春を迎えぬ冬

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春を迎えぬ冬

GoodNovel Hoàn thành
偏執男財閥浮気・不倫泣ける因果応報三角関係

「椿宮さん、本当に全ての身分情報を削除してよろしいのですね?手続きを完了すると、あなたという存在が世の中から完全に消えます。誰もあな...

Chương (1)

第1章

「椿宮さん、本当に全ての身分情報を削除してよろしいのですね?手続きを完了すると、あなたという存在が世の中から完全に消えます。誰もあなたを見つけることはできません」 椿宮千夏(つばきのみや ちなつ)は少し黙り込んだ後、確固たる意志を持ってうなずいた。 「ええ、誰にも私を見つけられないようにしたいんです」 電話の向こう側の声が一瞬驚いたような響きを見せたが、すぐに答えが返ってきた。 「かしこまりました。手続きはおおよそ半月ほどで完了しますので、少々お待ちください」 電話を切ると、千夏はスマホを取り出し、半月後に出発するF国行きのチケットを手配した。 その時、テレビではちょうど蒼月グループの記者会見が再放送されていた。 一週間前のことだ。蒼月グループの総裁、恭一郎が発表したのは、世界で最も希少価値の高いダイヤモンドと宝石を使って制作した、ただ一つの特別なジュエリーだった。その名も――「ユキナツ」。 彼はそのジュエリーに千夏の名前を冠し、全世界に向けて愛を宣言したのだ。 「蒼月恭一郎は永遠に椿宮千夏を愛し続ける」 「ユキナツ」の公開後、瞬く間にネット上で話題をさらい、ランキング上位を独占。どのニュースでも二人の「奇跡の愛」を取り上げていた。 記者会見の映像が終わると、次に流れたのは、街頭インタビューの様子だった。 「こんにちは。お聞きしますが、蒼月総裁と奥様の奇跡の愛についてご存じですか?」 第1話 「椿宮さん、本当に全ての身分情報を削除してよろしいのですね?手続きを完了すると、あなたという存在が世の中から完全に消えます。誰もあなたを見つけることはできません」 椿宮千夏(つばきのみや ちなつ)は少し黙り込んだ後、確固たる意志を持ってうなずいた。 「ええ、誰にも私を見つけられないようにしたいんです」 電話の向こう側の声が一瞬驚いたような響きを見せたが、すぐに答えが返ってきた。 「かしこまりました。手続きはおおよそ半月ほどで完了しますので、少々お待ちください」 電話を切ると、千夏はスマホを取り出し、半月後に出発するF国行きのチケットを手配した。 その時、テレビではちょうど蒼月グループの記者会見が再放送されていた。 一週間前のことだ。蒼月グループの社長、蒼月恭一郎(あおつき きょういちろう)が発表したのは、世界で最も希少価値の高いダイヤモンドと宝石を使って制作した、ただ一つの特別なジュエリーだった。その名も――「ユキナツ」。 彼はそのジュエリーに千夏の名前を冠し、全世界に向けて愛を宣言したのだ。 「蒼月恭一郎は永遠に椿宮千夏を愛し続ける」 「ユキナツ」の公開後、瞬く間にネット上で話題をさらい、ランキング上位を独占。どのニュースでも二人の「奇跡の愛」を取り上げていた。 記者会見の映像が終わると、次に流れたのは、街頭インタビューの様子だった。 「こんにちは。この件についてどう思われますか?蒼月社長と奥様の奇跡のような愛についてお話しいただけますか?」 記者がマイクを向けると、花柄のワンピースを着た女性が羨望を込めて答えた。 「知らない人なんているんですか?二人の愛はまるで物語そのものです!以前、蒼月さんがわざわざ奥さんのためにメモ集を出版したんですって。奥さんがさくらんぼ好きだと知ると、彼は邸宅の庭にびっしりさくらんぼの木を植えたそうです。私も主人に真似してって頼んだら、『そんな男にはなれない』って!本当に人を嫉妬で狂わせますよね」 記者はさらに別の人々にも質問を続けた。 今度は若い女子大生がマイクの前で両手を胸に当て、キラキラとした目で興奮気味に話し始める。 「あの二人、現実のロマンチックラブストーリーそのものじゃないですか!蒼月さん、本当に素晴らしい男性ですよね!四年前、奥さんが腎不全で危険な状態になった時、すぐにドナーとして適合した彼が、自分の反対意見を押し切って手術を受けたって話、有名ですよね?彼は『奥様が僕の命。彼女がいなくなったら僕も生きられない』って言ったらしいですよ。こんな完璧な男、他にいます?」 記者は多くの人にインタビューを重ねたが、誰もが恭一郎と千夏の愛を羨む声ばかりだった。 何度も繰り返し流れるそのニュースを、千夏は淡々と眺めていた。ふと、自分の唇を引きつらせるような微笑みを浮かべる。 幼い頃から彼女の美しい容姿は多くの人を惹きつけていた。 けれど、両親が早くに離婚したこともあってか、千夏は恋愛に期待を持てずにいた。告白されるたびに彼女は決まってこう言ったものだ。 「ごめんなさい。恋人なんていりません。恋愛にも興味がないんです」 そんな彼女の人生が変わったのは、蒼月恭一郎に出会った時だった。 他の誰とも違った。恭一郎は千夏を口説き続け、実に三年も粘り強くアプローチを続けた。一度や二度の拒絶では諦めることなく、むしろ挑戦するたびに勢いを増していくようだった。 ある時、彼女が気に入っていたネックレスを手に入れるため、命を賭けたレースに参加し、大事故で命を落としかけたこともあった。 その時、千夏の心はようやく動いたのだ。 交際が始まった後も、彼の愛情は決して薄れることなく、むしろ彼女を喜ばせるために全力を尽くしていた。徐々に、その真摯な愛が彼女の頑な心を溶かしていった。 求婚に至るまで、恭一郎は実に52回もプロポーズを繰り返した。その執念とも呼べる情熱が、ついに千夏に勇気を与え、彼女は結婚を決意したのだ。 求婚の日、指輪を薬指にはめながら、千夏は涙を浮かべ、彼に言った。 「恭一郎、私、あなたの妻として頑張るよ。生死を共にして、貧しさも分かち合う。だけど、一つだけ約束して。私、嘘だけは絶対に許さない。もし私を騙したら、その時は本当に、あなたの前から消えるから」 二人の輝かしい思い出は、今や残酷な現実に砕かれ、ただの幻となった。 3か月前、千夏は知ってしまったのだ。恭一郎が外に別の女性を囲っていることを。昼間は自分と過ごしながら、夜はその女性の元へ通っていた。