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桜華、戦場に舞う
彼女は舅姑に仕え、自らの持参金で将軍家を支えてきた。しかし、夫は戦功を立てたことを理由に、女将軍を正妻として迎えようとした。北條守は...
Chương (1)
第1章
第1話
文月館の廊下に据えられた風灯が、障子紙の切り絵に照らされ、その影が大きな獣のように室内の壁に映し出されていた。
上原さくらは唐木の丸椅子に腰かけ、両手を膝の上で組んでいた。地味な色の服が彼女の華奢な体を包み込み、彼女は目の前の人物を見つめていた。一年間待ち続けた新婚の夫を。
北條守は半ば古びた鎧をまだ身につけたまま、威風堂々とした姿で立っていた。端正な顔には謝罪の色が僅かに混じりつつも、その表情は毅然としていた。「さくら、天子様からの勅命だ。琴音は必ず入籍することになる」
さくらは手を組んだまま、瞳の奥に複雑な思いを宿しながら、ただ不思議そうに尋ねた。「上皇后様は琴音将軍を天下の女性の鑑とおっしゃっていましたが、彼女は妾になることを望んでいるのですか?」
守の深い瞳に怒りの色が浮かんだ。「違う。妾じゃない。お前と同等の正妻だ」
さくらは姿勢を崩さずに言った。「将軍、正妻というのは聞こえがいいだけで、実際は妾のことだとご存じでしょう」
守は眉をひそめた。「妾だの何だのと、そんなことを言うな。俺と琴音は戦場で惹かれ合い、心が通じ合った仲だ。それに、俺たちは軍功を立てて天子様に婚姻を願い出たんだ。この縁談は俺たちが血と汗で勝ち取ったものだぞ。本当なら、お前の意見なんて聞く必要もないんだ」
さくらの唇の端に、押さえきれない嘲りの色が浮かんだ。「心が通じ合った? 出陣前、私に何と言ったか覚えていますか?」
一年前、二人の結婚式の夜。守は援軍を率いて出陣する直前、さくらの綿帽子を上げ、こう誓ったのだ。「俺、北條守は、生涯さくら一筋だ。決して側室なんか持たねえ!」
守は少し気まずそうに顔を背けた。「あんな言葉は忘れてくれ。お前と結婚した時、俺は恋なんて分かっちゃいなかった。ただ、お前が俺の妻にふさわしいと思っただけだ。琴音に出会うまではな」
彼は恋人のことを話し始めると、優しい眼差しになり、深い愛情が瞳の奥に宿った。そして再びさくらの方を向いて言った。「彼女は今まで会った女とは全然違う。俺は彼女を深く愛している。さくら、俺たちのことを認めてくれないか」
さくらは喉に何かが詰まったような気分だった。吐き気を覚えながらも、まだ諦めきれずに尋ねた。「では、お父様とお母様は同意なさったのですか?」
「ああ、二人とも同意してくれた。これは天子様からの勅命でもあるしな。それに琴音は率直で明るい性格だ。さっきもう母上に挨拶に行ってきたよ」
二人が同意した?はっ、なんて皮肉な話だろう。この一年間の自分の努力は、結局のところ恩知らずな者たちに与えてしまったようだ。
さくらは眉を上げた。「彼女は今、屋敷にいるのですか?」
守は琴音のことを話すとき、いつも優しい声になった。「ああ、今母上と話してるんだ。母上を上手く喜ばせてね。病状もずいぶん良くなったみたいだ」
「良くなった?」さくらは何とも言えない気持ちになった。「あなたが出陣した時、お母様の病状はかなり深刻でした。私は丹治先生をお呼びして診てもらい、昼は屋敷の内外の事務を処理し、夜はお母様の看病をしました。食事も睡眠も一緒に…そうしてようやく少し良くなってきたのです」
さくらは自慢しているわけではなく、ただ事実を述べているだけだった。簡単な一言だが、それは彼女の一年間の苦労を物語っていた。
「でも琴音に会ったら、もっと元気になったんだ」守は誠実な目で言った。「お前に申し訳ないと分かってる。でも大局を見てくれ。俺と琴音のことを、なんとか認めてくれないか」
さくらは口元をかすかに歪めた。目には涙が光っているようだったが、よく見ると鋭い光だった。「琴音将軍を呼んでいただけませんか? 直接会ってお聞きしたいことがあります」
守はきっぱりと断った。「必要ない。さくら、彼女はお前の知ってる女とは違う。女将軍なんだ。内輪もめなんて大嫌いだろう。お前に会いたがらないと思うぞ」
さくらは問い返した。「私の知っている女性とはどんな女性なのでしょう? それとも、あなたの目には私がどう映っているのでしょうか? 将軍はお忘れのようですね。私も武将の家に生まれた娘です。父と六人の兄は、三年前に邪馬台の戦場で戦死しましたが…」
「それは彼らのことだ」守はさくらの言葉を遮った。「だがお前は結局、奥座敷か内輪で育てられた繊細な娘だ。琴音はそういう娘を好まない。それに彼女は率直で細かいことにこだわらない性格だ。会えば、お前を不快にするようなことを言うかもしれない。わざわざ恥をかく必要はないだろう?」
さくらは顔を上げた。目尻の下の美人黒子が赤く輝いていた。声は相変わらず優しげだった。「構いません。もし彼女が私の気に入らないことを言っても、聞かなかったことにします。大局を考え、大人の対応をするのは、宗家の妻として最も基本的な心得です。将軍は私を信用なさらないのですか?」
