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雨上がり
マイバッハの中、緑川葵(みどりかわ あおい)は霜月颯斗(しもつき はやと)のキスに酔いしれていた。 彼女の服はすっかり脱げていたのに、...
Chương (1)
第1章
マイバッハの中、緑川葵(みどりかわ あおい)は霜月颯斗(しもつき はやと)のキスに酔いしれていた。
彼女の服はすっかり脱げていたのに、颯斗はきちんとした服装のまま。二人の間のはっきりとした対比に、葵は思わず顔を赤らめた。
颯斗は手を伸ばして彼女の腰を引き寄せ、低く笑いながら耳元で囁いた。「防音板は全部下ろしてある。運転手には聞こえないし、聞こうともしない。何を恥ずかしがってるんだ、ん?」
普段は冷静な男のその動きがますます激しくなるのを見て、葵は愛おしさでいっぱいになって彼を抱きしめた。まるで潮のように押し寄せる快感が一気に高まり、頂点に届こうとしたその瞬間、不意に鳴り響いた着信音に遮られた。
第1話
マイバッハの中、緑川葵(みどりかわ あおい)は霜月颯斗(しもつき はやと)のキスに酔いしれていた。
彼女の服はすっかり脱げていたのに、颯斗はきちんとした服装のまま。二人の間のはっきりとした対比に、葵は思わず顔を赤らめた。
颯斗は手を伸ばして彼女の腰を引き寄せ、低く笑いながら耳元で囁いた。「防音板は全部下ろしてある。運転手には聞こえないし、聞こうともしない。何を恥ずかしがってるんだ、ん?」
普段は冷静な男のその動きがますます激しくなるのを見て、葵は愛おしさでいっぱいになって彼を抱きしめた。まるで潮のように押し寄せる快感が一気に高まり、頂点に届こうとしたその瞬間、不意に鳴り響いた着信音に遮られた。
こんな時に邪魔が入って、颯斗は不快そうに眉をひそめた。それでも着信表示を見ると、通話に応じた。
隣で息を整えながら、葵はふと画面を覗き込み、それが彼の親友の平野翔(ひらの しょう)からの電話だと分かった。
「颯斗、お前、正気かよ……」
颯斗は眉をひそめ、流暢なイタリア語で彼を遮った。「今はまずい。イタリア語で話せ」
しばらく沈黙があり、向こうは深く息を吸い込んでから、イタリア語で続けた。「本当に山崎鈴音(やまざき すずね)と籍を入れたのか?いったい何を考えているんだ?昔、お前は彼女を助けるために視力を失ったのに、あの女はお前がどん底にいる時に見捨てて、他の男とくっついたんだぞ。あのままじゃ、お前、命を落としてたかもしれないんだ。そんな女と、またやり直す気か?!」
耳慣れない言葉が、葵の頭の中で自動的に日本語に変換された。
内容が理解できた瞬間、彼女は全身の血の気が引き、まるで氷の底に突き落とされたような感覚に襲われた。
けれど颯斗は、そんな葵の異変にまったく気づいていなかった。「俺が彼女と結婚しなければ、山崎家は無理やり年寄りの男に嫁がせようとするんだ。そんな屈辱を彼女に味わわせたくない」
「じゃあ、葵は?お前がした時、視力を失った時、ずっとそばにいたのは彼女だけだった。何年もお前を支え続けて、お前を愛し抜いてきた。俺たちみんな、その姿を見てきたんだぞ」
怒りを抑えきれないその声に対しても、颯斗の返事は冷ややかだった。「うまく隠すつもりだ。彼女には絶対に気づかせない」
「いつまで隠せるんだ?一生黙ってるつもりか?葵はお前と結婚したいって、本気で思ってるんだぞ」
聞けば聞くほど、颯斗の胸の奥に澱のような苛立ちが広がっていく。彼の声にも次第に焦りが滲んだ。「俺と鈴音が籍を入れたことは誰にも言うな。しばらくしたら、葵には偽の婚姻届を用意する」
そう言うと、彼はもう翔のくだらない話に付き合う気もなく、さっさと電話を切った。
再び目を伏せると、颯斗は携帯を置き、葵にさらに激しく責め立てた。
葵は全身が震えを止められず、二人とも頂点に達した。身なりを整え始めたとき、彼女は唇を開き、話そうとしたが、颯斗の携帯がまた鳴った。
それは個別に設定した特別な通知音だった。
颯斗は携帯を取り上げ、ちらりと見て、運転手に車を止めるよう指示した。
「葵、会社に急用が入った。ここで降りて、タクシーで帰ってくれないか?」
葵は何も言わず、黙ってうなずき、ドアを開けた。
黒いマイバッハは稲妻のように疾走していった。
葵は道端に立ち、車の流れる通りをぼんやりと見つめ、もう我慢できず、涙が溢れ出た。
誰も知らないが、颯斗との距離を縮めるために、彼女はすでにイタリア語を習得していた。
だから、彼と翔の会話を、彼女はすべて理解できた。
その一言一句が耳元に響き、無数の刃のように、葵の心に深く刺さった。
そして、その封印された記憶も、幻滅した愛と共に、一気に脳裏に押し寄せた。
颯斗は高貴な御曹司で、彼女は使用人の娘だった。
あの日、彼女は母について霜月家の豪華な別荘に入り、陽の光の中で優雅にピアノを弾く颯斗を見た。
彼女はこれほど美しい音楽を聞いたことがなく、これほど美しい少年を見たこともなかった。
だから、たった一目で、霜月颯斗という名前は、葵の心に深く刻まれた。
彼女は誰にも、心に秘めた人がいることを話したことがなかった。
ただそれは、彼らが隔てられた身分の差だということだけでなく、颯斗には好きな人がいることを知っていたからだ。
その女性は山崎鈴音といい、彼と一緒に育った幼馴染だった。
彼は鈴音への想いを隠すことなく、まるで宝物のように手のひらで守り続けていた。
十七歳の時、鈴音を救おうとした颯斗は、交通事故に巻き込まれ、失明してしまった。
しかし、その日を境に、鈴音は忽然と姿を消し、霜月家に足を踏み入れることはなくなり、新しい彼氏まで作った。
