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離婚後、恋の始まり
1年前、小松里香は記憶を失った男性を道端で見つけ、自宅に連れて帰った。 広い肩幅と長い脚を持ち、ホストになれば一晩で10万元も稼げそうなル...
Chương (1)
第1章
第1話
「いつ彼女と離婚するの?」
個室の中で、女の子は愛情に満ちた瞳で目の前の男性を見つめていた。
小松里香は個室の外に立っていて、手足が冷えている。その女の子と同じく、小松里香は男の美しく厳しい顔を見つめ、顔色は青ざめている。
男は彼女の夫、二宮雅之である。
口がきけない雅之は、このクラブでウェイターとして働いている。里香は今日仕事を終えて一緒に帰るために早めにやって来たが、こんな場面に遭遇するとは予想していなかった。
普段はウェイターの制服を着てここで働いている彼が、今ではスーツと革靴を履き、髪を短く整え、凛とした冷たい表情を浮かべている。
男は薄い唇を軽く開き、低くて心地よい声を発した。「できるだけ早く彼女に話すよ」
里香は目を閉じ、背を向けた。
話せるんだ。
しかもこんな素敵な声だったなんて。
それにしても、やっと聞けた彼の最初の言葉が離婚だったなんて、予想外でした。
人違いだったのかと里香は少し茫然自失していた。
あの上品でクールな男性が、雅之だなんて、あり得ない。
雅之が離婚を切り出すはずがない。
クラブを出たとき、外は雨が降っていた。すぐに濡れてしまい、里香は携帯を取り出し、夫の番号にダイヤルしてみた。
個室の窓まで歩いて行き、雨でかすんだ視野を通して中を覗いた。
雅之は眉を寄せながら携帯を手に取り、無表情で通話を切ってから、メッセージを打ち始めた。
メッセージがすぐに届いた。
「どうして電話をかけてきたの?僕が話さないこと、忘れてたの?」
里香はメッセージを見つめ、まるでナイフで刺されたかのように心臓が痛くなってきた。
なぜ嘘をつく?
いつ喋れるようになったのか?
あの女の子とは、いつ知り合ったんだろう?
いつ離婚することを決めたんだろう?
胸に湧い上がる無数の疑問を今すぐぶちまけたいと思ったが、彼の冷たい表情に怖じけづいて、できなった。
1年前、記憶喪失で口がきけない雅之を家に連れて帰った時、彼は自分の名前の書き方だけを覚えていて、他のすべてを忘れていた。
そんな雅之に読み書きから手話まで一から教え、さらに人を愛することさえ学ばせたのは小松里香だった。
その後、二人は結婚した。
習慣が身につくには21日かかると言われているが、1年間一緒にいると、雅之という男の存在にも、自分への優しい笑顔にもすっかり慣れてきた。
だからこれはきっと嘘に違いない、雅之は離婚を切り出すはずがないと信じていた。
雨に濡れて家に帰ると、里香はお風呂に入り、雅之のために料理を用意して、食卓で静かに待っていた。
時計が夜の10時を指したとき、ドアが開き、寒気をまとった雅之が家に入ってきた。
雅之はすでにウェイターの制服に着替えていた。
理由もなく心が痛くなった。
日中に見た男の姿が幻なのかどうかわからなかった。
「里香、どうしたの?」
顔が青ざめ、ぼんやりとした表情の妻を見た雅之は、心配そうに手話で尋ねた。
彼の端正な顔立ちには不安がにじみ、暗い瞳には焦りが宿っていたが、
里香の頭の中に浮かんでいたのは、冷たい目でメッセージを打ち込みながら、別の女性と楽しそうに会話している夫の姿だった。
なんて皮肉なものだ。
「香水の匂いがするよ、他の女性の」 里香は彼に触れられるのを避けながら言葉を発した。
雅之の顔色が一変し、手話で答えた。「今日、個室で接客した際、お客様の香水の匂いがついたかもしれない。すぐにシャワーを浴びてくるね。」
雅之が立ち上がってトイレに行くと、すぐに水の流れる音が聞こえてきた。
緊張しながら説明する様子は、嘘くさく見えなかった。
里香は立ち上がり、そのまま浴室に入って、濡れた身体を気にすることなく雅之を抱きしめ、目を閉じた。「今日、クラブに行ってきたの」
男は動きを止め、しばらくしてから「もうわかったんだろう」とため息をついた。
第2話
あの時に聞こえた彼の声は、音楽と混ざり合っていて、それほど鮮明ではなかった。
それなのに、今の彼の低い声は里香の頭の上で鳴り響いている。その鮮明で心に響く声に、里香は息を呑むほど胸が痛んだ。
雅之は話せるようになったが、彼はすぐにこのことを伝えてくれるどころか、離婚を切り出そうとしている。
それは本当なのだろうか。
なぜそんなことを言うのだろう。
どうして離婚なんて言い出すの?