第2話
守は諦めたように言った。「無理をしなくてもいいんだ。これは陛下の勅命だ。それに琴音が入籍しても、お前たちは東西別棟に住むんだ。家事権を奪うつもりもない。さくら、お前が大切にしているものなんて、琴音は欲しがりもしないよ」
「私が家事権に執着していると思うのですか?」さくらは問い返した。将軍家の家計を切り盛りするのは容易なことではなかった。老夫人が毎月丹治先生の漢方薬を飲むだけでも、数十両の金貨がかかっていた。他の者の衣食住に人付き合いと、何かと出費が絶えなかった。
将軍家は見かけ倒れだった。この一年、自分の持参金をかなり注ぎ込んだのに、こんな結果になるとは。
守はすっかり我慢の限界に達していた。「もういい。話すだけ無駄だ。本来なら一言伝えるだけで十分なんだ。お前が同意しようがしまいが、結果は変わらない」
さくらは彼が冷たく袖を払って去っていく姿を見つめ、心の中でさらに皮肉な思いが募った。
「お嬢様」女中のお珠が傍らで涙を拭いていた。「旦那様のやり方はひどすぎます」
「そんな呼び方はやめなさい!」さくらは彼女を軽く見遣った。「私たちはまだ夫婦の実を結んでいない。あの人はあなたの旦那様じゃないわ。私の持参金リストを持ってきて」
「なぜ持参金リストを?」お珠は尋ねた。
さくらは彼女の額をこつんと叩いた。「馬鹿な子ね。こんな家にまだ居続けるつもりなの?」
宝珠は額を押さえながら呻いた。「でも、この縁談は奥様が取り持たれたものです。侯爵様も生前、お嬢様に嫁いで子を産んでほしいとおっしゃっていました」
母親の話が出て、さくらの目に初めて涙が浮かんだ。
父は側室を持たず、母一人だけを妻とし、6男1女を設けた。兄たちは皆父について戦場に赴き、三年前の邪馬台の戦いで誰一人帰ってこなかった。
武将の家に生まれた彼女は、女の子でありながら幼い頃から武芸を学んだ。七歳の時、父は彼女を梅月山に送り、師について武芸を学ばせ、兵書や戦略論を熟読させた。
十五歳で山を下りた時、父と兄たちが一年前に邪馬台の戦場で命を落としていたことを知った。
母は目が見えなくなるほど泣き続け、彼女を抱きしめてこう言った。「あなたはこれからは都の貴族の娘のように、良い夫を見つけて結婚し、子どもを産んで、安らかな人生を送りなさい。私にはもうあなた一人しか娘がいないのだから」
さくらの心は抉られたようで、痛みのあまり涙さえ流せなかった。
それから一年かけて三従と四徳や、宗家の妻として家を切り盛りする術を学んだ。母を喜ばせたかったのだ。
北平侯爵家の嫡女の夫探しは、彼女の美貌が町一番だったこともあり、求婚者が後を絶たなかった。母は北條守を選んだ。守が母の前で、さくらを妻に迎えられたら決して側室は持たないと誓ったからだった。
しかし半年前、北平侯爵家は一族皆殺しの悲劇に見舞われた。老若男女問わず、使用人まで全員が刀の餌食となり、一人一人が108回も斬られ、遺体はバラバラになっていた。
最年少の甥はまだ2歳半だったのに。三番目の兄の遺児だった。
京都奉行所と御城番が駆けつけ、数人を捕らえたが、平安京の諜報員だと判明した。
前線で戦況が厳しい中、平安京の諜報員があえて正体を明かしてまで侯爵家を滅ぼそうとしたのは、まるで恨みを晴らすかのような残虐な殺し方だった。
知らせを聞いて屋敷に駆けつけたさくらは、祖母と母の八つ裂きにされた遺体を目にした。
屋敷中が血で染まり、全ての人が無惨な最期を遂げていた。
今や、北平侯爵家にはさくら一人しか残っていない。侯爵家の再興など不可能だと、少なくとも外部の人間はそう考えていた。
結局のところ、誰もが彼女をか弱い女性としか見ていなかったのだ。
一方、葉月琴音は違った。彼女は戦功を立て、朝廷初の女将軍となり、太后の賞賛も得ていた。今後は彼女が守を支えることで、守の地位はさらに安定するだろう。だから北條家の人々もこの縁組みに同意したのだ。
第3話
お珠が持参金リストを持ってきて言った。「この一年で、お嬢様が補填なさった現金は六千両以上になります。ですが、店舗や家屋、荘園には手をつけていません。奥様が生前に銀行に預けていた定期預金証書や、不動産の権利書などは全て箱に入れて鍵をかけてあります」
「そう」さくらはリストを見つめた。母が用意してくれた持参金はあまりにも多かった。嫁ぎ先で苦労させまいとの思いが伝わってきて、胸が痛んだ。
お珠は悲しそうに尋ねた。「お嬢様、私たちはどこへ行けばいいのでしょうか?まさか侯爵邸に戻るわけにもいきませんし...梅月山に戻りますか?」
血に染まった屋敷と無残に殺された家族の姿が脳裏をよぎり、さくらの心に鋭い痛みが走った。「どこでもいいわ。ここにいるよりはましよ」
「お嬢様が去れば、あの二人の思う壺です」
さくらは淡々と言った。「そうさせてあげましょう。ここにいても、二人の愛を見せつけられて一生すり減るだけよ。宝珠、今や侯爵家には私一人しか残っていない。私がしっかり生きていかなければ、両親や兄たちの御霊も安らかではないわ」
