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妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。
十年の恋、六年の結婚。誰もが、風間蓮司(かざま れんじ)が加藤天音(かとう あまね)を深く愛し、何よりも大切にしていると信じて疑わなかっ...
Chương (1)
第1章
十年の恋、六年の結婚。誰もが、風間蓮司(かざま れんじ)が加藤天音(かとう あまね)を深く愛し、何よりも大切にしていると信じて疑わなかった。
しかし、夫の不倫相手が現れるまで、天音は気づかなかった。その「深い愛」が、結局は戯れに過ぎなかった。
五年にも及ぶ不倫、隠し子の誕生。蓮司は不倫相手を天音のすぐ傍に置きながらも、表向きは愛妻家として完璧な演技を貫いていた。
「天音を愛している、心から、誰よりも」と蓮司は口にした。しかし、果たしてそれが本当の愛と言えるのだろうか。
分厚い愛情の仮面を被り、蓮司は周囲の人間すべてを巻き込みながら芝居を続け、甘美な結婚生活の幻想を作り上げていた。
自ら育ててきた息子さえも、天音を欺く共犯者となっていた。
裏切った夫と子供、不倫相手と本物の家族のように振る舞う。
絶望した天音は、朧月機關への復帰を決意した。もうこんな滑稽で虚飾だらけの人生には一切別れを告げると。
一ヶ月後、天音は完全に姿を消し、二度と蓮司のもとに戻ることはなかった。
―
蓮司は天音を深く愛していた。妻を失う恐怖が、二人の結婚生活に綻びを生じさせた。
自分ではすべてを隠し通せているつもりだった。二人の結婚は表向き幸せで、愛する妻が真実を知ることなどあり得ないと信じていた。
しかし、天音が彼の世界から完全に消え去ったとき、蓮司は自分の過ちがどれほど愚かだったかを思い知らされた。
蓮司は狂気に囚われた。
彼はすべてを捨て、山を越え、海を渡り、世界中の仏を拝みながら、ただ天音がもう一度だけ振り向いてくれることを願い続けた。
目を赤く腫らし、必死に懇願した。「もう一度愛してくれ――」
だが結局は、遅すぎた目覚めには、何の価値もなかった。
天音の傍らには、すでに新しい誰かがいた。そこに、蓮司とその子供の居場所は、もはやなかった。
第1話
結婚して六年、天音は夫の深い愛情がすべて偽りだったことに気づいた。
男ってなんでこんなに演技が上手いんだろう。
蓮司は「愛してる、すごくすごく愛してる」と言ってくれた。でも、これが本当に愛なのか?
天音は彼のもとを去ることを決めた。
「隊長、すぐにチームに復帰させてください」
「天音、君が突然いなくなったら、きっと蓮司は狂うぞ」男の淡々とした声にはわずかな驚きが混じっていた。彼は天音と蓮司が六年の結婚生活を送り、一人の息子を育て、円満な家庭を築いていたことを知っていた。
夫の蓮司は彼女を深く溺愛していた。
「彼のことはもうどうでもいいです」天音は携帯をぎゅっと握りしめた。
「分かった。君を失ったことは組織にとって最大の損失だった。長くても一ヶ月以内に、すべてを手配する。その時『天音』はこの世から消え、『叢雲(むらくも)』がチームに復帰することになる」
「ありがとうございます、隊長」
天音は携帯をしまった。
パソコンのモニターには、男と女が別荘のあらゆる場所で体を重ねあっている映像が流れていた。
その映像は天音の目を容赦なく刺した。
天音はこれまで思いもしなかった。十年の付き合い、学校で出会い結婚まで至った人が、まさか自分を裏切るなんて。
彼は息子の家庭教師と浮気していた。
書斎の床には色とりどりのコンドームが散乱し、いくつかは金庫中の結婚証明書の上にまで散らかっていた。
息子を産んでから、天音の体は消耗しきり、第二子を望んでいたが、もう妊娠することはできない。
だから二人はもうコンドームなど使っていなかった。
なのに、モニターの中の蓮司は次々とコンドームを開け、満足することがなかった。
蓮司はどうして天音にこんなことができたのか。
パソコンの画面に、突然チャットログが現れた。
蓮司のLINEはパソコンとスマホで同期されている。
【大智くんは、これから天音さんのことをお母さん、私のことをママって呼んでくれるって。旦那さん、あなたは?】
チャット欄の右下にすぐ返信が来た。
【嫁】
天音は「嫁」という言葉を見た瞬間、椅子に崩れ落ち、両手で胸を押さえた。
両手を握りしめ、爪が手のひらに食い込み、血が流れた。
でも、手の痛みよりも心の痛みのほうがそれを凌駕していた。
天音は無理に自分を落ち着かせて、数え切れないほどの破廉恥なチャット履歴を最後まで読んだ。
息子の風間大智(かざま たいち)が生まれてから、蓮司の浮気が始まったのだ。
五年の間。
それなのに蓮司は見事に全てを隠し通していた。
床に落ちている幸せそうな結婚写真は、山のように積もるコンドームよりもずっと目に刺さった。
天音は息子を思い出した。
今日は幼稚園の親子イベントの日で、大智が今、中村恵里(なかむら えり)と一緒にいて、彼女をママと呼んでいると思うだけで、天音の心はどうしようもなく痛む。
あの子は私の息子なのに。
天音は車の鍵を手にして階下へ向う途中、メイドたちのひそひそ話が耳に入ってきた。
「いやだ、何これ、どうして奥様の服の中に?」
「穴だらけの布きれだけど、これも服と呼べる?」
「しっ、恵里さんのだよ」一人のメイドが声をひそめた。
「彼女の部屋に投げ入れちゃえ」
「悪い女だね、他人の旦那を誘惑して天罰も恐れないなんて……」
天音は、メイドたちが一階のゲストルームの恵里の部屋を開け、セクシーな透け透けのナイトウェアを放り込むのを見ていた。そのあと彼女たちはくすくす笑った。
「天音奥様?天音奥様!」
メイドたちはリビングでぼう然と立ち尽くす天音を見て、慌てた様子でその場を去っていった。
結局、この別荘で騙されていたのは天音だけだった。
天音は心身ともに消耗し、幼稚園に駆けつけると、恵里と大智がふざけ合っていた。
「ママ、マンゴーケーキはどうしたの?」
手ぶらで来た母を見て、大智は不満そうに詰め寄った。
「ごめんね、大智くん」
「だったら、早く買ってきてよ」大智はふくれっ面で言った。「恵里さん、何度も食べたいって言ってたでしょ」
「気にしないで、大智くん。食べたくなったら、自分で買いに行くから」恵里は優しく微笑んだ。
天音は自分の愚かさに苦笑した。前は、恵里が大智をよく世話してくれていたから、いつもご褒美をあげていたのだ。
大智は恵里を喜ばせたくて必死だった。「恵里さん、あのお店すごく美味しいって言ってたよね?すごく人気で三時間も並ばないと買えないって」
「恵里さんは僕と一緒にいるんだから、三時間も離れちゃだめだよ。だから、お母さんが買いに行けばいいんだよ」
「天音さんに行かせるのはかわいそうだよ」
「お母さんって、僕のことなら何でもしてくれるんだよ。だって、お母さんは僕がいちばん大事なんだから」
大智の口調には、天音を支配しているかのような誇りがあった。
その言葉を聞いて、天音の心は締め付けられ、目には冷たい光が宿った。
そのとき、幼稚園の先生がやってきて、「二人三脚を、みなさん親御さんと一緒にやりましょう」と声をかけた。
天音は大智と遊びたくて、優しく声をかけた。「大智くん、ママと一緒にやろっか?」
「大丈夫だよ」大智はロープを手に取り、夢中で恵里と自分の足を結びつけ、振り向きもしなかった。「恵里さんの方がこのゲームに向いてるから」
「大智くん、私が本当のママなのよ!」天音はあきらめず、大智の手をつかんだ。
でも、大智はその手を乱暴に振り払い、鋭い声で、「お母さんうるさいよ。僕のために恵里さんに譲ってよ」
天音の心は鋭く刺された。「なんてことを言うの?」
天音は命を懸けて、大智を産んだ。
一つ一つ自分の手で大智を育て、毎日そばにいた。
なのに、恵里がたった三ヶ月の面倒を見ただけで、大智はこんなにも彼女に肩入れするなんて。
「天音さんって、大智くんのためなら何でもやっちゃうんでしょ?それにさ、体操選手みたいなママ、欲しくない子なんていないよね。私のほうが若いし、元気だし……それに、綺麗だしね」
「恵里さんなら絶対勝てるよ!」
恵里と大智は手のひらを合わせてハイタッチした。
恵里は大智の手を引き、天音を見上げる目には挑発の色が浮かんでいた。
天音は全身を震わせながら怒りをこらえた。
「何様のつもりだ。俺の妻に向かって無礼な口をきくとは」
蓮司は冷ややかな声で怒りをあらわにし、天音の腰を引き寄せた。「お前はただの大智の家庭教師だ。俺の妻に逆らうなら、すぐに出ていけ!俺の妻に謝れ!」
恵里はすぐに顔を伏せ、肩を小刻みに震わせて、怯えきったふりをした。「ごめんなさい、もう二度としません」
蓮司と恵里が結託して天音を欺くのを見た。
天音の心はすでに冷え切っていた。
天音は今、ただ大智がそばにいてくれることだけを望んでいる。大智を連れてここから出て行きたい。
しかし突然、大智は彼らに向かって狂ったように叫んだ。「パパ、どうして恵里さんに怒るの?だって、恵里さんの言う通りだよ、ママは本当にバカで年寄りなんだから!」
大智は恵里をかばい、天音を一切評価しなかった。
大智がなぜこんなふうになったのか?
