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失われた海の詩
折原和也(おりはら かずや)が妻を命懸けで愛していることは、周知の事実だった。 彼女だけに捧げる歌を書き、手作りのスイーツを焼き、口を...
Chương (1)
第1章
折原和也(おりはら かずや)が妻を命懸けで愛していることは、周知の事実だった。
彼女だけに捧げる歌を書き、手作りのスイーツを焼き、口を開けば必ず「家の奥さん」が唇にのぼる――そんな男だった。
しかし、米山唯(よねやま ゆい)は気づいてしまった。そんな彼が浮気をしていたのだ。
システムを呼び出し、世界からの離脱を申請する。
「了解しました。自主離脱ルートを開通します。15日後、貴女は仮死状態でこの世界を離脱します。死亡場所はかつて主人公を救った海辺。投身自殺として処理されます」
「死亡準備を確実に整えてください」
十五日目。彼女は全てを計画し、海に身を投げるふりをして彼のもとを去った。
折原和也は突然目が覚めたように狂乱し、彼女を探し求めて奔走する。
第1話
折原和也(おりはら かずや)が妻を命懸けで愛していることは、周知の事実だった。
彼女だけに捧げる歌を書き、手作りのスイーツを焼き、口を開けば必ず「家の奥さん」が唇にのぼる――そんな男だった。
しかし、米山唯(よねやま ゆい)は気づいてしまった。そんな彼が浮気をしていたのだ。
システムを呼び出し、世界からの離脱を申請する。
「了解しました。自主離脱ルートを開通します。15日後、貴女は仮死状態でこの世界を離脱します。死亡場所はかつて主人公を救った海辺。投身自殺として処理されます」
「死亡準備を確実に整えてください」
十五日目。彼女は全てを計画し、海に身を投げるふりをして彼のもとを去った。
折原和也は突然目が覚めたように狂乱し、彼女を探し求めて奔走する。
「覚悟は決まったのですか?この世界から去れば、二度と戻れなくなります」
システムの冷たい電子音にわずかな躊躇が混じる。
唯は揺るがない声で答えた。「決めた。離れる」
スマホを開き、弁護士に離婚協議書の作成を依頼する。通知がポップアップした。
【人気歌手・折原和也が妻へ捧げた楽曲『唯(ゆい)』、再生回数10億回突破!】
指先が震え、記事を開いた。
動画の中の和也は、くだけた服装で長身を活かし、昇降式ローラーチェアに腰かけギターを抱えていた。美しい旋律が流れ出す。
「作曲も作詞も完了しました。このメロディは、家の奥さんから授かったインスピレーションなんです」
「彼女と海辺で貝殻を拾った時のこと。潮風が彼女の長い髪を撫で、波が彼女の足首を洗うように寄せては引いていく。そっと袖を肘までまくって腰を折った彼女の姿を見た瞬間、この旋律が頭に浮かんだんです」
「奥さんはまさに僕の幸運の星!一生愛し続けますよ!」
唯は無表情で動画を閉じ、コメント欄にスクロールした。予想通り――
【わあ『家の奥さん』連発!甘すぎる!】
【9分間の動画で199回も!愛が濃厚すぎて眩しい】
【奥様幸せすぎ!こんな夫がいたら私も死ぬほど幸せなのに】
世界中が和也の妻への溺愛を知っていた。
けれど誰も知らない。唯が払った代償を。
彼女は肉体ごとこの世界に飛び込み、ただ和也のために存在していた。
六年前、低迷する和也を攻略する任務を受けた。
当時の和也は誹謗中傷に苛まれ、鬱病に陥っていた。
アンチの投げた硫酸から彼を庇い、自身の鎖骨に瘢痕を負った。崖から身を投げて彼を救い、冷たい海水で子宮を傷め不妊となった。
