さよならの後に咲く愛

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「もう決めました。村上(むらかみ)先生、離婚協議書を作成してください」 星奈(せいな)は、五周年の結婚記念日を、夫と共にではなく弁護士...

Chương (1)

第1章

「もう決めました。村上(むらかみ)先生、離婚協議書を作成してください」 星奈(せいな)は、五周年の結婚記念日を、夫と共にではなく弁護士事務所で迎えていた。 家では、隆成(りゅうせい)が自分の秘書の雫(しずく)をもてなしている。 妻であるはずの星奈が、家を出て行かされる立場になっていた。 五年もの間、隆成は会社で自分たちが夫婦であることを一度も公にしなかった。 星奈は、もう一度だけ、ちゃんと話をしたいと考えていた。 だが、隆成が「雫がひとりで家にいるんだ。停電で困っているみたいだから、こっちでご飯を食べさせることにしたよ。星奈、いいよね?」と何気なく言ったその瞬間、星奈は悟った。もう、何も期待する必要はないのだと。 離婚こそが、この五年間の関係を終わらせる唯一の答えだ。 第1話 「もう決めました。村上(むらかみ)先生、離婚協議書を作成してください」 星奈(せいな)は、五周年の結婚記念日を、夫と共にではなく弁護士事務所で迎えていた。 家では、隆成(りゅうせい)が自分の秘書の雫(しずく)をもてなしている。 妻であるはずの星奈が、家を出て行かされる立場になっていた。 五年もの間、隆成は会社で自分たちが夫婦であることを一度も公にしなかった。 星奈は、もう一度だけ、ちゃんと話をしたいと考えていた。 だが、隆成が「雫がひとりで家にいるんだ。停電で困っているみたいだから、こっちでご飯を食べさせることにしたよ。星奈、いいよね?」と何気なく言ったその瞬間、星奈は悟った。もう、何も期待する必要はないのだと。 離婚こそが、この五年間の関係を終わらせる唯一の答えだ。 …… 「村上先生、離婚協議書を今日中に作っていただけませんか?」 別荘の中から、男と女の楽しげな笑い声が聞こえる。その声を耳にして、星奈はもう気持ちを抑えきれず、弁護士に電話をかけていた。 夜風は肌を刺すほど冷たい。でも、星奈の心はそれ以上に冷え切っていた。 ここは本当は星奈の家。今日も、本来なら五年目の結婚記念日であるはずなのに。 それなのに、星奈は夫に家を追い出され、彼の女性秘書にその席を奪われている。 電話口の向こうからは、静かなため息が聞こえてきた。「星奈さん、一度お会いして詳しくお話ししましょう」 一時間ほど前、星奈は急いで家に帰ってきて、テーブルに並ぶ色鮮やかな料理を前にして、ひとつため息をついた。 「隆成、私が辛いものが苦手なの、知っているでしょう……」 星奈は決して好き嫌いが多い人間ではない。 けれど、今日の食卓に並んだ料理の中で、星奈が口にできるものはほとんどなかった。 どんなに好き嫌いがなくても、身体を壊してまで食べたくはない。 星奈が唐辛子にアレルギーがあることは、隆成も知っているはずだ。 だからこそ、この五年間、星奈が作る食事はいつも控えめな味付けが中心だった。 なのに今日は、隆成が注文した料理はどれも刺激の強い四川料理ばかり。 隆成は、テーブルの上で唯一唐辛子が入っていないトマトと卵のスープだけを星奈の前に押しやると、不機嫌そうに言った。 「俺が普段どれだけ忙しいか分かってるだろ。こんな些細なことまで気を配る余裕なんかないし、会社だって、俺がいなきゃ回らないんだ。せっかく時間を作ってお前と飯を食ってるんだから、余計な文句は言うな。それに、このトマトと卵のスープには唐辛子が入ってないだろ?」 星奈は、隆成の心が自分から離れていることに気づいていた。 もしかすると、最初から、隆成は星奈に関心なんてなかったのかもしれない。 それでも、まさか五年間の積み重ねをここまで無視され、あからさまな冷たさで突き放されるとは思っていなかった。 今日は五周年の結婚記念日。テーブルには十二皿もの料理が並んでいるのに、星奈が食べられるのは一皿だけだった。 星奈が何か言いかけたそのとき―― 突然、隆成の携帯電話が鳴った。 隆成は電話に出ると、楽しげな声で誰かを迎え入れ、キッチンから新しい食器を持ち出して、自分の隣の席に丁寧に並べ始めた。 電話を切った後、やっと星奈の方を向いて聞く。 「雫がひとりで家にいるんだ。停電で困っているみたいだから、こっちでご飯を食べさせることにしたよ。