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心に刻んだ名前
私は今、かつて学校で私をいじめていた男と一緒にいる。 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、静かに部屋を照らす。私はほんのわずかに腕を動...
Chương (1)
第1章
私は今、かつて学校で私をいじめていた男と一緒にいる。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、静かに部屋を照らす。私はほんのわずかに腕を動かした。
すると、腰に回された腕が、それに応じるようにぎゅっと力を込める。
高田智秀は私の首筋に唇を押し当て、寝起きの掠れた低い声が、耳元に落ちた。
「昨夜は……ちゃんと寝てたのか?」
一瞬、身体がこわばった。でも、私は素直に小さくうなずいた。
昔の私なら、少しくらいは抵抗したかもしれない。けれど、彼は三週間という時間をかけて、私にひとつのことを教えた。
──従えばいい、と。
彼が私の手を取り、指を絡めた。
ゆっくりと、指の間をなぞるように撫でながら、私の髪に顔を埋め、低く笑った。
「今度は……ちゃんとつけてるんだな?俺の指輪」
……
彼の視線の先は、私の薬指。そこには、煌めくダイヤの指輪がはまっている。
これまでに彼が私に渡した指輪は、二つ。一つは冷蔵庫の奥に隠し、もう一つはマンションの庭にある噴水へ投げ捨てた。
その二つの指輪が招いた結末は、今は思い出したくない。
ただ、三つ目の指輪が導いた未来は、もう決まっている。
──私は、この世で最も恐れていた人と、
結婚するのだ。
第1話
バスルームでシャワーを浴びる時間が好きだ。
彼の顔を見ずに済むし、嫌な記憶に苛まれることもないから。
けれど、洗面台の鏡をぼんやりと眺めていると、曇ったガラス越しでも、肌に刻まれた消えない痕跡がはっきりと目に映った。
充血した瞳で、私は鏡の中の自分をじっと見つめた。
すると、不意にバスルームのドアをノックする音が響く。
智秀が、ゆったりとした調子で言った。
「ずいぶん長いな?
出てこないなら、入るぞ」
「……」
彼は以前にも、何の前触れもなくバスルームに入ってきたことがある。私はすぐにシャワーを止め、バスタオルを体に巻きつけた。
朝食は、いつも通りきちんとテーブルに並べられていた。けれど、智秀は手をつける気配がない。
テレビでは朝のニュースが流れ、彼はすらりとした指で、手際よくネクタイを締めていた。
私がぼんやりと彼を見つめていると、ふいに顔を近づけ、鼻を軽くつままれる。
「そんなに見るのが好きか?次は君が締めてくれる?」
私は視線をそらした。
彼は、まるで面白がるように低く笑う。
そして、わざわざ私の飲んでいたミルクを手に取り、唇の跡が残る部分に口をつけて飲んだ。
「いい子にして待ってろよ。
今夜、ウェディングドレスを見に行くぞ」
智秀が出て行った。
私はただ、呆然とテレビを見つめ続けた。
気がつけば、彼が口をつけたグラスを手に取り、テレビに向かって思いきり投げつけていた。
テレビはかすかに揺れただけ。けれど、グラスは床に叩きつけられ、粉々に砕けた。
鋭い音が静寂を切り裂き、使用人たちの驚いた声が遠くから聞こえた。
私は膝を抱え、その場に座り込み、泣いた。
智秀――それは、私にとっての悪夢だった。
高校時代、あのグループの中で、誰よりも執拗に私をいじめたのが彼だった。
彼は私のカバンを開き、教科書をすべて校舎の窓から放り投げたことがある。
彼の一声で、クラスの誰もが私を避けるようになった。
彼のそそのかしで、女子たちは私をトイレに連れ込み、頬を叩いた。
彼が先頭に立って私を笑い者にする限り、誰も助けてはくれなかった。
なぜなら、智秀は某大企業の会長の息子だったから。
私たちの学校には、彼の家が寄付した校舎が建っていた。
