ピアノは響けど、君の姿はもういない

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ピアノは響けど、君の姿はもういない

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「藤正さん、三年前の約束、覚えてる?」 橋本美鈴(はしもと みすず)の声に、電話の向こうで、かすかに息遣いが乱れた。 「あの時、『どん...

Chương (1)

第1章

「藤正さん、三年前の約束、覚えてる?」 橋本美鈴(はしもと みすず)の声に、電話の向こうで、かすかに息遣いが乱れた。 「あの時、『どんな願いでも一つ叶えてあげる』って言ったよね」 美鈴は唇を噛んだ。 「今、その願いを言うわ――私と結婚してください」 長い沈黙が続いた。 「お前」 低く響く男声に、彼女の背筋が震えた。 「自分が何を言ってるか、理解してるのか?」 美鈴は自嘲気味にくすりと笑った。 「もちろんよ。あなたは銀司の親友で、私は彼の七年間付き合ってる彼女。まあ、それはさておき、あの約束、今でも叶えてくれる?」 時計の秒針が三回回った。 ふいに、電話の向こうで軽い笑い声がした。 「仕方ないな。銀司と袂を分かつことになっても、約束は約束だ」 その言葉で、美鈴の肩の力がふっと抜けた。 「藤正さん、建部家の事業はほとんど海外でしょ?まずは結婚式の準備を進めて。私もこっちの事情を片付けるから、終わったら一緒に海外に行きましょう」 肯定の返事をもらって電話を切ると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。 第1話 「藤正さん、三年前の約束、覚えてる?」 橋本美鈴(はしもと みすず)の声に、電話の向こうで、かすかに息遣いが乱れた。 「あの時、『どんな願いでも一つ叶えてあげる』って言ったよね」 美鈴は唇を噛んだ。 「今、その願いを言うわ――私と結婚してください」 長い沈黙が続いた。 「お前」 低く響く男声に、彼女の背筋が震えた。 「自分が何を言ってるか、理解してるのか?」 美鈴は自嘲気味にくすりと笑った。 「もちろんよ。あなたは銀司の親友で、私は彼の七年間付き合ってる彼女。まあ、それはさておき、あの約束、今でも叶えてくれる?」 時計の秒針が三回回った。 ふいに、電話の向こうで軽い笑い声がした。 「仕方ないな。銀司と袂を分かつことになっても、約束は約束だ」 その言葉で、美鈴の肩の力がふっと抜けた。 「藤正さん、建部家の事業はほとんど海外でしょ?まずは結婚式の準備を進めて。私もこっちの事情を片付けるから、終わったら一緒に海外に行きましょう」 肯定の返事をもらって電話を切ると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。黒いスーツに身を包んだ竹内銀司(たけうち ぎんじ)が帰宅するところだった。 彼は無造作にジャケットを脱ぎ捨て、長い指でネクタイを緩めながら聞いた。 「辞表を出したんだって?」 国民的ピアニストである彼のマネージャーに対して――いや、恋人として七年間支えてきたに対しても、その声には何の感情もなかった。 「ええ、元々マネジメントの専門じゃなかったし」 美鈴は冷静に答えた。 「あなたのために無理して転職したけど、もう限界なの」 彼は軽く頷くと、特に興味なさそうに言った。 「じゃあ、引き継ぎは杏に頼む。彼女を次のマネージャーにするから」 実習生にいきなり大役を任せるのが異常だけど、もうどうでもいい。 「わかった」 去り際、銀司に呼び止められた。 「おい、これ」 振り返ると、彼は薬を持っていた。 ああ、またこの時間か。 美鈴は唇を歪めた。 四百億円の保険がかかっているという彼の手。 これまで美鈴はこの手を、赤ん坊のように大切に扱ってきた。 