星奈、いいよね?」 本来なら尋ねているはずのその言葉も、隆成が口にすると、ただの宣言にしか聞こえなかった。 星奈は苦笑するしかなかった。 ここまで段取りを進められてしまえば、断ったところで何も変わらない。 「そういえば星奈、さっき何か言いかけてなかった?」 隆成は、ふと思い出したように星奈に尋ねた。 今日は五年目の結婚記念日。 星奈は、せめてこの日だけは二人きりで食事をしたいと思っていた。本当は、誰にも邪魔されたくなかった。 言えば隆成が不機嫌になることは分かっていたけれど、星奈は勇気を出して口を開いた。 「隆成、今日は結婚記念日だから、二人きりでゆっくり話をして、一緒にご飯を食べたいの……」 やはり、星奈の言葉は最後まで届かない。 隆成は眉をひそめ、あからさまな不機嫌さを見せながら、手に持っていたお椀をテーブルに乱暴に置く。 「結婚記念日くらい分かってるよ。いちいち言わなくたって、まるで蝿みたいにうるさいんだよ。 これだけの料理を頼んだって、お前一人じゃ食べきれないだろ。あの子は毎日俺のために働いてくれてるんだ。今日はその子にもご飯を食べさせてやるだけだ」 隆成の強い口調に、星奈はうつむいた。 何も言わず、目の前のトマトと卵のスープを静かに口に運ぶ。 気がつくと、目の奥が熱くなっていた。 ぽろぽろと涙がスープに落ちていく。でも、星奈はそれを飲み込んだ。 これだけの料理、一人ではどうやっても食べきれない。 星奈は無言でスープを飲み干し、もう一度顔を上げた時には、普段通りの表情を取り戻していた。 ただ、うっすら赤くなった目元に、隆成が少しでも気づいてくれたら――そんな淡い期待すら、もう残っていなかった。 「隆成、私たち、離婚した方がいいと思う」 向かい側の隆成は、ずっとスマホを見つめたまま、ぼんやりと笑みさえ浮かべていた。 星奈の言葉が耳に入っていなかったのか、「あ?」とだけ返す。 星奈は感情を押し殺したまま、表情を変えずに座っていた。 もう一度言い直そうとしたそのとき、またしても隆成に遮られる。 「雫が来たみたいだ。何か用があるなら、あとで話してくれ」 星奈は口を開いたが、隆成はそれさえ待つことなく、足早に部屋を出て行った。 その背中をただ見つめるしかなかった星奈は、そっと口元を引き締め、スマホの画面を指でなぞった。 【あとで弁護士事務所に行きます】 これからはもう、隆成が他の女性と関わるのを私が邪魔することもなくなる。 五年の月日が流れ、結局、あの人の母が亡くなる前に願ったことも叶わなかった。 でも、もう星奈は、これ以上待つことはできなかった。 第2話 まもなくして、隆成は若い女性を連れて家に戻ってきた。 星奈は、その女性をよく知っている。 彼女の名前は、雨宮雫(あまみや しずく)。 実はみんな、同じ会社で働いている同僚だ。 隆成は会社の社長、雫は彼の秘書、そして星奈は会社の財務部長を務めている。 ただし、職場で余計な噂を避けるため、会社の誰も星奈と隆成が夫婦であることを知らない。 毎日の出退勤も、隆成はわざわざ星奈と時間をずらしている。 「星奈さんもここにいたんですね。隆成さん、私のこと騙してるのかと思いました」 雫はそう言うなり、星奈の腕をつかんできた。 声にはかすかな甘さと、どこか計算されたものが混じっている。 「ねえ星奈さん、こっそり教えてください。あなたと隆成さんって、どういう関係なんですか?」 星奈は少し戸惑いながらも、雫の手をそっと振りほどき、本当のことを伝えようとした。 けれど、その前に隆成が口を開く。その声は、雫にだけは優しいけれど、どこか諦めたような、やるせなさも感じさせる口調だった。 「俺と星奈はただの同僚だ。今日は会社の会計を整理していたところに、たまたまお前が来ただけだ。お前みたいに、仕事が終わったらすぐソファで寝転がってテレビを見るわけじゃないからな」 あっさりと「同僚」だと言い切る隆成。 星奈は向かい側からその姿をじっと見つめていた。体が硬直していくのが自分でもわかる。 会社ではいつも、二人は「同僚」として振る舞ってきた。 けれど、隆成の口からこうしてはっきりと言われると、その一言一言がナイフのように胸に突き刺さる。 星奈は歯を食いしばり、悔しさを押し殺しながら口を開く。 「隆成、私たちは本当は……」 「やめろ」 隆成は星奈の言葉を遮り、冷たく、情け容赦ない目を向けてきた。 「余計なことを言う必要はない。この件は俺が決めることだ」 星奈はがっかりして首を横に振った。