霜月家には彼以外にも孫がおり、颯斗の両親は仕事に忙しく、目が見えなくなった息子の面倒を見る余裕もなかった。
颯斗は古い屋敷に置き去りにされ、孤独な日々を送ることになった。
葵は自ら古い屋敷に戻り、七年もの間、そんな彼を身の回りの世話を続けた。
二十三歳のとき、彼女は名医の家の前で三日三晩も跪き、ようやくその医者を説得し、颯斗の目を治してもらった。
埃を被った真珠が再び輝きを取り戻し、一躍その名を轟かせた。
颯斗はわずか一年で頂点に返り咲き、霜月グループの後継者となった。
冬も夏も、彼のそばにいたのは葵だった。深夜から夜明けまで、彼に寄り添ったのは葵だった。あの苦しい七年間を共に耐え抜いたのも、葵だった。
彼とキスをし、抱き合い、ベッドを共にしたのも……全て彼女だった。
しかし、彼が権力を取り戻して最初にしたことが、彼を捨てた鈴音と結婚することだとは、葵は思いもしなかった。
彼女は彼に追いつくために、ここ数年必死に努力してきた。
しかし、彼女がどんなに変わろうとも、颯斗の両親は彼女が息子にふさわしくないと思い、何度も金で彼女を追い払おうとした。
颯斗はいつも彼女のために家族と喧嘩していたので、葵も彼を裏切りたくないと思い、別れるなんては一度も考えなかった。
――今日までは。
葵はもう、これ以上彼の傍にはいられないと思った。
彼女は涙をぬぐい、携帯を手に取り、番号を押す。
「奥様、あの10億、受け取らせていただきます。颯斗の前から、永遠に消えます」
第2話
電話の向こうで霜月夫人はこの言葉を聞いた瞬間、抑えきれないほどに興奮した。
「やっと考えがまとまったの?それでいいのよ。あなたは所詮、家政婦の娘。うちの後継者にふさわしいはずがないでしょう。今どこにいるの?早く来て。契約を交わしましょう」
すぐに送られてきた住所を見て、葵はふっと自嘲気味に笑い、タクシーを拾った。
カフェに着くと、霜月夫人は矢継ぎ早にいくつもの質問を投げかけてきた。
彼女が順番に答えると、向こうは満足そうな表情を浮かべ、協議書を取り出して押し出した。
「サインをしたら、後戻りはできないわよ。署名が済んだら、まず半額をあなたの口座に振り込むわ。残りの半分は、あなたが完全に姿を消した日に振り込む。その金を受け取ったら、二度と颯斗の前に現れないって、約束してちょうだい。いいわね?」
契約書に記された、信じられないほどの金額を見つめながら、葵のまつげがほんのわずかに震えた。
彼女はもう現れないつもりだった。
今生も、来世も、もう颯斗には会いたくなかった。
だから彼女はためらわず、ペンを取って、きっぱりと署名した。
ようやく霜月夫人は安心した様子で契約書をしまい、立ち上がると、最後に念を押すように言った。
「二週間内にすべてを済ませて頂戴。名前を変えるでも、海外に行くでも、手段は問わない。とにかく、颯斗に絶対に会わせないようにすること」
「承知しました。霜月夫人、どうぞご安心ください」
霜月夫人を見送った後、葵も家に帰った。
颯斗に永遠に会わないことは簡単だ。
霜月家は代々、軍や政治に関わってきた由緒ある家系。その特殊な背景から、三代にわたり国外に出ることが許されていない。
つまり、彼女が移民してしまえば、颯斗はもう二度と彼女に会えなくなる。
夜遅くまで海外移住に関する情報をひたすら調べ続け、ようやく彼女はオーストラリアへの移民を決めた。
その後、葵は携帯電話を取り上げて時間を確認しようとしたが、SNSの新しい投稿通知を見た。
開いてみると、それは鈴音がアップした九枚の写真だった。
上段には、バラの花束を抱えて笑う彼女の自撮り。中央には、三枚の結婚証明書。下段には、しっかりと手を繋ぐふたつの手の写真が並んでいた。
葵にはわかっていた。もし颯斗が本当に結婚を隠したいのなら、鈴音に投稿など許さないはずだと。
それなのに彼女は投稿した。しかも、見られるのは葵ひとりだけ――見せつけるための設定だった。
葵も気を利かせて「いいね」を押した。
ちょうどアプリを閉じたところで、颯斗からメッセージが届いた。
「葵、出張に行くから、この数日は帰ってこない」
彼女は「わかった」と返信し、携帯を置いて洗面所へと向かった。
翌日、葵は早起きして移民手続きをしに行った。
時間が限られていたため、彼女は特急申請を選んだ。
窓口のスタッフが「半月以内には完了します」と約束してくれたことで、彼女はようやく少し肩の力が抜けた。
車に乗り込んだあと、ふとSNSを開くと、また鈴音の投稿が目に入った。
今度は、颯斗の上半身まで映り込んでいた。
二人は手をつないで新居を見て回り、最後に清水湾の別荘を選んだらしい。
彼女は昨日と同じように、また「いいね」を押した。
三日目、葵は会社に出向き、退職願を提出した。
荷物を抱えて家に戻ると、SNSにはウェディングドレス姿の鈴音がいた。その薬指には、眩しく光るダイヤの指輪。
彼女はいつものようにいいねを押し、それから布団に潜り込んだ。
四日目、目が覚めると、また新しい投稿があった。
今度は、新居に飾られたウェディングフォト。
葵はしばらくその画面を眺め続け、やっと我に返った。
彼女はいつものように「いいね」を押し、化粧をして出かけ、数人の親しい友人と別れの食事をした。
夕方、いくつもの箱を抱えて帰宅した彼女は、部屋にある颯斗に関わるすべての物を処分した。
これまでにもらったプレゼント、ペアの歯ブラシやマグカップ、ふたりで撮った写真……
一つも残さず、全てゴミ箱に捨てた。
すべてが片付いた頃には、すでに深夜だった。
