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去りゆく私に、もう未練はない
「院長、私は病院の派遣に応じることにしました。半月後にメキシコへ行きます」 江口優奈(えぐち ゆうな)はオフィスの窓辺に立ち、一枚の妊...
Chương (1)
第1章
「院長、私は病院の派遣に応じることにしました。半月後にメキシコへ行きます」
江口優奈(えぐち ゆうな)はオフィスの窓辺に立ち、一枚の妊娠検査結果を掴んでいた。
電話の向こうから、院長の声が聞こえてきた。「どうして急に考えを変えた?何年も説得してきたのに」
優奈は微笑んだ。「ただ、ちょっと環境を変えてみるのも悪くないかなって思っただけです。今忙しいので、これで失礼しますね」
悔しさを歯噛みして飲み込んで電話を切り、優奈は再び手元の妊娠検査結果に目を落とした。
第1話
「院長、私は病院の派遣に応じることにしました。半月後にメキシコへ行きます」
江口優奈(えぐち ゆうな)はオフィスの窓辺に立ち、一枚の妊娠検査結果を掴んでいた。
電話の向こうから、院長の声が聞こえてきた。「どうして急に考えを変えた?何年も説得してきたのに」
優奈は微笑んだ。「ただ、ちょっと環境を変えてみるのも悪くないかなって思っただけです。今忙しいので、これで失礼しますね」
悔しさを歯噛みして飲み込んで電話を切り、優奈は再び手元の妊娠検査結果に目を落とした。
彼女はもともと優秀な産婦人科医で、何度も受賞歴のあるエリートだった。本来なら、将来は明るく開けていたはず。けれど、それよりも高橋誠(たかはし まこと)と一緒にいたくて、優奈は小さな病院の一医師に甘んじる道を選んだ。
三年前から院長は海外派遣を打診していた。帰国すれば昇進は確実だったが、誠と遠距離になるのが嫌で、ずっと断り続けてきた。
それが崩れたのは30分前、誠の秘書が妊娠検査のため診察室に現れた瞬間……
いや、正確には「妊娠を確認するため」ではなく、「彼の女であることを見せつけるため」に来たのだ。
誠は、優奈を骨の髄まで溺愛していた。彼女が望むものと言えば、たとえ天の月さえも取り寄せようとするほどの盲目の愛情を注いでいたのだ。
二人の関係は、ビジネス界でも有名だった。誰もが知っている。高橋氏総裁が無一文からのし上がれたのは、江口優奈が支えたからだと。ずっと傍にいて、彼を支え続けてきたからだと。
だからこそ、人々が言っている「魚を得て筌を捨てる」という言葉は、必ずしも真実ではないだろう。
優奈も、誠とは生涯を共にするものだと思っていた。幼い頃に両親を亡くし、ずっと一人で生きてきた彼女にとって、誠の愛と庇護は、心の拠り所だったのだから。
しかし最近は全てが変わってしまった。
一ヶ月前から、誠はやたらと忙しくなった。二人が会う時間もどんどん減っていった。
優奈は、新しいプロジェクトに取り組んでいるのだと思い、健気にも彼を気遣っていた。どんなに疲れていても、手料理を用意して待つほどに。
だが、今日になって初めて知った。誠が忙しかったのは、仕事ではなく、女だったのだと。
佐藤雪乃(さとう ゆきの)は、優奈に言った。「私たちは、一年前から付き合っています」ちょうど雪乃が、新卒で高橋氏に入社した時期だった。
どうりで、試用期間も満了せずに正式採用され、さらに社長秘書にまで昇進したわけだ。
誠は、「雪乃さんは仕事ができるから」と言っていたが、なるほど、「ベッドの上の仕事」ならな。
優奈は、妊娠検査結果を折りたたみ、ポケットにしまった。誠と付き合って七年。今年こそ結婚の話をしようと思っていた。だが、その必要は、もうなさそうだ。
退勤後、病院を出ると、目の前に誠の車が停まっていた。
黒いベントレーは、相変わらず目立つ。
隣の同僚が、羨望の眼差しを向けながら言った。「また彼氏さんが迎えに来てるの?本当に仲がいいのね。何年付き合っても、ずっとラブラブで羨ましいわ。
でも、半月後にはメキシコへ行っちゃうんでしょう?三年は帰れないんじゃない?彼、寂しがるんじゃない?」
「私が平気なら、それでいいの」優奈はそう言い残し、誠の元へと向かった。
誠は、高身長で整った顔立ちを持ち、さらに今では有能な社長だ。きっと、どんな女性でも彼に惹かれるだろう。
だから、雪乃を責める気にはなれなかった。悪いのは、野良犬以下の浮気男のほうなのだから。
優奈が近づくと、誠は車から青いバラの花束を取り出し、彼女に差し出した。「お疲れ様、優奈ちゃん」