心の奥にわずかに残っていた期待も、静かに消えていく。 そのとき、雫がにっこり笑った。二人が「同僚」だと聞いた途端、何の遠慮もなく隆成の隣の席に座り、声を弾ませる。 「わあ、私の好きなものばっかり。隆成さん、本当に優しいですね」 そう言って、雫は隆成の頬に軽くキスをした。 隆成は一瞬呆然としたが、すぐにハッと我に返り、こっそり星奈の様子を伺う。 星奈がずっと下を向いて、何も見ていないように見えると、隆成はほっと息をついた。 「さっさと食べろよ。お前が好きそうなものばっかり頼んだんだから」 雫は料理をほおばりながら、やや拗ねた声をあげた。 「もう、隆成さんって本当にひどいんだから。私が住んでるアパート、今日停電になるって知ってたなら、ちゃんと教えてくれればよかったのに。お風呂入ってる時に停電して、びっくりしちゃった」 「怪我しなかったか?悪かったよ、そんなことがあると思わなくて」 「うそうそ。停電の時はもうお風呂から出てたから、からかってるだけです。 これが今日のサプライズですけど、気に入ってくれました?」 …… 二人はまるで他人の目など気にせず、楽しそうにやり取りを続けていた。 星奈は、まさかここまで親密で、しかも遠慮のない会話が交わされているとは思っていなかった。 やがて隆成が雫のために、次々とおかずを取り分ける。 そのときになって初めて、星奈はテーブルいっぱいの料理がすべて雫の好物だということに気がつく。 待ち焦がれていた結婚五周年記念日のはずが、星奈はただの脇役にされていたのだ。 隆成が早く帰宅し、豪華な食事を用意していたのも、すべて雫のためだった。 星奈は、隆成の心がいつから離れたのか、やっと理解できた気がした。 その重苦しい現実は、星奈の胸に鉛のようにのしかかり、呼吸さえ苦しくなる。 星奈は静かに立ち上がった。 「他に用がなければ、私はもう帰ります」 雫は椅子に座ったまま、言った。「星奈さん、何か食べていかなくていいんですか?」 「いいの、遠慮しておく」 「それじゃ、送りますね」 雫は立ち上がり、まるでこの家の主人のように星奈を見送ろうとする。 だが、隆成は雫の肩に手を置いて、やんわりと止めた。 「道は知ってるから、送らなくていい」 それが、星奈がこの家を出る時に隆成からかけられた最後の言葉だった。 引き止めるそぶりも一切ない。 星奈は別荘の外に立ち、ひんやりした夜風に吹かれていた。 星奈が道を知っているのは当然だ。本来ここは、星奈の家だったのだから。 それなのに、もう自分の帰る場所ではない。 きっと、この家に住める時間も、もう長くはないのだろう。 第3話 空から細かい雨が静かに降り続いていた。 涼しい風が木々を揺らし、道の両側で枝葉がそよそよと音を立てている。 けれど、その風がどんなに吹いても、星奈の心はもう揺らぐことはなかった。 星奈は迷いなく電話をかけ、一つの目的を胸に、まっすぐ弁護士事務所へと向かった。 エレベーターに乗り込み、慣れた足取りでビルの一室に向かう。 ここに来るのは、星奈にとって初めてではない。 「村上先生、離婚協議書、今日中に仕上げてもらうことはできますか?」 向かいに座る村上修平(むらかみ しゅうへい)は眉をひそめ、手元の記録をめくっている。 「半分はもうできています。今日中に残業すれば、なんとか間に合うでしょう。 でも、星奈さんの以前の希望では、離婚は来月の予定でしたよね。どうしてこんなに早めることに?」 星奈は、わずかに微笑んだ。 「痛みが長引くくらいなら、早く終わらせた方がいいと思って。どうせ遅かれ早かれ同じことだから」 星奈は事務所に深夜まで残り、手にしたのは一冊の黒いファイルだった。 事務所を出てからも、星奈の眉間の皺は一度も緩むことがなかった。 「この離婚協議書には、双方の署名が必要です」 女である自分の名前は、すでにすべて記入し終えていた。 残るのは、隆成にどうやってサインさせるか。それが、もっとも大きな問題だった。 ふいに携帯の呼び出し音が鳴り響く。 画面には【安藤隆成(あんどう りゅうせい)】の名前が表示されている。 「星奈、今どこにいるんだ。こんな時間まで帰らないなんて。住所を教えてくれ、迎えに行く」 星奈は少し考えた末、ひとつの住所を伝えた。 「ええ、迎えに来て。ちょうど話したいことがあるの」 もし本当に迎えに来てくれるなら、このタイミングで全てを打ち明けるつもりだった。離婚の決意も、これからのことも、全部―― だが、一時間、二時間と時間は過ぎても、隆成は現れなかった。 