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私が来たとき、春が街を満たした
「清香、本当に神谷晄夜(かみや こうや)を置いて外国へ行っちゃうの?」 静かなカフェの中で、綾瀬清香(あやせ さやか)は手元のスプーンを...
Chương (1)
第1章
「清香、本当に神谷晄夜(かみや こうや)を置いて外国へ行っちゃうの?」
静かなカフェの中で、綾瀬清香(あやせ さやか)は手元のスプーンをそっと皿の上に置くと、驚きを隠せない友人の中村まどか(なかむら まどか)を静かに見つめ、淡々と口を開いた。
「彼とはもう、離婚したの」
「離婚ですって?!」
予想もしなかった言葉に、まどかは思わず声を上げた。すぐに、清香のために怒りがこみ上げる。
「晄夜さんも、よく同意したわね。この3年間、あなたはどれだけ尽くしてきたか……石だって温めれば熱くなるっていうのに。あの人、本当にあなたに何の感情もなかったのかしら?」
清香はそっと微笑み、瞳の奥でかすかな揺らぎを見せた。
第1話
「清香、本当に神谷晄夜(かみや こうや)を置いて外国へ行っちゃうの?」
静かなカフェの中で、綾瀬清香(あやせ さやか)は手元のスプーンをそっと皿の上に置くと、驚きを隠せない友人の中村まどか(なかむら まどか)を静かに見つめ、淡々と口を開いた。
「彼とはもう、離婚したの」
「離婚ですって?!」
予想もしなかった言葉に、まどかは思わず声を上げた。すぐに、清香のために怒りがこみ上げる。
「晄夜さんも、よく同意したわね。この3年間、あなたはどれだけ尽くしてきたか……あの人、本当にあなたに何の感情もなかったのかしら?」
清香はそっと微笑み、瞳の奥でかすかな揺らぎを見せた。
実のところ、綾瀬清香自身も、神谷晄夜が本当に離婚に同意したのかは分からなかった。半月前、離婚協議書を渡したとき、彼は電話に気を取られたままろくに話も聞かず署名し、慌ただしく去って行ったのだから。その後、彼は何も尋ねてこなかった。
あと半月もすれば離婚が成立する。彼女はやっと自由になれるのだ。
何か言おうとしたその時、二人の背後から静かな低音が響いた。
「話は終わった?」
二人が振り返ると、黒いコートを纏った晄夜が、長い脚をゆったりと動かしながら近づいてきた。
中村まどかは怒りが収まらず、勢いよく立ち上がり問い詰めようとした。「晄夜さん、清香があなたと離……」
「どうしてここに?」
清香はまどかの手を優しく押さえてなだめ、ゆるく首を振って言葉を遮った。
「天気予報で雨だと言っていたから、ついでに迎えに来たんだ」
清香は初めて安心したように微笑み、まどかに軽く手を振って別れを告げると、バッグを手に取り、彼とともにカフェを後にした。
帰り道、車の窓には細い雨粒が静かに流れていた。車内は沈黙に包まれている。
成り行きで妻となったこの女性を前に、晄夜は何か話をしようと口元を動かしかけたが、半月も家を空けた自分には、気の利いた言葉も浮かばなかった。
重苦しい沈黙を破り、彼はようやく思い出したように尋ねた。
「清香……半月前に君が僕にサインさせた書類、あれは何だったんだ?」
今さら気づいたの?
だが、無理もない。彼は最近ずっと藤原瑤子(ふじわら ようこ)の周囲を回ってばかりで、そんな些細なことに意識を向ける暇などなかったのだから。
清香が皮肉めいた笑みを浮かべ、何か答えようとしたその瞬間、再び彼の携帯が鳴り響いた。
「晄夜、飲みすぎちゃった……頭が痛いの。迎えに来てくれない?」
甘えた声を聞き、晄夜の指がハンドルを握りしめる。彼の表情が一気に険しくなった。
「何度も言っただろう。僕はもう結婚しているんだ」
電話の向こうが一瞬沈黙し、小さく呟いた。「結婚したから何なの?あの日の結婚式、本当は私が花嫁だったはずよ」
その無神経な一言が、晄夜の積もった苛立ちをついに爆発させた。
結婚して三年間、清香が見てきたのは、いつも冷たく静かな彼だった。これほど感情的になる彼を見るのは初めてだった。
彼は強くブレーキを踏み込み、車輪が激しく地面を擦った。
「それなら、なぜあの時、君は来なかったんだ!」
電話の向こうが沈黙する。やがて、小さな嗚咽交じりの声が漏れた。「ごめんなさい……もう、二度とあなたに迷惑はかけない」
通話はすぐに切れた。だが、彼の表情はさらに暗くなり、長い沈黙のあと、彼は苦い諦めを込めてメッセージを送った。
【場所を送れ】
送られてきた住所を確認すると、申し訳なさそうに視線を向けてきた。
彼が何かを言う前に、清香は静かに口を開いた。「用事があるなら行って。私はタクシーで帰れるわ」
彼女が車を降りて傘を差す姿に胸が痛み、晄夜はため息混じりに小声で告げた。
「用事を済ませたらすぐ戻るよ」
清香は静かに頷いた。
彼女は雨の中に佇み、遠ざかる車の後ろ姿をじっと見つめていた。目の奥には、七年もの片想いの記憶が揺らめいている。
初めて彼に一目惚れした、あのバスケットコートの光景が今でも鮮やかに蘇る。
彼はユニフォーム姿で完璧にシュートを決め続け、相手チームを一人で圧倒し、歓声を浴びていた。