なのに彼はこの手で――あの子のためにおかずから葱を抜き、果物の皮をむいた。そして、つい先月はナイフからあの子守るためにこの手を差し出した。 「医者も問題ないって言ってたでしょ?」 彼女は静かに言った。 「これからは自分でやって。今日は疲れてるから」 部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、銀司がムッとしたように感じた。 しかし、美鈴はそれを知らぬふりで、扉に頼り、半月後のA国行きのチケットを予約した。 部屋の中は、彼との思い出で溢れていた。 整理を始めると、大学時代の写真が出てきた。こっそり撮った彼の横顔だった。 あの頃は美鈴からアプローチした。 「恋愛に興味ない」と言う高嶺の花を、必死で追いかけて―― 結局、銀司を手に入れた。 それから、マネージャーや彼女として、世界でも著名なピアニストとなる銀司に従っている。 ずっと、細かいことまで気を配り、とにかく彼のためなら何でもした。 でも彼の態度はいつもそっけなく、結婚の話になると完全にスルーしていた。 「もともとこういう性格なんだろう」 でも、ファンも「クールで近寄りがたい、高山の雪みたい」って言ってるし。 ところが、新人アシスタントの吉岡杏(よしおか あん)が現れてから、すべてが変わった。 杏は入社したばかりなのに、彼の大切な楽譜をうっかり無くした。 周りがこぞって責める中、彼女をかばったのは銀司だった。 彼専用のピアノを勝手に触っても、いつものように冷たく怒るどころか、逆に優しく弾き方を教えていた。 ここまでならまだ我慢できた。 しかし先日、美鈴の祖父が危篤状態に。最期の願いは「美鈴の結婚式を見届けること」だった。 彼女は仕方なく、何度もさりげなく結婚の話をしてみた。 「もう結婚年齢だし……家族もずっと気にしてるみたいで……」 でも銀司の反応は相変わらず。ついに彼女はお願いした。 「嘘でもいいから、婚姻届を出したふりで祖父に会わせて。安心させたいの」 彼は渋々承知した。 ところが当日、祖父が亡くなるまで待ち続けても、銀司は現れなかった。 後で知った真相――彼はその時、高額保険がかかった自らの手で、杏を襲ったチンピラから守り、ナイフを受け止めていた。 その瞬間、美鈴は悟った。 自分の気持ちなんて……ただの自己満足だった。 「やっぱり高嶺の花には届けないよね……」 仮に届けたとしても、その相手は私じゃないと、美鈴が思った。 少し色あせた写真を指でなぞりながら、彼女は自嘲的に笑う。そして静かに写真を破り始めた。 「結婚したくないなら、もういい」 彼に七年間も捧げていたが、今、もう終わるべきだ。 第2話 朝もやの中、玄関のインターホンがけたたましく鳴り響いた。 ドアを開けると、杏がにっこり笑って立っていた。 手には紙袋をぶら下げている。 「おはようございます、橋本さん!これ、銀司さんがうちに忘れていったジャケットです。きれいにクリーニングしてきました!」 彼女は楽しそうに袋を振りながら、視線だけはさっと室内を泳がせた。 そしてリビングにいる銀司を見つけると、小鳥のように駆け寄っていった。 「銀司さん、お忘れ物です!」 銀司は紙袋を受け取ると、ふと美鈴の方へ視線を向けた。 「先週、杏が雷を怖がってたから付き合ってたら、うっかり忘れたやつだ」 「そうなんです!」 杏はまばたきを連発しながら美鈴に説明した。 「ただ寝るまで隣にいてくれただけですから!変な誤解しないでくださいね、橋本さん」 実は、美鈴と銀司の関係は社内では極秘事項だった。 だが杏は先日、楽譜を届けに来た時に、偶然二人がキスしている現場を目撃してしまったのだ。 だから、今の美鈴は表情一つ変えず、薄く笑った。 「誤解するようなことじゃないわ。大人の男女のことだもの」 その言葉の奥に潜む皮肉を、銀司は鋭く感じ取った。 