彼の心は、とうに二人に分かれてしまっていたのだ。 どうやら「情熱的に燃え上がるほど冷めやすい、ゆっくり熱するほど長く続く」という言葉は本当らしい。千夏は苦々しい笑みを浮かべた。 テレビを消し、準備していた離婚届を取り出すと、静かに名前を書き入れた。彼女はかつての言葉通り、恭一郎の世界から永遠に消え去るつもりだった。 署名を終えると、その離婚届をきれいな箱に入れ、丁寧にラッピングを施した。 1時間後、恭一郎がドアを開けて部屋に入ってきた。 靴も脱がぬまま、彼は急いで千夏の元に駆け寄り、彼女を抱きしめて謝り始めた。 「ごめん、千夏。今日、ジュエリーを取りに行ってたんだ。だから結婚記念日に遅れちゃった。本当に悪かった!怒るなよ、頼むから」 彼は手に「ユキナツ」の入った箱を持っていた。黒いシャツの襟元は微かに開いており、一番上のボタンが外れていた。 恭一郎がふと顔を下げた瞬間、シャツの襟元の隙間から見えた肌には、無数のキスマークと爪痕が刻まれていた。 その光景が千夏の目に突き刺さる。 本当に「ジュエリーを取りに行っていた」だけなのだろうか。それとも、鷺宮梓(さぎのみや あずさ)と夜を共にしていたのだろうか? おそらく、彼は今まさに梓のベッドを出たばかりなのだろう。 それでも恭一郎は、千夏の様子に気付くことなく、満面の愛情を浮かべながらジュエリーを彼女の首にかけた。 その輝く宝石は彼女の美しい顔立ちをさらに引き立て、眩いばかりの輝きを放っていた。 「千夏、本当に似合ってる」 恭一郎は心からの賛美を口にし、その瞳には驚嘆の色が浮かんでいた。 だが、千夏の表情に喜びの色はなく、ただ目を赤くしながらテーブルの上に置いていた離婚届の入ったギフトボックスを彼に差し出した。 「これ、あなたに」 恭一郎はきょとんとして尋ねる。 「なんだい?」 千夏は唇を引きつらせながら答えた。 「プレゼントよ。結婚記念日にあなたが私に用意したものがあるなら、私もお返しをしないと」 その言葉に、恭一郎の目が一瞬で輝きに満たされ、大切そうにその箱を開けようとした。 だが、千夏がそれを制止する。 「半月後に開けて」 「どうして?」 彼は少し戸惑った様子だ。 千夏はひとつひとつ言葉を選ぶようにして答えた。 「このプレゼントはね、半月後に開けた方が、もっと意味があるの」 その言葉を聞いて恭一郎は一瞬目を丸くしたが、それ以上は何も尋ねず、彼女の手をそっと掴むと優しく口づけをした。 「千夏がそう言うなら、そうするよ。僕、楽しみに待つから」 そう言うと、彼はまるで忠実な子犬のように、ポストイットを一枚取り出して何かを書き込み、それを箱に慎重に貼り付けた。 「半月後に開封」 千夏はその様子を黙って見守っていた。 恭一郎――その時が来たら、本当に「驚き」を感じるといいわね。 第2話 朝、目を覚ました恭一郎はいつものように千夏に「おはようのキス」を落とした。 「千夏、昨日は結婚記念日を台無しにしてごめん。今日、ちゃんと埋め合わせするから。いい? 遊園地に行こうよ。前に君が行きたいって言ってたじゃないか」 千夏は特に興味も湧かず、断ろうとしたが、恭一郎はすでに出かける準備を始めていた。彼女の分の服までしっかり用意して。 遊園地に着くと、恭一郎はまるで千夏の専属ガイドのように、常に彼女のそばで気を配っていた。 千夏がほんの少し唇を動かすだけで、すぐに彼は水を差し出す。 彼女がちらりと見ただけのぬいぐるみも、即座に買い求めた。 メリーゴーラウンド、バンパーカー、大観覧車…… そのどれもが子供向けのアトラクションだとしても、千夏が楽しむならと、恭一郎は喜んで付き合った。 「千夏」 手を繋いだまま、恭一郎は一度も手を離さなかった。たとえ千夏が拒んで手を振り解こうとしても、彼はしっかりと彼女の手を握り続けた。 最後には風船を買い、千夏のバッグに結びつけると笑顔で言った。 「千夏、これで君は絶対に迷子にならない」 迷子にならない…… でも、私が行こうとしている場所は、あなたが決して辿り着けないところ。 恭一郎、あなたはもうとっくに私を見失っているのよ。 二人が遊園地で過ごす姿は、まるで絵に描いたように美しかった。恭一郎はハンサムで、千夏もまたその美しさで注目を集めていた。その愛し合う様子は、他の来場者たちの視線を惹きつけずにはいられなかった。 やがて、誰かが二人に気付いたようだ。 「あれ、蒼月グループの社長さんと奥さんじゃない?まさかここでお会いできるなんて!ほんとに素敵なカップル!」 あるカップルの中の女の子が興奮のあまりその場でぴょんぴょん跳ねながら、彼氏の手を引いて千夏に駆け寄った。 「あの……一緒に写真を撮ってもらえませんか?私たち、あなたたちの大ファンなんです!」 千夏はその女の子の輝く笑顔を見て、失望させたくないと思い、うなずいた。 恭一郎は普段写真を撮るのが好きではなかったが、千夏に合わせて快く応じた。 「カシャ」 シャッター音が響き、写真は無事に撮り終えた。女の子は興奮気味に何度も頭を下げながら言った。 「お二人って本当に仲がいいんですね!羨ましい!ずっとそのままでいてくださいね!」 恭一郎は微笑みを浮かべながら、相手に軽くうなずいた。 しかし彼は気づいていなかった。横に立つ千夏が一言も発していないことを。 なぜなら、彼女だけが知っていたからだ――二人の未来はもうないのだということを。 昼食を取っている間の休憩中、恭一郎は何度もスマホを気にしていた。 千夏が視線を向けると、彼は慌てたように申し訳なさそうな声をかけてきた。 「千夏、ごめん。ちょっと仕事が立て込んでてね。すぐ終わらせるから、先に食べてて。後でちゃんと君に付き合うよ、約束する」 だが、次の瞬間、彼のスマホの画面に豪華な城のギフトが流れるのが目に入った。 彼は嘘をついていた。仕事をしているのではなく、ライブ配信を見ていたのだ。 千夏は嘲笑うように唇を歪ませた。静かに自分のスマホを取り出し、梓のライブ配信を開く。 梓は無名のネット配信者だったが、最近、恭一郎の会社に所属し、さらに「ユキナツ」の広告塔にまで抜擢されていた。 周囲は彼女の得た特別な待遇に驚き、誰がその後ろ盾なのかと噂していた。 誰も知らなかった――その後ろ盾が、他ならぬ恭一郎だったことを。 今まさに梓は遊園地の入口でライブ配信をしていた。