「あれがコンピューターサイエンス学部の晄夜よ。A大の有名人で、京北の名門 神谷家の御曹司」
けれど、そんな彼の心には幼馴染の瑤子しかいなかった。
遊園地を貸し切って誕生日を祝ったり、瑤子が他の女性からの一方的な告白に怒った時には、仲直りのために全校生徒の前で自ら頭を下げたり、雪の日に待ちぼうけにされても、ひたすら彼女を待ち続けたりしていた……
大学時代、清香は、いつもそんな彼の物語を傍らで聞いていただけだった。自分はずっと、恋愛小説に出てくるモブキャラのように、二人が結ばれるのを見届けるだけの存在だと思っていた。
そして二年前、卒業後すぐに晄夜は瑤子との結婚式を挙げようとした。
清香は招待されていなかったが、「同級生」という名目であの世紀の結婚式に足を運んだ。
だが式が始まっても、瑤子は現れなかった。晄夜は半ば取り乱したように何度も彼女に電話をかけ続けた。そして、返ってきたのはたった一通のメッセージだった。
【まだ結婚する気になれない。もう海外に出たから】
その瞬間、晄夜の中で長年積み重なっていた忍耐が、ついに限界を迎えた。彼はもう、彼女のわがままを受け入れるつもりはなかった。マイクを手に取り、静まり返った会場に向かって宣言した。
「本日、僕は新しい花嫁を選びます。独身の女性の中で、ご希望の方はいらっしゃいませんか?」
その時、いつも目立たず、口数も少なかった清香の心臓は強く高鳴った。晄夜を想う人はあまりに多い——そう思った彼女は、彼の言葉が終わるや否や、すぐに立ち上がった。
その日、彼女はサイズの合わないウェディングドレスに袖を通し、自分の名前すら覚えていない男と結婚した。
それからの3年間、二人は穏やかに、礼儀正しく、波風のない夫婦生活を続けていた。
しかし、一ヶ月前——瑤子が帰国した。
その日を境に、拒もうとしながらも、どうしても彼女に惹かれてしまう晄夜の姿を見て、清香はついに悟った。
自分の夢は、もう終わったのだ。「神谷晄夜の妻」という座を、返すときが来たのだと。
彼の変わらぬ想いを成就させるために。そして、自分自身を解き放つために。
土砂降りの雨の中、清香は晄夜に一通のメッセージを送った。
【例の書類は、助手席のグローブボックスに入れておきました。気になるなら、開けてみてください】
第2話
家に帰り着いてから三十分ほど経った頃、ようやく晄夜から返信が届いた。
【必要ないよ。君が僕にサインさせる書類なら、害になるはずがないだろう?】
これは、つまり見る気がないという意味だ。
当然だろう。彼は今、酔った瑤子を迎えに行くことで頭がいっぱいで、書類を見る余裕などあるわけがないのだ。
たとえそれが手を伸ばせばすぐ届く場所に置かれていたとしても。
雨は丸一日降り続き、翌日の夕方になってようやく止んだ。
清香は家に閉じこもり、SNSに上げていた結婚後の思い出を一つ一つ黙々と削除していった。
すべて整理し終えた直後、瑤子が新しく投稿した9コマの写真が目に入った。
それは豪華なヨットでくつろぐ写真だった。どの一枚も巧妙に撮影されており、美しい指を持つ男性の手が写り込んでいた。
清香は、それが晄夜であることを知っていた。そして瑤子がわざと彼女に見せつけようとしていることも。
だが、今の彼女にとって、そんな些細な挑発はもうどうでもよかった。
スマホを静かに置き、キッチンに立ってサラダを作り始めた。
夕食の準備が終わった頃、突然、玄関の扉が開き、晄夜が帰ってきた。
彼が手にしていたケーキを目にして、清香は一瞬だけ戸惑いを見せた。
「甘いものが好きじゃなかったよね?どうしてケーキなんて買ってきたの?」
彼女がそう尋ねると、晄夜はテーブルに並んだ簡素な夕食を見て、軽く眉を寄せた。
「今日は君の誕生日だろう?忘れたのか?どうしてこんな簡単な食事をしているんだ」
清香は思わず言葉を失った。
四、五歳の頃に両親は離婚し、祖母に育てられた。十五、六歳で祖母を失ってからは、誰も彼女の誕生日を祝ってくれなかった。
けれど、晄夜と結婚したこの三年間、彼は毎年欠かさず彼女の誕生日を覚え、どれほど忙しくても必ず一緒に過ごしてくれた。
彼女が遠方から戻る時には、安全を気遣って空港まで迎えに来てくれたし、雷雨の日には、怖がる彼女を優しく抱きしめてくれた。
そんな何気ない優しさを、彼女はいつの間にか「愛情」だと信じ込んでしまっていた。
しかし、一ヶ月前の結婚記念日、彼は会社の都合で、前もって予約していたキャンドルディナーをキャンセルした。
落ち込んだ彼女は、まどかに呼ばれバーまでコートを届けに行ったところで、瑤子に遭遇した。
瑤子は泥酔し、本来は会社で残業中のはずの晄夜にしがみついて離れようとしなかった。
晄夜は険しい顔で強引に彼女を引き離した。
「瑤子!いい加減にしろよ!俺を何だと思ってるんだ?気まぐれに捨てたり拾ったりできる人形じゃないぞ!」
しかし瑤子は彼の言葉に耳を貸さず、振りほどかれても何度も彼の腰に腕を絡めた。
繰り返し、繰り返し——
ついに晄夜は抵抗を諦めた。彼はその場に呆然と立ち尽くし、目を伏せると、抑え切れない愛しさを込めた声で呟いた。
