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偽りの死で城を去りし時、主君は我を求め泣く
私が自ら御殿を出てから、上様がようやく下屋敷へ私を訪ねてきた。 上様は少し苛立ちながらこう言った。 「凛、もうやめにしなさい。 お前が...
Chương (1)
第1章
私が自ら御殿を出てから、上様がようやく下屋敷へ私を訪ねてきた。
上様は少し苛立ちながらこう言った。
「凛、もうやめにしなさい。
お前が位を望むのは分かっている。だが、御台所様が認めないのだ。幕府も氷川家と戦で力を合わせねばならん」
笑ってしまう。天下を治める上様でさえ、ひとりの侍女を取り立てるのに、御台所様の許しが要るなんて。
それに、この数年で氷川家の勢力は既に衰えており、脅威ではなくなっているというのに。
ただ、あの御方が嫡姉上の機嫌を損ねたくないだけのこと。
だが私に位がなければ、あの子の魂は成仏できず、御先祖の祠に入ることも叶わない。
後に私は死んだふりをして御殿を出て、息子を葬った後、町で香を売り始めた。
噂では、上様は夜毎に頭痛に苦しみ、悲嘆に暮れておられると聞いた。
そして半年のうちに御台所様を廃し、氷川家も取り潰されたとか。
上様は懸命に、龍涎香を調合できる侍女を探し、御台所の位を与えるとまで約束しているらしい。
だが、今の私には何も望むものなどない。
第1話
私が罰として下屋敷に追いやられてから、もう五年。毎日毎日、洗っても洗っても尽きない厠を片付けている。
いくら香袋を身につけ、炉に香を焚いたとしても、体に染みついた悪臭は取れない。
奥女中たちは私を嫌い、誰も同室しようとしなかった。
そして御台所様に仕えるお局、女中頭が私と新之助を下屋敷の奥の朽ちかけた屋敷に追いやった。
昨夜、暴風雨の中、屋根の腐った梁が轟音を立てて崩れ落ちた。
私は外で洗濯物を取り込んでいたため難を逃れたが、左足は柱に挟まれたまま動かない。
だが、新之助は下敷きになってしまった。
私は叫びながら、負傷した足を引きずりながら瓦礫を掘り返した。
私の叫び声があまりに凄まじかったのか、見物人が傘を差して遠巻きに眺めている。
彼女たちはただ遠巻きに立ち、助けようとせず、どうすべきか迷っている様子だ。
すると女中頭が慌ただしく駆け寄り、女たちに命じた。
「余計なことはするな、御台所様の怒りを買うぞ」
「でも......あの子は上様の御子息です」
「御子息だと?上様はあの子を宗正寺に記録したこともなければ、生母に位を与えたこともないぞ」
夜が明けかける頃、私はようやく瓦をどかし、真っ白な小さな手を見つけた。
手には、私が書いた『香譜』が握られていた。
新之助はわずか四歳。下屋敷で生まれ、この薄暗い場所から一歩も外に出たことがない。
彼の知る世界には、腐った食べ物と厠の吐き気を催す臭いしかなかった。
私はたまに石の隙間から香草を摘んでは、世の中にはこの臭い以外にも、心地よく、思わず笑顔がこぼれるような香りがあるのだと彼に教えていた。
新之助は『香譜』を抱えて真剣に、「下屋敷を出たら、母上をいつも笑顔にする香を作るんだ」と語ったものだ。
私はひたすら掘り続け、一秒でも早く新之助を救い出さねばと、手を止められない。
新之助は生まれつき丈夫だし、きっと無事に違いない。
慎重に頭上の瓦を取り除いたその時、赤と白が混じったものが、瓦の隙間からどろりと垂れてきた。
雨で血の匂いがより際立ち、強烈に鼻をつく。
今、私と新之助の間には、ただ一枚の布があるだけ。
その布には小さな凹みがあり、そこが鮮やかな赤に染まっていて、息が詰まりそうだ。
私は布を引き剥がした。
そこには、少量の肉片がこびりつき、ぽたぽたと瓦礫の上に落ちた。
瓦と瓦の隙間には、赤い塊状のものが薄く散らばり、そこには髪や皮膚が混じっていた。
どこからともなく飛んできた蝿が、血の匂いを嗅ぎつけ、食らいつこうと群がっている。