やがて星奈がスマホを手に取り、電話をかけようとしたとき、ふとSNSのタイムラインが目に入った。 雫の自宅は真っ暗で、一本のろうそくの灯りだけがかすかに部屋を照らしている。その写真には、隆成の左手が映り込んでいた。 人影は薄暗くて分からなくても、その薬指の結婚指輪を星奈が見間違えるはずがなかった。 【家が停電で真っ暗。社長が一緒にいてくれた!】 星奈はしばらくその画面を見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。 どうりで迎えに来ないはずだ。誰かに足止めされていたというわけか。 雫の投稿に【いいね】だけ押して、星奈は歩いて家に戻った。 家に着くと、身支度を済ませてベッドに横になる。 半分眠りかけたころ、ようやく隆成が帰ってきた。 ベッドに入るなり、ごく自然な動作で星奈の腰に手を回してくる。 隆成はそのまま、星奈を自分の胸に強く引き寄せた。 冷たい唇が星奈の首筋をかすめていく。 「星奈、俺たち、ずいぶんご無沙汰だったよな……」 隆成がそう囁くと、どこか甘ったるい香水の香りが鼻をかすめた。 その香りは、雫がいつも身につけているものとまったく同じだった。 思わず鼻がむずむずして、星奈はくしゃみをした。 その瞬間、なんとも言えない嫌悪感がこみ上げてくる。 疲れた声で、星奈は静かに隆成の腕を押しのけた。 「今日はやめておくわ。ちょっと、体調がよくないの」 これが、星奈が初めて隆成を拒絶した瞬間だった。 隆成は少し驚いたような表情を見せる。 それでも、星奈が何度もくしゃみをしているのを見て、ふと今日自分が約束を破ったことを思い出したのか、どこか申し訳なさそうな顔になった。 「星奈、もしかして風邪か?病院に連れて行こうか。 今日は本当にすまなかった。会社で急に仕事が入って、迎えに行くつもりが間に合わなかったんだ」 星奈は目を閉じたまま、かすかに首を振る。「大丈夫だから」それだけ言うと、もう口をつぐんだ。 五年間同じベッドで眠ってきたこの男は、結局、一度も星奈に本当のことを話してくれたことがない。 隆成に隠れて離婚協議書を作ったことに、わずかに感じていた罪悪感も、もうすっかり消えてしまっていた。 第4話 翌朝も、二人はいつものように前後して別荘を出て、会社へと向かった。 星奈が会社のビル前に着くと、ちょうど隆成が雫を連れて車から降りてくるのが見えた。 隆成は、星奈との関係については誰に対してもはっきり説明しようとしないのに、雫との親しげな様子はまったく隠そうとしない。 「自分たちはやましいことなんて何もない。堂々としていればいい」と、隆成はよく言っていた。 まるで、星奈との関係だけが、人に隠したい後ろめたいものだと言わんばかりだった。 星奈の姿を見つけると、雫は駆け寄ってきて、小さな包みを差し出した。 「星奈さん、偶然ですね。これ、昨日のお礼に買ったお菓子です。昨日SNSの投稿にいいねしてくれたから、そのお返しです」 隆成はずっと雫の後ろを歩いていたが、その一言に目をとめた。 「いいねって?」 雫はさっそくスマホを取り出して、昨日の投稿画面を見せる。 隆成の目が一瞬鋭く細まる。 昨日自分がついた嘘を思い出したのか、どこか動揺した様子で星奈を見つめた。 しかし、星奈が穏やかにお菓子を受け取ったのを見て、隆成はほっとした表情になる。 「きっと星奈は、すべてを結びつけて考えていないんだ」そう自分に言い聞かせる隆成。 星奈は「ありがとう」と微笑んで包みを受け取り、そのままエレベーターに乗り込んだ。 星奈が去ったあと、隆成は険しい表情でその背中を見送った。 どこか今日の星奈は、いつもと違う。隆成にはそう感じられたが、はっきりとした理由は分からなかった。 会社に到着すると、隆成はすぐに財務室の社員を呼び、星奈の最近の仕事ぶりについて尋ねる。 「昨夜、部長が村上法律事務所に行くのを見ました。ご家庭で何かあったんですか?」 その一言に、隆成の胸はざわついた。 家族である自分が知らない理由で、星奈が弁護士を訪ねるはずがない。 心の奥に、不安の種が芽生えた。 昨夜星奈が伝えてきた住所が、ちょうど法律事務所の近くだったことも気になる。 問いただそうとしたその時、星奈が自らオフィスのドアをノックした。 「社長、先月分の給与明細です。こちらにサインをお願いします」 星奈はバッグから黒いファイルを取り出し、隆成に手渡す。 必要な署名欄には、すべて付箋が貼られている。 