彼女が電気を消して眠ろうとしたそのとき、颯斗が突然帰ってきた。
空っぽになった部屋を目にした彼は、その場で立ち尽くし、眉をひそめた。
「家の中の物がこんなに減っているのはどうして?」
「気に入らなくなったから捨てたの。また新しいのを買えばいいじゃない」
颯斗はうなずき、服を脱いでソファに投げ捨てたが、視線はそばに置かれた箱に引き寄せられた。
「仕事辞めたの?」
少し間を置いて、彼はテーブルの上に置かれた物に目をやった。
「急に戸籍謄本を出してどうしたの?」
「ちょっと疲れちゃってね。少し休もうと思って仕事は辞めたの。戸籍は……手続きでちょっと必要になって」
葵は一つ一つ説明しながら、物をカバンにしまった。
その落ち着いた様子を見て、颯斗は深く考えず、彼女を腕の中に引き寄せ、優しい声で言った。「ここ数日忙しくて、全然一緒にいられなかったな。あさっては葵の誕生日だし、明日、競売会に一緒に行って、何か欲しいもの選ばせてあげようか?」
葵は断らなかった。
翌日、ふたりが会場に着き、席に腰を下ろすと、葵の視界に鈴音の姿が飛び込んできた。
彼女は堂々と二人のそばに歩み寄り、颯斗の隣の席に座った。
だが一晩中、颯斗は横を見ることなく、ずっと葵にだけ顔を向け、言葉を交わしていた。
競売会が終わると、彼はその場にとどまることもなく、葵の手を引いて階段を降りていった。
帰る前、葵は一度トイレに立ち寄った。
用を済ませて出てくると、階段の踊り場で鈴音が大勢の人に囲まれ、軽口を叩かれているのが目に入った。
「おやおや、これは山崎家のお嬢様じゃないか?昔、お前を救った颯斗を容赦なく捨てたな。今こんな有様になってるってことは……やっぱり因果応報ってやつか?」
「聞いたぜ?お前の親父、お前をいつ死んでもおかしくないようなジジイに嫁がせるって話だろ?けどさ、お前まだそこそこイケてんじゃん。それより俺たちの女にならないか?ちゃんと可愛がってやるよ、なあ……」
後半の言葉がまだ口から出ていないうちに遮られた。
颯斗が階上から降りてきて、怒りに満ちた顔でチャラ男たちを蹴り飛ばした。
第3話
その後、颯斗はリーダー格の男を地面に押さえつけ、容赦なく拳を振るい続けた。何度も、何度も。男たちは頭から血を流しながら、何度も必死に許しを請う。
「すみません、霜月さま!俺たちが悪かったです!どうかお許しを!」
「消えろ!これからまた彼女の前に現れたら、どうなっても知らねぇぞ」
彼の怒りに満ちた叱責に、彼らは恐怖で逃げ出した。
階段には多くの見物人が集まっていた。
颯斗は見物人の視線に一瞥もせず、鈴音に手を差し伸べて立たせた。「怪我はないか?」
鈴音は彼の胸に飛び込み、ぽろぽろと涙をこぼしながら言った。「足をひねっちゃって、すごく痛いの……」
颯斗は目を伏せたまま、彼女をそっと抱き上げ、人ごみを押し分けて足早にその場を後にした。
彼は鈴音をしっかりと庇うように腕を広げたとき、そばにいた葵をうっかり突き飛ばしてしまった。
葵の頭は固い階段にぶつかり、ぱっくりと裂けて血が噴き出す。周囲の人々が思わず息を呑む。
「頭から血が出てる!早く、救急車呼んで!」
葵は顔を苦痛でゆがめ、冷や汗を滲ませた。
温かい血が指の間から滲み出て、まつげに滴り落ち、重く感じられた。
彼女は、振り返ることなく立ち去っていく颯斗の背中を見つめながら、口の中いっぱいに広がる苦味を噛みしめていた。
以前、颯斗のためにスープを作っていて指を切ったとき、彼はひどく心配して、しばらくの間ずっと気にかけていた。どうしても医者を呼ばなければ気が済まず、傷跡が残らないかと案じていた。
彼女は「大げさすぎる」と笑ったが、彼はそっと頭を垂れて彼女の手に口づけし、優しい声で言った。「葵、お前は俺の心のいちばん奥にいる人だ。お前が傷つくと、俺の方が痛い。今はもう暮らしも落ち着いたんだ。お前がそんなことをする必要なんてない。お前の手には、俺が贈る指輪をはめるんだ。傷なんて、似合わないよ」
けれど今、葵が怪我をしても、颯斗は見て見ぬふりをした。
そして、葵に贈ると約束した指輪は、いまはほかの人の指にはまっている。
救急車で葵は病院に運ばれた。
受付も、診察も、薬の受け取りも、すべてひとりきり。家に帰り着いたのは、深夜をとうに過ぎていた。
その夜、彼女は痛みで休むこともできず、寝返りを打ち続けた。
颯斗は、一晩中帰ってこなかった。
翌朝。葵が疲れ切った体を起こし、薬を塗り替えようとしたとき、ふと鈴音のSNSを目にした。
そこには、颯斗が片膝をつき、鈴音の足を優しく揉みながら薬を塗っている動画があった。
葵はその動画を何度も繰り返し見て、目の端に涙を浮かべながら、知らぬ間に眠りに落ちていた。
再び目を覚ますと、外はもうすっかり暗くなっていた。
枕元の携帯電話が震え続け、通話に出ると、颯斗の声が響いた。
「幽蘭亭、703号室。今すぐ来てくれ」
葵はしばらく躊躇してから、ようやくベッドから起きた。
彼女は身支度を整え、急いで向かった。
部屋のドアを開けると、彼女は一目で鈴音を見つけた。
目を赤く腫らし、まるで傷ついた小さな白ウサギのように、しょんぼりと座っていた。
颯斗は鈴音の方をじっと見つめ、何も言わないまま、読み取り難い重い表情を浮かべていた。
部屋の中は沈黙に包まれていた。やがて、葵が耐えきれずに口を開いた。
「私を呼んだのは、何か用?」
颯斗は姿勢を正し、両手を組み、上に立つ者のような威圧感を滲ませた。
「葵。昨日のチンピラたち、お前が仕向けたのか?鈴音を困らせるために」
葵はその場で凍りついた。
彼女は無意識に鈴音を見ると、その目に一瞬だけ浮かんだ得意げな表情を捉えた。
