっとこうして何度も繰り返されてきたのだろう。 しかし彼女に与えられたのは、いつも偽物ばかりだった。 痛みは一瞬で過ぎ去り、残るのはただの麻痺だけ。 ……きっと、病気がまた悪化したのだろう。 第4話 収録当日。 二人はお揃いのスーツに身を包み、席に着くと、諒は終始愛乃の手を握っていた。 恋愛の思い出を問われると、彼は一言一句間違えることなく答え、合間には彼女のクッションの位置まで気遣って整えた。 「幼なじみから結婚へ、一度も甘さを失わず……まさに理想のカップルですね。これからも末永く――」 ガタン! 司会者の言葉を鋭い音が遮った。 全員の視線が向いた先には、倒れたフラワースタンドのそばで気まずそうに立つ楓と、その横でマネージャーが鼻先まで指を突きつけて低く叱責している姿があった。 諒はほとんど反射的に愛乃の手を放し、大股でその場に駆け寄る。 「君はクビだ」 視線は楓の赤く腫れた前腕に落ちていたが、言葉はマネージャーに向けられていた。 「部下の失態は上司の責任でもある。それに、公の場であんな扱いをすれば、会社のイメージも損なわれる」 反論の余地を与えない強い口調だった。 愛乃は席に残ったまま、周囲の視線が自分と楓の間を行き来しているのを感じていたが、彼女はずっと上品な微笑みを崩さなかった。 インタビューは再開されたが、諒は明らかに集中できていない様子だった。 「……あれ?結婚記念日を間違えましたね?」 司会者が軽い笑いを交えて指摘する。 握られた手が一瞬、ぎゅっと強く締められた。 彼は咄嗟に愛乃を見やり、すぐに言い訳を口にした。 「愛乃が言ったんだ。あまりに幸せすぎて、毎日が新婚のようだって」 会場からは羨望の声が上がった。 だが愛乃には分かっていた。 彼は間違えてなどいなかった。 無意識に口にしたのは、楓との結婚記念日だったのだ。 愛乃は微笑みながら、水を飲むタイミングでそっと諒の手を引き抜き、そのまま戻さなかった。 最後のコーナーでは、諒が愛乃を背負い、花のアーチをくぐる予定だった。 だが彼女が首に腕を回した瞬間、脇に立っていた楓が突然倒れた。 愛乃が反応する間もなく、背負われていた力が消えた。 彼女はよろめいて地面に落ち、膝を石で擦りむいた。 その間、諒は楓を横抱きにし、そのまま出口へ駆けていった。 カメラに映っていたのは、愛乃のひとりぼっちで乱れた姿だけだった。 スタッフが彼女を支え、病院へ運んだ。 病室の中、楓の頬には涙の筋が光っていた。 「早く江崎さんのところに戻って。あの『愛のドキュメンタリー』を台無しにしないで」 諒は眉をひそめた。 「何を拗ねているんだ。俺と愛乃が番組に出たのは、会社の宣伝のためだ。 江崎グループとの提携もあるからな」 楓はさらに激しく泣き、彼の腰に腕を回した。 「私がダメだから、あなたを助けられない。全部私のせい」 「何を言ってる。君は全部を俺にくれたんだ。俺は君に人前で言えない立場しか与えられないのに」 彼は優しく彼女の頭を撫で、「辛い思いをさせてすまなかった」と呟いた。 その声を、病室の外で聞いていた愛乃の視界が揺れた。 楓の声が続く。 「木村さんの料理、大好き。毎日食べられたらいいのに」 諒は彼女の頬に手を添え、涙を拭った。 「そんなの簡単だよ」 夜、木村は三度も料理を温め直し、やっと諒の車が家の門をくぐった。 愛乃の膝に巻かれた白い包帯を見て、彼はようやく昼間の怪我に気づいたらしい。 抱きしめて謝り、台所に戻ると愛乃の好きな小皿料理を何品か作った。 「罰として、これから毎日料理するよ。嫁様に謝らないと」 木村は笑いながら言った。 