この一年、誠は迎えに来るたび、必ず花を贈ってくれた。だが、優奈は実際花があまり好きではなかった。
しかし、優奈は毎回嬉しそうに花を受け取っている。今考えると、花が好きなのはおそらく雪乃のような女の子っぽい人だから、誠は彼女も花が好きだと誤解してしまったのだろう。
「子供騙しね。そんなの、私には必要ないわ」
初めて、彼女は花を受け取らなかった。
優奈は、むしろ雪乃に感謝していた。もし彼女がいなければ、優奈は、ずっと誠に騙されたままだっただろう。誠が、自分を捨てることはなかったと、確信している。
……だが、汚れた愛など、優奈には必要なかった。
第2話
車に戻ると、誠は優奈の様子がどこかおかしいことに気づき、そっと手を握りながら尋ねた。「どうした?また患者さんのために気分が沈んだのか?」
優奈は感受性が強く、ときどき診察した患者のことで心を痛めることがあった。
「うん……」と、小さく返事をし、誠を見つめながら続けた。「今日、妊娠検査に来た女性を診たんだけど……あとで彼女が愛人だって知ったの」
「ねえ、人ってどうして浮気するんだろう?まさか、外の尻軽女でも誘惑になるわけ?」
優奈の問いに、誠の瞳に一瞬の動揺が走ったが、すぐに何事もなかったように微笑み、彼女を優しく抱き寄せた。「君は本当に感受性が豊かだな。いつも他人の気持ちまで背負い込んでしまう。
でもね、人には本能ってものがある。時には衝動に負けて、新しい刺激を求めたくなることもあるんじゃないか?」
優奈は誠を見上げた。自分の中の感情を、どう表現すればいいのか分からなかった。
昼間はただただ悲しかった。七年も心を尽くしてきた相手に裏切られるなんて、誰だって傷つく。
けれど、午後いっぱい考えた結果、優奈はどうやら納得したようだ。
今、彼の言葉を聞いてももう痛みは感じなかった。ただただ、皮肉に思えた。
「じゃあ……誠君も新しい刺激を試してみたい?」
彼女がそう尋ねると、肩にかかった誠の指先がわずかに震えた。しかし、すぐに優しい口調で答えた。「俺には優奈ちゃんだけで十分だよ。俺たちの関係は、誰にも代えられないし、新しい刺激なんて必要ない」
――そう?優奈は心の中で自嘲気味に微笑んだ。
もし今日、雪乃と会っていなければ、きっと彼の言葉を信じていただろう。
そのとき、突然、誠の携帯が鳴った。彼は画面を確認すると、一瞬だけ優奈の方をちらりと見た。彼女が何の反応も示さないのを確認してから、ようやく通話ボタンを押した。
誠は、無意識のように車のドア側へと身体をずらした。まるで、優奈に聞かれたくないかのように。
だけど、誠が思わなかったのは、彼のワイヤレスイヤホンが優奈のすぐ隣りにあった。
まだ接続されたまま、雪乃の声が聞こえている。
優奈はそっと指先を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じながら、努めて平静を装った。
誠はすぐに電話を切ると、申し訳なさそうに微笑んで言った。「ごめんね、優奈ちゃん。会社で急なトラブルがあって、すぐ行かないといけないんだ。タクシー呼んであげるから、いい?」
――会社?
優奈は、さっきイヤホン越しに聞いた会話を思い出した。雪乃が、つわりで気分が悪いから、一緒にご飯を食べてほしいと言っていた。そして、彼の好みの新しいセクシーランジェリーも買った、と――。
マジで吐き気がした。心の底から。
優奈は誠を見つめ、わざと明るい声で言った。「じゃあ、私も会社に付き合おうか?今日はもう仕事も終わったし」
その瞬間、誠の表情が明らかに焦りを帯びた。
「いや、もう一日中働いて疲れてるだろ?俺、たぶん遅くなるし、待たせるのも悪いから。いい子にして、家で待っててくれる?」
彼の口ぶりは、まるで自分を気遣っているかのようだった。でも、優奈はすべてを知っていた。
もう、どうでもよかった。疲れた。
「……車、止めて」優奈はそう言うと、一人で車を降りた。
彼の車が走り去るのを、ただじっと見つめた。その瞬間、彼への最後の情も、すべて冷え切った。
秋の夜風の中、優奈はどれほど歩いたのか分からない。脳裏には、誠と過ごした七年間の記憶が次々と浮かんでは消えていった。
彼が起業したいと話し、断固として会社を辞めたとき、彼女は黙々と応援していた。自分のわずかな給料で、二人の生活を支えた。
誠に少しでも栄養のある食事をさせたくて、彼女は真冬の寒空の下、自転車で通勤して、交通費を節約していた。