そのたった一瞬で、葵はすべてを悟った。これは最初から、鈴音が仕組んだ茶番だったのだ。
葵はかすかに笑みを浮かべ、自嘲気味に言った。「違うわ。私は彼らのことなんて知らないし、そんなくだらないことをする気もない」
けれど、それを聞いた颯斗の表情に変化はなかった。
彼は目を伏せ、穏やかな口調で言った。「葵……鈴音が俺を捨てたあの時点で、俺は彼女に未練なんて一切なくなった。お前と付き合って七年も経つ。今の俺の心が誰のものか、お前は知っているはずだ。今、山崎家は落ちぶれて、誰もが彼女を踏みにじれる状況だ。でも、お前がそんなことをする必要はない。俺のために、彼女を傷つけなくてもいいんだ」
それを聞いて、葵の心は激しく震えた。
彼が夜中に感情をぶつけ、苦しみに耐えていた姿を思い出す。あちこちの病院を駆け回り、医者にすがり、薬を求めて共に奔走した日々を思い出す。そしてこの先一生、視力は戻らないと誤診されたとき、彼が何も言わずにただ黙っていた、あの絶望の表情も。
天に選ばれたような存在だった彼が、ひとりの女のために、視力を失った。
けれど、あの終わりの見えなかった日々も、七年という歳月も、今の彼にとってはまるで過ぎ去った風のように軽く、なにもなかったことにされたのだ。
最後に、葵は颯斗と鈴音が公印を押した結婚証明書を思い出し、目に涙を浮かべた。「そうね、七年も一緒にいたのに……あなたの心が誰のものかなんて、どうして気づけなかったんだろうね?」
その一言に、颯斗の目がわずかに細くなった。「どういう意味だ?」
葵は首を振り、自嘲的な笑みを浮かべた。「つまり、私は、ただの使用人の娘よ。そんな私が、どうやってあんな男たちを動かして、あのお嬢様を傷つけられるっていうの?」
彼女が全てをはっきりと話したにもかかわらず、颯斗は依然として信じなかった。
葵も疲れた。彼女は深く息を吸い、説明するのを諦めた。
「信じないのなら、はっきり言ってよ。私にどうしてほしいの?」
颯斗は眉間を押さえた。「謝ってくれ、葵。お前が間違ったことをしたなら、ごめんなさいと言うべきだ」
その瞬間まで、ずっと隅でしおらしく俯いていた鈴音が、不意に声を発した。
「謝罪なんて、もういいわ。もし本当に悪いと思ってるなら……このお酒、全部飲んでちょうだい」
第4話
テーブルの上には、琥珀色に輝くウイスキーがずらりと並べられていた。
葵の視線が上に移り、颯斗に落ち、彼から確かな答えを求めようとした。
けれど、部屋の照明は薄暗く、彼の表情は影に隠れてよく見えなかった。
静まり返った空間に、葵は胸が締めつけられるような息苦しさを感じていた。
荒く浅い呼吸の中で、彼女の脳裏に次々と過去の記憶が浮かんでくる。
まだ古い屋敷に越してきたばかりの頃、視力を失っていた颯斗は、毎日酒に溺れて心を麻痺させていた。
彼女は彼の体を心配し、ずっと止めようとしたが、彼はどうしても聞かなかった。
そんなある日、酒に酔った彼は皮肉げに笑いながら、数本の酒瓶を彼女の目の前に突き出した。
「今や使用人の娘までが俺に指図するのか。まさに落ちぶれた虎は犬にも噛まれるってやつだな。いいだろう、お前がこの酒を全部飲んだら、言うことを聞いてやる」
彼女は言いたかった。指図するつもりじゃない。ただ、彼を――心配していただけだと。
だからこそ、自分がアルコールアレルギーだと分かっていながらも、葵は一瞬の迷いもなく酒瓶を手に取り、ぐいと飲み干した。
数分後、彼女は救急車で病院に運ばれた。
再び目を覚ますと、彼は病床の前に座り、険しい顔で言った。「酔っ払ったのは俺だ、お前じゃない!自分がアルコールアレルギーだと知っているのに、なんで命を投げ出すような真似をするんだよ」
葵はただ一言答えた。
「心配だったんです、坊ちゃん。坊ちゃんの目は、きっといつか見えるようになります。たとえ治らなくても、私はずっとそばにいます。だから、もう、自分を壊さないで……お願いです」
あの日以来、颯斗は酒をやめた。
その後何年も、家の中には酒瓶一つ見当たらなかった。
思い返すと、葵は笑みを浮かべたが、目には涙が浮かんでいた。
彼女はもう説明せず、傍らに置かれたわさび粉を手に取り、グラスに注ぎ、毅然とした口調で言った。
「このくらいの酒では、誠意が足りないでしょう?自分への罰、追加するわ。これで満足?」
言い終わると、彼女はグラスを手に取り、頭を仰け反らせてぐいと飲み干した。一杯、また一杯。彼女は次々に酒を流し込んでいった。
辛くて苦い味が、唇と歯の隙間から喉元へと広がり、内臓を焼くように通り過ぎて、やがて届くはずのない心の奥までもじわじわと染みていく。
七杯目になって、我慢できなくなった颯斗がようやく止めさせた。
「もう十分だ!」
残りの十数杯の杯を見て、葵は笑った。
「これで十分なの?じゃあ、私の謝罪は済んだの?あなたの大切な人を喜ばせるには足りたかしら?」
それを聞いて、颯斗は急に立ち上がり、彼女の手を掴んだ。
感情をあまり表に出さないはずのその顔が、今は重く暗い表情に染まっていた。
「俺がそんな意味で言ったんじゃないって、分かってるだろう!葵、俺は言ったはずだ。鈴音とはもう何の関係もない。霜月家がお前を受け入れない中で、お前があんなことをすれば、絶対に誰かに弱みを握られる。俺はただお前が非難されたり、責められたりするのを見たくないんだ!」
颯斗の言葉は力強く、一見すると筋が通っているようにも聞こえた。
けれど葵は、ふっと声を上げて笑った。
霜月家が、自分のような身分の低い使用人の娘を拒むのは分かる。けれど恩を仇で返すような鈴音を、堂々と嫁に迎えることはできるのだろうか?