そう質問したい気持ちでいっぱいだったが、我慢した。
どうして離婚しなければならないのか。
この1年間、彼に対して悪いことをした覚えは一度もないのに、離婚を切り出されるのなら、せめて理由を知りたい。
心は冷たく感じるが、彼の体温に恋しい里香は、もっと強く夫の体を抱きしめた。
「ええ、誰かと話しているのが聞こえたけど、何を話していたかはわからなかった。本当に素敵だったよ、まさくんの声」
そう言いながら、彼の背中にキスをした。
まさくん。
その呼び方は、二人だけのプライベートな時に使う特別なものだ。
そう呼ばれるたびに、雅之はさらに情熱的に応えてくれる。
しかし、今夜は違った。里香は押し戻されてしまった。
「疲れた」と雅之が言った。
里香は顔を青ざめ、夫の立派な背中を見つめながら、突然怒りが湧き上がってきた。「だから欲しいって言ってるの。雅之は私の夫でしょう?夫としての責任をちゃんと果たすべきじゃないの?」
疲れたと言っていたが、まさか他の女と寝たからではないだろうね?
今すぐ確認しなければ!
突然強気になった里香に驚いたのか、里香の柔らかい指が体中を這うと、雅之の息はますます荒くなっていった。
体は正直なもので、この男はいつも里香の誘惑に弱い。
黒い瞳の中に暗い色がちらりと光り、雅之は里香の顎をつかみ、唇を奪った。
里香は無意識のうちに目を閉じ、まつ毛をかすかに震わせた。さっきの香水の匂い以外に、彼の身体からは他の匂いはしなくなっていた。
里香は緊張した体をリラックスさせ、すぐに浴室の温度が上がった。
彼の熱い体が彼女を包み込み、肩にキスを落とし、低く囁いた。
「里香ちゃん、僕は...」
里香は夫の言葉を遮るように、「もう疲れちゃった、寝るわ」と言って手を伸ばして照明を消した。
何を言おうとしているのか?
離婚したいとか?
そんなの頷くわけないでしょ!
1年間もかかって、誰よりも早く雅之に惚れてしまったのに、雅之が話せるようになった途端に離婚なんて、そんなの誰が許せるものか!
そんなひどいことを許せない!
暗闇の中で、里香の横顔を見つめ、雅之はため息をつきながら彼女を抱きしめて深い眠りについた。
翌日。
里香が目を覚ましたとき、雅之はそばにいなかった。パニックになった里香は急いでベッドから飛び出し、周りを探し始めた。
彼らの住んでいる家は小さな2LDKであり、彼女が一生懸命働いて得たお金で買ったものだ。彼と結婚してから、この家も暖かくなってきた。
里香は、これからも雅之と幸せに暮らしていけると信じていた。彼はとても優秀で、何をやっても一度学べばすぐにできる。いつか必ず大金を稼いで大きな家に住むように頑張りましょうと言った里香に、雅之は真剣に頷いて約束してくれた。
約束も果たせず、彼を手放すわけにはいかない!
部屋の中でむやみに探し回り、里香の顔がますます青くなった時、ドアが開き、雅之が朝食を持って入ってきた。
雅之の姿を見た瞬間、里香はすぐに駆け寄り、彼が逃げることを恐れるかのように、ぎゅっと抱きしめた。
「何が起こったのか?」雅之は驚いたように問いかけた。
里香は顔を上げ、夫の漆黒の瞳を見つめた。
「ずっと一緒にいてくれるよね、そうだよね?」
雅之は黙り込んだ。
第3話
里香は彼を見て、「なんか言ってよ!」と話しかけると、
雅之は「まずご飯を」としか言わず、
里香を押しのけてテーブルに向かい、朝食を置いた。
里香の心がさらに沈んでいった。夫の背中を見つめる目には絶望が満ちていた。
離婚を言い出そうとした夫を止めたが、
雅之の態度は明らかだった。
雅之は彼女を遠ざけ、偽りの約束すらもしてくれなかった。
昔の彼はこんなじゃなかったのに!
あの頃の雅之はいつも里香の後ろをついて、彼女の行くところならどこへでもついて行き、どうしても離れなかった。
その後、里香は雅之を引き取ることを決め、手話の読み方と学び方を教え始めた。雅之が自分を見つめる目は、ますます熱を帯びていった。
里香が何をしても、雅之の目線は必ず彼女に向けられていた。
まるで、彼女は彼の全世界のようだった。
「まだおはようのキスをもらってないよ」
里香は歩み寄って言い出した。これは二人が付き合った後の約束だった。
「まず朝食を食べて、あとで話したい事があるんだ」雅之は豆乳を里香の前に押し出した。
里香はこぶしを握り締めた。「食べないなら、何も言わないつもりなの?」
雅之は黒い瞳で里香を見つめていた。「もう聞いたんだろう」
昨日クラブの個室での話なのだろう。
里香は目を閉じて、「どうして?」と聞いた。
何度も何度も耐えてきたとしても、全てが明らかになった今、もう自分を欺くことができなかった。
雅之は、「彼女が大切だから、ちゃんと責任をとらなきゃ」と答えた。
「じゃ、わたしは?」
雅之に視線を向け、里香は無理矢理に笑った。「この一年間は何なんだ」
何かを思いついたかのように、里香は雅之の前に歩み寄った。「記憶、取り戻したんだろう? 自分が誰なのかを」
「そうだよ」
雅之は頷いた。「里香ちゃん、この一年間そばにいてくれてありがとう。ちゃんと償うから、欲しいものがあったら何でも言っていい。全部満足してあげる」
「離婚したくない」
里香は雅之を見つめて、はっきりと言葉を発した。
雅之の男前の顔には冷たさを浮かべていた。「離婚しないといけない」
一瞬、雅之からは有無を言わせないような冷たい雰囲気が漂っていた。
こんな雅之の顔、これまで見たことがなかった。
里香は雅之と目を合わせながら、手のひらに爪を立てた。「無理だよ」
償うだと?
