火葬の日にも来なかった夫、転生した私を追いかける

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火葬の日にも来なかった夫、転生した私を追いかける

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六年間の結婚生活――あったのは夜の狂宴だけで、昼のぬくもりなど一度もなかった。 寺原真衣(てらばる まい)は彼を心から愛し、どんな苦し...

Chương (1)

第1章

六年間の結婚生活――あったのは夜の狂宴だけで、昼のぬくもりなど一度もなかった。 寺原真衣(てらばる まい)は彼を心から愛し、どんな苦しみも甘んじて受け入れていた。 実の娘は「パパ」と呼ぶことさえ許されず、代わりに彼のずっと憧れ続けている女性の息子は、彼の膝の上で「パパ」と呼ぶことを教えられていた。 一族は養子を宝物のように大切な後継者とし、血のつながった子は、人目にさらせない汚点として扱われていた。 彼女と娘が命を落とし、彼が自ら火葬許可証に署名して、息子を憧れの女性の帰国祝いの宴に出席する――そんな日が来るまで。 心からの想いは、決して同じ心で返ってはこない。冷酷な人間には、もともと心なんてものはないのだと、彼女はようやく悟ったのだ。 人生をやり直し、屈辱と冷たさだけのこの結婚を捨てると決意した。 前の人生では、愚かにも学業を諦め、専業主婦として家族のためにすべてを捧げた。 だが今世では、迷わず離婚届を突きつけ、娘を連れて泥沼から抜け出し、もう一度キャリアを掴み、頂点へと舞い戻る――そう心に誓った。 真衣が出て行って一週間、高瀬礼央(たかせ れお)はただの我がままだと思っていた。 真衣がいなくなって一ヶ月、礼央はまるで気にも留めず、好きにさせていた。 真衣が去って何日目か……彼は業界トップクラスのエリートが集まるパーティーで、彼女の姿を見つけてしまった。 真衣は仕事一筋、娘は新しいパパ探しに夢中だった。 気づけば、真衣と娘は本当に自分を必要としていなかったのだ。 礼央はとうとう理性を失った。 冷酷で高慢だった彼は、世間の視線も顧みず、母娘を目の前で引き止め、必死に懇願した。「お願いだ、ここに跪くから……もう一度、俺を愛してくれないか?」 第1話 「申し訳ありません。娘さんは二月十五日、午前一時十三分に蘇生処置の甲斐なく、お亡くなりになりました」 寺原真衣(てらばる まい)はウサギのぬいぐるみを握りしめたまま、無表情で手術室をじっと見つめていた。 彼女は娘の最後の旅立ちを見送るため、静かに歩み寄った。 手術台の上、真衣は娘の枯れ枝のように細く乾いた小さな手をそっと握った。 その手は冷たく、すでにぬくもりは失われていた。 彼女は静かに娘の髪を整えた。 脳裏には、娘がまだ救急室へ運ばれる前、かすかに漏らした弱々しい声がよみがえる。 「ママ……おじさんは、まだ来ないの?」 娘が「おじさん」と呼んでいたのは、実の父親である高瀬礼央(たかせ れお)だった。彼は娘に「パパ」と呼ぶことを許さず、そのくせ忘れられない初恋相手の息子には「パパ」と呼ばせていた。 高瀬千咲(ちさき)のいちばんの誕生日の願いは、パパと一緒に過ごすこと、そして一度だけでも「パパ」と呼ばせてもらうことだった。 千咲は体が弱く、去年の冬、冷たい風の中で礼央が帰ってくるのを待ち続けたせいでインフルエンザにかかり、肺炎を患った。今年に入ってからは病状が急激に悪化し、ずっと入院していた。 今日もまた、寒い冬の日だった。千咲はこっそりと家の門の外で、礼央の帰りを待ち続けていた。 倒れていたところを真衣が見つけ、すぐに病院へと運ばれた。 医師からは、危篤状態だと宣告された。 真衣は礼央に、娘の誕生日くらいは一緒にいてほしいと、必死に懇願した。 彼はそれを承諾した。 だが、またしても約束は裏切られた。 彼女は枯れ枝のように痩せ細った娘の小さな体をそっと抱きしめ、優しくささやいた。「いい子ね……もう、つらいことは終わりよ」 もう、病の苦しみに耐える必要はない。 もう、毎日父親に嫌われ、決して届かない父の愛を求めて泣くこともない。 「ママ、どうしておじさんは私にパパって呼ばせてくれないの? でもお兄ちゃんはいいのに…… ママ、萌寧さんがお兄ちゃんのこと好きだから、パパもお兄ちゃんのこと好きなんだよね……」 娘の無邪気な問いかけが、今もなお彼女の耳元で何度も何度も響いているようだった。 幼い彼女には、なぜパパが自分を好きになってくれないのか、なぜ自分だけ「パパ」と呼べないのか、その理由がどうしてもわからなかった。ただ、きっと自分がお兄ちゃんよりも劣っているから、だからパパに嫌われているのだと、そう思い込んでいた…… 六年前、彼女は礼央とふとしたことで関係を持ち、千咲を身ごもった。いわゆる授かり婚だった。 千咲を産んだ時、彼女は難産の末、大量出血したが、彼は一度も顔を見せることはなかった。 その頃、礼央は憧れの女性・外山萌寧(とやま もえ)の出産に付き添っていたのだ。どちらが大事か、それは一目でわかることだった。 萌寧は男の子を産んだ後、その子を礼央に預けて出国し、そのまま消息を絶った。 一方、真衣は長年、礼央を一途に想い続けてきた。彼の心を少しでも引き寄せたくて、萌寧が産んだ子供を受け入れ、我が子同然に心を込めて育て上げた。 彼は千咲に「パパ」と呼ばせることを決して許さなかった。だが、萌寧の息子にはまるで宝物のように接した。これが、決定的な違いだった。 難産の時、彼女は本当は気づくべきだったのだ。あの男の心は氷のように冷たく、どれほど手を尽くしても、決して温めることはできないということに。 本当は千咲のほうが午前中に先に生まれていた。それなのに、彼は萌寧の息子を「兄」にして、高瀬家の長男としての地位を与えた。 その結果―― 誰もが、その子こそ礼央の本当の息子だと信じて疑わなかった。 そして、千咲はただの私生児だと蔑まれたのだ。 医師は彼女の震える背中を重苦しい面持ちで見つめながら、そっと声をかけた。「お父様は……まだお見えになっていないのですか?」 この子・高瀬千咲が入院してからというもの、父親の姿は一度たりとも見かけることはなかった。 真衣の瞳は冷たく光り、皮肉げにかすかに笑った。「父親なら、私生児を連れてその実の母親に会いに行き、誕生日パーティーを開いていますよ」 毎年、同じことの繰り返しだった。 それでも彼女は、馬鹿みたいに四年間も他人の子を育て続けてきた。 同じ誕生日の子供なのに、千咲には冷たい仕打ちしか与えられなかった。 医師は呆然とし、目の前の哀れな女性に、どんな言葉をかければいいのか分からずにいた。 - 千咲が亡くなって初日、真衣は全ての手続きを済ませた。 北城の火葬手続き確認書には、父母双方の署名が必要だった。 真衣は港湾の別荘へ戻り、千咲の遺品を静かに整理した。 その時、階下から車の音が聞こえてきた。 「パパ!いつママを捨てて萌寧さんと結婚するの?萌寧さんにママになってほしい!」 礼央はコートを腕にかけ、身をかがめて子供である高瀬翔太(たかせ しょうた)の頬を優しくつねった。「翔太、萌寧さんをママって呼んでいいんだよ」 真衣は階上で、その会話の一部始終をはっきりと耳にした。 胸の奥がきゅっと締めつけられる。彼女はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。 「ママにお風呂に入れてもらって、着替えたら萌寧さんを迎えに行きなさい」 翔太は嬉しそうに跳びはねた。「やった!」 けれど次の瞬間、翔太の小さな顔は曇り、しょんぼりとつぶやいた。「でも……ママが知ったら、行かせてくれないかも。ママ大嫌い、いつも外のもの食べさせてくれないんだもん」 礼央は翔太の頭を撫で、やさしく背中を押すように言った。「パパがいるから、ママは何も言えないよ」 礼央はふと目を上げ、ちょうど階段を下りてくる真衣と視線がぶつかった。 だが彼の顔は淡々としていて、何の感情も浮かばず、視線を逸らして見なかったことにした。 翔太は駆け寄り、真衣の手を握って言った。「ママ、お風呂入れて。あとでお出かけするんだ!」 真衣はその手を静かに振りほどき、顔を上げて礼央を真っすぐに見つめた。「何か……忘れてない?」 礼央は淡々と真衣を一瞥した。「何を?」 何年経っても、礼央はずっと冷たかった。彼女に対しても、千咲に対しても、冷たさは変わらなかった。 真衣は自嘲するように微笑んだ。 そうね。礼央が千咲と翔太の誕生日が同じ日だなんて、覚えているはずがない。 翔太の誕生日は毎年、萌寧と一緒に盛大に祝われる。 その一方で、千咲は毎年、毎年、冷たい冬の風の中で、決して帰ってこない父を待ち続けていたのだ。 「話がある」 礼央は嘲笑うように鼻で笑った。「今日は忙しい」 「長くはかからないわ。サインして」 真衣は静かに言い、手にしたファイルを開いて、署名する場所を指し示した。 礼央はひどく不機嫌そうで、まるで彼女と一秒でも一緒にいること自体が鬱陶しいとでも言いたげだった。 彼は眉をひそめ、勢いよく署名すると、書類を真衣に突き返した。 「今夜は翔太と外で泊まるから帰らない。明日の朝、千咲に学校で先生に翔太の半日休みを伝えさせろ」 真衣は奥歯を噛みしめ、書類を握る指先が真っ白になるほど力を込めた。 もし彼がほんの少しでも真剣に目を通していれば。 すぐに気づいたはずだ。文書の一枚は離婚届、もう一枚は千咲の火葬手続きの書類だということに。 それなのに、彼はどちらの書類にも無造作に、心を込めることなくサインしたのだった。 「それと、千咲に電話してくるなと伝えろ」 真衣は冷たく笑った。 千咲はもう電話なんてかけてこない。 彼女も――もう、しない。 礼央は、普段とは明らかに違う真衣の態度にも、まるで気にする様子はなかった。 時間が迫る中、萌寧の方から電話が入り、彼らがいつ到着するのか尋ねてきた。 翔太はお風呂にも入らず、着替えもしないまま、礼央のあとについて外へ出た。「今夜は新しいママにお風呂に入れてもらう~」 礼央は甘やかすようにその言葉に応えた。 「いいよ」 真衣はその場に立ち尽くし、彼らの去っていく背中を、ただ呆然と見つめ続けた。 彼女は家の中にある、自分と千咲に関係するすべてのものを整理し、燃やした。 そしてその足で火葬場へ向かい、千咲の遺体を火葬した。 遺骨を受け取った時―― 真衣の涙は、こらえきれずに頬をつたって落ちた。 「千咲……ママを待ってて。すぐに会いに行くから……」 - 一方その頃。 礼央は翔太を連れ、萌寧の帰国歓迎パーティーに出席していた。 三人は和やかに語らい、まるで本当の家族のように親密だった。周囲の人々も皆、彼らの家庭の幸せを称賛し、真衣がいつまでも高瀬夫人の座に居座り、彼らの幸せを壊しているのだと噂していた。 その時、誰かが人混みをかき分けて礼央の前に駆け寄ってきた。 「高瀬社長、奥様とお嬢様が本日火葬されました。どうか葬儀場へ、遺骨を受け取りにいらしてください」 礼央は眉一つ動かさず、冷えきった声で言った。「いい歳して、そんな嫉妬じみた茶番をいつまで続けるつもりだ?」 「ですが……火葬許可書にはご自身で署名されましたし、離婚届にも……」 その言葉に、礼央の心臓は一瞬、脈打つのを忘れた。「……何だと?」 礼央はほとんどスピード違反のまま火葬場に辿り着き、妻と娘が火葬炉に送り込まれる光景を目の当たりにした。 それだけの光景で、彼の胸は何かに引き裂かれるような痛みに貫かれた。 火葬場の職員が聞いたのは、彼が「ドサッ」と倒れる音だけだった…… 第2話 「パンッ——」 足元にふわっと柔らかいものが落ち、ぼんやりしていた真衣の意識がはっと覚めた。 呆然と目を落とすと、そこには青いフォンダンケーキが転がっていた。 「ママ、誕生日ケーキは作らないでって言ったのに!」翔太の不満げな声が耳に刺さる。彼は真衣を見上げながら言った。「不細工でまずいんだよ。ママ、話聞いてるの?」 これは…… 真衣は思わず息を呑んだ。 戻ってきたのか?! 本当に戻ってきた! 一年前――翔太の誕生日パーティーに。 翔太はまだ文句を言い続けていた。