彼女は自信満々にスマホを持ち上げ、視聴者に向かって得意げに語っていた。 「みんな見て!この遊園地、私の彼氏がプレゼントしてくれたの!私の名前を言えば割引が効くから、ぜひ遊びに来てね!」 その言葉を聞いた瞬間、千夏の手がスマホを握りしめ、冷たく強張った。 この遊園地……彼が彼女に連れてきたこの場所が、梓へのプレゼントだったというの? ライブ配信のコメント欄は疑念で埋め尽くされていた。 「嘘つけ!お前みたいな無名ネット配信者が、そんな大金持ちと繋がるわけないだろ?」 「ただの注目集めだな。証拠がなきゃ信じない。私だって遊園地の前で嘘を吹くくらいできるし」 「マジで有名になりたくて必死すぎる。この遊園地、何億もするって知ってるのかよ」 ...... 梓は悔しそうに唇を噛みしめながら言った。 「嘘なんかついてないわ!ほら、これを見て」 そう言うと、バッグから取り出したのは、遊園地の権利証明書。はっきりとした黒い文字で「鷺宮梓」の名前が記されていた。 その瞬間、ライブ配信のコメント欄は一気に炎上状態になった。 「いや、俺の無知だった。マジでガチの大物見たわ」 「遊園地をプレゼントとか、これ完全に愛妻家として有名な蒼月社長と張り合えるんじゃない?」 「男の愛はお金の使い方で分かるって言うけど、なんで私の周りにはこんな超絶いい男がいないの!」 「そりゃ超絶いい男は世界に二人だけだからだよ。一人は蒼月社長、もう一人がこの鷺宮さんの彼氏だろ。さ、みんな議論だ。どっちが愛妻家か対決だ!蒼月社長に投票するなら1、梓の彼氏に投票するなら2だ!」 画面いっぱいに「1」が並んだ。蒼月恭一郎の愛妻家ぶりは誰もが知るところだった。お金だけでなく、彼は命さえ投げ出しかけたことがあるのだから。 そんな中、突然「恋梓」というアカウント名が現れ、一気に1万隻ものバーチャルヨットを贈りつけた。画面は眩いエフェクトで埋め尽くされ、観客全員が息を呑んだ。 その影響で、梓のライブ配信の視聴者数は数万から一瞬で100万を超えた。 そして、画面いっぱいに明るく流れたコメント: 「もちろん僕の方が梓ちゃんを愛してる」 ライブ配信は大騒ぎになり、視聴者たちは狂ったようにコメントを連投した。 「正体現れた!ヤバい!金持ちすぎる!」 「これが噂の超絶いい男か!」 梓は得意げに笑い、目には愛されていることへの誇りが滲んでいた。 「見たでしょ?私の彼氏がどれだけ私を愛してるか」 その時、千夏はスマホを握る手が小刻みに震えた。視線を上げると、ちょうど恭一郎の柔らかく上がった唇の端が目に入る。 その目には、深い愛情が溢れていた。 彼が「恋梓」だったのだ。 まるで心臓をぎゅっとねじられたような痛みを感じた。それなのに、その痛みは相手が手を離した後も、なおも残り続けていた。 第3話 千夏は胸の痛みに顔を歪め、右手で胸元を強く押さえた。呼吸が浅くなり、苦しそうに肩を上下させていた。 その異変にようやく気づいた恭一郎は、慌てて彼女の元へ駆け寄った。 「千夏、どうしたんだ!?」 その瞳には本物の心配が映っており、まるで彼女に何かあれば自分もその場で命を落としそうな様子だった。 しかし、そんなにも彼女を愛しているはずの彼が、これまでどれだけ多くのことを隠してきたのか――千夏の心にはそれが突き刺さっていた。 感情を必死に抑えながら、千夏はなんとか声を絞り出した。 「大丈夫……ちょっと息苦しかっただけ」 恭一郎はすぐに彼女の胸元をそっと押さえ、何度も様子を確認した後、彼女を車で送り届けることにした。 車の中、彼は必死に話題を振り、千夏を笑わせようとした。仕事の話や昔の出来事、どれも楽しませるための努力だった。 けれど、どんなに彼が頭をひねって話しても、千夏の心は晴れることがなかった。 彼女は窓にもたれかかり、外を流れていく景色を無言で見つめていた。心の中には、彼女自身にも説明できない複雑な思いが渦巻いていた。 「千夏、僕、何か間違ったかな?」 恭一郎が慎重に、探るように問いかけてきた。 「何もないわ」 千夏はようやく口を開いた。「ただ、今日見たドラマのことを考えてただけ」 ほっと胸をなでおろし、彼は笑顔で話題に乗った。 「どんなドラマ?」 その言葉に、千夏はゆっくりと顔を彼に向けた。彼の瞳を真っ直ぐ見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。 「主人公の男は、最初は彼女をすごく愛してたの。でも途中で気持ちが変わっちゃって、ずっと彼女に隠してたの」 彼女は彼の顔をじっと見つめた。ほんの小さな表情の変化すら見逃すまいとするかのように。 「恭一郎、もしもある日、気持ちが変わったら……」 「絶対にない!」 千夏が言い終える前に、恭一郎は勢いよく言葉を遮った。まるでその可能性すら受け入れることができないといった様子だった。 「千夏、僕が一生で一番愛してるのは君だけだ。たとえ全世界の男が裏切るとしても、僕は絶対に裏切らない。僕には君が必要なんだ」 その言葉を聞いても、千夏の胸の奥に刺さった痛みはさらに深まるばかりだった。 彼には彼女が必要だと言う。しかし、彼は他の花に手を伸ばした…… 千夏が何かを言いかけたその時、恭一郎のスマホが鳴り響いた。 彼は一瞬迷いながらも、電話を切ろうと手を伸ばした。 その瞬間、千夏は彼を押しのけ、冷たい声で言った。 「出なさいよ」 恭一郎は素直に電話を取ったが、通話相手が何を話したのかは千夏には分からなかった。 最初は平静を保っていた彼の表情が、次第に瞳孔がわずかに揺らぎ、不自然な様子へと変わっていった。 やがて喉仏を動かしながら電話を切り、千夏に向き直った。 「千夏、会社で急用ができたんだ。今すぐ向かわなきゃならない。君にはタクシーを呼ぶから、それで帰ってもらえる?」 千夏は特に何も言わず、軽くうなずいて車を降りた。 恭一郎のマ○バッハが走り去るのを見送った後、彼女は自分でタクシーを拾い、ドライバーに静かに告げた。 「前の車を追ってください」 運転手は特に質問もせず、エンジンをかけ、一定の距離を保ちながら追い始めた。 前の車がとある邸宅の前で停車すると、タクシーも少し離れた場所で止まった。 千夏の視線の先には、うさぎのメイド服を着た少女がドアを開け、車から降りた男性に笑顔で駆け寄っていた。 その少女は梓で、男性は恭一郎だった。 