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浮き草の愛
京極瑛舟(きょうごく えいしゅう)と結婚して四年目、陸野亜眠(りくの あみん)は妊娠した。 手続きがよく分からず、彼女はたくさんの書類を...
Chương (1)
第1章
京極瑛舟(きょうごく えいしゅう)と結婚して四年目、陸野亜眠(りくの あみん)は妊娠した。
手続きがよく分からず、彼女はたくさんの書類を持って区役所で妊娠届を出そうとした。
職員は彼女が持ってきた書類を見て、これらは必要ないと伝えようとしたが、ふと亜眠の持ってきた婚姻届受理証明書が偽物のように見えた。
亜眠は思わず目を瞬かせた。
「偽物?そんなはずないです」
「ここ、印刷がずれているし、色もおかしいですよ」
亜眠は諦めきれず、戸籍担当窓口の職員に確認してもらったが、答えは同じだった。
「この証明書は偽物です。それに、おっしゃった京極瑛舟さんは既婚で、配偶者の名前は陸野知綾(りくの ちあや)と記載されています……」
……知綾?
雷に打たれたように、亜眠の頭は真っ白になった。
知綾は彼女の異母姉であり、瑛舟の初恋の人だった。
かつて知綾は夢を追い、留学のために結婚式当日に式場から逃げ出し、瑛舟を無情にも置き去りにした。
知綾が逃げた後、両家の面子を守るため、亜眠は代わりに瑛舟と結婚した。
それなのに今、法律上の妻が知綾だというのか。
……
第1話
京極瑛舟(きょうごく えいしゅう)と結婚して四年目、陸野亜眠(りくの あみん)は妊娠した。
手続きがよく分からず、彼女はたくさんの書類を持って区役所で妊娠届を出そうとした。
職員は彼女が持ってきた書類を見て、これらは必要ないと伝えようとしたが、ふと亜眠の持ってきた婚姻届受理証明書が偽物のように見えた。
亜眠は思わず目を瞬かせた。
「偽物?そんなはずないです」
「ここ、印刷がずれているし、色もおかしいですよ」
亜眠は諦めきれず、戸籍担当窓口の職員に確認してもらったが、答えは同じだった。
「この証明書は偽物です。それに、おっしゃった京極瑛舟さんは既婚で、配偶者の名前は陸野知綾(りくの ちあや)と記載されています……」
……知綾?
雷に打たれたように、亜眠の頭は真っ白になった。
知綾は彼女の異母姉であり、瑛舟の初恋の人だった。
かつて知綾は夢を追い、留学のために結婚式当日に式場から逃げ出し、瑛舟を無情にも置き去りにした。
知綾が逃げた後、両家の面子を守るため、亜眠は代わりに瑛舟と結婚した。
それなのに今、法律上の妻が知綾だというのか。
……
役所を出た亜眠は、魂の抜けた人形のように足元もおぼつかず歩き、視線は宙をさまよっていた。
目の前に止まったタクシーに乗り込むと、それまで必死にこらえていた涙が、静かに頬を伝った。
四年前、結婚した当初、瑛舟は亜眠に冷たかった。
それでも亜眠は一度も不満を漏らさず、彼の生活を細やかに世話し続けた。
時を重ねるうちに、瑛舟は少しずつ心の壁を下ろした。
亜眠に彼のスケジュールを乱されても許すようになった。
くだらない冗談にも最後まで耳を傾け、仕事の極秘書類さえ安心して預けてくれるようになった。
やがて、瑛舟はますます彼女に優しくなった。
限度額のないブラックカードを渡し、ミシュランの店を共に巡った。
たとえ彼女が真夜中に、家から遠く離れた店でしか売っていないケーキを急に食べたくなっても、瑛舟は車を飛ばして買ってきてくれた。
そして彼女の頬をつまみ、呆れたように言った。
「こんな食いしん坊な子、見たことないな」
亜眠はようやく瑛舟の心を温められたと信じていた。
……あの二か月前、癌を宣告された知綾が突然帰国するまでは。
その夜、父の陸野林平(りくの りんぺい)は家庭会議を開き、真剣な顔で告げた。
「知綾は末期癌で、余命は半年もない。最大の心残りは瑛舟くんと結婚できなかったことだ。
だから一時的に身を引け。式が終わって姉が亡くなれば、瑛舟くんはまたお前の夫になる」
継母の陸野美月(りくの みつき)は必死に頼み込んだ。
「知綾はあなたの実の姉なのよ。今回だけは我慢して」
知綾も涙ながらに叫んだ。
「これが死ぬ前の唯一の願いなの。お願い、叶えて」
亜眠は耳を疑った。
涙を滲ませ、声を震わせて問い詰めた。
「当時は私を操り人形みたいに姉さんの代わりに差し出し、今度は瑛舟を姉さんに譲れって?私を何だと思ってるの?絶対に嫌よ!」