「瑤子、君には本当にどうしたらいいんだ……」
その瞬間、清香が手にしていた袋が、力なく地面に落ちた。
彼女の脳裏をさまざまな情景が駆け巡った。
人混みの中、固く結ばれた二人の手。大雨の中でそっと彼女の方に傾けられた傘。アカデミックドレス姿で跪き、心を込めてプロポーズする彼の姿——
どの場面も、晄夜が瑤子だけを愛していることの証だった。
彼女はそれらの瞬間を目撃していたため、この残酷な現実を否定することはできなかった。
結婚して三年経ち、自分が彼の妻という立場にあったとしても、彼のわずかな優しさに触れたことがあったとしても——それは変わらない事実だった。
正確に言えば、彼が自分にくれたわずかな温もりは、瑤子が一時的に離れていた間、偶然自分にこぼれ落ちてきただけのものだった。
彼女はその僅かな甘さを握りしめ、すべてを手にしたかのように錯覚していただけだった。
だが本当のところ、彼女は一秒たりとも、彼を手に入れたことなどなかったのだ。
だからケーキの上に飾られた「24」の数字を見ても、彼女の心は何の感慨もなく、静かなままだった。
彼女はただ、礼儀正しく微かに頷き、「ありがとう」と小さく口にした。
晄夜はろうそくに火を灯し、穏やかな笑みを浮かべた。
「清香、僕たちは夫婦だろう?『ありがとう』なんて他人行儀な言葉はなしだ。さあ、願い事を言って」
彼女は軽く頷き、立ち上がろうとした瞬間、再び晄夜の携帯が鳴った。
彼の微かに震える瞳を見て、電話の相手が誰なのかを察し、彼女は再び静かに座り直した。
予想通り、一分後に通話は切れ、彼は早足に再び家を出て行った。
窓の外から遠ざかる車のエンジン音が聞こえる中、彼女は唇の端に皮肉な微笑を浮かべた。
暗い部屋の壁には、揺れるろうそくの炎が、ひとりぼっちの彼女の影を静かに映していた。
彼女はゆっくりと両手を合わせ、24歳の願いを心に刻み込むように唱えた。
「新しい一年は、もう二度と晄夜を好きになりませんように」
第3話
三日後、21年卒コンピューターサイエンス学部の同窓会。
清香は会場に着いて初めて、晄夜も来ていることを知った。
彼はすでにクラスメイトの中心で賑やかに話をしていたが、彼女の姿を見つけるとすぐさま立ち上がり、迷いなく彼女の隣に座った。
二人が並んだ瞬間、室内の空気が微妙にざわついた。
理由は明白だった。
大学時代からの同級生たちは、彼女が晄夜と結婚したのは玉の輿狙いだと考えており、誰もが密かに軽蔑していたからだ。
だが彼女は周囲の冷ややかな視線を気にも留めず、静かに座り続けた。
遅れてやってきたクラス委員長が、大きな段ボール箱を抱え、笑顔で挨拶をした。
「今日集まってもらったのは、一つは親睦を深めるため、もう一つは五年前の『五年後の自分へ宛てた手紙』の企画がちょうど今日なので、皆で開封しましょう!」
一気にみんなが盛り上がり、箱の周りに押し寄せた。
「せっかくだから、一人ずつランダムに引いて、読み上げるゲームにしよう!」
「いいね!俺が最初に引く!」
クラス一賑やかな男子が手を伸ばし、一通の手紙を掴んだ。周囲の催促に応じ、彼は手早く封を切り、軽く咳払いをして読み始めた。
『五年後の綾瀬清香へ。元気でいますか?私は今、暖かな陽だまりの中でこれを書いています。あなたがこれを読む時、どんな気持ちで、どんな場面にいるのか分かりませんが、今この瞬間の気持ちを、どうしてもあなたに伝えたいのです』
最初の一文を読み終えた瞬間、騒がしかった室内が一瞬で静まり返った。全員の視線が清香へと集中した。
ずっとスマホを弄っていた晄夜も顔を上げ、驚いた表情で彼女を見つめた。
普段ほとんど感情を見せない清香の表情が、手紙の内容を思い出した途端、小さく揺らいだ。
男子は彼女をチラリと見やり、意地悪げな笑みを浮かべながら続きを読んだ。
『今年、あなたは19歳になりました。大学二年のあなたは神谷晄夜を好きになりました。でも彼はまだそれを知りません。知られたところで、何も変わらないでしょう。彼には心に決めた人がいるから。あなたの秘かな想いは、初めから叶わない運命なのです。
なぜ叶わないと知りながら諦めないのかと、あなたは問うでしょう。それは、私が好きになったのが、歓声の中をまっすぐ突き進む彼の眩しい姿だから。夕暮れ時、飛んできたバスケットボールを何気なく庇ってくれた優しさだから。誰かの告白を断る時にも、誠実で礼儀正しく接する彼の人柄だから。
朝会の度にこっそり彼を見ては首を痛めるのは私。彼がバスケで怪我をしたと聞き、嵐の中を薬を届けに行くのも私。日記帳に一晩中彼の名前を書き連ねるのも私。きっと一生、彼が私の存在に気づくことはないでしょう。でも構わないのです。片想いとは最初から、たった一人で繰り広げる、静かな戦争なのだから』
手紙を読み終えると、室内は完全な静寂に包まれた。
晄夜も身を硬くし、その場で固まっていた。
彼の脳裏に、あの苦い記憶が甦った。あの忌まわしい結婚式の日、周囲の奇妙な視線にも負けず、毅然と立ち上がって自分の元に歩み寄った彼女の姿--
ようやく、理解した。清香が彼と結婚したのは、周囲が囁くような計算ではなく、ただ、長年胸に秘めてきた想いを貫いただけだったのだと。
