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見えない流れ
十八歳の少年が、溺れていた二人の少女を助けた。 しかし、最後にその少年は水底に沈み、二度と浮かび上がることはなかった。 取材中、救われ...
Chương (1)
第1章
十八歳の少年が、溺れていた二人の少女を助けた。
しかし、最後にその少年は水底に沈み、二度と浮かび上がることはなかった。
取材中、救われた少女の一人にカメラを払い落とされ、 彼女は口元を歪めてこう言った。
「私、助けてくれなんて言った?」
その十八歳の少年は、私の息子だ。
そして、その少女にインタビューしていた記者は、私自身だ。
第1話
ニュースがあらゆるメディアで流れ、新聞に掲載される情報はどんどん曖昧になっていった。
誰かが言った、二人の少女は少年によって突き落とされたのだと。
私は無言のまま、警察が手渡してきたジップロックを受け取る。
携帯の画面には、まだ十八歳のままの少年が映っている。
私は拳を握りしめ、救われた少女たちのピンク色のバスタオルに包まれた姿をじっと見つめた。
彼女たちは震えながら、わざと私の視線を避けている。
私はカメラを構え、溺れていた少女たちにレンズを向けた。 「助けた少年に、何か言いたいことはあるか?」
歯が震え、手のひらは氷のように冷たくなっていく。
肩まで伸びた髪の少女が、私のカメラをはじき落とし、40万円もするカメラのレンズにひびが入った。
「何撮ってんのよ。さっきまで水にいたの、見てないの?個人のプライバシーって分かってんの?」
背の低いもう一人の少女も、同調するように言った。 「最悪。なんでカメラを胸に向けてるの?」
私は無言で、穏やかな河面を見つめた。
まるで言葉少なかった息子が、疲れ果てながらも必死に足掻いている姿が目に浮かぶようだった。
見物人がどんどん増え、私はその輪の外に押し出されていった。
少女たちがわざと低くつぶやく声が、私の耳に届いた。
「助けてくれなんて頼んでないのに」
私は振り返り、二人の少女をずっと見つめた。
私の息子、上野健はいつもおとなしく、氷点下の寒さの中で川沿いにスケートをしに行くなんてありえない。
彼女たちの姿はどんどんかすんでいき、目が痛くなった。
「上野さん、この件どう報道します?」
私は無感覚になり、オフィスでエアコンの風を聞きながら座っていた。
「事実を書け」
二日後、新聞はこう報じた。
「少年、命をかけて恩知らずを救う」というタイトルが白い文字に赤く太字で強調されていた。
次の日、スマホの画面が明滅し、少女たちのアカウントがライブ配信を始めた。
「そのありふれた男が私たちをバーに誘おうとして、断ったら私たちは水に突き落とされたのよ」
彼女の頬に流れる涙に、コメント欄は同情であふれた。
「うわ、くさい男、ざまあみろ」
「お姉さん、辛かったでしょう」
「男の子はもっと反省するべきだよね」
私はコメントをした。
「本当のことを言ってくれませんか?」
だが、そのコメントはすぐに画面の底へ押し流され、何の反響もなかった。
新聞の記事が大反響を呼び、私はそのニュースのおかげで副編集長に昇進した。
私は息子の部屋で、彼の写真を撫でながら座っていた。
写真の中、幼い息子は優しい笑顔を浮かべている。
息子のSNSのパスワードは彼の誕生日だった。何度か試して、ようやくログインに成功した。
震える指で息子のチャット履歴をスクロールしていると、彼が溺れたその日、ピンク色のアイコンの人からメッセージが届いていた。