二人は抱き合ったかと思うと、待ちきれないかのように唇を重ね始めた。 唇を交わし、深く絡み合ったまま、やがて梓が息を整えるようにして恭一郎から顔を離し、彼のネクタイを引き寄せながら笑顔を浮かべた。 「ご主人様、うさぎちゃんからもっとすごいプレゼントがあるんですよ。気になります?」 そう言いながら、彼女の指先は恭一郎の喉仏を軽く突くように触れた。 恭一郎は喉仏を数回動かし、梓の手をしっかりと握りしめ、その目には欲望が色濃く浮かんでいた。 「三十分の道のりを、十五分で来たんだぞ。どう思う、僕が気になってないと思う?」 梓はくすっと笑いながら、細い指で彼を引き寄せ、車の中を指し示した。 「じゃあ、車の中で見ます?」 二人が車に乗り込むと、しばらくして車体が小さく揺れ始めた。 そして、その揺れは次第に大きくなり、激しさを増していった…… 誰も知らなかった――千夏が少し離れた場所に停めた車の中で、すべてを見ていたことを。 彼に対して、もはや期待など抱いていないと思っていた。 だが、実際にその光景を目にすると、それがどれほど心を抉るのかを初めて知った。 まるで鋭い鉤(かぎ)が突然心臓を引っ掛けたような激痛が走る。 千夏は胸を押さえ、必死に呼吸を整えようとしたが、大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。 かつて恋人だった頃、恭一郎は千夏をとても大切にしていた。 どれほど彼女を愛していても、情熱に流されることなく、彼女に手を出すのを堪え続けていた。 「初めては特別なものだから。新婚の夜にこそ意味があるんだ」 そう言って、彼は待ち続けた。 三年間のアプローチ、さらに三年間の交際を経て、ようやく迎えた新婚の夜。 その夜、ビジネス界で名を馳せる彼は、緊張のあまり全く普段の冷静さを失っていた。 千夏の服を脱がせるだけで、彼の耳は真っ赤に染まり、ひどくぎこちなかった。 それほどまでに彼は彼女を大事にしていて、千夏の感情を常に気にかけながら、一歩一歩慎重に進めていった。 そして、彼が千夏を完全に自分のものにした瞬間、彼は感激のあまり涙を流した。 耳元で何度も囁いた言葉―― 「千夏、君はついに僕のものだ。愛してる、永遠に君だけを愛してる」 あの時、彼女は本当に彼の誠実な愛を感じていた。 「この人生で、これほどまでに私を愛してくれる人はもういない」 彼女はそう思っていた。 「恭一郎がただ一人、千夏だけを愛している」 彼自身の口から何度も語られた言葉だ。 しかし今、その誓いを破ったのもまた彼自身だった。 運転席の女性ドライバーは、泣き続ける千夏を見て、深い溜息をつきながらティッシュを差し出した。 「男なんてそんなもの。浮気しない男なんていないわよ。私だって、子どもがいるから離婚もできなくて……」 自分の悲しい話を口にする彼女の声は詰まり、何度か途切れた後、また続けられた。 「お姉さん、泣かないで。もう結婚してるんだから、少し我慢するしかないわ。一度くらい見なかったことにして許してあげたら?」 千夏はティッシュを握りしめ、かすれた声で言葉を紡いだ。 しかし、その声には揺るぎない決意が込められていた。 「いいえ、私は許さない」 恭一郎、私は絶対にあなたを許さない。 家に戻った千夏は、タンスをひっくり返し、これまで恭一郎からもらった贈り物をすべて整理し始めた。 それには高価な「ユキナツ」も含まれていた。 そして、電話を一本かける。 「もしもし、財産管理の方ですか?手元にあるこれらの物をすべて売りたいんです。その売上金を、離婚を望んでいるのに子どもや経済的な理由で諦めざるを得ない女性たちを支援する基金に全額寄付してください」 わずか1時間で、すべての品を発送し終えた。 その後、千夏は静かに荷物をまとめ始めた。 ちょうど半分ほど片付けたところで、突然恭一郎が帰ってきた。 雨風にまみれながら玄関を開け、傘もささずに飛び込んできた彼の体は冷たく濡れていた。 着替える間もなく、彼は焦った様子で千夏の前に駆け寄り、震える声で問いかけた。 「千夏、どうして『ユキナツ』を売ったんだ?」 第4話 「ユキナツ」は非常に高価で、その販売方法はオークションハウスを通じるしかない。 ということは、恭一郎はオークションで「ユキナツ」を見かけたのだろうか? 千夏はすぐに答えず、逆に問い返した。 「あなた、オークションに行ったの?」 恭一郎は一瞬たじろぎ、目を逸らした。その後、数秒の間を置いてようやく答えた。 「君にジュエリーを買おうと思ってね」 本当に彼女のためなのか、それとも梓のためなのか―― 梓があれほどの「サプライズ」を用意していたのだから、彼が何かお返しを準備するのも当然だった。 千夏は感情を押さえ込み、冷静な声で言った。 「売ったんじゃないわ。寄付したの」 その言葉に、恭一郎はため息混じりに彼女の手を握りしめた。 「千夏、君が優しいのは知ってる。でも寄付するなら、他のものを使えばいい。このネックレスだけは絶対に寄付しちゃいけないんだ」 そう言いながら、彼はポケットから黒いベルベットの箱を取り出し、千夏の前に置いた。 箱を開くと、そこには「ユキナツ」が元の輝きを放ちながら収まっていた。 「また買い戻したよ。「ユキナツ」は僕が君を愛している証なんだ。どんな時でも外さないでくれ」 そう言うと、彼は再びそのネックレスを千夏の首にかけた。 彼女は、首に戻ってきたネックレスを見つめながら、かすかに自嘲の笑みを浮かべた。 恭一郎、あなたの演技はどうしてこんなにも上手なんだろう。 ほんの少し前、別の女性の元から慌てて駆けつけたばかりなのに、今では堂々と愛の言葉を語るなんて―― 夜、千夏がようやく眠りにつこうとしたその時、恭一郎のスマホが突然鳴り響いた。 彼はすぐに音を消し、彼女の背中を優しく撫でながら、なだめるような仕草を見せた。 しかし、数秒も経たないうちにスマホが再び鳴り始めた。 同じことが何度か繰り返され、最終的に彼は眉をひそめた。千夏を起こさないよう配慮しつつ、仕方なく電話に出た。 静まり返った部屋の中、その通話相手の声はひときわはっきりと聞こえてきた。 「おい、恭一郎、遊びに来いよ!みんな集まってるんだから、あとはお前だけだ」 恭一郎は即座に断った。 「無理だ。千夏を寝かせなきゃいけないから。じゃあ切るぞ」 「待て待て!そんなに嫁に首ったけかよ。