永い愛の嘆き

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永い愛の嘆き

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「小林さん、こちらが献体のご同意書です。ご逝去後、ご遺体を当校に寄贈され、医学教育の『献体』としてご提供いただくということで、よろし...

Chương (1)

第1章

「小林さん、こちらが献体のご同意書です。ご逝去後、ご遺体を当校に寄贈され、医学教育の『献体』としてご提供いただくということで、よろしいでしょうか?」 小林深雪(こばやし みゆき)は頷き、ためらうことなく書類に署名をした。 「はい。あと一ヶ月もすれば、私は死にます。その前に連絡しますので、遺体の処理をよろしくお願いします」 そう言い残すと、彼女は同意書を手に医学部を後にした。後ろでは、白衣を着た医師たちが目を赤く染め、深々と頭を下げている。 森崎家に戻ると、玄関を開けた途端、中から甘く絡み合う声が聞こえてきた。 「森崎さん……ここ、奥様との新婚のお家でしょう?私を連れてくるなんて、離婚させる気ですか?」 森崎宏(もりさき ひろ)はくつろいだ様子で笑った。「離婚?とんでもない。知らないのか?彼女は俺にとって理想の女性だ。死んでもいいほど愛している」 女はくすりと笑い、首に腕を絡める力を強めた。 第1話 「小林さん、こちらが献体のご同意書です。ご逝去後、ご遺体を当校に寄贈され、医学教育の『献体』としてご提供いただくということで、よろしいでしょうか?」 小林深雪(こばやし みゆき)は頷き、ためらうことなく書類に署名をした。 「はい。あと一ヶ月もすれば、私は死にます。その前に連絡しますので、遺体の処理をよろしくお願いします」。そう言い残すと、彼女は同意書を手に医学部を後にした。後ろでは、白衣を着た医師たちが目を赤く染め、深々と頭を下げている。 森崎家に戻ると、玄関を開けた途端、中から甘く絡み合う声が聞こえてきた。 「森崎さん……ここ、奥様との新婚のお家でしょう?私を連れてくるなんて、離婚させる気ですか?」 森崎宏(もりさき ひろ)はくつろいだ様子で笑った。「離婚?とんでもない。知らないのか?彼女は俺にとって理想の女性だ。死んでもいいほど愛している」 女はくすりと笑い、首に腕を絡める力を強めた。 「冗談でしょう?だって森崎さん、浮気の噂は絶えないじゃない。どんな女でも手を出すのに、一年も娶った奥様だけは冷たくあしらうなんて……」 深雪は静かにその光景を見つめ、息遣いが少し乱れた。 彼だけが知っている。森崎の言葉は、全て真実だった。 かつて、彼はA大で名を轟かせたイケメンだった。 「高嶺の花」と謳われ、女生徒の告白をことごとく跳ね除けていた。しかし彼女は諦めず、しつこく追いかけ、ついに彼を手に入れた。 世間は彼を「神々しい男」と呼んだが、神壇から降りた彼がどれほど愛に盲目か、深雪だけが知っていた。 最初は彼女が追いかけたが、いつの間にか逆転した。 彼は、彼女のためなら何でもした。 彼女が欲しがったネックレスのため、炎天下でマスコットスーツを着て一日中チラシを配り。 彼女の誕生日を盛大に祝うため、五つのアルバイトを掛け持ちし、レストランで倒れそうになり。 冬の朝、起きられない彼女のために、食堂で買った朝食を懐に温め、女子寮の前で一時間も待ち続けた。 自尊心も命も捨てて愛するほど、彼は彼女を想っていた。 だが彼女は、あっさり別れを告げた。 雨の中、震える少年は袖を掴んで離さなかった。 「深雪……別れないで。