天音は震える声で尋ねた。「そんなに彼女が好きなの?彼女にママになってほしいの?」
大智は目を見開き、極めて冷淡な声で言った。「そうだよ!」
その一言が天音を完全に崩壊させる最後の火種となった。
大智は恵里の手を取って、スタートラインへと駆けていった。
二人が寄り添い、コースを駆け抜け、楽しげに笑い合う姿を見た。
天音は絶望的な悲しみに襲われた。
「天音、子どもはまだ幼いからゆっくり教えてやって。無理して体を壊さないで、俺が後で母さんに言って、恵里を追い出すよう頼むから」蓮司は天音の耳元でささやいて慰めた。
蓮司の優しい眼差し、長年変わらぬ甘い言葉は気持ち悪く感じるようになった。
天音の心は限界だった。
父子がそろって彼女を選ぶのなら、天音は誰もいらなかった。
天音にもう未練はない。天音は蓮司を押しのけ、幼稚園を後にした。
最長で一か月、天音はこの世から消える。
これからは、空も海も果てしなく広がっていく。
天音のそばに、彼らの居場所はもうなくなった。
第2話
天音は幼稚園を出た。執事は彼女の元気の無さに気づき、「奥様、どちらに行かれますか?車を出しましょうか」と提案した。
どこへ行く?
彼女にはもう家族がいない。行ける場所はただ一つしかなかった。
「いらないわ」
執事は遠ざかる天音を見送りながら、どこか違和感を覚えた。
その時、携帯が鳴った。
電話の向こうから、メイドの怯えた声が響いてきた。「奥様が蓮司様の秘密を見つけてしまったみたいです」
メイドは、書斎に散らばる無数の乱雑さに怯えていた。
執事はすぐにその知らせを蓮司の母親の花村千鶴(はなむら ちづる)に伝えた。
天音はパナメーラに乗って、高速道路をひたすら走った。都市の喧騒を遠ざけ、山深くへと消えていった。
その頃、東雲グループ社長の休憩室で。
蓮司は恵里と絡み合っていた。するとベッドサイドの携帯が鳴った。
蓮司は携帯を手に取り、アラームアプリを開いた。画面の赤い点がどんどん遠ざかっていく。
「ねぇ、あなた、大智くんのボクシング教室、もうすぐ終わるんじゃない?」恵里が背後から蓮司を抱きしめ、甘い声で囁いた。
蓮司は恵里を振りほどき、遠ざかる赤い点を見つめていた。「あなた」と呼ばれたその一言が、心に妙な痛みを残した。何か大事なものが失われていくような感覚だった。
「俺のことを『あなた』と呼ぶな」
彼の声は冷たかった。
天音以外、誰にも「あなた」と呼ぶ資格はない。
さっきは、ただの気の迷いだった。
蓮司はスラックスを引き上げ、振り返りもせず休憩室を出ていった。
蓮司が去ると、恵里の取り繕った笑顔は一瞬で消えた。彼女はベッドサイドに飾られている蓮司と天音のツーショット写真を手で払い落とし、そのままごみ箱に投げ捨てた。
自分は天音より若く美しく、夜の営みにおいても蓮司に気に入られている。今では大智さえ自分に懐いている。
それなのに、なぜ蓮司は天音のことばかりを気にかけているのか。
きっと昔の情に縛られているのだろう。ならば、今度は自分が直接動く番だ。
郊外の墓地には春の長雨が降りしきっていた。
天音は墓前に長く立ち尽くしていた。かつて母に絶対に幸せになると約束したが、今はもうその約束を果たせそうにない。
彼女は嗚咽まじりに口を開いた。「母さん、ごめんなさい。私、蓮司と離婚することにした。大智の親権は彼に渡すわ」
「一緒にここを離れましょう」
「お母さんをどこに連れて行くんだ?」
突然、頭上から傘が差しかけられ、優しい声が耳に届いた。
驚いた天音の瞳には、澄んだ蓮司のまなざしが映っていた。
「どうして私がここにいるってわかるの?」天音は眉をひそめた。彼はさっきの言葉を聞いていなかったようだ。
「もちろん分かるさ、心が通じ合っているから」
蓮司は天音を抱きしめ、腕にますます力を込めていった。「天音が急に町を出たから、とても心配だった」
彼の暖かい体温が天音の冷えきった心を包み込んだ。しかし、彼女の心はもう二度と温まらなかった。
蓮司の体からはデイジーの香水の匂いがした。
恵里がいつも使っている香水だ。
「何をそんなに心配してるの?」
「もしかして、隠し事でもあって、それがバレるのを恐れてる?」
天音は蓮司の顔から嘘の兆しを読み取ろうとした。
蓮司は真剣な表情で両手を合わせて誓った。「俺はお前のお母さんの墓前で誓う。俺は一生天音のことを裏切らない。もし裏切ったら、神の罰を受けてもかまわない」
その言葉が終わった瞬間、空に雷鳴が轟いた。蓮司は思わず胸がざわついた。
神さえも蓮司の嘘を暴こうとしているようだった。
この数年、蓮司は天音を裏切り続け、その一方で甘い言葉をささやいてきた。
天音の美しい瞳には冷ややかな色が浮かんだ。
「神の罰なんていらないわ。
もし裏切ったら、私は離れるだけよ」
「俺がお前を裏切るわけがないじゃないか」蓮司は天音の手をとり、唇にそっとキスを落とした。「俺は天音と生死を共にし、絶対に天音を離さない。必ず天音に去る隙なんて与えない」
この数年、天音は蓮司の深い愛情に騙され続けてきた。
天音は心の中で冷たく笑い、口調を和らげた。「ありがとう、信じてるわ」
天音は、蓮司から離れることがそんなに簡単ではないと気付いた。
町を離れたら、わずか二時間足らずで蓮司に居場所が見つかった。
ましてや、白樫市全体の空港や海運、旅客事業はすべて東雲グループが握っている。
蓮司が彼女を放さない限り、天音は絶対に逃げられない。
彼女は、隊長が迎えに来るまで耐えるつもりだった。
蓮司は彼女を優しく抱き寄せた。「信じてくれてありがとう。でも、さっきお母さんを連れて行くって言ったけど、どこへ?」
天音は蓮司を押しのけ、伏し目がちだったので、蓮司には彼女の嫌悪は見えなかった。「お母さんの墓はずっと手入れされていなかった。だから、先に遺骨を葬儀場に移そうと思って」
蓮司は安堵し、上着を天音に羽織らせた。そして傘を手渡し、しゃがみ込んで墓石の周りの雑草を抜いた。
「土が緩くなっているし、確かに修繕が必要だな。管理人に頼んでお母さんの遺骨を先に取り出してもらおう」
「数年前、蓮司の名義で土地を落札して、そこにお母さんのための墓園を作ったんだ。近いうちに風水師に頼んでいい日を選んで移そうと思う」
「そこは海を望み、山に抱かれ、お母さんの好きなチューリップもたくさん植えてある。管理人が掃除も供養もしてくれるし、警備員もいる。きっと喜んでくれるはず」
「本当はお母さんの命日に君にサプライズを用意していたんだけど」
蓮司は立ち上がり、天音の手を取った。
稲妻と雷鳴が絶え間なく轟いた。
「ここは危険だ。まず離れよう」
蓮司は傘をさし、天音を守りながら山を下っていった。
天音は蓮司の愛情深い眼差しを見て、十年前、母親と共に苦難に遭ったあの日々を思い出していた。あの時、蓮司が助けてくれたおかげで、母は最後の時間を穏やかに過ごせた。
蓮司は確かに天音のために多くを捧げてきた。それなのに、なぜ彼は彼女を裏切ったのか。
天音は唇を震わせ、真実を問いただしたい気持ちでいっぱいだった。
その時、蓮司が助手席のドアを開けた。
そこには恵里が座っていて、天音のあらゆる疑問や悲しみは喉の奥に詰まったままになった。
恵里は白いキャミソールワンピースに羽織を重ね、露出した首筋にはキス跡が無数についていた。首にはリングを通したネックレスがかかっている。それはまさに天音が最近なくした結婚指輪だった。
その時、天音はひどく落ち込んでいて、蓮司が自分の指輪を外し、「この指輪は新しいペアリングに作り直すから」と約束したばかりだった。
今もなお、蓮司の傘を持つ左手の薬指には二人の結婚指輪が輝いていた。その冷たい輝きは、天音の胸に残酷な刃のように突き刺さり、心を引き裂いた。
蓮司が天音の母の墓参りに来ていながら、恵里も連れてきたなんて。
しかも、自分の指輪まで恵里に渡してしまったのか?