「そうなると、私、失業しちゃうかもしれませんね……」 翌朝早く、木村は愛乃に別れを告げに来た。 第5話 夕方、楓のSNSが再び更新された。 【欲しいものは、手に入れる】 写真には、愛乃がこの三年間食べ続けてきた料理が並び、左下には海老の殻を剥く手が写っていた。 オーダーメイドの袖口には、彼女の英語の名前が刺繍されていた。 スマホが光り、諒からメッセージが届いた。 【今夜も残業だ。ちゃんとご飯は先に食べてね】 愛乃は冷蔵庫を開けた。 健康を気遣う諒は、木村に「食材はため込まず、毎日新鮮なものを使うように」と常々伝えていた。 だから冷凍庫には、たった一袋の冷凍うどんしか残っていなかった。 ……彼はそれをすっかり忘れていたらしい。 簡単に夕食を済ませた愛乃は、布団にくるまりながらもなかなか眠れなかった。 慣れ親しんだ恐ろしい窒息感がじわじわと襲い、彼女は袖をめくると、両腕に赤い発疹が浮かんでいた。 アレルギー反応だった。 頭の中には、あの弁当箱の記憶がよみがえった。 ――少し前、楓にピーナッツ入りのお粥を作ったあの鍋。 彼女はその鍋で、さっきうどんを煮た。 意識がぼんやりとし、視界が暗くなった。 そしてそのまま床へドサリ―― 果てしない闇の中、彼女は夢を見た。 父が急逝したあの日。 諒は別の街で大事な商談中だった。 「すぐ戻る」――電話越しの彼の声には迷いがなかった。 「大丈夫……そっちの方が大事だから」 父の書斎に座っていた愛乃は、涙がもう枯れていた。 「待ってて」 彼はそう言って、電話を切らなかった。 翌朝、愛乃はハッと目を覚まし、無意識に携帯を手に取ってつぶやいた。 「諒……まだいるの?」 「いるよ」 すぐに返事が返ってきた。 次の瞬間、部屋の扉が勢いよく開き、彼は歩み寄って彼女を抱き締めた。 「もう泣くな。これからは叔父さんの代わりに、俺が君を守るから」 ――あの頃の彼の瞳には、彼女だけが映っていた。 けれど、どれほど深い愛も、マンネリ化には勝てなかった。 「もう、少し優しくしてあげてよ。眉をひそめてるよ?」 その一言で愛乃は夢からふと目を覚まし、手の甲に鋭い痛みを感じた。 楓の声が響いた。 「ごめんなさい、私が食いしん坊で木村を借りたせいで……江崎さんがピーナッツを誤って食べちゃったの」 「君のせいじゃない、愛乃が不注意だったんだ」 諒の声色はすぐに柔らかくなった。 「木村さんは君の好きなピーナッツのお菓子を作ったんだ。さあ、先に帰って休んで」 そう言って楓をなだめ部屋を出し、扉が閉まるとすぐにベッドへ駆け寄った。 目を覚ました愛乃を見て、彼の瞳はぱっと輝いた。 「愛乃、少しは楽になったか?」 点滴をしていない手を握りながら、諒は言った。 「本当に心臓が止まるかと思ったよ……帰宅したら君が倒れてたから」 「もう家の調理器具は全部取り替えた。ピーナッツはもう絶対にないから」 愛乃は黙って彼を見つめ、ピーナッツの件については問い詰めなかった。 唇を動かし、淡々と言った。 「……木村さんのスープが飲みたい」 一瞬、彼は固まった。 だがすぐに笑顔を作った。 「忘れたの?木村さんは実家に帰ったんだ。数日後に新しい栄養士が来るよ。彼女のほうがもっとプロだから、きっと気に入ると思う」 愛乃の瞳がわずかに陰り、自嘲が滲んだ。 「そう……それは楽しみだわ」 諒は彼女の手を唇に当てた。 「当然だ。君が欲しいと言うなら、星だって摘んでやる」 愛乃はそっと手を引き、顔を背けた。 諒は全世界を彼女に与えられた。 窓の外は、墨を流したような闇が満ちていた。 