その瞬間、彼の胸の奥底で何かが動き出した。
衝動的に彼は、ずっと心の奥に押し込めてきた疑問をぶつけようとしたが、その直前、瑤子からの電話が鳴った。
「晄夜、クラブの前で絡まれて……」
言い終える前に、彼の顔色が急変した。
彼は勢いよく席を立ち、階下に駆け降りると、不良たちを見つけるなり拳を振るった。
怒りに任せた拳は何度も振り下ろされ、相手はすぐに血だらけになった。
周囲の人が慌てて瑤子を庇うと、彼女は泣きながら、タトゥーの男に手を触られたと訴えた。
それを聞いた途端、晄夜は地面の鉄パイプを掴み、迷わず相手の手を叩き潰した。
悲鳴が夜空に響き渡った。
遅れて駆けつけた清香は、その残酷な場面を目撃し、思わず足を止めた。
血まみれで潰された右手を見て、呆然としている彼女の視界には、瑤子を抱き寄せ、優しく慰める晄夜の背中が映った。
こんな温かな気遣いを、彼女は一度も手にしたことがなかった。
彼女はゆっくり視線を下げ、自嘲の微笑を浮かべると、黙って家へ戻った。
深夜になり、ようやく晄夜が帰宅した。
ソファに座って黙っている彼女を見ると、彼は申し訳なさそうに言い訳を口にした。
「清香、今日は……同級生だし、瑤子を見捨てるわけにはいかなかったんだ」
彼女は無関心に頷き、パジャマを持って浴室へと入った。
三十分後、濡れた髪を拭きながら浴室を出ると、晄夜が自分のスマホを持ち、奇妙な表情で立っていた。
「清香、君、なぜ航空券を買ったんだ?」
第4話
清香は一瞬固まったが、すぐに何事もなかったようにスマホを取り返した。
「買ってないわよ。航空会社からの広告メッセージでしょ?」
晄夜はまだ何か言いたげだったが、清香の「これ以上は触れないで」という雰囲気を察して、それ以上追及しなかった。
それに--清香は今まで一度だって自分に嘘をついたことがなかった。
晄夜は静かにスマホを置き、頷いて浴室へ向かおうとしたが、清香が呼び止めた。
彼女は棚から救急箱を取り出し、静かな口調で言った。
「背中、ガラスで切ったでしょ?手当てしてあげる」
晄夜は驚いて振り返ったが、素直にソファに腰を下ろし、上着を脱いで背中を向けた。
傷は浅かったが、自分では気づけない位置だったため、誰にも知られていなかった。
まさか、彼女が気づいていたなんて―
彼女が丁寧に傷口を消毒する姿を見ながら、晄夜はふと昼間の手紙の内容を思い出した。
「清香、昼間の手紙のことだけど……」
「お風呂に入る時、気をつけてね。感染したら大変だから。喧嘩するときも、もう少し気をつけて。手当てしてくれる人は、もうすぐいなくなるのだから」
清香の声は静かで、彼に返事の隙を与えなかった。
突然思考を遮られた晄夜は、最後の言葉を聞き逃し、戸惑って顔を上げた。
「今、何か言ったか?」
清香は首を横に振り、傷に包帯を巻き終えると、そのまま寝室に入っていった。
彼女が髪を乾かし終えたころ、晄夜も浴室から戻ってきた。
自然な仕草で彼女の腰に腕を回し、顔を近づけてキスしようとしたが、彼女は静かに顔を逸らした。
「生理なの、今日は早く休みたい」
晄夜もそれ以上は迫らず、布団をかけ直すと、静かに明かりを消した。
翌日はよく晴れていた。
清香が朝の身支度をしていると、階下から騒がしい声が聞こえてきた。
準備を終えて下へ降りると、瑤子が友人たちを連れてやって来ていた。
玄関にもたれている晄夜は、いつものように眉をひそめ、不機嫌そうな声で言った。
「何の用だ?」
瑤子が答える前に、彼女を連れてきた男友達がからかうように口を挟んだ。
「瑤子が、昨日のヒーローみたいな行動に感激して、お礼をしたいってさ!」
男たちの言葉が終わるのを待たず、瑤子は魔法のように背後から美しい花束と、綺麗に包装されたプレゼントを取り出した。
「晄夜、昨日は本当にありがとう。これは私からの感謝の気持ち!」
晄夜はそれを受け取らなかったが、表情は少し和らいだ。
瑤子は素早く花束を清香の手に押しつけ、やや命令口調で言った。
「これ、晄夜が一番好きなジュリエットローズよ。花瓶に活けてくれる?」
それを聞いた途端、晄夜の眉が冷たく寄せられ、口調に棘が混じった。
「自分の好きな花を、僕の好みみたいに言うな。それに、清香は僕の妻だ。君の召使いじゃない。そういう言い方はやめろ」
彼の言葉で部屋の空気が一気に冷え込んだ。
しかし、清香だけは穏やかな表情を崩さなかった。
彼女はそのバラの名前を初めて知った--ジュリエットローズ。
瑤子が好きだというなら、彼がわざわざ巨額を投じてこの品種を栽培させた理由も、今なら納得できる。
けれど、清香は何も言わず、花束を家政婦に渡し、淡々と指示した。
「二階の飾り棚に花瓶があるわ。取ってきて、これを活けてちょうだい」
瑤子は意味深な目で清香を見つめたが、彼女は気づかぬふりをして、朝食を持ってバルコニーへ向かった。
窓一枚隔てた客間の会話は、鮮明に耳に届いてくる。
「晄夜、これって私が中学の時に折った千羽鶴?水晶のケースに入れて、ずっと取っておいてくれたの?そんなに好きなら、明日また折ってきてあげるよ?