眉間に皺が寄った。 「美鈴、それは……」 「銀司さん、手首がひどく腫れてます。橋本さんはどうして、薬塗ってあげなかったんですか?」 杏の甲高い声が銀司の言葉を遮った。 彼女は慌てて救急箱を引っ張り出し、軟膏を手に取ると、得意げに宣言した。 「実は最近、ピアニスト向けのハンドマッサージを習ったんです。さっそく試させてください」 そう言い終わらないうちに、銀司の手を掴むと、自分の指と絡ませた。 二人の指が密着し、軟膏がじんわりと溶けていく様は、どこか艶めかしくさえあった。 美鈴はそっと目を背け、立ち上がった。 銀司は慌てた。 「杏はただ……」 「いいのよ」 美鈴は涼やかに微笑んだ。 「邪魔しないように、別の部屋に移動するだけ。ゆっくり治療してあげて」 彼女が去った後、銀司はふと胸に漠然とした不快感が湧き上がるのを覚えた。 美鈴、最近、何かがおかしいと思った。 そう呟きかけた瞬間、杏が邪魔をするように割り込んできた。 杏はさらに薬を付け足し、一本一本丁寧に指をマッサージしながら、ふと尋ねた。 「どうしました?私のマッサージ、下手ですか?」 目に涙を浮かべ、小さな顔を曇らせた。 銀司はようやく視線を戻し、淡々と言った。 「そうじゃない」 辞表を出した美鈴は、杏に業務引き継ぎを始めていた。 定時で帰宅するようになり、もはや銀司のスケジュール管理や生活の世話など一切気にしなくなった。 帰宅してスマホを開くと、杏からラインが届いていた。 【橋本さん、私のインスタ見てくれました?】 インスタグラムを開くと、そこには「反省文」の写真が投稿されていた。 『世界一可愛いアシスタントを怒らせてしまい、深く反省しております。二度と繰り返しません』 力強くも整った筆跡。 最後にサインされた「銀司」の名前に、美鈴は思わず笑いそうになった。 あの高慢ちきな銀司が……? 笑いがこみ上げ、そのまま涙に変わっていく。 本気で好きな人がいると、人はここまで変わるものなのね。 深夜、銀司が帰宅すると、家中が暗闇に包まれていた。 明かりをつけ、誰もいないソファを見つめて、ふと虚しさを覚えた。 以前はどんなに遅くても、必ず明かりがついていて、美鈴が眠そうにしながらも待っていてくれたものだ。 「待たなくていい」と何度も言ったのに、彼女は笑いながら腕を組んで言った。 「だめ!母も父を待ってたの。そういうのが『家庭』でしょ?」 「家庭」――両親が離婚した彼にとって遠い存在だった。 なのに今は、真っ暗な部屋だけが彼を迎えている。 胸のあたりが重苦しくなり、寝室に向かった。 扉を開けると、ベッドで横になる美鈴のスマホには、あの「反省文」の画像が映っていた。 すると、銀司は理解したように言った。 「お昼に杏が小さなミスをして、叱ったら泣かせてしまった。 どうしたら、泣き止むか聞いたら、反省文を書けと言われただけだ……大したことじゃない。余計なことを考えるな」 いつものように冷淡な口調だが、なぜか言い訳がましく聞こえた。 美鈴はインスタを閉じ、静かに彼を見つめた。 「別に気にしてないわ」 銀司の眉がさらに険しく動いた。 「じゃあ、最近の態度は何だ?もしかして、あの時お祖父さんのこと? 杏が危ない目に遭ってたから助けに行った。お祖父さんがまさかあの日に……」 祖父の話題になると、彼の目にかすかな後悔の色が浮かんだ。 美鈴は長い沈黙の末、震える声で言った。 「別に」 それでも銀司は納得していない様子だった。 ようやく彼は態度を軟化させ、珍しく謝罪した。 「約束を破ったのは確かだ。何かで償わせてくれ……前に気に入ってたネックレスはどう?」 「要らない」 「じゃあ、週末ディナーに……」 「結構よ」 何度拒まれてもめげず、彼はベッドに近寄り、美鈴の口元を探った。 森の香りがする彼の香水の香りが漂い、抱き寄せようとする腕に力が籠った。 