「秘密を皆に知られたくなければ、柳川に来い。欲しがってたものを渡す」
息子が返信したときには、すでに削除されたので、メッセージは送れなかった。
ピンクのアイコンの人は何も投稿しなかった。
私は息を詰まらせ、拳を壁に叩きつけた。
警察に通報した後、すぐにその人が調べ上げられた。
それは、溺れていた少女の一人、木村奈緒だった。彼女は、息子が女の子と付き合っていることを偶然見かけ、写真を撮ったと言い、柳川でその写真を返したと主張した。
息子が彼女たちに復讐しようとして、川に突き落としたのだという。
私は抑えきれない怒りで、今にも取調室に飛び込もうとしていた。
警察がさらに尋ねた。 「それで、上野健はどうやって川に落ちたんですか?」
奈緒は前髪を整えながら、冷たい表情で答えた。
「彼が私を押すとき、私も彼をつい引っ張ったんです。警察の方、これは本能的な反応ですよ」
チャット履歴も監視カメラもないため、すべては木村奈緒の証言に基づいていた。
警察署を出ると、大雨が降り始めた。
私は花壇の階段にぼんやりと腰掛け、息子が生前に残したボイスメッセージを、携帯で聞いていた。
最後の一言を聞いてしまった。
「パパ、川沿いに迎えに来て」
私は携帯を地面に落としてしまった。もし私がもっと早く行っていれば、息子は水に落ちていなかっただろう。
第2話
激しい雨が降り注ぐ中、私は水たまりに落ちた携帯を拾い上げ、服の端で水を拭いていた。すると、突然頭上に影が差した。
「すみません、携帯貸してもらえますか?お母さんに電話したいんです」
耳に馴染んだ声が響き、私は思わず立ち上がった。瞳孔に息子の幼い顔が一気に映し出された。
「健くん?死んでなかったのか?俺は夢を見ているのか?」
健は驚いて数歩後ずさり、持っていた傘を地面に落とした。 「何言ってんだよ?死ぬわけないだろ」
私は息子を抱きしめ、涙が彼の首筋にこぼれ落ちた。 「パパは本当に会いたかったよ......」
健は私を力いっぱい押しのけ、ずれたメガネを鼻に掛け直すと、地面に落ちた傘を拾い上げた。怖がりながらも、彼は私の頭上に傘を差し出してくれた。
「ふざけるなよ。携帯貸すかどうか、貸さないならもう行く」
なぜ健は私を知らないのだろう?私は携帯を見た。黒い画面には、まだ十代の若い顔が映っていた。
熱い感情が胸に込み上げ、私は健の手を握りしめた。神様は私に再び息子と会わせるチャンスをくれたのだ。
「行こう、息子よ。家に帰ろう。もう学校なんて行かなくていい。転校しよう」
健は眉をひそめ、強く私の手を振り払った。 「息子?頭おかしいんじゃないの?」
そうだ、私は若い頃の姿になってしまったから、息子は私のことを知らないのだ。
冷静になり、携帯を差し出した。 「はい、パスワードは健くんの誕生日だ」
健の目に複雑な感情が浮かび、唇をきつく引き結んで、傘の柄をしっかりと握りしめた。
「変態かよ」
そう言うと、健は背を向けて雨の中に走り出した。私は大声で注意を呼びかけた。 「走るな、気をつけろ!」
健はよろけて水たまりに転んだが、すぐに立ち上がり、そのまま道の角へ消えていった
私は携帯を握りしめながら、健の表情や動きを回想していた。心の中に羽毛がそっと触れるような感覚が残り、胸がじんわりと温かくなった。
空に一発の雷鳴が響き渡り、私はようやく健の言葉を思い返した。健は母親に電話をかけようとしていたのだ。心臓が激しく脈打ち、立っているのがやっとだった。
健の母親は、健が生まれてすぐに亡くなったはずなのに。
私は大雨の中、夢遊病者のように家に戻った。