あ、このバービー人形、なんでここにあるの?私、ゴミ箱に捨てたはずなのに。まさか、晄夜が拾ったの?
あら、これって山形で拾った紅葉じゃない!しおりにして大事にしてたのね……」
瑤子が宝探しでもするかのようにはしゃぐ声を聞きながら、清香は初めてこの家を訪れた日、これらの品々について晄夜に尋ねたことを思い出した。
「ああ、幼稚園の従妹がくれた小物だから、何となく取ってあるだけだ」
あの時、彼女はそれを本気で信じてしまった。だからこそ、彼の瞳に潜む複雑な感情を見落としていた。
それは--それは愛であり、憎しみであり、未練であり、悔しさでもあった。
そのすべてが確かに、「恋」にまつわる感情だったのに。
第5話
午前中いっぱい騒いだ後、瑤子がみんなに昼食をご馳走すると言い出したが、晄夜は冷たく拒絶した。
「必要ない。もう十分だろう?さっさと帰ってくれ」
しかし瑤子は彼の言葉をまるで聞かなかったかのように、強引に彼の手を掴んで外に連れ出した。
彼らの友人たちも断られるのを恐れ、ついでに清香の手まで引いて、一行はそのまま温泉リゾートへと向かった。
清香は普段あまり彼らと接点がないため、なかなか馴染めずにいた。
無理に話に加わる気にもなれず、隅の席に静かに座って、彼らが楽しそうに酒を飲み交わす様子を眺めていた。
そんな彼女の孤立した様子に気付いた晄夜は、気遣うように歩み寄り、ジュースを注いで手渡そうとした。
清香が手を伸ばした瞬間、彼はふと何かに気づいたように立ち上がり、人混みの中へ戻った。
瑤子が口元に運ぼうとしていたウイスキーのグラスを、彼は乱暴に奪い取った。
そして、怒りに満ちた彼の声が部屋中に響いた。
「酒はダメだろ!アルコールアレルギーなのに飲むつもりか?」
瑤子は戸惑ったようにまばたきをして、無邪気な表情で彼を見つめた。
「ジュースかと思ったのよ。間違えただけなのに、なんでそんなに怒るの?」
そう言いながら、彼女は晄夜のもう一方の手にあったジュースのグラスを取り、満足げに微笑んだ。
「ありがとう」
彼の右手は思わず握り締められたが、結局何も言わず席に戻り、そのまま手に持っていたグラスを清香の前に差し出した。
目の前に置かれた琥珀色の液体を見て、清香は何も言わず、バッグを掴んで立ち上がった。
「私はお酒を飲まないの。先に温泉に入ってくる」
その時ようやく晄夜は、自分が間違えて酒のグラスを彼女に渡したことに気づいた。瑤子のことで頭がいっぱいで、ジュースと酒の区別すらつかなかったのだ。
彼は言い訳しようとしたが、清香はすでにその場を離れてしまっていた。
温泉の温かな湯に浸かり、清香は少しずつ心が緩んでいくのを感じていた。
壁にもたれて湯気をぼんやり眺めているうちに、知らぬ間に眠りに落ちてしまった。
騒がしさに慣れてしまったのか、外からのノックにも気づかなかった。
晄夜は何度か彼女を呼んだが、反応がなく心配になり、そのまま扉を開けて入った。
ぼんやりと眠っている彼女を見た途端、彼の胸は大きく波打った。急いで湯に入り、彼女の体を抱き上げた。
突然の浮遊感に清香は目を覚まし、無意識に落ちないよう彼の肩を掴んだ。
湯気に包まれ、互いの肌が触れ合った瞬間、二人の間に微妙な空気が漂い、彼は思わず顔を近づけた。
互いの呼吸が重なりかけたその時、外から足音が響き、瑤子が勢いよく入ってきた。
眼前の光景を見た瑤子の表情は、一瞬で凍りついた。
唇を強く噛み締め、目には驚きと悲しみを露わにし、そのままくるりと背を向け、駆け出していった。
晄夜は呆然とその場に立ち尽くしたが、とっさに清香を下ろし、慌てて瑤子の後を追った。
去り際に彼が残したのは、たった一言だった。
「誤解させてしまった。説明してくる」
誤解?