最近全然顔を出さないじゃないか」 「そうだよ。他の奴は嫁ができても友達を忘れないのに、お前は嫁ができたら完全に友達を捨てたな。ひどすぎだろ」 通話の向こうは騒がしく、仲間たちの不満が聞こえてくる。 恭一郎はため息をつきながら、マイクを手で覆い、小さな声で言い放った。 「もういい。静かにしてくれ。何度も言ってるだろ、世界中の誰よりも僕の妻が大事なんだ。今日は彼女と一緒にいる」 恭一郎が何を言っても、電話の向こうは全く引き下がる様子を見せなかった。 次々と仲間が代わり、どうしても恭一郎を連れ出そうと躍起になっていた。 話が平行線を辿る中、とうとう目を覚ました千夏が口を開いた。 「あなた、行ってきたら?久しぶりに会うんでしょ」 恭一郎は不満そうな顔をしながらも、千夏の再度の促しに最後には折れた。 「じゃあ、一緒に行こう。君が行かないなら、僕も行かない」 電話の向こうからすぐに声が上がる。 「奥さん、一緒に来てくださいよ!みんなでワイワイしたらきっと楽しいですって!」 「そうそう、お願いだから来てくれよ!君が来ないと恭一郎が出てこないんだ!」 最終的に千夏がうなずいたことで、ようやく恭一郎は家を出た。 彼らが部屋のドアを開けると、中では仲間たちが左右に十数人の女性を抱きしめて騒いでいた。 恭一郎はその光景に眉をひそめ、何のためらいもなく部屋を出て行こうとした。 慌てた仲間たちはすぐに状況を理解し、女性たちを急いで追い払った。 「出て行って、さっさと出て行け!」 部屋の女性が全員いなくなると、仲間たちはやれやれと肩をすくめながら恭一郎に近寄り、肩をポンと叩いた。 「恭一郎、お前ほんと変わらないな。結婚してから、奥さん以外の女を寄せつけないなんてよ」 恭一郎は嫌そうにその手を払いのけ、さらに存在しない埃を払う仕草までしてみせた。 「僕は結婚してるんだ。千夏に安心してもらわなきゃいけないだろ。お前みたいに独身の奴には分からないさ」 その言葉に、部屋中の仲間たちが一斉に笑い出し、冷やかしの視線を千夏に向けた。 表向きは「兄弟たちとの再会」だったが、恭一郎の視線は最初から最後まで千夏だけを追っていた。 誰かがタバコを吸い始めると、恭一郎は冷たい視線を送りつけ、その人を黙らせた。 「千夏はタバコの匂いが嫌いなんだ」 誰かが彼にお酒を勧めると、彼はきっぱりと首を振った。 「千夏は僕にお酒の匂いがつくのも嫌なんだよ」 誰かがカラオケを始めると、眉をひそめて一言。 「やめろ。千夏は静かな方が好きだ」 冷たい顔で周囲の誘いをことごとく断り続けた彼は、ただ一心に千夏のために果物を剥き続けた。 彼の手の中で小さな果物ナイフはまるで芸術品を作り出すように動き、完成した一皿の果物はどれも美しく仕上がっていた。 それを千夏の前に差し出しながら、彼は微笑んで言った。 「千夏、食べて」 さらに彼女が薄着であることに気づくと、室内の冷房が強いことを考慮して、自分のジャケットを脱ぎ、そっと彼女の肩に掛けた。 「千夏、これで少しはいいかな。まだ寒い?」 その様子を見た仲間たちは一斉に感嘆の声を上げ、冷やかし始めた。 「恭一郎、奥さんがいるのも納得だわ!」 第5話 千夏はずっと無言のままだった。しばらく付き合ったものの、これ以上彼に演じる気力は残っていなかった。 「もう遅いわ。私は帰る」 そう言って立ち上がると、恭一郎も一緒に立ち上がりかけた。 しかし、仲間たちが慌てて彼を引き止める。 「奥さんはゆっくり休むべきだよ。俺たち、こんなに久しぶりに集まったんだから、お前が先に帰るのはなしだろう?」 「そうだよ!奥さんには美容のために寝てもらって、今夜はお前が俺たちに付き合えよ」 千夏は恭一郎の手をそっと振りほどき、静かに言った。 「運転手さんが送ってくれるから。あなたはここに残って」 その言葉を残し、彼女は振り返りもせずに立ち去った。 あまりに早くその場を離れたため、恭一郎が止める間もなかった。 車が走り出して間もなく、千夏はポケットに入れていたスマホの中に、見覚えのない黒いカバーのスマホを見つけた。 それは自分のではなかった――恭一郎のものだった。 彼女は眉をひそめ、運転手に車をUターンさせるよう指示した。 車がバーの前に着いた時、ちょうど梓がタクシーから降りてくるのが見えた。 彼女はスマホを手に、自分のメイクを何度も確認しながら、足早に個室の方へ向かっていた。 千夏はその様子を見て、無意識に手にしたスマホを握りしめた。 そして、梓の後を追った。 予感は的中した。梓は恭一郎がいる個室の前で足を止めたのだ。 扉を開けると、梓はすぐさま恭一郎の腕の中に飛び込んだ。 恭一郎も自然な仕草で彼女の腰に手を回し、優しく髪を撫でた。 「どうしてそんなに早く来た?」 梓は彼の肩に顔を預け、可愛らしく笑いながら答える。 「だって、会いたかったんだもん!恭一郎から電話をもらったら、すぐに駆けつけちゃった」 恭一郎は低く笑いながら、彼女に向かってこう言った。 「じゃあ、これに報いないとな」 そう言うと、彼は彼女の唇に熱いキスを落とし、次第に深く唇を絡めていった。 「もう、やめろよ!ここでイチャつくな!」 仲間たちはまるで見慣れた光景であるかのように笑いながら茶化した。 千夏は部屋の外、ドアの隙間からその一部始終を見ていた。 身体の芯まで冷たくなり、まるで氷に閉じ込められたような感覚に襲われた。 彼が梓と関係を持っていることは、仲間全員が知っていたのだ。 そして、みんなで彼女の前で演技を続けていた。 「恭一郎、梓も来たことだし、そろそろ盛り上がる大人のゲームでもやらないか?」 仲間たちは楽しげに笑い、目配せしながら手を叩くと、仕切りの向こうから先ほど追い出した女性たちを再び呼び寄せた。 ほどなくして、部屋の中ではほとんど全員が女性を腕に抱いていた。 ゲームのルールはシンプルだ。酒瓶を回し、瓶の口が指し示した相手が「真実か挑戦か」を選ぶ。 ゲームは何度か進行し、ついに瓶の口が恭一郎を指した。 その瞬間、仲間たちは盛り上がり、部屋の雰囲気は最高潮に達した。 「恭一郎、最後はいつだった?」 質問者は意味ありげに笑い、その場の全員が言葉の意図を理解した。 恭一郎は眉を軽く上げ、まるで何事もないように答えた。 「昨日。車の中で」 その言葉が響いた瞬間、場内は騒然となった。 「おいおい、さすがだな!