古いマンションの入り口には、自転車が雑然と置かれていた。それを避けながら階段を上がり、自宅のドアの前に立った。
いつも鍵を置いていたはずの玄関マットの下は空っぽだった。ポケットを探ってみたが、鍵は見つからない。
焦りながら鉄の扉を叩き続けた。 「健、開けてくれ、開けろ!」
部屋の中からスリッパが床を擦る音が聞こえ、すぐに見知らぬ女性がドアを開けた。私は驚きで口がふさがらなかったが、その女性は優しく微笑んでいた。
「健くん、お友達?」
私は無意識に自分の顔を触った。
見知らぬ女性の後ろから、見慣れた影が現れた。
40歳の私がその女性の肩を抱いて、まるで知らない人を見るような目で私を見つめていた。
背筋が寒くなった。私が二人存在しているなんて。
「上野直規ですか?」
「俺を知ってるのか?」40歳の私は一瞬顔を強ばらせたが、すぐに平常心を取り戻した。
「俺の記事を読んだんだな?俺は記者なんだ。もしニュースがあれば、教えてくれよ、報酬もあるぜ!」
私は苦笑し、心臓がドキッとした。40歳の私は、若い頃の自分を知らないふりをしているに違いない。あいつは偽物だ。私こそが本物の上野健の父親だ。
「パパ、誰なの?」
「健、よく聞け。こいつらは本当の両親ではない。俺が本当の父親だ」
健はその夫婦の後ろに立っていて、三人とも同じように驚愕の表情を浮かべていた。
「お前、なんでまだ家までついてくるんだよ?俺はお前なんて知らない、さっさと消えろ」健は不機嫌そうに眉をひそめ、ドアを閉めようとした。
私は焦り、手で木製のドアを押さえながら、怒りがこみ上げてきた。
「お前、父親に向かってなんて口をきいてるんだ!あの二人は両親じゃないんだって言っただろ?どうして信じないんだ?早く出てこい、騙されるな!」
私は必死に手を伸ばして健の手を掴もうとしたが、40歳の私は上野健の前に立ちはだかり、不気味に口角を上げた。気持ちは複雑だった。
「俺こそが上野健の父親だ。何もないならもう帰ってくれ。見ての通り、うちの息子は歓迎していないようだしな」
私は目の前にいる16年後の自分に恐れを抱き、震えながら後ずさった。
ドアは勢いよく閉まり、どれだけ叩いても誰も応じなかった。
二階の窓から離れた場所で、私は窓の中で仲睦まじく過ごしている三人家族を遠くから見つめ、涙が頬を伝った。
息子が元気に生きてさえいれば、それでいい。
窓が閉められ、誰かがその窓辺に立っていた。彼はナイフを振り上げ、力強く振り下ろした。その前には背の低い影がいた。影は声もなく倒れた。
それは私の息子だ。
私は悲鳴を上げ、二階に駆け上がり、力いっぱい防犯ドアを蹴った。
「開けろ!ドアを開けろ!お前、息子に何をしたんだ!」
廊下の感知式ライトが次々と点灯し、近所の人たちが顔を出した。
「静かにしろよ。うるさい」
私は慌てて201号室のドアを指差し、 「息子が家にいるんだ。彼は危険な状態なんだ。俺が助けに行かないと!」
「息子だって?お前、何を言ってるんだ。まだ学生だろ?それに、この家がお前の家だって?じゃあ、なんで鍵がないんだ?」
私は自分を見下ろした。昼間にちゃんと着ていたはずの青いシャツが、いつの間にか灰色の制服に変わっていた。
「鍵を、なくしたんだ」
「さっさと行けよ、もう」
「俺に息子なんていないのか?じゃあ俺は誰なんだ?俺って誰なんだ?」私はイライラしながら、着ていた制服を引っ張った。
誰かが手を伸ばし、ICカードを指差した。
「ここに書いてあるだろ?臨水高校、高二三班、木村多也だって」
木村多也?