さっきまで彼の愛情を信じかけて、正面から向き合おうとしていた自分が、今は滑稽で哀れに思えた。
蓮司なんて、もう未練を持つ必要はない。
天音は極度の悲しみを胸に、振り向いてその場を立ち去った。
後から怒号が響いた。「今すぐ降りろ!助手席は俺の妻専用なんだよ!」
第3話
恵里はどさりと天音の目の前にひざまずいた。「天音さん、お願いします、千鶴さんに私を追い出させないでください」
後部座席の窓が下がり、大智が顔を出した。「お母さん、どうしておばあちゃんの前で恵里さんの悪口を言うの?」
大智は天音を責め立てた。
天音は泥にまみれてひざまずく恵里を見つめた。彼女は極度の無力さと弱さを装い、人々の同情を引こうとしていた。
恵里が大智をここに連れてきたのは、天音と大智の関係を壊すためだった。
「大智くん、お母さんに大声を出したらダメだよ。お母さんは誰の悪口も言わないから」蓮司の庇う声が響き、天音は彼の優しい眼差しを見返した。
真実を知らなければ、天音はきっと感動していただろう。
しかし今の天音には、ただ滑稽に思えた。
「お母さんが告げ口しなかったら、どうしておばあちゃんが恵里さんを追い出すの?絶対お母さんのせいだ!」大智は全く納得せず、車から降りて恵里を引っ張り起こした。「恵里さん、早く立って。ズボンが濡れちゃうよ」
天音は大智が恵里の濡れたズボンを心配するのを見て、自分が雨で全身ずぶ濡れになり、寒さに震えていることを全く気にかけてもらえなかった。
天音の胸は強く痛んだ。
恵里は口元に勝ち誇った笑みを浮かべ、わざと悲しげに言った。「大智くん、私は大丈夫。天音さんが私を追い出さない限り、どれだけひざまずいてもいいから」
天音は大智に堪えながら言った。「大智くん、私は教えたよね。証拠もなしに人を勝手に疑っちゃダメだって」
大智は不満そうに口をとがらせた。「じゃあ、おばあちゃんに恵里さんを追い出さないように言ってくれたら、お母さんのこと信じる」
恵里さんはとても良い人で、パパも恵里さんのことが好きなのに、ママ以外誰も恵里さんの悪口なんて言うわけがなかった。
天音は、大智が恵里のために自分にこんな要求をするとは思いもしなかった。
天音は大智を甘やかしすぎていた。
そのせいで、大智に自分の愛情を利用して好き勝手できると思わせてしまった。
「大智くん、おばあちゃんが決めたことは誰にも変えられないよ。お母さんにそんな無理なこと言っちゃダメだ」蓮司は天音を守るように見せかけて、実は大智にヒントを与えていた。
「じゃあ自分でおばあちゃんにお願いしに行く!パパ、早く行こう!」大智は恵里の手を引き後部座席に戻ろうとし、恵里は抵抗しながらも従った。
天音には、大智と恵里がまるで親子のように見え、何度も「すぐ離れる、もう大智とは関係ない」と自分に言い聞かせたが、胸の奥はやはり痛んだ。
かじかんだ指先を蓮司に引かれて、天音ははっとした。蓮司が優しく言った。「大智くんのことは気にしなくていい。小さなことに気を揉む必要はない。恵里が、お義母さんに辞めさせられれば、すべては元通りになるさ」
元通りになる?
そんなこと、ありえない!
「母から電話があった。家に戻って来いって」
「ここは本家に近いし、君は全身濡れてる。早く着替えたほうがいい」
母の墓がこの霊園に葬られたのは、千鶴がいつでもお参りできるようにという理由だった。
生前の母は千鶴の親友だった。
母が亡くなってから、天音はずっと蓮司の母の世話になり、自分の娘のように可愛がられてきた。
蓮司が天音を裏切ったのは千鶴とは関係ない。
そう考えると、天音は蓮司の手を振り払った。「私が運転する」
恵里が座っていた場所を、天音は嫌悪した。
路肩のパナメーラへ向かって歩くと、蓮司が傘を差し、天音を車に乗せてくれた。
ワンボックスカーは、バックミラーの中で次第に小さくなっていった。
天音は風雅荘に到着した。
「天音、どうしてそんなに濡れているの?」千鶴は使用人に傘をさしてもらいながら出迎え、天音を抱きしめた。「蓮司は?一緒に帰ってこなかったの?」
すぐに使用人にお湯と生姜湯を用意させ、天音を抱いて階段を上った。
千鶴の深い心配そうな表情に、天音の目には涙が浮かんだ。
もし千鶴が蓮司の裏切りを知ったら、どれほど悲しむのだろう。
天音は千鶴に心配をかけたくなかった。「お母さん、彼は後から来るわ」
千鶴は天音をなだめながら二階に上がった。「先にお風呂で体を温めなさい」
天音が着替えて出てくると、千鶴は天音の手を握った。
「いい子ね、悲しまないで。何があったか、私は全部知ってる。
あなたは私の宝物よ。誰にもつらい思いはさせない。
私はあなたの味方だからね。
あなたがどの道を選んでも、私はすべて応援するわ」千鶴はきっぱりと言った。
千鶴の慈しみと揺るぎない愛情に、天音の胸のつかえが決壊したように涙があふれた。
天音は千鶴がどんなに自分を愛してくれても、本心で一番かわいいのはやはり蓮司だと思っていた。
たとえ蓮司の裏切りを知り悲しみ怒ったとしても、最終的には東雲グループと蓮司のために、自分を犠牲にするのだと思っていた。
まさか千鶴が自分を守ってくれるなんて。
感動した天音は、自分の決意を伝えた。「お母さん、私はもう彼と……」
その時、大智が突然ドアを開けて飛び込んできて、千鶴の膝にしがみつき、天音の言葉をさえぎった。
「おばあちゃん、もう恵里さんをお母さんなんて呼ばないから、お願い、恵里さんを追い出さないで」大智は目を真っ赤に泣き腫らし、千鶴に懇願した。
「お母さん、大智を甘やかしすぎると、天音を怒らせてしまうよ」
蓮司が外から入ってきて、天音は蓮司と大智を見て顔をそむけた。
蓮司はさらに近づき、天音の額に手を当てた。天音は避けようとしたが間に合わなかった。
熱がないと確認して、蓮司はほっとした。
千鶴は天音と蓮司の親しげな様子を見て、孫の大智を見下ろし、執事の電話の内容は事実ではないと判断した。
執事は天音が書斎から出てくるのを見ていなかったし、書斎の乱れも多分どこかの使用人の仕業だろう。
千鶴は辛抱強く誠意をこめて言い聞かせた。
「大智くん、恵里をお母さんなんて呼んじゃダメ。天音こそがあなたのお母さんなのよ。あなたを産むために体を壊して、風が吹いたり雨が降ったりすると腰がとても痛むの。どうしてそんなにお母さんを傷つけるの?
私は誰にも天音を傷つけさせない。恵里が変なことを教えたから、この家から追い出さないといけないの」
大智の目には涙が溜まり、ひどく悲しそうだった。
別に自分がママに「産んで」と頼んだわけではなく、ママが自分を産んだのだ。
なぜ天音の苦しみまで自分が背負わなければならないんだ。
でも千鶴と蓮司、二人の厳しい目を前にして、大智は反論できなかった。
「天音、心配しなくていいわよ。恵里は私の遠い親戚だけど、大智くんに悪いことを教えたから、きちんと罰を与えて、すぐにでも出て行ってもらう」
天音は千鶴を見て、千鶴が恵里を追い出すのは蓮司の浮気を知ったからではなく、今朝の幼稚園での出来事が理由だとやっと気づいた。
それだけで千鶴を悲しませ怒らせるのだから、もし本当のことを知ったら、もっと大変なことになるだろう。
大智はどさりと天音の前にひざまずき、彼女の手を握った。
「お母さん、お願い、おばあちゃんに恵里さんを追い出さないように言ってよ」
「あと1か月したら、僕の誕生日だよ。今年の誕生日、何が欲しいかずっと聞いてたじゃん?