林平は亜眠の訴えを聞き流し、彼女の外出を禁じ、「同意するまで出すな」と言い渡した。
閉じ込められてから三日目、瑛舟が林平の前でグラスを叩きつけ、怒りをあらわにしたと聞いた。
十三日目、「俺の妻は永遠に亜眠だけだ」と彼が公言するニュースが流れた。
二十八日目、瑛舟は陸野家との取引を全面凍結し、亜眠を引き渡すよう迫った。
そして一か月後、ようやく鍵のかかった部屋のドアが開いた。
この間、瑛舟がしてくれたことを思い出し、亜眠の目はたちまち熱くなった。靴も履かず、よろめきながら彼の胸に飛び込んだ。
しかし次の瞬間、かすれた声が降ってきた。
「亜眠……ごめん。
ご両親の意志は固かった。跪いてまで頼まれたんだ。長年の付き合いもある。だから君の姉と、この芝居を演じるしかなかった。
でも安心しろ。形式だけの結婚だ。俺の妻は、永遠に亜眠だけだ」
その一言で、亜眠の心は底まで沈み、呼吸さえ鋭い痛みを伴った。
二秒ほど呆然とした後、やせ細った彼の頬をそっと撫で、涙をこらえた。
「……もう十分、頑張ってくれたね」
やがて彼が、世間の注目を浴びながら知綾に指輪をはめ、盛大な式を挙げるのを、亜眠は最後まで見届けた。
その後も瑛舟は変わらず亜眠に優しかった。
だが、知綾と過ごす時間は増え、やがて連泊にまで及ぶようになった。
亜眠が不満をぶつければ、彼は辛抱強く説明した。
「愛してはいない。ただ友人として、最後まで見届けたいだけだ」
亜眠はその言葉を信じた。
……結局、真実が無情だった。
……
車が京極グループのビルに着く頃には、亜眠は感情を整えていた。
手には、偽の婚姻届受理証明書を握り締めて。
最上階に着くと、瑛舟の秘書と鉢合わせた。
秘書の表情がわずかに固まった。
「奥様、どうしてこちらに?」
「瑛舟に会いに」
「今、社長は会議中で……」
制止を振り切り、亜眠はオフィスに早足で向かった。
ドアに手をかけたその時、中から知綾の声が聞こえた。
「瑛舟、私の目を見て答えて」
知綾は左手で彼のネクタイを引き寄せ、右手を胸に当てた。
「ここ……ずっと私を忘れられなかったんでしょう?」
瑛舟の喉が上下し、指先の温もりに呼吸が詰まりそうになったが、声は冷ややかだった。
「考えすぎだ」
「考えすぎ?」
知綾は笑った。
「亜眠と偽装結婚したのは、私の帰りを待つためでしょう?私が帰国した途端、すぐに婚姻届を出したんじゃない?
それに、日記に書いてたことも……
亜眠を身代わりにしたのは、私を振り向かせるため……むっ」
言葉の続きを、瑛舟は乱暴に知綾の首筋をつかみ、唇で塞いだ。
目は熱を帯び、歯の隙間から絞るように言った。
「そうだ。一度たりとも君を忘れたことはない。だから……この借りをどう返すつもりだ」
ドアの外で、亜眠の全身は氷水に浸かったように冷え、感覚が麻痺していった。
つい先日まで、彼は自分を抱き寄せ、髪に口づけながら囁いていたのだ。
「亜眠、知綾はもう過去の人だ。今は君だけが、俺の真心を受け取る資格がある」
……なんて滑稽なのだろう。
その「真心」とやらは、結局偽りに過ぎなかった。
二人の結婚は、最初から偽りだったのだ。
亜眠はゆっくりと目を閉じ、涙をこらえた。
……これが瑛舟の選んだ道なら、彼女は背を押してやろう。
彼が本当に愛する人と、共に歩むように。
第2話
亜眠は茫然としたままエレベーターに乗り込んだ。
気がつけば、エレベーターはすでに地下1階で止まっていた。
そこへ、ひとりの研修生が明るい声をかけてきた。
「陸野知綾さんの絵画展をご覧になる方ですね?こちらです」
その言葉で、亜眠はようやく、自分が階数ボタンを押していなかったことに気づいた。
まるで何かに導かれるように、彼女はギャラリーへと足を踏み入れた。
研修生は後ろからついてきて、熱心に説明を続けている。
「今回の絵画展は社長のご支援により開催されています。このあと全国巡回展も予定されています」
亜眠の視線は、ふと一枚の油絵に引き寄せられた。
そこには、裸の背中を見せる男が描かれていた。くっきりと浮かび上がる背筋の線、そして腰のあたりに刻まれた特徴的な傷跡。
それは、暗闇の中で何度も指先でなぞった……彼女が知り尽くした傷跡だった。
画中の男が誰なのか、言うまでもない。
知綾は、瑛舟を題材にした絵を何枚も描いていた。
絵枠の右下に記された日付が、やけに鮮やかで、容赦なく目に突き刺さった。
……六月二十日。キッチンに立つ瑛舟。背中に温かな光が差している。