それでも和也が彼女を愛し、結婚してくれた。
任務は成功し、元の世界に戻れるはずが、彼を選んで留まった。
結婚後、和也は「謎の奥様」の正体を徹底的に隠しながら、Vlogで「家の奥さん」を連呼した。
「デザート作りは大変難しかったが、奥さんが好きなんでね」
「昨夜はレコーディングで帰宅できませんでしたが、今日一番の『おはよう』は僕が奪取しました!」
それなのに――
『唯』のMVに映る少女は、若き日の唯に面影が似ていた。
ふと我に返ると、和也が背後に立っている。背中に押し付けられた体温に、唯は眉をひそめて身震いした。かすかに漂う女性の香水が胃を掻きむしる。
「遅くなってごめん。レコード会社の接待が長引いて」
唯がスマホの少女を指差す。「この子も同行したの?」
和也はシャツの襟元から覗く口紅の痕に気付かぬふりで、彼女の手に頬をすり寄せる。
「藤村茜(ふじむら あかね)はMVのヒロインだし、プロモーション担当でもあるからね」
耐えきれず唯は洗面所に駆け込み、吐き気を押さえつけた。
第2話
和也はその場で数秒呆然とし、トイレに駆け寄って唯の背中をそっと叩いた。
「唯、君……妊娠してるのか?」
抑えきれないほどの喜びを込めた声に、唯は苦々しく唇の端を上げた。吐き気が収まるのを待ち、荒い息を整えながら体を起こす。
「忘れたの?私、妊娠できない体だって医者に言われたでしょう」
それでも和也の興奮は冷めやらず、「明日、病院に行こう。もしもの可能性だってあるかも」
スマホで診察の予約を済ませる彼を、唯は黙って見つめるだけだった。
翌朝、二人はしっかりと身を固めて病院へ向かった。
私立の病院。折原の知り合いの医師が淡々と告げる。
「米山さんの子宮は重度の損傷を受けています。検査結果から見て、妊娠の可能性はほぼゼロです」
期待していなかったとはいえ、医師の残念そうな口調に唯の胸が締め付けられた。
三年前、あの攻略任務を成功させて元の世界に戻っていれば、健康な体を手に入れられたはずだ。
だが彼女は戻ることを拒んだ。今さら脱出申請を出しても、この傷だらけの体のまましか帰れない。
それでも、離れられるだけで満足だ。
唯は冷めた視線で、がっかりした様子の和也を一瞥した。
和也は一瞬落ち込んだが、すぐに唯を抱きしめた。
「大丈夫だよ、唯。子供が欲しくなったら、里子をもらえばいい。二人で育てよう」
唯はそっと彼の腕を外す。
「子供なんて、いなくてもいいわ」
和也は腕を絡めてきた。「そうだな、二人ずっと一緒にいられればそれでいい」
唯は俯きながら心で呟いた。――それも無理なのに。
医師によれば、昨夜の吐き気は鬱症状や過度のストレスが原因で、特に異常はないという。
病院を出ると、和也はクジラ湾へ気分転換に行こうと提案した。
唯は拒まなかった。あの海をもう一度見ておきたかった。
この世界に来て最初に見た場所。
和也が過去に飛び込み自殺を図り、長くトラウマを抱えていた海。唯が少しずつ彼を癒し、再び海を愛せるようにしたあの場所。
だが今、彼女の心境はすでに昔とは違っていた。
人気のない湾。十月の海風が二人を包む。唯はコートの襟を立てた。寒がりなのだ。
和也はすぐに自分の上着を彼女に掛け、後ろから抱き寄せた。
「これで寒くないだろ?」
すれ違った老夫婦が手を繋ぎながら笑う。
「まあ、若いのたちは仲良しだねえ」
「ふん、俺たちみたいに年取っても仲良しでいられたらすごいんだぞ」
二人は笑いながら遠ざかっていった。
唯の体がこわばる。――そう、私たちはそんなに偉くない。結婚して三年で、心変わりする人がいるんだから。