何もいらない。ただ恵里さんがずっと僕のそばにいてくれればいい。
お母さん、約束守ってよ」
天音は大智の幼い顔を見つめ、頼み込むのにしては、どこか傲慢な表情に気づいた。
たとえ恵里に利用されていても、天音に少しも敬意を払わないのは、大智自身の選択だった。
いずれ真実を知ったとき、後悔しても自業自得だ。
それでも天音は大智に最後のチャンスを与えたかった。
「大智くん、それが本当に一番欲しい誕生日プレゼントなんだね?」
「うん」
「絶対後悔しない?」
「しない!」大智は力強くうなずいた。「恵里さんがずっとそばにいてくれればいい」
「わかった。じゃあ叶えてあげる」
天音は大智の手をそっと離した。「30日後、そのプレゼントをあげるわ」
それは天音が去る日でもあった。
大智は天音が自分を見ずに顔をそむけるのを見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
大智は今まで、天音にフルネームで呼ばれたことがほとんどなかった。
どんなに怒られても、あんな声色ではなかった。
だが大智は、天音がいつも自分のわがままを聞いてくれていたことを思い出し、不快な気持ちを無視した。
天音は今は怒っていても、しばらくすれば機嫌が直る。毎回そうだった。
大智は千鶴に向かって叫んだ。「おばあちゃん、お母さんが約束してくれた。僕、もう恵里さんをお母さんなんて呼ばないから、恵里さんを追い出さないで」
千鶴は天音が何も要求しないのを見て、蓮司がそばにいて、天音はまるで子猫のようにおとなしく黙っていたので、すっかり問題は収まったものと思い込んだ。
「天音が恵里を追い出さないって約束したけど、私は約束していないわよ。
今日からは他の人に面倒を見てもらうから。もう決めたの」
千鶴は天音の目の前で恵里を解雇した。大智がどれだけ駄々をこねても無駄だった。
千鶴が自分を守ってくれたことに、天音の心は温かくなった。
30日後、天音が密かに去ったら、千鶴はどれほど悲しむだろう。
その時はきっと千鶴に「心配しないで」と伝言を残そうと天音は思った。
これから一ヶ月、恵里の顔を見ずに済むと思うと、天音の気分は少し楽になった。
千鶴に心配をかけたくない天音は、蓮司と大智とともに家に戻った。
車が屋敷を出たばかりで、天音の携帯が鳴った。恵里からのメッセージだった。
【天音さん、聞いたことある?名門家の一族では、息子の妻が子どもを産めないと、母親がこっそり息子に愛人を用意するって。】
【天音さん、本当にあなたがかわいそう。信じていた人に裏切られて。】
【ねえ、私が今どこにいると思う?】
恵里は別荘の裏庭のチューリップの写真を送ってきた。それは天音の母が一番好きだった花で、自分で植えたものだった。
その花の一輪が今恵里の手で粉々にされていた。
天音は怒りを抑えながら蓮司を見つめてこう言った。
「すぐ戻って」
第4話
「どうした?」
蓮司は疑問を覚えながらも、天音の言葉にはいつも素直に従い、車をUターンさせた。
「自分の車に忘れ物をしたの」天音はその目の冷たさを隠した。
「わかった」蓮司は笑みを浮かべて答えた。
愛人が追い出されても冷淡だったくせに、今は天音にやたらと優しい。彼は完璧に潔白を演じており、微塵も隙を見せなかった。
天音には、蓮司がどんどん他人のように感じた。
車はすぐにガレージに着いた。
「俺が取ってくる」蓮司がドアを開けた。
「うん、ダークグレーのヘアピンだよ」天音は念を押した。
蓮司が車を降りると、天音も、隣で泣き疲れて眠っていた大智をちらりと見てから車を降りた。
後庭のホールに向かい、分厚いカーテンが彼女の姿を隠した。
リビングでは、恵里が千鶴の背後に立って肩を揉んでいた。二人はまるで親子のように親しかった。
天音の脳裏に、いくつもの光景が浮かんだ。
千鶴は、病に伏す母の世話に苦労し、母の臨終の際には「天音のために、これからの苦難は全部私が背負っていく」と母に約束した。
千鶴はずっと天音を守ってきた。天音を傷つけるはずがない、きっと何か理由があるはずだ。
天音は顔色を失い、カーテンを強く握った。
恵里は千鶴をマッサージしていた手をふいに止め、天音に気づいて、取り入るような笑みを浮かべた。
「千鶴さん、必ずお言葉に従って、蓮司さんのためにいっぱい子供を産みます」
「風間家は絶対にあなたのことを粗末にしませんわ」
「天音さんって、本当に可哀想ですね。もう一人子供が欲しいだけで、いろんな薬や鍼治療までしたのに、さらに体調が悪化しただなんて。千鶴さん、どうか彼女を止めてください」
「風間家に嫁いだ以上、子供を産むのは彼女の義務よ」千鶴は少し眉をひそめ、恵里がなぜ天音の話をしだしたのか不思議に思った。「もう彼女が産めないから、こんなに手を尽くしているというのに」
「気にすることない」
天音は長い治療の日々の苦しみを思い出し、涙が止まらなかった。
ずっと千鶴を母のように慕ってきたのに、まさか千鶴が裏で自分を利用していたなんて思いもしなかった。
もし母が千鶴の本性を知ったら、あの世にいても安らかに眠れないのだろうだろう。
千鶴が突然、後庭のホールを見た。一瞬だけ、悲しげな視線が自分に向いている気がした。
だが、そこには誰もいなかった。微かに揺れるカーテンだけだった。
千鶴は恵里の手を振り払った。「警告よ。東雲グループの社長夫人は天音だけ。あなたが子供何人産んでも、それは変えらないわよ」
恵里はおとなしく顔を伏せた。「はい」
千鶴はその素直な態度に、「大智くんの前で余計なことを言ったのはもう不問にするわ。明日からは別邸に住みなさい、必要なとき以外はそこから一歩も出るんじゃないわよ」
「千鶴さん、あの……孤児院の子供を引き取る話は……」
「その話は、天音の気持ちが落ち着いてからよ」
天音は地下駐車場に戻った。苦しさで息が詰まりそうだった。これ以上いたら、きっと自分を抑えきれず千鶴を問い詰めてしまうと思った。
駐車場に戻ると、蓮司が車の傍で待っていて、天音のダークグレーのヘアピンを持っていた。
「天音、どこ行ってた?」
「ちょっとお腹が痛くて、トイレに行ってた」天音は蓮司の心配そうな眉と目をじっと見つめた。
「だからそんな顔色悪いんだな、早く家に帰って休もう」蓮司は天音を車に乗せた。
天音は後部座席に座り、ふと、もしかしたら蓮司は仕方なくこうしているだけかもしれないと思った。
蓮司は昔から親孝行で、千鶴のプレッシャーに屈して自分を裏切ったのかもしれない。
もし蓮司が本当に誠実なら、恵里が裸で目の前に立っても何も感じないはずだ。
だが現実は、恵里と五年も関係を続けてきた。
涙が頬を伝い落ちる。天音は蓮司に弱いところを見せたくなくて、前座席のシートポケットからティッシュを取ろうとした。その時、中からいくつかの物がこぼれ落ちた。
その中の一つが、天音の目に強烈な痛みをもたらした。
天音は血の気が引き、反応すらできなかった。
黒い影が目の前を横切り、いつの間にか大智が目を覚まし、赤いレースのセクシーな下着を手に取って不思議に尋ねた。「パパ、これ何?」
天音も蓮司を見た。「なんで車に女のTバックがあるの?」
「わぁー」
大智はそれが下着だとわかるので、蓮司に投げつけた。「パパ、これ、恵里さんのだと思う」
「どうしてそんなものが車にあるの?」天音は冷たく問い詰めた。「あなたたち、隠して何をしてるの?」
蓮司は何も答えず、突然アクセルを踏み込んだ。
車は猛スピードでクラブまで走り抜けた。
蓮司は先に個室の扉を押し開け、渡辺健太(わたなべ けんた)の襟を掴み、一発を彼の顔に叩き込んだ。ついでにパンツを彼の顔に投げつけた。
「昨日、俺の車で何した?」
「なんで俺の車に女の下着があるんだ?」
天音も後から個室に入ると、健太と目が合った。
健太はすぐに状況を察し、顔を押さえて泣きそうに謝った。「すまない、蓮司。
昨晩、酔っ払って、盛り上がって……そのまま車で……」
蓮司はそれを聞いて、健太の襟を離した。
健太は慌てて天音のそばに寄って、「天音、ごめん。俺が悪かった、蓮司を疑ったりしないでくれ。俺、もう二度と車を借りたりしないから」
個室には男女が輪になって座っていて、全員の視線が天音に集まった。