彼が笑えば、教室中が笑った。彼が嘲れば、私を嘲る声が渦巻いた。
彼の端正な顔立ちは、女子たちの憧れだったらしい。
けれど、私にとって彼は、夜ごと私の眠りを蝕む悪魔だった。
そんな彼が――
卒業して七年後に。
「お前を娶る」と言った。
私は、今でも智秀の前では震えてしまう。
たとえ、彼と同じベッドで三週間を過ごしていたとしても。
誰も私を助けてはくれない。
母は、智秀ほどの家柄の男が私を娶ると知り、感謝してもしきれないとさえ思っている。
智秀は、また車を替えたようだった。今度の車は、後部座席がやけに広かった。
第2話
でも、私は後部座席の広い車が好きじゃない。
中央の仕切りが上がれば、運転席からは何も見えなくなる。誰にも、後ろで私たちが何をしているのか分からない。
けれど、今日の智秀は、いつもより静かだった。
私がずっと震えていたからかもしれない。車内は十分に暖かくなっていたのに、それでも私は震え続けていた。
彼は私の反応を意に介さず、腕を伸ばし、私を抱き寄せた。
「結衣、そんなに怖いのか?」
低く囁く声が耳をくすぐる。分かっているくせに。私がこうなっている理由を、誰よりも知っているくせに。
「あとで、ウェディングドレスを選びに行こう。な?」
私は小さく震える身体を必死に抑え込んだ。けれど、笑いを堪えられなかった。
まさか、私を地獄へと突き落とした張本人が。
今になって優しい声で「ウェディングドレスを選びに行こう」だなんて。
智秀が私を連れてきたのは、あるプライベートヴィラの中にあるブライダルサロンだった。
シャンデリアの光がきらめき、マネキンに飾られたドレスを一層華やかに映し出している。
けれど、私は見る気も、選ぶ気もなかった。
智秀とデザイナーが、どんなデザインをオーダーメイドするか話し合っている。
アシスタントが私の体のサイズを測っている。
でも、私はそれよりも、店の裏庭のほうに興味があった。
彼らの会話をよそに、私は裾を持ち上げ、小さな庭へと向かった。
庭の奥には門があり、その先にはどこまでも自由が広がっているように思えた。
私は、何度も何度も逃げることを考えた。
けれど、いざ逃げる勇気を振り絞ったとき、どこへも行けない自分に気づいて、ただ絶望するばかりだった。
母は智秀との結婚を心から望んでいた。私の手を握り、「いい加減、わがままを言うのはやめなさい」と諭した。
私は小さな池のそばに腰を下ろし、ぼんやりと水面を眺めていた。やがて、智秀が話を終え、私を探しにやってきた。
「何を考えてる?」
彼はいつもそうだった。上から目線で、私に問いかける。
私は静かに、腕をまくった。
手首には、小さな赤い痕が残っていた。
丸い傷跡。その周りは、盛り上がった皮膚が硬くなっている。
「見て。あなたがつけた傷」そう言って、私は手首の傷跡を指さした。
あれは、高校の時。彼がいつものように不機嫌だった日、私を壁際に追い詰め、火のついたタバコの先を押し当てた。
痛かった。あまりに痛くて、その後の記憶はすべて霞んでいる。
智秀は、しばらく私の手首を見つめていた。そして、静かにしゃがみ込んだ。
私は認めたくなかった。それでも、智秀の顔は、確かに完璧だった。
まるで、古代ギリシャの彫刻家が作り上げたかのように、美しく整っている。
もし彼が優しい目で見つめれば、おそらく誰もがその深みに溺れてしまうだろう。
だからこそ、西洋の聖書にはこう書かれている。──悪魔は、人を惑わす一番美しい顔を持っている、と。
ライターの音とともに、炎が揺れた。彼は私の目の前で、静かにタバコに火をつけた。
私は反射的に肩をすくめる。また、タバコの火を押し付けられるのではないかと、思わず身をこわばらせた。
だが、次の瞬間。彼は何の躊躇もなく、その火を自分の手首に押し当てた。
ちょうど、私の傷と同じ場所に。
「少しは楽になったか?」彼は静かにそう言った。
私は言葉を失い、視線を落とした。揺れる煙と、肌に刻まれた新しい傷。
智秀がそっと、私を抱き寄せた。