その日、亜眠は閉じ込められてから三日目、絶食で抗議し、胃の痛みに意識を失っていた。だが、彼は知綾のために料理を作っていた。
……七月一日。骨ばった指が、イチハツの刺繍入りシルクのネグリジェを丁寧に畳んでいる。薬指の指輪が冷たく光っている。
その日、閉じ込められてから十三日目。亜眠は刃物で手首を切り、血がベッドの半分を染めた。だが、彼は知綾の衣服をゆっくりと整えていた。
……七月十五日。林の小道で傘を差し歩く瑛舟。画面の端には、誰かと指を絡める手が描かれていた。
その日、閉じ込められてから二十八日目。亜眠は林平に鉄鎖でベッドに縛られ、同意を強要されていた。高熱にうなされ、冷や汗で濡れたシーツの上で丸くなっていた。
だが、彼は知綾の手を握り、朝の光の中を悠々と歩いていた。
目の前の一枚一枚が、鋭い針のように亜眠の心を突き刺した。
……あの暗黒の一か月、彼は戦ってなどいなかった。ずっと、知綾の傍にいたのだ。
林平の前でグラスを叩きつけたのも、高らかに自分との愛を宣言したのも、陸野家との取引を切ったのも……すべては面目を保つための芝居に過ぎなかった。
亜眠は拳を握り締め、爪が掌に食い込んでも痛みを感じなかった。
もう一枚たりとも見たくなくなり、背を向けてキャラリーを後にした。
……
彼女は一週間後の中絶手術を予約してから、実家へ向かった。母の遺品を持ち出すためだった。
ところが家に着くなり、林平が一枚の航空券を投げて寄こした。
「美月と相談したんだが、知綾が天国へ旅立つ前は、瑛舟くんと一緒に暮らさせたい。
十日後の便だ。少し旅行して、気分でも変えてこい」
亜眠は航空券を指に挟み、唇を固く結んだ。
林平が自分に望んでいることはわかっていた。瑛舟と知綾が、気兼ねなく二人きりになれるように場所を空けろということだ。
「亜眠、誤解しないで。私たちはただ、知綾に最期まで穏やかに過ごしてほしいだけで……」
美月の涙混じりの台詞は、何度も聞かされ、もはや耳にタコができていた。
亜眠は淡々と遮った。
「わかった。行く」
瑛舟……もういらない。
この家も……もう必要ない。
林平は意外そうな顔をした。あっさり承諾されたことで、ようやく彼女の性格が折れたのだと思ったのだろう。
声色をやや和らげて告げた。
「三日後、知綾のための送別会をする。必ず来るんだぞ」
「……うん」
……
家に戻った亜眠は、紙箱を探し出して瑛舟にまつわる物を片付け始めた。
誕生日にもらったペアのマグカップ。
二人が初めて観た映画の半券。
無理やり撮らせたプリクラ。
ほとんど整理し終えた頃、玄関から物音がした。
瑛舟が帰ってきたのだ。
箱の中身を目にした瞬間、彼の胸は強く締め付けられた。
そして早足で近づき、声を荒げた。
「亜眠、何をしてるんだ?」
第3話
亜眠はうつむいたまま、まぶたひとつ動かさなかった。
「ここに知綾が住むんでしょう?彼女が見て嫌な思いをしないように、先に片付けておくの」
瑛舟はその手首をつかみ、そのままの勢いで胸元へ引き寄せた。
「まだ俺を責めてるのか」
「……いいえ」
「亜眠、本当に嘘が下手だな」
彼は指先で彼女の顎を持ち上げ、無理やり視線を合わせさせた。
「何度も言っただろう。ただ、彼女と芝居をしてるだけだ。本当に結婚したい相手だったなら、四年前に力ずくで連れ戻してた」
亜眠はその瞳を見据え、ふっと笑った。
「……誰と結婚したいのか、あなたが一番よく知ってるはずよ」
その言葉が終わると、鋭い着信音が響いた。
瑛舟は画面を一瞥し、素早く通話ボタンを押した。
短く言葉を交わしたあと、「会社で急用だ」とだけ残し、足早に部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、亜眠はふと悟った。
……もう彼と腹を割って話す必要なんてない。
彼の愛は、賞味期限切れの飴のようなものだ。
外見はきれいでも、中身はとっくに変質している。無理に口にしても、広がるのは苦味だけ。
瑛舟が出て間もなく、亜眠のスマホに知綾からメッセージが届いた。
添付された写真には、瑛舟がお守りを受ける姿が映っていた。
その瞬間、亜眠の脳裏に過去の光景がよみがえった。
かつて彼を誘って一緒に神社に行ったとき、願いを込めてみくじ筒を振っていた彼女は、ふと振り返って三歩離れた場所に立つ瑛舟を見た。
彼は面倒くさそうに腕時計を見下ろしながら言った。