廊下の灯りが点いたり消えたりする中、私はカードを取り外し、それをきつく握りしめた。安全ピンの先が手のひらに突き刺さり、血が指の間から滴り落ちた。
俺が誰であれ、息子だけは必ず守る。
第3話
私は廊下の雑貨の山で一夜を明かした。翌朝、誰かに蹴飛ばされて目が覚めた。
「起きろ、俺は雑貨を売りに行くんだ」
私は涙でかすんだ目をこすりながら階段の入り口へと向かった。
二階から人影が現れ、健の姿が目に飛び込んできた。
「息子、いや、上野さん。大丈夫か?お前の父親、何かしてこなかったか?」
健は目の下に濃いクマを浮かべ、疲れた様子でまぶたを持ち上げ、私を見つめた。
「お前か、木村さん。俺の親父がさ、また一晩中化学の問題集をやらせやがった。天才少年だなんてただの幻想だよ。努力家に過ぎない」
健は、昨日の私の異常さなどすっかり忘れてしまったかのように、あの父親を愚痴り始めた。私は言った。
「彼のもとから離れろ。逃げるんだ。あいつらは悪い」
健と並んで日差しの中を歩くと、二階はまだ陽の光が当たっておらず、暗い影が広がっていた。男がカーテンを引き開け、冷たい目でこちらをじっと見つめていた。私はそれに負けじと睨み返したが、 健に腕を引かれてその場を離れた。
「気にするな。あいつは頭がおかしい」
私は 健の後ろで呟いた。 「そうだ、頭がおかしいだ。離れろ、俺だけが 上野さんにとって本当に大事な存在なんだ」
私はこの木村多也という人間を知らないが、彼は息子と仲が良いようだ。 健は自転車で私を乗せながら、県内の化学コンテストのことを延々と話していた。
「父は俺に市の化学コンテストに出ろって言うんだ。俺が一位を取れば、新聞の一面に載せてやるってさ」
私は息子の制服の裾を触り、その痩せこけた背中に手を当て、肩にかかる重たいリュックを支えた。
「化学の成績が特に良いわけじゃないのに、なんでお父さんがそのコンテストに出させるんだ?」
息子の成績はずっと平均的で、絶対天才少年なんて言えない。
「父が、俺に期待してるんだろうな」
胸が締めつけられる思いがした。新聞の一面なんて、そんな簡単に載れるものじゃない。あの時、息子が自分を犠牲にして助けた恩知らずが巻き起こしたような社会的騒動でなければ、まず無理だ。
「着いたよ、木村くん。ちょっと自転車を停めてくるから、ここで待ってて」
息子の背中はまるで一片の葉のようで、ちょっとした風でも吹き飛ばされそうだった。
私は心臓がぎゅっと縮むのを感じ、急いで息子の後を追った。
その時、 健の近くに二人が寄ってきた。
「天才、放課後に数学を教えてくれよ。俺、試験に落ちたら父に殺されちまうよ」
「そうだよ、お金も払うからさ」
短いスカートの下から白い太ももがちらっと見えた。
こいつらか――あの時、息子の命を奪った連中だ。
私は歯を食いしばり、怒りで胸が熱くなった。「消えろ、このクソ女が」
「木村多也?そんな言い方していいと思ってんの?」
奈緒は気まずそうな顔をしていたが、私は冷たく言い放った。
「俺に近寄るな。さもないと、本当に殺すぞ」
「行こう、行こう、学年トップが怒ってる」背の低い女の子が奈緒の袖を引っ張りながら、目をそらした。
私は眉を上げ、頭から足元までその子を見下ろしながら言った。 「おい、お前もか?どうやってその金を払うんだ?宣伝してやろうか?客でも集めてやるよ?」
その子は私に平手打ちを食らわせようと手を挙げた。 「多也、お前、調子に乗るなよ」