「俺は絶対に成功する。絶対に大きな家を買ってやる。優奈ちゃん、信じてくれ。
優奈ちゃん、一生一緒にいる。絶対に君を裏切らない」
優奈は苦々しい笑みを浮かべた。誠は、確かに約束を守った。彼女に大きな豪邸を買い、成功も手にした。
ただ、「一生」は続かなかった。彼は、その約束を裏切ったのだ。
第3話
家に戻ると、優奈は冷え切った身体を温め、荷物をまとめ始めた。
自分の服や必要なものをスーツケースに詰め、国際宅配便で送る手配をする。
そんな彼女の様子を見ていた家政婦が、不思議そうに尋ねた。「奥様、ご出張ですか?」
「いいえ」優奈は誠側の人間には誰にも知られたくなかったので、適当にごまかした。「服が古くなったから、必要な人たちに送るのよ」
「まあ、奥様は本当にお優しいですね。ところで、牡蠣鍋を煮ておきましたよ。先ほど旦那様がわざわざお電話で指示されたんです」
先ほど?優奈は思わず鼻で笑った。
誠は本当に「時間管理の達人」だ。どちらも手放さず、優奈を繋ぎとめながら、雪乃の機嫌も取る。
妊娠中の愛人のそばにいながらも、こちらへの気遣いを欠かさないなんて。
外部の人から見れば、誠はまるで完璧な恋人で、彼女の犠牲が全く忘れられたのも、優奈は今になってやっと理解した。それは、誠巧妙に演じてきたのだから。
目の前の牡蠣鍋を見ていると、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。
誠の薄汚い裏の顔を思い出してか、それとも、長年尽くしてきた相手の裏切りに嫌気が差したのか、優奈は思わず洗面所へ駆け込み、吐いた。
気がつけば、涙がこぼれていた。洗面台に手をつき、鏡に映る自分を見つめた。
ふと、あることを思い出し、棚の中から妊娠検査薬を取り出した。
結果を待つ間、優奈の心はどんどん冷えていった。
そういえば、今月は生理が数日遅れている。さっき吐いていなかったら、思いもつかないだろう。最近忙しかったから、単なる体調の乱れだと思っていた。
10分後。
結果を見た瞬間、優奈の手が震えた。
嬉しさなんて微塵もなかった。むしろ、胸の奥に重い石を詰め込まれたような、息苦しさが押し寄せた。
もしこの子の存在を昨日知っていたら、喜んで誠に結婚の話を持ちかけていただろう。
でも今は彼は雪乃の家で、あの女を気遣っている。……どうやって、喜べるというのか?
茫然としながら洗面所を出るとベッドに腰を下ろし、優奈はひたすら考えた。この子を、どうするべきか。
子供は好きだった。誠との子供を持つことも、何度も夢見た。
でも、こんな結末は、想像したこともなかった。
その時、誠から電話がかかってきた。
「急な出張で、一週間ほど家を空けることになった。ちゃんとご飯を食べて、通勤も気をつけてな」
その言葉の向こうで、微かに聞こえたのは「バリ島行きの二枚の航空券、予約されました」と係りの声。
……バリ島?
「わかったわ。体に気をつけてね」
優奈がいつも通り優しく返事をすると、誠は安心したようだった。
電話を切った後、優奈は笑った。
さっきまで、この子をどうするか分からなかった。でも今は、答えが出た。
優奈は上司に休暇の申請をし、その後、検査と中絶手術の予約を入れた。
この子は、産めない。
その夜、優奈は一睡もできなかった。翌朝、彼女は病院へ向かった。
診察を終え、そのまま手術室へ。
冷たい手術台の上に横たわると、体の芯から凍えるようだった。
その冷たさは、心の奥深くにまで突き刺さった。まるで、無数の氷の刃で切り刻まれるように。
誠との、唯一の繋がりが消えた瞬間だった。
「これからは、彼は彼。私は私で……」
意識が戻ったとき、優奈は点滴を受けていた。
反射的に、平らになったお腹に手を当てた。
全部、終わったの?
青白い唇に、かすかな笑みを浮かべた。
第4話
病院から帰宅した優奈は、初めて「虚弱」という言葉の意味を実感した。
彼女はわざわざ家政婦に頼んで、プレゼント用の箱を用意してもらった。
「奥様、旦那様への贈り物ですか?」
「ええ……あと数日で、私たちが付き合って八年になるの」
彼女は誠に、とびきりのプレゼントを用意していた。
まるで運命に導かれるかのように、彼女がこの家を去る日と記念日が重なっていた。
家政婦を部屋から下がらせると、優奈は自分の妊娠検査結果と人工中絶の診断書をプレゼント箱に収めた。それともう一つ、雪乃の妊娠検査結果も――。
誠がこのプレゼントを開けたとき、どんな顔をするのか。彼女はその瞬間を見届けることはできないが、それでも十分だった。