「結衣……お前の痛みを、少しでも俺に分けてくれたらいいのに」
夏の夜の池のほとり。水面には月光がゆらめき、ほのかに蛍が舞っていた。私は月を見つめたまま、静かに言った。
「智秀……あなたは知っているでしょう?この痛みを私に与えたのが、ほかでもない、あなた自身だってこと」
彼の身体が、ほんのわずかに硬直した。そして、次の瞬間。彼はそっと、私の髪を撫でた。
「なら……俺に、償わせてくれ」
私は、何も答えなかった。
朝。
智秀が出かけた後、私はいつものように、手元のグラスを掴んだ。そして、テレビに向かって、それを投げつけた。
いつもなら、使用人たちが黙って新しいミルクを温め、私の前に差し出す。
けれど、今日の私はそれさえもいらなかった。
第3話
実は、昔は牛乳が大好きだった。学校に行くときも、母は毎朝「持って行きなさい」と牛乳を持たせてくれた。
でも、ある日。教室に入ると、智秀が私の席の机に腰かけていた。
その頃から彼はすでに背が高く、俯くと影が私をすっぽり包み込んだ。
周囲からクスクスと笑い声が聞こえる。誰かが言った。「ちょっと面白いことしようぜ、高田さん」
彼はにやりと笑い、掌を広げて私の前に差し出した。
私は、手に持っていた牛乳を差し出した。
彼がキャップをひねると、まだミルクの香りが漂う前に、白い液体が私の頭上から勢いよく降り注いだ。
鼻先、鎖骨、襟元、スカートの裾。
全身が牛乳まみれになった。誰もが笑っていた。泣いていたのは、私だけだった。
「ねえ、あの顔、誰を誘惑するつもり?」
「おいおい、高田さん、相変わらず悪趣味だな」
頬に、ざらついた親指が触れた。智秀は頬杖をつき、私を眺めていた。
彼は私の顎を指でつまみながら、しばらくじっと見つめていた。
それから、吐き捨てるように言った。
「ブサイクだな」
だから私は、牛乳が嫌いだ。
いや、きっと本当に嫌いなのは、智秀のほうなのだろう。
今日、二杯目の牛乳を床にぶちまけたとき、持ってきた使用人は、今にも泣き出しそうだった。
「お嬢様……お願いです、飲んでください……」
私は首を横に振り、拒絶した。ふと視線が、ソファの脇にある黒電話に留まった。
這うようにして電話のボタンを押した。この電話は、一つの番号にしか繋がらない。
けれど、今回出たのは智秀ではなかった。「橋本さん?」低く落ち着いた男の声。
運転手でもある、智秀の秘書だった。
「智秀を出して」
「今、会議中です。橋本さん……」
「なら、そっちに行くよ」
私は彼の言葉を聞く前に、一方的に電話を切った。
この屋敷は厳重なセキュリティが敷かれている。門には警備員が立ち、部外者の出入りは厳しく制限されている。
だが、私は顔を上げ、告げた。「智秀の会社へ行く」
それだけで、誰も私を止めなかった。
まるで、結婚が決まったことで、私は自由に出入りできる権利でも得たようだった。エレベーターが最上階に到達するまで、何も妨げるものはなかった。
ただ、会議室の扉に手をかけたとき、秘書が私を制した。
「橋本さん、こちらの休憩室でお待ちいただいて……」
けれど私は、一気に扉を押し開けた。
時々、自分でも分からなくなる。私は、一体何がしたいのだろう。
暗闇の中で、一人で沈むのが怖くて。だから、誰かを巻き込もうとしているのかもしれない。
あるいは、ただめちゃくちゃに振る舞って、自分自身の価値を地に落としたいだけなのかもしれない。
そうすれば、私はもう、救いなんて期待しなくて済むから。
会議室にいたのは、ほとんどが年配の男たちだった。
だからこそ、上座に座る智秀は、場違いなほど目立っていた。この空間で、彼の整った顔立ちは異質なほど際立っていた。
すべての視線が、私に注がれる。四十人以上の目。
不意に、寒気を覚えた。エアコンが効きすぎていたのだろうか。身体が震え始めた。
その瞬間。ふわりと、誰かの腕に抱え上げられた。煙草の匂いがした。彼から、煙草の匂いを感じたのは、初めてだった。冷たく、乾いた煙の香り。それはまるで、この男そのもののように、冷酷で、残酷な匂いだった。