「サインが必要なのはこの数ページだけです」 「分かった、少し目を通すから」 普段なら簡単に確認するだけの隆成だが、なぜか今日はいつになく細かく目を通していた。 「昨日、お前が法律事務所に行ったって聞いたけど?」 突然の問いかけに、星奈の心臓が跳ねる。 もし隆成がこの離婚協議書のことに気づいたら、サインしてくれるだろうか。 その可能性を考える余裕もなく、星奈はできるだけ平静を装った。 「ご存知の通り、会社で大きなプロジェクトを控えていますよね。念のため契約書に不備がないか、弁護士さんにチェックをお願いしたんです」 星奈の落ち着いた返事に、隆成も少し疑いを和らげたようだった。 最後のページにたどり着くと、再び隆成の眉がひそまる。 「この契約書、どうして最後のページしかないんだ?」 書かれているのは、決まりきった事務的な文言だけだった。 だが、星奈は準備していた。 「今朝、誤りに気づいたんです。修正のため、他のページは弁護士事務所に預けています。急ぎなので、先にここだけサインをお願いします」 隆成はじっと星奈の顔を見つめる。 嘘をついているようには見えないが、どこかしっくりこない。 星奈は隆成がためらう様子に、内心また緊張がぶり返すのを感じた。 この書類には、よく見れば左上にうっすらと【法律事務所 離婚協議書】と記されている。 「社長、雫さんが外で転んだみたいです!」 星奈は雫の名前で隆成の意識をそらした。 ちょうどその時、ドアの外から何か物音が聞こえ、隆成の心はそちらに向かう。 もう中身を追及することもなく、隆成は急いでサインを済ませた。 星奈は静かに息を吐き、満足げにその場を離れた。 去り際、星奈はガラス越しに、隆成が雫を心配して体をチェックしている様子を見た。 ただ水をこぼしただけなのに、まるで大切な宝物に傷がついたかのような慌てぶりだった。 けれど、星奈の心はとても穏やかだった。 離婚を決意したあの日から、星奈の中で隆成はすでに過去の人になっていた。 第5話 その日の午後、星奈は真っ先に村上に連絡を取った。 「離婚協議書の署名が済めば、手続きはほぼ終わりです。ただし、その間にどちらかが取りやめたいと言えば、もう一度協議し直すことになります」 離婚のルールについては、星奈はすでによく理解していた。 別荘に戻ると、まず荷物の整理を始める。 隆成には何も告げないつもりだった。 この別荘で五年も暮らしてきたはずなのに、いざ持ち物をまとめてみると、驚くほど少ないことに気づく。 その事実が、隆成との結婚がどれだけ形ばかりだったかを、改めて突きつけてくる。 五年もの結婚生活に、思い出はほとんど残っていなかった。 隆成が帰宅したとき、星奈は苦笑いを浮かべながらタオルをスーツケースにしまっていた。 「星奈、荷物の整理?どこか出かけるのか?」 思いがけず早く帰ってきた隆成に、星奈は慌てず、静かに荷造りを続ける。 「どこにも行かないよ。ちょっと古い服が増えたから、まとめて寄付しようと思って」 「寄付?どうして?」 星奈は微笑みながら顔を上げた。 「言ってなかったっけ?実は私、小さい頃から……」 その言葉が終わらないうちに、隆成の電話が鳴る。 電話の画面には、【子猫ちゃん】と可愛らしい登録名が表示されている。 特別な愛称で呼ばれている雫。 一方、星奈は電話帳でただの【星奈】とだけ登録されている。 「もう家に着いたよ。ちゃんとおとなしく待ってて。すぐに行くから」 電話を切った隆成は、星奈が会話を聞いていたことに気づいた。 「雫さんが連絡してきたの?」と、星奈が尋ねる。 隆成は少し慌てたように説明を始めた。 「違うんだ、星奈。雫の家がまた停電になって、一人でいるのが心細いっていうから、ちょっとだけ様子を見てくるだけなんだ」 星奈はにっこりと笑い、「大丈夫、分かってる」とだけ返した。 そのやさしさが、逆に隆成をますます不安にさせた。 ここ数日の星奈の変化に、彼は戸惑いを隠せない。 ふたりの間には、薄い紙一枚を隔てたような、今にも破れそうな緊張感が漂っていた。 なのに、その紙を破って本心に触れることがどうしてもできなかった。 隆成は星奈が荷物を詰め終える様子をじっと見つめた。部屋の中は、以前と何一つ変わっていない。 明日のために用意された服はきちんとアイロンがけされ、スーツにはそれぞれのネクタイが整然と並べられている。 自分が気にしすぎているだけだろうか、と隆成は自分を納得させようとする。 「ところで、さっき何を言いかけたんだ?よかったら一緒に雫の家へ行かないか?」 