天音は怒りを見せなかった。
健太はすぐに携帯を取り出し、動画を再生した。あからさまな喘ぎ声が部屋中に響いた。
男女は呆れた顔をした。
「なんで蓮司の車でそんなことしたの?天音が潔癖だと知らなかったのか?」
「天音、あいつを許すなよ。蓮司にしっかりお仕置きさせなきゃ」
天音は少し眉をひそめた。「もうやめて」
「天音、許してくれたんだよな?」健太は興奮して思わず天音の手を握ったが、蓮司の視線を感じて慌てて離した。
天音は淡々とうなずき、健太はほっとした。
この界隈では、「蓮司を怒らせたら天音が庇ってくれるが、天音を怒らせたら蓮司が許さない」と噂されていた。
だから健太は蓮司の親友でも、天音を怒らせるのが一番怖かった。
「天音って本当にできた人だよな」
「美人で心も広いよな」
称賛の声が次々に上がった。天音は無理やり優しい笑みを浮かべた。
天音と蓮司は一緒になって十年、蓮司の友人たちはいつも天音によくしてくれた。
最近、スマートパーキングのプロジェクトでいくつかの会社が東雲グループと組もうとしていた。
渡辺家の煌星グループの条件は最良ではなかったが、任せてもいい。
出発前の礼として、健太の長年の好意にギフトを返すつもりだった。
天音は蓮司を見て言った。「大智くんが外で待ってるから、先に」
蓮司が返事をする前に、天音は個室を出た。
執事はすでに新しい車を用意していた。
「ワゴン車は?」
「蓮司様の命令で、車屋に回収されて廃車になりました」
「ママ、僕のおもちゃ、まだ車にあるよ。僕の一番気に入りのトランスフォーマーなのに」大智が騒ぎ始めた。「ママ、トランスフォーマーを返して!」
天音は個室に戻り、蓮司に車屋へ電話してそのおもちゃを回収してもらおうとした。
扉が半開きで、天音がノブに手をかけた時、中からにぎやかな声が聞こえた。
「どんな動画だよ、早く見せろよ」
「健太、見せてくれよ」
「ただのエロ動画だって」健太はあっさり携帯を開いて、また卑猥な動画を再生した。「観たことない?」
「エルディア帝国のやつだよね。天音って本当に騙されやすいな」
「こんなに不器用だと、セックスでも全然面白くなさそうだな。蓮司も可哀想だよな」健太が続けた。「顔も学歴も、どこも恵里に敵わない」
健太の言葉は、天音にとって平手打ちのようだった。彼らは前から蓮司の裏切りを知っていて、天音だけを騙して、バカのように扱っていた。
自分と恵里のことを、両方とも蓮司の妻として接していた。
蓮司は足を組んで部屋の中央に座り、顔は闇に隠れて表情が分からなかった。
彼が健太の発言を止めなかったのは、皆の前で天音を侮辱するのを黙認した証だった。
天音はノブを強く握りしめ、胸の痛みに耐えきれなかった。
蓮司に恵里の柔らかい身体が絡みついていた……
恵里は唇を蓮司に近づけ、そっと息を吹きかけながら、生まれながらの色気を滲ませた。「蓮司、私と天音さん、どっちがいい?」
蓮司は答えず、二人はさらに近づいた。
恵里は得意げに微笑んだ。彼の答えは明白だった。
監視カメラで見るのと、目の前で蓮司の裏切りを目撃するのとでは全然違った。
天音は苦しくて、心の痛みと怒りを抑えきれず、いきなり個室のドアを押し開けて彼らの前へ進んだ。「あんたたち、何してるの?」
第5話
個室の騒ぎがぴたりと止まった。
全員が天音に視線を向けたその瞬間、彼らの顔には恐怖が浮かんだ。
蓮司は恵里の手首を乱暴に掴み、彼女を床に突き飛ばした。
「俺に頼んでも無駄だ。母親が決めたことは誰にも変えられない。それに、お前は大智に悪いことを教え、天音の心を傷つけた。俺が罰しないだけでもありがたいと思え」
その声は冷たく、決然としていた。
恵里はみじめに床に倒れ込み、手足の痛みに顔をしかめながら、天音を恨めしそうな目で見上げた。
「そうだそうだ、お前が大智くんをダメにして、天音を怒らせた。蓮司に罰せられないだけありがたいと思え」
皆が気を緩め、再び天音を庇う雰囲気になった。「大智くんに悪い影響を与えて、天音を傷つけたり、ほんとに許せない」
「天音、気にしないで」
「蓮司は天音のことを本当に愛してる。絶対に誰にも天音のことを傷つけさせない」
健太はさらに恵里を力強く引き上げた。「天音、俺がすぐにこいつを連れて行く!」
さっきまで持ち上げられていたのに、次の瞬間には谷底に突き落とされ、踏みにじられていた。
恵里は激しく抵抗し、従う気はなかった。
天音はこの人たちの偽善に強い嫌悪を感じ、吐き気すら覚えた。口を開いて遮った。「恵里、さっき蓮司にしがみついてたのは、本当にお願いするためだけだったの?」
全員の怒りのこもった視線が一斉に恵里の顔へと突き刺さり、誰一人として彼女を擁護しようとはしなかった。まるで「天音を怒らせるな」と無言で脅しているようだった。
恵里の顔色は青白くなり、歯を食いしばって天音を睨みつけた。
もちろんそうじゃない。蓮司と楽しみたかっただけだ。
愚か者め。
でも、蓮司の前でそんなことを堂々と明かせるはずもなかった。
蓮司は健太に目配せし、健太は突然恵里を突き倒した。「さっさと天音に謝れ」
「そうだ、謝れ!」
皆が囃し立てた。
恵里は膝を床に打ちつけられ、痛みと屈辱で涙が溢れたが、誰一人として彼女に同情する者はいなかった。
むしろ皆に責め立てられて、はっきりと「ごめんなさい」と言わざるを得なかった。
なんでこんなことに。
こいつらはさっきまで裏で天音の傲慢さを嫌っていたくせに。
いざ天音が現れると猫のように大人しくなって、怯えている。
恵里が悔しさで歯を食いしばるのを見ても、天音は許そうともせず、誰も恵里をかばおうとしなかった。
天音は蓮司に抱き寄せられ、熱い手が布越しに彼女の腰に触れた。
その腕には、まだ恵里の香水の残り香が漂っていた。
天音は眉をひそめ、胃がむかついた。
蓮司は天音の耳元で囁いた。「天音、こんな女に心を乱されないで」
健太は恵里を乱暴に引きずった。「天音、今すぐこいつを外へ連れていく」
彼らの芝居じみたやり取りを見て、天音は蓮司を強く突き放し、制止した。「待って」
恵里の手首を鋭く見つめる。「なぜ、その赤い下着が手首に巻かれているの?」
恵里は突然、口元を歪め、惨めさと勝ち誇った色を浮かべて蓮司を見て、潤んだ目で妖艶に言った。「これは、大切な人がくれたものなの。その人は、私の体がこの下着を一番美しく見せるって言ってくれた。セックスの時も脱がせる必要なんてないって、他の誰かと違ってね……」
恵里は語尾を伸ばし、妖しく挑発的な視線で天音を見つめた。
天音はその視線の先で、蓮司の目が合い、監視映像で見たあの吐き気を催す場面が脳裏によみがえった。
蓮司は恵里には欲望を隠さず、天音には、あの優しさも、今となっては茶番に思えた。
天音は胸を押さえ、何かがえぐり取られたような苦しさに唇が震えた。「大切な男って、蓮司のこと?」
個室は一瞬、静寂に包まれた。
健太が突然恵里の手を握り、大声で叫んだ。「俺だよ。俺と恵里は付き合ってるんだ」
「二人はそんな関係だったのか、全然気付かなかったぞ」
「だからさっきあんなに必死で連れて行こうとしたんだな」
蓮司は騒ぎの中、落ち着いたまま天音の前に立った。「天音、さっきも健太に免じて彼女を近づけさせただけだ」
「悪かった、余計な心配をかけて」
天音は蓮司を見上げ、彼の唇に光る口紅がライトに反射して、銀の針のように彼女の目を刺した。
天音は目を閉じて、込み上げる涙を堪えた。
「知ってるわよ。渡辺家と高橋家の二人が婚約していること。高橋杏奈は私の親友なの」
「それじゃ、恵里は杏奈と健太の間に割り込んだってこと?」
「健太、杏奈を裏切る気か?」
天音の追及に、健太は恵里の手を放し、慌てて天音に訴えた。
「天音、これは……恵里が俺を誘惑したんだ……」
「だから、絶対杏奈には言わないでくれよ」
「誰か、この女を追い出せ!」
クラブの警備員がすぐに入ってきた。
恵里はこの事態が信じられず、警備員に髪を掴まれ、引きずられていった。
「やめて!」
恵里は絶叫しながら暴れた。「離して!私は健太の愛人じゃない、誘惑なんかしてない!」
「蓮司、助けてよ。私は蓮司のものなのに……」