目の前のこの二人が息子の死後に配信で金を稼いでいたことを思い出すと、体中が虫に這われたような不快感に襲われ、耐えられないほど気持ち悪くなった。
私はその子の手を二本の指でつまみ、笑った。
「ビッチが、偽善者ぶるな」
そう言って、私は彼女たちの背後を見た。 健が自転車置き場で冷たい目をしてこちらを見ていた。
二人の女の子は彼に背を向けていたので、彼女たちの顔は見えなかったが、 健には私の笑顔だけが見えていた。
私は背の低い女の子の手を離し、二人を押しのけて 健の方に歩いていった。 健は車置き場の下に立ち、気持ちが良くなかった。
「木村多也、あいつらに近づくな。あいつらはろくでもない連中だ」
「わかってるさ」
俺の息子を死に追いやった奴らだ。あの時の彼女たちの悪党じみた顔を、俺が忘れるはずがない。
私は息子の肩に大きな手を回し、一緒に教室へと向かった。昔、新聞社に飛び込み、あれこれと大小様々なニュースを追いかけるあまり、息子とこうして親しく過ごす時間を全く取れなかったことを思い出し、後悔の念が胸に迫ってきた。
目頭が熱くなり、涙が滲んだ。それは、奈緒が持っていたスマホのカメラにしっかりと収められていた。
私は突然、警察署で奈緒が言っていたことを思い出した。
彼女は息子の恋愛を写真に収めていたのだ。
健はそのことに全く気づかず、地面を見ながら化学の公式をつぶやいていた。
息子は単純で、そんな複雑なことを考えられるような子ではなかった。
私は足を止め、奈緒のカメラに向かって中指を立てた。奈緒は慌ててスマホを引っ込めた。
私は前を歩く健を呼び止めた。
「もし誰かがメッセージを送ってきて、お前を川辺に呼び出したら、必ず俺に教えろ、絶対にだ!」
健はきょとんとしながらも、うなずいた。
私は息子に追いつき、彼が水に浸かって青白くなった顔を思い出し、急いで言った。
「俺たち、泳ぎを習いに行こう」
健はその言葉に足を止め、にっこり笑って私を見つめた。
「木村くん、俺たち、こんなに長い付き合いだろ?俺、ずっと泳げるの知ってるだろ?」
息子の成績は驚くほど良く、校内の栄誉掲示板には彼の名前が飾られていた。
しかし、私は驚いた。
息子は決して頭が良いわけではなかった。あの父親が、昼夜問わず勉強させて、こんなにいい成績を取った。
私は自ら志願して息子の隣の席に座り、彼に水を汲み、お菓子も買って、休み時間には肩を揉んでやったりした。
試験の結果が発表され、健の名前は堂々の一位に輝き、二位とは20点も差があった。
赤く充血した息子の目を見て、私は胸が張り裂けそうだった。
「お父さんが見たらきっと喜ぶ。そうだ。木村くんの成績はどこにもないな」
健は細く痩せた指を成績表の名前から滑らせ、最後に表の2ページ目を指差した。
「そうだったな。試験を受けてなかったんだ」
健ががっかりして、苦笑いを浮かべて成績表を講義台に戻した。
「もし試験に出ていたら、一位は俺じゃなかったかもな」
私は 健の手を掴み、彼の中指にできたペンだこを一つずつ優しくさすりながら、思わず口走った。「息子はいつだって私の心の中の一位だよ」
健は意外にも怒らず、それを冗談のように聞き流し、口元を歪めた。
「本当に俺を息子だと思うなら、化学を教えてくれ。俺、コンテストで良い成績を取りたいんだ」
その成績は多也のものだし、私は卒業してからもう30年以上経っているから、化学なんてすっかり忘れてしまった。
私はペンを回しながら困っていると、健はまた机に向かい、分厚い教科書をめくり始めた。その本の端はすっかり反り返り、彼の唇はわずかに白みがかっていた。