「いつ来た?」
ついさっきまで、部下を叱責していたはずなのに。彼は一瞬で表情を変えた。
今、私に向けられる声は、まるで別人のように優しかった。
私の乱入によって、会議は強制的に中断された。
気づけば、私は彼のオフィスへと連れ込まれていた。
広い。この部屋は、まるで支配者の城のようだった。ガラス張りの窓からは、整然と並ぶ高層ビルが見渡せる。
遥か下を行き交う人々。その流れすらも、この部屋から見下ろせば、すべて手のひらの上にあるように思える。まるで、運命すらも操れるかのように。
まるで、虫けら一匹、指先で簡単に潰せるかのように。
たとえば、私のような存在。
第4話
私は、彼のオフィスの隣にある部屋のベッドに放り投げられた。
そのまま、男の影が覆いかぶさる。片手でネクタイを解き、深紅のシルクが指先から滑り落ちる。
やっぱり、私が会議をぶち壊したせいで彼は少し怒っているのかもしれない。
そう、彼は決して、私を甘やかしてばかりではない。
「今日は……俺に会いたくて仕方なかった?」
ベッドに広がる私の長い髪を指で弄びながら、彼は微笑む。
私は、静かに彼を見つめた。
「智秀。あなたのオフィスに、牛乳はある?」
彼の指が止まる。明らかに予想外の質問だったのだろう。
この部屋は彼のプライベートな休憩室で、オフィスと直通になっている。ベッドに散らばったシャツやスーツは、すべて彼のものだ。
しばらくして、彼は冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出して差し出した。
「……家のがなくなったのか?」
彼の言葉が終わる前に、私は牛乳を奪い取った。
キャップをひねり、手元の箱を、そのまま彼の頭上へ傾けた。
一瞬、彼の動きが止まった。でも、ただそれだけだった。
本当なら、避けることもできたはずだ。
なのに、彼は動かなかった。冷たい牛乳が彼の額を流れ、眉を伝い、頬を滑った。
私は仰ぎ見る。そんな姿になっても、彼の顔は相変わらず美しかった。
「智秀。あなたは昔、私にも同じことをしたよね」
一語ずつ、はっきりと告げた。
……
おそらく、彼をこんなに惨めな姿にできるのは、私だけだろう。
牛乳が彼の眉を濡らし、彼は頬の内側を軽く噛む。そして、ふっと、笑った。
次の瞬間。彼は、冷蔵庫からもう一本の牛乳を取り出した。私はまだ、その意味に気づいていなかった。
彼がキャップを開ける音が響いたとき、ようやく悟った。
「……っ!」けれど、すでに遅かった。冷蔵庫から出したばかりの、冷たい液体が頭上から降り注ぐ。私は思わず震えた。
牛乳が顎を伝い、襟元に染み込んでいく。
氷のように冷たい。記憶の中のそれとは、少し違った感触だった。
……
昔、屋敷の掃除をしている使用人たちが、噂しているのを聞いたことがある。「このお嬢様、本当に頭がおかしいわ。こんなにいい結婚相手がいるのに、なんで嫌がるのかしら?」
でも、目の前の智秀は私よりも、よっぽど狂っている。
私は、何も言えずにいた。彼は、濡れた私の髪をそっとかき上げ、指で頬のラインをなぞる。
「これで、お前も俺と同じになったな」
瞬間的に、私は彼の手を振り払った。
「結衣、俺を怒らせると、どうなるか、分かってるよな?」
彼の指が私の顎を捉える。それだけで、私は動けなくなった。
正直に言うと、私は彼を怖がってはいない。
ただ、彼を怒らせたくないだけだ。この感覚は、何なのだろう。
おそらく、彼を怒らせた「後」が怖いのだ。あるいは、彼が私につけた傷跡が、あまりにも深すぎたのかもしれない。
次の瞬間。彼は私をバスルームへと引き入れた。
浴室の蒸気が、視界を曖昧にする。眩しいほどの照明が、光と影をぼやけさせた。
「智秀」私は、かすれた声で問いかけた。「七年も経ったのに、どうして、また私を見つけたの?」
沈黙。彼は、いつもこの問いには答えない。
私は、再びベッドに横たえられた。