和也は彼女の異変に気づかず、耳元で甘えるように囁いた。
「俺たちも年を取ったら、ああなるよな」
再び嫌悪感が込み上げ、唯は彼の深情けぶった仮面を剥ぎ取りたくなった。
その時、和也の携帯が鳴る。画面を見た彼は一瞬躊躇し、唯に告げた。
「ちょっと電話に出る。ここで待ってて」
一分後、戻ってきた折原は申し訳なさそうに俯く。
「悪い、急な仕事が入っちゃって……出版会社のトラブルみたいだ」
唯は無言で上着を返し、行ってらっしゃいと目で促した。
和也は彼女の無表情な顔を一瞥し、言い淀みながら「早く帰れよ、暗くなる前に」と言って立ち去る。
唯は彼の背中が遠くなるのを細めた目で見つめ、冷笑を浮かべた。
出版会社?彼女はちらりと見えた発信者名を覚えている――【藤村茜】と表示されていた。
怒りが湧き上がる間もなく、冷たい風が吹き抜け、下半身に温かい流れを感じた。次の瞬間、腹部を鋭い痛みが襲った。
唯の顔から一気に血の気が引いた。
第3話
唯はクジラ湾から最も近い病院に運ばれた。
子宮のダメージにより、生理が来るたびに死ぬほどの痛みに襲われる体だった。
初めの頃は生理が近づく数日前から不安に駆られ、和也はどんなに忙しくても仕事を放り出し、彼女に付きっきりでお腹を温め、黒糖入りの生姜と棗の茶を煮てくれた。
彼がいるおかげで、次第に米山は気にしなくなり、毎回和也に促されて初めて自分の生理が近いことを知るようになっていた。
だが今回は、彼も忘れていた。
痛み止めを飲み干した唯は病床に身を預け、システムを呼び出した。
「和也の現在地を特定して」
「承知しました」
電子音が頭の中で鳴り、脳裏に位置情報の地図が浮かび上がる。
和也は霞ヶ東町に滞在した後、約三分ほど経ってから路傍の御々苑13号へ移動していた。
藤村茜が住むマンションだ。
唯は動画アプリを開き、彼女のアカウントを検索してライブ配信に潜り込んだ。
「新しく来てくれた子、ようこそ!」
茜が腕時計をちらりと見て、「でも彼氏が来るから、そろそろ配信終わりますね」と甘えた声で告げた。
柔らかく穏やかな話し方は、聞く者をくつろがせる音色だった。
彼女がそう言い終わると同時にドアが開く音がし、顔中に喜びの笑みが広がる。
マイクを切り、上目遣いで横を仰ぎ見る瞳は、飼い主の寵愛を待つ子犬のように煌めいていた。
次の瞬間、首筋に腕が回り、待ちきれないほど急いだように顔を近づけられた彼女は熱烈なキスを交わした。
相手の顔は見えなくとも、配信画面は即座に沸騰した。
【きゃ——!甘々すぎ!もっと見たい!】
【配信中でキスするなんて!この甘いカップルめ!】
【目の前でキスとかズルい!でも大好き!!】
……
ファンたちの興奮とは対照的に、唯は頭から氷水を浴びせられたような感覚に襲われた。
心底から湧き上がる寒気が全身を震わせる。
相手は紛れもない和也だった。
画面に半分映り込んだシャツの袖は、彼が着ていたものと一致する。
一時間前までこの服が自分にかけられていたと思うと、吐き気が込み上げてきた。
ほぼ一分間も続く接吻シーンに、唯は携帯を伏せた。
しばらくしてマイクが再び繋がり、茜は照れくさそうに笑いながら甘えた。「ごめんねみんな、彼氏来ちゃったから今日はここまで。また明日!」
配信終了間際、画面を埋め尽くすコメントが唯の目に飛び込んだ。
【はーいはーい、私たち大人しいから、ラブラブタイム邪魔しませんよ!】
声にならない笑いが漏れた。頭の中で弦が乱暴に弾かれるような音が響き、耳の奥が痺れる。
病院で一夜を明かした唯は、浅い眠りを繰り返した。