私は手に持っていたペンを置き、水筒を持って水汲み場に向かった。
休み時間の水汲み場は人でいっぱいで、水を汲んでいる学生たちは噂話に興じていた。
「最新のニュース見た?あの女すごいよな、50代で整形手術を受け、同時に5人と付き合って、しかも3回も金を騙し取ったんだってさ」
「マジで?そんなヤバい話ある?」
私は興味もなくその雑談を聞き流していたが、ふと知っている名前が耳に入ってきた瞬間、持っていた熱いお湯が手にこぼれた。
「直規だろ?そのニュースを報道した記者。彼も被害者の一人だったらしいよ」
「でもさ、あのニュース、嘘じゃないの?」
「バカ言えよ…」
私はカップの蓋をしっかりと締め、真っ赤になった手を水道で洗い流しながら、混乱した頭の中を整理しようとしていた。
10年前、健の母親は金を騙し取り、金額の大きさゆえに夫の家族に殺された。このニュースは当時、私が最初に報道した。
この報道によって、私はインターン記者から正式にオフィスに座れるようになったが、当時、私もまたそのニュースの被害者の一人だったことを誰も知らなかった。
一つのニュースは偶然だが、二つの類似したニュースは再現だ。
「嘘だ、全部 直規が作り上げた虚構だ。彼は嘘ついている!」
私は声を張り上げたが、顔を上げた時には、周りにはもう誰もいなかった。聞こえるのは水道の滴る音だけだった。
私は教室に戻ると、健は化学コンテストの申込書を提出していた。私が戻ったのを見ると、彼は微笑みながら言った。
「木村くん、どうしてこんなに水汲みが遅いんだ?僕、木村くんの分もコンテストに申し込んでおいたよ。これで一緒に実験室で実験できるな」
私は青ざめ、震える手で 健の手を掴んだ。「健、化学コンテストには出ないで。悪いことが起こるかも」
天才がコンテストに出て一位を取る。それは、至って普通のことだ。
しかし、もし天才がコンテストでカンニングをしたとしたら、それこそが一番のドラマだろう。
偽物の健の父親は、自分のキャリアのために、息子を犠牲にすることも厭わなかったのだ。
「誰のこと?多也、何を馬鹿なこと言ってるんだ」
息子は笑みを浮かべ、私の手からカップを受け取って飲み干し、再び席に戻って勉強を始めた。
彼のメガネは鼻の上にずれ落ち、急いでそれを直してから、また分厚い本を開いた。
その様子は機械的で、無感情で、まるで生気がない。
本来なら最も輝くはずの年頃なのに、息子はまるで枯れた造花のようだった。
私は息子の手からペンを奪い、度の強いメガネを外して言った。
「休憩が必要だ」
時計は6時を指していて、健は顔色を失い、目を赤くしながら小さく微笑んでいた。
「木村くんみたいに頭が良くないんだ。必死に頑張らないと一位になれない。一位になれなければ、父さんは喜ばない」
私は健に伝えたかった。たとえ一位じゃなくても、私は十分喜ぶと。いつでも私の誇りだ、と。
しかし、今の私の立場では、そんな言葉を口にするのが難しかった。そして、息子をここまで追い詰めたあの男への憎しみが膨らんでいった。
彼は一体誰で、なぜ私の身分を奪ったのだろうか?
私は健の隣に座り、両手で彼の顔を包み込み、彼を自分の胸に抱き寄せた。
涙がこぼれ落ち、私の胸を濡らした。
「もう十分疲れている。少し休もう。あとのことは私に任せなさい」
私は教科書に丁寧に書かれた「木村多也」という名前を見つめ、喉の奥に言いようのない感情が込み上げてきた。
私は若い頃の姿に変わり、木村多也という名前を背負って生きている。しかし、本物の木村多也はどこにいるのだろうか?