もみ合ううちに、シルバーの結婚指輪が恵里の胸元から落ちた。
天音は恵里の首にかかったネックレスを引きちぎった。ネックレスが失われた恵里は突然うろたえ、うつむいた。
天音はそのネックレスを蓮司の前に突きつけた。チェーンに通された指輪が皆の前で揺れて、その内側には鮮明な刻印があった。
刻まれていたのは天音と蓮司の名前で、蓮司が自分で彫ったものだった。
天音はどうしても耐えられなかった。蓮司と恵里が目の前で、自分の物を使ってそんな関係を続けていたことが。
「なぜ、私がなくした結婚指輪を恵里が持ってるの?」
天音は悲しげに蓮司に問い詰めた。
「恵里は、健太の愛人じゃなくて、蓮司のものだって言ってたけど?」
「彼女は蓮司にとって何物だ?」
恵里は警備員に両手を後ろで縛られ、髪は乱れ、極限までみじめだった。
蓮司と一緒になってから、こんな目に遭ったことはなかった。
この五年間、蓮司のために子どもまで産んだのに。
天音と何が違う?なぜ自分だけが闇に隠されて認められてない。
天音は皆の前で堂々と、自由に振る舞えるのに。
怒りで理性を失くした恵里は突然叫んだ。「蓮司は私のことを一番愛してるのよ……」
「やめろ!」
「俺の母親の顔を立てて、本来ならお前が大智を悪い子にしたことも水に流すつもりだった。だが、まさか俺と天音の大事な物まで盗んだとは!」
蓮司は天音を抱きしめ、恵里の言葉を遮った。表情は悲しげで、心底大切そうに見せた。「この指輪が俺と天音にとってどれほど大切か、お前は分からないのか?」
「どうして彼女にそんなことができたんだ」
「こいつを警察に突き出せ、窃盗で訴える」
蓮司は恵里に対して憎しみと怒りを隠さず、声には一切の情けもなかった。この冷たい顔に、皆が黙り込み、恵里も怯えて声を失った。
まるでこの指輪が本当に恵里に盗まれた物で、蓮司が贈ったものではないかのようだった。
蓮司が軽く目配せすると、警備員たちは意気消沈した恵里をすぐに個室から引きずり出した。
冷たいものが指先に触れた。
天音がうつむくと、蓮司が指輪を彼女の薬指にはめて、手を握り、真剣な声で言った。
「天音のものは、誰にも奪えない。
泣くな。
俺天音が泣いてるところを見るのは、死ぬより辛い」
蓮司は天音の頬を伝う涙をぬぐった。薬指の指輪が天音の目に入った。
その瞬間、天音は蓮司が昔のままの愛しい人だったような錯覚に陥った。
確かに蓮司は、自分を傷つけたくなくて、何年もその身で苦しみを背負ってくれていた。だがその苦しみは、すべて彼がもたらしたものだった。
「誰にも天音のものは奪えない」と言ったのにも関わらず。
天音だけを見ていたはずの蓮司は、とっくに心を誰かに奪われていた。
天音は胸の痛みで呼吸もできなかった。
彼女は蓮司の手を振り払い、個室を出て、洗面所へ駆け込んだ。
冷水で顔を洗うと、ようやく少し落ち着いた。
洗面所のドアが突然開き、大智が入ってきて、彼女の足元で膝をついた。「ママ、その指輪は僕が恵里さんにあげたんだ。だからお願い、彼女を警察に連れて行かないで、もし捕まえるなら僕を連れて行って」
第6話
大智の言葉は、目に見えない刃のように天音の心を深く突き刺した。
息子が自分の家庭を壊し、夫を誘惑した女のために、目の前で膝をついている。
天音は心の痛みで呼吸が乱れ、声も震えた。「今、何て言った?」
「ママ、ママはアクセサリーがいっぱいあって、どうせ全部は使いきれないでしょ。恵里さんに指輪ひとつあげたって、別にいいじゃん」
大智は唇を尖らせて甘えた。自分の過ちなど全く気づいていなかった。「それに、いつもママが言ってたでしょ。恵里さんは僕のことすごくよく世話してくれるんだから、お礼をしなきゃって」
「だから、ママの代わりに僕がご褒美をあげたんだ」
あの日、学校から帰ると、廊下に落ちていた指輪を恵里がとても気に入って、自分じゃ一生でも買えないって、可哀想そうに話していた。
天音は普段から「身近な人には気前よくしなさい」と教えていた。
なのに、今となって自分を責めるのはどうしてだろう。
天音は洗面台を握りしめて、なんとか立ち上がり、大智を見下ろした。「ママの物を人にあげる時、ママに聞いた?
教えたよね、無断で持ち出すのは盗みだって」
「ママ、どうせママが死んだら、これ全部僕の物になるじゃん。ママの物は僕の物だし、それでも盗みになるの?」
「誰がそんなことを教えたのよ?ママの物が全部大智の物だなんて。ママは『人は自分の力で生きるものだ』と教えたはずよ」
天音は大智の当然の顔つきに、全く罪悪感のない様子を見て、言いようのない痛みが胸に湧き上がった。
もし自分が突然消えたら、大智はきっと少しくらいは悲しんでくれると思っていた。
けれど、彼は何も気にせず、むしろ自分が死んだ後のことばかり考えている。
天音に叱られて、大智は唇を震わせ、涙目で悔しそうに天音を睨みつけていた。
もちろんこれは千鶴が教えたのだ。自分は将来、東雲グループも両親のすべても受け継ぐ者だと。
大きくなったら、恵里さんにたくさんジュエリーを買ってあげるつもりだ。
その頃には、もう母は何も言えなくなる。
「ママ、指輪はもうママの手元に戻ったんだから、恵里さんを許してあげてよ。
恵里さんはもう家に来ないんだから、全部なかったことにしようよ」
なかったことに?
天音は大智の幼い顔を、失望とともに見つめた。
自分の身に起きたことでなければ、痛みなど分からないのだ。
「パパが彼女を訴えるって言ってるから、ママに言っても仕方ないよ」
そう言って、天音はもう大智を振り返らずに洗面所を出た。
恵里は結局、訴えられることはなかった。警察は、大智が天音の許可なく指輪を恵里に渡したことは、天音の意志に反するものの故意ではなく、年齢も考慮し、不問とした。
その内容を蓮司が天音に伝えた。
深夜の別荘で、蓮司は書斎で仕事をしていた。
書斎は以前と変わらず整っていて、天音が壊した結婚写真も元通りに直してもらった。蓮司は何も気付かなかった。
天音は執事や家の女性たちの給料をすべて上げた。
天音は主寝室に入ると、そのまま一度も外に出なかった。ここだけが、蓮司と恵里の手が触れていない唯一の場所で、天音はようやくひととき安らげた。
突然ドアが開き、二つの影が現れた。大智はクマのぬいぐるみを抱えて天音に飛びつき、後ろからは千鶴が新しく雇った家政婦の伊藤美月がついてきた。
「ママ、僕この人嫌い!
歯磨き粉もちゃんと出してくれないし。
どのパジャマを着たらいいかも分かってないし、どのおもちゃで遊んだらいいかも分かんない
クマのぬいぐるみも洗濯機に放り込まれて壊れちゃった。
僕、この人いらない!いらない!」
天音は反射的に大智を抱き上げ、彼の怒った顔と、困ったような美月の顔を見た。
「まず外に出ていてちょうだい」
美月はうなずき、静かに寝室を出て行った。
天音は去っていく美月の後ろ姿を見送った。彼女は清潔なシャツにシンプルなスラックス、ボタンは一番上まで留め、両手は腹の前で組み、真面目な雰囲気をまとっていた。
天音は恵里のことを思い出した。あの胸元が大きく開いたVネックの服、胸の上まで露出し、しゃがめば尻まで出そうなほど短いデニム。胸に寒気が走った。
初めて会ったときから、恵里は下心を隠す気もなかった。
家政婦たちは「恵里にも制服を」と勧めた。
しかし、恵里は断った。
当時は「若いし、自由にしてもいいだろう」と思い、家政婦にも「陰で余計なことを言うな」とたしなめていた。
今となっては、ただただ滑稽だった。
大智が腕を揺らし、天音は我に返り、その潤んだ瞳を見つめた。
「美月はまだ大智の好みも分からないんだよ。うまくできないのも仕方ない。もう五歳なんだから歯磨き粉くらい自分で出せるでしょ。できないことも、少しずつ学んでいくのよ」
大智は口を尖らせて小さな声で文句を言った。パパに「天音の前で恵里の話はするな」と言われていたが、恵里さんは本当にいい人だった。たった一晩離れただけで、もう寂しくなった。
「恵里さんは最初から、僕が何をしたいか、何が好きか全部分かってくれたのに」
「美月さんはただのバカだ」
天音の目に、驚きが浮かんだ。
なぜ恵里は大智のことをそんなによく知っていたのか。
蓮司が教えたのか?