彼は、乱れた布団を整え、丁寧に私を包み込んだ。
この数日、ずっと眠れなかった。
最後に安心して眠れたのは、いつだっただろうか。
私たちが浴室にいた間に、誰かが新しいシーツに替えていた。智秀の匂いは、もう残っていない。
なのに、以前よりも、ずっと早く眠りに落ちた。
夢は、断片的に流れていく。高校時代の景色が、波のように押し寄せては消えていく。
そして、半分眠ったままの意識の中で、微かに声が聞こえた。
若い女の子の声だった。たぶん、掃除のスタッフだろう。
「ねえ、さっき会議室に乗り込んできたあの女の人、誰か知ってる?」
第5話
「橋本さんね、高田社長の婚約者よ」
「え?でも、なんかすごく行儀悪くない?」
「でもね、高田社長に溺愛されてるらしいよ……」
「なんで?私、今まであの人が未来の奥様だなんて聞いたこともなかったけど?」
「噂よ、あくまで噂だけど……彼女ね、数週間前に連れてきたらしいの。
しかも、高田社長の初恋の人にそっくりなんだって」
「初恋相手を手に入れられなかったから、仕方なく彼女を選んだってこと?」
次に目を覚ましたとき、真っ赤に燃えるような夕焼けが、霞みを帯びながら部屋に差し込んでいた。
近くで、静かに紙をめくる音が聞こえる。
私が少し身じろぎすると、その音が止まり、額に温かな手の甲がそっと触れた。
「……熱があるな。
朝、なんで牛乳を飲まなかった?」
唇を動かそうとしたけれど、喉が痛くて声が出ない。
全身が乾いたように重く、ただ首を横に振ることで意思を伝えるしかなかった。
智秀は小さく笑い、私を抱き上げた。
いつの間にか着替えていて、煙草の匂いもしなかった。彼はこういう細かいところに、驚くほど気を配る。
私が煙草の匂いを嫌うと知ってから、一度も私の前で吸ったことはない。
彼が車の後部座席に私を乗せたとき、私はようやく声を絞り出した。
「もう、牛乳は飲まない」
彼の動きが一瞬止まる。
それから、ふっと鼻で笑った。
「お前、なんでも俺に逆らいたいんだな?」
「……」
たぶん、彼の言うとおりだった。
私はきっと、彼が怒り狂って私を捨てるのを見たかった。
でも、それを言葉にする気力もなく、ただ黙って窓の外を眺める。
車は静かに発進し、雲が流れる空を切り取るようにして街を進む。
燃えるような紅い夕焼けが、まるで心の奥にまで火をつけるようだった。
……
智秀は、私を家へ連れて帰った。
リビングのソファには、すでに誰かが座っていた。
私は、浅野柳子と初めて会ったときのことを思い出そうとした。でも、これといった印象が何もなかった。
ただ、彼女と私は、顔立ちがとてもよく似ていた。
次の瞬間、彼女が勢いよく立ち上がり、智秀の胸に飛び込んだ。
長い沈黙。智秀は、その場で硬直していた。
彼女の前髪が彼の首筋に触れたとき、ようやく彼は息を詰めるように喉を動かした。そして、弾むような声で、彼の名前を呼んだ。
「智秀! 私、戻ってきたよ!」
……
彼の腕の中にいる彼女を、私はただじっと見つめていた。
そして、冷静に口を開いた。「彼女、帰ってきたって」
智秀の喉仏が動く。乾いた声が、ようやく絞り出された。
「……戻ってきたのか」
私は、彼のこんな姿を見たことがなかった。
迷いと、そして……絶望。
その後、彼女はこの屋敷に住み始めた。
彼女は、いつも智秀と一緒にいた。
時々、あの日、オフィスで耳にした会話を思い出す。
彼女たちは言っていた。私は、智秀の初恋相手の「代わり」なのだと。
けれど、それでも智秀は、私との結婚をやめようとはしなかった。
ただ、変わったことがあるとすれば、以前は彼と私が向かい合って食事をしていたのに、今はその間に柳子がいるということ。
柳子は、職場にもついていくほど、彼にべったりだった。彼女はおしゃべりな人で、楽しそうに話し続ける。
私は、わからなかった。智秀の心が、彼女に向いているなら。彼が本当に「代わり」として私を傍に置いたのなら。どうして、彼は今も私を手放さないのだろう?