君が欲しいものは何でもあげる。命をかけても……」 「愛してる……君なしでは生きられない……」 それでも彼女は手を振り払った。人生で最も冷酷な言葉を吐いた。 「森崎さん、あなたはいつまで貧乏なの?私が欲しいものを手に入れる頃には、私はもう年老いて動けなくなってるわ」 「私が欲しいのは、ブランド服と高級車。値札を見ずに服を買える生活よ」 「あなたと一緒じゃ、食事すらケチケチしなきゃいけない。こんなの、もう耐えられない」 「愛なんて……何の価値もないわ」 傘を差し、彼が雨に倒れるのも構わず去った。 あの別れで、彼は半死半生になった。 だが運命は皮肉だ。三年後、彼は一躍、北安(ほくあん)市の頂点に立つ実業家となった。 成功を掴んだ彼が最初にしたことは、彼女を強引に結婚させることだった。 結婚して一年。彼の周りでは女が次々と入れ替わり、豪邸に連れ込まれた。彼女の反応を試すため、ベッドの音を聞かせつける。 だが彼女は常に平静だった。 残された命が、もはや長くないからだ。 今日も、何事もなかったように部屋に戻った。 ベッドに横たわると、飼い猫のトントンが駆け寄り、足元でくるくると回る。森崎家で彼女を慰めてくれたのは、この猫だけだった。 宏が帰宅することは稀で、たとえ帰っても、別の女を連れ込み彼女の前で抱き合う。 深雪は蒼白い指で猫の頭を撫で、激しい頭痛に耐えながら風呂に入り、ようやくベッドに倒れ込んだ。 夢を見た。別れた日の雨の中、一人で家に帰り、泣き崩れる自分。 母が駆け寄り、抱きしめてくれた。 「深雪……乗り越えられるわ。宏くんは良い子よ。彼の人生を、私たちのせいで台無しにできない」 母はがんで余命幾ばくもなく、さらに遺伝性の病だと知った。検査を受ければ、若い彼女も進行した末期状態だった。 宏の未来は長い。彼には輝かしい人生が待っている。 だから嘘をついた。金と虚栄を求める女を演じ、彼を突き放した。 暖かい場所で静かに死のうと思ったが、数年後、再び彼と縒りを戻し、強引に嫁がされた。 気がつくと、外の喘ぎ声は消えていた。 宏は例によって、女の子を連れて出かけたのだろう。 彼のいつものパターンだ。深雪が無反応だと、事が終わるとすぐに女の子を買い物に連れていき、翌日にはまた別の女性を連れてくる。 彼はよく言った。 「深雪、時間はたっぷりある。一生かけて、お前と傷つけ合ってやる」 彼女にはもう、一ヶ月しか残されていない。 「宏……私は一生なんて、持たないのよ」 第2話 深雪は必死に体を起こし、引き出しを開けて薬を探そうとした。しかし、薬を取り出すより先に喉が熱くなり、どっと血を吐いてしまった。手から零れた薬が床に散らばり、胸を押さえると、臓腑を引き裂かれるような痛みが走る。 ふと枕元の電話が鳴り、朦朧とした意識で受話器を取った。向こうから聞こえる森崎宏の息遣いに、彼女は大学時代を思い出した。熱を出した時、具合が悪い時、いつも甘えて泣きついていたあの頃のように。 「宏……痛いよ……」 「死ぬほど……痛いの……」 気が遠くなるほど時間が過ぎ、揺すられて目を開けると、宏の焦燥に満ちた瞳が視界に飛び込んできた。 「深雪、どうした?どこが痛いんだ?」 彼女がゆっくり視線を移すと、傍らのテーブルに雨水で濡れた大福の箱が転がっていた。昔から体調を崩すと、彼女はこれしか口にしなかった。どんなに遠くても、宏は列に並び、彼女の元へ届けていた。 ようやく彼女は悟った──あの電話は夢ではなかったのだと。 宏が彼女を抱き締めた。これまでに見たことのない動揺が瞳に浮かび、声まで震えていた。 「なぜ吐血する?どこが悪いんだ?」 普段の冷たい男の姿とあまりに違う様子に、深雪の胸が締めつけられた。