「そんな迷信、本気で信じるのか?」
思い出に浸っていると、知綾から立て続けにメッセージが届いた。
【ちょっと具合が悪いって言っただけで、瑛舟はすぐ神社まで行って、一番効くっていうお守りをもらってきてくれたの】
【彼、こんなことあなたにしたことある?】
【亜眠、目を覚ましなさい。瑛舟は最初からあなたを愛してなんかいない】
亜眠はスマホを強く握りしめた。
画面の冷たい光がその顔を照らし、瞳の奥に残っていた温もりを氷のように凍らせていく。
……そうだ。
瑛舟は、一度も彼女を愛したことがなかった。
これからも、愛など望まない。
……
それから二日間、瑛舟は家に戻らなかった。
三日目、亜眠は知綾の送別会で彼と再び顔を合わせた。
上質な黒のスーツをまとった彼は、人ごみの中で車椅子を押していた。
知綾は膝に毛布を掛け、弱々しく座っている。
彼女がほんのわずかに顔を上げると、瑛舟はすぐに腰をかがめ、体調を気遣う言葉をかけた。
亜眠の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
……彼は「ただの芝居だ」と繰り返していた。
だが、知綾への眼差しは四年前と何ひとつも変わらぬほどに深く、優しかった。
やがて送別会が始まる。
林平は出席者に向かって知綾の病状を語り、涙をにじませながら言った。
「知綾は不運であり、同時に幸運でもありました。命は短くとも、彼女を愛する家族と、離れずにいてくれる愛する人がいるのです……」
その時、会場のスクリーンには、知綾の幼い頃からの写真が映し出されている。
一歳の誕生日、両親に囲まれての選び取り。
十歳、林平に教わりながらピアノを弾く姿。
十八歳、高校卒業式で家族に抱きしめられる笑顔。
どの場面にも、亜眠は部外者のようにぼんやりと映っていた。
それは……彼女には与えられなかった幸福を、黙って見届ける証だった。
画面が切り替わると、知綾の隣に立つのは瑛舟だった。
彼女の受賞を花束で祝う瑛舟の姿。
絵を描く彼女のために、静かにモデルを務める瑛舟の姿。
結婚式での抱擁……
学生服から仕立てのスーツへと年月は移ろっても、ただ彼女を見る眼差しだけは変わらなかった。
会場が感動の空気に包まれる中、突然スクリーンの映像が途切れ、血のように赤い文字が黒い背景に浮かび上がった。
【陸野知綾みたいなくそ女は地獄に落ちろ!
私の夫を奪って、母親そっくりの男漁りの女!
死んだら骨まで砕かれて灰にされ、永遠に成仏できないよう呪ってやる!】
空気が数秒、凍りついた。
そして……会場は一斉にざわめき立った。
第4話
皆は、暗黙のうちに亜眠へと視線を向けた。
亜眠は呆然とその場に立ち尽くし、何が起きたのか理解する間もなく、遠くから美月の悲鳴が響いた。
「知綾!」
知綾は呪いに怯えて気を失っていた。
瑛舟の顔色が一変し、彼はすぐさま身を屈めて知綾を横抱きにすると、大股で病院へ駆け込んだ。
亜眠の頭は真っ白なままだった。
その頬に鋭い平手打ちが飛んできて、ようやく我に返った。
「どうしてお前みたいな畜生を産んでしまったんだ!」
林平は目を血走らせ、額に青筋を浮かべて怒鳴った。
「知綾はこんなに病んでるのに、まだ呪うなんてことができるのか!」
亜眠はよろめいて半歩後ずさりし、傍らのシャンパンタワーを倒してしまった。
酒が床一面に飛び散った。
彼女はガラスの破片の上に尻もちをつき、痛みに耐えながら必死に弁解した。
「違う、私じゃない!」
「黙れ!」
林平の声は鋭く響き渡った。
「前からわかってた。お前は俺たちが知綾を可愛がるのが気に入らないんだ。
だが、あの子はもう死にかけてるんだぞ。それなのに、ほんの少しの同情すら持てないのか!
誰か!こいつを閉じ込めろ!」
……
亜眠は、小さな真っ暗な部屋に放り込まれた。
幼いころから暗闇を恐れ、しかも閉所恐怖症でもあった彼女にとって、それは耐え難い空間だった。
ドアが閉まった瞬間、呼吸が止まり、暗闇が潮のように四方から押し寄せてくる。
亜眠は必死にドアを叩き、血で染まった両手がドアに鮮やかな痕を残した。
「開けて!お願い、出して!」
だが外は、息が詰まるほど静まり返っていた。
力が抜け、彼女はずるずると床に座り込み、呼吸はどんどん浅く速くなり、視界が暗く滲んでいく。
どれほど時間が経ったのか……
意識が途切れかけたそのとき、ドアが開き、彼女は這うようにして外へ出ようとした。
だが、次の瞬間……
ザアッ!