星奈は少し黙り込んだ。 本当は、ずっと言えなかった自分の過去。幼い頃、児童養護施設で育ったこと。 たまに出かけていたのも、その児童養護施設に顔を出すためだった。 でも、もう今さら話す必要はない。 それに、雫の家に一緒に行く話も、星奈はすぐに断った。 荷物を軽く叩いてから、静かに言う。 「私は行かないわ。これからこの服を寄付しに行くの」 この答えで、隆成は、それ以上星奈を疑うことができなかった。 だが、今回はそれで終わらない。 「それなら俺も一緒に行こうか。車を出せば楽だろう」 隆成はじっと星奈の顔を見つめ、心の奥を覗き込むような視線を送る。 星奈は視線を外し、黙ってうなずいた。 星奈は隆成の性格をよく知っている。 すでに何かに気づき始めているのだろう。 星奈はこれまで積み重ねてきた努力を無駄にしたくなかった。 二人で並んで車に乗る。 星奈はどうやって隆成から離れようかと思案を巡らせていたが、その時、雫からのメッセージが届き、隆成はすぐに呼び出されてしまった。 「ごめん、星奈。今日は一緒に行けそうにない。会社に急ぎの用事ができてしまった」 星奈は微笑みながら、頷いた。 隆成は、最後まで自分がすべてを隠し通せていると思い込んでいる。 車を降りる直前、星奈はそっと尋ねた。 「もし六年前に、私があなたのお母さんを助けていなかったら、あの時、私たちは結婚していなかった?」 その問いかけも、隆成の心には届かなかった。 彼はもう、雫のことで頭がいっぱいで、今すぐにでも彼女のもとへ駆け出したい様子だった。 「そんなことないよ。俺たちが結婚したのは、星奈を愛していたからだ」 「本当に、それだけ?」 「ああ、それだけだよ!」 星奈はふっと笑った。 もう、この人に何も期待しないと決めた。 心ここにあらずの男を、これ以上責めるつもりもない。 隆成の車が遠ざかり、見えなくなる。 その瞬間、星奈の目から静かに涙がこぼれ落ちた。 「……嘘つき」 かすれた声で、星奈はつぶやいた。 第6話 星奈と隆成が出会ったのは、まさに偶然が重なった結果だった。 星奈がこの街に来たばかりの頃、いくつも物件を見て回った末に、最終的に選んだのが隆成の母の家だった。 入居したその日、隆成の母は突然倒れ、意識を失った。 星奈がすぐに気づいて病院に運んだおかげで、命は助かった。 手術は成功したものの、体には後遺症が残り、長期の介護が必要になった。 ちょうど星奈も仕事が決まっていなかったことから、隆成と母親に頼まれて、介護の仕事を引き受けることにした。 だが、隆成の母は一年後、重い病に勝てずこの世を去った。 そして、隆成は母の遺言に従い、星奈と結婚した。 それから、五年。 当時は情熱だけで突っ走っていた星奈も、いつかきっと隆成が本心を見せてくれる日が来ると信じて、ずっと頑張ってきた。 けれど、五年が過ぎた今、星奈はもう、すっかり疲れ果てていた。 これ以上、頑張る気力も残っていない。 星奈はゆっくりとスーツケースを引いて別荘に戻り、電話をかけた。 「美智子(みちこ)さん、部屋を一つ探してほしいの。広くなくていい、一人で住めれば十分。できれば一か月後に入居できる物件でお願い」 電話の向こうで神田美智子(かんだ みちこ)が戸惑いの声を上げる。 「部屋を借りる?星奈、あなた手持ちの物件が何件か売りに出ているでしょ。なんでわざわざ借りる必要があるの?」 美智子は、数年前に星奈が最初に家を見つけたときの不動産屋さんだ。 今でも星奈が所有している物件の管理を任せていて、この街で数少ない信頼できる友人の一人でもある。 「もし住むところがなかったら、前に安藤おばさんが住んでいた家を使ってもいいのよ。静かで環境もいいし、会社にも近いし……」 美智子の提案に、星奈は首を振った。 もう、隆成や安藤家と関わる場所にはいたくない。 「美智子さん、他の場所でお願い!」 星奈の声は落ち着いていたが、その奥には揺るがぬ決意が込められていた。 電話の向こうで、美智子は星奈の気持ちを察したのか、深くため息をつくだけだった。 そのとき、不意に背後から隆成の声が聞こえた。 「星奈、誰と話してるんだ?」 星奈は一瞬体を強張らせ、慌てて電話を切った。 何事もなかったように、隆成の方を振り向く。 「久しぶりに美智子さんと話してたの。今週末、一緒に買い物に行く約束をしてて」 星奈の返事は、半分は本当で半分は嘘だった。 隆成は眉をひそめる。 美智子が星奈の数少ない友人であることは知っているが、星奈が人と出かけることはめったにない。 