それでも彼は、どんな困難があろうと、鈴音がたった一言口にしただけで、迷いなく彼女と結婚した。
全部、ただ愛が足りないってことの、都合のいい言い訳じゃない。
葵はこれ以上これ以上無駄な言葉を交わす気もなかった。颯斗の手を力いっぱい振りほどき、そのまま背を向けて歩き出した。
しかし、玄関に着いた途端、彼女は体が傾き、意識を失った。
「葵!」
颯斗の胸が激しく鼓動し、ためらうことなく駆け寄って彼女を抱き上げ、その場を離れようとした。
鈴音が慌てて彼の袖を掴み、泣きそうな声で彼を呼び止めた。「颯斗……私、ちょっとめまいがするの」
颯斗の足が一瞬、止まった。
しかし、数秒後、彼は大股で去り、ただ一言を残した。
「俺は葵を病院に連れて行かないと。秘書に頼んで」
再び目を覚ました時、葵は自分が病院に入っていることに気づいた。
一晩中眠らなかった颯斗は、彼女が目を開けるのを見て、ようやく安堵の息をついた。
二人は長い間見つめ合い、何も話さなかった。
颯斗は温かい水を注いで彼女に差し出し、そっと布団の端を整えた。そのまま医師を呼びに行き、言われた注意事項を一つひとつ丁寧に書き留めていった。
何度も面会を催促したが、全て断られた。
ドアの外で困り顔の秘書を見て、ようやく葵が口を開いた。「……行っていいよ。私は自分のことくらい、自分できる。本来、こんなことまであなたがする必要はない」
颯斗はナイフを持つ手を止め、ゆっくりと言った。「俺が何をしても、それは当然のことだ。葵、忘れたのか?あのとき、お前も俺をこうして世話してくれたじゃないか」
葵の瞳がわずかに揺れた。
あの頃、彼は失明したばかりで、まるで不要になった駒のように、豪門から切り捨てられていた。
彼女だけが毎日点字を自習して教え、講義には一緒に出て、散歩に連れ出し、温かい日差しを浴びさせ、美味しいご飯を用意して……
彼女はまるで月を独り占めしたかのように、元々暗かった生活が、それによって昼のように明るくなった。
そして、過ぎ去った七年の歳月は、彼女の人生の中でもかけがえのない、確かな幸福の時間だった。
けれど。その月日は、元々彼女のものじゃなかった。過去にも、もう戻れない。
午後、医者は葵を検査室に連れて行った。
三十分後、彼女は看護師に支えられながら、ゆっくりと病室へ戻ってきた。
ドアを開けた瞬間、颯斗は彼女の携帯電話を持ち、眉をひそめながら冷たい口調で霜月夫人と話していた。
「俺は言ったはずだ。葵とは心から愛し合ってる。彼女の家柄なんて関係ない。そちらが何をしようと、もう無駄だ。俺は必ず彼女を娶るし、彼女も俺から離れたりしない」
扉の開く音に気づいた颯斗が顔を上げ、病室の入り口に立つ葵を見た。次の瞬間、スマホの向こうから、霜月夫人の戸惑った声がはっきりと響いた。
「離れないってどういうこと?知らないのか?あの子は数日前、私に海外へ行くって約束したわよ……」
第5話
話はここでぷつりと途切れた。
葵はふらふらとした足取りで前に出て、自分の携帯電話を取り戻し、通話を切った。
颯斗は目を見開いて彼女を見つめていた。なぜそんなに動揺しているのか、まったく理解できていない様子だった。
「どうしたの?」
彼の困惑した顔を見た瞬間、葵はすぐに悟った。彼は、霜月夫人の最後の言葉を最後まで聞いていなかったのだ。
葵はほっと息をつき、目をそらしながら、できるだけ平静を装って答えた。「なんでもない。もうあなたたちが私のことで言い合うのを見たくないだけ」
最近、霜月家は颯斗と葵の交際に強く反対し、何かと引き離そうとして騒いでおり、彼もまた何度も口論を繰り返していた。
彼女の言葉を聞いて、颯斗はそれ以上深く追及せず、代わりに検査の結果について尋ねた。
「先生は大した問題はないって。退院できるそうよ」
家に帰ってから数日間、颯斗はほとんど外出せず、ずっと葵のそばにいた。
彼女は以前のように明るく笑い声を上げることはなく、いつも隅っこに座ってぼんやりしており、あまり元気がないように見えた。
颯斗はその理由がわからず、そっと彼女を抱きしめてなだめようとしたが、葵は静かに身を起こして、寝室へと戻っていった。
「ちょっと気分が悪いから、少し休むね」
そう言って立ち去る葵の背中を見つめながら、颯斗は少し驚いていた。
彼は、葵がまだ先日の謝罪の件を気にしているのだと思い、秘書に頼んでサプライズを用意させていた。
彼女の誕生日当日、彼は特別にパーティーを開いて祝った。
颯斗の顔を立てて、彼の知り合いがほとんど出席した。
彼の前では、この人々は葵に対してそれなりに礼儀正しかった。
だが彼がその場を離れた途端、人々は集まり、遠慮もなくあれこれと口を開いた。
「霜月社長がいなかったら、一生こんな使用人の娘の誕生日パーティーなんて来るわけないよ。口にするのも恥ずかしい!」
「霜月社長にとってあの子のどこが良いんだろうね?あの貧乏くささは、ほんと鼻につくわ」
「まあ、霜月社長は情に厚いってことだよな。俺だったら金を渡して終わりにする。まさか本当に娶ったりしたら……霜月家の恥になるぞ」
パーティーの主役であるはずの葵は、一人ぼっちで立っており、誰にも声をかけられなかった。
四方から聞こえてくる、遠慮のない侮辱と嘲笑に囲まれ、彼女はただ、疲れていた。
もし、颯斗に事情を察されるのが心配でなければ、彼女はこんな場所には絶対に来なかった。
この意図的な排斥のせいで、一分一秒が耐え難いものになった。
ようやく七時を回った頃、宴会場は突然賑やかになった。