この一年間の努力と愛、どうやって償ってくれるつもりなのか?
雅之は眉を顰め、少し焦っているようだった。「里香ちゃん、このままだと誰にとってもいいことではない!」
里香は何も言わずに食卓に座り、朝食を食べ始めた。
どうせ彼女は絶対離婚しないから。
雅之は複雑な目で里香を見ていた。この一年間の思い出がまだ頭の中に残っていて、思い出したくはなかったが、彼女を見るたびに、その思い出が飛び出してきて、彼を動揺させた。
彼は立ち上がり、「離婚届は後で送らせてもらう。条件は好きに言ってください」
それだけ冷たく言い放ち、すぐに立ち去った。
ガチャン!
隣の椅子を横に蹴飛ばし、里香は丸い瞳が水のような光を輝き、唇を噛んだ。
最低な男だ!
雅之はこんな最低の男だったなんて!
必死に怒りを抑え、里香は何度か深呼吸し、目付きもしかっりしてきた。
離婚届はすぐに届いた。食事を終えて仕事に行こうとすると、スーツ姿の男が玄関先にやってきて、離婚届を手渡してくれた。
里香は目もくれずにそれを取り上げて引き千切った。
「離婚なんて、絶対無理だ!」
それだけ言って、里香は相手の顔色も気にせず会社に向かった。
第4話
オフィスに自分の席に着いたとたん、同僚が近づいてきた。「ねえ、聞いた?うちが買収されるって話だよ。買収するのは失踪していた二宮家の三代目若旦那で、名前は二宮雅之っていうらしいよ」
里香は固まった。「何だって?」
「二宮雅之さんだよ。写真を見たわよ、超イケメンだったわ。一年くらい姿を消していて、最近になって二宮家に戻ってきたみたい。戻ってきてからは、すぐに支店の大規模な改革に取り掛かっているの。それで、うちの会社も買収されたわけよ。あら、こんなイケメンの上司が現れるなんて、まるで夢みたい」
里香はスマホを取り出すと、トップニュースで一年間行方不明だった二宮家の三男、二宮雅之が帰ってきたと報じられていた。
写真に写っている男性は黒いスーツを着こなし、短く切りそろえた髪型、ハンサムな顔立ち、鋭い目つき、そして冷たさと凛々しさを兼ね備えた気質が溢れ出ている。
まさか、雅之が冬木市の大富豪、二宮家の御曹司だったなんて。
里香は一瞬、言葉にできないほどの感情で胸が満たされた。
皮肉しか思えなかった。
夫が大きな部屋を買える御曹司なのだから、喜ぶべきだったのに、
夫から離婚を切り出されたばかりの彼女には、喜ぶ余裕などなかった。
他の女のために、責任を取るなんて。
冗談じゃない!
里香はスマホを強く握り締め、目には涙が溢れた。
「会議だ。全員、大会議室で集合しろ」
マネージャーが姿を現し、大きな声で指示した後、全員が手帳を持って大会議室へ向かった。
500人を収容できる巨大な会議室は少し騒がしかったが、誰かが手を叩く音と共に、徐々に静けさが訪れた。
「二宮社長のご登場です。皆さん、社長を大いに歓迎しましょう!」
マネジャーが興奮気味に言葉を投げかけたその時、会議室のドアが開き、黒いスーツを身にまとった上品な男性が颯爽と入室した。
後ろの席に座っていた里香は、まるで生まれ変わったかのように変貌したあの男を見て、まったく知らない誰かを眺めているような気がした。
男は冷たい目つきで、温度を感じさせないほどの低い声で話した。入社したばかりなのに、早速頭がくらくらするほどの様々な命令を出した。
三時間以上続いた会議が終わり、社員たちが次々と会議室から出ると、里香も立ち上がって会議室を出ようとした。
男を無視することにした。
「ちょっと待った」
その時、後ろから男の低い声が聞こえた。
里香は足を止め、振り返って雅之のほうを見て、少しだけ唇をすぼめた。「社長、何のご用ですか?」
その態度は、昨夜肌を合わせたことがなかったかのように、冷淡だった。
雅之は書類を手に持ち、暗い目で彼女を見て、「オフィスに来なさい」と言って、
先に立ち去った。
里香は少し深呼吸して、彼のあとをついて行った。
オフィスのドアが閉まると、雅之は顔を顰めて彼女を見ていた。「どうして離婚届を破ったのか?」
里香は彼を見つめ、「まだおめでとうって言わなかったね、社長」と、
少し皮肉を帯びた口調で返した。
雅之はおそらくかなり前から記憶を取り戻していたに違いない。そうでなければ、二宮家に戻ったばかりで、こんなにすぐに仕事に取りかかることはできなかっただろう。
雅之は自分に嘘をついた。
厳密に言うと、自分は騙されていた。
雅之は一瞬表情を凍らせ、里香を見つめた。「里香ちゃん、僕たち揉めたことは一度もないし、仲良く別れてくれない?」
「嫌だね!」
里香は突然怒り出し、涙を抑えきれなくなった。「まさかあなたがこんな最低な男だったなんて思いもしなかった。 いつ記憶を取り戻したの? いつから話せるようになったの? 妻として、あなたの一番身近な人間である私が、まんまと騙されていたなんて!」
第5話
雅之は自分のことを何だと思っているの?