朝目覚めると、和也がベッド柵に頬を押し付け、彼女の手を握りしめていた。
唯は不快感を押し殺し、唇を噛んで手を引っ込めた。
和也は跳ねるように目を覚ますと、申し訳なさそうに再び手を掴んだ。
「ごめんよ唯、最近忙しくて……お前の生理のこと忘れてた。全部俺が悪い」
ああ、二人の女を掛け持ちすれば、そりゃ忙しいわよね。
引き剥がそうとする手を、和也はさらに強く握りしめた。
「なんで昨日電話くれなかったんだ?帰ったら唯がいなくて、心臓止まるかと思った」
「次からは必ず言ってくれよ。お前より大事なものなんてないんだから」
以前ならこの言葉に涙をこぼしたはずの唯だったが、今は無感情な目でしばらく彼を見つめた後、顔を背けて目を閉じた。
「まだ疲れてる。もう少し休みたい」
和也は凍りついた。彼女の冷たい態度に、理由もわからぬ不安が胸を掻きむしる。
「唯……」
言葉を続ける前に携帯が振動した。ちらりと画面を見た和也は、さっきまで離れようとしなかった手をすっと放す。
「じゃあ粥を買ってくる。ゆっくり休んでて」
ドアが閉じる音を確認すると、米山はパッと目を見開き、ベッドから起き上がった。
第4話
和也は廊下を抜け、産婦人科へ向かい、階段室に入った。
階段室の扉は一枚だけ閉まっていた。唯はその扉の前に立ち、自分の角度からちょうど見える、小柄で清楚な顔立ちの女性を目にした。
それは藤村茜だった。
和也は彼女の姿に軽く眉をひそめた。「どうしてここに?」
茜は唇を尖らせて俯きながらも、上目遣いで彼を見上げ、うらめしげな表情を浮かべた。
「今朝、夜も明けきらないうちに目が覚めたら、あなたがいなくなってたの。怖かったわ……」
そう言うと、目元に涙を溜め始めた。
和也は胸を締めつけられる思いで、そっと彼女を抱き寄せた。
「何を怖がってるんだ。俺が消えるわけないだろう」
茜は彼の胸に頬をすり寄せた。「怖いだけじゃないの。会いたくてたまらなかったのよ」
和也は甘える彼女の頭を優しく撫でた。「ずいぶん甘えん坊になったな」
茜は答えず、子犬のように彼を見上げた。瞳には溢れんばかりの慕情が滲んでいた。
そんな眼差しは、男の心を容易にかき乱す。
昔の唯が彼を見つめる目と、そっくりだった。
「和也、私のこと愛してる?」
その言葉を聞いた瞬間、唯は無意識に息を殺し、心が宙づりになった。
和也の目が翳り、唇を噛んだまま沈黙する。代わりに、突然彼女を壁に押し付け、荒々しく唇を奪った。
それでも足りないかのように、首筋へと移り、軽く吸い付く。赤い痕を刻みつける。
唯の目が鋭く疼き、心臓が引き千切られるような痛みに呼吸が乱れた。
これは和也が情熱を抑えきれない時の仕草だ。昔、自分が同じように彼を見つめた時、彼もこうして自制を失った。
唯は深く息を吸い込み、踵を返そうとした。
しかし藤村の次の言葉で、足が釘付けになった。
「和也、私……妊娠したの。責任、取ってよね」
唯は反射的に折原の反応を見た。
彼の動作が止まり、驚きの後、目に喜びの色が濃く浮かび、やがて苦悩に眉を寄せた。
彼がずっと望んでいたこと――自分の子供が欲しいと。
それ以上聞く気力もなく、唯は病室へ戻った。
二十分後、折原も戻ってきた。手には卵入り粥が二つ持っている。
「体調、良くなったか?」
粥をテーブルに置き、額にキスしようと身を屈めた。
唯は顔を背け、避けた。
和也は固まったまま、戸惑いの表情を浮かべた。
「お腹空いた。食べよう」
しばらくして、和也はゆっくりと体を起こし、言い淀むように彼女を見つめた。
「唯、最近ずっと元気がないんだ。何かあったのか?」