夜になると、いつものように誠から電話がかかってきた。「ちゃんとご飯食べたか?体調はどうだ?」
その偽善的な優しさが、笑えて仕方なかった。
ちょうどその時、電話の向こうから雪乃の甘えた声が聞こえてきた。「誠君、晩ご飯は何食べる?」
沈黙が流れる。優奈は、何も問い詰めなかった。
「その……急な出張で商談があってさ。雪乃は仕事ができるから、一緒に連れてきたんだよ」
誠の言い訳に、優奈は淡々と答えた。「へえ、確かに彼女は優秀ね。だからこそ、誠君もそこまで重用してるんでしょう?」
「じゃあ、俺、これから会議だから。後で連絡する」誠は、まるで優奈に何か聞かれるのを恐れるように、そそくさと電話を切った。
直後、優奈のスマホにLINEの通知が届いた。
送り主は、つい今日追加したばかりの雪乃だった。
添付されていたのは、一枚の写真。バスローブを腰に巻いただけの誠の後ろ姿。
「見た?あなたの彼氏、今さっきまで私の上にいたのよ。彼ったら、私の柔らかい体が大好きなんですって。あなたみたいな木偶の坊より、ずっと気持ちいいんだって」
優奈は震えが止まらなかった。胸の奥からこみ上げる吐き気が、また襲ってきた。
この一年余り、誠は一体、雪乃と何度関係を持ったのか。きっと、仕事終わりに迎えに来る前も、彼女のベッドから出てきたばかりだったのだろう。
優奈は込み上げる嫌悪感を押し殺し、淡々と返信した。「子供には気をつけなさいね。せっかくそれを武器にのし上がろうとしてるのに、台無しになったら大変でしょう?」
そうメッセージを送った後、優奈は雪乃のLINEのタイムラインを開いた。そこには、幸せに満ちた恋愛の日常が溢れていた。
「彼氏が買ってくれた指輪、超お気に入り~」
写真の下には誠のコメント。「気に入ってくれてよかったよ、ベイビー」
……ベイビー、ね。優奈は、さらにスクロールした。
「ちょっと機嫌が悪かったら、すぐにお買い物デート~もう、次は怒らせないでよね!」
誠のコメント。「ごめんよ、ベイビー!俺が悪かった!」
「これからは三人家族、幸せいっぱい~」
添えられていたのは、今日病院で撮ったエコー写真。
そして、誠のコメント。「これからは俺が、君と赤ちゃんを一生守るよ。愛してる、ベイビー」
その下には、誠の親友のコメントまで。「おめでとう、義姉さん!誠兄さん、早く祝杯をあげないと!」
……義姉さん?つまり、彼の周りの人間は皆、誠と雪乃の関係を知っていたのか。知らなかったのは、自分だけ――まるで愚か者のように。
彼らはいつも、誠がいかに優奈を愛しているかを冗談交じりに話していた。でも、今思えば、そんな言葉すべてが彼女を欺くためのものだった。
タイムラインの最新の投稿は二つ。一つは、今日の航空券と機内の写真。もう一つは、二人が手を繋いでレストランで食事している写真。
その手は、灰になっても見間違えることはない。何度も、何度も自分が握ってきた手なのだから。
雪乃の投稿は、どれもこれも幸福感に満ち溢れていた。その「幸福」を与えたのは、誠――優奈が心から愛した男だった。
優奈は、思わず笑った。自分の存在が、こんなにも滑稽だったなんて。
彼女は、雪乃の投稿を次々とスクリーンショットに収め、誠のコメントもしっかり記録した。そして、それらをすべて印刷し、用意したプレゼント箱に丁寧に詰め込んだ。
第5話
翌日、優奈は誠が自分に買ってくれた宝石やアクセサリー、服、靴、バッグをすべて売り払い、そのお金を貧困地域の女性や子どもたちのために寄付した。自分の手元には、一銭も残さなかった。
こんな「汚れた金」、彼女には必要なかった。
それからの数日間、優奈は毎日のように雪乃がバリ島で撮った写真を目にした。誠のコメント付きで。
彼女はそれらをすべてプリントアウトした。そして、七日目誠が帰ってきた。
優奈はちょうど夕食をとっていた。だが、誠が部屋に入ってきた瞬間、食欲がすっかり失せた。
誠は買ってきたプレゼントを優奈の前に置くと、そのまま彼女に顔を寄せ、キスをしようとした。しかし、優奈はさりげなく身を引いた。
「ご飯は?」優奈は平静な声で尋ねた。「まだなら、先に食べたら?」
「まだだよ。君と一緒に食べたくて帰ってきたんだ」
優奈はふっと誠を見上げた。「誠君って、本当に優しいのね」
その声には、冷え冷えとした皮肉が滲んでいた。
だが、誠は気づかない。彼にとって優奈は、いつも素直で従順だったウサギのようだ。ただ、どんなに大人しいウサギでも、追い詰められれば人を噛むことを、彼は見落としていた。