だが美鈴はきっぱりと彼の胸を押しのけた。 第3話 銀司はベッドの脇に立ち尽くし、いつもは冷静な瞳に困惑の色が浮かんでいた。 これまでずっと、美鈴の方が積極的にキスを求め、身体を求めていたのに――まさか自分から初めて求めた時に、こんなに冷たく拒まれるとは。 呆然とする彼をよそに、美鈴はくるりと背を向けると、布団をぐるぐると体に巻きつけた。 「最近、体調が優れないから……別々の部屋で寝るわ。あなたは客室を使って」 その言葉に、銀司の表情が初めてはっきりと崩れた。 しかし美鈴は最後まで振り向かず、すでに眠るふりをしている。 重苦しい沈黙の後、扉を力任せに閉める音が響いた。 翌朝、階段を降りた美鈴は、出勤準備中の銀司とすれ違った。 「引き継ぎは全て終わったから、これからは吉岡さんに任せるわ。それじゃあ、もう一緒に出勤しない」 淡々と告げる彼女に対し、銀司はまるで聞こえていないかのように、黙って玄関を出ていった。 閉められずに残されたドアを見て、美鈴は思った。 冷戦状態に入ったのね。 今までなら、必ず彼女が折れて謝りに行ったものだ。 だが今回は、慌てて追いかけるでもなく、キッチンへ向かった。 スマホで検索した洋食レシピ動画を見ながら、丁寧に朝食を作り始めた。 出来上がった料理を味わいながら、海外の求人サイトを閲覧した。 もはや銀司の機嫌など、どうでもよかった。 それから数日、二人は完全に無視し合うようになった。 ある夜、お風呂から出た美鈴は、スマホに大量の未読メッセージが届いているのに気づいた。 全て銀司からのものだ。 【演奏会に来ない理由は?】 【いつまでこんな子供じみたことを続けるつもりだ?】 【開演まであと30分。今すぐ来い】 【美鈴、最後通告だ。本当に来ないのか?】 …… 以前なら、彼の演奏会を欠席することなど考えられなかった。 交通事故で骨折した時でさえ、松葉杖をついて真っ先に応援に行ったものだ。 「一番のファンでいる」と約束していたから。 だが今回は姿を見せず、一言の説明さえしなかった。 この変化が、銀司をどれほど混乱させたか。 でも、もう私には関係ないことだと美鈴が思った。 美鈴はメッセージを全て削除し、見なかったことにした。 しかし銀司は諦めず、電話をかけまくってきた。 スマホの電源を切ると、今度は自宅の固定電話が鳴り始めた。 「演奏会に来ないなら、せめて打ち上げに出席しろ」 何度も繰り返され、美鈴はついにうんざりしてコートを手に取った。 会場に着くと、黒のタキシードを粋に着こなした銀司が、杏に『きらきら星』を教えているところだった。 「橋本さん!あの二人、めっちゃいい雰囲気じゃない?」 同僚が興奮しながら近寄ってきた。 「まさにお似合いのカップルよね」 美鈴は微笑んで軽く頷いた。 「ええ、本当にお似合いだわ」 その声がステージまで届いたのか、銀司は不意にミスタッチをし、表情を険しくした。 ハイヒールで不安げな杏がステージから降りようとすると、彼はさっと立ち上がり、彼女の細い腰を抱えて優しく降ろしてやった。 「わあっ!銀司さん、ありがとう」 「気にするな」 そう言いながら、銀司は美鈴の方へ視線を送った。 しかし彼女は同僚と楽しそうに談笑しており、全く気に留めていない様子だ。 冷房の効きすぎた室内で、薄着の杏がふるえていると、彼はすぐさま上着を脱ぎ、彼女の肩にかけてやった。 杏は上着にくるまると、嬉しそうに彼の隣にぴたりと寄り添った。 それから、銀司は銀色の果物ナイフを巧みに操り、彼女のためにフルーツを切り分け始めた。 その手つきは、四百億円の価値があると言われるピアニストの手らしく、優雅で無駄のない動きだった。 それを見た同僚はまたしても興奮し、美鈴に目配せした。 「本当に可愛がってるわね」 美鈴はそれに応えるように、またしても薄く笑っただけだった。 