全身の力を振り絞って彼を押しのけ、高らかに笑い出した。 「森崎宏、他の女のところにいたんじゃないの?ちょっと芝居しただけで、慌てて駆けつけるなんて。これが血?トマトケチャップよ!」 「それに、今さら私の好物なんて……恨んでるくせに、未だに演技が下手ね」 「まるで犬みたい。手を叩けばすぐ来るなんて、みっともないわ」 笑いながら、涙が頬を伝った。 宏は床に転がった大福を蹴り飛ばし、炎のような怒りを目に燃やした。 「俺を弄んだのか?」 「そうよ」深雪は嘲るように微笑んだ。「あなただって私を弄び続けてたでしょ?お返ししただけ。公平じゃない?」 男の表情が氷のように冷え、彼女をベッドに押し倒すと首筋に牙を立てた。嗄れた声が震えた。 「ああ、俺が馬鹿だった」 「お前がようやく折れたかと思った……金目当ての女のくせに、未練なんか持つ俺が愚かだ!」 逆上した彼が唇を奪おうとした瞬間、ドアから飼い猫のトントンが飛び込み、腕に爪を立てた。 痛みで正気を取り戻した宏は彼女を突き放し、数度深呼吸すると、無表情で立ち去った。 残された深雪は猫を抱きしめ、枕を濡らすほど泣いた。 その後一ヶ月、彼は帰ってこなかった。 ──まさに彼女の望んだ通りだった。 最近では吐血が頻繁になり、彼に気付かれたら説明の仕様がない。痛み止めの薬を手放せず、この日も病院からの帰り道、宏が車を手配したとの連絡が入った。 深雪は素直に車に乗り込んだ。こうした手順にはすっかり慣れていた。宏が新しい女を見つけ、わざわざ自分を連れ回して辱める――いつものパターンに過ぎない。 運転手は蒼白な彼女と薬袋を見て、気の毒そうに口を開いた。 「小林さん、お体の調子が悪いのですか?」 窓の外を見つめたまま、彼女は無言で首を振る。 運転手はため息をついた。宏の側に長年仕え、二人の確執を薄々感じていた。当初はこの女が憎らしいと思っていたが、繰り返される辱めを見るうちに、どこか哀れに思うようになった。何か隠し事があるような気がしてならなかった。 「今回のお相手は風見さんという大学生です。今までの女性とは違うようです」 深雪の表情は変わらない。運転手は焦れたように続けた。 「風見さんは一週間も側におります。これまで一日で飽きていたのに……奥様、どうかご自分を大切に」 彼女はかすかに笑った。もうすぐ消えてしまう身に、取り戻す余地などない。最後の一月、金に目がくらんだ女を演じ切り、彼に憎まれればそれでいい── 第3話 高級ブティックの前で車が止まった。店内に入ると、宏と噂の風見満(かざみ みちる)がいた。 深雪の姿を見た瞬間、宏の眉間に冷たい影が浮かんだ。ソファに深く腰を下ろし、長い足を組んだ彼は満の肩を抱きながら、鈍い声で言い渡す。 「ここの店員は靴の履かせ方が下手だ。お前は得意だったろう?彼女にやってみろ」 深雪は彼が自分を辱めようとしていると悟った。 再会したあの日、靴屋の店員として金持ちの夫人に跪いて靴を履かせていた時、宏は烈火のごとく怒っていた。「金目当ての男に売り飛んだはずの女が、どうしてまたこんな惨めな真似を?」 彼女はわざと軽薄に笑って見せた。「飽きられたから。次の金づるを探しに来たのよ。高級店なら良い獲物がいるでしょ?」 宏の目が血走り、壁に押しつけられた彼女の喉を締め上げた。「金のためならここまで堕ちるのか」 記憶が霧散する。今、宏の隣で無邪気に笑う少女の顔に、深雪は理由を理解した。二十歳の頃の自分と、似た面差しだった。 「仏頂面するな。聞こえなかったか?心配するな、ちゃんと報酬は払う」宏が手を振ると、ボディーガードが現金の入った箱を抱えて立った。 