心臓が引き裂かれるように痛くなり、息も苦しくなった。
里香の目に涙が浮かんでいるのを見て、雅之は目が暗くなったが、表情が一層冷たくなった。「僕には事情があるんだ。君を守るために、あえて言わないようにしただけ」
「ふう」
里香は冷たく笑い、涙を我慢しながら、口調も冷たくなった。「言っとくけど、私、離婚なんて絶対しないから、諦めろ」
里香は振り返ってそのまま立ち去った。
「クビになりたくはないだろう?」
後ろから、男の冷たい声が伝わってきた。「家族もいなし、ようやくこの町で暮らせるようになった君にとっては、この仕事はかなり重要なはずだ」
里香はムカッとして彼に視線を向けた。「何をするつもり?」
「離婚届にサインしてくれたら、前回の約束をきちんと守るから」
これは、れっきとした脅しだ。
里香は怒りで手が震えていた。もし二人の距離が近かったら、彼の顔を殴りたかっただろう。
「二宮雅之、恥を知れ!」
どうしてあっという間にこうなったのか?
それとも、雅之がもともとそんなに冷たい人で、これまではただの偽りだったのだろうか?
雅之はさりげなくハンカチを取り出し、彼女のそばへ近寄り、優しく彼女の目尻の涙を拭き取った。
里香はぱっと彼の手を叩き落し、悔しさが満ちていた目で雅之を睨んだ。「できるものならやってみろ!」
離婚だと?
そんなのありえない!
里香は踵を返して立ち去り、オフィスを出る頃にはもう落ち着きを取り戻した。
雅之は上げた手を凍りつかせ、ハンサムな顔を引き締めた。
そして手を伸ばし、デスクのインターホンを押した。「人事部に繋がって…」
言葉の途中で、里香が辛抱強く彼に手話と識字を教えてくれた光景が頭に浮かんだ。
すると話が詰まった。
「社長、何でございましょう?」
秘書の用心深い声がインターホンから聞こえた。
「何でもない」
雅之は少しイライラした様子で電話を切った。
…
社長に呼び出されてどうしたのと同僚に聞かれたが、里香は笑顔でごまかした。
席に戻ると、次に何をすべきかとじっくり考え始めた。
もし雅之に離婚を迫られたら、二人の関係を公表し、雅之が自分の夫であることをみんなに知らせて大騒ぎするつもりだ。そうすれば、離婚は成立しないはずだ。
里香は呆然としたまま、何を考えているんだろうと気づき、すぐに自嘲するかのように笑った。
雅之は心変わりしたんだ。
彼にはもう好きな人が他にできたんだから、そんなことしても何の意味があるの?
結局のところ、自分が悔しかっただけだった。どうして勝手に心変わりができるのか?一生一人だけを愛し続けることは、そんなに難しいことなのだろうか?
「小松さん、ちょっといい?」
午後、里香は社長の特別秘書の桜井正志に呼び止められた。
里香は立ち上がって向こうに行くと、桜井は「お客様にネックレスをプレゼントしたいんだけど、小松さんは目利きだから、選ぶのを手伝ってくれない?」と話しかけてきた。
里香は少し驚いた。どうしてそんなことをさせたのだろう?
おしゃれな女の子は他にもたくさんいるのに。
戸惑いながらも、里香は目の前のネックレスのうちからひとつを選んだ。
桜井は微笑んで「ありがとう」と礼を言って、
立ち去った。里香はわけが分からず、仕事に戻った。
夕方、寂しい家に帰ると、彼女は玄関でしばらくぼうっとしていて、心がまた痛くなった。
雅之は帰ろうとしなかったのだろうか?
静まり返った部屋に馴染めず、里香はソファに腰を下ろし、テレビのスイッチを入れた。そうしなければ、心が乱れがちになってしまうから。
「一年間行方不明だった二宮家の三男が、綺麗な女性と一緒にチャリティーディナーに参加し、初めて公の場に姿を現した。陸家の三男の帰還は、冬木市にどのような変化をもたらすのだろうか?…」
司会者が言った内容、里香にはもう聞こえなかった。
里香はただ、雅之の隣にいる女の子をじっと見つめていた。その女の子の首には、今日里香が選んだネックレスがかかっていた。
第6話
その女の子は、あの日、クラブの個室で雅之にいつ離婚するのかと聞いた子だった。
あの子は親しく雅之の腕を組んでいた。
雅之は潔癖のたちだった。
拾われた当初の彼はほとんど記憶を失っていたが、本能的な記憶の一部は残っていた。周囲に慣れた後、雅之は里香の家を隅から隅まできれいに片付けるようになった。
雅之は人からのものをほとんど受け取らず、屋台のものも食べず、時折普通の人間にはない気質も示した。
しかし今、彼は親しい姿で少女に腕を組まれていた。
つまり、離婚せずにその子との関係を続けたいと言いたいのか?