「萌寧さんの作ったケーキが食べたい!」 「ママ、千咲はママのケーキ、美味しいって思うよ。お兄ちゃんが食べないなら、千咲が一人で食べる」 娘の甘えるような柔らかい声が、再び耳に届く。真衣はその幼く痩せた頬を見下ろし、溢れる涙で視界が滲んだ。 彼女はしゃがみ込み、娘の小さな顔をそっと両手で包み込んだ。その温かな感触が、確かに自分が本当に戻ってきたのだと、はっきりと教えてくれた。 今世では――絶対に、もう二度と娘を傷つけさせない。 千咲は翔太を見つめて言った。「ママにそんな言い方しちゃダメだよ。ママがもうケーキ作ってくれなくなったら、どうするの?」 「自分で食べれば?僕はそんなのいらない」翔太は不機嫌そうに言いながら、萌寧の手をぎゅっと握った。「僕は萌寧さんをママにしたいんだ! 萌寧さんは美味しいものいっぱい作ってくれるし、乗馬もロッククライミングも連れて行ってくれる。ママは乗馬のことも知らなくて、すっごく恥ずかしいんだ。 パパも萌寧さんが好きだし、僕も好き!」 礼央は眉をひそめた。「何を馬鹿なことを言ってるんだ?」 萌寧はシャープなレザージャケット姿で、気さくに笑ってみせた。 彼女は左手で礼央の肩を抱き、まるで男同士のように親しげな仕草を見せながら、もう一方の手で翔太の頭を軽く撫でる。「翔太のパパの奥さんになるのは、そんな簡単なもんじゃないよ。私と彼は兄弟のような親友だからね。 それに翔太、前にも教えたでしょ?ママにそんな言い方しちゃダメだって。言うこと聞けないの?」 翔太は口を尖らせ、さらに萌寧の方へと身を寄せた。そして、真衣が贈った誕生日プレゼントを再び地面に投げ捨て、不満げに言った。「だってママのプレゼントは、いつも安っぽい万年筆ばっかり。おもちゃなんてくれないし。萌寧さんの手作りの飛行機の方がずっといいんだよ!ちゃんと飛ぶんだ!ママのプレゼントより、ずっと価値がある!」 パパが言ってた。萌寧さんは、将来大きな飛行機を設計するんだって。その飛行機に乗れるんだよ?めっちゃかっこいいじゃん! ママみたいに、何も知らない田舎者とは違うから。 真衣は、自分がこれまで一生懸命育ててきたその子が、あっさりと萌寧のそばに立つのを見て、ふっとおかしくなった。 どうして、昔の自分は、こんな単純なことにも気づけなかったんだろう。 翔太は萌寧の実の子で、彼女と親しいのは当然のことだ。たとえ翔太自身が、自分の本当の母親が萌寧だということを知らなくても。 前世では、真衣は翔太を実の子のように育て、ただ礼央の機嫌を取るためだけに必死だった。 けれど、彼らはそれを当然のことだとしか思っていなかった。 でも今の彼女は、もう我慢して千咲と一緒に傷つき続けるようなことは、絶対にしない。 真衣は静かに身をかがめ、地面に落ちたペンを拾い上げた。怒りの色は一切浮かべず、ただ淡々と微笑むだけだった。「外山さんは確かに子育てが上手だね。じゃあ、これから翔太と礼央は、あなたにお任せするわ」 その言葉に、萌寧は一瞬、呆然とした。真衣がそんなことを言うとは思ってもいなかったのだ。そこには、争いも、反論も、卑屈さも、弱さも――何もなかった。 ただ、静かで淀みのない笑みだけが浮かんでいた。 次の瞬間、萌寧は礼央を見て言った。「礼央、私の言葉が真衣さんに誤解されたね……もう変なこと言わないわ。余計なお世話だった」 礼央は眉をひそめ、真衣に冷たく視線を向けた。「いい歳して、子供みたいにわがままを言うな。そんなこと、軽々しく口にしていいはずがないだろう」 彼は明らかに萌寧をかばっていた。真衣が萌寧の顔に泥を塗ったとでも言いたげだった。 真衣はその視線を正面から受け止めた。薄情で、冷淡で――何一つ変わらない。大勢の前でも、平然と萌寧を守り、彼女にはほんのひとかけらの情けさえも与えようとしない。 それは、彼が「この女は絶対に自分から離れない」と、心の底から思い込んでいるからだ。だからこそ、こんなにも傲慢に、当然のことのように振る舞えるのだ。 今の彼女は、もう二度と、前世のようにはしない。娘が「パパと一緒に誕生日を過ごしたい」という小さな願いを叶えるために、屈辱に耐え、笑顔を貼りつけ、必死にその場にとどまり続けるようなことは、絶対にしない。 人生をやり直したのだから――もう、あんな馬鹿なことは絶対にしない。 今度こそ娘の支えとなり、誰かが持っているものは、全部この手で千咲に与えてやる。 真衣は無表情のまま視線を逸らし、そっと娘の手を取った。「千咲、行きましょう。ママが、千咲の誕生日を祝ってあげる」 この人生では、もう二度と――娘に白い目を向けさせたり、理不尽な仕打ちを受けさせたりはしない。 千咲は名残惜しそうに一度だけ礼央を振り返ったが、最後にはママについて行くことを選んだ。 だが、ほんの数歩も歩かないうちに、二人の前に立ちはだかる者がいた。「高瀬社長のご命令です。坊ちゃんの誕生日パーティが終わるまで、誰一人退出は許されません」 真衣は自分の行く手を遮る腕をじっと見つめ、胸の奥が重く沈んだ。 礼央は、翔太に面子を与え、溺愛し続けた。そのあまり、誰もが翔太こそ礼央の実の息子であり、千咲はただの婚外子だと思い込んでいた。 今では、翔太の誕生日にたったの早退すら許されない。 だけど、礼央の心の中に、今日が千咲の誕生日でもあることは、果たして残っているのだろうか。 ……覚えているはずがない。 千咲を出産したあの日――難産で大出血し、母子ともに命の危険にさらされていたその時、彼は萌寧の出産に付き添っていた。 「萌寧には頼れる人がいないから、そばにいてやらないと」と、もっともらしい理由を口にした。子供が生まれた後、萌寧はすぐに海外へ渡り、キャリアアップのために進学していった。 今――彼女は金融テクノロジーと航空宇宙工学の二つの学位を手に帰国し、各大手企業から次々とオファーが届いている。 だが、どれにも目もくれず、北城航空研究所・第五一一研究所への参加を目指しているらしい。第五一一研究所は規律が厳しく、新人への要求も極めて高い。そのため、礼央が彼女のために動き、推薦を行っているのだ。 前世では、真衣はそんなこと、何ひとつ気にも留めなかった。ただひたすら礼央に尽くし、萌寧のキャリアがどうなっていようと、知ろうともしなかった。 愚かにも、他人の子供を五年間育て、子供のため、男のために自分の未来を捨て、家に縛られ、良き妻、良き母として生きることを、当たり前のように受け入れていた。 ――今思えば、哀れなほど、愚かだった。 真衣は唇を引きつらせ、冷たく笑った。「高瀬社長の規則なんて、私には通用しないから」 かつての彼女は、礼央のことを気にしすぎて、高瀬家でいい妻として振る舞うことに、疑問さえ持たなかった。 生まれ変わったこの人生で、もう二度と礼央にすがって、ただの小さなアシスタントで終わるつもりなんてない。必ず、娘と一緒に輝いて生きる。キャリアを取り戻し、もう一度――頂点に立ってみせる。 その言葉を聞いた瞬間、礼央の顔色は明らかに陰り、その身からは冷え切った気配がひしひしと漂い始めた。 真衣は心の中で冷たく笑った。 きっと彼も不思議に思っているはずだ。これまで従順な妻だったはずの自分が、なぜ突然、公の場で彼に逆らうのか――怒るのも、無理はない。 でも今の彼女は、もう二度と、誰かのために自分を犠牲にする良き妻を演じるつもりはなかった。 次の瞬間―― 真衣はためらいもなく結婚指輪を引き抜き、そのまま床に叩きつけた。指輪は滑らかな床で、カン、カランと何度か跳ねる。 乾いた金属音が響き渡り、場の空気が一気に凍りつく。あちこちから、驚きの息を呑む音が聞こえた。 「礼央。私たち、離婚しましょう。 翔太はあなたに、千咲は私に。離婚届は、明日の朝、取締役会に届けるわ」 彼がそこまで翔太と萌寧を大事にしたいのなら――この人生では、彼女がその願いを叶えてやるまでだ。 真衣は大勢の人の前で、礼央に恥をかかせた。 彼は冷えきった目で彼女を見つめ、低く言った。「真衣、いつまで騒ぎ続けるつもりだ?翔太はまだ子供だぞ。こんな些細なことで離婚を言い出す必要があるのか?」 愛されていない男の目には、何をしたって、ただの我が儘にしか映らない。 彼女はもう二度と、同じ過ちを繰り返さない。もう、娘を連れて彼の冷たい世界で生きていくことはしない。もう、息子――いや、養子を育てることも、しない。 礼央も、養子も、彼女にはもう必要ない。 「ええ、もちろん必要があるわ」 真衣は冷ややかな目で警備員を見やり、静かに命じた。「今すぐ、どきなさい」 警備員はその場の緊張に怯え、震える手で道を開け、もうそれ以上止めようとはしなかった。 真衣が千咲の手を引き、迷いなく背を向けて去っていく姿を見送りながら、礼央の顔は、ひどく陰鬱に歪みきっていた。 「真衣さん、何か誤解してるんじゃない?」萌寧はそう言った。「私が説明してくるわ。今日のことを小さなことだなんて思わないで。女って本気で怒ると、何だってやりかねないんだから」 そう言いながら、彼女は今にも真衣のもとへ説明しに行こうとした。 「説明する必要はない」礼央は冷たく言い放った。「彼女は、俺と離婚なんかしない」 第3話 夜、誕生日パーティーが終わった。 翔太は車の中でもまだ手足をバタバタさせながら喜んでいた。というのも、今夜はめずらしく母親がいなかったため、誰にも干渉されず、パーティーで好きなものを好きなだけ食べることができたからだ。 それに、萌寧が優しくしてくれて、まるで母親よりもずっと良かった。 マイバッハが別荘の前に停まると―― 翔太は口をとがらせながら、不満そうに礼央の手を握って車を降りた。 彼はいつも遊びに出かけた後、家に帰るのを嫌がる。母親が家にいるからだ。 でも、萌寧は「お母さんのすべての努力を尊重しなきゃいけない」と言っていて、言うことを聞けば、次はもっと面白いことができると言っていた。 父親も、「言うことを聞かないと、次は萌寧さんと一緒に遊べなくなるぞ」と言っていて、結局翔太はしぶしぶ帰宅することになった。 「パパ、明日も萌寧さんと遊びたい。萌寧さんを海外に行かせないでよ、そしたらもうママに干渉されなくてすむのに」 礼央は淡々とした口調で、感情のこもっていない声で答えた。「彼女はしばらく海外に行くけど、戻ってきたらもう出ていかない。翔太のそばにいるさ」 礼央と真衣が結婚して六年。真衣はいつも彼にへりくだり、従順だったが、何を言っても、礼央はたいてい拒んでいた。 だが、萌寧に対しては、ほとんどすべてを叶えていた。 翔太は、父親と萌寧の関係が普通ではないことを知っていて、父親の言葉を聞いた途端、ようやく満足そうな笑みを浮かべた。 家に入ると、翔太は嬉しそうに叫んだ。「ママ、お風呂の湯を入れて!香りのいいミルクバスに入りたい!」 今日、萌寧が彼の体からするミルクの香りを褒めてくれた。パパが子供の頃の匂いにそっくりだと言っていたのだ。 そのとき、使用人の大橋(おおはし)が迎えに出てきた。「坊ちゃん、奥様は今夜お留守です。私がお風呂を用意してあげましょうか?」 礼央は淡々とした口調で問いかけた。「真衣はどこにいる?」 「わかりません。今日は奥様もお嬢様も帰ってきていませんでした」大橋は包装された書類の封筒を取り出した。「これは奥様から旦那様に渡すようにと言われたものです」 礼央は目を伏せながら書類を受け取り、それを無造作にテーブルの上に放ると、翔太の方を見た。「大橋さんにお風呂に入れてもらいなさい」 翔太は嬉しそうに言った。「ママも千咲もいないなら、おもちゃ部屋は全部僕のものだ!」 礼央は口元に笑みを浮かべ、翔太の頭をくしゃっと撫でた。「全部お前のものだ」 「もう千咲がくれた積み木やおもちゃでは遊ばない!全然面白くないもん。萌寧さんがくれたおもちゃ、全部おもちゃ部屋に持っていって、千咲には絶対触らせない!」 千咲は萌寧さんのことが嫌いで、ママのことばかり好きだから。 ママなんて田舎くさいのに、どこがいいんだろう? 「パパ、ママがいないなら、萌寧さんに一緒に寝てもらっていい?」 「ダメだ」礼央は言った。「萌寧は忙しい」 翔太は口をとがらせて、ふてくされたように二階へ風呂に入りに行った。 大橋は階段を上がりかけたところで、ふと足を止め、振り返って礼央を見た。