まるで、すべてを呑み込んでいくかのように。 ――諒、月を聖杯に捧げたあなたは、その輝きに慣れ、やがて目を背けた。 あなたを愛したことに悔いはなかった。 だが、後悔はあった。 第6話 退院の日、諒は自宅でささやかな宴を開いた。 数人の栄養士が腕を競い、長いテーブルには色とりどりの料理がずらりと並んでいた。 背後からそっと近づいた彼の掌が、愛乃の腰に触れた。 「今日の料理は、全部君が先に味見してからじゃないと、誰も手をつけられない」 「気に入った一品を選んで、君の近くに置いておこう」 柔らかな声音だったが、愛乃の胸はもうときめかなかった。 ただ、手を引かれるまま会場の中へと歩を進めた。 姿を見せた瞬間、視線が一斉に彼女へ集まった。 楓は隅に追いやられていたが、その眼差しは愛乃を射抜くように離れなかった。 ――かつては、自分もこういう場で主役だったのに。 今は、愛乃の「残り物」しか口にできないのか。 瞳に宿る冷たい光が溢れそうになったその時、栄養士が新しいデザートを運び込み、それを楓の隣に置いた。 カチン―― 皿が触れ合う小さな音が、宴の空気を裂いた。 楓の前にあるミルフィーユの一角が、すでに欠けていた。 「麻生さん、奥様はまだ召し上がっていませんよ」 誰かがそう指摘した。 楓は落ち着いた様子でフォークを置いた。 「すみません、お腹が空いていて」 そして、ゆっくりと次の一切れを口に運んだ。 周囲にざわめきが広がった。 「この子、誰?」 「行儀も礼儀もない……」 「どうやって入ったんだ?」 場の空気が固まり、愛乃は疲れを覚えながら人混みをかき分けて進んだ。 「皆さん、どうぞご自由に……私は少し疲れたので――」 「あっ――!」 言い終える前に、なぜか楓と一緒にケーキの中へ倒れ込んだ。 起き上がった時、ドレスも髪も生クリームでべっとりと汚れていた。 「どうしたんだ?」 駆け寄った諒は、すぐにハンカチを取り出し拭こうとした。 しかし力が強すぎ、手の甲の針跡に触れた瞬間、愛乃は思わず声を上げた。 その声に眉をひそめた彼は動きを止め、ゆっくり楓へと顔を向けた。 「そんなに好きなら、このデザート作った栄養士、君にやる」 「解雇は禁止だ。三年間、毎日欠かさず食え。一日でも抜いたら……俺が直接監視する」 驚きの声があちこちから漏れた。 「これ、海外で三ツ星のミシュランシェフじゃない!?どうやって払うのよ!」 「泣きながら食べることになるんじゃない?」 楓の顔は徐々にこわばり、目を赤くして退席した。 ――もし、諒が追いかける眼差しにあんな未練と心配がなければ、愛乃は芝居だと気づかず信じただろう。 力が抜け、席へ戻ろうとした瞬間、愛乃は彼に腕を引かれ人目のない場所へ連れて行かれた。 「どうしてあんなことで怒るんだ?子供じみた食い意地だけだろ」 「怒ってないわ」 その平静さが、かえって彼を苛立たせた。 「怒ってない?じゃあ、あれは何だ。あの場で彼女を懲らしめただけって言うのか」 愛乃は顔を上げ、彼の鋭い眼差しを見つめた。 そこには宴で見せた優しさの欠片もなかった。 「何を言ってるの?わざと彼女を巻き込んで転ばせたとでも?」 「監視カメラを調べてみて」 諒は眉をひそめた。 「俺は絶対に君を疑わない。だが愛乃、嫉妬まじりの小細工はやめろ。君らしくない」 彼の瞳に映る、自分の歪んだ影を見て、愛乃は急に滑稽に思えた。 ――かつて「会いたい」と言えば十二の時差を飛び越えて来た男が、今は説明すら聞かない。 「私を信じていないのね」 それは問いではなく、静かな宣告だった。 