里香は服を強く握り締め、心臓がきりきり痛み、涙がこぼれそうになった。
どうしてそんなひどいことができるの?
自分が選んだネックレスを他の女にあげるなんて!
里香はスマホを取り出し、雅之に電話をかけたが、かけた瞬間に切られてしまった。ムッとした里香は、再び電話をかけ直した。
里香は繋がるまでかけ続けた。「何の用だ?」
雅之の口調はとても冷たかった。
里香はスマホをしっかりと握りしめていた。電話はつながったものの、何から問いかけたらいいのかわからなかった。
雅之の気持ちはすでに行動に表れていたし、質問する必要はなかったのだろう。
「気分が悪い…」
魔が差したようにかすれた声を発した後、電話を切った。
里香はスマホを握りしめ、時計を見つめた。
昔であれば、里香が体調を崩していると聞けば、すぐに駆けつけていたことだろう。言葉を話せないため、里香に伝える手話さえも乱れが生じてしまう。里香を心配する姿は、決して偽りのないものだった。
時間はゆっくりと過ぎていた。
一時間経っても、ニ時間経っても、玄関には人影が見えなかった。
里香は胸が痛くなり、目を閉じた。
もう本当に自分のことを気にかけてくれなくなったんだね。
里香はソファで丸くなり、まるで傷を舐めている獣のように自分の体を強く抱きしめた。
そうすれば心の痛みも和らぐかもしれないと思ったからだ。
うとうととしていたら、誰かに抱き上げられたような感じがした。
里香はぽかんとして、はっと目を開けた。雅之の端正な顔が視界に入ると、涙があふれてきた。
「まさくん、お帰り」
雅之は里香を抱きしめたまま寝室へ戻り、ベッドに寝かせた後、涙で濡れた里香の顔をじっと見つめていた。雅之はその涙を拭おうと手を伸ばしたが、何とかこらえた。
「こんな嘘をついてまで呼び戻すなんて。離婚届にサインしてくれないし、君は一体何がしたいの?」
テレビで見たのと同じスーツを着た雅之は、いらいらネクタイを緩めた。
里香は一瞬、恍惚とした表情を浮かべた。その口調はあまりにも冷たく、あの子を優しく抱きしめた時の雅之とは真逆だった。
里香は突然ベッドから起き上がり、雅之に近づき、手を伸ばして彼の頬をつねった。
端正な顔がめちゃくちゃにされて、雅之はいらいらしたように里香の手首を握りしめた。
里香は鼻をすすりながら言った。「私のまさくんが目の前にいるどうか確かめたいの。私のまさくんなら、こんなひどいことはしないし、私のことを愛しているから、浮気なんて絶対にしないもの!」
最後の一言を怒って叫ぶように言い出した。
とても悲しいし、あまりにも理不尽だ!
まるで別人のようにいきなりの心変わりを、受け入れられるわけがない。
雅之は里香の手首を握りしめ、無意識のうちに指に力を込めた。過去一年間の記憶に本能的に抵抗しているのだ。
しばらくすると、雅之は里香の手首を緩め、相変わらず冷たい口調に戻った。「里香、潔く別れよ?」
里香は一瞬よろけて、顔が急に青ざめた。
何を言ってるんだ、自分のことを未練たらしい女のような言い方をして!
第7話
パシッ
里香は雅之の顔を平手打ちした。
「潔く別れよって?浮気したクズ男に言われたくないよね」
殴られたとは思わなかったのだろ、雅之の瞳孔が一瞬収縮した。
大切に育てられてきた彼はこのような扱いを受けたことが一度もなかった。
雅之は舌先を動きながら里香の手首をつかみ、そのまま彼女をベッドに押し付けた。
「甘やかしすぎた僕が悪かった」
雅之の目には温度が感じられず、重苦しい圧迫感が体を包み込み、里香を強く圧倒した。
里香は凍りつくような恐怖を心から感じた。
雅之は二宮家の御曹司であり、幼い頃から栄華を極めた生活を送ってきたのに。自分はその事実を忘れかけていたところだった。
こんな扱いを受けたことがない彼は怒ったに違いない。
しかし、雅之は自分の夫でもあった!
浮気したのは彼だったのに。
里香は恐怖を抑え、平然とした顔で、赤く染まった目で彼をにらんでいた。「まさくんには確かに甘やかされていた。でも、二宮家のお坊ちゃんであるあなたが私を甘やかすなんて、その話、変だと思わない?」
雅之の目には冷たいものが隠されていた。
「そんな姿、全くかわいくないけど」
雅之は里香から手を離し、立ち上がった。見下したような視線を落とし、すぐ背を向けた。
里香怒りで激しく胸を上下した。かわいくないって?