それとも……私は、ただ彼のそばで、昔のようにまた弄ばれるだけなのか。
……
この数日、智秀は帰りが遅かった。
そして今夜。彼は少し酔って帰ってきた。
そこに、柳子の姿はなかった。彼の服は乱れていた。
ネクタイはゆるく垂れ、額の髪は無造作にかき上げられている。薄暗い照明の下、彼の肌は白く冷たく見えた。
第6話
眉の下、彼の瞳は赤く染まっていた。
私の姿を見つけるなり、彼は微かに笑った。
「結衣、お前、本当に俺の言うことを聞かなくなったな」
私はソファに押し倒された。それでも、彼は手を添えて、肘掛けにぶつからないように支えてくれた。
暗い瞳が深紅の波を湛えている。
「智秀、柳子は?」
仰ぎ見るように尋ねると、彼は鼻で笑った。
「どこかに消えた」
「でも、今日の朝、一緒に出かけてたじゃない」
「とっくに消えてたよ」
「……」
言葉にできない感情が、胸の奥から込み上げてきた。私は目を逸らし、彼を見たくなかった。
額がそっと触れ合う。その瞬間、彼の瞳がどこか濡れているように見えた。
「結衣、お前、今日も牛乳を飲まなかったな?
俺が出かけた後、捨てたんだろ?」
「……」
そうだ、もう何日も飲んでいない。
たぶん、私は彼と同じだ。意地を張る性格。やりたくないことは、誰に言われてもやらない。
でも、彼は私の意志など気にしない。
すぐに、新しい牛乳が温められた。
彼は目の前に座り、じっと私を見つめる。「飲め」
牛乳なんて、どうでもいいのだ。
彼が本当に求めているのは、「俺の言うことを聞くかどうか」。
私は視線を逸らした。何度も抗ったが、いつも結果は同じだった。
今日も、きっと同じ。
私が飲まなければ、彼は顎を掴み、無理やり飲ませる。
なぜか、彼が今日は特に苛立っているような気がした。
私は、頑なに口を開かなかった。智秀は、じっと私を見つめ、最後に溜息をついた。
ゆっくりと、彼は牛乳を口に含む。
そして、私の顎を掴み、唇を重ねた。
噛みしめていた歯がこじ開けられた。
甘いミルクの香りと、酒が回った男の、狂気じみた熱が流れ込んだ。
苦しくて、息が詰まる。胸の奥が詰まって、言葉にならない。涙が込み上げ、ついに声をあげて泣いた。ようやく、彼は動きを止めた。
夜は静かで、そして、残酷だった。私は、玄関の花瓶に挿されたドライフラワーを見つめる。
しばらくして、彼の声が落ちた。
低く、掠れ、壊れそうな声。
彼は、私を抱きしめた。男の体温は、いつも熱い。
「……ごめん」耳元で、何度も繰り返す。
「泣かないで。悪かった、結衣。俺が悪かった。
もう、泣くな……な?」
……
その姿に、一瞬だけ錯覚した。
私は、ずっと。
彼にとって、大切な存在だったのかもしれない、と。
欲を満たした男は、機嫌がいい。
私は、試すように言ってみた。「柳子にもう会いたくない」
すると、翌日。柳子は泣きながら荷物をまとめていた。
私は、分からなくなった。
智秀は、そんなに素直に言うことを聞くような男だっただろうか?
ましてや、彼女は彼の「初恋の人」ではなかったのか?
考えても分からないことは、直接聞くのが一番だった。私は問い詰めた。
でも、彼はただ目を細め、手を伸ばして私の髪をくしゃりと撫でた。それは、いつもの彼の誤魔化し方だった。
「結衣、お前は誰の代わりでもない」
ほら、こんな甘い言葉。彼らは、いつもこうやって嘘をつく。
彼が本当のことを話す気がないなら、私は永遠に真実を知ることはできない。
結局、弄ばれるのは、いつも私だけだった。
猛暑のせいか、どうも食欲がない。どんなに家の料理人が腕をふるっても、この数日、何を食べても味がしない。
それでも、最後のひと口のポークライスを飲み込んで、私はトイレへ駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
第7話
生理が、何ヶ月も来ていない。
「……」
智秀のあの節操のない態度を考えれば、避妊すらしなかったのだから、この結果は必然だったのかもしれない。
私は、妊娠した。
智秀はまだ知らない。私は平らな腹を見つめ、ぼんやりと考えた。
可笑しな話だ。この子の運命を、私が決めることはできるのだろうか?