「何でも話してくれ。全部解決するから」
そう言いながら粥の蓋を開け、彼女の前に差し出した。
唯は粥を受け取り、淡々と言った。「別に。体調のせいだと思う」
その言葉に、和也は胸の不安を押し殺し、安堵の息を吐いた。
唯はその夜も入院し、翌日退院した。
その後数日、家で過去の品々を整理していた。
二人が贈り合った誕生日プレゼント、結婚記念日の贈り物。
旅行先で撮った写真、切符やチケット、お土産。
一緒に見た映画の半券、ライブのチケット、イベントの入場券……
唯は整理され、膨大な量になった「記憶」を眺め、ふと現実感を失った。
六年って、こんなにたくさんのものを背負うのか。
ふとリビングのソファでCDを聴く和也に目をやった。
CDプレーヤーのディスクがゆっくり回り、旋律が流れ出す。
普段なら音楽に集中する和也が、今日はぼんやりとスマホを見つめていた。
ここ数日、彼は外出こそ少ないが、ずっと上の空だ。
画面にはエコー写真が映っている。唯はちらりと見て、視線を逸らした。
昼食時、和也はMV監督の友人から電話を受けた。
「和也、MVの再生数が過去最高だぞ。打ち上げやろうぜ。彼女連れて来いよ」
和也は慌てた表情で唯を一瞥し、彼女が無反応なのを確認すると、安堵のため息と共に承諾した。
午後、彼が出かけた後、唯は弁護士に離婚届を取りに行く旨を伝えた。
第5話
離婚届はとっくに印刷されていたが、和也がここ数日家にいたため、唯は余計な波風を立てまいと取りに行くのを控えていた。
ようやく書類を受け取った彼女は車で帰路についた。
システムの冷たい音声が脳内に響く。「今夜を過ぎれば、この世界を去るまで残り7日。離脱経路は50%まで開通しました。残された期間で後始末を完了してください」
アナウンスが終わるとシステムは消え、唯は無表情のままハンドルを握り続けた。
その時、前方の路肩で焼肉店に向かう藤村茜の姿が視界に飛び込んできた。
一瞬ためらった後、彼女は車を停めた。
昼食時に聞きかじった和也の通話内容が頭をよぎる。「打ち上げ」「彼女」という単語が断片的に耳に残っていた。
まるで操り人形のように、彼女は茜の後を追って個室へ向かった。
茜が入ると、中から野次が湧き上がった。
「おお、大歌手の恋人さん来たぞ!」
茜は礼儀正しく会釈した。「ごきげんよう」
「さぁ座って!何か注文したら?和也に怒られる前にサービスしなきゃな」
笑いが広がる中、和也は咳払いして茜を隣に引き寄せた。
「結構だ。茜は最近脂っこいものは控えてる」
茜が頬を染めて俯く。張り詰めた空気を、誰かが切り裂いた。
「控えてるって……まさか妊娠?」
茜は和也の方へ体を寄せ、顔をさらに伏せた。
一同は瞬時に状況を飲み込んだ。
「……これは奥さんにバレないようにな」
和也の顔が青ざめ、茜が不安げに彼を見上げる。
個室外の唯は目を細め、足元から這い上がる冷気が怒りに変わるのを感じた。
脳裏で何かが弾ける音がした。
和也の友人たちは皆、彼女の存在を知っているはずだった。あの出会いの日も、苦楽を共にした日々も、共有したはずの物語も。
だが今や、茜の存在もまた共有財産になっているらしい。
深く息を吸い込んだ唯は、上品な微笑みを浮かべて猛然と扉を押し開けた。
「ごきげんよう。偶然通りかかったので、お邪魔しますわ」
10秒の沈黙が部屋を支配した。
扉が開いた瞬間、和也と友人たちの表情が一斉に凍りつくのが見て取れた。
唯はゆっくりと一人一人を見渡しながら唇を歪めた。
「お邪魔でしょうか?」