「旦那様、奥様はご自身の荷物とお嬢様の荷物をまとめて出ていかれたようです。たぶんご実家に戻られたのでは……」 礼央は静かにうなずいた。 特に気にする様子はなかった。 寺原家は真衣にとって、決して良い場所とは言えない。 彼女には、高瀬家以外に帰る場所はなかった。 真衣はいつも穏やかで寛容な性格で、翔太と萌寧が関わることにも異を唱えなかった。 今日は珍しくわがままを言っている。 そのうち気持ちが落ち着けば、自然と戻ってくるはずだ。今までもずっとそうだった。 礼央はソファに座りながら仕事のメールをひとつ処理し、そろそろ洗面のために階段を上がろうとしたとき、不意に視線が、さっきテーブルに投げたあの封筒に向かった。 彼は何気なく封を開けた。 「離婚協議書」という大きな文字が、目の前に飛び込んできた。 彼は無表情のまま、淡々と各条項に目を通した。 彼女が求めたのは、1億円と千咲の養育権だけだった。 礼央は鼻で笑い、まったく意に介することなく、その書類をゴミ箱に放り投げた。 真衣がひとしきりわがままを言い終えれば、どうせ自分から戻ってくるのだ。 - 真衣は千咲を連れて別荘で荷物をまとめると、一時的にホテルに滞在した。 「千咲、ママと一緒に外で住みたい?」 千咲はうつむいて、下唇を歯で噛みしめながら、とても困ったような顔をしていた。 真衣はしゃがみ込み、優しく問いかけた。「千咲は、パパとお兄ちゃんと離れるのがつらいんでしょ?」 千咲は、礼央を「パパ」と呼びたくてたまらなかったし、兄が一緒に遊んでくれることを誰よりも願っていた。 これまでのほとんどの時間、千咲は家で翔太と礼央が食事に帰ってくるのを待っていた。料理がすっかり冷めてしまっても、なお彼らを待ち続け、毎回真衣が千咲に「ご飯を食べよう」と声をかけると、千咲はほんの二口だけ食べて「もうお腹いっぱい」と言った。 いつもお腹を空かせたまま、彼らの帰りを待っていたのだ。 そうしているうちに、まだ成長期にある小さな彼女は、ますます痩せていき、体も弱くなっていった。 真衣は、娘がまだ幼くて食が細いだけだと思っていた。だが後になってようやく気づいた――彼女は、礼央と翔太の帰りを待っていたのだと。 千咲は目を上げ、きょろきょろと彼女を見つめた。「ママ、おじさんは私のことが嫌いだから、ママのことも嫌いなの……」 娘のその一言に、真衣の胸の奥が鋭い刃で深く裂かれたように、ずきりと痛んだ。 「千咲はとっても素敵な子よ。彼が千咲を好きになれないのは、彼の見る目がないだけ」真衣は娘の小さな手を握りしめた。「ママについてきてくれる?」 「うん……」千咲は力強くうなずいた。「おじさんとお兄ちゃんのことは恋しいけど、ママが一番私のことを愛してくれてるってわかってる。ママがいるところが、私のいる場所だよ」 真衣の目頭が熱くなり、娘をぎゅっと抱きしめた。 今度こそ、必ず娘を守り抜く。 彼女が今回別荘に戻ったのは、自分と千咲の着替えを何着かまとめるためだけだった。 結婚後、礼央は毎月定期的にカードに1000万円を振り込んでおり、二人の子どもの世話と家庭の維持を任せていた。 だが彼は、いつも翔太にはこっそりとそれ以上のお金を渡し、出張から帰るたびに、翔太のためにオーダーメイドの服やアクセサリーを買ってきた。そのたびに彼はこう言い訳していた――「この子には実の父親も、実の母親もいない。可哀想だから」と。 前世では、彼女は心の底から礼央を愛していて、どんなことでも彼の言う通りにしていた。いつも彼のためにさまざまな贈り物や服を買っていた。 心をすべて礼央と子どもたちに注ぎ、多くのお金を彼らと家庭のために費やしていた。 日々の富豪同士の付き合いや人間関係にも気を配らねばならず―― そのせいで、彼女の手元にはもうほとんどお金が残っていなかった。 今になって思えば、彼女は本当に愚かで、そして哀れだった。 彼女は千咲をお風呂に入れて寝かしつけた後、ようやく自分の洗面をしようと立ち上がった。 そのとき、携帯電話の着信音が急にけたたましく鳴り響いた。 大橋からの電話だった。 「奥様、坊ちゃんのミルクバスの配合比率とお湯の温度はどうすればいいですか?私が用意すると、坊ちゃんがいつも気に入らないようでして……」 「外山さんを呼んで洗わせれば、あの子は満足するでしょう」 「……?」大橋は一瞬、何が起きたのかわからなかった。 そのまま電話はぷつりと切れた。 大橋は深く息をつき、もう一度電話をかけ直した。「奥様……」 「私は礼央と離婚するつもりよ。翔太は彼の息子で、私とは何の関係もないわ。これ以上電話しないで」 真衣は淡々と言い放ち、再び電話を切った。 「……」大橋はただ呆然とその場に立ち尽くした。 礼央は、大橋が携帯を握っているのを見て問いかけた。「あいつは何と言った?いつ戻ってくるんだ?」 「奥様は……」大橋はつばを飲み込んだ。「奥様は、旦那様と離婚するとおっしゃいました。それから……外山さんを呼んで坊ちゃんをお風呂に入れるようにと……」 第4話 礼央はその言葉を聞いても、眉一つ動かさずに答えた。「わかった」 彼は真衣の感情や気まぐれなど、まるで意に介していないようだった。 大橋もそれ以上何も言わなかった。以前にも似たような騒ぎはあったが、最終的には真衣のほうが折れて、ご機嫌を取りに戻ってきたのだった。 翔太は思い通りのミルクバスに入れず、不満そうだったが、最終的には萌寧がやってきて、「週末に航空宇宙・国防科学技術展に連れて行ってあげる」となだめてようやく落ち着いた。 以前、母親は彼を高い場所に行かせることは絶対に許さず、遊園地にすら連れて行ってくれなかった。 翔太は、母親が貧乏で、萌寧のようにお金持ちではないと思っていた。 でなければ、誕生日に安物の万年筆をくれたり、手作りの不格好なケーキを用意したりするはずがない。 それに比べて、萌寧は一言で彼を本物の飛行機や戦闘機を見に連れて行ってくれるのだ。 翌朝。 翔太は目を覚ますと、跳ねるようにして朝食を食べ始めた。 今朝の朝食は海老カツサンドで、翔太が前の晩に大橋に頼んで特別に作らせたものだった。母親がいるときは、絶対に海鮮を食べさせてくれず、いつも口うるさく制限してきた。 でも今は、食べたいものを好きなだけ食べられる! 一方その頃、真衣は早起きして千咲のために栄養食を用意し、彼女を学校まで送り届けていた。 彼女が車で立ち去るとすぐに、翔太がマイバッハから飛び降りてきた。 「萌寧さんが週末に本物の戦闘機を見せてくれるんだ!それに、おもちゃの粘土もたくさん買ってくれて、みんなに分けて一緒に遊べるようにしてくれた!」 翔太は胸を張って得意げに言った。「お前がくれたあのボロい積み木より、ずっといいぞ!お前も遊びたかったら、僕にお願いしなよ。そしたら萌寧さんに頼んで、一緒に連れてってもらえるようにしてあげる! どう?萌寧さんとパパがいなかったら、ママじゃ、一生本物の戦闘機なんて見せてくれないよ!」 千咲の目は真っ赤になり、鼻の奥がツンと痛んだ。あの積み木は、全部自分が一生懸命作ったものだった。おじさんは翔太のことばかり好きで、だから自分が翔太に気に入られれば、もしかしたら「パパ」と呼ぶことも許してくれるかもしれないと、そう思っていたのに…… 千咲は翔太をじっと睨みつけた。「お兄ちゃんが私のプレゼントを気に入らないのは別にいいけど……でも、なんでママのことをそんなふうに言うの?」 「ママは田舎者だ!そんなの好きになるのはお前くらいだよ!これからは、お前もママも家に戻ってくるな!高瀬家はお前たちを歓迎しない!それに、僕にはもう新しいママができたんだ!昨日は萌寧さんが僕を寝かしつけてくれたんだから!」 - 真衣が千咲を送り届けた後、空はどんよりと曇り始め、今にも雨が降り出しそうだった。 ふと顔を上げると、向かいのバス停の広告看板に、ひときわ目立つ大きな文字が躍っていた。【国防航空展へ、ようこそ——】 真衣は一瞬立ち止まり、前世のこの時期、北城で航空宇宙・国防科学技術展が開催されていたことを思い出した。 北城航空展は、世界五大航空展の一つで、二年に一度開催されており、ちょうど週末が第十五回目の開催にあたる。その展示内容は非常に多彩で、陸・海・空・宇宙・電子・ネットワークといったあらゆる分野を網羅しており、各種航空機、ミサイル、ドローン、衛星などの航空宇宙関連製品がずらりと並ぶ。 さらに、各種大型戦闘機による大規模なパフォーマンスも行われる予定だった。 真衣はそのポスターをじっと見つめてぼんやりしていた…… もしあのとき、自分が夢を諦めず、家庭に入って夫に尽くし子育てに専念するという選択をしなかったなら――今回の展示会には、彼女が設計した航空機が並んでいたかもしれない。 自らスタッフとして登壇し、設計の過程やエピソードを語っていたかもしれなかった。 それは、何ものにも代えがたい至高の栄光だ。 真衣は視線をそらし、スマートフォンを取り出して公式サイトで航空展のチケット情報を調べた。しかし、すでにすべてのチケットは完売していた。 スマホをしまったその瞬間、突風とともに激しい雨が突然降り始めた。 朝は子どもを送り届けたり、出勤する人々が一斉に動くラッシュの時間帯。学校の前は特に混雑していて、タクシーを拾うどころではなかった。 真衣は豪雨をものともせず、近くのカフェへと駆け込んだ。 ガラス扉を押し開けた瞬間、ちょうど出ようとしていた男性と正面からぶつかり、熱いコーヒーを彼にぶちまけてしまった。白いワイシャツには、目立つ汚れがはっきりと染みついた。 「すみません、弁償します!」真衣は慌てて顔を上げて謝った。 常陸安浩(ひたち やすひろ)は真衣の顔を見るなり、少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべた。「寺原さん、航天局のシミュレーター試験のときも、君に試薬をぶちまけられたっけな。今度はコーヒーか、全然変わってないな」 真衣は呆然とした。まさか、こんな場所で安浩に出会うとは思ってもみなかった。 安浩は、彼女の学生時代の先輩であり、同じ博士課程の指導教授の下で学んだ仲だった。 2人の恩師・加賀美龍平(かがみ りゅうへい)は現在第五一一研究所の所長で、この国における航空宇宙分野の重鎮だ。彼のもとで学びたいと願う人は数知れない。 真衣は彼のシャツを見て言った。「常陸先輩も変わってないわね。相変わらず口が達者で。 その服、もう洗っても落ちないだろうから、弁償するよ」 彼は笑って返した。「大丈夫。君が結婚してからずっと会ってなかったし、せっかく偶然会えたんだから、少し話さない?」 「実は私も、連絡しようかと思ってたところだったの」 安浩は眉を少し上げた。「じゃあ、研究所で話そう。僕はちょっと着替えてくるよ」 - 真衣は研究所の来客用ロビーに座っていた。 訪れるのは、本当に久しぶりだった。 見渡す限り、懐かしさを感じる風景。脳裏には当時の記憶が次々とよみがえり、その一つひとつがまるで昨日のことのように浮かんでくる。 客としてこのロビーに座るのは初めてだった。胸の奥では、言葉にできない複雑な思いが渦巻いていた。 安浩は着替えて戻ると、真衣の正面に腰を下ろし、微笑んだ。「どうだい?変わったところは多いか?」 「科学技術の進歩は速くて、研究所もずいぶん変わったわ」 「何の話がしたいんだ?航空宇宙の研究に身を捧げたいと言ってた君が、突然学業も研究も放棄して結婚し、子供を育て、連絡も途絶えたんだから……」 真衣はそっと視線を落とした。胸の奥に、どうしても拭えない後ろめたさが広がっていた。彼らに顔を合わせる資格なんてない――ずっと、そう思っていた。 「青い鳥―X7生態修復機が完成して、週末の航空ショーでお披露目されるって聞いたわ」真衣は唇を軽く引き結び、静かに言った。「突然去ってしまったこと、謝らなきゃと思ってたの」 「情報通だな」安浩は変わらず柔らかい笑みを浮かべた。「君が抜けた時、チームのプロジェクトはしばらく止まっちゃってさ。前に進めなくて大変だったんだ」 「私……」真衣は胸に広がる後悔をどう言葉にしていいかわからなかった。「本当に、ごめんなさい……」 謝罪以外に、何と言えばいいのかわからなかった。 