多也と息子の関係は、私が思っていた以上に深く、息子はほとんど無条件に彼を信頼していた。
ふと、背後から強い視線を感じたが、振り返るとそこには誰もいなかった。
息子は私の腕の中で眠ってしまい、私は彼の背中を優しく撫でていた。すると、スマホの画面が光り、「パパからのメッセージ」が表示された。
「市の化学コンテスト、申し込んだか?」
第4話
時計はもうすぐ10時になろうとしていた。
息子が教科書を閉じ、眠っていた私を揺り起こした。
「木村くん、帰ろう」
私は寝ぼけたまま机の上を片付け、息子はカバンから牛乳を取り出し、私の手に押し付けた。
「牛乳アレルギーだから、これあげる」
その瞬間、私は完全に目が覚めた。寝る前にはいつも、息子の栄養補給のために温かい牛乳を用意していた。
息子は何度か飲みたくないと言っていたが、私はそれをただのわがままで、私の気を引こうとしているだけだと思っていた。
私は罪悪感を感じながら息子の手から牛乳を受け取った。健は口を開き、ためらいながらゆっくりと言った。
「木村くん、今回の化学コンテスト、出なくてもいいか?」
私はほとんど迷わず、「分かった」と答えた。
健の目がまた赤くなりかけたので、私は急いで立ち上がり、彼の肩を軽く叩いてなだめた。「コンテストなんて、そんなに大事か?」
健は唇を噛みしめ、手を握りしめて言った。「一度でいいから、父さんを喜ばせたいんだ。父さんは俺に一度も優しい顔を見せたことがないんだ。父さんは俺にとって唯一の家族なんだ」
では、家にいるあの見知らぬ女性は誰なのだろう?健はもうニュースを見ているのだろうか?
「俺の母さんは、祖母に殺されたんだ。祖母は今でも精神病院にいる。今の母さんが父を騙していることは、とっくに知ってる。でも、父さんが幸せそうにしてるのを見て、俺はその真実を打ち明けることができないんだ」
健の静かな顔を見て、私の胸は痛かった。
「考えたことあるか?上野くんの父さんはとっくに今の母親が彼を騙していることを知っていたかもしれないって。彼女を暴くためにずっと証拠を集めていて、そのためなら、どんな犠牲もいとわない。上野くんも...」
私は健の肩を掴み、言葉を絞り出すように続けた。「上野くんの母さんも」
健の瞳孔が一瞬で大きく開き、彼は頭を振りながら、かろうじて笑みを浮かべた。
「そんなことないよ。父さんはただ仕事が好きなだけで、そんなことをするはずがない」
私はため息をついた。「本当は俺が父さんなんだ」という言葉が言えなかった。
「上野くんの家にいるあの男は上野くんの父親じゃない。とにかく、彼の言うことを聞いちゃいけない。僕を信じて」
私はスマホを取り出し、「これ、僕の番号だ。何かあったらすぐに連絡して」
息子は信じられない様子で頷き、すぐに教室を飛び出して行った。
教室のドアを見つめながら、昼間感じたあの鋭い視線が私の心にこびりついていた。誰であろうと、健を傷つける者は絶対に許さない。
窓の外では風が吹き始め、壁に貼られた紙がパタパタと音を立て、白いコピー用紙が教室中に散らばった。
私は床に落ちていたクラス名簿を拾い、ざっと目を通したが、45人の名前の中に「木村多也」という名前はなかった。
そうだ、私は元々この時代に存在しない人間なのだ、とため息をついた。
床に散らばった白い紙を片付けて講義台に戻すと、成績表がまだそのまま置かれていた。
私は無意識にその薄い紙をめくったが、そこに健が言っていた「二枚目」はどこにもなかった。
化学コンテストの日、私は息子を試験会場まで送り出した。健は穏やかな表情で私を抱きしめ、私は心配そうに彼の頭を撫でた。
「上野くんは最高だ!」
健はぎこちない笑みを浮かべ、「木村くん、ありがとう」と言った。
その笑顔に私は胸が痛み、説明のつかない不安に駆られたが、どうしたらいいのか分からなかった。
息子が試験会場に入っていくのを見届け、私は日陰に座り、焦りながら待っていた。