「どうして急に買い物なんて?」 隆成は上着を脱ぎ、ソファに座って動かない星奈の様子をじっと見ていた。 以前は、帰宅すれば星奈が真っ先に出迎え、上着を受け取ってハンガーにかけてくれていた。 最近は、その気遣いすらなくなってしまった。 そんな変化が、隆成を不安にさせる。 「お前はもともと、買い物が好きじゃなかったろう?」 星奈はスマホをいじりながら、低い声で答える。 「さっき服を全部寄付しちゃったの。急に天気も変わったし、何枚か新しい服を買いたいだけ。ついでに美智子さんとも久しぶりに会おうと思って」 隆成は、星奈の言葉の端々に違和感を覚えながらも、決定的な証拠を見つけることができない。 「今週末、俺も一緒に行こうか?久しぶりに買い物でも付き合いたいし」 星奈はようやく顔を上げ、どこか警戒するような視線を送る。 しばらくしてから、少し突き放すように口を開いた。 「仕事が忙しいんだから無理しないで。これだけ大きな会社を一人で支えてるんだから、みんなあなたの指示を待ってるんでしょ」 かつて隆成がよく使っていた「忙しいから」という断り文句を、いまは星奈が皮肉を込めて口にした。 それを聞いた隆成は、どこか安心したように星奈の肩を抱き寄せた。 「まだ怒ってるのか? 最近は本当に忙しくて、お前のことを後回しにしてしまった。今度の週末は、必ず一緒に過ごす」 けれど、星奈の伏せた瞳の奥には、かすかな失望が浮かんでいた。 心の中で、そっとつぶやく。 ――もうすぐ。 もうすぐ、あなたのもとから離れられる。 第7話 週末がやってきた。 離婚の日まで、あと二十四日。 このところ、隆成が別荘にいる時間は以前より明らかに長くなった。 だが、その心はますますここになかった。 星奈の細やかな気遣いのおかげで、隆成は家の中の小さな変化にも気づかない。 玄関に置かれたままの大きなスーツケースの中には、衣類がぎっしり詰まっている。それがもう一週間も放置されていても、誰も何も言わなかった。 この日、星奈は美智子と部屋を見に行く約束をしていた。 けれど、隆成は星奈のそばから離れようとせず、まるでかつて自分がした「週末は一緒に過ごす」という約束を守ろうとしているかのようだった。 仕方なく、星奈は隆成を連れてショッピングモールへ出かけた。 ショッピングモールには華やかな商品が並ぶが、二人とも心ここにあらずだった。 星奈は一刻も早くこの場から離れたいと願い、隆成はなぜか、若い女の子向けの服ばかりに目を向けていた。 「ねえ隆成、せっかくだし雫さんも呼んだらどう?」 星奈がそう言うと、隆成の目がぱっと輝く。 「本当に?でも、今日は一日お前と一緒にいるって約束したから、いいのかな」 そう言いつつも、すでにスマホを取り出し雫に連絡し始める。 さっきまで気乗りしないふりをしていたのに……自分に嘘をつく必要なんてないのに。 ほどなくして雫がやってきた。 その早さから、星奈は最初から雫がこのモールのどこかで待機していたのだろうと察した。 きっと、呼び出したのは隆成だろう。 こういうことを平然とやってのける人なのだ。 三人でのショッピングは、結局のところ雫と隆成だけが楽しんでいた。 そのとき、突然モールに警報が鳴り響いた。 火事だ――! 黒い煙がもくもくと立ち上り、人々は一斉に避難を始めた。 隆成は雫をしっかり守って避難させる。 その一方で、星奈は人混みに押され、危うく倒れそうになる。 ふと振り返ると、隆成と視線が交わった。 焦った顔の隆成は、星奈の方へ駆け寄ろうとするが、雫の「早く!」という叫びに応じて、星奈を振り切るようにその場を離れてしまう。 「星奈、ちょっと待ってて。雫を外に出したら、すぐに迎えに行くから!」 星奈は無表情のまま、その様子を見送った。 人々の混乱に紛れ、星奈は静かにモールを抜け出した。 美智子と合流し、いくつか物件を見て回る。 帰宅した時には、もう夜も遅かった。 星奈は隆成がまだ家で待っているとは思わなかった。 玄関に入るなり、隆成が慌てて駆け寄ってくる。 たった半日会わなかっただけなのに、隆成の顔色はすっかり変わっていた。 「星奈、どこに行ってたんだ?スマホも繋がらないし、本当に心配したんだぞ」 隆成は星奈の腕をつかみ、あちこち傷がないか確認する。 星奈の首元にうっすらと赤い痕があるのを見つけると、突然、自分の頬を平手で打った。 その音に星奈も驚くが、すぐに冷めた気持ちになる。 「ごめん、星奈。今日のことは全部俺が悪かった。