自分の勝手な決断で、皆の歩みを止めてしまったのかと思うと――胸の奥が重く沈んだ。 日々進化する科学の波に取り残されないよう、たとえ家に入り、夫と子を支える日々を送っていたとしても、専門分野の勉強だけは片時も止めなかった。だから――もう一度この世界に戻ったとしても、自分はきっと遅れを取らない。 「みんなは君の謝罪より、具体的な行動を望んでいる」 安浩は、真衣が戻ってくることを心から願っていた。こここそが、彼女の才能が本当に輝く場所だった。 「航空展を直接見に行ってもいい?」 「青い鳥の設計の大半は、すでに君が完成させていた。僕たちがそれをまとめあげて仕上げるのに、何年もかかった。君は家庭に閉じこもる人間じゃない。君は、この国の航空宇宙事業に必要な人材なんだ。 なぜ見たいと思った?戻ってくることに決めたのか?」安浩は真衣をまっすぐに見つめ、その答えを待っていた。 彼は手にしていたコップを静かに置いた。「航空展のチケットは簡単に取れない。もし本当に見たいなら……電話してくれ。僕が連れて行くよ」 真衣は唇を引き結び、そっとうなずいた。「はい。私も……航空宇宙事業に、自分が属してるって思う」 彼女は幼い頃から、空と宇宙に強い憧れを抱いていた。 彼女の夢は、ただ飛行機を設計することではなかった。彼女の夢は星の海を越えて、無限の宇宙へとつながる未来だった。 いつからだろう。自分自身を、見失っていたのは。 前世の航空展の時、彼女は千咲を連れて家にいて、翔太のやり残した宿題を一緒に手伝っていた。礼央が翔太を病院に連れて行ったと思っていたが――後になって、彼らが萌寧と一緒に航空展に来ていたことを知った。 今でもはっきりと覚えている。あのとき、戦闘機のパフォーマンスを生で見ている翔太たちを、千咲がじっと羨ましそうに見つめていたことを。でも千咲は、口に出さず、騒ぎ立てることもせず、ただ静かに耐えていた。 母親として、彼女は、あのとき間違いなく失格だった。 だが今は違う。もう二度と、千咲に翔太を羨ましがらせたりはしない。 人生をやり直したこの一度きりの機会で、彼女は自分自身を取り戻す。そして、千咲の支えとなり、誇りとなる母親になるのだ。 たとえその時、恩師に会っても、もう受け入れてもらえなかったとしても。それでも展示を見て、昔の仲間や、業界の重鎮たちに顔を出すだけでも意味がある。 少なくとも業界の人々に、彼女という存在を知ってもらう―― 安浩は満足そうに微笑んだ。「研究所には、新しい研究計画がある。主任技術者も、人手も必要だ。だが、いまだに適任者が見つかっていないんだ」 真衣は、その言葉が自分に向けられたスカウトであることを、すぐに察した。 主任技術者だなんて、自分にはまだ荷が重いかもしれない。けれど基礎からなら、また始められる。 「履歴書を送ります」 そう答えると、安浩は真衣をまっすぐに見つめ、言葉を継いだ。「ただし、うちの条件として――候補者は婚姻が安定していることが前提だ」 真衣は一瞬、動きを止めた。そんな条件、以前はなかったはずだ。今それがあるのは、きっと、彼女自身の前例があったからなのだろう。 「離婚するつもり」 安浩は一瞬、驚きに目を見開いた。かつて彼女は、幸福を選ぶために何もかもを捨て、迷いなく家庭へと進んだ。まさか今になって、そんな決断を下すとは思ってもみなかった。 そのとき、真衣のスマートフォンが、まるで空気を読まないかのように鳴り出した。 「高瀬翔太くんのお母様でしょうか。翔太が突然、全身に赤い発疹が出て、お腹も痛がっています。これから病院に連れて行きますので、すぐに来ていただけますか」 第5話 「今後翔太に関する連絡は父親の方へお願いします」真衣は冷静な口調で言った。「私は彼の母親ではありません」 教師は眉をひそめ、夫婦喧嘩で感情的になり子供の面倒を見たくないのだろうと考えた。 「お母様、今は子供が危険な状態です。意地を張っている場合ではありません。至急来園してください」 「父親の連絡先をお送りします」そう言うと、真衣は電話を切った。 すぐに、彼女は礼央の電話番号を教師に転送した。 安浩は真衣が電話に出るのを見て、すでに席を外していた。 真衣が視線を上げると、安浩は少し離れた窓際で階下の景色を見ていた。 彼女は歩み寄った。「今日はありがとう」 「電話終わった?」 真衣はうなずいた。 安浩は真剣な眼差しで彼女を見た。「寺原さん、おかえり」 彼女は淡く微笑んだ。「じゃあ、私の履歴書が通るよう祈ってて」 第五一一研究所の要求は非常に高く、真衣は長らくこの業界から離れていたため、履歴書が通るかどうかは不安だった。 安浩は冗談めかして言った。「もし本当に通らなかったら、僕がアシスタントとして雇ってやるよ」 - 礼央が幼稚園に到着した時、空は激しい雨に覆われ、土砂降りの中だった。 園内では翔太が全身に赤い発疹を出して、保健室で激しく泣いていた。 朝から体が少し痒いとは感じていたが、昼にはすでに全身も顔も真っ赤な発疹で覆われていた。 兄に発疹が出たと聞いた千咲は、胸がざわついた。母はかつてこう言っていた。翔太の体は特別で、毎晩薬湯に浸からないと、全身に発疹が出てしまうと。 千咲は小さな傘を握りしめ、クラスから保健室へ向かった。だが風雨があまりにも激しく、傘はぐらぐらと揺れ、彼女の体は半分以上も雨に濡れてしまった。 保健室に着くと、翔太は千咲の姿を見て、小さな顔を怒りで歪めた。「僕の惨めな姿を見に来たのか!」 「ママが、お兄ちゃんは毎日薬湯に入らないと発疹が出るって言ってたの。ちゃんとお医者さんに――」 「余計なお世話だ!」翔太は彼女の言葉を遮り、そばにあったコップを手に取り、千咲に向かって投げつけた。「でしゃばるな!お前なんかに会いたくない!」 先生はその様子を見て慌てて止めに入った。「翔太、妹を叩いてはいけない!」 「妹なんかじゃない!あいつは高瀬家と何の関係もないって、みんなが言ってる!私生児なんだ!」 千咲はその言葉に呆然とし、硬直したままその場に立ち尽くした。目に涙を浮かべながら、かすれた声で言った。「そんなことばっかり言ってたら、ママ、本当にお兄ちゃんのこと捨てちゃうよ!」 「僕がママを捨てるんだ!ママが僕を捨てるんじゃない!それに、僕とパパが、お前たちをいらないんだ!」 千咲は怒りに震え、先生は彼女をなだめながらその場を取りなそうとした。 兄のことを心配して、ただ様子を見に来ただけだったのに――返ってきたのは冷たく突き刺さるような言葉ばかりだった。千咲は唇をぎゅっと噛みしめ、何も言わずに黙り込んだ。 しばらくして、医務室の扉が開き、礼央が足を踏み入れた。 千咲はしばらくの間そこにいた。さっきの雨で体はすっかり濡れ、今は冷え切って小さく震えていた。 隅のほうに立っていた千咲は、父親が来たのを見つけ、嬉しそうに口を開いた。「パ……」 けれどすぐに、礼央がそう呼ばれるのを嫌がっていることを思い出し、言いかけた言葉を慌てて飲み込もうとした。 ちょうどそのとき、翔太が父親の姿を見つけて「わあああん!」とさらに大声で泣き出し、その声が千咲の言葉を遮った。 翔太は急いでベッドから飛び降り、礼央のもとへ駆け寄り、顔いっぱいに悔しさとつらさを浮かべて訴えた。「パパ、僕、今すごく醜いよ……体も痛いし、痒い……!」 顔にも体にも、真っ赤な発疹がびっしりできていて、もしこれを萌寧に見られたら、きっと嫌われてしまう、そう思った。 教師によれば、翔太は今日、すでに何度も下痢をしているとのことだった。 礼央は息子の体と顔に広がる赤い発疹を見て、胸がぎゅっと締めつけられるような思いになった。 すぐにかがみ込み、翔太を優しく抱き上げると、穏やかな声で言った。「大丈夫だ。パパが来たからな。今すぐ病院に連れて行くぞ」 千咲は、兄が父に甘えて泣きつき、パパが優しく抱きしめて慰めている光景を、ただ黙って見つめていた。 胸の奥がじんわりと痛んだ。 もう一度、「パパ」と呼ぼうとした。けれどその次の瞬間――男は翔太をしっかりと抱きかかえ、そのまま保健室を出て行ってしまった。 まるで彼女の存在に気づいていないようだった。 千咲は、その背中が遠ざかっていくのを見つめながら、鼻をすすり、小さな声で言った。「先生……さむいよ……」 - 礼央は翔太を抱いて車の方へ歩いていった。 その後ろから、秘書が控えめに声をかけた。「社長、お嬢様の様子も少し見ていかれますか?」 だが、翔太はその腕の中で、さらに強く彼にしがみついた。「パパ、痛いよ……」 礼央の眉目には何の感情も浮かんでおらず、その声はあまりにも冷静で、温度が一切なかった。「幼稚園には職員がいる。問題なく面倒を見ているのなら、わざわざ見に行く必要はないだろう」 秘書は何も言わず、静かに口を閉ざした。 たしかに今は、坊ちゃんの体調のほうが優先されるべきだ。 真衣が安浩と別れた直後、再びスマートフォンが鳴った。発信者は、幼稚園の先生だった。「高瀬千咲ちゃんのお母様でしょうか。千咲が雨に濡れて風邪を引き、高熱を出しています」 その一言を聞いた瞬間、真衣の全身が硬直した。反射のように、心臓が激しく跳ねた。 前世では、千咲は高熱が引き金となり、肺炎を発症してこの世を去ったのだ。 今世では、離婚を申し出て、千咲を連れて高瀬家を出た。それでも……生まれ変わったこの人生でも、やはり娘の運命を変えることはできないのか。 「高熱」――その言葉を聞いただけで、彼女の体は震え出した。どうやって大雨の中、幼稚園まで駆けつけたのか。その記憶さえ、真衣にはまるでなかった。 千咲に会ったとき、娘の小さな体は保健室のベッドで身をすくめ、震えていた。 「ママ…」千咲の小さな顔は熱で真っ赤になっていて、声もかすれて弱々しかった。「ごめんなさい……お兄ちゃんが病気だって聞いて、保健室に見に行く途中で……うっかり雨に濡れちゃったの」 「ばかね、何を謝ってるの?」真衣の目には、じわりと涙がにじんでいた。「もうこれからは、翔太のことには関わらないで。いい?」 彼女はわかっていた。千咲はずっと、翔太や礼央に気に入られようと無理をして、父親の愛をどこかで期待していたことを。 自分はもう、礼央のことを見切って、きっぱりと離れる覚悟を決められた。けれど――娘が父親の愛を求める気持ちだけは、どうしても止めることができない。 「さっき……パパが、お兄ちゃんを病院に連れて行ったの……」 千咲の声には、ほんの少しだけ悔しさと寂しさがにじんでいた。 だが、真衣にはわかっていた。娘が本当に望んでいたのは、礼央が、自分の存在に気づいてくれて、ほんの少しでも言葉をかけてくれることだったのだ。 礼央が千咲にたった一言でも話しかけるだけで、千咲はその夜ずっと、嬉しそうにしていたのだ。 胸が締めつけられる思いで、真衣は娘をそっと抱きしめた。「いい子ね。さあ、ママが病院に連れて行ってあげるから」 北城小児病院。 真衣は、医師に千咲の体調がもともとずっと優れないことを丁寧に伝えた。 前世。娘はいつも礼央と翔太の帰りを待ち、冷めたご飯ばかりを食べて過ごし、ついには栄養失調になっていた。 今世では、生まれ変わったその初日から、彼女は千咲の栄養補給に全力を注いでいた。だが、痩せ細った体が回復するには、一日や二日でどうにかなるものではない。 医師は千咲に身体検査を行い、今回はただの風邪による発熱であると診断した。処方されたのは解熱剤。基本的には帰宅後に様子を見るようにとのことだった。 だが、前世でのあの苦い記憶がある真衣にとって、それで納得できるはずがなかった。「先生、入院して経過を見させてください。家に帰るのは不安なんです」 真衣は、雨の中を幼稚園まで駆けつけたせいで全身ずぶ濡れだった。だが、自分のことは後回しにして、まずは入院手続きを済ませ、千咲を病室に落ち着かせた。そのあと、薬を受け取るために院内の薬局へ向かった。 戻る途中、彼女はふと、VIP病室の前を通りかかった。 「全部ママのせいだよ。ミルクバスに入れてくれなかったから、また病気になったんだ……」 不満そうな翔太の声が、扉の向こうからはっきりと聞こえた。「萌寧さん、僕の新しいママになってくれる?」 第6話 萌寧はくすっと笑いながら言った。「それなら、パパの奥さんにならないと、ママにはなれないわよ? 翔太、パパに私と結婚してほしいの?」 