で、どうだったんだ?」 梓は顔を真っ赤に染め、恭一郎の胸元に顔をうずめていた。 そんな彼女を抱きしめながら、彼は口元に薄い笑みを浮かべ、一言ずつはっきりと答えた。 「満足させてくれた。とても、素晴らしかった」 「ハハハ!俺が前から言ってただろう、家の花より野の花の方が香るってな!」 「そうだよな!俺たちみたいな身分なら、外に何人か女がいて当然だろ?」 「バレさえしなければ、一生楽しくやれるさ。奥さんには絶対に気づかれないよ」 そう言いながら、彼らはそれぞれ腕に抱いた女性にキスをし、さらに親密な仕草を見せた。 千夏の名前が出た瞬間、恭一郎の笑顔は一気に消え、表情は真剣なものへと変わった。 「千夏にだけは知られるな。それがどういう結果を招くか、君たちはわかってるだろう」 「わかってる、わかってる!奥さんには絶対バレないさ!」 彼らの言葉と笑い声は、千夏の耳に一字一句漏れることなく届いていた。 部屋から響き渡る賑やかな笑い声の中、千夏の身体は完全に冷え切っていた。 足元はいつの間にか感覚が麻痺し、まるで魂を失ったかのように力なく外へ向かって歩き始めた。 外で待っていた運転手が彼女の異変に気づき、駆け寄ろうとした。 「奥さん、大丈夫ですか?旦那様に……」 だが、千夏は彼を制止した。 「必要ないわ。一人で歩きたい。それと、恭一郎には絶対に私がここに来たことを言わないで」 そう告げると、彼女は運転手を帰らせ、一人で人気のない街を歩き始めた。 間もなく、大雨が突然降り出した。しかし、千夏はまるで気づかないかのように、歩みを止めなかった。 冷たい雨が彼女の体をさらに冷やし、逆に心を鋭く覚醒させていく。 どれだけ歩いたのか、彼女にはわからなかった。 ただ、一つだけ確信があった――十七歳のあの夜、足を捻挫して恭一郎に背負われて家まで運ばれた、あの雪道よりも、ずっと長く感じられる道のりだということ。 心からの愛は、こんなにも簡単に変わってしまうものなのか。 第6話 家に戻った千夏は、すぐに高熱を出してしまった。熱はなかなか下がらず、体力を奪われた彼女はぐったりとしていた。 その頃、酔いの残る恭一郎が帰宅した。彼は千夏が意識を失い、赤く火照った頬で横たわっているのを見て、驚きと焦りで青ざめた。 すぐに彼女を抱き上げ、車を走らせて病院へ向かった。 次に意識が戻ったとき、千夏は重い瞼を少しずつ開けた。 彼女が目を覚ましたのを確認すると、薬を交換していた看護師は驚きと喜びの表情を浮かべた。 「奥様、やっと目が覚めましたね!丸一日熱が下がらなくて、ご主人はとても心配されていましたよ。ずっとそばにいらっしゃいましたが、さっき電話がかかってきて、少しだけ席を外されています。お知らせしましょうか?ご主人、きっと喜びます」 千夏は首を振り、かすれた声で答えた。 「いいえ……必要ありません」 看護師はそれ以上何も言わず、薬の交換を終えると部屋を出て行った。 広い病室には静寂が訪れ、千夏の耳には外で電話をする恭一郎の声が微かに届いてきた。 恭一郎は普段冷静で穏やかだが、彼女のこととなると感情を抑えられないことが多かった。 しかし今の彼の声は、喜びと興奮に満ちていた。 そのうち、足音が遠ざかり、彼が病院を出て行ったのが分かった。 千夏は全身の力を振り絞ってベッドを下り、ゆっくりとその後を追った。 階下に降りたところで、彼女はちょうど恭一郎が梓を支えながら産婦人科から出てくる姿を目撃した。 二人の顔には隠しきれない笑みが浮かび、上がった口角は喜びを抑えられないことを物語っていた。 千夏の存在に気づいた梓は、わざと驚いたような声を上げた。 「奥様、こんな偶然があるんですね!病院でお会いするなんて」 その声に反応し、恭一郎も振り返った。視線が千夏と交わると、彼の身体はピクリと緊張し、すぐに梓を支えていた手を放した。 「千夏、これは……僕が薬を取りに来たときに、偶然梓にぶつかってね。彼女、妊娠してるんだ。それで何かあったらいけないと思って、ちょっと支えただけなんだ」 彼は焦りながら弁解し、誤解を避けようと必死だった。 しかし千夏は梓の腹部に目をやると、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。 一度目を閉じてから、彼女はしばらく沈黙した後に口を開いた。 「鷺宮さん、いつごろ妊娠が分かったの?お子さんの父親は?」 梓は幸せそうにお腹を撫でながら、甘い笑みを浮かべた。 「ちょうど確認したばかりで、もう一か月なんです。パパは今日は来られませんでしたけど、私が妊娠したと聞いて大喜びしてくれました!豪邸をいくつも買ってくれたし、口座には十億円を入金してくれたんです。今夜は街中で花火を打ち上げて、お祝いする予定なんですよ!」 嬉しそうに語る梓を見つめながら、千夏はしばらく何も言わなかった。 そして、ようやく薄く笑みを浮かべて言った。 「そう……素敵ね」 梓は微笑みながら、さらに得意そうな表情を浮かべた。 「そうですよ、奥様。今日はちょうど時間がありますし、一緒にお食事でもどうですか?子どものお父さんもお呼びしますね」 その言葉に、恭一郎の表情は一瞬で険しくなり、冷たい視線を梓に向けた。 「必要ない。千夏にはそんな時間はない」 そう言い切ると、恭一郎はすぐに千夏を優しく抱きしめ、彼女をなだめるように穏やかな声で言った。 「千夏、まだ体調が良くないんだから、無理をしないで家で休んでいよう。 ただの広告モデルに過ぎない。気にすることはないさ」 恭一郎の冷たい物言いに、梓の顔色は青くなったり白くなったりして、瞬く間に変わった。 やがて、目に涙を浮かべながらうつむき、か細い声で訴えた。 「そ、そうですね……私なんかが奥様とお食事なんて、身の程知らずでした……」 そう言うと、彼女は目元を拭いながら、まるで拗ねた子どものようにその場を立ち去った。 恭一郎は一瞬動揺し、追いかけようと足を踏み出しかけた。 だが、ふと隣に立つ千夏が静かな目で彼を見ているのに気づくと、結局その場を動けなかった。 千夏が処方された薬を受け取った後、彼女はそのまま退院して家へ戻った。 しかし、先ほど梓に声を荒げたことで気まずさを感じたのか、帰り道の車内でも恭一郎の心はここにあらずだった。 家に着くと、「会社の仕事がある」と言い訳をし、彼は自分を書斎に閉じこもった。 