「お嬢様!」お珠は悲しみに暮れた。彼女は侯爵家で生まれ育った下女で、あの大虐殺で家族も含めて全員が命を落としたのだ。
将軍家を出たら、侯爵邸に戻るのだろうか?でも、あそこであれほど多くの人が亡くなり、どこを見ても心が痛むばかりだ。
「お嬢様、他に方法はないのでしょうか?」
さくらの瞳は深く沈んでいた。「あるわ。父や兄たちの功績を盾に、陛下の御前で勅命の撤回を迫ることもできる。陛下がお許しにならなければ、その場で頭を打ち付けて死んでみせるわ」
お珠は驚いて慌てて跪いた。「お嬢様、そんなことはなさらないでください!」
さくらの目元に鋭い光が宿ったが、すぐに笑みを浮かべた。「私がそんなに馬鹿だと思う?たとえ御前に出たとしても、離縁の勅許を求めるだけよ」
守が琴音を娶るのは勅命による。
なら彼女の離縁も勅許で行う。去るにしても堂々と去りたい。こそこそと、まるで追い出されたかのように去るつもりはない。
侯爵家の財産があれば、一生食いっぱぐれる心配はない。こんな仕打ちを受ける必要などないのだ。
外から声が聞こえた。「奥様、老夫人がお呼びです」
お珠が小声で言った。「老夫人の侍女のお緑さんです。老夫人がお説得なさるつもりでしょう」
さくらは表情を引き締めて立ち上がった。「では、参りましょう」
夕陽が血のように赤く、秋風が肌寒く吹いていた。
将軍邸は先代の天皇が北條家の祖父に下賜したものだ。かつては栄華を誇ったが、今では落ちぶれていた。
北條家の男たちは主に戦場で功を立ててきた。朝廷に仕える者は少なく、守の父親の北條義久も出世できずにいた。叔父の北條剛も京都奉行所の次官に過ぎず、守と長兄の北條正樹だけが軍で頭角を現していたが、この戦に勝つまでは四品の将軍に過ぎなかった。
長男家と次男家は分家せず、依然として将軍邸で同居していた。
分家すれば、さらなる衰退は避けられないからだ。
さくらはお珠を連れて北條家の老夫人の部屋を訪れた。老夫人は顔色が良くなっていて、寝台に半身を起こし、微笑みながらさくらを見つめていた。「来たのね」
部屋には守の長兄正樹とその妻の美奈子、三女の涼子、そして他の側室の子供たちもいた。
次男家の第二老夫人・さよ子も傍らに座っていたが、表情は冷ややかで、軽蔑の色さえ浮かべていた。
「お母様、叔母上、伯父上、姉上」さくらはいつも通りに挨拶をした。
「さくら、こっちにおいで」老夫人はさくらをベッドの前に座らせ、親しげに手を取った。「守が戻ってきたから、これで頼れる人ができたわね。この一年、本当に辛い思いをさせてごめんなさい。あなたの実家にもあんなことがあって、北平侯爵家はあなた一人になってしまった。でも、もう全て終わったのよ」
老夫人は抜け目のない人だった。さりげなく、実家には誰もいなくなり、これからは何かと北條家に頼らざるを得ないことを匂わせていた。
さくらは手を引っ込めると、淡々と言った。「お母様は今日、琴音将軍にお会いになったのですね?」
老夫人は彼女の率直さに一瞬驚いたが、すぐに笑顔を取り戻した。「ええ、会ったわ。粗野な性格で、容姿もあなたには及ばないわ」
さくらは老夫人をじっと見つめた。「それでは、お母様は彼女がお気に召さなかったのですね?」
第4話
老夫人は無理に笑みを浮かべた。「好き嫌いなんて、初対面でわかるものじゃないわ。でも、陛下のご命令なのよ。これからは琴音と守が一緒に軍功を立て、あなたは屋敷を切り盛りする。二人が戦場で勝ち取った恩賞を享受できるのよ。素晴らしいじゃない」
「確かにそうですね」さくらは皮肉っぽく笑った。「琴音将軍が側室になるのは気の毒ですが」
老夫人は笑いながら言った。「何を言うの、お馬鹿さん。陛下のお命令よ。側室になるわけがないでしょう。彼女は朝廷の武将で、官位もある。官位のある人が側室になれるわけないわ。正妻よ、身分に差はないの」
さくらは問いかけた。「身分に差がない?そんな慣習がありましたか?」
老夫人の表情が冷たくなった。「さくら、あなたはいつも分別があったわ。北條家に嫁いだからには、北條家を第一に考えるべきよ。兵部の審査によれば、琴音の今回の功績は守を上回るわ。これから二人が力を合わせ、あなたが内政を支えれば、いつかは守の祖父のような名将になれるわ」
さくらは冷ややかに答えた。「二人が仲睦まじくやっていくなら、私の出る幕はありませんね」
老夫人は不機嫌そうに言った。「何を言うの?あなたは将軍家の家政を任されているでしょう」
さくらは言い返した。「以前は美奈子姉様の体調が優れなかったので、私が一時的に家政を引き受けておりました。今は姉様も回復なさいましたので、これからはは姉様にお任せします。明日に帳簿を確認し、引き継ぎを済ませましょう」
美奈子は慌てて言った。「私にはまだ無理よ。体調も完全には戻っていないし、この一年のあなたの采配は皆満足しているわ。このまま続けてちょうだい」
さくらは唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。皆が満足しているのは、自分がお金を出して補填しているからだろう。