深雪は黙って満の前に跪き、靴を履かせ始めた。一足替える度、札束が顔面を打つ。頬が赤く腫れていくのを宏が眉をひそめて見つめ、携帯を取るため個室へ消えた。 宏の姿が見えなくなると、満の表情が豹変した。 「森崎さんを捨てた女があなたか?恥知らずにも程があるわ。私なら恥じて死ぬわよ」 無視される満は激怒し、宏が戻る瞬間を計って深雪の手を掴み、押されたふりで床に転がった。 「何をした!」宏が駆け寄り満を抱き上げると、深雪を強く突き飛ばした。 満は涙を浮かべ震えていた。「怖かった……」 宏が優しく彼女の涙を拭う横顔は、かつて深雪に向けられていたものと重なる。「謝れ」 深雪は壁に手をつきながら言い訳した。「私が押したわけじゃ……」 周囲の店員たちは沈黙を守った。宏の声が冷たく響く。「謝罪にも金が要るのか?」 深雪が黙り込むと、彼は舌打ちした。「謝らなければ、今夜あんたの猫を処分する」 「……!」深雪の顔が強張る。唯一の家族である猫の「トントン」を人質に取られた。震える声で満に向き直ると、俯きながら絞り出すように「ごめんなさい」 その瞬間、鼻血が滴り落ちた。宏は嘲るように眉をひそめた。「また同じ芝居か」 宏は満の方へ体を捻じり、薄く笑みを浮かべて訊ねた。「満、この謝罪で満足か?」 満は目尻を吊り上げ、わざとらしく瞳を揺らした。「小林さんの誠意、まだ足りない気がしますわ」 その言葉に宏の唇が鋭く歪む。深雪を射貫くような視線を投げつけ、冷たい鉄塊のような声で宣告した。 「聞こえたか?お前の頭の下がり方が足りないらしい。土下座だ。今すぐ満に額を擦りつけて謝れ」 膝ががくがくと震え、額を床に打ちつける音が鈍く響いた。「申し訳……ございません」 満が満足げに頷くのを確認すると、宏は彼女を抱いて店を出た。 深雪の視界がゆがみ、喉元から鉄の味が噴き上がる。背後で店員の悲鳴がした。 「血です!たくさん吐いてます!」 ドアの外で立ち止まった宏が振り返ると、床に広がる血の痕。 その瞬間、彼の顔から血色が一気に引いた。 第4話 分厚いガラス戸の向こうで、深雪は病床に横たわり、微動だにしなかった。 宏の心臓が高鳴る。心配でたまらないのに、あの夜彼女がわざと嘘をついた情景が脳裏を掠める。 あの女は、本当に芝居がうまい。 今度はこんな手で、こちらの同情を引こうというのか。 彼は運転手を呼びつけ、検査結果を即刻報告するよう命じた。具体的の診断書があれば、もう嘘の言い訳など通用しまい。 気が遠くなるような時間が過ぎ、深雪はようやく意識を取り戻した。 しかし目を開けて最初に見たのは、運転手と医師が病床前で何やら話し込んでいる姿。運転手が診断書を手に重い足取りで扉に向かうのを見て、深雪は慌てて点滴の針を引き抜き、裸足で追いかけた。 「伝えないで!」 彼女は診断書を奪い取り、力いっぱい破り捨てると、手すりにすがって息を切らした。肩で息をする背中が痩せ細っている。 運転手はしばし呆然とした後、深いため息を零した。 「小林さん、なぜそこまで……」 「森崎様が真相を知れば、きっと……」 深雪は青白い唇を噛みしめた。 「お願い……彼には言わないで」 「あの人の性格をご存じでしょう?真実を知ったら、きっと自分を責め続けるんです」 「苦しみは私一人で十分……!」 運転手は首を振り、やがて沈黙で承諾した。 車の中、深雪の体に異常はなく単なる低血糖だと聞いた宏は、眉間に深い皺を刻んだ。 やはりまた芝居だったか。金のためなら手段を選ばない女め。あれほど辱めてもまだ懲りないのか。 「栄養剤を買わせろ」冷たい声が車内に響いた。「外で失神されても恥をかくのは俺だ」 病院を出た深雪は薬の量を増やした。