このところ、智秀はやけに早く帰ってきた。
帰るなり、すぐに私を抱きしめた。
彼は、本当にあの頃のように気まぐれで私を踏みにじる人だったのだろうか。
それとも、もう違うのだろうか。彼の「許容範囲」は、いつの間にか限りなく広がっていた。
たまに、彼が電話で友人と話しているのを耳にする。
どうやら、友人が彼を誘っているらしい。「おい、麻雀しようぜ」
彼は低く笑い、ソファに丸くなっている私を見つめながら、ゆっくり答えた。
「今夜は、嫁と一緒だ」
「……」
受話器の向こうから、あからさまな冷やかしの声が響いた。
「またかよ! なんでそんなにあの頭のおかしい奴を甘やかすんだ?」
彼らの声は、次第に遠ざかる。そうだ、彼の友人たちからすれば、私はただの「キチガイ女」なのだろう。
せっかくの奥様の座を拒み、日々、無駄に足掻いて、何もかもぶち壊している愚か者。
ある夜、夢を見た。
いや、あれは本当に夢だったのか。それとも、過去の記憶だったのか。
智秀が、仲間を引き連れ、私を教室の隅に追い詰めた。彼は、試験の成績表を手に取り、大声で読み上げた。
私は彼らのせいで勉強に集中することができなかった。
結果、私の成績は、散々なものだった。
彼は違う。彼は常に、トップの成績を誇っていた。
高々と試験用紙を掲げ、嘲るように笑った。
「ったく、頭悪すぎだろ」
……
目が覚めた。蝉の声が、どこか遠くから聞こえた。
夜の闇が、果てしなく広がっている。隣にいる男は、静かに眠っていた。
私は、彼の上にまたがり、手を伸ばした。ゆっくりと、彼の喉元に指をかけた。
暗闇の中、彼はじっと私を見つめていた。静かに、淡々と。
「殺すつもりか?」
「智秀。私を地獄に引きずり込んだのは、あなたよ」
私は囁くように言い、指に力を込めた。
彼は、それでも動かない。
そうして、私は気づいた。きっと、いつかの私なら、迷わず彼を殺していたのだろう。
けれど、私はその「いつか」にはならなかった。
彼は、ただ私に身を委ねていた。
昼下がり。この家に、最も会いたくなかった人間が訪れた。
何年も会っていなかった。それでも、彼女の姿を見るだけで、私は震えた。
高田花梨。智秀の妹。
高校時代。智秀が最も私を酷くいじめていた頃、彼女は、唯一私を庇ってくれた人だった。「大丈夫。私がついてるから。お兄ちゃんのことなんて、怖がる必要ないよ」
あのときの私は、彼女こそが唯一の光だと思っていた。混沌とした日々の中で、たったひとつの救いだと信じていた。
けれど、それは大きな間違いだった。彼女は、兄と喧嘩をしていただけだった。だから、兄に反発するために、私を庇っていただけだった。
そして――兄との仲が修復されると、彼女は、私を地獄に突き落とした。
女子たちを煽り、私をトイレに閉じ込め、屈辱的な写真を撮らせた。
結局、それらの写真はすべて智秀の手元に渡った。
あの記憶は、あまりにも痛々しくて、彼女の姿を見た瞬間、私は再び吐きそうになった。
花梨も、私のことが気に入らないらしい。
智秀が私を「取り戻し」、無理やり結婚させようとしたとき、最も激しく反対したのが彼女だった。
彼女は私の目の前で怒鳴った。「お兄ちゃんが、なんであんたなんかを選ぶのよ!?」
今日、久しぶりに顔を合わせた彼女は、当然のように不機嫌だった。
でも、それは好都合だった。私は、彼女が騒ぎ立てるのを期待していたので、彼女を真っ直ぐに睨み返した。
彼女は腕を組み、冷たく鼻を鳴らした。「ふん」それは、嵐の前の静けさのようだった。