誠は優奈の向かいに腰を下ろし、にっこり微笑んだ。「もちろんだよ。君に優しくしなくて、誰にする? 一生、大切にすると誓っただろ?」
「もうすぐ記念日だけど、どこか行きたいところは?」
「どうだろう……その頃、病院が忙しくなければいいけど」
優奈の言葉に、誠は甘やかすように微笑んだ。「だから前から言ってるだろ? 仕事なんか辞めて、楽にすればいいのに。俺が養ってあげるよ」
もし、あのとき彼の言葉を鵜呑みにして仕事を辞めていたら。そう考えると、優奈は心底自分を褒めてやりたくなった。恋に溺れて理性を失わずに済んでよかった、と。もし辞めていたら、今頃きっと、離れる勇気すら持てなかっただろう。
「もし私が仕事を辞めて、誠君が私を裏切ったら、どうする?」
優奈は冗談めかしてそう言った。
誠の表情が、はっきりと動揺した。彼は慌てて保証するように言った。「そんなこと絶対にない!信じてくれ、優奈ちゃん。絶対に君を裏切らないよ。俺の心には君しかいないんだ」
その後半の言葉は、優奈も信じていた。誠は彼女を愛している。だが、それでも彼は、彼女を裏切った。それこそが、最も残酷なことだった。
彼女はむしろ、誠が最初から自分に優しくなければよかったと思った。
だからこそ、誠に自分の決意を悟られてはならなかった。もし彼が気づいたら、絶対に引き止められてしまう。
優奈が答える前に、家政婦がやってきて誠に告げた。「佐藤雪乃様がいらっしゃいました」
誠の眉がわずかに寄った。不機嫌そうな顔だった。
一方、優奈はまるで何も気にしていないように、静かに言った。「通して」
やがて、雪乃が姿を現した。艶やかなキャミソールのワンピースを身にまとい、どこか満ち足りた表情をしている。
彼女は誠と優奈の前に立ち、遠慮がちに口を開いた。「社長、奥様……すみません、急ぎの書類がありまして、社長のサインが必要なんです。それと、少しご相談も……」
「気にしないで、話せばいいわ」優奈は静かに微笑んだ。
その様子が、雪乃の胸に引っかかった。本当なら、優奈が嫉妬で取り乱し、誠にしがみつく姿が見られるはずだった。そうすれば、誠の気持ちも冷め、簡単に優奈を捨てるはずなのに。
なのに、この女、黙っていられるとは。
「外で話そう。ちょうど伝えたいこともある」
誠は立ち上がり、部屋を出た。
「はい」去り際、雪乃は優奈に挑発的な笑みを投げかけた。
邸宅の玄関前。誠は低い声で雪乃を睨みつけた。「誰が来いと言った? 彼女の前に現れるなって、言ったよな?」
雪乃の瞳に、涙が滲んだ。彼女はそっとお腹をさすりながら、震える声で訴えた。「ごめんなさい。でも、誠君に会いたかったの。私、妊娠してるのよ? 一人でいるの、寂しくて……」
そして、そのまま誠の首に腕を絡め、唇を重ねた。
誠は最初、抵抗した。彼女を突き放そうとした。だが、雪乃は誠の手を取り、ワンピースの中へと誘った。
「ねぇ……私、誠君が好きなストッキングを履いてるの。お願い、今夜は一緒にいて?」
誠の理性は、そこで途切れた。次の瞬間、彼は雪乃を邸宅の庭の木陰に押し倒し、貪るように求めた。
夜の闇の中で、優奈は、それをただ静かに見つめていた。この痛みを、決して忘れないように。二度と迷わないように。きれいさっぱり、断ち切るために。
第6話
数分後、誠が戻ってきたが、優奈は何事もなかったかのように夕飯を食べ続けていた。
誠は慌てて食卓に駆け寄ると、「ごめんね、優奈ちゃん。会社でまたトラブルがあって、ちょっと行ってこなきゃ」と言った。
「……うん」優奈は淡々と返事をし、ふと彼の赤くなった唇を見上げた。その瞬間、さっきのキスを思い出した。
自分の目の前で浮気するなんて、スリル満点だろうね?
誠が背を向けて出ていくと、優奈は箸を置いた。
そして、誠が買ってくれたネックレスをそのままゴミ箱に放り投げた。
あと数日でこの家を出る予定の彼女は、病院に戻って仕事の引き継ぎをしながら時間を潰していた。
その日、臨時でグループの別の病院に出向することになり、業務を終えて帰ろうとしたとき、突然、医療トラブルを起こした集団に出口を塞がれた。
病院のロビーは怒号に包まれ、棍棒を持った連中が何人もいた。
混乱の中、若い女性スタッフを庇った優奈の頭に棍棒が直撃した。
額から鮮血がどくどくと流れ出し、周囲は一気に騒然となった。
相手側も「本当に怪我をさせてしまった」と分かって動揺し、病院の警備員と医師によってすぐに取り押さえられた。