あっちへ行け、みんな私の目の前から消え失せろ。
私は手を振り払ったが、気が遠くなり、その場に倒れ込んでしまった。
目が覚めたときには、日が沈むところだった。私と新之助は瓦礫の中で丸一日眠っていた。
院中の厠は誰も片付けず、悪臭は下屋敷から城門まで漂っていた。
城門の役人が調査に来たとき、私は上様に伝言を託そうと頼んだ。
彼は鼻を覆い、「龍嗣を害した罪人の伝言など伝えられません」と拒んだ。
五年前、御台所様が流産された。
あの方は、私が御殿の香炉に麝香と曼荼羅を入れたためだと言い放った。
だがあの日々、私は上様と共に過ごし、片時も離れていなかった。
上様は私を弁護することなく、御台所様の望むまま、私を本丸御殿から下屋敷に追放した。
数日後、一人の小姓が簡素な書状を届けに来た。
「今は情勢が不安定だ。氷川家の力を借りねばならない。
今は耐えてくれ。時が来れば迎えに行く」
そう書かれていた。それから五年が経った。
噂によると氷川家は萩原家との争いに敗れ、もはやかつての権勢もないという。
萩原家からも美しい娘が送り込まれたらしいが、御台所様の寵愛は今も揺るぎない。
私は香袋から珠をひとつ取り出し、城門の役人に渡した。
「上様がご覧になれば、すぐお分かりになるでしょう」
第2話
あれから三日が経ったが、上様はまだ姿を見せない。
烏が日に日に増え、新之助の遺骸に群がり、私が目を離すと肉片をくわえていってしまう。
夜ともなれば、鼠が暗闇の中で緑の光る目を光らせ、「チチチッ」と鳴きながら、どこかで待ち構えている。
城のあちこちでは奥女中が顔を輝かせて噂をしていた。どうやら御台所様に懐妊の兆しが見られたそうで、上様は大変お喜びになり、奥には褒美が配られたのだという。
私は急に疲れが押し寄せ、瓦礫の木片を一箇所に集めて火を点けた。
新之助は父親のことを私に言ったことはない。私が気に病むのを恐れて、口に出せなかったのだろう。
だが、上様が西の城門から狩りに出るときには、新之助は槐の木のいちばん高い枝までよじ登り、遠くから見送っていたものだった。
最後に、あの子に父親の姿を見せてやりたかったが、もはや叶わぬ望みだ。
私は新之助を薪の中央にそっと横たえ、香で炙った新しい衣を着せてやった。
お前には、この母がどれほど苦労をかけたことか。
火が次第に高くなり、小さな身体を飲み込んでいく。
薪には水がかけられていたため、煙がひどく立ち上り、城中がむせるような煙に包まれていった。
程なくして、私は何人かの役人に取り押さえられ、小部屋に連れて行かれた。
部屋には上様である鷹司光信が椅子に座って待っており、手の中で私が渡したあの小さな珠を転がしていた。
新之助が生まれたとき、光信が私を訪ねてきて以来、五年ぶりの対面であった。
あの時は政に追われ疲れていると思っていたが、見ると頬は丸く、目は澄んで、さながら悩みとは無縁の若君のような姿だった。
私が近づくと、光信は思わず鼻を覆った。
臭いが私から出ていると気付いたとき、驚いたように手拭いを下ろした。
かつて光信は、私の身にまとっていた香を気に入り、いつも私の手拭いを懐に入れていた。
そのことを知った御台所、氷川綾が私を最も汚れた仕事に追いやったのだ。
光信は珠を懐にしまい、そっと私の手を取ったが、呼吸が浅くなっているのが分かる。
「新之助の死、わしも心が痛む。もっと早く会いに来るべきだった」
光信の身に纏うのは、氷川綾が最も好んでいる伽羅の香りだった。
その胸に抱かれ泣き叫びたい気持ちはあったが、何かが詰まっているかのようで声が出ない。
頭の中には、新之助の無惨な姿しか浮かばなかった。
私は咳払いをし、掠れた声で頼んだ。
「上様、どうか私に、せめて最低の役でもお与えください。小使で構いません」
私は氷川家の里で育った庶子であったために、十歳で奥に入ったときも侍女となり、冷や飯食いのような身分に追いやられた。