医師から「病状の進行が予想以上に早い」と宣告された。投薬量を増やさねば、一時的にせよ痛みを抑えることさえできないという。 引き出しに薬瓶を隠す際、雑貨で覆い隠す手つきが無意味に思えた。あの二度の出来事以降、例え森崎に目撃されても、もう何も信じてもらえないだろう。 夜、宏が帰宅した。 共にいるのは満だった。 「風見さんに紅茶を出せ。スリランカのやつだ」 ソファに腰掛けた宏が俯せの深雪を見下ろす。「それと、お前の部屋を明け渡せ。しばらく彼女が泊まる」 深雪は抗議せず台所に向かった。薬の影響か、やつれた手が震え、やかんを台にぶつけてしまう。熱湯が跳ね、手首に滲みた。 駆けつけた二人を前に、宏の嘲笑が突き刺さった。 「病気のフリに失敗して、今度は自傷か?」 「死んでも涙など流さぬ。いい加減にしろ」 彼が満の肩を抱いて立ち去る背中に、深雪は冷たい水流を浴びせ続けた。指先が紫色に染まっていくのも気づかずに。 第5話 蛇口から水がまだ流れ続けている。深雪は湯気に灼かれた手の甲の赤みをじっと見つめ、大粒の涙をこぼした。 何が悲しいのだろう。自分が望んだ結果なのに。 たとえ彼女が彼の目の前で死んだとしても、宏は一滴の涙も流さないだろう。それが最初から叶えたかった願いだったはずなのに、なぜ満たされないのか。 それなのに、彼の口から直接そう言われたとき、なぜこんなにも胸が苦しいのか。 まるで誰かに心臓を引き裂かれたようで、息もできないほど痛い。 夜更け、深雪は小さな部屋で横になっていた。隣の部屋の声が鮮明に聞こえてくる。 「宏さん、声が大きいよ。小林さんに聞こえたらどうするの」 「構うものか。彼女にベッドの脇に立たせて見させたって、何の問題もない」 そう言い終わると、深雪の携帯が鳴った。 宏からのメッセージだった。たった二文字。 「来い」 深雪は携帯の画面を消し、寝巻きを羽織ってドアを開けた。 宏の部屋のドアをノックし、中に入った。 部屋の中は春の色に満ちており、満は頬を赤らめていた。 「もう、本当に呼んじゃったの?」 宏は彼女の頭を優しく撫で、額に軽くキスをした。 声は低く、情熱の余韻を残している。 「満、お前のどこが好きかわかるか?照れる様子がたまらなく可愛いんだ。純粋で、他の貪欲で世俗的な女たちとは違う」 深雪は彼の言葉の意味を理解した。彼女が金銭や欲望に目がくらんだ女だと嘲笑っているに違いない。 胸の苦しみを押し殺し、彼女は淡々と目を上げた。 「呼んだ用件は?」 宏は視線を外し、一瞬にして冷たい目になった。 「満が疲れたから、風呂を用意してやれ」 「いつもの通り、金はきちんと払う」 深雪は袖の中で拳を握り締め、爪が掌に食い込んで血が出るほどだった。 全身の力を振り絞って、ようやく感情を抑え込んだ。 しばらくして、彼女は平静を装って答えた。 「かしこまりました。森崎さん、忘れずに振り込んでくださいね」 宏は激しく怒ったようで、こめかみに青筋が浮かび、顔色も険しくなった。 深雪は浴室に向かい、湯を張った。湯気が立ち込め、目が曇り、涙がこぼれそうになった。 後ろから満がバスローブを着て入ってきた。彼女は服を脱ぎ、浴槽に浸かった。妖艶な目には優越感が満ちていた。 「小林さん、この気持ち、辛いでしょう?」 深雪は返事をせず、ただ無表情でボディタオルを持ち、彼女の背中を拭いた。意識的に避けようとしても、視線は満の首や鎖骨に刻まれた、無数のキスマークに引き寄せられた。 きっと彼は本気で満に惚れたのだろう。自制できずに、彼女の肌に自分の痕を残したに違いない。 二人の初夜のことを思い出した。あの頃の宏は未熟で、動作はとても優しく、彼女を傷つけないように気を遣っていた。 