「江口先生!大丈夫ですか?!処置室へ急いで!」
同僚たちが慌てる中、優奈は手を振って「平気」と合図を送ったが、頭はガンガンして目も少し回っていた。
そのときちょうど誠が雪乃を連れて病院のロビーへ入ってきたところだった。
鉢合わせた瞬間、三人とも一瞬固まった。
誠の手には雪乃のバッグ、雪乃は笑顔で彼の腕にしっかりと絡みついている。
優奈の血まみれの顔を見た瞬間、誠は驚愕し、即座に雪乃を振り払って走ってきた。
勢いで雪乃は転びそうになり、悔しそうに優奈を睨みつけた。
「優奈ちゃん!どうしたんだ!?ケガって……!」誠が慌てて駆け寄った。
だが優奈は気分がよくなくて、今は彼と無駄話をする気にもなれなかった。ただ疲れきった目で彼を見つめ、冷たく言った。「ちょっとした事故よ。ほっといて」
横にいた同僚が誠のことを知っていたため、さっきの騒ぎについて説明を始めた。
優奈はそれを聞く気にもなれず、誠を無視して通り過ぎようとしたが、誠は一言も言わず、優奈を抱き上げて処置室へ走り出した。雪乃の方は完全に置き去りにされ、立ち尽くすしかなかった。
処置室ではすぐに止血と消毒が行われ、優奈が注射を打たれている間、誠は付きっきりで離れようとしなかった。雪乃はドアの外からその様子を見守り、気まずい空気が辺りを覆った。
「もう帰っていいわよ。大丈夫だから」優奈がようやく口を開いた。
「こんな怪我してるのに、置いて帰れるわけないだろ!?」
誠の心配そうな顔を見て、優奈はふっと笑った。そして、ドアの外に目を向けながら言った。「彼女、ずっと立ってるわよ。長く待たせたら、かわいそうじゃない?」
誠も思わず振り返ったが、ちょうど言い訳をしようとすると、一人の医師が雪乃に近づき、検査結果の紙を手渡した。「こちら、妊婦健診の検査結果です。次回の健診日もお忘れなく」
雪乃はわざとらしく大きな声で、嬉しそうに答えた。「ありがとうございます、先生!次回も必ず来ます!」
誠は一瞬顔をこわばらせ、焦って優奈に向き直った。「ち、違うんだ優奈ちゃん!彼女、彼氏と別れて子どもができちゃってさ……今日は体調悪いって言うから、社長として付き添って来ただけで……誤解しないでくれ!」
その言い訳を聞いて、優奈は堪えきれずに笑った。雪乃の顔色が見る間に青ざめていった。
「ふぅん……ずいぶん面倒見のいい社長ね。知らない人が見たら、誠君が子どもの父親だと思っちゃうかも」まるで冗談みたいに、でも確実に刺さるように言った。
誠は引きつった笑顔を浮かべて返した。「な、なに言ってんだよ……俺が父親なのは、君との子だけだろ?」
雪乃は、手に持っていた妊婦健診の紙をぎゅっと握り潰した。
第7話
優奈はそのとき、ふと目を上げて雪乃を見やった。嘲るような笑みが目に浮かんだ。
若くて綺麗な彼女なら、まっとうに生きていれば、きっともっといい相手に出会えるはず。
けれど、自分を大切にできない人間に、誰が手を差し伸べられるだろうか。
優奈の挑発的な視線に、雪乃は顔を真っ赤にして怒りを露わにした。そのとき、急にお腹を押さえてうずくまり、苦しそうに言った。「誠君……誠君、お腹が……痛い……」
誠が慌てて振り返ると、雪乃は苦痛に顔を歪めていた。彼はすぐさま優奈のそばを離れ、雪乃のもとへ駆け寄った。
優奈は静かに椅子に座り、腕に点滴の針が刺さったまま、ただ誠が雪乃を抱えて医者に助けを呼んでいるのを黙って見ていた。
雪乃は顔色が悪いにもかかわらず、抱えられながらも、優奈の方へ得意げに笑いかけてきた。
優奈は黙ってナースを呼び、針を抜いてもらった。薬はまだ半分以上残っていたが、もう続ける気にはなれなかった。
病院を出るとすぐに、スマホが鳴った。画面には雪乃からのメッセージが表示されていた。
「見た?あなたの彼氏、ほんとに私のこと心配してくれてたわ~さっきもすごく焦って、私と赤ちゃんのことばっかり気にしてた。江口さんなんか、あの人の心ではもう何の価値もないのよ」
添付されていたのは、誠が必死に医者に説明している後ろ姿。まるで模範的な夫、優しい父親のように見えた。
優奈は返事もせず、一人きりで病院をあとにした。
だが、家に戻って間もなく、誠も帰ってきた。
彼は急ぎ足で近寄ってきて、心配そうに声をかけた。「どうして連絡くれなかったんだ?もう点滴終わったの?痛みは?大丈夫?」
その嘘くさい優しさに、優奈は吐き気がするほどだった。
七年も一緒にいたのに、自分が得たものは何だった?