補填したのは主に老夫人の薬代だった。丹治先生の薬は高価で、普通の人では頼めない。月に金百両以上もかかり、この一年で老夫人の薬代だけで千両近くになっていた。
他の家の出費も時々補填していた。例えば、絹織物などは、さくらの実家の商売だったので、四季折々に皆に送って新しい服を作らせていた。それほど痛手ではなかった。
しかし、今は状況が変わった。以前は本気で守と一緒に暮らしたいと思っていたが、今はもう損をするわけにはいかない。
さくらは立ち上がって言った。「では、そのように決めましょう。明日引き継ぎをして、これからは家のことには関与しません」
「待ちなさい!」老夫人は焦って、表情が一気に曇った。「さくら、これじゃ分別がないわ。男というのは誰だって妻妾が多いものよ。これくらいで気を悪くするなんて、世間は狭量で嫉妬深いと言うわよ」
おそらくさくらがこの一年あまりにも従順で、性格も押しが弱く見えたため、彼らは勘違いしていたのだろう。少し厳しい言葉をかければ、彼女を抑え込めると思っていたのだ。
さくらは冷静な表情で、いつもの従順さを一変させて言った。「他人の口は私にはどうしようもありません。彼らが何を言おうと、私には関係ありません」
老夫人は怒りで喉に痰が詰まり、しばらく咳き込んだ。普段なら、さくらが近寄って背中をさすっていただろう。
しかし、さくらはじっと立ったまま動かなかった。夕日の淡い光が彼女の白い顔に当たり、一層美しく、まるで絵の中の人物のように見えた。
「さくら姉様、母上をこんなにお怒らせて」三女の涼子が前に出てきた。少女らしい丸顔で、頬を膨らませてさくらを睨みつけた。「あなたに何の不満があるのよ。もう侯爵家は昔の栄華はないのよ。あなたの父や兄弟、母上もみんないなくなって、あなた一人きりでしょう。まだ名家のお嬢様気取りで意地を張るの?守お兄様に離縁されても構わないの?」
さくらはこの義理の妹を見た。彼女が着ている杏色の着物は、秋に入った時に作らせたものだった。自分の服を着て、自分を責めているなんて、よくできた子だこと。
さくらは冷ややかに言った。「その着物を脱いでから、私に偉そうに言いなさい」
涼子は顔を赤らめて怒った。「この服だってねだって作ってもらったわけじゃないわ。要らないなら要らないで、後で返してあげるわ」
「そう、それと頭の珠飾りも一緒に返してちょうだい」さくらは言い終わると、部屋中を見渡した。第二老夫人のさよ子以外は皆渋い顔をしていた。
「もう用はないでしょうか?では失礼します」さくらはそう言うと、大股で部屋を出て行った。
第5話
北條家の人々は顔を見合わせた。いつも穏やかだったさくらがこれほど強硬な態度を取るとは、誰も予想していなかった。
しかも、母の言葉さえ聞き入れない。
老夫人は冷たく言った。「あの子はそのうち分かるわ。他に選択肢なんてないのだから」
そうだ。今や彼女には頼るべき実家もない。北條家に留まる以外に道はなかった。しかも、北條家は彼女を正妻の座から降ろしてはいない。
翌朝早く、さくらはお珠を連れて北平侯爵邸に戻った。
庭園は寂しげで、落ち葉が積もっていた。
わずか半年の間に人の手が入らず、庭には人の背丈ほどの雑草が生い茂っていた。
侯爵邸に足を踏み入れると、さくらの心は刃物で切られるように痛んだ。
半年前、家族が虐殺されたと聞いて、崩れ落ちるように祖母と母の遺体の前にひれ伏した時のことを思い出した。冷たく硬直した遺体、屋敷中に染み付いた血の跡。
侯爵邸には御霊屋があり、上原家の先祖代々と母の位牌が祀られていた。
さくらとお珠は供物を用意しながら、涙が止まらなかった。
香を立て、さくらは床に跪いて両親の位牌に向かって額づいた。涙で曇った瞳に決意の色が浮かんだ。「お父様、お母様。天国でご覧になっているなら、娘のこれからの決断をどうかお許しください。安らかな生活を送れと言われた通りに嫁ぐことができないのは、北條守が良い人ではなく、一生を託すには値しないからです。でも安心してください。お珠と私は必ず幸せに生きていきます」
お珠も隣で跪き、声を上げて泣いていた。
拝礼を終えると、二人は馬車に乗り込み、宮城へと向かった。
真昼の秋の日差しが照りつける中、さくらとお珠は宮門の前に立ち尽くしていた。まるで木の人形のように動かない。
二時間が経っても、誰も彼女たちを呼び入れようとしなかった。
お珠が悲しげに言った。「お嬢様、陛下はきっとお会いになりたくないのでしょう。賜婚を妨げに来たと思われているのかも。昨夜も今朝も何も召し上がっていないのに、大丈夫ですか?私が何か食べ物を買ってきましょうか?」
「お腹は空いていないわ!」さくらには空腹感など全くなかった。離縁して家に帰るという一つの信念だけが彼女を支えていた。
「自分を追い詰めないでください。体を壊したら元も子もありません」
「もう諦めませんか?正妻の座は守られているんです。北條家の奥方なんですよ。琴音さんが平妻だとしても、所詮は側室のようなものです。我慢してみては?」
さくらは冷たい目で言った。「お珠、そんな意気地のない言葉は二度と言わないで」
お珠はため息をつき、途方に暮れた表情を浮かべた。どうすればいいのだろう?