笑わせるな!
昨夜までこのベッドで愛し合っていたのに、今日は「かわいくない」と言われるなんて。
あの子に会ったせいか?
悔しさが心の中で溢れ、里香は立ち上がり駆け寄って雅之を抱きしめた。「行かないで、雅之!私たちはまだ離婚していないんだから、この家を出るなんて許さないわ!」
「頭のおかしい女がいるこの家に?」雅之は冷たく鼻を鳴らした。
二人が結婚して半年が経つので、里香はもちろん雅之を惹きつける方法を心得ていた。彼女の柔らかな指は、すぐに雅之の服の中に滑り込み、鍛えられた腹筋をなでた。
雅之は息をのみ、里香の手首を握りしめた。「何してる」
里香は雅之の目の前に歩み寄った。「かわいくないって言っただろう?雅之、立場をわきまえてから発言した方がいいよ」
男の陰鬱な顔色を見て、里香は挑発的に微笑んだ。「その子のために貞操を守りたいとでも言いたいの?でも、私たちはまだ離婚していないわ。だから、あなたには妻の欲望を満たす義務があるのよ」
里香はそう言いつつ雅之に近づいた。「どうしても無理なら、お金を払ってくれるならそれでもいいけれど。何しろ、あなたは腰が丈夫だし、この半年間、私をよく満足させてくれたから」
この女、自分を何だと思っていたか?!
心の底から怒りが湧き上がり、雅之は激昂して里香の首を絞め上げ、冷たい声で言った。「僕を挑発した結果を教えてやる!」
そして、激しく唇を奪われた。
その仕草に、以前ほど優しくはなかった。
里香は目を閉じ、まつげを激しくなびかせ、そのまま彼に抱きついた。
目尻から涙がこぼれ落ちた。
わざと挑発したのは、雅之にかつての面影を見出そうとしたからに他ならなかった。
彼は二宮雅之で、私のまさくんでもあったから。
挑発の結果を思い知った。あの夜、里香はたった三時間しか眠れなかった。激しい求めに応えながら、里香は力強く雅之を抱きしめ、何度も彼の名前を呼んだ。
まさくんは、私のものだから。
死ぬまで離婚しないわ。
…
翌日。
里香は遅刻したため、賃金がカットされてしまった。人事部によれば、それは社長の直接の指示だったという。
里香は歯を食いしばり、「けちなクス男!」とこっそり突っ込んだ。
たった一発殴っただけじゃないか?
仕返しが早すぎる!
それでも里香の考えが甘かった。午前の会議が終わると、桜井はまっすぐ里香の席に来て、「この報告書は現地調査が必要だから、君に頼むよ」と言った。
里香はそれを手に取って見てみると、まさかの工事現場だった。
里香は眉をひそめた。
桜井は「社長の指示に不満があるのか?」と尋ねた。
第8話
里香は「不満があってもいいですか」と桜井に目を向けて聞くと、桜井は微笑みながら「だめです」と答えた。
里香は目を白黒させ書類を受け取り、雅之のオフィスに向かった。
桜井はそれを止めたくても止められなかった。
里香はドアを押し開け、まっすぐオフィスの中に入った。
雅之はすらりとした姿でフレンチドアの前で電話をしていた。後ろからの声に、彼はちらりと振り返り、眉を寄せた。
「じゃ、これで」
雅之はそう言って電話を切った。
「勝手に入るな」
雅之は冷たい目で里香を見つめ、口調も冷たくなった。
里香は書類をテーブルの上にバンと置いた。「わざとやったんでしょう」
雅之は書類をちらりと見て、「これも君の仕事だろう?やりたくなければ、さっさと辞めたらいい。君の代わりはいくらでもいるんだ」と冷たく言った。
怒りが湧き上がってきた。
このクズ男は間違いなくわざとやったんだ!
昨夜殴られた仕返しだ!