ざらざらした塩が、顔に容赦なく撒かれた。
続けざまに二回目、三回目……
亜眠はむせ返り、息が詰まりそうになった。
霞む視界の中、戸口に立つ見覚えのある人影がぼんやりと映った。
瑛舟だった。
彼は光と闇の境に立ち、部下が塩を何度も彼女に撒いているのを、冷ややかな目で見ていた。
止めることは、最後までなかった。
やがて最後の塩が全身に撒かれた時、瑛舟はゆっくりと近づき、ハンカチで彼女の頬を拭いながら、氷のような声で告げた。
「知綾は目を覚ました。お前が呪ったことも責めず、逆に庇ってくれた。悪霊に憑依されただけで、本当に悪意はないってな。
この塩は俺が用意させたものだ。邪気を祓える。ただし効果を出すには、三日三晩ここで閉じ込めなければならない」
亜眠の瞳に恐怖の色が走り、瑛舟の手を必死に掴んだ。
「その呪いは本当に私じゃない、信じて……」
「亜眠」
瑛舟は彼女の指を一本ずつ、ゆっくりと、残酷に引き剥がしていった。
「悪いことをしたら罰を受ける。それは子どもでも知ってることだ」
指先の温もりが遠ざかる感覚に、亜眠は口を開き、最後の抵抗を搾り出すように、卑屈な願いを漏らした。
「お願い……ここに置いていかないで……暗いのは怖い……」
「じゃあ知綾は?」
瑛舟の目は冷ややかだった。
「お前が知綾を呪ったとき、知綾も怖がるかもしれないとは思わなかったのか?」
亜眠は一瞬、茫然とした。
……あの嵐の夜、停電した家の中で、暗闇に震えていた自分を思い出した。
瑛舟は部屋いっぱいにろうそくを灯し、彼女を強く抱き締め、温かな掌で背を撫でながら囁いてくれた。
「亜眠、大丈夫だ。俺がここだから」
だが今、その男が、自らの手で彼女を暗闇の底へ突き落とそうとしていた。
その瞬間、腹部に裂けるような激痛が走った。
亜眠は本能的に腹を押さえ、体から温かい液体が溢れ出すのを感じた。
流産かもしれない……そう悟った彼女は、瑛舟のズボンの裾を掴み、震える声を上げた。
「瑛舟……お腹が……すごく痛い……流産したみたい……お願い、病院に……」
瑛舟は動きを止め、わずかに眉をひそめた。
「妊娠してないだろ。どうして流産なんて……」
「本当……あなたの子を……」
「もういい!」
瑛舟は明らかにその言葉を信じていなかった。
「三日後に迎えに来る」
そう言い残し、背を向けた。
亜眠の喉から呻きが漏れた。
指先で床を必死に掻きながらも、その背中を引き止めることはできない。
虚しく空を掴んだ指は、やがて力なく垂れ下がった。
亜眠は血の中に崩れ落ちた。
意識が遠のく直前、唇の端に哀しい笑みが浮かんだ。
瑛舟……
今、本当にわかった。あんたって、そういう人間なんだ。
第5話
亜眠が目を覚ましたとき、すでに病院のベッドに横たわっていた。
「ご意識が戻られましたか?」
医師は深く息を吐き、彼女を見る目に哀れみを滲ませた。
「流産に伴う大量出血でした。搬送が数分遅れていたら……助けることはできなかったでしょう」
続けて、医師は彼女が昏倒した状態で使用人に発見され、危ういところで一命を取り留めた経緯を説明した。
「ご家族の対応には……正直言って憤りを覚えます。
特にご主人さんには、何度も連絡を試みましたが応答がありません。
病院に来たら、私からしっかりとお話しさせていただきます」
「先生」
亜眠は彼女の言葉を遮り、指先でシーツを握り締めた。
「妊娠のことは……彼には言わないでください」
どうせ彼は信じないだろう。
それに瑛舟の心はもう自分から離れてしまっていた。これ以上、彼と関わるつもりもなかった。
医師は何か言いたかったが、結局首を振って病室を後にした。
入院中、瑛舟は一度も姿を見せなかった。
その代わり、知綾のSNSには彼の姿が溢れていた。
初日は湯気の立つスープのアップ写真。
【十年経っても、やっぱりこれが一番好き】
二日目はベッドの端にもたれて眠る彼の横顔。
【また夜中に悪夢を見たけど、目を開けたらあなたがいた】
亜眠はふと、病気のときに瑛舟も自分にスープを作ってくれたことを思い出した。
熱にうなされている間も、彼はベッドのそばで手を握り、離さなかった。
だが今ならわかった。
あの優しさは、最初から彼女に向けられたものではなかった。
彼はただ、彼女を通して知綾を愛していただけなのだ。
退院の日、ようやく瑛舟から電話があった。
「会社で急な用事が入った。迎えは運転手に行かせる」
亜眠は問い詰めることもなく、感情を荒げることもせず、淡々と「わかった」とだけ答えた。
通話が切れた瞬間、彼女は平らな腹をそっと撫でた。
今の瑛舟は、連絡先から消すだけの名前に過ぎない。
もう、彼に何一つ期待していなかった。
……
家に戻ると、玄関を入った途端、知綾が絵筆を手にリビングの壁に自由に絵を描いているのが目に入った。
壁に掛けられていた亜眠と瑛舟の結婚写真やポラロイドの写真は、すべて床に投げ出され、色とりどりの絵の具で汚されていた。
知綾は彼女を見るとにっこり笑った。
「亜眠、お帰り。この壁、ちょっと乱雑だったからね。新しく飾り直そうと思って。気にしないでしょ?」
亜眠は散らかった光景を一瞥し、淡々と返した。
「好きにすればいい」
この家はもう彼女にとって形だけの場所に過ぎない。
これからここの女主人は、もう彼女ではない。
その時、瑛舟がキッチンからフルーツを持って現れた。
亜眠が階段へ向かおうとすると、彼はその前に立ち塞がった。
「知綾は仲直りしようと気を遣ってくれたのに、その態度か?」
「じゃあ、どうすればいい?」
蒼白な顔にうっすら倦怠感を浮かべ、亜眠は言った。
「跪いて、『写真を壊してくれてありがとう』とでも言わせる?」
「瑛舟、責めないで。亜眠もわざとじゃないの……」
知綾が慌てて口を挟んだ。
「わざとじゃない?それなら、あんな酷い言葉で君を呪うはずがないだろう」
瑛舟の視線は一層冷え、まるで見知らぬ他人のようだった。