彼らは夫婦だ。たとえキスしているところを見られたとしても、本来なら何の説明も必要ないはずだ。
だが彼は未だ過去に縛られ、自分を瑤子の恋人だと錯覚したままだった。
だから無意識に弁解しようとしてしまう。
一度愛のために自分を飼い慣らした人間は、簡単にその習慣を変えることなどできない。
急いで出て行く彼の背中を見送りながら、清香は淡く笑ったが、すぐに瞳は潤んだ。
彼女は毛布を羽織り、窓を開けて空気を入れ替えようとした。その瞬間、瑤子が外へ飛び出していくのが目に入った。
瑤子が勢いよく車のドアを開けると、晄夜が慌ててその手を掴んだ。
二人の激しい口論が、窓越しにはっきりと聞こえてきた。
「清香は眠っていただけだ。風邪を引くと思って抱いただけで、なぜそんなに怒るんだ?」
「そうね、清香さんはあなたの妻だもの!私が怒る資格なんてないわよね。さっさと奥さんのところへ戻ったら?どうして元カノの私に必死で言い訳なんかするの?」
「瑤子、君はいつもそうやって極端なことを言うんだな」
「私、間違ったこと言ってる?ぜんぶ事実でしょ!」
その言葉を最後に、二人は険悪なまま別れた。
瑤子は涙を浮かべて彼の手を振りほどき、車に乗り込み激しく走り去った。
取り残された晄夜は一瞬その場に立ち尽くしたが、すぐに車を出して後を追った。
再び静けさを取り戻した、土埃が舞う道を見つめながら、清香は無言で更衣室へ戻った。
着替えを済ませて出てきたところで、彼らの友人たちが焦った表情で彼女を引き止めた。
「清香さん、大変だ!晄夜さんたちが交通事故に遭ったんだ!」
第6話
病院に駆けつけた一行が目にしたのは、手術室の前で立ち尽くす晄夜の姿だった。
シャツは血に濡れ、額には冷や汗が滲み、目にはどうしようもない混乱と怯えが宿っていた。
清香は、その姿に息を呑んだ。彼がここまで取り乱した様子を見たのは、これが初めてだった。
仲間たちが慌てて駆け寄り、「何があったんだ」と口々に問いただすと、彼は苦悩のあまり頭を抱え、掠れるような声で言った。
「俺が悪いんだ。あんなこと言って怒らせなければよかった。一人で帰らせたのも間違いだった……あいつは俺に腹を立てて、スピードを出しすぎたんだ……だから事故に……」
自分の責任だと繰り返すその言葉に、清香の睫毛が微かに震えた。
もしそれが「意地」だったのなら、じゃあ彼の「本音」は?
ずっと彼女の帰りを待っていた?
やり直すことを望んでいた?
……かもしれない。
けれど、もう深くは考えたくなかった。
ちょうどそのとき、手術室のドアが開き、看護師が緊迫した表情で告げた。
「患者さんは大量出血していますが、血液が不足しています。O型の方はいませんか?至急、輸血が必要です!」
仲間たちは顔を見合わせたが、全員AかB型。名乗り出る者はいなかった。
その場で唯一O型だったのは——晄夜だった。
彼は黙って上着を脱ぎ、無菌服に着替えると、何のためらいもなく手術室へと入っていった。
時間が過ぎていく。
三十分後、看護師に支えられながら、真っ青な顔で晄夜が現れた。
どれだけの血を失ったのか、彼はほとんど立っていられず、ふらりと清香の胸に倒れ込んだ。
しかし、看護師はまだ足を止めず、さらに告げた。
「容態は少しずつ安定していますが、あと400ccほど必要です。O型の知人はいらっしゃいませんか?」
仲間たちはあちこちに電話をかけてみたが、誰一人として見つからなかった。
沈黙が病棟を支配する。
その静けさの中で、ふらつきながらも晄夜が立ち上がった。
「あと400ccだけなんだろ?俺がやる」
その言葉に、看護師の顔が凍りついた。
「あなたはすでに600ccも献血されています!これ以上は本当に危険です!」
仲間たちも驚き、焦って止めに入る。
「晄夜さん、やめろって!俺、今すぐ会社に連絡してO型の社員探してもらうから!」
だが彼は一歩も引かなかった。目には、まるで命を削ってでも彼女を救うという強い意志が宿っていた。
「瑤子は、そんなに待てない」
そう言って、彼は腕をまくり、すでに青くなった注射痕をさらけ出した。
その姿に、とうとう清香が口を開いた。
「まだ救命処置の最中よ。他の病院から血液を取り寄せる手段もある。あなたがそこまでしなくてもいいの」
一瞬、彼の動きが止まる。
だが、何も言わず、振り返ることもなく、手術室へと再び歩いていった。
その背中を、誰もが黙って見つめていた。
重い沈黙の中で、仲間たちはため息混じりに語り合った。
「瑤子さんのことになると、晄夜さんは本当に常軌を逸する。昔も彼女のことで他人と喧嘩して脚を怪我して、三ヶ月も入院してたんだぜ?しかも退院してすぐ報復に行ったって話だ」
「高校の頃もさ、彼女が欲しいって言ったネックレスを手に入れるために、五千メートルからのスカイダイビングの賭けに出てさ。途中で装備が故障して、死にかけたのに……また同じこと繰り返してるんだよ。
俺なんか、晄夜さんの心には今でも瑤子さんがいるって思って、わざわざ手伝ってやったのに……こんなことになるなんて……」
彼らの会話は止まることなく続いたが、そばに清香がいることを、すっかり忘れていた。
語られる「過去」のひとつひとつが、心の奥に冷たい重みを落としていく。