全部、俺のせいだ……」 星奈は思わず小さく笑った。 もう何も感じなかった。ただ、少しだけ物悲しかった。 「私は大丈夫よ。美智子さんと買い物してただけ。スマホの充電が切れてて、気づかなかったの」 そう言うと、隆成の手をするりとかわし、一歩下がる。 「今日はちょっと疲れたから、もう部屋で休むね」 隆成はその場に立ち尽くす。 星奈がどんどん自分から遠ざかっていく気がして、思わず手を伸ばすこともできなかった。 第8話 その後の日々、星奈はずっと家の中で静かに過ごしていた。 隆成に余計な疑いを持たせないよう、どこへも出かけず、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。 すでに新しい住まいも美智子のおかげで見つかっていたが、契約の最終段階になって、突然、大家が条件を変えてきた。 「大家さんが安藤っていう男の人が、若い女の子のために高値でその部屋を借りたいって。現場で即決して契約しちゃったのよ」 美智子が連絡をくれた。 彼女は星奈と隆成の関係も、最近の星奈の様子も、何となく察している様子だった。 星奈は多くを語らず、ただ「また別の物件を探してほしい」とだけ頼んだ。 夜になって、星奈はわざと隆成を試すように声をかけた。 「ねえ、雫さんに新しい部屋を借りたって本当?」 それは単なる確認のためだった。 今後、そのエリアはできるだけ避けて暮らそうと思っていたからだ。 けれど、隆成は突然動揺し、落ち着かない手つきで弁解を始めた。 「誤解しないでくれよ、星奈。雫の前の部屋、環境がすごく悪かったんだ。何度も停電してたし…… だから会社の社員寮みたいな扱いで、新しい部屋を用意しただけだよ」 星奈は穏やかに頷き、特に怒ることもなかった。 それどころか、隆成に軽く冗談を返す余裕さえ見せた。 その星奈の様子に、隆成は逆に怯えたような目を向ける。 「星奈、お前……何か俺に隠してることはないか?」 星奈はスマホをいじる手を一瞬止めたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。 「なにもないよ。どうしてそんなこと聞くの?」 隆成は黙り込み、それ以上は問い詰めなかった。 何かある気はするが、証拠が見つからない。そんな戸惑いだけが、彼の胸に残った。 その数日後、美智子の助けで、ようやく新しい住まいが決まった。 契約が終わると、星奈はすぐに別荘から自分の荷物をすべて運び出した。 もうタオル一枚、スリッパ一足さえ残さず、きれいに片付けた。 この夜は、星奈が隆成の別荘で過ごす最後の晩だった。 星奈は早めに隆成にメッセージを送り、今夜こそは全てを話そうと決めていた。 心を込めて作った最後の夕食。これが離婚前の、最後の食卓だ。 けれど、隆成は約束を守らなかった。 夜の十時になっても帰ってこない。 スマホを見れば、SNSには隆成が雫の新居祝いをしている投稿が。 なんと、今日は雫が新しい部屋に引っ越したその日だったのだ。 星奈はその画面を静かに見つめた。 雫のためなら、私との最後の時間さえ惜しむのね。 作ったばかりの料理を、ひとつ残らずゴミ箱へ捨てた。 隆成、もしあなたが今日という日を逃した意味を知ったら、きっと、後悔する日が来るはず。 星奈は隆成に手紙を書こうとした。 でも、結局やめてしまう。もうすぐ離婚なのだから、過去のことを持ち出す必要もない。 書いた手紙は細かく破り捨て、テーブルには離婚協議書のコピーと、外した結婚指輪だけを残して。 こうして、星奈は自分の痕跡をこの家からきれいに消し去り、そっとドアを閉めて立ち去った。 星奈が去った後、ようやく隆成が帰宅する。 いつものようにネクタイを直し、身だしなみを整え、申し訳なさそうな笑顔を浮かべてドアを開ける。 「ごめん、星奈。今日は取引先の大川(おおかわ)社長に呼ばれて、食事しながらいろいろ話してたんだ」 けれど、返事はどこにもなかった。 がらんとした部屋に響くのは、自分の声だけ。 「星奈?……星奈!」 何度呼んでも、答える者はいない。 隆成の顔色がみるみる変わっていく。 その時、強い風が吹き抜け、テーブルの上の離婚協議書と辞表が舞い上がった。 バラバラになった協議書の隅には、自分のサインがあった。 隆成は書類を目にした瞬間、血の気が引いた。 「そんなはずはない、こんなの、サインした覚えなんてない!」 あわててテーブルに駆け寄り、書類を拾い集める。 手が震えながら、星奈に電話をかけずにはいられなかった。