すべての賓客が一斉にホールを見つめ、顔の嫌悪はたちまち媚びへと変わった。
この界隈で、噂は何よりも早く広まる。颯斗が前に鈴音のために乱闘騒ぎを起こしたという話など、誰もが知っている。颯斗は彼女のことを、まだ気にかけてると思う人々は我先にと顔をつくり、媚びを売るために急いで動き出した。
「霜月社長、さっきお席を外されていたのは、山崎さんを迎えに行かれてたんですね。長い年月を経ても、やっぱりお二人は仲が良いんですね!」
「そりゃそうでしょう。なんといっても本物の幼なじみですからね。山崎さんのこの上品な雰囲気と美しさ、まるで王子様のような颯斗さんと、本当にお似合いですよ」
そんな取り巻く声に包まれながら、葵は颯斗の腕を取って入場してくる鈴音を見つめていた。ぼんやりと、どこか現実感がないまま。
鈴音は、豪華なオートクチュールのドレスに身を包み、首元にはきらびやかなダイヤモンドのネックレスが輝いていた。その整った顔立ちには、金銀玉石の中で育てられた者にしか纏えない、洗練された気品が滲んでいた。
どれほど颯斗の存在感が強くても、彼の隣に並んだ鈴音は全く引けを取らず、怯むこともなかった。
何の理由もなく、葵は颯斗が視力を回復した後に描いた、顔のないスケッチを思い出した。
あの時、彼は暇つぶしに何気なく描いたものだけだと言いった。彼女はただ綺麗だと思っただけで、深く考えなかった。
しかし、今日鈴音を見た瞬間、その絵に描かれていたのが誰なのかがわかった。
元々は破鏡重円というわけではなく、ただ忘れられなかっただけだった。
葵は目を伏せ、黙って身を翻そうとしたが、鈴音に呼び止められた。
「緑川さん、今日はあなたの誕生日だそうね。招かれてもいないのに来てしまって、ごめんなさいね。プレゼントも用意してきたよ!」
そう言って彼女は、控えていた使用人に合図を送った。連れてこられたのは、真っ白な小さな子犬だった。
「この子の名前はアオイよ。可愛いでしょう?」
ぴょんぴょんと跳ねながら、嬉しそうに駆け寄ってきた子犬を見て、葵は驚いて数歩後ずさり、後ろのテーブルに背中をぶつけた。
彼女の顔は青ざめ、瞳には抑えきれない恐怖と戸惑いが滲み出ていた。
「……この子を連れて行って。私、犬が苦手で」
第6話
その言葉を聞いた鈴音の顔から、ふっと笑みが消えた。
「颯斗……緑川さんは、まだ前のことで私に怒ってるのかしら?だったら、私はもう帰るわ。二人の邪魔はしたくないから」
そう言って、彼女は踵を返して立ち去ろうとした。颯斗は慌ててその腕を引き止め、眉を寄せながら葵の方を振り返った。
「彼女も善意でやっているんだ。葵、お前は動物が大好きだったじゃないか?受け取ってくれ」
その目に浮かぶわずかな不機嫌を見て、葵は拳をぎゅっと握りしめ、彼の秘書を見た。
「前野(まえの)さん、私、ハイヒールだからうまく歩けないの。申し訳ないけど、この子お願いできる?」
その様子に、周囲の人々がまたざわざわと騒ぎ出す。「空気読めてない」「わがまま」など、皮肉混じりの声が飛び交う。
颯斗も彼女がまたわざと鈴音に嫌がらせをしていると思い、険しい表情で鈴音を会場の中に連れていった。
会場には誰もいなくなり、葵だけがぽつんと取り残された。
彼女は水を一杯飲み、ようやく慌てた気持ちを落ち着かせた。
昔、彼女は確かに犬が大好きだった。
しかし、五年前、停電した嵐の夜、颯斗が高熱を出し、彼女は大雨の中を出かけた。
その途中、隣の家の狼犬に追われ、彼女の足の肉を噛みちぎられた。
それでも、彼女は痛みを堪えながら医者を呼び、彼の無事を確認したあとになってようやく、自分の傷を治療しに行ったのだった。
彼女はそれ以来、犬に対して強いトラウマを抱えるようになった。けれど、それを彼に伝えたことは一度もなかった。心配をかけたくなかったから。
スカートの生地越しにさえ、今もその傷跡の輪郭を感じ取ることができた。
パーティーに来た人々は、颯斗の態度を見て、葵に冷たく接するようになった。
祝賀の時間になると、皆は鈴音を囲み、まるで彼女の誕生日かのように振る舞った。
颯斗の怒りが少し収まり、ようやく葵を呼んでろうそくを吹き消させた。
葵は無言で歩み寄り、ろうそくの前に立ち、願いごとをしようとしたその瞬間、鈴音が嬉しそうように声を上げた。
「まあ、なんて偶然!緑川さん、あなたとアオイって、同じ誕生日なんだね。一緒にお祝いしましょうか?」
この言葉を聞いて、周りの人々は口を手で覆って忍び笑いをした。
鈴音の目に宿る挑戦的な光を見た瞬間、葵は拳をきつく握りしめ、十本の指先が掌に食い込むのも構わず立ち尽くした。
葵は軽く息を吸い込み、冷たい口調で言った。「それなら、ワンちゃんにろうそくを吹かせて、みんなで誕生日の歌を歌えばいい。私は邪魔しないわ」
葵が本気で去ろうとするのを見て、颯斗の額に青筋が浮かび、低い声で彼女を呼び止めた。
「葵!今日はお前のために開いた誕生日パーティーだ。お前が先に帰るなんて、どういうつもりだ?」
葵はそれを無視し、そのままドアに向かって歩き出した。
我慢できなくなった颯斗は彼女を追いかけ、彼女の耳元で何かを囁き、彼女をケーキの前に押し戻した。
「いいから!言うことを聞け。今日来てるのは全部、業界の人間だ。お前がここで無断で席を立てば、霜月家まで話が回って、俺たちのことをますます認めてもらえなくなる」
彼らのことを認める?
何を?彼はもう、鈴音と結婚してるんじゃなかったの?