将軍が帰ってくれば、お嬢様も安心するだろうと思っていたのに、まさかこんな事態になるとは。
御書院で、吉田内侍が三度目の報告をした。「陛下、北條家の奥方がまだ宮門の外で待っております」
清和天皇は書類から目を上げ、眉間をさすった。「朕には会えぬ。勅命は既に下した。撤回などできぬ。帰るよう伝えよ」
「衛士が促しましたが、動こうとしません。二時間以上も同じ場所に立ち続けています」
天皇も心中穏やかではなかった。「北條守が戦功を理由に求めてきたのだ。朕も本心では承諾したくなかったが、断れば彼と葉月将軍の面目が立たぬ。彼らは功績を立てたのだからな」
吉田内侍が言った。「陛下、戦功と言えば、北平侯爵家と佐藤大将の功績には及ぶ者はおりません」
天皇は北平侯爵の上原安瀬のことを思い出した。自分がまだ皇太子だった頃、初めて軍に入った時に彼に導かれたのだ。さくらとも旧知の仲だった。当時彼女はまだ6、7歳の可愛らしい幼子で、白磁のような肌をしていた。
彼も血塗られた道を歩んできた天皇だ。武将の苦労はよくわかっている。だからこそ、北條守の戦功による賜婚の要請を、躊躇しながらも最終的に承諾したのだ。
皇弟の北冥親王以外に、朝廷には頼れる武将がいなかった。平安京との戦いで、佐藤大将の三男は片腕を失い、七男は命を落とした。ただし、これらは秘密にされていた。
しかし、内侍の言う通りだ。戦功で言えば、北條守と葉月琴音は北平侯爵に遠く及ばない。
「よかろう。彼女を通せ。この縁談に同意してくれるなら、望むものは何でも与えよう。位階でも勅命でも構わぬ」
吉田内侍はほっとした様子で言った。「陛下の御英断、さすがでございます!」
第6話
御書院に跪いた上原さくらは、うつむいて瞳を伏せていた。
清和天皇は、北平侯爵家の一族が今や彼女一人になってしまったことを思い出し、憐れみの情を抱いた。「立って話すがよい!」
さくらは両手を組んで頭を下げ、「陛下、妾が今日お目通りを願い出たのは大変僭越ではございますが、陛下のご恩典を賜りたく存じます」
清和天皇は言った。「上原さくら、朕はすでに勅命を下した。撤回することはできぬ」
さくらは小さく首を振った。「陛下に勅命を下し、妾と北條将軍との離縁をお許しいただきたく存じます」
若き帝は驚いた。「離縁だと?お前が離縁を望むのか?」
彼は、さくらが賜婚の勅命撤回を求めに来たのだと思っていたが、まさか離縁の勅命を求めるとは予想もしていなかった。
さくらは涙をこらえながら言った。「陛下、北條将軍と琴音将軍は戦功により賜婚の勅命をお願いいたしました。今日は妾の父と兄の命日でございます。妾も彼らの軍功により、離縁の勅命をお願いしたいのです。どうか陛下のお許しを!」
清和天皇は複雑な表情で尋ねた。「さくら、離縁の後、お前が何に直面するか分かっているのか?」
「さくら」というこの呼び方を、彼女は陛下の口から長らく聞いていなかった。
昔、陛下がまだ皇太子だった頃、時々侯爵邸に父を訪ねて来られた。そのたびに、面白い小さな贈り物を持って来てくれたものだった。
後に彼女が梅月山で師匠について武芸を学ぶようになってからは、もう会うことはなかった。
「承知しております」さくらの美しい顔に笑みが浮かんだが、その笑顔にはどこか皮肉な味わいがあった。「ですが、君子は人の美を成すものです。さくらは君子ではありませんが、北條将軍と琴音将軍の邪魔をして、恩愛の夫婦の間に棘となるようなことはしたくありません」
「さくら、北平侯爵邸にはもう誰もいないぞ。お前はまた侯爵邸に戻るつもりか?将来のことを考えたのか?」
さくらは答えた。「妾は今日、侯爵邸に戻り父と兄に拝礼いたしました。邸はすっかり荒れ果てておりました。妾は侯爵邸に戻って住み、父のために養子を迎えようと思います。そうすれば、父たちの香火が絶えることもありませんから」
清和天皇は彼女が一時の感情で動いているのだと思っていたが、こんなにも周到に考えているとは予想外だった。
「実際のところ、お前は正妻なのだ。葉月琴音がお前の地位を揺るがすことはできない。離縁する必要などないのだぞ」
さくらは顔を上げ、涙を浮かべた瞳で毅然と言った。「陛下、それは何の意味もありません。妾はそのような人生を無駄に過ごしたくありません。今や侯爵家には妾一人だけです。父や兄は一生を正々堂々と、鉄骨錚々と生きてきました。臣女も妥協して惨めに生きたくはありません」
「朕は知っている。お前も北條守のことを好いていたはずだ。本当に諦められるのか?」
好きだった?そこまでではない。ただ、彼女は武将を敬愛していただけだ。それに母が、嫁いで子を産み、安らかな人生を送ってほしいと願ったから、結婚したのだ。
さくらは笑った。絶地に咲く高嶺の花のように。「彼が私を捨てたのなら、私も彼を捨てられます」
彼女の柔らかな顔立ちの下に、強靭な意志が光っていた。それは清和天皇を驚かせた。彼はこのような女性を見たことがなかった。
天皇はやや恍惚となった。記憶の中の、憂いを知らずいつも笑顔だった小さな少女が、嫁いで、そしてすぐに棄てられた妻になろうとしている。
離縁は、世間の目には依然として棄てられた妻だ。特に北條守は公然と賜婚を求めたのだから。
女の道は険しい。彼女はより一層苦難の道を歩むことになるだろう。
これからどうやって縁談を持ちかけられるのか。家には誰一人いないのだから。
そう考えると、侯爵の功績を思い出した。戦場で侯爵は彼を救い、彼も侯爵を救った。戦友としての情が、この少女への憐れみをさらに強くした。
清和天皇は言った。「朕は許可しよう。帰るがよい。数日のうちに、離縁の勅命を将軍邸に下すであろう」
さくらはほっとして頭を下げた。「さくらは、陛下の御恩に感謝いたします」
清和天皇は彼女を見つめ、かつての六、七歳の可愛らしい幼子を思い出した。心が急に和らいだ。「さくら、これからもし誰かにいじめられたら、遠慮なく宮中に来て朕を頼るがよい」
「臣女、恐れ入ります」さくらは再び頭を下げた。
第7話
さくらが去った後、吉田内侍が外から急ぎ足で入ってきた。「陛下、上皇后様がお呼びです。お時間があればお越しくださいとのことです」