その後七年、光信と心を通わせたが、何の役も与えられなかった。
かつては光信の身分が低く、家を開いて妻を迎えることもできなかったが、やがて光信が跡を継ぎ、氷川家を後ろ盾にするため、綾を妻に迎えたのだ。
幼い頃、私が調香した香が高僧に称賛され、氷川綾の前で気を引いてしまった。
それを根に持たれ、私と母は氷川家を追われることとなった。
氷川綾は決して私が侍女から主になることを許すはずもなく、彼女が城に上がるやいなや、光信は私に身を潜めるよう命じたのだ。
御台所に仕える女中頭の言葉がよぎる。私に役がなければ、新之助は御台所の血筋として祭られることもできず、その魂は彷徨い続けることになると。
奥で褒美が下るというのだから、せめて小使の位をくださるだけでも叶うはずだ。
だが、光信は迷いを見せ、今は戦支度に氷川家の力が必要であると告げた。
「今この状況で、御台所を怒らせるわけにはいかない。お前も姉上の気性はよく知っているだろう」
光信の言葉を聞き、私は言葉を失った。御台所の性分はよく知っているからこそ、光信がなぜ今もあの方を溺愛し続けるのかが理解できない。
綾は気位が高く、我が強い上に執念深い。しかも、容姿も平凡で、魅了されるほどの美しさがあるわけでもない。
私が黙ったままでいると、光信は小さな珠を再び取り出し、私の手のひらにそっと置いた。
「凛、天下が治まれば、必ずやあのときの約束を果たす」
綾が奥に入るとき、光信は私に約束していた光輝く珠を彼女に与え、私にはこの小さな珠だけが残された。
これは一時的なものだ、やがて地位が安定したら正妻として迎えると、そう言われていた。
私は光信の立場も理解している。
若殿と安王は争いの末に廃されはしたが、いまだ多くの味方を持っている。
冷遇されていた光信が急に大位についたのだから、重臣たちの支えがどうしても必要なのだろう。
私は別に、後ろ盾を求めたわけではない。
かつて冷遇されながらも、命を賭けて光信を支えていたとき、彼がこの位に就くとは夢にも思わなかった頃のことだ。
ただ、彼の肩にもたれ、その長い睫毛が月明かりに映えるのを眺めるだけで満足だった。
自分の身分が低く、彼に力を貸すことができない私は、せめて迷惑をかけないようにと心がけてきた。
それでも初めて口にした頼みは、奥で最低限の役をいただくことだけだった。
だが光信はそれを断り、理由を問うこともなかった。
第3話
毎晩、新之助が夢に現れる。ぼんやりと姿は見えるが、その顔立ちは曖昧だ。彼は私の後をずっとついてきて、ささやくのだ。
「母上、山茶花の香りってどんなだろう。ツツジはいつ咲くの?
長屋の外の世界には厠なんてないのかな。他の子の父上は毎日そばにいてくれるのかな」
夢から覚めると、窓の外には再び山積みになった厠が待っている。
「御台所様のおなりだ」
細く引き絞った声が鳴り響き、遠くから御台所様、綾の輿がゆっくりと近づいてくる。
彼女はわざと薪の灰が積もった場所に輿を止め、まるで愉快な光景でも見ているかのように、ケラケラと笑い声を上げた。
年配の女中が、低く抑えた声で忠告する。
「お喜びもほどほどに。お子様に障りがあっては」
「何を言っているの?相人は、このお腹の子は天命を受けると予言してくれたわ。まさにその通りじゃない」
輿が静かに下ろされ、綾はゆっくりと私の方に歩み寄ってきた。
「なぜ、こう言ったか分かる?まだ生まれてもいないのに、この長屋の中の妖魔はすっかり消え去ったようだわ」
彼女は腹を撫で、腕の環がカランと音を立てる。
私は顔を上げず、黙って次の厠を洗い続けた。
「無礼者、御台所様がお話をされているのよ」
年配の女中は口と鼻を覆いながら、私の頬をひと叩きした。
痛みはまるで感じなかった。まるでこの頭が自分のものではないかのようだった。
再び、氷川綾の声が頭上から響く。
「お前、かつて上様に仕えたからといって、私からあの方を奪えるとでも思っているの?