打ち上げが中盤に差し掛かった時、誰かがゲームを提案した。 簡単なカードゲームで、同じ柄を引いた二人が罰ゲームを受けるというもの。 運悪く、第一ラウンドで銀司と杏が選ばれてしまった。 そして引いた罰ゲームは――十秒間のキス。 一瞬、会場全体が水を打ったように静まり返った。 その沈黙を破ったのは、意外にも美鈴だった。 「キス、キス」 彼女は楽しそうに手を叩き、周囲を煽り始めた。 その笑顔は本物のように見えた。誰もその瞳の奥にある冷たさには気づかなかった。 第4話 最初、誰もが銀司のことを「クールで近寄りがたい」と思っていたから、こんな過激なゲームを嫌がるんじゃないかと心配していた。 でも、長年彼のマネージャーを務めてきた美鈴までが盛り上げているのを見て、みんなは安心したように、天井を揺るがすほどの大声で囃し立て始めた。 「キス、キス」 その喚声の中、銀司が驚いた表情で自分を見つめているのを、美鈴は涼しい顔で無視した。 むしろ、さりげなく杏の背中を軽く押してやった。 「あっ」 次の瞬間、杏は真っ赤な顔で銀司に飛び込み、正確に彼の唇を捉えた。 唇が触れた瞬間、銀司の表情が一気に険しくなり、激しい動作で杏を押しのけて立ち上がった。 彼は顔は青ざめ、美鈴を鋭い視線で睨みつけたまま、何も言わなかった。 杏はただ恥ずかしがっているだけで、異様な空気に気づいていない。 美鈴は薄く笑うと、何事もなかったように言った。 「キスも終わったことだし、次に移りましょうか」 銀司の険しい表情を見て、誰も罰ゲームの成否について口に出せなかった。 しかし運悪く、次のラウンドでも銀司と杏が負けてしまった。 今度の罰ゲームは、銀司が杏をお姫様抱っこするというもの。 杏は彼の前に立ち、もじもじとスカートの裾を握りしめている。 美鈴はまたしても率先して囃し立てた。 「お姫様抱っこ、お姫様抱っこ」 銀司は彼女を睨みつけ、何か言いたげに唇を動かしたが、やはり言葉を飲み込んだ。 周りの声援が大きくなる中、彼はなかなか動こうとしない。 「あの……やめておきましょうか……」 杏が言いかけたところで、銀司は彼女をさっと横抱きにした。 周囲から大きな歓声が上がった。 ゲームが終わるまで、美鈴は銀司の視線がずっと自分に向けられているのを感じた。 何かを必死にこらえているような、熱い視線。 彼女はわざと視線をそらし、他の人たちと楽しそうに話しながら、まるで気に留めないふりをした。 打ち上げが終わり、二人が家に戻ると、美鈴が寝ようとした瞬間、銀司は突然彼女の手首を掴み、ついに堪忍袋の緒が切れた。 「今日のは一体どういうつもりだ?なんで俺を他人に押し付けるんだ?」 他人? 彼女は軽く笑った。 「ただのゲームじゃない?ルールに従っただけよ」 「だがそれでも……」 「大したことじゃないのに、余計なことを考えなくていいわ。疲れたから先に休む」 美鈴は彼の言葉を遮り、そっけなく手を振り払った。 この言葉はどこか聞き覚えがあった。 銀司は一瞬呆然とし、これが数日前に自分が彼女に言った言葉そのままだと気づいた。 今、彼女はその言葉をそっくりそのまま返したのだ! 普段は感情に振り回されることを嫌うタイプだが、今は眉間に深い皺を寄せ、再び彼女を引き止めた。 「美鈴、話がある」 「何の話?」 振り向いた彼女の表情は冷たかった。 「最近のお前の態度だ。何にそんなに怒ってる?」 「怒ってなんかいないわ」 「怒ってるだろ」 「本当に怒ってない」 「嘘つけ」 やり取りが続くうちに、彼女はついにうんざりしたように彼の手を振り払った。 「もういいわ。そう思いたいなら勝手にすれば?疲れたから休む」 そう言い残すと、美鈴は素早く寝室に入り、扉をバタンと閉めた。 銀司はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。 