翔太は何のためらいもなく答えた。「すぐにパパとママを離婚させて、萌寧さんを僕のママにする!」 その言葉を聞きながら、真衣は心の中でひそかに冷笑した。 翔太は知らない。萌寧こそが、彼の本当の母親であることを。ただ、過去に彼女自身がその子を礼央に預け、育児から手を引いただけの話。 だが、萌寧という女は、本当に計算高く、そして手段を持っている女だった。学業もキャリアも、すべて自分の手でしっかり守り抜きながら、最終的に欲しい男まで手に入れてしまったのだから。 「本当に病院に来ないと思っていた」 背後から聞こえたのは、どこか嘲るような響きを含んだ、冷ややかな男の声だった。 真衣が振り向くと、そこには黒いスーツを身にまとった礼央が立っていた。その姿は相変わらず上品で、気品のある雰囲気を纏っていた。 もしこれが、かつての自分だったなら。きっとその姿を見て、嬉しくなって媚びるように声をかけていたかもしれない。 けれど今は、彼女の眉はきつく寄せられ、視線も冷たくなっていた。 もし礼央が長年、娘をあれほどまでに無視し続けていなければ、前世で千咲が吹雪の夜にずっと彼を待ち続け、高熱から肺炎を起こして命を落とすことなんてなかった。 そして今日、幼稚園で彼はまた、高熱を出していた娘を置き去りにして翔太を連れて行った。千咲が熱を出していたかどうか、彼が本当に知らなかったとしても。 もし少しでも千咲のことを気にかけていたなら、あの子の異変に気づけたはずだ。 礼央は全身ずぶ濡れの真衣を見下ろすように眺め、皮肉っぽく言った。「高瀬家を離れて、そんな惨めな姿になるとはな。 翔太は中にいる。会っていけばいいだろう」 真衣は深く息を吸い込み、礼央を冷たく見据えて笑った。「翔太は私の子じゃないわ。なんで私が会いに行かなきゃいけないの?」 そう言い放つと、真衣は礼央がどんな顔をしていようと一切気にせず、すぐに背を向け、その場を後にした。 今世では、もう彼が娘の面倒を見ることを期待しない。彼がいつか自分たち母娘の存在を振り返ってくれるなどという幻想も、もう抱かない。 前世、あの男の冷たさが娘を死に追いやった。 真衣は、あの過ちを二度と繰り返さない。 そのとき、病室のドアが開き、萌寧が出てきて、去っていく真衣の背中を見ながら言った。「真衣さん、また私のことで怒ってるのかしら?私がここにいるのが気に入らないの?」 礼央はその背中に視線を向けていたが、すぐに冷淡に目をそらした。「些細なことだ」 「医者の話では、翔太は胃腸が弱くて、乳糖不耐症による嘔吐と下痢を起こし、それに加えてダニアレルギーによる急性蕁麻疹も出ていたみたい。血液検査で、最近抗アレルギーの薬浴を完全にやめていたことが分かったそうよ」 萌寧は礼央を見つめながら、優しく言った。「真衣さんがもう帰ってこないなら、私が家に行って翔太の薬浴を手伝いましょうか?」 礼央は、萌寧の申し出を拒まなかった。 - 真衣が病室に戻ると、千咲が静かに口を開いた。「パパが来たの?」 さっき、確かにパパの声が聞こえたのだ。 娘の顔には、無邪気な期待の色が浮かんでいた。その表情を見た瞬間、真衣の胸はぎゅっと締めつけられた。 どうすれば伝えられるだろう。パパは千咲に会いに来たわけじゃない、翔太の世話をしに来ただけだということを。 真衣は娘のそばに腰を下ろし、声を落として優しく話しかけた。「ママはね、千咲がパパのことを好きだって、ちゃんと知ってるよ。でもね、パパは今、仕事でとっても忙しいから……会いに来られないの」 千咲はゆっくりと目を伏せ、小さな手でシーツをぎゅっと握りしめた。「パパは……ずっと千咲のことが嫌いなんだよね?どんなにお兄ちゃんとパパに気に入られようとしても、やっぱり……好きになってもらえないの」 「私がダメだから?」 千咲のか細い問いかけに、真衣は静かに娘の頭を撫でた。「千咲はとてもいい子よ。でもね、誰かに好かれるために頑張らなくていいの。世の中のみんなに好かれる必要なんてないし、他の人が千咲を好きになる義務もないのよ。たとえそれが、本当のパパだったとしても。 誰かに嫌われたって、千咲は千咲のままでいいの。無理に自分を変えて、誰かに好かれようとしなくていい」 それは、まだ四歳の娘には難しすぎる言葉だったかもしれない。けれど、前世の悲劇を繰り返さないためにも、決して愛してくれない父に期待を寄せないためにも、今伝えなければならなかった。 千咲はうつむいたまま、目に涙をいっぱいためていた。 ママの言葉は、なんとなくわかるような……でも、よくわからない。 ただ、心がひどく寂しかった。 パパ、いつか帰ってきてくれるよね?だって、他の子にはみんな、パパがいるんだもん。 千咲の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、肩を震わせながら言った。「でも……でもお兄ちゃんが言ったの。私は高瀬家の娘じゃなくて、私生児だって……本当なの?」 その言葉を聞いた瞬間、真衣の胸に鋭い痛みが走った。「そんなデタラメ、信じちゃだめよ」 そう言いながら、彼女の瞳は一気に冷えきった光を宿す。 翔太……たかが子どもとはいえ、そんな言葉を口にするなんて。誰かが、あの子の耳元で吹き込んでるに決まってる。 真衣の心に怒りと悔しさが込み上げた。彼女は、これまで高瀬家のために必死で尽くしてきた。まるで家政婦のように、休むことなく。それなのに、最後にはこんな仕打ちを受けるなんて。 この結婚、この家族がどれだけ醜く、どうしようもなかったか……思い知らされた。 - 病院では、千咲は一晩入院しただけで、熱もすっかり下がり、容体も安定していた。 彼女は廊下を散歩していると、ちょうど、翔太が廊下でリモコン飛行機を飛ばして遊んでいるのを見かけた。 千咲は見上げながらじっと見つめた。あれが萌寧さんがお兄ちゃんにくれたプレゼント?本当にかっこいいし、すごく派手。 翔太は千咲の姿を見つけ、しかもまだ病院の患者服を着ているのに気づいて、すぐに叫んだ。「千咲、このマネっ子!病気まで僕の真似をするなんて!」 「してないよ!」 翔太は鼻で笑って言った。「でもさ、パパは絶対にお前なんか見に来ないんだよ」 そう言って、彼はうつむいたままリモコン飛行機を操作し、飛行機を千咲の方へと向けた。 飛行機が今にも千咲にぶつかりそうになったその瞬間、朝食を手に持った真衣が駆け寄って、千咲をひょいと抱き上げて避けた。飛行機は地面に激しく衝突した。 千咲は驚いた顔で真衣を見上げた。「ママ……」 礼央は千咲を嫌っており、「パパ」と呼ぶことさえ許さなかった。高瀬家で可愛がられていたのは、いつだって翔太だけだった。 そのせいで、千咲はいつも人の顔色を窺うようになってしまっていた。 千咲も心の中では分かっていたのだ。高瀬家では、ママ以外、誰も自分を好きじゃないこと。翔太にはかなわないこと。だから、千咲はいつもいい子でいようと頑張っていた。 真衣は、ようやく今になって気づいた。自分の子育ては、間違ってた。娘は内向的なだけだと思ってたけど……千咲は彼女の前で無理に明るく振る舞ってただけだったんだ。 「千咲、これからはね、誰かにいじめられたら、やり返していいのよ。ママがついてるから」 翔太は真衣が来たのを見て、手に持ったリモコンをぎゅっと握りしめた。ママの目つきが怖かった。 真衣は翔太をまっすぐに見つめて言った。「千咲に謝りなさい」 「ぼ、僕、わざとじゃないよ!あいつがそこに立ってたんだ!」 パパも萌寧さんもいないこの状況で、翔太にはママに正面から逆らう勇気はなかった。 けれど、ママは本当に嫌だった。いつも彼を叱ってばかりで、あれこれ口うるさく制限してくる。 でも、もうパパはママと千咲なんかいらないし、これからは萌寧さんが味方してくれる。 翔太はそう思い直すと、田舎くさいママなんかにビクビクする必要はないと自分に言い聞かせた。 翔太は勇気を振り絞って言い返した。「萌寧さんが作ってくれたやつなんだ!もしあの飛行機が壊れたらどうするのさ!お前たちじゃ弁償なんかできないだろ!」 真衣は地面に落ちた玩具の飛行機を見下ろし、目に冷たい光を宿した。安っぽいおもちゃだ。作り方さえ分かれば、誰にだって作れる。 翔太と子供相手に本気になるつもりはなかった。 けれど、今日ばかりは、千咲のためにきちんとけじめをつける必要があった。 「いいわよ。謝らなくて結構」そう言って、真衣は千咲に視線を向けた。「千咲、翔太にしたいようにしていいわ」 ママはこれまで、誰かを殴ったり怒鳴ったりするのは良くないことだと教えてくれた。それは礼儀に反するからと―― 千咲の胸の中には、ためらいが渦巻いていた。今日、もしお兄ちゃんを殴ったり怒ったりしたら……パパはもっと自分を嫌いになるかもしれない。 でも彼女は、昨晩ママが話してくれた言葉を思い出した。嫌われる勇気を持たねばならないと。 千咲はゆっくりと翔太の方へ歩み寄った。 翔太は少し怯えていた。 そのとき、萌寧が湯を汲んで戻ってきて、一連の光景を目にした。 彼女は前に出て翔太をかばい、すぐさま真衣をにらんだ。「どうしてそんなに翔太にきつく当たるの?そんな母親で、子どもをちゃんと育てられるの?」 「真衣さん、子どもの喧嘩でそこまで目くじら立てることないでしょ?翔太、怯えてるわよ」 礼央が朝食を買い戻ると、萌寧の言葉を漏れなく聞いた。 そして、萌寧の背後で縮こまるように震える翔太を見て、眉を深く寄せる。 真衣は冷笑を浮かべ、言い返そうとしたそのとき、背後から、低く冷たい声が飛んできた。 「病院にいる必要はない。千咲を連れて帰れ」 第7話 男の冷ややかな声が耳に届き、その響きはひときわ耳障りだった。 真衣が振り返ると、彼の漆黒の瞳と視線が合った。冷たく、感情のかけらもないその眼差し。 彼は相変わらずだった。何の事情も理解しようとせず、彼女と娘が悪いと決めつけ、無条件で萌寧と翔太の側に立つ。 礼央は彼女が何か言うよりも早く、視線を萌寧に移し、少しだけ声の調子を和らげて言った。「中に入って朝食を食べよう」 彼は千咲に一瞥もくれず、そのままあの二人について病室へ入り、扉を閉めた。 閉ざされた扉を見つめながら、真衣は拳を固く握り締めた。爪が食い込み、手のひらが痛むほどに。 礼央の冷たい態度を前に、彼女の瞳はさらに深く、冷え切った色を帯びていく。 どうして、あんな無関心な態度に耐えて、これまで何年も過ごしてこられたのか。 思えば思うほど、笑ってしまうくらい滑稽だった。 もし彼女が礼央の愛を執拗に求めず、もっと早く娘を連れて離れていたら。前世で、あんな悲劇は起きなかったかもしれない。 「ママ、もうだいぶ良くなったから、今日退院しよう」 真衣はその素直で従順な娘を見つめ、心の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。「これからは誰かにいじめられても、我慢しなくていいの。いい?」 「わかった」千咲は素直に頷いた。 - 真衣は千咲の退院手続きを済ませると、その足で実母に会いに向かった。 母は郊外の別荘に住んでいた。市内から少し離れていたが、空気もよく、景色も穏やかだった。 両親は長い間、離婚問題で揉めていた。だが父親の方がなかなか同意せず、母はついに自ら家を出て、ここに移り住んでいたのだった。 真衣はよく千咲を連れて、母のもとで心の内を語るのが好きだった。 千咲は祖母の顔を見ると嬉しそうに駆け寄り、その腕の中で甘えた。 寺原慧美(てらばら さとみ、旧姓青木(あおき))は笑みを浮かべながら、千咲を抱き上げた。「まあまあ、千咲、また背が伸びたんじゃない?今日はおばあちゃんのところへ来て、何が食べたいの?おばあちゃんが作ってあげるよ」 「ステーキが食べたい!」 「はいはい、作ってあげるよ」 慧美はしばらく千咲をあやしてから、「テレビでも見てなさい」と2階へ行かせた。 それから、真衣の方を見た。「今日は水曜よね?どうして来れたの?」 真衣は椅子に腰を下ろしながら尋ねた。「最近、ビジネスの方は順調?」 慧美は自分の事業を切り盛りしていたが、最近は状況が芳しくなかった。売り上げは右肩下がりで、ほとんどが赤字続きだった。 その事業のせいで、寺原景司(てらばら けいじ)は離婚に首を縦に振らなかった。