だから、激しく抱きしめた里香を翌日、工事現場に行かせた。
憤慨しながら何も言えない里香を見て、雅之の暗い気分はなんとなく良くなった。
「出て行って、次にノックを忘れずに」
それだけを言い残し、雅之は視線を手元の仕事に戻した。
里香は雅之をじっと見つめ、両手をテーブルにつきながら上半身を前に傾け、彼に近づいて「いいわ。でも次もね、私の許可なしには抱けないのよ」と囁いた。
その言葉を残して、里香は書類を手に立ち去った。
雅之は絶句した。
こいつは何バカなことを言ったんだ。
誘ったのはそっちだろう。そうでなければ、里香を抱くはずがない。
せっかく良くなった気持ちが一瞬暗くなった。
…
里香が担当している商業ビルのプロジェクトは、現在工事中だった。里香は車から降り、デコボコした路面を見て、顔をしかめた。
前に向かって歩いていると、遠くないところに、戸惑ったようなおばあさんがコンクリートに座っているのが見えた。
何人かの人がおばあさんとすれ違ったが、当たり屋ではないかと疑ったのか、誰もおばあさんに近寄らなかった。
里香はおばあさんをじっくりと観察していた。おばあさんは洗練された装いで、手首には翡翠のブレスレットを着けていたため、決して当たり屋には見えなかった。
少し考えた後、里香はおばあさんのそばに寄って尋ねてみた。「おばあちゃん、どうされましたか?」
里香の顔を見るなり、おばあさんは目をキラキラと輝かせた。「あら、孫の嫁じゃない!おばあさん、道に迷ってしまって、家まで送ってくれない?」
里香は呆然と立ち尽くした。おばあさんの様子が少し変だった。もしかすると、認知症かもしれない。
里香は身を乗り出し、「おばあちゃんの家がどこにあるか覚えていますか」と尋ねると、
おばあさんは困惑した表情で、「私の家は…どこだったかしら。ねえ、ちょっと探してくれない?家がどこにあるのか忘れてしまって」と助けを求めてきた。
里香はスマホを取り出し、警察に電話しようとしたら、
おばあさんは目を輝かせてスマホを見つめた。「そうだ!スマホだわ。スマホならあるわよ」
そう言いながらおばあさんは襟元から紐で縛られたバッグを引っ張り出した。そのバッグを開けると中にスマホが入っていた。
バッグの中にはメモが入っていた。里香はそこに書いてある連絡先を見てほっとした。
「おばあちゃん、大丈夫ですか?歩けますか?」
里香が心配そうに尋ねると、おばあちゃんが苦しそうな顔をして、「足が痛くて歩けないの。ねえ、痛いところに息を吹きかけてくれない?」と甘えてきた。
里香は一瞬どんな顔をしていいか分からなかった。「とりあえず病院に連れて行きますか」
念のため、里香はスマホでビデオを撮った。「おばあちゃん、私がぶつかったんじゃないですよね」
「そうよ。この子はそんなことしていないわ」おばあさんはとても協力的だったし、カメラに向かってハートまで作ってくれた。
第9話
里香は笑いを抑えながら録画した後、120番通報した。救急車はすぐに到着した。救急車の中で、里香はメモに書いてある連絡先に電話をかけた。
おばあさんが道に迷って怪我をしたという知らせを聞いたら、相手は「すぐに向かいますので、到着するまで少しの間、彼女のそばにいてあげてください」と返信してくれた。
里香はわかったと答えた。
電話を切ると、二宮奥様はすぐ雅之に電話をかけた。
「もしもし?」
雅之の冷たい声が電話の向こうから聞こえてきた。
「おばあさんが道に迷って、今は病院にいるんだけど、雅之は近くにいるよね?おばあさんの様子を見に行ってくれない?私もすぐにそちらに着くから」
雅之は眉をひそめた。「どういうことだ?」
「詳しいことはわからないの、いいから早く行って」
「分かった」
雅之は電話を切ると、立ち上がって病院に向かった。
病院の中で、足を検査した結果、おばあさんは軽い骨折をしており、治療のため入院が必要であることが判明した。
おばあさんは里香の手をしっかりと握り、年老いた顔に苦しげな表情を浮かべて言った。「孫の嫁さん、足が痛いのよ」
里香は少し困った顔で「おばあちゃん、私はあなたの孫の嫁じゃありませんよ」と答えると、
おばあさんは子供のように頑固に言い張っていた。「いや、あなたのことだよ。何と言われようと、あなたは私の孫嫁なんだから!」
「はい、はい、とりあえず落ち着いてくださいね」おばあさんが興奮し過ぎて体調を崩さないように、里香は急いで落ち着かせようとした。
おばあさんが微笑んだ。「どうして私のところに来てくれないの?あの薄情な孫と同じだね。誰も、私に会いに来てくれないの!」
里香は微笑んで何も言わなかった。
ちょうどその時、病室のドアが開かれ、二人は同時にドアのほうに目を向けた。相手を見ると、里香は目を丸くした。
二宮雅之!
何で彼はここにいたか?
「なぜここに?」
雅之は里香を見て眉をひそめた。
里香が何か言い出す前に、おばあさんは厳しい表情で雅之を叱りつけた。「雅之、言葉遣いには気をつけなさい!嫁を大切にするのよ!脅かしてはいけないわ!彼女に謝りなさい」
二宮雅之「…」
このおばあさんが雅之のおばあちゃんだったなんて!
里香は「ざまあみろ」と言いたげな視線を雅之に投げかけ、彼の謝罪を待っていた。
二人の関係が悪化した以来、雅之はまるで仇のように里香にいい顔してくれなかった。
悪いのはそっちだったのに。
雅之は二宮おばあさんに目を向けた。「里香と話がしたいので、おばあちゃんはこちらでゆっくり休んでいてください」
その言葉を残し、雅之は里香の腕を引いて病室を出た。
「お嫁に意地悪をしないでね、聞いてる?」と二宮おばあさんが念を押したが、雅之はそれを無視して病室を後にした。
病室のドアを閉めた途端、雅之は冷たい視線を里香に向けて腕を掴み、自分の前に引き寄せた。「里香、君のわがままを甘やかすのもいいが、認知症のおばあちゃんを利用するなんて、あまりにも卑劣じゃないか?」
締め付けられた手首以上に、雅之の言葉が里香の心に深い傷をつけていた。
「でたらめを言うな!」
雅之は冷たい笑みを浮かべた。「どうせおばあちゃんを助けるのは二の次で、孫の嫁と名乗っておばあちゃんに取り入ろうとしてるんでしょ?離婚を阻止するために、君は本当に手段を選ばないんだね!」
里香は怒りのあまり笑い出した。
まさかこんな風に思われたなんて!