「亜眠……お前には心底失望した」
亜眠はもはや言い返す気力もなく、彼の肩を押しのけてそのまま階段を上がった。
流産手術を受けたばかりで、体はまだ弱っている。
だが横になって間もなく、部屋のドアが押し開けられた。
戸口に立っていたのは知綾だった。
彼女の顔からは先ほどの柔らかさは消え、露骨な侮蔑だけが残っている。
「瑛舟があんなに私を庇ってくれて、悔しい?」
唇に冷笑を浮かべて言った。
「前にも言ったよね。瑛舟にとって、あなたなんてただの遊び相手。それを真に受けるなんて、本当にバカだね」
亜眠は背を向け、布団を頭までかぶった。相手にする気もなかった。
だが知綾はベッド脇まで来て、なおも執拗に言葉を浴びせた。
「外でみんな何て言ってるか知ってる?自分の義兄と四年も寝て、結局何も手に入れられなかった女。風俗嬢以下だってさ。
亜眠、現実を見てよ。陸野家には必要ない。瑛舟にも必要ない。あなたもあなたの母親も、誰からも必要とされない厄介者なんだよ」
母のことを口にされた瞬間、亜眠はもう堪えきれなかった。
勢いよく上体を起こし、刃のように鋭い視線を突きつけた。
「そんなに慌てて突っかかるのは、この四年間で、瑛舟が本当は私を好きになったんじゃないかって不安だからじゃないの?」
知綾は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑い声を漏らした。
「好き?本当にそうなら、どうして私がここであなたを侮辱するのを許すと思う?」
数秒後、「バタン」というドアの音が部屋に響いた。
亜眠はシーツを握りしめ、体の芯から冷えが広がっていくのを感じた。
……大丈夫、もうすぐここを出られる。
二度と、これらの吐き気がする顔を見ずに済むのだ。
第6話
出国前日のことだった。亜眠は、古木がそびえ立つ寺院へ向かった。
流産してからというもの、毎晩全身に血をまとった赤ん坊が泣き叫ぶ夢を見るようになっていた。
それで彼女は、ある高僧に供養を頼んだのだった。
寺に着くと、本堂の中央で一人の背の高い男が跪いて座っているのが見えた。
その背中は、彼女にとってあまりに見慣れたものだった。
「聞いたか?京極社長の奥さんが末期の癌で、お守りを授かるために命を削って求めたらしいぞ……」
「最後の山道は険しくてな、危うく崖から落ちて死ぬところだったそうだ!」
通りすがりの人々の噂話が耳に入ってきた。
亜眠は足を止めた。
目の前の男の腕には包帯が巻かれ、傷口からはまだ血が滲んでいた。
彼女は思い出した。瑛舟は一貫して無神論者だった。
寺に足を踏み入れたこともなく、家には神仏も祀っていない。
御守りなども、つけることが一度もなかった。
亜眠は母親の供養に行きたいと言っても、彼は煙草の火を無言で消し、淡々と「死んだら死んだだけだ。そんなのは生きている者の慰めにすぎない」と言っただけだった。
しかし今、彼は巨大な仏像の前に跪き、額を冷たい石畳にぴったりとつけ、卑屈なほどに祈っている。
亜眠は唇をわずかに歪め、なんとも皮肉なことだと思った。
なるほど、瑛舟は神を軽蔑していたのではなく、ただ過去にそれをするに値する人がいなかっただけだったのだ。
……
亜眠が寺を出る頃には、すでに夕暮れが近づいていた。
谷から吹く風は冷たく、彼女は衣の襟をきつく抱き寄せた。
石段を降りようとしたそのとき、林の中から黒い影が飛び出し、彼女の前に立ちはだかった。
相手の動きはあまりにも速く、亜眠は叫ぶ間もなく口と鼻を押さえられ、気を失った。
次に目を開けたとき、彼女は大木のそばに寄りかかって座っていた。
何人かの医療スタッフが慌てて担架を抱え、崖の下へと走っていた。
「急げ!負傷者が崖下にいる!」
亜眠は腕を支えにしてよろめきながら立ち上がった。
何が起きているのかまだ把握できないうちに、冷たい風を伴って高い影が彼女の前に立った。
「亜眠、知綾への呪いをただの怒りのはけ口だと思ってた。まさか本当に彼女を崖から突き落としたのか!」
瑛舟の骨ばった手が彼女の首を掴み、強く後ろの木に押し付けた。
「幸い知綾は運が良くて下の岩に助けられた。そうでなければ、お前も道連れにしてやった!」
亜眠は息が詰まった。
瑛舟の冷たい視線を受けて、彼女はすぐに理解した。
喉から声を絞り出した。
「私……じゃない……」
「まだ言い訳か!お前と知綾が同時にここにいた。今、彼女は崖下にいるんだぞ」
瑛舟の声は氷のように冷たかった。
「亜眠、こんな偶然があると思うか?」
亜眠は瑛舟の手を掴み、呼吸がますます苦しくなった。
息が止まりそうになったその時、アシスタントが息を切らして駆け寄った。
「社長、知綾さんは助け出されました!」
瑛舟は聞くとすぐに亜眠の手を離し、知綾のもとへ走った。
亜眠は前かがみになって激しく咳き込みながら、涙目で担架の上の知綾が瑛舟の袖を掴み、怯えた声で呟くのを見た。
「瑛舟、怖いよ……」
瑛舟は彼女の手を強く握り、低い声で言った。
「俺がいる限り、誰も君を傷つけられない」
彼は慎重に知綾を救急車に乗せ、アシスタントに何か告げた。
次の瞬間、アシスタントは引き返し、亜眠の腕を掴んで言った。
「亜眠さん、ご無礼をお許しください」
そう言うと、強引に亜眠を崖の縁まで連れて行き、一気に押し落とした。
強烈な無重力感とともに、亜眠は岩に激しくぶつかり、骨に激痛が走った。
アシスタントは高いところから冷たく言い放った。
「社長がおっしゃるには、亜眠さんはやりすぎです。これは罰です。知綾さんの苦しみを味わってください」
足音が遠ざかり、亜眠は一人、そこに残された。
激しい痛みに体をよじり、何度も歯を食いしばりながらよじ登ろうとしたが、ことごとく失敗した。
冷たい岩の間に身を丸め、絶望が潮のように押し寄せた。
彼女は瑛舟に問いただしたかった。
知綾はもうすぐ死ぬのに、彼女を傷つける理由があるのか?