信じられないという表情で寝室の扉を見つめ、強い無力感に襲われた。 再び近づこうとしたその時、突然玄関のインターホンが鳴り響いた。 第5話 銀司は胸のざわめきを抑え、ドアを開けた。 そこには雨に濡れた杏が立っていた。 「銀司さん、鍵を忘れてしまいまして……こんな時間では鍵屋もやってませんから、泊めてくれませんか?」 彼女は小刻みに震え、うるんだ瞳で訴えかけた。 銀司はため息をつくと、 「まず入って。今美鈴に聞く」 美鈴の寝室をノックし、事情を説明した。 扉を開けた彼女は、銀司の背後に立つ杏を見て、かすかに笑った。 「どうぞ、ご自由に」 許可を得た杏はにっこり笑い、銀司にお礼を言った。 美鈴はもう二人に関心がないように、静かに扉を閉めた。 翌朝、美鈴は部屋に銀司に関わる品々を段ボールに詰め、捨てようとしていた。 その途中、銀司が杏を抱き上げる姿を目にした。 「素足で歩くな。冷えるだろう」 杏は恥ずかしそうに銀司の胸に顔を埋め、美鈴に気づくと慌てた。 「あ、橋本さん!誤解しないで!生理でお腹が痛くて……急いでたら靴下を履き忘れてしまいまして……銀司さんが助けてくれただけですから……」 美鈴はテーブルの上の生理用品と黒砂糖に目をやった。 家のストックはもうなくなった。明らかに、銀司が朝早く買いに出かけたものだった。 私が生理痛で苦しんでいた時は、作曲に夢中で、一度も気にかけてくれなかったくせに…… 心の中で嘲笑しながら、彼女は平静を装って言った。 「誤解なんてしてないわ。生理痛なら抱っこされて当然よ。一緒に寝たっておかしくない」 銀司はすぐに杏をソファに下ろし、美鈴を見つめた。 その目には信じられないという色が浮かんでいた。杏も驚いた表情をしていた。 気まずい沈黙が流れる中、杏が段ボール箱に気づいた。 「わあ!橋本さん、こんなに銀司さんのグッズを持ってるですか? これ全部、絶版になりました。ファンの間では高値で取引されてるレア物ばかりです。どのように集めましたか?」 欲しそうな眼差しで見つめる杏に、美鈴は軽く肩をすくめた。 「欲しいの?じゃあ、送ってあげるよ」 箱を差し出すと、杏は目を丸くした。 「え、本当に?」 「どうしてダメなの?吉岡さんが好きでしょ」 杏は嬉しそうに箱の中を漁り始めた。 「これってデビュー作のレコードでしょうか?こんなにきれいに保存されていたんですね…… このライブ映像、銀司さんが本当にお輝いになっていらっしゃいます…… 手書きの楽譜まで全部……整理されるの大変だったでしょうね……」 一つ一つに感嘆する杏。その反応が、美鈴のどれほどの想いを物語っていた。 全てを目の当たりにした銀司は、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。 この瞬間、何かとても大切なものを失ったような気がした。 杏は箱を抱きしめ、満面の笑みで叫んだ。 「ありがとうございます、橋本さん。これらを宝物のように大切します」 美鈴はかすかに笑い、こう思った。 これらの品物だけでなく、これからは銀司も、あなたのものなのだから。 第6話 杏は一泊だけして帰っていった。 その後、銀司は何日も家に戻ってこなかった。 しかし、毎日のように、美鈴のスマホには杏からの銀司に関するメッセージが震えた。 【橋本さん、今日は銀司さんがピアノの先生に会わせてくれたんです。先生、とっても優しい方でした】 【今、銀司さんと一緒にインスピレーションを得るために来てます。ここからの景色、すごくきれいですから、橋本さんも今度一緒に来てくださいね】 【大学時代の銀司さんが見たいって言ったら、キャンパスまで連れてきてくれました。こんなところで勉強してたんですね】 …… どのメッセージにも、必ず銀司の写真が添付されていた。 普段は写真嫌いで知られる彼が、杏にはこんなに素直に撮らせているのか。 