清和天皇はため息をつき、「おそらくさくらのことで心配されているのだろう。参内しよう」
長寿宮では牡丹が咲き誇り、その華やかさと香りは宮中を包み込んでいた。
宮壁を這う薔薇も、息をのむほどの美しさで花開いていた。
太后は正殿の黄楊の円座椅子に座り、紫紅色の薄絹の上着を纏い、髪に白玉の簪を挿していた。その表情には疲れが滲んでいた。
「母上、参上いたしました」清和天皇は前に進み、礼を取った。
太后は息子を見つめ、左右の者を下がらせてから溜息をついた。「あなたのあの賜婚の勅命は、本当に賢明とは言えませんね。上原侯爵に対して申し訳ないだけでなく、天下の臣民に悪しき先例を示すことになりましたよ」
太后の声は次第に厳しくなっていった。「我が国には法があります。朝廷の官員は結婚して五年以内は側室を迎えてはならないと。五年というのはすでに短すぎる期間です。私に言わせれば、四十を過ぎても子がない場合を除いて、側室など持つべきではありません。今回、陛下が公然と葉月琴音を平妻として賜婚したのは、皆に先例を作ってしまったのです。これでは女性の生きる道がなくなってしまいます」
「北條守は結婚式の日に出陣し、さくらとの初夜さえ済ませていないのに、もう平妻を迎えるとは。陛下、あなたはさくらを死に追いやるおつもりですか?」
太后は言い終わると、涙をぽろぽろとこぼした。「可哀想に、上原家にはもう彼女一人しか残っていないというのに、こんな目に遭わせるなんて」
太后がこれほど悲しんでいるのは、さくらの母と親友だったからだ。さくらは幼い頃から太后の目の前で育ってきたのだった。
清和天皇は母の涙を見て、その前に跪いて申し訳なさそうに言った。「母上、私の考えが及ばず申し訳ありません。あの時、北條守が城門で敵軍撃退の功績を持って公然と賜婚を求めてきたのです。不適切だと分かっていましたが、他に何も求めず褒美も要らないと言うのです。私が許さなければ、彼の面目が立たなくなってしまうと」
太后は怒って言った。「彼の面目が立たないからと言って、さくらを犠牲にするのですか?上原家の犠牲はもう十分ではありませんか?この一年、彼女がどれほど辛い思いをしてきたか、あなたは分かっていないのですか?」
清和天皇も心を痛めていたが、言わざるを得なかった。「母上、北條守はもう心変わりしてしまったのです。葉月琴音を迎えられなくても、もはやさくらを真心で遇することはないでしょう。先ほど、さくらが儂の前に来て離縁の勅命を求めてきました。私は許可しました」
太后の眉と目が激しく震えた。「何ですって?あの馬鹿な子、どうして離縁なんて…離縁した後、彼女はどこへ行くというのですか?」
「侯爵邸に戻り、父のために養子を迎えると言っていました」
太后は何度もため息をついた。「侯爵邸にまだ戻れるのかしら?あの子は親族の遺体が転がる様子を見たのよ。あんな場所に住んで、毎晩悪夢に悩まされないかしら?」
太后は心痛めて言った。「宮中に入ったのなら、どうして私に会いに来なかったの?私が彼女のために取り計らって、葉月琴音を押さえつける方法を教えてあげられたのに。離縁なんてする必要はなかったのに。北條守は軍功を立てたのだから、位を求めれば、さくらは一生華やかで裕福に暮らせたはずよ。なぜこんな辛い道を選んだの?」
「母上、彼女の決意は固いのです。二人に人生を無駄にされたくないと。母上、お考えください。彼女の心に北條守がいるのなら、毎日彼が他の女性と睦まじくしているのを見て、どうやって暮らしていけるでしょうか?」
この言葉は太后の痛いところを突いた。
彼女は先帝を愛していたが、先帝が最も愛したのは淑貴妃だった。もちろん、後の寧妃や萬貴妃たちもいた。
太后の顔色が青ざめた。「女の一生というのは、こんなにも辛いものなんですね。葉月琴音は女将軍として、私も彼女を褒めたことがありました。女性の地位を高めてくれると思っていたのに。まさか、力を得た途端に真っ先に踏みつけるのが女性だったとは。私は彼女にとても失望しました」
清和天皇の表情も良くなかった。北條守と葉月琴音に深く失望していたが、彼らが辺境の反乱を鎮めたばかりだったので、あまり厳しく叱責するわけにもいかず、ただ宮中に呼んで諭すしかなかった。
第8話
翌日、北條守は勅命を受けて宮中に入った。彼は今や朝廷の新進気鋭の将軍。すぐに陛下に拝謁できるものと思っていた。
だが、御書院の外で丸一時間も待たされた末、吉田内侍がようやく出てきて言った。「北條将軍、陛下はただ今ご多忙とのこと。一度お戻りになり、後日改めてお召しするそうです」
守は唖然とした。これほど長く待たされたというのに、大臣の出入りも見なかった。陛下が朝臣と政務を協議していたわけではないようだ。
彼は尋ねた。「吉田殿、陛下が私を呼び出された理由をご存じありませんか?」
吉田内侍は微笑みながら答えた。「大将軍、それは存じ上げません」
守は不可解に思いながらも、陛下に直接問うわけにもいかず、「吉田殿、私が何か過ちを犯したのでしょうか?」と尋ねた。
吉田内侍は相変わらず笑みを浮かべたまま答えた。「大将軍は凱旋されたばかり。功績はあれど過ちなどありませんよ」
「では、陛下は…」
吉田内侍は腰を曲げ、「大将軍、お帰りください」
守がさらに問おうとしたが、吉田内侍はすでに石段を上がっていた。彼は不安を抱えたまま立ち去るしかなかった。
祝宴で陛下は彼と琴音を大いに褒めたというのに、たった一日で態度がこれほど冷たくなるとは。
彼が宮門で馬を引こうとしたとき、正陽門を守る衛士たちの私語が聞こえてきた。「昨日、大将軍の奥方が来られたそうだ。今日は大将軍本人が。もしかして賜婚の件で何か変わったのかな?」
「馬鹿なことを。陛下が臣下と民の前で許可なさったのだ。変わるはずがない」
守の眉間にしわが寄った。足早に戻ってきて尋ねた。「昨日、私の妻が宮中に?」
二人の衛士は躊躇いがちに頷いた。「はい。ここで一時間ほど待たれ、その後陛下にお会いになりました」
守は昨日一日中葉月家にいて、さくらの行方を知らなかった。まさか彼女が宮中に入っていたとは。
なるほど、今日の陛下の態度が一変したわけだ。さくらが宮中に入り、賜婚の勅命撤回を求めたのだ。なんと狡猾な!