これまでの一年間で、里香がどのような人間なのかまだ分からないのか?
心の中から湧き上がる不満を無理に抑え込み、里香は顎を上げた。「離婚したくないのは本当だけど、その前に、雅之のおばあさんのことなんて知らなかったわ!」
「まだ嘘をついているんだな」雅之は彼女の手首を一層強く握りしめた。「そうでなければ、どうしておばあちゃんが君を孫の嫁だと呼ぶんだ?」
第10話
そんなこと、こちらが聞きたいくらいだよ!
説明しようとしたけれど、雅之の冷たい瞳に見つめられると、里香はふと気づいた。どれだけ説明しても、雅之が信じてはくれないということを。
信じられない。記憶を取り戻すだけで、どうして人はこれほどまでに変わるのだろう?
それとも、これまで彼女が知っていた雅之は、本当の彼ではなかったのだろうか?
「痛い!」
手首が痛むのを感じて、里香は眉をひそめた。
ほとんど無意識に、雅之は彼女の手を離した。
里香の肌は白く、少し力を加えると跡がついてしまう。実際、彼女の手首には指の跡がいくつか残っていた。
このような指の跡は、これまでよく里香の腰についていたものだ。
雅之の瞳の色が少し暗くなった。
「僕は過去の一年間の恩義に免じて、君に手を出すことなく耐えてきたんだ。これ以上追い詰めないでほしい」
「それで?何するつもりなの?」
里香は澄み切った瞳で彼を睨みつけた。「私を殺す気?できるもんなら、やってみろよ!」
里香の目にうるんだ涙の輝きと頑固さを見て、雅之は突然胸が痛くなった。
病室のドア前には、緊迫した空気が漂っていた。
里香はニヤリと笑って口角を上げた。「雅之、私たちは離婚しないわ。おばあちゃんは私のことを孫の嫁としか見ていないから、私たちを引き裂けるものなんていないのよ!」
雅之は全身から寒気を発しながら里香に近づいてきた。
里香はすぐさま後ずさり、「何するつもり?殴るの?そんなことしたら、おばあちゃんに言いつけるからね!」と警告した。
二宮雅之は呆れた顔で絶句した。この女が何を考えているのか理解できなかった。離婚なんて悪いことでもないのに。彼女が望む条件であれば、何でも満たしてあげるつもりだったのに。
雅之はイライラしていたが、このイライラが里香が離婚を拒否したからだけではないことを彼は知っていた。
「雅之」
その時、廊下の先に一人の美しい中年の女性が現れた。その女性は雅之の継母である由紀子だった。
二人に近づいてきた由紀子は、里香の顔を見るなり驚いた表情を浮かべ、「あなたが雅之さんの奥さん、小松里香さんですよね?」と尋ねた。
里香は「私のことをご存知ですか?」と驚いた。
由紀子は優しく微笑みながら、「雅之を見つけた時、あなたと雅之が一緒にスーパーを歩いているのを目撃しましたよ。二人の仲の良さが伺えたので、身元を調べさせていただきましたわ。ご了承を得ずにすみませんでしたが、これは雅之の安全を考慮した行動ですので、ご理解いただければと思います」と答えた。
「おばあさんはこの中に」
その時、雅之は口を開いた。
里香は無意識のうちに雅之を見つめていた。どうやら雅之は、彼女を自分の家族に近づけたくないようだ。
由紀子は微笑みながら、「そうするつもりなのよ」と頷いた。
由紀子がドアを開けて中に入ろうとしたとき、二宮おばあさんがドアの隙間から里香を見つけ、手を伸ばしながら「おいで」と声をかけてくれた。
由紀子は驚いた顔で、「お義母さんは小松さんのことを知っていますか?」
二宮おばあさんはごくりと頷いた。「もちろん知ってるわ。あの子は三番目の孫の嫁で、私の孫嫁さんだもの!」
何故か笑いたくなり、里香は雅之が険しい顔色になっているのをちらっと見て、我慢できなくなって吹き出した。
雅之は絶句し、内心で里香のことを何度も罵った。
二宮おばあさんと由紀子がいるので、雅之は仕方なく里香と一緒に病室に戻った。
由紀子は笑顔で「おばあさんがね、道に迷っていたら、小松さんに出会ったんだって。これって運命じゃないの?せっかくですから、小松さんを連れて夕食に戻りましょう。家族にも小松さんを紹介しなきゃいけないの」と提案した。
「いいよ」
雅之は冷たい口調で答えた。「今夜は帰らないよ」
「どうして?」と由紀子が戸惑った顔で聞くと、雅之は「もうすぐ離婚するから」と返した。