二人は長年連れ添っていた分、財産の分割を巡る対立も大きく、利益の絡みも深かった。離婚は、そう簡単に済ませられる話ではなかった。 景司はとっくに外に愛人を囲っており、その愛人とのあいだに一男一女をもうけていた。だからこそ、景司は真衣のことをずっと疎ましく思っていた。 真衣が礼央と結婚した後、景司は意図的に接近を図り、礼央の人脈を利用して商売をしようと目論んでいた。 だが、礼央は真衣を好いておらず、当然、彼女の家族のことなど気にかけるはずもなかった。 そのため景司は激怒し、慧美に「こんな金食い虫を産みやがって」と罵声を浴びせた。 慧美は、「相変わらずね」とつぶやいた。 真衣はわずかに眉を伏せた。ここ数年、余裕のあるときには母に送金していたが、母の事業の詳細までは深く関心を寄せてこなかった。 前の人生では、彼女はすべてを礼央に捧げていた。娘が亡くなる二日前、ようやく母の事業が破産を宣告されたのだった。 「しばらくしたら、またお金を振り込むつもり。そのときに会社の運営モデルを見直してみて。今のやり方はもう古すぎて時代に合ってないわ。新エネルギー系の新興産業に投資するのもいいし、会社の中で考え方が古い幹部たちは、必要なら思い切って入れ替えたほうがいい」 慧美は眉をひそめて真衣を見つめた。「どこからそんなお金が出るの?まさか礼央が……」 「違うわ」真衣はきっぱりと遮った。「彼とは離婚するつもりよ」 礼央と結婚してからというもの、彼は寺原家のことに一切関わろうとしなかった。寺原家が破産寸前だったときでさえ、見向きもしなかった。 それなのに、萌寧が海外留学中にお金に困ると、彼は何のためらいもなく数千万円を送金していた。 あのとき、叔父が手を差し伸べてくれなかったら、母はとうに億単位の借金を抱えていたはずだ。 慧美は真衣を見つめ、胸が痛んだ。 彼女はため息をついた。「お母さんが悪かったわ、何の力もなくて……もしあんたの実家に支えてくれる人がいたら、高瀬家であんなにつらい思いをせずに済んだのに……」 慧美は顔をそむけ、涙を浮かべながらつぶやいた。「今まで我慢させてしまって、ようやく離婚を切り出すなんて……」 「もう昔のことよ」 自分は最初から、無理に礼央と結婚すべきではなかった。 恋に落ちた女は、家庭に入り、夫を支えて子どもを育てていれば、いつか自分を好きになってくれると思い込んでしまうものだ。 - 真衣は娘を慧美のもとに預けた。 退職申請が下りたので、これから高瀬グループに退職手続きをしに行くところだった。 会社のロビーで、彼女はばったり礼央と鉢合わせた。 黒いスーツを着た彼は、何か急用でもあるかのように、大股で外へと向かっていた。 真衣は表情を変えず、端に寄って道を譲った。 礼央はいつも通り、真衣の存在などまるで見えていないかのように、無関心に通り過ぎた。 彼女がどんなに挨拶をしても、どんなに存在をアピールしても、彼はまるで見えていないかのように無視し続けた。 「礼央、こっちよ!」 玄関の外では、萌寧が笑顔で礼央に手を振っていた。 「わざわざ迎えに来てくれたの?自分で上がればよかったのに」 真衣はふと思い出した。かつてどんなに雨が降ろうが風が吹こうが、礼央がこんなふうに自分に気を遣ってくれたことは一度もなかったことを。相手が違えば、彼の態度もまるで違うのだ。 彼女はそっと視線をそらし、もうあの二人が何をしようと気にするのはやめようと思った。 背を向けて、エレベーターに乗り込み、五階の人事部へ退職申請を提出しに向かった。 人事部の佐藤(さとう)は、少し驚いた様子で言った。「本当に退職しちゃうの?冗談かと思ってたわ」 社内では誰もが知っている。真衣はただのアシスタントで、大きな業務は任されていなかった。日々の仕事といえば、会議室にお茶を運んだりする程度。子どもを育てるために早く帰る必要もあり、複雑なプロジェクトに関わる余地はなかった。 高瀬社長が彼女を相手にしないのは周知の事実だったが、それでも彼女は楽しげにいつもその後をついて回っていた。それが今になって、なんの前触れもなく退職だなんて、まるで太陽が西から昇るような話だった。 真衣はそれ以上何も言いたくなかった。ただ無表情で、「ええ」とだけ答えた。 その態度を見た佐藤は、内心で毒づいた。 ちっぽけなアシスタントのくせに、何を偉そうにしてるのよ。今日ちょうど、高瀬社長の恋人が会社に顔を出したことで、社内のグループチャットは大騒ぎだった。颯爽とした雰囲気の持ち主で、海外の大学に留学経験があり、しかも金融技術と航空宇宙工学のダブルドクターだという。 高瀬社長と並べば、まさに才色兼備の理想的なカップル。 たぶんこの子は、その本命彼女のすごさを目の当たりにして、自分なんてその髪の毛一本にも及ばないと感じたのだろう。それで自信を失って、退職を決めたんじゃないか。 「退職手続きは済んだわ」佐藤は真衣をじっと見つめ、思い含んだ口調で言った。「寺原、一つ忠告しておくけど、これからどこで働くにしても、惚れてはいけない人に惚れるようなことはしないことね」 真衣はその言葉を聞きながら、自分がかつてどれほど惨めだったのかを思い知った。 あれほど彼を愛していたことが、他人の目にはただの一方的な執着と愚かな妄想にしか映っていなかったのだ。 周りはとっくに分かっていたのに、目が覚めたのは今になってから。前の人生でのあの苦しみは、きっと天が与えた罰だったのだろう。 彼女は静かに、深く息を吸い込んだ。 そして、佐藤に淡々と視線を向けた。「ご心配ありがとうございます。でも、私のキャリアプランにご助言は要りません」 真衣は人事部を出て、ロビーへと降りてきた。礼央と萌寧はまだそこにいた。 かつては毎日でも礼央に会えたらと思っていたのに、今ではその顔を見るだけで気分が悪くなる。 彼女は足を進め、立ち去ろうとした。 だが、礼央がゆったりとした口調で声をかけてきた。「真衣、萌寧にコーヒーを一杯、オフィスまで持ってきてくれ」 すかさず萌寧が口を開いた。「礼央から聞いたわ、真衣さんの淹れるコーヒーがとっても美味しいって。礼央は、真衣さんにはこういう家事がぴったりだって褒めていたよ。本当に良妻賢母って感じ。私には到底無理だわ、女らしい細かいことなんて。 あ、コーヒーは手挽きでお願いね。インスタントはどうも口に合わなくて」 真衣は足を止め、振り返って萌寧を見た。「礼央のオフィスにはコピ・ルアクがあるわ。外山さんと同じルーツのものだから、きっとお口に合うと思う」 第8話 萌寧はまだ反応できずにいた。 その間に、真衣は何の未練も見せずエレベーターへと入り、そのまま去っていった。 萌寧は何か言おうとしたが言葉にできず、礼央のほうを見て口を開いた。「礼央、あなたの奥さん、本当に気が強いのね。よく手に負えるわね。翔太が彼女を怖がるのも無理ないわ。 ちょっと怒ってるみたいだけど、慰めに行かなくていいの?」 礼央は淡々と視線を外し、平然とした口調で言った。「放っておけば、そのうち自分で落ち着くだろう」 萌寧は口元を少しゆるめ、薄く笑った。「本当に、奥さんに逃げられても平気ってわけね」 夜。 礼央が家に帰ると、家の中は真っ暗で、明かりもついていなかった。 翔太は家におらず、大橋もその世話をする必要がないため、すでに早くに寝ていた。 明かりをつけると、広々とした部屋はひときわ空虚で、冷え冷えとした空気が漂っていた。 彼はそのまま階段を上がり、主寝室へと向かったが、そこもがらんとしていた。 彼はめったにこの家に帰らなかった。 そして、真衣が戻ってきているかどうかさえ気にする様子もなく、バスルームへと向かう途中、彼女のドレッサーの前を通り過ぎても、一瞥すらしなかった。 もし、ほんの少しでも目を向けていたら。 そこに静かに置かれていた書類に気づいたはずだった。 - 週末。 国防科学技術展は熱気に包まれていた。大勢の人々が見物に訪れ、チケットを手に入れられなかった人たちでさえ、外からでもひと目見ようと周囲に立ち並んでいた。 多くの記者たちもカメラを担いで取材していた。 真衣は早めに千咲を連れて、展示会場の入り口で安浩を待っていた。 千咲はおとなしく真衣のそばに立ち、くるくると目を動かしながら、周囲の賑わいを興味深そうに見渡していた。外にはあちこちに飛行機のポスターや紹介パネルが掲示されている。 以前は、ママがこうした場所に連れてきてくれることなどなく、遊園地でさえ滅多に行ったことがなかった。 真衣は娘の様子に気づき、身をかがめて千咲の小さな頬をつまんだ。「こういう場所、好き?もし退屈だったら、おばあちゃんに迎えに来てもらって、おばあちゃんのところに行ってもいいのよ」 「好き、とっても好き」千咲は甘えるような声で言った。「前はママ、ぜんぜんどこにも遊びに連れて行ってくれなかったから」 娘のその一言に、真衣の胸はぎゅっと締めつけられた。 前世では、彼女は礼央のアシスタントとして忙しく働き、まるで高瀬家のメイドのように立ち回り、さらに翔太の教育に頭を悩ませる日々を送っていた。 そのせいで、実際にはたくさんの細かいことを見落としていた。 礼央はときどき翔太を外に連れ出していたが、千咲はいつも家に残されていた。冷めた料理を食べさせられ、翔太が飽きたおもちゃで遊ぶしかなかった。 礼央は翔太にはプレゼントやおもちゃを買っていたが、千咲には一度も何かを買ってくれたことはなかった。彼女も千咲におもちゃを買ってみたことはあったが、千咲は「いらない」と言った。 けれど、今思えば、おもちゃが嫌いな子どもなんて、本当にいるのだろうか? 「ごめんね、千咲」真衣の声には、心の底からの後悔と自責の思いが込められていた。 これからは、娘の成長のどんな瞬間も、二度と見逃さないと心に誓った。 「はっ!千咲、お前たちは入口で何をしているの?」 遠くから、スーツに身を包んだ翔太が足取りも軽く歩いてきて、得意げに言った。「やっぱり本物の戦闘機を見たいの? でもね、ママの立場じゃお前を中に連れて行くのは無理だよ。もしどうしても入りたかったら、まず僕にお願いして、それからママが戻ってきて僕たちの洗濯や料理をしてくれれば、まあ、パパと萌寧さんにお願いしてあげてもいいけどね」 「いらない!ママが連れて行ってくれるもん!」千咲はほっぺをぷくっと膨らませて言い返した。「ママはあなたのメイドなんかじゃないんだから!」 「はぁ?」 ママに、どうしてお前を中に連れて行けるっていうの? 翔太の中で、真衣はただの家事をする人であって、こういうハイレベルな場所に関わる存在ではないのだった。 礼央と萌寧は、翔太の少し後ろを、程よい距離を保ちながら歩いていた。 二人はどちらも茶色系の服を身に着けており、遠目にはまるでおそろいのペアルックのように見えた。 真衣もかつては、彼とペアルックを着てみたいと思ったことがあった。少女のような純粋なときめきを胸に抱いていた。 けれど、彼はまるでその気がなく、一度も合わせてくれることはなかった。彼女が用意した服に目を向けることさえしなかった。 萌寧は真衣を見つけると、気軽な様子で歩み寄り、とても馴れ馴れしく声をかけてきた。「真衣さんと千咲も来てたんだね。どうして教えてくれなかったの?私と礼央の車で一緒に来ればよかったのに」 そのとき、礼央は携帯に出るために少し脇へ歩き、真衣の方へは一度も目を向けなかった。 千咲の視線だけが、時おりそっと、父の姿を追っていた。 萌寧の挑発的な態度に、真衣は唇の端に冷ややかな笑みを浮かべ、きっぱりとした口調で断った。「結構よ。お気遣いなく」 「本当?」萌寧はわざとらしく眉を上げてみせた。「私と礼央は昔からの兄弟同然で、子どもの頃からの大親友なのよ?遠慮なんてしないで」 その領有宣言のような言い方からして、彼女はもう自分をすっかり高瀬夫人とでも思い込んでいるようだった。 前の人生では、自分がどれだけ愚かだったか――このあざとい女がずっと隙を狙っていたことにも、まるで気づけなかった。 真衣が何か言おうとしたその瞬間、礼央が電話を終えて戻ってきた。彼は真衣には一切目もくれず、まっすぐ萌寧の方を見て言った。「行こう。中に入るぞ」 最初から、真衣と千咲を一緒に中へ入れるつもりなど、彼には一切なかったのだ。 