夢にも思わないことね。私が眉をしかめるだけで、あの方は私を気遣ってくださるのよ。だからお前に名分が与えられることは絶対にない。
凛、お前もお前の母も、下賤な身分だ。この長屋で一生、厠掃除をしていればいい」
彼女が手拭いを振ると、かすかに嗅ぎ慣れた香りが漂ってきた。
それは献上された龍涎香ではなく、私が数種の薬草を加えて調合した特製の龍涎香だった。
光信が大位に就いた後も、頭痛の発作は止まらず、どれほどの名医の薬も効かなかった。
私は万が一に備え、特製の龍涎香を五箱分も用意し、発作時にすぐ使えるようにしていたのだ。
光信の晴れやかな姿を見るたびに、頭痛は治ったものだと思っていたのに。
綾が手を叩き、大げさに言葉を続けた。
「そうだ、お前の子も今では亡骸もなく、奈落にすら流れつかない哀れな幽霊だ。お前たち一家は下賤な運命に生まれたのだよ」
彼女が合図をすると、付き従う老臣が手拭いで手を包み、上の方にあった桶を押しやった。
まだ洗っていない桶が、私に覆いかぶさり、私は倒れ込んでしまった。
綾の高笑いは次第に遠ざかり、私は暗闇に沈んでいくような気がした。
そのまま抵抗する気力も失いかけたその時、小さな手が私の顔に触れて涙が頬を伝った。
「母上、早く目を覚まして。
母上が約束したでしょう?この長屋を出て、梅の香りを嗅ぎ、川辺の野花を摘みに行こうって。
『香譜』は覚えたよ。母上が好きな香をきっと作れる」
それは新之助、私の新之助の声だった。
生前、彼は一度も花の香りを嗅いだことがない。私は彼を連れ出して、城の外を見せてやらなければならない。
残りの力を振り絞り、私はようやくその桶を蹴り飛ばして立ち上がった。
そして、手元に残っていたあの珠を使い、長屋にいる洗い場の侍女を買収し、御前に仕える白川弥右衛門に手紙を届けてもらった。
弥右衛門は光信が冷遇されていた時から支えてきた者で、これまでにも密かに私を助けてくれていた。
侍女が城を出るには、弥右衛門の書状ひとつがあれば事足りる。
私が消えることは、綾にとって願ったりかなったりであり、奥で気にかける者はいない。
私は新之助の骨灰を丁寧に包み、青染めの布でしっかりと巻き直した。
この布は、母が私に残してくれた唯一の品で、かすかにビャクシの香りが染み込んでいた。間もなく母は氷川家の奥方に売り払われたのだ。
高僧が取りなしてくれなければ、私もそのまま人買いに渡されるところだった。
私は光信に母を捜してほしいと頼んだこともあるが、彼はいつも氷川家が妨害していると理由をつけて、話は立ち消えとなった。
第4話
まだ五月だというのに、井戸水は氷のように冷たい。
だが、私は気にせず冷たい水に浸かり続け、身体に染みついた嫌な臭いを落とそうとしていた。
その時、戸を叩く音がした。弥右衛門からの書状が届いたのだ。
私は水から上がり、慌てて体を拭いて衣を着ようとした。
ところが、その者は構わず戸を押し開け、中に入ってきた。私はそのまま裸の姿で目の前の人物と向き合うことになった。
後ろに続いていた弥右衛門は、すぐに顔を背けて戸を引き閉めた。
上様は不機嫌そうな顔で、真っ直ぐに私を見据えている。
私はそのまま無様に彼の視線を受けたくはなく、寝台の陰に隠れて布団を巻きつけた。
「凛、もうやめにしなさい」
彼の声には疲れがにじんでいた。長屋を訪ねたことで、御台所が機嫌を損ねたのだろう。