「人の悪口言うのをやめなさい」天音はそれ以上大智と話したくなかった。「もう寝る時間だよ」
だが大智は拗ねて、天音の膝から降りようとしなかった。「ママ、今夜一緒に寝たい、お話がしたい」
恵里がいたとき、天音が一緒に寝ようと言っても、いつも断られていた。
今は恵里がいなくなり、天音を求めてきた。
「大智くんはもう五歳なんだから、自分で寝るのに慣れないと」天音がそう言うと、大智は大声で泣き始め、天音の腕にしがみついた。
その泣き声を聞きつけて、蓮司が来て大智を引き離した。
大智のクマが床に転がり、お腹の透明なポケットから写真が見えた。
洗濯機で洗われて色あせていたが、まだはっきり見えた。
観覧車の下で撮った一枚だった。
親の付き添いが不要な幼稚園の遠足の日だった。
千鶴が心配して、恵里をボランティアとして同行させた。
その日、蓮司は隣町に出張していたはずだった。
天音のいないところで、彼ら三人はもう家族になっていた。
写真に三人は寄り添い、幸せそうな笑顔を浮かべていた。その光景は、天音の心を鋭く突き刺した。
天音は、蓮司がぬいぐるみを拾い大智に返すのを見ていた。
彼女はもう蓮司と大智のために涙を流す気になれず、顔を背けて二人を見なかった。
「天音、あの日、空港に着いたばかりのとき、母さんから電話があったんだ。大智が遠足でいなくなったって。すぐに飛行機で帰って探したんだ。お前を心配させたくないから黙っていた。
でも、ちゃんと見つけたさ」
蓮司は天音のそばに寄って、辛抱強く説明を続けた。
大智も続けて言った。「ママ、僕あの日新しい友達ができたんだ」
大智はクマのポケットから写真を取り出して裏返し、天音に見せた。
写真に写っていたのは、肩を組んだ二人の子ども。
天音がその写真をちらりと見た瞬間、蓮司がすぐに取り上げた。
天音の目の前で、蓮司は写真をびりびりに破ってゴミ箱に捨てた。
「彼女は大智を悪い子にしただけじゃなく、ママの結婚指輪まで奪った。もううちに彼女の写真は置かない。分かったか?大智」
蓮司は厳しい口調で大智を叱った。
蓮司はいつも自分の気持ちを最優先していた。
しかし自分はそこに少しの温もりも感じなかった。大智は写真を破かれ、叱られて、泣きながら主寝室を飛び出した。
天音は冷ややかにそれを見つめ、蓮司がなだめたり「必ず大智をきちんと教育する」と言ったりしても、心には何も響かなかった。
二人が出て行った後、天音は外に向かって言った。「誰か、ゴミ箱を持っていって」
その写真があるだけで、天音には耐えがたかった。
あと29日で、天音はこの家を去っていく。
美月が廊下から入ってきて、散らばった写真の破片を拾いゴミ箱に捨てようとしたとき、不意に手を止め、破片の一つを持ち上げて驚いてこう言った。「この子、恵里の娘じゃないですか?」
第7話
「恵里は娘がいるの?」
天音はマッサージチェアから立ち上がった。
美月は天音が興味あるのを見て、机の上に写真の破片をきれいに並べながら小さな声で言った。「今日、恵里の荷物を整理していたら、この子の成長記録のアルバムがあったんです」
「ショートカットの女の子で、ぱっと見て大智くんかと思ったくらいでした」
美月は気まずそうに笑い、それが余計に天音の顔色を青ざめさせた。
天音は美月の手を押さえた。「そのアルバム、見せて」
ドアの外から蓮司の声が突然響いた。「天音、何を持って行くつもり?」
天音はゆっくり振り向き、蓮司を見据えた。
暖かい黄色の光の下、シルクのルームウェアが蓮司の鋭い輪郭を和らげ、柔らかい雰囲気を与えていた。
クラブで着ていたあのスーツは、蓮司が天音の前で使用人に捨てさせると言っていた。
それでも、天音は蓮司とこれ以上話したくなかった。「何でもない」
天音は机の上の写真を払い落とし、下へアルバムを見に行こうとした。
だが、蓮司が背後からアルバムを出して、天音の目の前に置いた。「これのことか?」
蓮司はアルバムを一枚一枚めくりながら美月に合図を送り、美月はすぐに床の破片を片付けて部屋を出た。
蓮司はその子供の幼い頃からの写真を天音に見せた。「これは孤児院の院長が勧めてくれた子だ」
「数日前に届いたばかりのアルバムだ」
「大智に少し似てるだろ?」蓮司は目尻を下げ、優しい父親のような表情を浮かべた。「さっき大智は友達ができたって言ってたのも、この子のことだ。
その日、孤児院の子も『光の楽園』に来ていたんだ」
天音はアルバムを受け取り、心が少し柔らかくなった。
恵里は細身で、子供を産んだようには見えなかった。
それに、二人のやり取りの中で子供の話題など一度も出たことがなかった。
天音は先ほど、疑いすぎていたと自覚した。
この孤児院は天音の母が生前所有していたもので、院長が天音を騙すことなどありえなかった。
今はチャリティ財団がそれを管理しており、蓮司はそのことを知らない。
蓮司は、天音がようやく安堵の笑みを見せたのを見て、そっと天音の肩を抱き寄せ、低い声でささやいた。「気に入ったら、この子を引き取って大智と一緒に育てていこう」
この子は大智くんとどこか面影が似ていて、偶然にも友達になったし、きっと縁がある。
だが、もうすぐここを去ることを思い出し、天音は眉をひそめた。
「もう、養子を育てるつもりはないわ」
「やめるのか?」
蓮司は不安げに、大きな手で天音の頬を包み、まるで宝物を扱うようにじっと見つめ、慎重に尋ねた。
「どうしたんだ?
ずっと娘が欲しいって言ってたのに、どうして急に変わったんだ?」
すぐ目の前で、蓮司の整った顔立ちが大きくなり、緊張した眼差しの奥にすべてを見透かすような黒い瞳が光っていた。
「何か俺に隠し事てるのか?」
十年も一緒に過ごしてきた蓮司は、天音の全てを把握していた。
時には天音自身よりも彼女のことを理解していた。
癖、好み、弱点。
天音は墓地で蓮司にすぐ見つけられたことを思い出した。
隊長たちが来るまでは、蓮司に異変を気づかれてはいけない。
「大智の世話さえ大変なのに、これ以上子供が増えたら、私には無理だと思うの」
大智が隠していた三人で寄り添う写真のことを思い出して、天音はうつむき、蓮司から目をそらした。
蓮司の瞳は翳り、さらに低い声で言った。
「天音、ごめん。俺が母さんに恵里を家に入れるのを許したから、天音に大智の子育てまで全部押しつけてしまって、本当に悪かった。
もう二度と、こんなことはさせない。
天音がどれだけ娘を欲しがっていたか分かってる。まずは一度会ってみよう、嫌だったら他の子を探せばいい」
天音はその女の子の写真を指で撫で、胸がきゅっと締め付けられた。「うん……」と小さく答えた。
蓮司は天音をそっと抱きしめ、大きな手で天音の髪を優しく撫でた。
「天音、もうこっそり医者に行って薬を飲んだりしないで」
その言葉を聞いた瞬間、天音は鼻の奥がツンと痛み、涙が溢れた。
天音は娘を授かるために、五年もの間あらゆる治療と薬に頼ってきた。
だがその五年、蓮司はずっと裏で恵里と関係を続けていた。
決して蓮司を許さない。
蓮司は天音の肩の震えを感じ、さらに優しい声で耳元にささやいた。「泣かないで、やっと欲しかった娘に巡り合えたんだから、これからは家族四人で幸せになろう」
幸せ?
母が亡くなった後、天音は風間家に入り、蓮司と出会い、愛し合い、「幸せになれる」と本気で信じていた。
だが、蓮司がその夢を自ら壊した。
蓮司の甘い言葉は、天音のボロボロに傷ついた心をさらに打ちのめした。
もう蓮司の声など聞きたくなくて、天音は目を閉じて眠ったふりをした。
蓮司はベッドに入り、そっと天音を抱き寄せ、彼女の冷えきった足を自分の太ももで温めた。
蓮司の優しさは昔と変わらなかった。しかし、天音の目からは、熱い涙が静かに流れ落ちた。
どれほど時間が経ったのか、ふと物音が聞こえた。
ドアが静かに閉まる音がした。
天音は力なく体を起こし、隣のまだ温もりの残るベッドを触れ、瞳の奥に陰りを落とした。
どれだけ自分に言い聞かせても、「もうどうでもいい」と何度も繰り返しても。
足は無意識にその影を追い、地下二階のガレージまでついていった。
整然と並ぶ高級車の天音のパナメーラの中で。
蓮司は背を向け、シルクのパジャマを腰まで下ろしていた。
フロントガラス越しに、恵里が天音と視線を合わせ、蓮司の首に腕を絡めた。
「外で不貞な男だと責められたくないから、天音にいじめられるのを止めてくれなかったって知ってるよ」
「怒ってないよ」
「気をつけてね」
ほんの数時間離れただけで、もう我慢できなかったのか?