しかし、心の底には明らかな冷たい答えがあった……
瑛舟の心には、自分が知綾に勝てる場所などない。
彼は決して自分を信じないのだと。
……
山の上は電波も届かず、亜眠はもうじっとしていられないと思い、もがいて起き上がった。
爪を岩の割れ目に食い込ませ、手のひらには血が滲んだ。
何度も落ち、何度もよじ登った。
血まみれになりながらも、ついに亜眠は頂上にたどり着いた。
下山のロープウェイはすでに運休しており、彼女は壊れかけた体を支えながら、よろめきながら山を下りた。
家に着く頃には、すでに夜が明けていた。
傷をかろうじて手当てし、ベッドに丸くなって眠りに落ちた。
まどろみの中、部屋のドアが激しく開け放たれた。
次の瞬間、彼女は冷たい床に叩きつけられた。
第7話
「お前!知綾を殺しかけておいて、よくもそんなに平然と眠れるな!」
亜眠は苦しげに顔を上げ、真っ赤に充血した林平の目を見つめた。
隣には継母の美月が俯き、涙をこぼしながらすすり泣いている。
「亜眠……」
美月は嗚咽まじりに言った。
「お姉さんはもう長くないのよ。なのにどうして彼女を許せないの?送別会のことはもういいとしても、今回は……彼女の命を狙ってるのよ!」
亜眠はシーツを握りしめ、美月の偽善的な顔を見ていられなくなった。
無理に体を起こし、一言一言はっきりと言った。
「送別会の呪いは私がかけたものじゃない。彼女を崖から突き落としたのも私じゃない。
知綾が何度も私を陥れたのを放置してきたあなたこそ、報いを受けるべきじゃないのか!」
バシッ!
強烈な平手打ちが彼女の頬を叩き、亜眠はよろめいて一歩後退した。口元から血がにじんだ。
「このクズが!」
林平は怒りに震え、青筋を立てて叫んだ。
「お前の母親もいつもそうやって人のせいにしてきたんだ!今度はお前までも……」
「あなた、落ち着いて!」
美月は林平の背中をそっと撫でた。
「全部私の責任よ。亜眠をちゃんと育てられなかったのは私……」
「君のせいじゃない!」
林平は鋭く遮り、厳しい目で亜眠を睨みつけた。
「お前がそんなにできるなら、今日から陸野家の娘ではない!」
そう言い放ち、林平は美月と共に乱暴にドアを閉めて出て行った。
その瞬間、稲妻が空を裂き、大雨が激しく降り注いだ。
亜眠は力なく地面に崩れ落ち、細い体を丸めて膝に顔をうずめ、声も出さずに涙を流した。
朦朧とする意識の中で、母の最期の言葉がまた耳元に響いた。
母の細い手がしっかりと彼女の手を握り、微かな声で確かに言った。
「亜眠、これからの道は……しっかり歩くのよ……母さんは天国から……見守っているから……」
この数年間、彼女は自分に言い聞かせるように、きちんと食事をとり、決まった時間に眠るよう努めてきた。
母が天国から見ていてくれるように、父の愛がなくても、彼女は立派に生きられると思いたかったのだ。
だが今は?