ポケットの携帯が震え始め、諒は振り返りもせず車に乗り込んだ。 主役がいなくなり、宴は白けて終わった。 席に戻った愛乃は、ナイフとフォークを手に取り、無心に咀嚼し飲み込んだ。 二口、三口…… やがて吐き気に襲われ、トイレへ駆け込み吐いた。 便器に流れたのは、先ほどの料理とともに、感情を抑えるための白い錠剤だった―― 第7話 翌日、正午近くになってようやく、愛乃は体を起こす力を取り戻した。 階下へ降りると、諒が台所で忙しくしている姿があった。 テーブルには出来上がった昼食と、手を付けていない朝食まで並んでいた。 彼がいつ帰宅したのか、愛乃は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。 「栄養士たちはどうした?」 背後から近づき、彼は彼女の手を取った。 昨日、怒りをぶつけた相手とは思えぬほどの、いつもの甘やかな声で諒は言った。 「選べなかったなら、全員残せばいい。俺が払える」 愛乃は動かず、淡々とした眼差しで問い返した。 「……麻生さんが連れて行った木村さんも含めて?」 握られた手をはじくように振り払った。 諒は振り向き、瞳に苛立ちをにじませた。 「いい加減にしろって言ってるだろ!」 愛乃は少し驚いた。 二十年以上の付き合いの中で、諒がこんな大声を上げたのは初めてだった。 「いつまで拗ねるつもりだ? 愛乃、俺の我慢にも限界がある」 愛乃ははっとした。 その言葉を最後に聞いたのは、子供の頃、自転車の練習をしていた時だった。 何度も彼の胸に倒れ込み、彼は笑いながらからかっても、決して手を離さなかった。 だが今では、楓のことを一言でも口にすれば、簡単に彼を苛立たせてしまうようになっていた。 愛乃はふいに、これ以上彼と向き合う気を失い、バッグを手にして部屋を出た。 車のドアを閉める瞬間、屋内から食器が床に落ちる音が響いた。 深夜になってようやく帰宅すると、リビングのソファに楓が座っていた。 「りょ……いえ、相川社長は出張に出る予定です。私は仕事で来ただけです」 愛乃は何も言わず、そのまま階段を上がった。 しばらくして、楓がドアをノックした。 「相川社長に頼まれて、荷造りを手伝いに来ました」 愛乃は雑誌をめくりながら片手を上げ、クローゼットの方を示したが、楓はすでに中へ入っていた。 楓の指は諒のスーツを一着ずつなぞり、ガラスのショーケースに収まった宝飾へと移った。 その目には露骨な欲が光っていた。 愛乃はそれらすべてを見なかったことにした。 楓がスーツケースを引きずって出てきた時、ちょうど諒が帰宅した。 「今回の出張は南の島へ行く。数日滞在するが、来たければ一緒に来い」 楓の表情が一瞬ぎこちなくなり、隣のスーツケースが倒れて彼女の脚にぶつかった。 「危ない!」 諒は駆け寄り、抱き寄せるようにして楓を支え、彼女のスカートをめくって怪我を確かめようとした。 楓は困ったふうに彼の手を押さえた。 「社長……江崎さんが見てます」 その声で、諒は手を離した。 愛乃は顔を上げず、ただ淡々と彼の問いに答えた。 「お二人で楽しんできてください」 楓は安堵の息を漏らした。 「江崎さん、私たちは仕事で行くんです、誤解しないでください」 「じゃあ――仕事、頑張って」 愛乃の声に棘はなかった。 だが楓は口を尖らせ、不満そうな表情を浮かべた。 案の定、諒の顔色は険しくなり、スーツケースをひったくるように掴み、楓を連れて階段を下りていった。 「今夜出発する」 車のエンジン音が遠ざかり、愛乃は薬を飲んで眠りについた。 夢の中で、彼女は初めて出会った頃の諒を見た。 