こんなにも急いでこの女を別荘に呼び戻すなんて。
天音の目の前で平然と浮気をした。
監視カメラで何度も見た、恵里が越してきてから毎晩繰り返された行為の声、そのすべてが心を引き裂いた。
蓮司は不意に天音の方を振り向いたが、そこにはもう誰もいなかった。
蓮司は自分の錯覚かと思い、唇を恵里の耳元に寄せ、冷たく鋭い声でささやいた。「気をつけてって、怪我した体でこんな夜中に戻ってきたのは、『やりたい』ってことだろ」
「一日だって蓮司がいないとダメなんだから……」
蓮司の声は悪魔のように低く、冷酷そのものだった。「お前がまた天音を傷つけたら、もう二度とこの別荘に入れさせない。次見かけたら犬の餌にしてやる」
恵里は怯えて顔を上げた。
可憐な顔が恐怖に歪んでいた。
だが、五年もの間、蓮司はほぼ毎日恵里を求め続けた。
蓮司はきっと恵里を手放さない。
天音がいる限り自分は勝てない。でも天音が出ていけば、必ず社長夫人になれる。
さっき天音が二人を目撃した時の顔を思い出し、心の痛みも薄れていった。
あれほどプライドの高い天音が、蓮司の裏切りを受け入れられるはずがない。必ず出ていくだろう。
そうなれば、ついに自分が勝者になる。天音を徹底的に打ちのめすことができる。
どうやって部屋に戻ったのか、天音は覚えがなかった。
ベッドの上で一晩中座り込んだまま、蓮司は戻ってこなかった。
朝、再び顔を合わせた蓮司は、完璧なスーツに身に纏い、清潔なシャワーの香りをしていた。
「昨夜は急に国際会議があって、邪魔しないように書斎で寝たんだ」
「天音、顔色が悪いな」蓮司は天音の手を握った。
天音は振りほどきもせず、何も答えず、手を止めることなく昨日の日付に大きくバツをつけ、家を出る日を丸で囲んだ。
あと29日。
天音は使用人に命じた。「別荘のものを全部壊して。特に地下ガレージのパナメーラは必ず」
別荘のすべてが天音には耐えがたく、もう一秒もいたくなかった。
この命令に、使用人たちは驚きつつも、すぐに従った。
風間家では、天音こそが真の権力を持っていると皆知っていた。
天音の望むことに、蓮司が口を挟むことはなく、むしろ全力で協力するはずだ。
だが、突然厳しい声が響いた。「ママ、正気なの?」
第8話
大智が階段を駆け下り、怒りを込めて睨みつけた。「僕はそんなこと絶対許さない!」
「パパ、これはパパがデザインした家だよ」
「僕のおもちゃも、滑り台も、プールも、それに庭で恵里さんが作ってくれたブランコも……僕、この家のすべてが好きなんだ。ママに壊されたくない」
天音は無表情で大智を見つめた。その視線に大智は怯え、蓮司の背中に隠れた。
天音の目はいつも優しく愛に満ちていた。こんなふうに大智を見るのは初めてだった。
大智は胸がざわついた。まさか天音が放課後に恵里と会っていたことを知っているのか。
「パパ、ママに言ってよ」
大智は首をすくめて、小さな声で言った。
蓮司は穏やかな笑みで大智の頭を撫でた。
「見てごらん、ママが大智の誕生日に合わせて特別な印をつけてくれた。壊してリフォームするのは、大智の誕生日を祝うためなんだ。
それに、もうすぐ家族が増えるから、家の間取りも変えるべきだろう。
ママ、そういうつもりだったんだよな?」
天音はそっけなく「ええ」とだけ答えた。
大智は驚いた顔で天音の前に駆け寄り、首に抱きつき、頬にキスした。
「ママ、僕が誤解してた。
やっぱりママは僕のことを一番愛してくれてるんだ」
昨夜、蓮司は「天音の大切な結婚指輪は、蓮司と天音の愛の象徴で、大智と同じくらい大切だ」と大智に話した。
だから天音は怒って一緒に寝てくれなかったのだと気付いた。
今朝、大智は謝るつもりだった。
でも、今考えれば、心配など必要はなかった。
ママはやっぱり大智が大好きで、どんなに大きな間違いをしても必ず許してくれる。
怒ってもすぐ機嫌が直る。
だから謝る必要はなかった。
天音は大智のあどけない笑顔を見て心がほぐれ、手を伸ばして大智を抱きしめた。
だが大智は天音の腕からすり抜け、食卓の向こうに行き、朝食を食べ始めた。
天音の手はそのまま宙に残った。
「でも、天音はなんで自分の愛車まで壊そうとしたんだ?」
蓮司は天音の前にしゃがみこみ、手を握った。ひんやりした感触に、蓮司は少し驚いた。
天音は蓮司の優しい眉と目を見つめ、昨夜の光景が脳裏に蘇り、目が赤くなった。「もう好きじゃないし、誰にもあげたくないの」
蓮司は天音をじっと見つめ、唇を動かした。「分かった。天音の物は、たとえ好きじゃなくても他の誰にも触れさせない」
「じゃあ、どこに住むの?」大智はサンドイッチをほおばりながら尋ねた。
「実家に戻るよ。おばあちゃんと一緒に住むんだ」
蓮司の言葉で、天音は会社近くのマンションに引っ越す計画を打ち消した。
かつて、天音は千鶴と一緒に暮らすのが何より好きだった。
もし天音が行かなければ、蓮司に疑われる。
「やった!」大智は嬉しそうに手を振り回した。
お婆ちゃんがいれば、パパは自分を叱れない。
お婆ちゃんはアイスやキャンディもくれる。
蓮司は立ち上がりリビングを出て、ガラス越しに庭で電話をかけていた。
手でブランコに触れて、彼はロープに結ばれた花飾りを指でなぞっていた。
それは恵里が作ったブランコだ。
嫌悪感がこみ上げ、天音は視線を外した。
「仕事があるから先にいくね」
天音は食器を置き、立ち上がった。
執事が天音のスーツケースを押して後ろからついてきた。蓮司や大智の物を除けば、天音の荷物はたった一箱だった。
以前の自分は、生活上すべてを二人に合わせてきた。優先順位を最後にしてきた過去を思い出し、滑稽さがこみ上げた。
庭では、蓮司が天音の去る姿をじっと見送っていた。彼はその底深い黒い瞳を細めていた
天音はとても痩せていた。
蓮司は携帯で指示を下した。「ここ数日、天音は何かに悩んでいるはずだ。俺に言えなくても杏奈には話すだろう、杏奈にさりげなく聞いてくれ」
携帯から健太の慎重な声が聞こえた。「蓮司……天音、まさか蓮司と恵里のことに気づいたんじゃ……」
「そんなはずない!」
蓮司はきっぱりと言い切った。
「そうだよな、ありえないよ」健太も同調した。「もし気づいてたら、絶対に大騒ぎして離婚するはずだ」
「離婚」という言葉に、蓮司の胸は一瞬締めつけられた。
天音が車に乗り込んだのを見届け、蓮司は電話を切ってそのまま後を追った。
天音が蓮司を待たずに一人で会社に向かうのは、滅多にないことだった。
しかし車のドアが蓮司の目の前で閉じ、天音は真っすぐ前だけを見て、蓮司を一度も振り返らなかった。
蓮司はただ車が遠ざかっていくのを呆然と見送るしかなかった。
リビングに戻ると、天音の席には手つかずの麺と牛乳が残されていた。
「天音、一口も食べてくれなかったのか?」蓮司が聞いた。
「ええ、天音奥様は朝から元気がなくて、多分食欲もなかったのでしょう」と使用人が答えた。
蓮司の手料理は、食欲がなくても天音は必ず少しは口にして、「美味しい」と褒め、キスで労ってくれたものだった。
蓮司は眉間に深いしわを寄せると、健太の言葉が脳裏をよぎった。
天音は東雲グループのコンピュータ部門の顧問で、時々マネージャーにアドバイスもしていた。外部からハッキングされた時や社員がミスをした時、こっそりと手助けをしていたが、それを知る者はいなかった。
留学経験もあったが、実は隊長にスカウトされたのだ。
蓮司と結婚するため、天音は組織を離れ、キャリアを捨てた。
離れる時、隊長に「誰にも本当の素性や能力を明かさない」と約束した。
だからみんなの目には、天音は力もなく逆らえないコネ持ちに見えていた。
天音が辞表を出した時も、マネージャーは一切反論できなかった。
マネージャーは額の汗を拭いながら言った。「天音様、何か不満な点でもありましたか?」
「いいえ、私の都合です。あなたと関係ありません」天音は淡々と答えた。
「辞表は蓮司社長に提出しなければいけませんか?」
実際、訊くまでもない。天音が辞めるとなれば蓮司はすぐそれを知る。
ましてや、蓮司は何があっても天音に逆らわない。
「必要ないです」
「では、人事部に回しておきます」
天音は軽く頷き、マネージャー室を出た時、杏奈がやって来た。
高橋家と風間家は昔からの付き合いで、杏奈と蓮司は幼馴染のようなものだ。
天音が風間家に来て以来、杏奈とすぐ親友になり、蓮司が自分を怒らせた時は、杏奈が必ず味方になるのだ。
蓮司以外で、杏奈は自分が最も信頼する人だった。
「天音、私、健太に裏切られた……」
「恵里と浮気してたみたいなの」
杏奈はオフィスに入るなり、泣きながら天音に飛びついた。そのか細い嗚咽に、天音の心は大きく揺れた。
これまで杏奈が泣くのを見たのは一度だけ。天音の結婚式の日だった。
今回が二度目だ。
「杏奈、違うよ。健太は杏奈を裏切ってない」
昨日のことを思い出すと、天音の胸は締め付けられるようだった。
「もう私のこと騙さないで、みんな知ってるんだから」杏奈は怒り混じりに泣いた。「私、婚約を解消する」
杏奈は本当に健太のことが好きで、他の誰とも結婚する気はなかった。
健太も杏奈をとても大切にしていた。
たとえ健太が悪人の片棒を担いだとしても、天音は自分のせいでこの二人を別れさせたくなかった。
愛に傷つく痛みを、杏奈には絶対に味わってもらいたくなかった。杏奈は天音にとって一番大事な友人で、きっと真実を知っても口外しないと信じていた。
「杏奈、恵里は健太の愛人じゃない、蓮司の女だったの。
蓮司が私を裏切ったのよ!」
ちょうどその時、ドアが開き、蓮司が入ってきた。