周りからは楽しい「ハッピーバースデー」の歌が聞こえてきた。
しかし、葵は唇を引きつらせ、彫像のように硬直し、何の喜びも見せなかった。
その時、誰かが突然子犬を抱き上げ、彼女の腕に押し付けると、葵女は全身に鳥肌が立った。
歌が半分ほど進んだところで、子犬が落ち着きなく動き出し、そのまま飛び出した。
高く積まれたシャンパンタワーが倒れ、葵と鈴音に向かって真っ直ぐに落ちてきた。
会場は悲鳴に包まれ、落ちてくるグラスが葵の瞳に残像を残した。
そして、彼女は見た。颯斗がとっさに鈴音を抱き寄せ、しっかりとその身を守りながら、素早くその場を離れていく姿を。その背を目で追いながら、葵の身体には、無数のグラスとシャンパンが、容赦なく降り注いだ。
白い肩に破片が当たり、長い傷跡ができた。
血の線が滴り落ち、濡れた白いドレスを赤く染めた。
彼女は地面に倒れ、痛みに耐えきれずうめき声を上げ、額には冷や汗が浮かんだ。
その声に気づいて振り返った颯斗は、彼女が怪我をしているのを見て、戻ろうとしたが、そばにいた鈴音が叫び出した。
「あっ!颯斗、アオイに引っかかれたわ。私、狂犬病になったりしないわよね!?」
彼女の足首に、うっすらと小さな引っかき傷があった。それを見た颯斗は、一瞬の躊躇ののち、横にいた秘書に短く命じた。
「葵を病院に連れて行って、傷の手当てを頼む」
そう言うと、颯斗は鈴音を連れて急いで去った。
現場の賓客たちも続いて去り、去り際に足を引っ張ることを忘れなかった。
「アオイに葵ね、緑川さんは本当に名前の付け方が上手いわ。ほら、今のあの姿……まるで飼い主をなくした野良犬じゃない?」
「アオイを侮辱しないでよ、あんなに可愛い子犬と一緒にしないで。高望みしてる野良犬とは別物よ」
その一言一句が、葵の耳にはっきりと届いた。
濡れて、ガラス片にまみれた自分の姿を見下ろした瞬間、鼻の奥がつんとし、目に涙がにじむ。
誕生日の看板が揺れながら落ちて、彼女の前に落ちた。
彼女はそっとそれを拾い上げ、誰もいなくなり、しんと静まり返った混乱の残る会場を見渡した。そしてようやく、何の気兼ねもなく、涙を流した。
こうして、葵の二十三歳の誕生日は、惨めに、静かに幕を下ろした。
第7話
夜が明ける少し前、葵は力の入らない身体を引きずるようにして、ようやく家に戻ってきた。
明かりをつけると、彼女の携帯電話が何度か鳴った。
鈴音からのメッセージだった。
【あなたは毎日、私の投稿にいいねしてるから、きっともう知ってるわよね?颯斗と私、結婚届を出したの。彼、マルディブで結婚式を挙げてくれるって。写真を見たけど、本当に盛大で素敵だった。どの装飾も、私たちが若い頃に語り合った夢の結婚式そのままだった。まさか、あんな昔のことを、彼が今でも覚えてたなんて……】
【それと、あなたにはお礼を言わなきゃね。あなたがいなければ、颯斗の目がもう一度見えるようになる日は来なかったと思う。本当にありがとう。私の夫を七年間も、代わりに世話してくれて】
これらの無遠慮な嘲弄を見て、葵はもう怒る力もなかった。
彼女は寝室に戻って横になり、深く眠りに落ちた。
その夜も、颯斗は帰ってこなかった。送られてきたのは、ただ一通のメッセージだけ。
【葵、まだやることがあるけど、怪我はひどいの?もし痛かったら教えて、すぐに戻るよ】
画面に浮かぶその文字を、葵は静かに見つめていた。瞳が、かすかに揺れる。しばらくしてから、彼女は返事をした。
【そんな必要ない】
颯斗。もうこれからは、本当にあなたなんて、必要ない。
肩の傷がかさぶたになった後、葵は一人で霜月家の旧宅に戻った。
そこは、かつて颯斗が視力を失っていた頃、二人きりで暮らしていた場所だった。
彼女は鍬を持って、庭のまだ茂っている桃の木の下に行った。
そこには、颯斗の18歳の誕生日に、二人が願いを込めたものが埋められていて、葵はそれを掘り出した。
鉄の箱は錆びており、密封されたガラス瓶の外側には水滴がついていた。
葵は星形に折られた紙を取り出して開き、自分の字を見た。
「颯斗が再びこの世界を見ることができますように、颯斗が無事で順調でありますように、颯斗のそばにずっといられますように」
彼女が願った未来は、すべて颯斗に関わるものだった。
その一部は叶った。
残りは、もう二度と叶わない。
葵はそっと、もう一枚の星を開いた。それは、颯斗が書いたものだった。
「視力を取り戻せますように。鈴音が無事でありますように」
すべてが彼と鈴音のことで、葵のことはなかった。
彼は本当に鈴音が彼を捨てたことを責めていなかったし、彼女の代わりに事故の災難を引き受けることも心から望んでいた。後悔はなかった。
葵は悲しげに笑い、自分が書いたメモをくしゃくしゃにして下水道に捨て、首からネックレスを外した。
これは颯斗が霜月家に戻った後、最初の商売で稼いだお金で彼女に買った贈り物だった。
葵は彼がそんなにお金を使ったことを心配したが、彼は彼女を抱きしめてキスをし続けた。
「葵、高いところは寒いと言われるが、お前がそばにいてくれれば、おれはさらに頂点を目指す勇気を持てるこれはただのネックレスに過ぎない。これから俺が持つすべてのもの、俺自身も、お前のものだ」
彼女はこのネックレスと、過去に関わるすべてを葬り去った。
土を埋め戻した後、葵は家に帰った。
しかし、玄関に着いたところで、颯斗と鈴音に会った。
彼女がここにいるのを見て、彼の目には驚きが浮かんだ。
「葵、ここで何をしているの?」
葵は答えず、逆に質問を返した。
「あなたは?あなたと彼女は、ここで何をしているの?」
颯斗が口を開く前に、鈴音が微笑みながら言った。「私、久しぶりに颯斗のピアノが聴きたくて。彼がピアノは旧邸にあるって言うから、取りに来たのよ。緑川さん、ここはあなたの方が詳しいでしょう?案内してくれない?」
そう言うと、鈴音は葵の返事も待たずに、彼女の腕を引いて屋敷の中へと入っていった。
第8話
ドアを開けた瞬間、無数の記憶が葵の脳裏に押し寄せた。
部屋の中の調度品や配置は、彼らが去った日と全く同じで、何一つ変わっていなかった。
ここで長く生活していたせいか、故郷を訪れた颯斗も少し心を動かされ、振り返って葵を見た。
「葵、覚えているか、俺たちは……」
「覚えていないわ」
葵はうつむき、声はかすかで聞き取れなかった。
颯斗は一瞬固まり、それから隅に置かれたレゴの模型を指さした。「俺たちが組み立てた後、書斎に置いたはずだろう?どうしてここに移動したんだ」
葵は彼の視線の先を見ようとせず、淡々と答えた。「あの頃、あなたは見えなかったから、多くの記憶は幻のように、混乱しているの」
まるで颯斗が葵を愛していると思っていたかのように。
しかし実際には、颯斗の彼女への感情は、追い詰められた状況で生まれた、梅の木を見て渇きを紛らわすような幻に過ぎなかった。
見えないため、触れることに頼らざるを得ず、彼女は白杖のような存在だったから、彼は彼女が重要だと思ったのだ。
だが視力を取り戻した彼は、何でも思いのままにできるようになり、彼女はもはや必要なくなった。
そして葵もまた、若かった日々の支え合いが、嵐の中でも二人を歩ませてくれると信じていた。
結局のところ、すべては水月鏡花のように儚く、美しい夢はやっと覚めた。
葵の顔に一瞬よぎった寂しい表情を見て、颯斗の胸は締め付けられた。
何があったのか尋ねたかったが、彼女は背を向け、バルコニーへと歩み出した。
「ピアノは廊下の奥の部屋よ。自分たちで行って」
遠ざかる足音を聞きながら、葵は揺り椅子に身を預け、静かに瞼を閉じた。
やがて、晴れ渡っていた空が突然曇り始め、小雨が降り出した。
彼女は立ち上がってリビングに戻ると、遠くからピアノの音が聞こえてきた。
それは彼女の人生で初めて聞いたピアノ曲、『愛の夢』だった。
聞いているうちに、彼女は10歳の夏に戻ったかのように、無意識に音のする方へ歩いていった。
窓越しに、颯斗と鈴音がピアノの前に並び、四手連弾をする姿が目に映った。
何年も経った今でも、二人の間の絆は少しも衰えず、昔のままであり、七年が過ぎても、彼が彼女を見つめる眼差しには、変わらぬ深い愛情が溢れていた。
颯斗は鈴音をそれほどまでに愛していたのだ。彼女が彼を七年もの間捨てたとしても、決して忘れることはなかった。
そうだ、彼らはプリンスとプリンセス。彼女はただの家政婦の娘に過ぎない。どうして自分の属さない世界に足を踏み入れようとしたのか?手の届かぬ人を手に入れようなどと、なぜそんな思い上がりを抱いたのか?