千夏が部屋に戻った直後、スマホに梓からのメッセージが届いた。 送られてきたのは妊娠検査の写真だった。 それに続くのは、挑発的なメッセージの連続だった。 「千夏さん、あなたは今日気づいてたはずよね。子どもは恭一郎のよ。彼があなたを本当に愛しているなら、私の存在をどう説明するつもり?」 「彼が私にどれだけ夢中か知ってる?あなたの誕生日も、結婚記念日も、あなたを寝かせた後は私の元に来ていたのよ。彼、とても激しいの。毎回コンドームを何箱も使うし、翌日はいつもベッドから起き上がれないくらい」 「彼のマ○バッハでも、彼の社長室でも、あなたたちの婚室でも、愛の痕跡を残したわ。72の体位、全部試した。愛と性は切り離せないわよね。彼があなたにこれほどの情熱を注いだことなんてある?」 その挑発的な内容を目にした千夏は、深く息を吸い込み、湧き上がる感情を必死に押し殺した。 そしてスマホの画面を消そうとした瞬間、背後から恭一郎が彼女を抱きしめた。 「千夏、何を見てたんだ?」 彼は彼女の首筋に顔を埋めながら尋ねた。目に入ったのは、真っ暗になったスマホの画面だけだった。 第7話 「なんでもないわ」 千夏は赤くなった目を隠すように、窓の外を見つめた。 次の瞬間、夜空に無数の花火が打ち上がり、鮮やかに空を彩った。 その景色を眺めながら、彼女は昼間に梓が言っていた言葉を思い出した。 今夜、恭一郎が私のために街中で花火を打ち上げるって。 窓の外の花火に見とれる千夏の姿を見て、恭一郎は優しげな目で彼女を見つめた。 「花火が好きなのか?じゃあ、君のためにもっと盛大な花火を用意するよ。この花火以上のものを、どうだ?」 彼は千夏をしっかりと抱きしめ、優しい声で囁いた。 千夏は微笑んだが、その笑顔には苦味と涙が滲んでいた。 「恭一郎……私は、人が使ったものが好きじゃないの」 花火でも、人でも。 彼女の言葉を聞いた恭一郎は、一瞬心臓が跳ねるような感覚を覚えた。 明らかに花火のことを言っているのに、なぜか動揺が押し寄せたのだ。 一瞬の沈黙の後、彼は彼女をさらに強く抱きしめた。 「じゃあ、他のサプライズを用意するよ。君が羨むことのないように、特別なものをね」 千夏は黙ったまま、遠くを見つめていた。何も答えず、ただ静かに。 それから数日間、恭一郎は朝早くに家を出て、夜遅くに帰宅するという生活を繰り返した。どこか落ち着かない様子で、神妙な態度を見せることが多くなった。 そんな彼を見て、家の使用人たちが笑いながら話しかけてきた。 「奥様、旦那様はきっと何かサプライズを用意しているんですよ!」 「本当に旦那様は奥様を大事にされていますね。最近では専用ジュエリーをオーダーしたと思えば、また別の驚きを計画されているようです」 だが、千夏はその言葉を聞いても無表情のままだった。何の感情も見せず、ただ静かに話を聞くだけだった。 そんなある日、恭一郎がにこやかに彼女の手を取り、外へ連れ出そうとした。 「千夏、これから君をある場所に連れて行くよ。きっと気に入ると思う」 千夏が拒否しようとしたその時、彼女のスマホが振動した。 画面を確認すると、梓からのメッセージが届いていた。 「千夏さん、今の彼の心の中で、君と私、どちらが大切だと思う?」 次の瞬間、恭一郎のスマホが振動した。 千夏はその画面に目を向け、ちらりと見ただけで何が映っているか理解した。 梓が送った写真だった。黒いストッキングに包まれた脚の写真。そして、続くメッセージにはこう書かれていた。 「早く来てね。待たないわよ〜」 その瞬間、恭一郎の目が微かに揺れ、喉仏が上下に動いた。 数秒間迷うような仕草を見せた後、彼はスマホをポケットにしまい、千夏に向き直った。 「千夏、すまない。あるプロジェクトで問題が起きて、すぐに対応しなければならないんだ。 また次の機会に君を驚かせるから、その時を楽しみにしていてくれないか?」 彼の言葉に、千夏は静かに彼の目を見つめた。そして、ふと微笑んだ。 しかし、その笑みにはどこか冷たさと苦味が混ざっていた。 彼女の笑顔を見た瞬間、恭一郎は胸の奥で不安を覚えた。それでも彼女が何も言わず車を降りると、ほんの3秒だけ躊躇した後、彼の車はすぐに発進した。振り返ることなく。 数時間後、千夏のスマホにまた梓からのメッセージが届いた。 添付されていたのはゴミ箱に捨てられた大量の使用済みのコンドームの写真だった。そして、続く挑発的な言葉―― 「千夏さん、また負けちゃったね。私、まだ妊娠中なのに、彼ったら待ちきれないみたい。どれだけ私を愛してるのか、わかるでしょ?」 梓の得意げな口調を読んでも、千夏は何も返さなかった。 すでに彼女は決めていた。離れることを。 だから、こんな挑発にはもう傷つかない。 その後、数日間、恭一郎は家に戻らなかった。 千夏も一度も彼のことを尋ねなかった。 しかし、その間も梓からのメッセージは途切れることなく届き続けた。 送られてきたのは、恭一郎が剥いた果物、山のような高級ブランド品、さらには彼が自ら作ったという手料理の写真だった。 それらすべてが、いかに恭一郎が梓を愛しているかを誇示する内容だった。 千夏は相変わらず何も返信せず、ただ一つの目的に集中していた。 ――この家から自分の痕跡をすべて消し去ること。 もし消えるのなら、完全に消え去るべきだと彼女は思っていた。 第8話 最初の日、梓が送ってきたのは、恭一郎が彼女のために自らエビを剥いている写真だった。 その夜、千夏は火鉢を準備し、恭一郎と一緒に撮ったすべての写真を燃やした。 二日目、梓から送られてきたのは、恭一郎が彼女とアオギリの木の下でキスをしている写真だった。 千夏は工事業者を呼び、別荘の庭に恭一郎が手植えしたすべてのサクランボの木を切り倒させた。 三日目、梓はライブ配信の中で恭一郎が彼女への愛を語った映像のハイライトを送りつけてきた。 千夏は過去に恭一郎が彼女へ送った何百通ものラブレターを引っ張り出した。 年月を経て少し色あせた紙の上には、今でも鮮明な文字が残っていた。 千夏はその文字を一度だけ指で撫でると、何の未練も見せずにラブレターをすべてシュレッダーにかけた。 そして、出発の日の朝。 千夏が目を覚ますと、そこには久しぶりに帰宅した恭一郎が立っていた。 彼はベッドのそばに立ち、手には千夏のスマホを持っていた。 彼女が目を覚ますと、深い眼差しで彼女を見つめながら尋ねた。 