「大丈夫よ。わざわざ知らせる必要ある?誠君は忙しいもんね。会社でも、部下のことでも、全部自分でやらなきゃいけないんでしょ?」
その皮肉に気づいた誠は、優奈の手をそっと握って弁解した。「さっきは、本当に万が一のことがあったらと思って……彼女一人で妊娠してて、何かあったら責任問題になるから……」
「確かにね」優奈はうなずいて、ゆっくりと言った。「彼女、一人で妊娠して大変そう。でも、その子の父親って、ちゃんと知ってるのかな?世の中にはさ、ベッドの楽しさだけを追って、女を傷つけるクズ男っているよね。
そういうやつ、存在する価値あるの?そのうち天罰が下るわ」
誠の顔がみるみる青ざめて、ぎこちなく笑った。「う、うん……でも今は、彼女のことはいいから、君の体のほうが心配だよ。
ここ数日、仕事は無理しないでさ。もうすぐ結婚記念日だろ?明日、どこか出かけようよ」
「へぇ、彼女はほっといていいの?ちゃんと一人で大丈夫なの?」優奈はわざとらしく聞いてみせた。
「関係ないってば、別に俺が付きっきりになる必要ある?君は俺の彼女だよ。君が一番大事なんだ」
その言葉を、優奈は録音して雪乃に聞かせたい気分だった。
なんて上手く立ち回る男だろう。
その夜、誠は家に泊まった。だが優奈は「体調が悪い」と言って先に寝たふりをした。
けれど彼がスマホを離さず、深夜にこっそり電話をかけに外へ出ていくのを見逃さなかった。
優奈は布団をそっとめくり、寝室のドアのそばまで歩いた。扉越しに聞こえてきたのは、甘い声で誰かをなだめる誠の声だった。
「ねえ、怒らないで。ちゃんと埋め合わせするから。君の好きなleの指輪、買ってあげる。今日は疲れたでしょ?明日の朝は、君の好きな亀戸餃子、買って届けさせるよ」
優奈は、知らず知らずのうちに苦笑していた。
これが、自分が七年も愛した男の正体だ。
皮肉なほど、哀しかった。
翌朝、朝食の席で、優奈はあまり箸が進まなかった。
誠が気づいて声をかけた。「食欲ない?食べたいものあれば、準備させるよ」
優奈は対面に座ったまま、ゆっくりと顔を上げて言った。「亀戸の餃子が食べたい」
その一言で、誠の顔が一瞬、はっとして曇った。ぎこちない笑みを浮かべて答えた。「あそこの餃子、いつも嫌いだって言ってなかったっけ?」
第8話
「たまには違う味も悪くないわ。長く同じものばかりだと飽きてくるし。恋愛と一緒ね。時間が経つとつまらなくなるものよ」
誠はテーブル越しに優奈の手を取り、優しい声で言った。「優奈ちゃん、最近ちょっと疲れてるんじゃない?何か聞いて、つい感情移入しちゃったとか?」
「他の人の恋愛はね、確かに長く一緒にいると飽きるかもしれない。でも俺たちは違う。ここまで来るのに大変だった。君といる毎日は、全部新しいんだ。
優奈ちゃん、変なこと考えないで。俺は他の男とは違うんだから」
優奈は彼の真剣な目を見つめながら、心の中では苦笑いが止まらなかった。そしてそっと手を引っ込めて微笑んだ。「さ、食べましょ。今日は出かけるんでしょ?」
「うん」
午前中、二人でショッピングモールへ出かけた。優奈は「le家」のジュエリー店を見つけた。
このブランドは世界でも有名で、すべてのデザインが一点物。どのジュエリーも唯一無二だった。
「ねえ、あのお店見に行かない?最近新作がたくさん出たみたいよ」優奈がその店を指しながら言った。
「いいよ、行こう」誠は快く答えた。
店に入ると、優奈の目に真っ先に飛び込んできたのは、ショーケースの中にあるダイヤの指輪だった。
あれが、きっと雪乃が欲しがっていたやつだ。
誠がそっと彼女の腰に手を回し、尋ねた。「どれが気に入った?」
優奈は一瞬も迷わず、その指輪を指差した。「これが欲しい」
雪乃が欲しがっていたことを知っているのか、誠は少し戸惑ったように言った。「それはちょっと優奈ちゃんの雰囲気に合わない気がするな。あのネックレスなら似合いそうだけど」
「いらない。指輪がいいの」
優奈はわざと意地を張っていた。誠がどう出るか、試してみたかったのだ。
予想通り誠は困った顔を見せた。昨晩、あの指輪を雪乃に贈ると約束したばかりなのだ。
「どうしたの?まさか買うのが惜しいってわけじゃないわよね?」
「まさか。君に買わないで誰に買うんだよ」と誠は急いで答えた。
誠は店員に合図し、指輪を持って来させようとした。
その直後、彼は突然優奈の方を振り返って言った。「優奈ちゃん、ちょっと喉渇いちゃってさ。飲み物買ってきてくれない?」
「うん」優奈には、彼が何をしようとしているか、もう分かっていた。
彼女がジュースを買って戻ってくると、誠は少し申し訳なさそうに言った。「ごめん、優奈ちゃん。さっき店員さんが指輪を落としちゃって、壊れたみたい。別のやつにしよう?」
優奈はジュースのカップを強く握りしめたが、顔には出さず、にっこりと笑った。「そう、いいわよ。大丈夫」
結局彼女はネックレスを一つ選び、「疲れたから」と先に帰ることにした。誠もすぐに送り届け、長居することなく去っていった。
彼が去るや否や、佐藤雪乃からのメッセージが届いた。
まずは、あの指輪をはめた手の写真。
「江口さん、この指輪は私のもの。彼は私をなだめるために、あんたに嘘までついたのよ。ほんと哀れね。
あ、そういえば彼があんたにネックレスくれたんだっけ?あれ、私がダサすぎてばばあでもつけないって言ったやつよ」