どんなときでも、どれほど情熱に駆られても、彼は常に彼女の気持ちを第一に考えていた。 今の彼はすっかり女慣れした男になってしまい、もはや彼女の唇にキスするだけで顔を赤らめていたあの少年ではなかった。 第6話 やっと満の入浴を終わらせた時、深雪は全身びしょ濡れになっていた。 満は明らかに彼女を困らせるつもりで、水が冷たいと文句を言ったり、今度は熱すぎると騒いだりした。お茶を入れさせたり、果物を要求したり、次から次へと注文をつけてきた。 どんな要求でも、深雪は逆らわず、すべて従った。 彼女のそんな弱腰な態度に、満はかえって訝しげに、「宏さんの側にいるのは、一体何のため?」と聞かずにはいられなかった。 ドアの影が揺れた。小林深雪は唇を強く噛みしめた。 彼女は平然と笑って見せた。 「もちろんお金のためよ。私がこんなことをすれば、彼がどれだけのお金をくれるか、あなたにはわからないでしょう?お金のために頑張らない人なんている?」 ドアの向こうで「ガラッ!」と何かが割れる音がした。深雪は気に留めず、満の脱いだ服を抱えて部屋を出た。 ドアを閉めた瞬間、彼女はついに力尽き、背中をドアに預けてゆっくりと床に滑り落ちた。 すべての仮面がこの瞬間に崩れ去った。自分自身を騙すことなどできなかった。宏が他の女性を愛する姿を、平然と見ていることなど、到底無理だった。 胸に激しい痛みが走り、彼女は慌てて立ち上がり、自分の部屋に戻ると、洗面所に駆け込み、一口の血を吐いた。 その後数日、彼女はほとんど階下に降りることはなかった。使用人たちの話から、宏が満のために、森崎家のすべてを大きく変えていることを知った。 満がひまわりを好きだというので、庭の花々をすべて抜き、ひまわりで埋め尽くした。 彼女が中華風のデザインを好むと、宏が高額で購入した家具や名画をすべて撤去し、彼女の好みに合わせて中華風に統一した。深雪の部屋でさえ例外ではなかった。 彼女が西洋料理を好むと、宏は巨額を投じて海外からミシュラン五つ星のシェフを招き、彼女専属の料理人として一日三食を担当させた。 宏は行動で示した。彼が愛する女性は、天にも届くほど寵愛され、望むものは何でも手に入るのだと。 そして、深雪に伝えたかった。もし彼女があれほど貪欲でなければ、このすべては彼女のものだったのだと。 夜、深雪がベッドに横になっていると、階下のリビングから「ミャオッ!」というトントンの悲鳴が聞こえた。 彼女は慌てて起き上がり、明かりをつけて階下に駆け下りた。 リビングでは、満が棒を手に、隅に縮こまったトントンに向かって次々と打ち下ろしていた。 深雪は胸を締め付けられる思いで、すぐに飛び上前に行き、満の手から棒を奪い取ると、地面に投げ捨てた。そして、小さな猫をそっと抱きしめた。 目を赤くして、彼女の腕の中の猫を奪おうとした満に、深雪は後ろに下がりながら、怒りを込めて叫んだ。 「風見さん、あなた正気ですか!」 満は憤慨した様子で言い返した。 「この野良猫め!あなたが飼っている畜生が、私の足を引っ掻いたのよ!ちょっと懲らしめてやっただけだって、何が悪いの?」 トントンは普段から大人しくて臆病で、人を傷つけるようなことは絶対にしない。見知らぬ人がいれば隅に隠れるほどなのに、どうして自ら彼女を傷つけようとするだろうか。 深雪はトントンをしっかりと抱きしめ、どんなことがあっても手放そうとしなかった。 二人が対峙していると、宏が険しい表情で階段から降りてきた。 満はすぐに涙声で彼にすがりついた。 「宏さん、見てください!私の足、この忌々しい野良猫に引っ掻かれたんです!