萌寧は目を細めて笑い、真衣に向かって言った。「じゃあ、私たち先に行くね。真衣さん、どうしても入れなかったら電話して。私、迎えに出てあげる」 真衣は三人が去っていく背中を静かに見送りながら、皮肉な笑みを浮かべた。 今世こそ、この目で確かめてやろう。彼らの三人家族が、果たしてどんな暮らしをするのかを。 「すまない、待たせたな。研究所でちょっと用事があって遅れた」安浩が早足で駆け寄ってきた。 真衣は微笑んだ。「大丈夫」 「はい、これ」安浩は視線を下ろし、にこやかに千咲に差し出した。「おじさんが買ってきたお菓子とおもちゃだよ」 千咲の目が一瞬でぱっと輝いた。「ありがとう、おじさん〜!」 これは、彼女が生まれて初めて受け取ったプレゼントだった。 安浩は内部関係者用のパスを手にしており、二人を連れてそのまま中へと入っていった。 今日は太陽がじりじりと照りつけていた。 陽射しがあまりに眩しくて、真衣は自然にサングラスを取り出してかけた。 安浩は歩きながら言った。「三年に一度の科技展は規模が大きい。君も知ってるだろう。 僕は少し忙しくなるかもしれないが、君たちは自由に見て回ってくれ。お昼には先生と一緒に食事でもどう?」 真衣はうなずいた。「ええ、お忙しいのに、ありがとう」 会場の熱気はすさまじく、どこへ行っても人の波が押し寄せていた。 千咲は目を輝かせながら、あちこちを食い入るように見ていた。 「ママ、この飛行機、すっごくかっこいい!」千咲は真衣の手を引きながら言った。「この飛行機と一緒に写真撮ってくれない?」 「いいわよ」真衣は笑みを浮かべながらスマホを取り出した。「もう少しそっちに立ってみて」 千咲がその場所に移ろうとした、その瞬間、大勢の人波がどっと押し寄せてきて、真衣と千咲は押しのけられてしまった。 真衣は眉をひそめ、慌てて千咲の体をしっかりと支えた。 「外山さん、国内で研究を進めるそうですね。高瀬社長によると、第五一一研究所に就職予定だとか。この業界について、どのようにお考えですか?」 記者がカメラを構えながら質問し、その後ろには大勢の人々が押し寄せて記録を取っていた。 萌寧は人々に囲まれ、満面の笑みを浮かべていた。「ご紹介します。この背後にある飛行機、実は最初の設計は私が手がけました。ただ、留学のためにプロジェクトチームを離れることになって……でも今、こうして完成された姿を見ることができて、本当に嬉しく思っています。 これはつまり、我が国には人材が豊富であるということの証です」 その頃、少し離れた場所で――「なあ、あれってお前の奥さんじゃないか?」礼央の隣にいた男が肩で軽く小突きながら言った。「何しに来てんだ?毎日家で炊事洗濯してるようなやつが、こんなの理解できるわけないだろ」 第9話 盛岡高史(もりおか たかし)は真衣をじっと見つめ、露骨に軽蔑の色を浮かべて吐き捨てた。「何しに来たんだか。存在感でもアピールしに来たつもりか?」 礼央はその声を聞いても何も言わず、淡々と真衣の方へ視線を向けただけだった。 衆人の注目を一身に浴びる萌寧に比べ、たとえ真衣が目を見張るような美貌を持っていたとしても、中身のないお飾りでは話にならなかった。そんな彼女が光り輝く萌寧の隣に立てば、その差はますます浮き彫りになるだけだった。 「お前がどうして家に帰りたがらないか、よくわかったよ。俺だって、絶対に萌寧を選ぶね。学歴もあるし、能力もある。もともと優秀で向上心もある。何を取っても真衣よりはるかに上だ。 真衣なんて、家でお前の金を使うだけで、何一つ役に立たないじゃないか」 高史は礼央と同じ社交界に属する人間で、二人が結婚した当初から、真衣のことを心の底から軽蔑していた。 男を罠にかけてベッドに転がり込んだ女なんて、どれほどの価値があるっていうんだ? 今更になって、恥知らずにもこんなところまで追いかけてくるとは……高史は心の中で、ますます非常識だと呆れていた。 「まだあそこに立ってインタビューなんて見てるのか?理解できるわけがないだろ。知らない人が見たら、あの女も航空業界にでも進出するつもりだと思うかもな」 礼央は冷ややかな視線を高史に向け、一言だけ吐き捨てた。「うるさい」 それでようやく、高史は口をつぐんだ。 翔太は、もみくちゃにされながらも華やかに笑う萌寧を見つめ、自分までその光を浴びているような気分になっていた。 萌寧さんが本当にママだったらいいのに。 でも大丈夫。萌寧さんが自分のことを一番好きでいてくれれば、それでいい。 真衣は、皆の前で生き生きと語る萌寧の姿を黙って見つめていた。たしかに、今の彼女は光り輝いていた。 この業界に対する理解も、彼女は驚くほど深かった。 真衣はそっと深呼吸し、視線をそらした。 道理で、礼央が萌寧に惹かれるわけだ。 何もできない専業主婦と、才色兼備のキャリアウーマン。比べれば、どちらを選ぶかなんて明白だった。 そんな単純な理屈を、前世の彼女は理解できずにいた。 千咲は、もみくちゃにされながらも注目を浴びている萌寧を、まん丸な大きな目でじっと見つめていた。周囲の会話にも、しっかり耳を傾けている。 この飛行機、あの人が設計したんだ……だから、お兄ちゃんがあれほど彼女を崇拝しているのか。 - その時だった。 真衣の携帯が鳴った。安浩からで、「見晴らしのいい観覧席を手配したから、もうすぐ戦闘機のショーが始まる」と伝えてきた。 彼女は千咲を連れて、そのまますぐに指定の場所へと向かった。 だが、高史の目には、まるで真衣が自分は萌寧に敵わないと悟って、娘を連れてこっそり逃げ出したようにしか映らなかった。 やがて、萌寧のインタビューが終わると、 翔太が勢いよく駆け寄り、そのまま彼女の懐に飛び込んだ。「萌寧さん、すごい!」 萌寧は翔太をひょいと抱き上げ、小さな頬にキスをしてやった。「ありがとう、翔太」 キスされた翔太の顔には、ますますまぶしいほどの笑みが広がっていた。 萌寧は口元に笑みを浮かべながら礼央を見つめ、片手で翔太を抱き、もう片方の腕を広げて言った。「礼央、この私こんなに優秀で輝いてるんだからさ、祝いにハグでもしに来ない?」 高史は作り笑いを浮かべて近づいてきた。「どういうことだよ?俺はもうどうでもいいってか?」 そう言いながら、礼央の意向などお構いなしに腕を伸ばし、そのまま萌寧とのハグに巻き込んだ。 三人がようやく離れると、高史は礼央に声をかけた。「このあと、みんなで飯でも食って祝うか?」 萌寧は翔太を抱いたまま、もう一方の手を礼央の肩にぽんと乗せて、明るく言った。「いいわよ、私がおごる!」 遠目には、三人はまるで仲の良い家族のように見えた。 けれど、千咲と真衣はまだそこまで離れてはいなかった。 千咲はずっと後ろを振り返って、父の姿を探していた。そして、礼央が萌寧と翔太と並んでいる様子を見た瞬間、その小さな唇をぎゅっと噛みしめ、顔をそむけた。もう、見ないと決めたのだ。 もしお兄ちゃんみたいにもっと優秀だったら、パパは自分のことも受け入れてくれたのかな…… パパは自分のことが嫌いだから、ママのことまで嫌いになったんだよね…… ママの足を引っ張っちゃいけない。千咲は、そう心の中で固く誓った。 その頃、安浩が手配してくれた観覧席にたどり着くと、それはまさに会場でも指折りの、最高のポジションだった。 ど真ん中に位置し、見晴らしも抜群。 「ここで待っていて。もうすぐショーが始まる」安浩は笑顔でそう言った。「人が多いので、あまり動き回らないほうがいいよ。子どもが怪我しちゃうから」 「ありがとう」真衣は彼を見て、穏やかに言った。「お忙しいでしょうから、私たちのことは気にしないで」 「何かあったら電話してね」 そう言い残し、安浩はその場を後にした。 彼が去ったあと、真衣は観覧席に腰を下ろした。広々とした視界のなか、遠くに見える一機の飛行機をじっと見つめていた。 青い鳥X7それは見事に完成され、展示会の中でも何度もノミネートされた。 今日は取材対象者も多く、賑わいを見せていた。 そして、このセンターとも言える特等席にも、次々と人が集まりはじめていた。どれもこの業界で一目置かれるような名のある人物ばかりだった。 遠くから、千咲は礼央が翔太を抱き、萌寧と一緒にこちらへ向かってくるのを見つけた。 翔太は千咲を見つけるなり、顔をしかめて言った。「なんで千咲もここにいるの?」 千咲とママが、こんな場所に入って座れるはずがない。翔太の中にはそんな思いがあった。 「ここは誰でも来られるようなところじゃないんだ。千咲とママは勝手に入ってきたんだから、後で追い出されるかも知らないぞ」 「その言い方、失礼だろ」 礼央が眉をひそめ、淡々とした声でそう言った。だが、その声には十分な威圧感がこもっていた。 彼は翔太を甘やかしていたが、翔太もまた、心の奥では父を恐れていた。 その言葉に、翔太はすぐに口をつぐみ、しょんぼりとした顔で萌寧を見上げた。 萌寧はやさしく笑いながら言った。「礼央、子どもなんだから、わからないこともあるわよ。これからちゃんと教えればいいの。そんな怖い顔して、驚かせなくてもいいじゃない」 真衣は冷ややかに一瞥をくれたが、それだけだった。まるで相手にする価値もないとでも言いたげに、彼らの存在など気にも留めなかった。 高史は唇を歪め、嘲笑を浮かべながら、内心で大きく目をひそめた。 礼央にしがみついてここまで来たくせに、どうやって内場に入り込んだのかは知らないけど、今さら澄ました顔で冷たい態度を取るとか…… 彼女の腹の内など、誰が見たって分かる――そんな気持ちだった。 真衣は列の奥の席に座り、千咲はその隣、外側の席に腰を下ろしていた。それをちらりと見た礼央は、千咲の隣に腰を下ろした。 翔太もすかさずその隣に座り、自分の横の席をぽんぽんと叩いて言った。「萌寧さん、ここに座って!」 萌寧は笑顔のまま、何の遠慮もなくその席に座った。 父が隣に座るのを見て、千咲は思わず小さな手で服の裾をぎゅっと握りしめた。そして、緊張した面持ちで、こっそりと礼央の表情をうかがった。 けれど、礼央は最初から最後まで一度も千咲に目を向けることなく、視線も関心もずっと翔太と萌寧に向けられていた。その様子を見て、千咲の心はじわじわと冷えていった。 やがて、戦闘機のパフォーマンスが正式にスタートした。 その場面は圧巻で、会場中が歓声と興奮に包まれた。 子どもたちも目を輝かせながら、興味津々で空を見上げていた。 「萌寧さん、これから萌寧さんはこういう戦闘機を設計するの?すごくかっこいい!」 翔太が目を輝かせて言うと、萌寧は微笑んで答えた。「気に入ったなら、小さい模型を作ってあげるよ」 「やったー!」 そのやりとりを聞きながら、千咲は胸の奥に小さな羨望を抱いていた。 彼女も本当は、とても気に入っていた。 だけどそれを表に出すことはせず、静かに心の中へしまい込んだ。 戦闘機のパフォーマンスが終わると、前方のステージで次のイベントが始まった。 大人たちは一斉に立ち上がり、前の方の視界がふさがれた。千咲も立ち上がったが、背が届かず何も見えなかった。 礼央は翔太を抱き上げた。翔太はその高さから千咲を見下ろし、得意げに舌を出してみせた。 「ふんっ」千咲は悔しそうに鼻を鳴らし、椅子の上に立って言い返した。「背が低いから抱っこされるんでしょ。私はこれで見えるもん!」 翔太も負けじと鼻を鳴らし、言い放った。「それがどうした。僕はこれから背が伸びるけど、千咲にはパパがいない!」 その一言は、まさに千咲の急所を突くものだった。さっきまで楽しく夢中になっていた心が、ぱたんと音を立てるようにしぼんでしまった。 真衣は眉をひそめ、翔太に冷たい声で言った。「そうね、あんたにはママがいないわ」 その言葉に、翔太はその場でぴたりと凍りついた。 萌寧も一瞬、目を見開いた。真衣がそんなことを口にするなんて、まったく想像していなかった。 礼央は眉を曇らせ、不機嫌を隠そうともせずに言った。「真衣、子ども相手に何をムキになってるんだ」 真衣はふっと嘲笑を漏らし、淡々と返した。「あなたは女相手に何をムキになってるの?」 それ以上言い合う気もなく、真衣は礼央を無視し、その代わりに千咲の頭を優しく撫でた。「ママがそばにいるよ」 千咲は小さく唇を噛んだが、すぐに笑顔を見せて頷いた。 