もし時を戻せるなら、彼女は颯斗に一目惚れなどしなかっただろう。ひそかに彼に恋心を抱くこともなく、まして何もかも投げ打って、視力を失った彼の傍で七年もの歳月を共にすることもなかっただろう。
ピアノの音は次第に弱まり、やがて消えていった。
いつしか、鈴音の手が颯斗の手に触れ、そのまま上へと滑っていった。
窓越しに、彼女は鈴音が彼の肩に手をかけ、自ら赤い唇を差し出すのを見た。
「颯斗、あなたがまだ私を愛していることを知っているわ……」
その瞬間、葵は我慢できず、背を向けて去っていった。
雨はますます激しくなり、彼女の全身をずぶ濡れにした。
彼女の心は混迷し、自分が断崖の枯れ草のように感じたかと思えば、荒波に翻弄される小舟のようにも思えた。
根もなく、漂うだけ。
涙さえも、雨の中に消えていった。
もう何の痕跡も見つけられない。
第9話
家に着くと、葵はスーツケースを取り出し、最後の荷物の整理を始めた。
彼女が深夜まで片付けを続けても、颯斗は帰ってこなかった。もはや彼女の心には何の期待もなかった。
翌日、葵は入国管理局へ足を運び、全ての書類を受け取った。
帰り道、彼女はその日の午後出発の航空券を予約した。
車が家の前に停まると、庭に止まっているマイバッハが目に入り、思わず足早に家へと向かった。
寝室に入るなり、颯斗がスーツケースに近づき、開けようとしている姿が目に飛び込んできた。
とっさに、彼女は声を上げていた。「鈴音と一緒にいるんじゃないの?どうして戻ってきたの?」
颯斗は全身が硬直した。
彼はゆっくりと振り返り、顔を上げた瞬間、目には怒りが浮かんでいた。
葵の前に立った彼は、深いため息混じりに言った。「葵、今度は何を考えているんだ?俺は言っただろう、鈴音とはもう何の関わりもないって」
もう何の関わりもないって?
でも、彼女を守るために、婚姻届までに出したじゃない。
葵は涙ながらに笑ったが、それでも彼の嘘を暴くことはしなかった。
「それは私の誤解だったわ」
彼女の表情に変わった様子がないのを見て、颯斗はようやく安堵の息を漏らした。「今夜、霜月家で家族の集まりがある。家族も了承してくれた、お前を連れて行くことを」
それを聞いて、葵もまた息をのんだ。
颯斗の両親が、承諾したというの?
彼女が呆然としているのを見て、颯斗は彼女の頭を撫で、カードを一枚渡した。
「葵、心配するな。必ず、いつかは家族にもお前を認めさせて、堂々と俺の隣に立たせるから。今は少し疲れているんだ。休ませてくれ。秘書にお前にぴったりのドレスを選ばせようと思うが、どうだろう」
葵はそのカードをしばらく見つめ、受け取った。
「休んでいて。私一人で行くわ」
颯斗はこめかみを押さえながら、小さく頷いた。
葵は取り戻したばかりの証明書をバッグにしまった。
颯斗もベッドに横たわり、深く眠りについた。
17歳の時と変わらないその顔を見て、葵は少しぼんやりとした。
彼女は最後に手を伸ばし、彼の眉間から顔を撫でた。
夢の中でその仕草を感じたのか、颯斗は彼女の手を握り、かすれた声で呟いた。
「鈴音、じゃれないで」
その寝言を聞いて、葵は静かに笑った。
彼女は手を引っ込め、荷物を持って階下へ降りた。
別荘の中は静かで、使用人たちは昼寝をしていた。
誰も彼女が去ったことを知らなかった。
空港への道すがら、葵は颯斗の連絡先をすべてブロックし、削除した。
そして、すべてのSNSアカウントも消去した。
忙しい空港では人が行き交い、彼女は点滅するディスプレイを見ながら、最後の電話をかけた。
「霜月夫人、約束通り空港に着きました。これから搭乗して発ちます」
向こう側の霜月夫人は満足し、言葉に隠せない喜びを感じさせた。
「よろしい。今夜の家族の集まりに姿を見せなければ、残りの金額はすぐにあなたの口座に振り込みましょう。では、さようなら」
搭乗案内の放送を耳にしながら、彼女は小さく頷いた。
「そうですね、霜月夫人。これで永遠のお別れです」
そう言うと、葵は通話を切り、携帯電話をゴミ箱に投げ捨て、搭乗ゲートへと足を進めた。
颯爽と。
後ろを振り返ることなく。