優奈は携帯をぎゅっと握りしめ、冷静に返信を打った。「佐藤さん、私にマウント取っても意味ないわ。そんなに自信あるなら、誠に私を捨てさせて、あんたと結婚させなさいよ。どう?まさか彼が嫌がってるんじゃないの?それって、あんたの方が可哀想じゃない?」
「あんたマジで図々しい!なにイキってんのよ!?彼は絶対にあんたを捨てるわよ!だって私の子を身ごもってるのよ!?あんたなんかに勝ち目なんてない!!」
画面越しでも、怒りに狂ってる雪乃の様子が目に浮かぶようだった。
優奈はふっと笑い、そして立ち上がって書斎へと向かった。
誠との結婚記念日の「プレゼント」は、どんどん増えている。箱の中には、証拠のスクリーンショットが、ぎっしり詰まっていた。
第9話
八周年の記念日当日、誠は特別にロマンチックなクルーズデートを計画していた。
朝、優奈が目を覚ましたとき、誠はそっと額にキスを落とした。
「八周年おめでとう、優奈ちゃん」
ベッドの周りにはバラの花びらが敷き詰められ、たくさんの風船が飾られていた。
優奈が起き上がると、誠は優しい眼差しで見つめながら言った。「支度したらクルーズに行こう。きっと気に入ってもらえると思うよ。
夜には盛大な花火もあるし、君が好きな俺の釣った海の魚もある。今日、釣ってくるよ」
けれど優奈は、今夜の飛行機で国外へ発つ予定だった。今夜を過ぎれば、二人の関係はもう終わりだった。
ふたりが別荘から出たそのとき、誠のスマホが鳴った。
彼が何を見たのか、優奈にはわからない。ただ、喉仏がごくりと動き、欲望を抑えきれないような様子が見てとれた。
すぐに誠はスマホをしまい、優奈に申し訳なさそうに言った。「ごめん、急に会社でトラブルがあって……先にクルーズへ行っててくれる?すぐ追いかけるから」
「うん」優奈は軽くうなずいた。表情には、感情はまったく表れていなかった。
誠は安心したように微笑んだ。「いい子だね、すぐ戻るから!」
優奈はうなずいた。胸の奥に、言いようのない想いが渦巻いていた。これが、彼に会う最後の瞬間になるのかもしれないと。
車に乗り込もうとする誠を、優奈がふいに呼び止めた。
彼は車のドアの前で振り返った。「どうしたの、優奈ちゃん?」
「……ううん、なんでもない。じゃあね」
本当はちゃんとお別れを言いたかった。でもその機会さえ、もう与えられなかった。
「じゃあね」
――それが、彼にかけた最後の言葉だった。
誠は何かを感じ取ったように一瞬眉を寄せたが、結局そのまま車に乗り、去っていった。
黒いマイバッハが遠ざかっていくのを見届けた優奈は、視線を落とした。
「誠、もう二度と会わない。今日から、せいぜい好きに生きて」
そう小さくつぶやき、別荘へ戻った。
書斎に入ると、予想通り雪乃からのメッセージがスマホに届いていた。
「八周年おめでとう。まさか今日みたいな大事な日に、誠が私の傍にいるなんてね。あなたごときが私と張り合えると思ってるの?」
優奈は一言だけ返信した。「そんなにゴミが好きなら、くれてやる。これからはゴミを宝物みたいに抱いてなさい」
そして画面をスクショして、雪乃を完全にブロックし削除した。
それらのスクショをすべてギフトボックスに入れ、書斎の机の中央に丁寧に置いた。
残りの数時間は、親しい病院の同僚たちにお別れを伝えに行く予定だった。
家を出る前、優奈は家政婦たちに言っといた。「誠君への記念日のプレゼント、書斎に置いてあるから伝えておいて」
そして、5年間過ごしたこの家を後にした。玄関で立ち止まり、顔を上げて、かつての「ふたりの家」を見つめた。
ここには、ふたりのすべての思い出が詰まっている。まだこの家がコンクリート打ちっぱなしだった頃、誠と一緒にここを訪れた日のことを、優奈ははっきりと覚えていた。
ふたりで笑い合って、気づけば泣いていて、誠は優奈を強く抱きしめて言った。「やっと、俺たちの家ができたんだな」
あの頃の甘さも、苦さも、痛みも、全部、優奈だけが知っている。
深く息を吸い込み、彼女は一度も振り返ることなく歩き出した。
午後は同僚たちとちょっとした集まりを開いたが、誠からの連絡は一切なかった。
きっとまだ雪乃のベッドの中なのだろう。
空港へ向かう途中、優奈はスマホからSIMカードを取り出して、窓の外に放り投げた。
――これで終わり。
八年間の想いを、自分の手で捨てた。
一方その頃、誠は優奈に電話が繋がらないことに気づき、慌て始めていた。
すぐにクルーズのスタッフに連絡を取ると、こう返ってきた。「え?江口さんなら、今日は一度もこちらにいらしていませんが……?」
「……なんだって……?」優奈がクルーズに行ってない?どうして?
たしかに、出かける前に自分で行ってくれと頼んだはずなのに……
まさか怒っていたのか? それとも……
誠の胸に不安が募った。電話をかけ続けながら、運転手に家へ急ぐよう命じた。
家に駆け込んでも、やはり優奈の姿はなかった。
家政婦から、優奈は昼頃に出かけたと知らされ、「記念日のプレゼントは書斎にあると伝えて欲しい」と言い残していたと聞かされた。
二階の書斎へ急ぎ、机の上のギフトボックスを見つけた誠。
ホッと息をつき、微笑みさえ浮かべた。やっぱり、サプライズのつもりだったんだ。
中には何が入ってるんだろう?そう思いながら、彼はそっと箱のふたを開けた……