「お母さん……」
亜眠は呟いた。
涙が膝の衣服を濡らした。
「今の私、きっとあなたをがっかりさせてるね……」
外の嵐はまだ激しく荒れ狂っている。
亜眠は自分を抱きしめ、涙の中で眠りに落ちた。
……
亜眠が再び目を開けると、いつの間にかリビングのソファに移されていた。
暖炉の火がパチパチと音を立てている。
瑛舟が隣に座り、長い指で煙草を挟んでいた。
青白い煙が指先に絡まって漂っている。
「瑛舟……」
彼女は弱々しく声をかけた。喉は渇き、痛んだ。
瑛舟は声に反応して振り返った。かつての優しい眼差しは、今は冷たさだけを湛えていた。
「目が覚めたか?」
「どうして私はここに?」
亜眠は起き上がろうとしたが、全身に力が入らなかった。
瑛舟は答えず、淡々と言った。
「昨日、迎えに行くつもりだった。しかし知綾の絵画展が突然火災に見舞われ、彼女の全ての作品は一枚も救えなかった」
亜眠の心は急に沈んだ。
瑛舟の言葉の裏にある意味を理解し、慌てて言い訳した。
「私じゃない。放火なんてしていない。調べてみればわかる……」
「亜眠」
彼は静かに遮った。彼の目は見知らぬ冷たさで彼女の心をかき乱した。
「知綾の夢は画家になることだった。あれらの絵は彼女の命そのものだ。自分の命を自ら絶つことは絶対にない」
亜眠の指先が震え始めた。
「一体何が言いたい?」
「放火のことはお義父さんにも知綾にも言ってない」
瑛舟は立ち上がり、見下ろすように彼女を見た。
「だが、簡単に済むつもりはない。お前も大切なものが破壊される痛みを味わうべきだ」
その時、亜眠は初めて気づいた。瑛舟の手に、母が生前作ってくれたぬいぐるみが握られていることに。
「わかってる。これがお前にとって一番大事なものだ」
彼の指がゆっくりと握り締め、ぬいぐるみは変形した。
「これを壊せば、お前も耐えられないはずだろう?」
「やめて!」
亜眠はほとんど転げ落ちそうになりながらも、よろめきつつ飛びついた。
そのぬいぐるみは、彼女が十歳の時、病弱な母が縫ってくれたものだった。
母はすでに弱りきっていたが、最後まで完成させて、最期にそっと彼女の手に渡し、優しく言った。
「亜眠、もう母さんは一緒に歩けないけど、寂しくなったらこれを見てね……」
後に亜眠は母の遺灰をこっそり縫い込み、毎晩抱いて眠り、何度も乗り越えられない夜を過ごした。
それを瑛舟が壊そうとしているのだ。
「言っただろう、知綾がいなくなれば全て元に戻るって。
お前が言うことを聞かなかったせいだ」
そう言い、瑛舟は手を振って、ぬいぐるみを燃え盛る暖炉の中に投げ入れた。
「いやああ!」
亜眠は心が引き裂かれるような叫び声を上げ、必死に暖炉に飛びついた。
灼熱の炎が腕を舐めたが、彼女は痛みを感じないかのように焦げたぬいぐるみを奪い取った。
震えながら壊れたぬいぐるみを強く抱きしめ、涙が焦げた布を濡らした。
背後に足音が聞こえた。
瑛舟は彼女を越えて、振り返らずにリビングを出て行った。
……
亜眠はぬいぐるみを抱いて一晩中泣いた。
翌朝、彼女は壊れたぬいぐるみを抱え、荷物を引きずって別荘を出た。
門へ向かう途中、知綾の車椅子が突然彼女の前に立ちはだかった。
「どけ」
亜眠はかすれた声で言った。
「亜眠よ、そんなに怖い顔をしなくても?」
知綾は軽く笑いながら言った。
「今日去れば、もう会えないかもしれないわね。父さんも瑛舟も、あなたが悪辣な女だと決めつけて、二度と帰国を許さないでしょうから」
「望むところだ」
亜眠は冷たく目を上げた。
「しかもあなたはもうすぐ死ぬ。私たちは確かにもう会えない」
その言葉に知綾は「ぷっ」と吹き出した。
「亜眠、私が末期癌だって本気で思ってるの?」
彼女は突然車椅子から立ち上がり、一歩一歩近づいた。
「それは瑛舟を騙す芝居よ。私が誤診だと言ったら、彼は狂喜乱舞するわ。
そうだ、もう一つの秘密を教えてあげる」
知綾は亜眠の耳元で囁いた。
「実はあなたと瑛舟の婚姻は偽物よ。私こそが彼の正式な妻なの」
そう言い終わると、知綾は亜眠の表情の隙を探した。
しかし結果は逆だった。
亜眠は指を握りしめ、指の関節が白くなったが、顔は静かだった。
「じゃあ、どうか末永くお幸せに」
そう言い、振り返らずに門へ向かった。
道端でタクシーを待っていると、瑛舟の黒い車がゆっくりと横に止まった。
彼は窓を下ろし、訊ねた。
「もう行くのか?」
亜眠は「うん」とだけ答えた。
「この間は冷静になろう。戻ったらちゃんと話をしよう」
瑛舟は低い声で言った。
亜眠は答えず、静かにタクシーに乗った。
彼の車がゆっくりと去っていくのを見送りながら、心の中でそっと呟いた。
「京極瑛舟、真実を知って後悔しないでほしい」
車が発進し、彼女は全ての愛憎を背負ったこの別荘を最後に見つめた。
その瞳はまるで凪いだ水面のように静かだった。
視線を戻し、囁いた。
「空港までお願いします」
二台の車は別々の道を進んでいった。
まるで彼らの人生のように、二度と交わらないままに。