試験は2時間で終わるはずだったが、4時を過ぎても息子は出てこなかった。6時になっても姿はなく、私は会場に飛び込んで息子を探したが、試験はすでに終わっていた。
私は急いで息子の家に向かい、201号室のドアを叩いた。
「お前、俺の息子はどこ?」
偽の直規は視線を逸らし、悠然とした口調で言った。「お前の息子?俺が知るわけないだろう」
私は防犯扉を乱暴に開け、男の顔に拳を振り下ろした。
「とぼけるな。俺の息子を、お前の成功の踏み台にするつもりだろうが、そんなことさせるもんか」
男の鼻から血が噴き出したが、彼は狂ったように笑い始めた。
「息子だって?お前に息子なんかいるか?あれは俺の息子だ」
大雨が降りしきる中、私はその階段に3日間座り込み続けたが、息子の姿を見ることはできなかった。
化学コンテストの結果が出た日、息子から電話がかかってきた。
「木村くん、知ってる?俺、1位を取ったよ」
電話越しに、息子の声は震えており、必死に涙をこらえているのが聞き取れた。
「今どこだ?すぐ迎えに行く」
私は慌てて新聞売り場に向かった。今日の新聞の一面には、大きく「天才少年、1位でカンニング」と書かれていた。
「木村多也、誰かからメッセージが届いて、川に呼び出してるんだ。僕、父さんに大きなニュースをプレゼントしようと思ってる。そしたら、父さんは喜んでくれるだろう」
「川には行くな。死んでしまう。聞け、あの男は父親じゃない。俺が本当の父親だ。あの男は上野 くんを愛していない。愛しているのは私なんだよ。ばかなことをするな」
私は息子の名前を引き裂かれるような思いで叫び続けたが、直規が急いで階段を駆け下り、タクシーを捕まえるのを目にした。
慌てて追いかけて彼の腕を掴もうとしたが、手が彼の体をすり抜けてしまった。心臓が早鐘のように打ち始めた。
まさか、もうすぐ私は消えてしまうのだろうか?でも、まだ息子を助けていない。
「上野くん、馬鹿なことはするな!」
電話は一度「ツー」と鳴っただけで切れてしまった。私は急いで直規のタクシーに乗り込み、彼を追って川沿いへ向かった。
直規の口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。彼のスマホ画面を覗き込むと、それは健からのメッセージだった。
「パパ、川沿いに迎えに来て」
「もっと大きなニュースをプレゼントするよ」
「パパ、本当に僕のこと愛してる?」
息子よ、もちろん愛している。私には息子しかいない。息子のために働いて昇進して、もっと良い暮らしをさせてあげたいんだ。
私は直規の代わりに息子へ返信しようとしたが、直規はそのメッセージを見て嘲笑を浮かべ、すぐにアプリを閉じて電話をかけ始めた。
「もしもし、山口さん、大ニュースがあるんだ。川に行って。カメラを忘れるなよ。」
自分の顔を持ったこの男の嫌らしい表情を見て、私は彼を殺したいほどの怒りに駆られた。
息子は、こんな男の愛を得られると思っているなんて。
私は次第に透明になっていく。不吉な予感が心に広がっていった。車が川に到着し、ドアが完全に開く前に直規は飛び出して行った。
「誰か!溺れている人がいる!」
私は直規の後を追いかけた。山口さんはすでにそこにいて、直規はカメラを奪い取り、側の通行人に向けてこう尋ねた。
「すみません、ここで何があったんですか?」
私は焦りから直規を押そうとしたが、再び彼の体をすり抜けてしまい、そのまま川に転落した。
冷たい水が体に染み渡り、川の中央で誰かがもがいているのが見えた。
「健!」
私は健のもとへ向かった。彼の目は冷たく、岸でカメラを持って通行人をインタビューしている直規を見つめながら、かすかな声で呟いた。
「パパ、僕を助けて」
パトカーの音が響き、健はもがくのをやめ、手の動きが止まった。
「息子!息子!」
私は必死に健の袖を掴んだが、彼は動かず、ゆっくりと川底へ沈んでいった。
川沿いでは直規が奈緒に向けてカメラを構えている。私は絶望の中、両手を広げ、息子と一緒に沈んでいった。
その時、奈緒は静かな川を見つめ、目からは一筋の涙が流れ落ちた。