もうこの猫なんて見たくない!」 宏は眉をひそめ、冷たい視線で深雪の腕の中の猫を見下ろした。その声は凍りつくように冷たかった。 「五分以内に、始末しろ」 第7話 その猫は、何年も前に二人が一緒に拾ったものだった。 拾った頃は生後三ヶ月にも満たず、痩せこけて小さかった。 二人で協力して風呂に入れ、ペット用ミルクを飲ませ、ようやく今のふっくらとした姿に育て上げた。 当時、宏は結婚する時にはトントンに指輪を運ばせようと、冗談めかして言っていたものだ。なのに今、彼は淡々と「処分する」と言い放った。 深雪は信じられなかった。自分を憎むのは構わないが、罪のない命にまで怒りを向けるべきではない。 トントンは彼女の命綱だった。それを失えば、彼女も生きていけない。 必死にトントンを抱きかかえ、普段は見せない弱音を滲ませた。 「やめて……宏、お願い。トントンを捨てないで。これからずっと私の部屋で飼うから、二度とあなたたちの前に出さないから」 宏の冷徹な顔に温もりはなく、彼は深雪を冷ややかに見下ろし、残酷な言葉を紡いだ。 「満に傷を負わせた以上、森崎家に置くわけにはいかない」 「相談ではなく通告だ」 深雪が拒み続けると、満は業を煮やし、直接手を伸ばして奪おうとした。 もみ合ううちにトントンが手から滑り、柵の外へ落下した。 甲高い悲鳴と共に、小さな体は硬直して動かなくなった。 「トントン……!」 深雪の瞳が大きく見開かれた。地面に横たわる愛猫を見つめながら、心がトントンと共に地面に叩きつけられ、粉々になったかのようだった。 トントン。彼女のトントン。 血の気が頭に上り、初めて味わう崩壊感。狂いそうな感情が暴走する。彼女は風見の首筋に手をかけ、絞め殺す寸前だった。 「返して……!トントンを返して!」 宏が彼女の腕を掴み、満を背後に引き寄せた。冷たい視線が深雪を射抜く。 「狂ってる女め」 「猫一匹の死で騒ぐな。満に傷一つ負わせたら、お前を地獄の底まで叩き落としてやる」 二人が去り、残された深雪はトントンの亡骸を抱いて泣き伏した。 庭に穴を掘り、丁寧に土を被せた。 良かった、と彼女は思った。せめて埋葬してやれる。自分が死んだ時、誰がトントンの面倒を見てくれるだろうか。 小さな塚を見つめ、彼女の涙は止まらなかった。自分が死ぬ時、遺体を拾ってくれる人はいるのだろうか。 部屋に戻ると、満がソファに座って待ち構えていた。 深雪を見るなり、切り出した。 「深雪さん、あなたが昔、宏さんと別れた理由、知ってるわよ」 深雪はぎくりとした。「何を言ってるの?」 満は嘲るように笑った。「誤魔化さないで。引き出しの薬と検査結果を見たわ。医者に聞いたら、あと半月しか生きられないって」 「でも困ったわね。私は今すぐ宏の妻になりたいの。半月も待てない」 深雪は静かに彼女を見つめ、その真意を測りかねていた。 満は勝ち誇った口調で続けた。「宏さんに知られたくないんでしょ?なら取引しましょう」 「どうせ死ぬなら、早めに命を絶てば?そうすれば真実を暴露しないわ」 「深雪さん、一日だけ待つ。自分が苦しむか、宏さんを苦しめるか——選びなさい」 第8話 答えは、最初から考えすぎる必要などなかった。 もし彼女が最初から宏を苦しめ、自分と共に深淵へ引きずり込むつもりだったなら、あの時、彼は別れを選ばなかったはずだ。 たぶん、今がちょうどいい時なのだろう。 今の宏は彼女を心底憎んでいる。だからたとえ彼女が死んだとしても、きっと悲しみはしない。 夜、深雪は自ら台所に立ち、食卓を料理で埋め尽くした。 彼がかつて夢中になった鳥肉の煮込みと赤ワイン煮の魚を覚えていた。 貧しかったあの頃、二人はよく市場で材料を買い、狭いキッチンで肩を並べた。 