「千夏、さっき君のスマホにメッセージが来てた。『削除手続き完了』って。君、何を削除したんだ?」 その言葉に、千夏の心臓は一瞬止まりそうになった。 彼女は急いでスマホを取り返し、画面を確認した。 それは彼女が申請していた身分情報の削除が完了した通知だった。 幸いにもスマホにはパスコードが設定されており、恭一郎が目にしたのは通知の一部だけだった。 千夏は心を落ち着けると、何気ない口調で答えた。 「別に大したことじゃないわ。SNSのアカウントがハッキングされてたから、復旧して削除しただけよ」 その答えに、恭一郎は安堵のため息を漏らし、彼女をそっと抱きしめた。 そして微笑みながら言った。 「千夏、僕が君の好きなものを買ってきたの、わかる?」 彼女は一瞬動揺し、少し間を置いてから静かに答えた。 「東城のお餅でしょう?」 恭一郎は目を見開き、驚きの表情を浮かべた。 「なんで分かったんだ?」 分からないはずがなかった。 かつて交際していた頃、恭一郎は彼女を怒らせるたび、東城の店までわざわざお餅を買いに行き、それを手にして謝りに来たものだ。 その甘く香ばしい香りが鼻をくすぐるだけで、彼女の怒りはすぐに消えた。 彼女は宝石にも高級車にも興味がなく、ただそのお菓子が好きだった。 恭一郎はその時よく笑いながら言っていたものだ。 「僕の千夏、簡単に機嫌が直るよね」 その言葉に、彼女は彼の額を軽く指で突きながら返したものだった。 「簡単なんじゃないの。私がまだあなたを愛してるからよ。だから何をされても許せるの」 そして、いつも続けてこう言った。 「もし、いつか私があなたを愛さなくなったら――その時は、目の前で命を絶たれても許さないわよ」 記憶の中の思い出が遠ざかる中、恭一郎は背後からお餅が入った箱を取り出し、優しい笑みを浮かべながら言った。 「やっぱり、僕は君に何一つ隠せないな」 その言葉に、千夏は笑みを浮かべ、一言ずつ噛み締めるように答えた。 「そうね、あなたは何一つ私から隠せないわ」 その言葉を聞いた瞬間、恭一郎の心が一拍漏れるような感覚に襲われた。 「千夏……」 彼は思わず呟いた。 しかし、千夏はそれ以上何も言わず、ベッドを降りて洗面所へ向かった。 洗面を終え部屋に戻ると、恭一郎が急いで家を出ていく姿が目に入った。 千夏は二秒ほど考えた後、彼の後を追った。 ドアの外に出た瞬間、彼女は足を止めた。 目の前には梓が立っていたのだ。 驚いた千夏以上に、動揺を隠せなかったのは恭一郎だった。 彼は梓に向かって速足で近づき、険しい顔で彼女の手を掴んだ。 「お前、正気か?なんでここに来たんだ!千夏がいるときは絶対に顔を出すなって言っただろう!」 その怒鳴り声に、梓は全身を震わせ、目を潤ませて彼の服の裾を掴んだ。 「だって……一秒でもあなたと離れていたくないの。赤ちゃんも一緒に……」 そう言うと、彼女は彼の手を引き、自分の腹部にそっと触れさせた。 しかし、恭一郎は冷たい表情のまま手を引っ込めた。 「ふざけるな。今すぐ秘書に送らせるから帰れ。数日後には君と子どものところに行く」 梓は首を横に振り、彼の手をしっかり掴んだまま甘えるように言った。 「いやよ!秘書なんかじゃ嫌!あなたに送ってほしいの!」 そう言うなり、彼女はつま先を上げて彼のネクタイを引っ張り、その唇を奪った。 恭一郎は最初、眉をひそめて彼女を押しのけようとしたが、彼女がしつこく唇を追ってくると、ついに彼は彼女を力強く抱き寄せ、そのキスに応じ始めた。 二人は庭で激しく唇を重ね、次第にその熱が深まっていった。 彼の手が彼女の服の中へ滑り込むと、まさに取り返しのつかない瞬間を迎えそうになったが、彼はギリギリで踏みとどまり、強引に梓を押しのけた。 「もう行け」 梓は目に涙を浮かべながら、甘えるように彼の胸に寄り添い、耳元で何かを囁いた。 その言葉に、恭一郎の表情が微妙に変化した。 やがて、彼は小さく息をつきながら答えた。 「わかった。今日は君に付き合うよ。車に乗ってて。あとで行く」 梓は満足そうに笑い、目を細めながらお腹に手を当て、そのまま車に乗り込んだ。 恭一郎が戻ってくるのを確認した千夏は、その場を静かに離れた。 間もなく、恭一郎が家に入るなり言ったのは、こうだった。 「千夏、本当は今日は君とゆっくり過ごすつもりだったんだ。でも、さっき急な仕事の電話があってね。どうしても出なきゃいけないんだ。君はここで待っていてくれ。これが終わったら、丸一日君と過ごすから、いいかな?」 彼は千夏の反応をじっと待ち、内心では彼女が怒ったり、疑ったりしないか不安だった。 だが、千夏はただ静かに彼を見上げるだけだった。 その一瞬の視線だけで、恭一郎は言葉を失った。 いつからだろう――彼の千夏の目が、こんなにも光を失ってしまったのは。 喉仏が動き、彼は絞り出すように彼女の名前を呼んだ。 「千夏……」 何かを言おうとする彼を制するように、千夏が口を開いた。 彼女は微かに唇を上げ、淡い声でこう言った。 「行って。仕事、頑張ってね」 その声はいつも通り優しく、何一つ変わらないように思えた。 その言葉を聞いた恭一郎は、ようやく胸をなでおろし、疑念を払った。 彼は彼女の髪を優しく撫で、笑みを浮かべると、そのまま家を後にした。 間もなく外から車のエンジン音が聞こえ、次第に遠ざかり、そして完全に消えていった。 千夏の顔から微笑みは消え、代わりに静かに涙が頬を伝った。 彼女はそれを手の甲でぬぐい、テーブルの上にあったお餅をすべてゴミ箱に投げ入れた。 その後、彼女は部屋に入り、用意していた荷物を取り出した。 家の中を最後に見渡し、ひと呼吸置いてから、恭一郎に最後のメッセージを送った。 「半月が経ったわ。前に贈った結婚記念日のプレゼント、開けてみて」 メッセージを送って間もなく、彼から即座に返信があった。 「千夏、すぐに帰るよ。その時一緒に見よう」 その言葉に、千夏は微かに笑った。 一緒に? 恭一郎、君がいるのは、君だけの世界だよ。 これから先の人生も、ずっとね。 彼女は梓から受け取ったすべての挑発的なメッセージを転送し終えると、スマホからSIMカードを取り出し、ためらうことなく手で折った。 最後に、千夏は荷物を手に家を出た。 外は眩しいほどの朝陽が降り注ぎ、素晴らしい天気だった。 これからの人生、誰も彼女を見つけることはできないだろう。