あの日、結婚式で彼の隣に立った瞬間、ほんのわずかに信じてしまった——
「いつか、彼の心がこちらに向く日が来るかもしれない」と。
でも、そんな都合のいい奇跡なんて、あるはずがなかった。
愛とは、最初から「ただ一人」を選ぶもの。選ばれなかった時点で、その賭けはすでに負けだったのだ。
彼女はようやく、それを認めることができた。
どれほどの時間が経っただろうか。ようやく手術室のランプが消え、二人を乗せたストレッチャーがゆっくりと現れた。
周囲の空気が一気に張り詰め、全員が医師に駆け寄る。
医師は汗を拭いながら、ぐったりと眠るように横たわる晄夜を見て、静かに呟いた。
「恋人さんなんですね……あそこまで一途な男性は、もう滅多にいませんよ」
その言葉に誰も返すことはできなかった。
一歩離れたところで、清香はひとり、手術室のまばゆい天井の灯りを見上げていた。
そして、かすかに笑った。音もなく、光の中に溶けていくような、哀しい微笑みだった。
第7話
翌日の昼近くになって、晄夜はようやく意識を取り戻した。
意識はまだぼんやりとしていたが、口をついて出た最初の言葉は、やはり瑤子のことだった。
「手術……無事だったか?容態は?彼女は……もう目を覚ました?」
その必死な様子を前に、徹夜で付き添っていた清香は小さく頷き、かすれた声で答えた。
「先生は、大きな問題はなかったって。数か月安静にしていれば、完治するそうよ」
その一言に、晄夜の胸に重くのしかかっていた不安が、ようやく静かに降りていった。
けれど彼は安心しきれず、すぐに布団をめくり、ベッドから降りようとした。
「自分の目で確かめたいんだ」
どれだけ止めても聞く耳を持たず、ついには点滴の準備に入った看護師に強く制止される羽目になった。
ベッド脇に吊るされた点滴バッグを見つめながら、晄夜の目には焦りと苛立ちが色濃く浮かんでいた。その胸の内は、ただ一人——瑤子でいっぱいだった。
しばし思案したのち、彼の視線はテーブルの上に置かれたフルーツバスケットに留まる。
「清香、昨日、瑤子の両親に電話したんだ。夜中の便で戻ってきて、もう病院に着いてる頃だと思う。悪いけど、このフルーツ、様子見がてら届けてくれないか?ご挨拶もかねてさ」
清香はじっと彼を見つめ、少し間を置いてから、静かに頷いた。
そしてフルーツバスケットを手にし、無言のまま病室をあとにした。
瑤子の病室は、階上にあった。
ノックしようとしたその時、扉が半開きになっていることに気づいた。
ふと覗き込んだ視線の先には、瑤子が知らない男の胸に身を預け、甘えるように話している姿があった。
「ねえ、誠さん、両親に会わせてくれるって言ってたよね。どうして今日は一人なの?」
「本当は一緒に連れて来たかった。でも、君はまだ回復してないだろ?退院したら、必ず会ってもらうよ」
その会話を耳にした瞬間、清香の手が無意識にフルーツバスケットの持ち手を強く握りしめた。
……恋人?しかも、両親に紹介するほどの関係?
ちょうどその時、タイミング悪く回診の医師が扉を開け、中のふたりがこちらに気づいた。
瑤子は顔を上げるなり、清香を見て明らかに動揺した。
「……なんであんたがここに?」
清香は無言でフルーツバスケットを床に置き、何も言わずに背を向け、階段へと向かった。
だが瑤子は、まだ回復しきっていない体を引きずりながら追いかけ、階段の踊り場で彼女の腕をつかんだ。
「……まさか、晄夜に告げ口するつもり?」
その問いに、清香はゆっくりと振り返り、冷たい目で彼女を見据えて言った。
「恋人がいるのに、どうして晄夜にしがみつき続けるの?」
その一言に、瑤子は一瞬表情を歪めたが、すぐに涼しげな顔を取り戻し、ふっと笑った。
「だって、どっちも欲しいじゃない?二人から愛されて、ちやほやされるのって気持ちいいもの。あんた、まだ気づかないの?」
「彼の気持ちを、そんなふうに踏みにじってまで平気なの?」
怒りをにじませた声に、瑤子は勝ち誇ったように肩をすくめた。
「私にはそれだけの価値があるってことよ。晄夜みたいな完璧な男ですら、私の手のひらで転がるの。——どうしたの?嫉妬してるの?素直になれば?機嫌が良ければ、ちょっとしたコツくらい教えてあげてもいいけど?」
その傲慢さに、清香は言葉を失った。
黙り込む彼女を見て、瑤子の目はますます鋭く光る。
その視線は、やがて清香の左手に光る結婚指輪へと落ちた。
「あなたなんて、ただの『繰り上げ当選』にすぎないのよ。私がいなかったから、しょうがなく選ばれただけ。——教えてあげる。あの日、私、海外になんて行ってない。ただ酔っぱらって、先輩たちと朝まで騒いでただけ。晄夜が腹を立てなければ、あなたが彼の奥さんになるなんて、一生なかったの」
その瞬間、清香の中に積もっていた怒りが限界を越えた。
彼女は躊躇なく、瑤子の頬に平手を打ち込んだ。
力加減はした。だが、瑤子はわざとらしく、階段を転げ落ちていった。
何が起こったのかも把握しきれないうちに、エレベーターの扉が開き、晄夜が現れた。
彼は大股で階段を駆け下り、全身にあざをつくって倒れていた瑤子を抱き上げた。その目には痛ましさと、抑えきれない起こりが浮かんでいた。
「……彼女が何かしたのか?どうしてこんな手荒な真似を?」