「お前が位を望んでいるのは分かっている。だが、御台所が認めないのだ。今は戦支度のために氷川家の力が必要であって......どうか、このことが世に出ないよう、考えてほしい」
目の前にいる光信は、かつての優しく落ち着いた面影などどこにもなく、まるで御台所のように高圧的で冷たい態度を取っている。
私は布団を握りしめ、彼をじっと見つめた。
「私はただの長屋の掃除女に過ぎません。だから、上様に何か影響を与えるようなことなどできるはずもありません。
御台所が私の存在を嫌がっているのなら、城を出ることはむしろ良いことではありませんか?」
「いい加減にしろ!」
光信が声を張り上げ、威厳を示す。しかし私は少しも恐れなかった。
「お前は共に仕えてきた者だ。城を出れば、安王の残党に揚げ足を取られる口実になる」
上様は勢いよく私の手首を掴み、鋭い視線で迫ってきた。その拍子に布団がすっと滑り落ちた。
これが彼の本心だったのか。少しでも私を気にかけているのかと思っていた私が愚かだった。
私は布団を戻すこともせず、背を真っ直ぐに伸ばして傷跡を指し示した。
「かつて、若殿が私の肩の骨を鉄鉤で貫き、あなたの反逆を告発するよう強要したときの傷です」
指を動かして胸元の交差する傷を示す。
「これは安王の襲撃の際、あなたを守って受けた三つの刀傷」
さらに腹には数々の火傷や刺し傷があるが、もはや説明する気力もなかった。
「私が本当に揚げ足を取らせる気であれば、とっくにそうしていました。私はただ新之助の望みを叶え、彼を外に連れ出したいだけです」
私は強く手を振りほどき、黙って衣を着ていった。
「上様が私をかつての共に仕えた者として思ってくださるのなら、どうか私の頼みをお聞き入れください」
「かつての共に仕えた者」という言葉に、上様は顔を険しくし、額には血管が浮かび、目元が不自然に痙攣し始めた。
これは頭痛の発作の兆候だった。
私はうつむき、心の中に隠れたささやかな喜びが湧き上がるのを感じていた。
光信は左手でこめかみを押さえ、痛みに耐えようとしているようだった。
彼は右手で私の手に無理やりあの珠を握らせる。
帝王としての威厳がその痛みによって剥がれ落ち、彼は珍しくも曇った目で私を見つめ、破れたような声で言った。
「凛、お前を手放すつもりはない」
それだけを言うと、ふらつきながら去っていった。
弥右衛門が急いで後を追うが、途中で戻ってきて、小声で説明するように言った。
「御台所様は、かつて上様の命をお救いになられましたので、上様は......」
前方で光信が苛立たしげに呼びつける声がし、弥右衛門は慌てて何か言いかけては忘れてしまい、ひたすら自分の頬を叩いていた。
弥右衛門は昔から気が小さく、冷遇されていた頃は夜中に幾度も目を覚ましていたものだ。
私は笑いながら彼の肩を軽く叩いた。
「言いたいことは分かってるよ。でも、私にとって長屋は生き地獄みたいなものだから」
それから、きちんとまとめていた荷物から香袋を取り出した。
「これは、ここ数年、石の隙間から摘んだ香草で作ったものだ。気を落ち着かせ、安らかに眠れるから、これでよく休むといい」
弥右衛門は目を潤ませながら、丁寧に香袋を受け取った。
「お元気で」
「お元気で」
私はもう綾と光信の因縁など気にしていなかった。
珠を焼け焦げた瓦礫に投げ捨てると、一切の未練もなく、その場を離れた。
ここ数日、長屋では天然痘で死んだ者が多く出て、遺体は筵で巻かれ、日に何度も外へ運び出されている。
この病には、私は幼い頃にかかったことがある。二度と感染することはないだろう。