琴音が昨日さくらのために弁解していたのに。不満を抱くのは当然だと。女の心は狭いものだと。さくらを責められない、と。
守は馬を走らせて屋敷に戻り、馬から降りるや門番に鞭を投げ、文月館へと直行した。
「さくら!」
お珠はこの怒鳴り声に驚き、急いでさくらの前に立ちはだかった。慌てふためいた様子で守を見つめ、「将…将軍様、何をするつもりですか?」
「お珠」さくらは穏やかに言った。「下がりなさい」
お珠はさくらの言葉を聞いて横に退いたが、まるで小さな虎のように警戒を解かなかった。
守はさくらを見た。彼女は静かに椅子に座っていた。彼女が宮中で陛下に勅命撤回を求めたと思うと、わずかに残っていた後ろめたさも消え失せた。
彼の冷たい視線がさくらの黒く静かな瞳と合った。「お前、陛下の前で泣き言を言って、賜婚の勅命撤回を求めたな?」
さくらは首を振った。「違います」
「違う?」
彼は皮肉っぽく言った。端正な顔に軽蔑の色が浮かんでいる。「やったことを認められないなんて、武家の娘のすることじゃないぞ。さくら、お前は本当に偽善者だ」
さくらは目の前の怒れる男を見つめた。彼女には彼がまるで見知らぬ人のように思えた。心の底まで冷え切るほどに。
これが自分の知っている北條守なのかと疑うほどだった。あるいは、彼女は本当の彼を知ることなど一度もなかったのかもしれない。
守はさくらが黙っているのを見て、それを罪の意識のせいだと思い込み、目に怒りの炎を燃やしながら言った。「何か言えよ。陛下に他に何を言った?陛下はお前の願いを聞き入れて、勅命を撤回すると約束したのか?」
さくらは目を伏せて言った。「陛下は承諾なさいませんでした。あなたたちの婚儀は予定通り執り行われます」
第9話
北條守はほっとしたものの、依然として冷たい口調で言った。「これは俺が戦功で願い出たことだ。もし陛下が本当に勅命を撤回すれば、必ず将兵の士気を挫くことになる。だが、今日陛下が俺を召したのに会わなかったのは、おそらくお前が不満を訴えたせいだろう。さくら、お前を咎めはしない。だが、俺はお前に対して十分仁義を尽くしてきたつもりだ」
「おとなしくしていて、もう騒ぎを起こさないでくれ。俺が琴音と結婚した後、お前にも子供を持たせてやる。お前の後半生の頼りにもなるだろう」
さくらは目を伏せ、淡々と命じた。「お珠、お客様をお送りなさい」
お珠が前に出て、「将軍様、お帰りください」
守は袖を払って出て行った。
さくらがまだ何も言わないうちに、お珠の涙がまるで糸の切れた数珠のように止めどなく流れ落ちた。
さくらは近寄って慰めた。「どうしたの?」
「お嬢様のために悔しいんです。お嬢様は悔しくないんですか?」お珠は鼻声で尋ねた。
さくらは笑って言った。「悔しいわ。でも泣いたところで何が解決するの?これからどうやって私たち二人でもっと良い暮らしをするか考えた方がいいわ。私たち上原家に弱い者なんていないのよ」
お珠はハンカチで涙を拭き、口をアヒルのように尖らせた。「どうしてみんながお嬢様をいじめるんでしょう?お嬢様は将軍家の人たちにこんなに良くしてあげたのに」
「今の彼らの目には、私は重要じゃないからよ」さくらは笑いながら言った。実際、彼女はずっと重要ではなかった。重要だったのは彼女が持ってきた持参金だけだった。
お珠の涙はさらに激しく流れた。彼女の心の中では、お嬢様が一番大切だったから。
「もういいわ、泣かないで。やるべきことをやりなさい。人生は続いていくんだから」さくらはお珠の頬を軽くつついた。「行きなさい!」
「お嬢様」お珠は一生懸命涙を拭きながら言った。「あの時、お嬢様と一緒に嫁いできた人たち、みんな連れて行くんですか?」
「彼らの身分証は私が持っているわ。私が去ったら、琴音が彼らを優しく扱うとは思えない。だから私と一緒に行く方がいいでしょう」
嫁いだ時、母は梅田ばあやと黄瀬ばあやを付き添わせ、さらに4人の下男と4人の下女を付けてくれた。
この1年、老夫人が重病だったため、さくらが将軍家を取り仕切っていた。そのため、嫁入りの時に連れてきた人々は皆、屋敷の要職に就いていた。一つには将軍家の人手不足を考慮してのことだった。舅と守の俸給は高くなく、他に生計を立てる事業もしていなかったので、屋敷ではこれほど多くの人を養うことができなかったのだ。
二つ目の理由は、自分の人を使えば心配が少なくて済み、威厳を示して従わせる必要もないと考えたからだ。老夫人の体調が優れないので、さくらも看病に時間を割くことができた。
嫁入りの時に持ってきた持参金も、かなり補填に使った。姑の病気の薬はとても高価で、屋敷の維持が難しかった。
ただし、使ったのは商店の利益と家賃収入、それに田畑や荘園からの一部の収穫だけだった。
翌日、さくらはいつもと変わらず老夫人の看病に向かった。
ただし、今日は丹治先生が来るからだった。
老夫人はさくらが来るのを見て、彼女が納得したのだと思い安堵した。「琴音も後で来るわ。顔を合わせて。これからは姉妹なんだから、仲良く暮らしていきなさい」