「愛乃、どうして昨日、放課後に待っててくれなかった?」 「愛乃、なんであいつに凧を取ってもらったんだ? 俺を呼べばよかったのに」 「……愛乃、明日も一緒に遊ぶ?」 枕は涙で濡れていた。 暗闇の中で愛乃は目を開き、心の中で問いかけた。 ――諒、あなたはまだこんな夢を見るのだろうか? 第8話 出張三日目、楓のSNS更新が一気に増えた。 涼しげな服装の甲板ショット、美しい風景の登山写真、上品なレストランでの食事写真…… 変わらないのは、どの写真の隅にも必ず諒の姿が写っていることだった。 最新の投稿では、彼女は堂々と彼の腕に手を回し、諒の横顔がはっきりと映っている。まるで新婚夫婦のように。 投稿文には「上司と有給旅行中、邪魔しないでね」と書かれていた。 愛乃の親指が画面の上で一瞬止まり、うっかり「いいね」を押してしまった。 三秒も経たないうちにスマホが震え、画面に諒の名前が表示された。 「今夜は嵐になるらしい」 受話口からは、彼の声と共に波の音がはっきりと聞こえた。 「戸締りはちゃんとして、雷が鳴っても怖がるな」 窓の外では、雨がガラスを絶え間なく叩き続けていた。 昔、彼女が一番怖がっていたのは雷雨の夜だった。 その頃の諒は必ず予定を早めて帰宅し、氷のように冷たい彼女の足をそっと抱きしめて温めてくれた。 その腕の中にいれば、世界は静まり返った。 今、嵐に向き合うのは彼女一人だった。 諒がまだ何かを話していたが、愛乃にはよく聞き取れなかった。 そのとき、突然、澄んだ女性の声が割り込んできた。 「諒!早く!花火が始まるよ!」 「えっ、私の名前になってる!」 「これ、私へのサプライズ?」 「もう、すっごく嬉しい!」 その喜びの声を聞きながら、愛乃の頭に海辺ではしゃぐ楓の姿が浮かんだ。 受話器の向こうで衣擦れの音がし、諒は短く「早く寝ろよ」と言って電話を切った。 無機質な「ツーツー」の音と雷鳴が重なり合い、やがて稲光が夜空を裂いたとき、彼女の涙は窓の外の雨と一緒にこぼれ落ちた。 夜が明けると、雨は止んでいた。 愛乃が窓を開けると、庭は荒れ果てていた。 結婚の際に諒と共に植えた薔薇はすべて風雨に打ち砕かれ、花びらが地面に散っていた。 昔なら、きっと長い間心を痛めただろう。 しかし、別れが迫った今は、彼女は自分に言い聞かせた。 「留められないものは、無理に掴もうとしなくていい」と。 愛乃はスーツケースを広げ、自分の持ち物を整理し、持っていけないものはひとつひとつ壊して捨てた。 彼女は自分の存在を示すものを、この家から丁寧に取り除いていった。 再びスマホが震え、また諒からのメッセージだった。 十数枚のジュエリーの写真と共に、 【ここ数日、俺の態度が悪くてごめん】 【全部君のために選んだプレゼントだ。気に入ってる?】 【なんで返事をしないんだ?もうすぐ家に着く。会いたかった】 彼女は写真を開かずチャットを閉じた。 そして、あの日のオフィスと宴会での監視映像を保存した。 ――証明するためだった。 自分は変わっていない。 この関係を壊したのは彼自身なのだと。 突然、雲の合間から陽が差し込み、部屋を照らした。 愛乃は三年過ごした部屋を最後に見回した。 去り際、彼女は婚約指輪とスマホをリビングのテーブルに置いた。 それ以外には何も残さなかった。 ふと思った。 三年前に彼が仕組んだ離婚のおかげで、去る前の面倒なことがずいぶん減ったのだと。 玄関の棚に鍵を置き、ドアを閉めた。 荒れた庭を歩く愛乃の足取りは軽かった。 それから先、二人はきっと春の花と冬の雪のように、二度と交わることはなかった。