「お前の作る料理を毎日食べられたら、それだけで最高の幸せだ」 そう笑った彼の頬に、今は高級スーツの匂いが染みついている。 宏が帰宅し、食卓に佇む彼女の姿を見た時、常に無表情を貫く彼の目に一瞬の動揺が走った。 冷たい足音で近づき、嘲笑うように言い放つ。「何の芝居だ?新しい策略か?」 深雪はいつもの棘を全て抜き、穏やかに微笑んだ。「あなたがずっと求めてたでしょう?今日は特別に、あなたの好物で機嫌を取ろうと思って」 「遅すぎた」彼は唇を歪ませた。「俺はもうお前を愛してなどいない」 「そう……良かった」深雪の笑い声が絞り出される。「それでいいのよ」 そのあまりに平静な態度に、宏はむしろ不安を覚えた。「本当の目的は何だ?」 深雪は寂しげな瞳を伏せ、テーブルクロスを撫でた。「ただ、最後に食事を共にしたかったの。こんなに穏やかに向き合うのは……何年ぶりかしら」 宏の胸が疼いた。返す言葉もなく、彼女が床から段ボール箱を抱え上げるのをただ見つめた。 「学生時代のラブレター、271通もあったわ」深雪が薄汚れた封筒を並べる。「どうしてあの頃は、あんなに話すことがあったのかしら」 手編みのマフラーが現れた時、宏の眉が微かに震えた。「寮で編んでるところを友達に笑われてたわね」 最後にアルバムを広げた深雪は、若き日の写真を指さした。「カメラマンが『モデル向き』って褒めるのに、あなたはいつも不機嫌そうな顔。まるで私に借りがあるみたい」 ふと漏れた笑い声に、宏の心臓が締め付けられた。何もかもが不自然な今夜の彼女。答えを迫ろうとしたその時、携帯が鳴り響いた。 「宏さん、寂しいわ……今すぐ来てくれる?」満の甘えた声が破裂音のように部屋を満たした。 優しく囁きを返す宏を見送り、深雪は箸を置いた。「もう行くの?」 ドアノブに手をかけた彼が、なぜか振り返った。「頼めよ。お前が頼めば、行かない」 ――頼んでくれ、愛していると言ってくれ。 深雪はふっと嗤った。「どうぞ。でも今夜帰らないのなら、コンドームをお届けしましょうか?」 ガラスが割れる音と共に、テーブルがひっくり返された。赤ワインの染みがラブレターを溺れさせ、写真の笑顔を歪ませた。 「馬鹿みたいだ……まだ期待してた俺が馬鹿だった!」宏の怒鳴り声が天井を揺らす。エンジン音が遠ざかる中、深雪は冷め切ったスープの匂いに包まれて佇んだ。 夜更け、浴槽に礼服のまま沈んだ彼女は、天井のひび割れを数えていた。 長年続いた宏との傷つ合うも、これで終わる。 死の淵に立ってみれば、恐怖より安堵が先に立ち、ふと幼い頃の母の手の温もりを思い出した。 「ママ、トントン……すぐ会えるわね」 震える手指で医科大学に最後の電話をかける。 「予定より早くなりました。私が死んだら、遺体の引き取りをお願いします」 声は意外なほど凪いでいた。「ただ一つ、夫の森崎宏には…絶対に知らせないでください」 受話器を置くと、流し台の影からナイフを引きずり出した。 一度、二度、三度──動脈が断たれるまで機械的に切り続け、肉が反り返った傷口から噴き出す鮮血に、ようやく満足そうに頷いた。 「ああ、これで……」 床に落ちたナイフを右手で拾い上げ、今度は胸の中央へ力を込めた。鈍い衝撃と共に肋骨が砕ける音がし、視界が赤い濁流に飲まれていく。最後の意識で彼女は水面に顔を預け、黒髪が水草のように漂うのを感じた。 「さようなら、宏」 「あの時あなたと出会わなければ、こんなに苦しまずに済んだのかしら」 「だからね、もし来世があるなら──二度と愛し合うなんて、やめましょう」 浴槽の赤が濃くなるにつれ、彼女の睫毛はゆっくりと閉じていった。