しかし、杏は美鈴の気持ちを勘違いしていた。 美鈴はもう銀司のことを気にすることはないからだ。 そのため、全て既読スルーした。 銀司の行動をチェックすることも、彼と杏が何をしているか気にかけることも、すっかりやめていた。 ある晩、久しぶりに帰宅した銀司は、出かけるところの美鈴とばったり出くわした。 「こんな時間にどこへ行くんだ?」 外の暗さを見て、彼は眉をひそめた。 美鈴は彼の横をすり抜けるようにして、 「プライベートな用事だ。いちいち報告する義務はないでしょう」 冷たい声でそう言い放ち、振り向きもせずに出ていった。 銀司はぽかんと立ち尽くした。 その言葉がどこかで聞いたような…… ふと気づくと、それはかつて自分がよく使っていた言い回しだった。 以前は、彼が出かけるたびに美鈴が「どこへ?」と聞くものだから、「プライベートな用事だ」と適当にあしらっていた。 すると彼女は黙って家で待っていた。 だが、立場が逆転した。 家中が妙にひんやりと感じられた。 銀司は長い間玄関に立ち尽くし、何とも言えない気分に苛まれた。 一方、美鈴が個室のドアを開けると、親友たちが一斉に駆け寄ってきた。 天井に向かってクラッカーが鳴り響いた。 「美鈴ちゃん、このお別れ会は私たちの手作りなんだから。今日は飲み倒される覚悟で来てよね」 リーダー格の新居日菜(にい ひな)がにっこり笑いながら手を引っ張った。 「はいはい、今日だけは皆さんのペースに合わせるよ」 美鈴は苦笑いしながらグラスを手にした。 場はすぐに盛り上がり、何杯か飲んだ頃、一人の親友がふらふらと近寄ってきた。 「ねえ、正直に言って。海外で結婚するって本当?それとも銀司を引き留めるための芝居?」 美鈴は軽く笑った。親友が疑うのも無理はない。 これまで彼女は銀司一筋だったのだから。 「本当よ。私、本当に結婚するつもりなの」 一瞬の静寂の後、親友からは喜びの声とため息が混ざった反応が返ってきた。 「最初からあの男はダメだと思ってたわ。あの世捨て人みたいな性格、結婚生活向きじゃないもの」 「美鈴ちゃんがあの時、彼についていくために一学期も授業に出て、ピアノまで習ったのを覚えてる?」 「七年間も側にいて、あれだけ尽くしてきたのに、ファンやスタッフで美鈴ちゃんのことを知ってる人なんて、ほとんどいないじゃない」 「毎年誕生日を祝って、記念日も忘れなかったのに、彼はあなたの誕生日すら覚えてなかったでしょ」 「ただ……七年間が無駄になったと思うと、本当に悔しいわ。女性にだって、青春大切なんだから」 第7話 親友たちの言葉が、美鈴のこれまでの想いを余すところなく語り尽くしていた。 日菜は彼女の表情の変化に気づき、さっと話題を変えた。 「そういえば、建部さんって、竹内さんの大親友だったわよね?あの人が美鈴ちゃんと結婚するって知ったら、逆上するんじゃない?」 「逆上どころか、絶交確実よ」 美鈴は「そんなことない」と言おうとした。 愛してもいない相手のために、どうして逆上するだろう? だがその時、突然スマホが鳴り響いた。画面には杏の名前が。 「橋本さん、大変です。銀司さんが急に胃痛で……どうすれば……?」 杏は完全にパニック状態。背景には銀司の苦しそうな息遣いが聞こえた。 「胃痛なら119番すればいいでしょ?今は吉岡さんがマネージャーなんだから」 冷静にそう言い放ち、電話を切った。 しかし、すぐ、再び着信。今度は泣きじゃくる杏の声だった。 「病院へ向かう途中で事故に……銀司さんが私をかばって、大けがを……私は無事だったのに、彼はあの手が……どうして私なんかのために」 声は震えていたが、どこか誇らしげな響きも。 美鈴はため息をついた。 「彼がそこまでするなら、吉岡さんも相応のことをすれば?」 そう言い残し、彼女はきっぱりと電話を切った。 周りの親友たちは心配そうな表情を浮かべた。 