瑤子は、わざと赤く腫れた手のひらを見せつけながら、彼の腕の中で涙をぽろぽろとこぼした。
「いいの……清香さんは、私が晄夜の元カノだから……腹が立っただけよ。私は……気にしてないわ、だから……もう行こう?」
その一言が、清香の喉元まで出かけていた弁明のすべてを、跡形もなく封じた。
彼女は言葉を飲み込み、ただじっと彼を見つめた。
彼の顔がみるみるうちに沈んでいくのを見て、清香は悟った。今、何を言っても無駄だと。
その沈黙は、晄夜の目にはまるで「肯定」のように映った。
彼は落胆の色を隠そうともせず視線をそらし、瑤子を抱いたままその場を去っていった。
一度も、清香を振り返ることはなかった。
第8話
病院を後にした清香は、ビザの手続きが完了したという連絡をスタッフから受け取った。
書類一式を受け取ると、彼女は静かに荷造りを始めた。
机の上のカレンダーは、一日ごとにめくられ、残りはもう数えるほどしかない。
今年は、まもなく終わる。
そして彼女も、二十余年を過ごしたこの街を、まもなく去ろうとしていた。
この一週間、晄夜は一度も戻ってこなかった。
その代わりに、瑤子からは毎日のように挑発めいたメッセージが届いていた。
出発7日前。
送られてきたのは一本の動画。晄夜が片膝をつき、優しく瑤子のふくらはぎをマッサージしている映像だった。
清香はそれを無言で見届けると、これまで彼に贈ったものを一つひとつゴミ箱に捨てていった。
出発5日前。
写真が数枚。宝石箱が山のように積まれ、その中の一つ——晄夜が彼女の指に指輪をはめる姿も写っていた。
清香は結婚写真を叩き割り、そのまま火にくべた。
出発3日前。
送られてきたのは音声データ。寝言で「瑤子」と呼びながら、まるで恋しさを噛みしめるような声だった。
清香は、結婚後に受け取った贈り物の数々をすべて箱に詰め、慈善団体に寄付として送った。
「家」と信じていたこの別荘は、少しずつ物がなくなり、空っぽになっていく。
旅支度は静かに、けれど着実に進んでいた。
家政婦たちはその様子に不安を覚え、何度か尋ねてきた。
「奥様、何かございましたか?」
彼女は微笑みながら、あっけらかんと答えた。
「離婚したの」
「……旦那様は、納得されたのですか?」
納得したかどうかなんて、彼女にも分からなかった。
けれど、いまの彼があの離婚届を見たなら、きっと喜ぶだろう。
なにしろ、彼の目にも心にも、今はもう、瑤子しか映っていないのだから。
出発2日前。
瑤子からまた写真が届いた。今度は晄夜ではなく、彼の両親が写っていた。
病室のベッドを囲み、まるで本物の家族のように笑い合う3人の姿。清香の心は、少しも動かなかった。
返信もせず、連絡帳を開いて、瑤子、晄夜、そして彼らに関わるすべての連絡先を削除した。
出発当日。
初雪が舞い始めた。
前夜にまとめておいた日記帳や、出せなかったラブレターを抱え、彼女は庭に出た。
オレンジ色の火が頬を照らし、少女だった日の想いが書かれたそれらは、ゆらゆらと灰になって空へと昇っていく。
彼女は雪空を仰ぎながら思った。この雪が、すべてを覆い隠してくれるには、あとどれくらい降ればいいのだろうと。
そのときだった。閉じていた門が、突然開いた。
久しぶりに戻ってきた晄夜が、足早に庭へと入ってくる。
地面にしゃがむ彼女を一瞥し、リビングへ一度入り、再び戻ってきた。
彼は彼女のそばに立ち、足元に落ちた淡いピンクの封筒に視線を落とす。
同窓会で読まれた、あの手紙が頭をよぎる。
長いあいだ胸にくすぶっていた苛立ちは、なぜか少しずつ和らいでいった。
「ここしばらく忙しくて……もう少ししたら落ち着くから。そしたら、ちゃんと話そう」
話そう?
離婚のことを?
清香は微笑み、彼を見上げた。その声音は、冷たく、穏やかだった。
「もう話すことなんてないわ。あなたが一番欲しかったものは、一ヶ月前に渡してある」
「……欲しかったもの?」
晄夜が聞き返そうとしたとき、スマートフォンが鳴った。
画面を見て、彼の目元が綻びた。笑みを浮かべながらメッセージを打つその姿を、彼女は静かに見届けた。
そして最後の手紙を火に投げ入れ、ゆっくりと立ち上がった。
そのドレスの裾が、炎を隠すようにふわりと揺れた。
彼は返事を送り終えると、さっきまでのやりとりのことなどすっかり忘れてしまっていた。
清香は晄夜を門まで送り、車のドアを自ら開けてやった。
冷たい風が吹きつけ、彼は彼女の薄着に気づいて言った。
「寒いだろう。中に入って。風邪引くぞ」
けれど彼女は首を横に振り、玄関先にそのまま立ち続けた。
車の窓越しに、清香が小さく手を振る姿が見えた。何かを口にしたが、彼には聞こえなかった。
きっと「気をつけて」くらいの言葉だろう。
三年間、彼女は何度もそう言ってくれた。
だから、彼は特に気に留めなかった。
車は走り去り、彼女の視界からも消えていった。
清香は、雪の中にしばらく立ち尽くしていた。ようやく部屋に戻ると、上着を羽織り、スーツケースを引いて階段を降りる。
雪はさらに強まり、白い粒が髪に積もる。遠くから見れば、まるで白髪のようだった。
タクシーが別荘の前に停まり、彼女は乗り込む前に、もう一度だけ後ろを振り返った。
そして、小さな声で、静かに告げた。
「さようなら、京北」
「さようなら……晄夜」