ようやく我に返った一同が慌てる。「とんでもない!奥さんどうぞ――」
しかし和也の隣には茜が座っており、空席がない。発言した男は干からびた笑みを浮かべ、立ち往生した。
和也が唯を見つめたまま無意識に立ち上がった。
だが唯は涼しい顔で彼の向かい側に座った。「結構よ。ここで失礼するわ」
和也の眉がかすかに震えた。
食事中、唯は茜に向き直った。「藤村茜さんですわね。MVよりずっとお綺麗ですこと」
「あら……そういえば、私の若い頃に似ているわね」
和也の肩がこわばる。「君の若い頃の方が美しかった」
唯が軽く眉を上げる一方、茜の顔から血の気が引いた。
周囲の者たちは顔を見合わせ、声も出せない。
しかし茜は瞬時に表情を整え、優雅な笑みを浮かべて和也の言葉を流した。
「食べないのですか?」唯が食器を弄びながら問う。
茜は手を腹部に当てて微笑んだ。「妊娠中ですので、脂っこいものは控えているんです」
和也へ訴えかけるような視線を投げながら。
空気が鉛のように重くなる。誰も咳一つできない。
和也は茜の視線に応える余裕もなく、唯を固唾を飲んで見つめていた。口を開こうとした刹那、彼女が先制した。
「そりゃあ注意が必要ね」
何事もないように言い放つと、突然箸を置いて立ち上がった。
第6話
「どうぞ召し上がって。私はもう済ませましたので、家の用事があるから失礼します」
彼女は口元を緩めると、皆の緊張をよそに個室を出て行った。
元々の目的は彼らを不快にさせることだけだった。
大成功だ。誰もが土を噛んだような顔で食事をしていた。
和也は我慢できず、席を蹴って追いかけた。
「唯、話があるんだ……」
唯は訝しげに振り返った。「え?何か?歓迎会でしょう?お友達をお一人にしていいの?」
和也は真っ直ぐに彼女を見つめ、探るように訊ねた。「怒ってないのか?」
前を向きながら歩き続ける唯は笑った。「別に怒ることなんてないじゃない」
和也が慌てて並んだ。「あの……藤村茜が隣に座ったのは本当に偶然で……俺は君だけを愛してる。浮気なんてしない」
唯は涼しい顔で答えた。「知ってるわ。彼女の隣にも別の男性が座ってたもの」
「信じている」
五文字を噛みしめるように言うと、彼女の顔に掴み所のない笑みが浮かんだ。
和也は急に彼女が遠く感じられ、この違和感の正体が分からずもどかしくなった。
暫く躊躇ってから小声で確認した。「本当に?」
「本当よ」
安堵と同時に理由のわからない焦燥が胸を締めつける。
「じゃあ待ってて。皆に挨拶してから一緒に帰るから」
断る隙を与えず、彼は個室へ戻っていった。
唯はその隙に車内の離婚届を隠した。
その後、和也は二日間家でべったりしていたが、唯はうんざりと思った。
幸い三日目に新作アルバムのレコード会社から連絡が入り、彼はスタジオへ向かった。
二時間後、携帯が鳴った。
「唯、スタジオのテーブルに契約書を忘れた。届けてくれないか?」
唯は車で書類を届け、契約が済むのを見届けた。
関係者が帰ると、和也は赤らめた耳を隠すようにスマホを確認し、やがて唯の腰に手を回した。
「悪いな、でも録り直しがあるから……一緒に帰れない」
惜しむような口調に、唯はさりげなく距離を取った。
「構わないわ。一人で帰るから」
「じゃあ唯の好きなクッキーとドリアンケーキを宅配させよう」
額にキスしようとする手前で、唯は灰を払うふりをして身をかがめた。
スタジオを出た途端、藤村茜が降りてくる車を目撃した。
茜は唯を認めても挨拴さえせず、コートの前合わせを緩めながら真っ直ぐ中へ入って行った。
唯が眉を上げると、風に翻るコートの隙間から白い胸元と黒いレースの肩紐、そしてちらつく長い脚が見えた。