さくらは答えず、ただ丹治先生を待っていた。先生が処方箋を書き終えると、さくらは言った。「丹治伯父様、お送りします」
「ああ、私もちょうど君に話したいことがあるんだ」丹治先生は弟子に薬箱を持たせ、老夫人に一言も告げずにさくらと一緒に出て行った。
回廊を歩きながら、丹治先生は言った。「バカ娘よ、この家の人たちは心が良くない。君がこんなに尽くす価値はないよ。これからは私を呼びに人を寄越さなくていい。もう来ないつもりだ」
さくらは答えた。「丹治伯父様、わかりました。もう人を寄越しません。私は離縁を決意しました」
丹治先生はようやく笑顔を見せた。「よくやった。これこそ上原家の娘らしい決断だ。私は彼らの金など要らん。昔から君のためでなければ、あの人の病気なんか診なかったよ」
丹治先生は多くの人を見てきた。あの老夫人が欲深い人間だということは一目でわかっていた。
第10話
丹治先生を見送った後、さくらは文月館に戻った。しばらくすると、守が琴音を連れてやってきた。
さくらは小さな書斎で今月の屋敷の帳簿を整理していた。二人が入ってくるのを見て、彼女の目は彼らの絡み合う指に釘付けになった。
小さな金の香炉から静かな沈香が立ち昇る中、さくらは深呼吸をして心を落ち着かせた。よし、ここではっきりさせよう。
お珠を下がらせてから、さくらは言った。「お二人とも、どうぞお座りください」
琴音は女性らしい装いに戻っていた。緋色の袴には金の蝶が刺繍されている。座ると、袴の裾が落ち、その蝶も静止したかのようだった。
琴音は美人というわけではないが、凛とした気品を漂わせていた。
「上原さん」琴音が先に口を開いた。さくらをまっすぐ見つめる。軍中で鍛えられた彼女は、自分の威厳でさくらを萎縮させられると思っていたが、さくらの澄んだ瞳は少しも逸らさず、むしろ琴音の方が驚いたようだった。
「将軍、何かおっしゃりたいことが?」さくらは言った。
「私に会いたいと聞きました。一つだけ聞きましょう。私と平和に暮らせますか?」琴音の口調は厳しかった。「正直に答えてください。演技は通用しません。可哀想ぶるのは男には効くかもしれませんが、私には効きませんよ」
さくらは静かに答えた。「上皇后様は琴音将軍を天下の女性の鑑とおっしゃいました。では、お聞きしますが、私には平和に暮らす以外に選択肢があるのでしょうか?」
「話をそらさないで」琴音は冷たく言った。「選択肢があるかどうかはあなたの問題です」
さくらは思わず笑みを浮かべた。その笑顔は比類なき美しさで、琴音の心に何とも言えない不快感を生んだ。
「もちろん、あなたと平和に暮らしたいです」さくらは二人を見つめて言った。
離縁すれば、彼らとはもう関わりも憎しみもない。平和に暮らしたいと思う。ただ、その機会がないだけだ。
琴音は不機嫌そうに言った。「嘘をつくなと言ったでしょう。本当のことを言っているのか嘘をついているのか、私にはわかります。そうでなければ、宮中に行って陛下に勅命の撤回を求めたりしないはずです。でも、陛下があなたの言うことを聞くわけがありません。可哀想な振りをして陛下を惑わせられると思ったんですか?」
さくらの目が冷たく光った。「琴音将軍、言葉に気をつけてください」
さくらの突然の厳しい表情に、琴音は少し驚いた。
さくらの美しい顔に厳しさが満ちていた。「誰もが将軍のように戦場を駆け巡る勇気と才能があるわけではありません。将軍のような人でなければ、みんな演技をしているということですか?」
彼女は守を見て、静かな声で言った。「あなたについては、あの日求婚に来た時、母に約束しましたね。私一人だけを妻とし、側室は迎えないと。今はあなたが約束を破ったのです。まるで私があなたたちの邪魔をしているかのようにしないでください」
琴音は冷笑して守を見た。「へえ、そんなことを言ったの?それなら、私こそがあなたたち夫婦の間に割り込んだ余計者ということになるわね」
守は琴音の手を取り、さくらを見つめた。少し苛立っているようだった。「あの日言ったよね。当時は恋愛が何かわからなかった。琴音に会うまでは。軽々しく約束して守れなかったのは確かに間違いだった。でも今は琴音しか心にいない。君を傷つけるつもりはないんだ。君は依然として北條家の奥方だ。これからは俺たち二人は軍務で留守にすることが多くなる。俺と琴音の子供は君に育ててもらえばいい。そうすれば君の地位も安泰だ」
さくらの表情が微かに変わった。「何ですって?これからあなたたちの子供を育てろと?」
守は言った。「君が自分の子供が欲しいなら、それもいい。俺が君と一人息子か娘を儲けよう。ただし、それ以降は…」
彼もこの言葉がさくらを傷つけることは分かっていた。しかし、愛する人が目の前にいるため、歯を食いしばって言った。「君が妊娠したら、もう同衾はしない」
さくらは琴音を見て尋ねた。「あなたは?あなたもこれでいいのですか?」。