礼央は終始、無表情のままだった。 錯覚かどうかわからないが、 最近の真衣は、彼に対して明らかに敵意を抱いているようだった。 そして、ショーが終わるまでのあいだ、礼央と真衣は一言も交わさなかった。 礼央は翔太を地面に下ろした。 そのとき、千咲が口を開いた。「ママ、トイレに行きたい」 「いいよ」 立ち上がろうとした千咲は、椅子から飛び降りた瞬間、足元の位置をよく見ていなかった。ぐきっ。足を捻ってバランスを崩し、そのまま前に倒れかけた。「……あっ——」 彼女は思わず目をぎゅっと閉じたが―― 予想していたような痛みは、いつまでたっても来なかった。次に感じたのは、しっかりとした腕の感触。 目を開けると、そこは父の胸の中だった。広くて、あたたかくて、やさしい…… 千咲は一瞬きょとんとして、鼻の奥がつんとした。パパ……やっぱり、千咲のこと気にかけてくれてたんだよね? 千咲は思わず、ぽつりと口にした。「ありがとう、パパ……」 その瞬間、男の瞳がふっと細くなり、凍てつくような静けさを宿した。「今、何て呼んだ?」 第10話 礼央の身からにじみ出た威圧感に、千咲はびくっと肩をすくめ、小さな口をきゅっと結んだまま、か細い声で言い直した。「ありがとう……おじさん……」 目の奥がじんと熱くなり、胸が苦しくなる。とても、とても悔しかった。 だけど彼女は唇をぎゅっと噛みしめて、意地でも涙はこぼさなかった。 パパが、ようやく自分を受け入れてくれたのかもしれない――そう思って、少し嬉しかったのに。 真衣はその場面に息をのんだ。千咲が倒れかけた方向が自分と逆で、手を伸ばしても届かなかった。 幸いにも、娘は無事だった。 真衣は礼央の腕の中から千咲をそっと引き取り、やわらかな声で優しく語りかけた。「びっくりしたでしょう?どこか痛いところはない?」 千咲は黙って首を横に振った。 返事をしたら、その瞬間に涙がこぼれそうだったから。 翔太は少し離れたところでその様子を見つめていた。胸の奥が、ざらりとする。 以前、ママもあんなふうに、自分をあたたかく抱きしめてくれた。そして、あんなふうにやさしく声をかけてくれたのだ。 ママは、もうずっと家に帰ってきていなかった。そして、ずっと――自分を抱きしめてくれることもなかった。 翔太は胸の奥で、ひっそりと母親を恋しく思っていた。 さっき「あんたにはママがいない」と言われたときも、少し、悲しかった。 だけど、もしママがいなくても、萌寧さんがそばにいてくれるなら……そう考えると、悪くない気もしてきた。 どうせママは、本気で自分を捨てたりしないはずだ。さっきのは、怒った勢いで言っただけのはず。 真衣は、礼央を完全に無視した。一瞥もくれず、千咲をしっかりと抱いたまま、静かに背を向けて立ち去った。 礼央はわずかに眉をひそめた。 以前の真衣の熱意を思えば、今の冷たさに気づかないはずがない。 ……また何か子供じみた意地を張ってるのか。 「子供ですらありがとうって言えるのに、お前は言えないのか?」 背後から飛んできたその言葉に、真衣は足を止めた。そして振り返り、冷ややかな笑みを浮かべながら言い放った。「あんたが千咲に負ってるもの、それだけじゃ済まないでしょう?」 そう言い残すと、真衣は礼央の表情など一切気にせず、千咲を抱いたまま、ためらいもなくその場を離れた。 彼女の口から出たその一言は、礼央にとってまるで意味がわからない、不可解なものだった。 礼央は眉を沈め、全身に冷え冷えとした空気を纏っていた。まるで氷霜のような、近づきがたい冷気を放っている。 もし見間違いでなければ。真衣の目に宿っていたあの強い感情、それは……恨みだったのか? そのとき、近くにいた高史が、鼻で笑いながら口を開いた。「おいおい、本当にあれが俺の知ってるベッタベタな真衣か?どうして急にそんな冷たい態度とるんだよ?もしかして手口を変えて、逃がすつもりで捕まえる戦法にでも切り替えたのか?」 礼央はその言葉に、さらに眉をひそめた。 注意力はただ「逃がすつもりで捕まえる」に集中した。 おそらく本当にそうなのだろう。 たしかに、それなら説明がつく。 - 国防展が終了した後。 真衣は千咲を連れて、恩師との食事に向かおうとしていたところだった。そのとき、松崎沙夜(まつざき さや)から電話がかかってきた。電話に出ると、受話器の向こうからいきなり怒りに満ちた声が飛び込んできた。「真衣!SNSのトレンド見た!?」 沙夜は、真衣の幼なじみであり、気心の知れた親友だった。その剣幕に、真衣は思わず笑いながら返した。「トレンド?またあなたの推しが炎上でもしたの?」 「のんきに私をからかってる場合じゃないわよ!」沙夜は歯ぎしりするような声で叫んだ。「あなたの高瀬社長、浮気してるってば!今どこにいるの!?今すぐそっちに行って、あのクソ野郎をぶった斬ってやる!」 真衣は一瞬足を止め、ゆっくりとスマホを開いた。画面いっぱいに広がるのは、国防展に関するトレンド。 「我が国が強くなった」「技術の飛躍に誇りを感じる」そんな誇らしげな言葉で、タイムラインは賑わっていた。 しかし、その中に、明らかに違和感のある一つのトピックが混ざっていた。 #高瀬社長一家和やかに国防展を観覧#。 その一行の文字を見た瞬間、真衣の胸に鋭い痛みが走った。 掲載されていた写真には、礼央と萌寧、そして翔太が寄り添い合い、まるで本当の家族のように笑顔を交わしていた。 やり直したこの人生で、彼らの関係が単なる友人ではないことは、真衣も知っていた。けれど、それでも。こんな風に、堂々と「家族」として扱われているトレンドを突きつけられると、心が突き刺されるのを感じずにはいられなかった。 まるで自分が滑稽なピエロだ。他人の子どもを、まるで我が子のように、五年間も必死に育ててきたなんて。 笑えることに、真衣は翔太を実の子のように思い、五年間、心を込めて育ててきた。しかしその実の母親が戻ってくると、翔太は萌寧が一番だと思っていた。 もし萌寧が戻ってこなかったら、もしあのままずっと自分と一緒に過ごしていたら、翔太がこんなにも母としての自分を嫌っているなんて、きっと一生気づけなかっただろう。 そう思えば納得がいく。前世のこの時期、翔太が妙に冷たく、しょっちゅう癇癪を起こしていたのも、すべてはそのせいだったのだ。 五年間、注いできた愛情、それは、まるで野良犬に餌を与えただけのように虚しく感じた。 真衣は静かにスマホの画面を閉じ、平然とした声で言った。「展示会で彼らを見かけたわ」 「それでまだこんなに冷静なの?」沙夜の声はますます怒気を帯びていた。「怒りで気が狂ったんじゃないの?」 「沙夜」真衣は落ち着いた声で言った。「私は彼と離婚するつもりよ」 「離婚?」沙夜は一瞬呆然とした。 まさか真衣が、自分からそんな決断を口にするなんて、彼女には想像すらできなかった。 誰よりも、真衣がどれだけ礼央を愛していたかを知っていたのは、沙夜自身だった。 そんな真衣が「離婚」と言い出すなんて、よほどのことがあったに違いない。 「礼央に何かされたの?」沙夜の声は、先ほどまでの怒りとは違う、重みのある真剣なものになっていた。「もし彼があんたを傷つけたんなら、私が絶対に許さない。離婚なんかじゃ済ませないからね」 真衣は視線を落とした。沙夜が本気で自分を心配してくれているのが、伝わってくる。 真衣は一度深く息を吸い込み、ゆっくりと答えた。「違うわ。私がやっと悟っただけ」 その言葉を聞いて、沙夜は少しだけ安心したように息をついた。それでも、まだ心配は拭いきれない様子だった。「本当?もし何かあったら、必ず私に言ってよ」 「安心して。何かあったら、あなたを巻き込むのを忘れたりしないから」 「……とっくに彼と別れるべきだったのよ。ようやく目が覚めたのね」 沙夜は向こうでべらべらと愚痴をこぼしていた。 真衣は彼女のぶつぶつとした独り言を聞きながら、唇に淡い微笑を浮かべていた。 真衣は娘の手を握り、青空と白い雲の下を歩きながら、携帯電話からは親友のくどい声が聞こえていた。 なるほど、幸せとはこんなにも簡単なものだったのか。 そして前世では、彼女の注意力は礼央だけに向けられていたため、周りのこんなにも多くの美しいものを見逃していた。 - 沙夜との電話を切ると、真衣は安浩と約束した場所に到着した。 彼らは個室を予約していた。 真衣は早めに個室に到着して待っていた。 彼女が先生にどう向き合うべきか思い悩んでいると、個室の扉が開かれた。 2人の恩師・龍平と安浩が一緒に入ってきた。 真衣は千咲の手を引いて立ち上がった。「加賀美先生……」 久しぶりに会う恩師は、ずいぶん年老いて見え、こめかみには白髪が目立っていた。 龍平は返事をしなかった。 彼女は深く息を吸い、胸の奥がきゅっと締め付けられた。そうだろう。 自分はもう、とっくに弟子として先生と呼ぶ資格を失っていたのだ。 その資格は、かつて迷いなく、自分の手で捨てたものだった。 真衣は唇を引き結び、千咲に目を向けた。「ほら、おじいさんに挨拶しなさい」 千咲は素直で礼儀正しく言った。「おじいさん、こんにちは」 少女の声は柔らかく愛らしく、くりくりとした大きな瞳もにこにこと笑っていた。 龍平は、その愛らしい少女を見てこわばった顔にふっと笑みを浮かべ、千咲の頭を優しく撫でながら真衣に言った。「お前の娘は、よくできた子だな」 千咲は礼央と真衣の良い遺伝子を受け継ぎ、まるで西洋人形のように精巧で愛らしい顔立ちをしていた。 安浩が口を開いた。「先生、立ったままでなく、どうぞ座って一緒に食事を」 この食事の場は、もし安浩が雰囲気を和ませてくれていなければ、真衣は恩師にどう向き合えばよいか本当に分からなかっただろう。 今となっては、先生がこの恩知らずの教え子と食事をともにしてくれただけで、彼女にとっては十分すぎるほどの光栄だった。 彼女は、龍平がこの一生で自分と再会することはないだろうと思っていた。 「時の流れは本当に早いものだよな。寺原さんは当時、意気盛んなおてんば娘で、毎日僕と食べ物の取り合いをしてたのに……今や娘がこんなに大きくなってるとは」 安浩は懐かしそうに昔を振り返り、あの頃のことを思い出しては、当時真衣が夢を手放したのはつくづく惜しいことだったと思った。 龍平は相変わらず口数が少なく、鼻で冷たく笑った。「そうだな。男のためなら、何だって捨てるんだ」 千咲がいる手前、龍平はあまり厳しい言葉は控えた。子供に聞かせるものではないと配慮したのだろう。 真衣は娘に視線を向けて言った。「千咲、店員さんを呼んで、おじいさんとおじさんにお茶を淹れてもらって。それと、自分が飲みたいジュースも選んでいいからね」 「はーい〜」千咲は素直に返事をし、ぴょんぴょん跳ねながら個室を出ていった。 千咲が去った後。 龍平は真衣を見て言った。「安浩から聞いたが、お前は離婚の準備をしていて、業界内の仕事も探したいそうだな?」 「はい……」真衣は唇を噛んだ。「ただ、私は当時博士一貫コースを諦めたので、今は確かに仕事が見つかりにくいです」 彼女は今の社会では、学歴がまさに最も基本的な要件だと思い知らされた。たとえ礼央の会社での経験があっても、それを評価してくれるところは少なかった。 「お前の履歴書を見たが、当院の採用基準には合わない」 龍平に断られても、真衣はさして驚かなかった。恩師に許しを請うような面の皮は、自分にはもうなかった。 安浩は空気を察し、すぐに話を変えた。「まあまあ、久しぶりなんですからさ。そんな重たい話はやめて、まずは飯にしましょう」 - 一方その頃。 千咲は店員にお茶を淹れてもらった後、自分で冷蔵庫の前に立ち、飲み物を見ていた。 ちょうどそのとき、礼央の一行が店に入ってきて、彼女にばったり出くわした。 高史は千咲を見て、舌打ちしながら言った。「しつこいなあ。飯食うだけでもついてくるなんて。偶然を装うにしても無理があるだろ。真衣の魂胆、顔に出てるぞ」 千咲は冷蔵庫に一本だけ残っている飲み物を見つけた。一本しかないということは、きっと美味しいに違いない。そう思い、冷蔵庫のドアを開けて取ろうとした。 ところが、彼女よりも早く手が伸びてきた。「やった!僕、これ大好きなんだ!」 翔太が飲み物を手に取り、千咲に向かって得意げに言った。「冷蔵庫開けてくれてありがとね〜」