中身は下着だけのようだ。
一分後、唯は再びスタジオに戻った。
控え室ではコートを脱いだ茜が、喉を鳴らす和也に抱きついている。
「こんな格好で来るなんて……」
「だって、私の写真を見て奥さんを追い出したんでしょ?二日も連絡くれないから……忘れられちゃうかと思って」
震える声が割れた。「あの夜、妊娠した話をしたのは……あなたを想いすぎて……許してくれる?」
ドア越しに軋む机の音と荒い息遣いが響く。茜の喘ぎが途切れた。「和也さん……優しくして……お腹の子が……」
「ああ……分かってる……」
唯は淡々とスマホの録音を停止し、足音も立てずにその場を離れた。
第7話
和也が家に戻ったのは、夜の八時を回っていた。
唯に持ち帰った牛丼を差し出すと、彼女はちらりと視線を走らせた。「晩ご飯は済ませたから、今はお腹空いてないわ」
「なら置いとけ」
和也は唯の隣に腰を下ろし、彼女の手を握りながら言った。「唯、明日から五日ほど海川市に行く用事ができて……」
「いいわよ。帰りを待ってる」
明るく即答する妻の声に、和也は眉を寄せた。「……何の用事か、聞かないのか?」
「別に。あなたを疑ってるわけじゃないもの」
和也はしばらく唯の顔を見つめ、やがて申し訳なさそうに肩を抱き寄せた。「今回の仕事が終わったら、必ずゆっくり付き合うからな」
唯の唇に薄い嘲笑が浮かんだ。
もう必要ない。あと三日で彼女はこの世界を去るのだ。
最初は六年間過ごした場所への未練もあった。思い出が詰まりすぎていたから。
けれど今は胸が軽い。まるで古い殻を脱ぎ捨て、新しい生命に生まれ変わるような解放感。
離脱チャンネルの起動に15日かかる仕様さえ有難く思えた。元の世界に戻っても、もう依存症のような苦しみは味わわずに済むのだ。
翌朝、スーツケースをまとめた和也が出かける際、「外出は控えて、ちゃんと待っててくれ」と念を押した。
ドアが閉まる音と共に、唯は溜め込んだ品々を処分し始めた。捨てるもの、焼くもの、寄付するもの。三年前から暮らした部屋はみるみる空虚になり、かつての生活の痕跡は薄れていった。
これでいい。
和也が帰宅時の光景を想像すると、見えないのが残念だと思った。
離脱当日、唯は早朝に目を覚ました。
システムの声が脳内に響く。「宿主様、チャンネルはクジラ湾で正午に開きます。遅刻なきよう」
「クジラ湾か……」
この世界に降り立った場所と同じと知り、妙に納得した。始まりと終わりが同じなら、綺麗に線が引ける。
離婚届をリビングのテーブルに置き、車で海岸へ向かう途中、スマホが振動した。
友達申請を許可すると、即座に写真が送られてくる。
ベッドで上半身裸の和也に抱かれる藤村茜。
【スタジオ前で私たちの声、聞いてたでしょ?私には赤ちゃんができたの。和也さんは私のものよ】
【海川市の仕事なんて嘘。私と旅行に来てるの。ほら、幸せそうでしょう?あなたはもう要らないってことよ】
続けて送られてくるツーショットに、唯はくすりと笑った。
【おめでとう、って言っとく?】
返信を待たずにブロックし、チャット記録を録画保存。
クジラ湾に着いたのは十一時五十三分。
波打ち際で自撮りした写真に、唯はピースサインで晴れやかな笑顔を収めた。その画像と録画データ、スタジオの録音ファイルを和也に送信。
【さよなら、和也。永遠に】
全ての連絡手段を遮断し、砂浜に腰を下ろす。白い波が砕ける音を聴きながら、そっと瞼を閉じた。
システムのカウントダウンが十から一へと進むにつれ、意識が柔らかな虚無に溶けていくのが感じられた。