日菜が気分転換にショッピングに行こうと提案した。 美鈴はそれに同意し、皆で繁華街をぶらぶらと歩きながら、服を試着したり雑談したりして時間を過ごした。 夜も更け、人通りが少なくなってきた頃、一人一人に抱きついた。 「心配しないで。もう気持ちの整理はついたから。これからは自分を大切にするわ」 皆さんと別れ、一人で家に帰ると、ネット上ではすでに銀司の事故のニュースが拡散されていた。 帰宅後、スマホを開くとSNSは銀司の事故報道で溢れていた。 【人気ピアニスト・竹内銀司、恋人を守り大けが!】 【高級車衝突事故 ピアニストの現在は】 どの記事もセンセーショナルな見出しばかり。だが美鈴の心はもう揺れなかった。 いつも通りにシャワーを浴び、ベッドに入った。 しかし深夜、激しい揺さぶりで目を覚ました。 暗闇の中、荒い息遣いが聞こえた。 ぼんやりとした意識の中で、暗がりに浮かぶ銀司の険しい顔が見えた。 まだ夢かと思っていると、怒りを抑えた声が聞こえてきた。 「美鈴……俺が事故に遭ったのに、何で来てくれなかった?!知ってなかったか?!」 第8話 美鈴はぼんやりとした意識から覚め、ゆっくりと上半身を起こした。 窓から差し込む月明かりの中、銀司が病院の青白い患者衣を着ているのが見えた。 額と手首には分厚い包帯が巻かれている。 病院を抜け出してきたのか? それもただ……私に会うために? 彼女は目をこすり、冷淡に答えた。 「知ってたわ」 その言葉で、銀司の目がさらに充血し、声が震えた。 「知ってて……どうして見舞いに来なかったんだ」 彼女の平静な表情を見て、ついに感情が爆発した。 「お前、いったいどうしたんだ?昔は俺がちょっとでも怪我すると、誰よりも慌てていたくせに……」 美鈴の声は相変わらず冷たいかった。 「吉岡さんが面倒見てるんでしょ?」 その瞬間、扉が勢いよく開き、杏が飛び込んできた。 「銀司さん、こんなに重症なのに、どうして病院を抜け出したんですか?」 涙をぽろぽろこぼしながら、彼の手を握りしめた。 「お願いですから、戻りましょう……橋本さんとの話は、退院してからでも……」 杏の泣き腫らした顔を見て、銀司は眉間を押さえ、徐々に落ち着きを取り戻した。 まず杏をなだめ、それから美鈴を一瞥した。 「退院したら……ちゃんと話そう」 そう言うと、杏に支えられて去っていった。 美鈴はその背中を見送り、かすかに笑った。 もう待たないわ。 二度と待ち続けたりしない。 翌朝、美鈴のスマホに航空会社からの搭乗案内が届いた。 ちょうどその時、建部藤正(たてべ ふじまさ)から電話がかかってきた。 「式の準備はほぼ整ったよ。ドレスも指輪も新居も、君のSNSや親友から好みをリサーチして選んだんだ。気に入らなかったら、来てから一緒に選び直そう」 その言葉に、美鈴の胸がふっと温かくなった。 「心を込めて選んでくれたのなら、何でも好きよ」 「今日着くよね?」 「ええ」 「了解。時間通りに迎えに行くから……奥さん」 「奥さん」と呼ばれて、美鈴は思わず頬が熱くなった。 電話を切り、出かけようとしたその時、またも銀司から着信があった。 切ろうとしたが、執拗に鳴り続けるので、仕方なく電話に出た。 「今まで誰と話してた?ずっと話し中だった」 「何か用?」 彼女の冷淡な態度に、銀司の呼吸が荒くなった。 「今日……見舞いに来てくれるか?」 「時間があればね」 銀司の声に冷たさが増した。 「今日中に来い」 「プレゼントを準備してるから、後でね」適当にかわすと、銀司はほっとしたように声を柔らかげた。 「じゃあ……準備が終わったら来て」 「ええ」 電話を切り、美鈴はかつて二人で選んだペアリングを外し、ケースにぽいと放り込んだ。 そしてメモをしたためた。 【美鈴から 別れましょう。銀司への最後の贈り物】 メモをケースの上に置くと、スーツケースを引き、家を出た。 振り返ることなく。