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愛は二度と振り返らない
「私、星市に行って先生の下で医学を学ぶことに決めました」 佐藤奈々の言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の向こうから鈴木教授の年...
Chương (1)
第1章
「私、星市に行って先生の下で医学を学ぶことに決めました」
佐藤奈々の言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の向こうから鈴木教授の年老いた、しかし喜びに満ちた声が聞こえた。
「奈々はあのバカのことを諦められたのかい?」
奈々はひそかにスカートの裾を固く握りしめ、言葉を発する前から苦い思いが込み上げてきた。
「諦めるも何も、その頃には彼のことなんてすっかり忘れているでしょうから」
風が奈々の呟きをかき消し、鈴木教授ははっきり聞き取れなかった。
「何だって?何を忘れるって?」
「いえ、何でもありません。では、仕事に戻ります。月末に星市でお会いしましょう」
電話を切った後、奈々は目の前にある東洋医学クリニックを見上げた。
美しいアーモンド形の目には、隠しきれない緊張と不安が宿っていた。
第1話
「私、星市に行って先生の下で医学を学ぶことに決めました」
佐藤奈々(さとう なな)の言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の向こうから鈴木(すずき)教授の年老いた、しかし喜びに満ちた声が聞こえた。
「奈々はあのバカのことを諦められたのかい?」
奈々はひそかにスカートの裾を固く握りしめ、言葉を発する前から苦い思いが込み上げてきた。
「諦めるも何も、その頃には彼のことなんてすっかり忘れているでしょうから」
風が奈々の呟きをかき消し、鈴木教授ははっきり聞き取れなかった。
「何だって?何を忘れるって?」
「いえ、何でもありません。では、仕事に戻ります。月末に星市でお会いしましょう」
電話を切った後、奈々は目の前にある東洋医学クリニックを見上げた。
美しいアーモンド形の目には、隠しきれない緊張と不安が宿っていた。
他人の研究のためにモルモット代わりに鍼を打たれるのは、終わりのない苦痛だ。
今日の実験が終わるまでにあと何本の鍼を打たれるのか。
そして治験が成功するまで、あと何日この痛みに耐えなければならないのか。
彼女には見当もつかなかった。
しかし、夫である高橋颯人(たかはし はやと)の夢と仕事のためなら、奈々は歯を食いしばって耐え忍ぶ覚悟だった。
彼女は深呼吸をして、東洋医学クリニックの扉を押し開け、忙しそうに立ち働く颯人の姿に見入った。
彼は清潔感のある涼やかな顔立ちで、白衣を纏うと、まるで人々を救う神々しい光を放っているようだった。
同じく白衣を着た松本時宗(まつもと ときむね)が慌ただしく颯人のそばに寄ってきた。
「先輩、また奥さんに鍼治療の治験をお願いしたんですか?」
颯人は薬の調合に忙しく、顔も上げずに答えた。
「ああ。何か?」
時宗は心配そうな顔で、長椅子におとなしく座って待っている奈々をちらりと見て言った。
「この前の鍼治療の治験の後、奥さんの記憶が少し混乱しているように感じます。
今の治療計画はまだ不完全で、予期せぬ副作用があるかもしれません。
先輩、最新の研究結果が出るまで待って、奥さんへの治験は一時中断したほうが……」
時宗の声は小さかったが、一言一言がはっきりと耳に届いた。
奈々は思わずバッグのストラップを握りしめ、緊張した面持ちで颯人を見つめた。
実のところ、最初の実験の時から、彼女には記憶障害が現れていた。
時折、自分がなぜここにいるのか、何をしに来たのかを忘れてしまうことがあった。
過去の大切な記憶さえも、ふいに曖昧になってしまうのだ。
だが、颯人が止めない限り、彼女は歯を食いしばって耐え続けるしかなかった。
「俺たちが待てても、詩織(しおり)は待てるのか?何千何万もの脳腫瘍患者が待てると思うのか?」
颯人の言葉は突然途切れ、ふと奈々に目をやった。
「お茶を淹れてきてくれ」
彼女から熱いお茶を受け取ると、颯人は一口だけすすり、皮肉げに言った。
「俺が一番摘みの宇治茶を好むことを覚えているだけじゃなく、俺の好みどおり茶葉五グラム、七十度のお湯で淹れるなんてな」
言い終えると、彼は振り返って時宗を一瞥し、冷ややかに言い放った。
「これのどこが記憶障害だと?所詮人目を引くための演技に過ぎない。俺は東洋医学クリニックの後継者だ。
奈々に医学への献身という覚悟すらないなら、俺の妻を名乗るな」
颯人の冷たい言葉は、鋭い棘のように奈々の心臓に突き刺さり、血が滲むほどの痛みを与えた。
「こっちに来い」
彼は彼女に向かって軽く顎をしゃくった。
奈々は心の痛みを懸命にこらえ、不安な気持ちで診察台に横たわった。
彼が銀鍼を手に取り、頭頂部や顔の皮膚に次々と刺していくのを、ただ身を委ねるしかなかった。
皮膚を貫く鋭い痛みの後、経穴のじんじんとした感覚が、脳の神経まで刺激した。
突然、颯人は手を止め、奈々が下腹部の上で固く組んでいた両手に、自分の手のひらを重ねた。
その温もりに、奈々の心は一瞬和らいだ。
しかし次の瞬間、痛みと緊張で震えながら強く握りしめていた奈々の十本の指が、颯人によって一本一本、力ずくで無理やり引き離されていった。
「力を抜け。そんなにこわばっていたら、どうやって鍼を打つんだ?」
彼のいつもの冷静な瞳には、嘲りの色が浮かんでいるようだった。
「毎日大勢の患者を診て鍼を打っているが、お前みたいに大げさな奴は一人もいないぞ」
第2話
颯人の言葉は奈々の心に深く突き刺さり、抜けない棘のように痛みを残した。
朦朧とした意識の中、どれほどの時間が経ったのか分からないまま、鍼治療の治験はようやく終わった。
奈々は青ざめた顔で起き上がり、バッグを手に取って立ち去ろうとした。
だが颯人は彼女の腕をつかんで引き止めた。
「待っていてくれ。昼から従弟の翔太(しょうた)の結婚式に出るんだ」
「わかったわ」
奈々は長椅子に腰を下ろし、真剣に仕事をする颯人の姿をぼんやりと見つめていた。
そして、ふと思い立ったように彼女はスマートフォンを取り出し、録音機能を起動させた。
「今日で颯人と出会って十二年、結婚して七年になる。私が京市を離れ、彼のもとを去るまで、あと十五日。
母が重病になって、私は大学を辞めて食堂でアルバイトを始めた。そこで、いつもおにぎりだけを食べ、無料の味噌汁を飲んでいる颯人に出会った。
彼も私と同じように、厳しい環境の中で必死に生きているんだと、胸が痛んだ。
食堂は毎日大勢の人でごった返していたけれど、私の目には彼しか映らなかった……」
流れるように語っていた声が突然途切れた。
次に何を言うべきか思い出せず、奈々の瞳には戸惑いの色が浮かんでいた。
颯人が私服に着替え、大股でこちらへ歩いてくるのを見て、彼女は慌てて録音を保存し、立ち上がりながら思わず尋ねた。
「お昼、どこで食べるの?」
颯人はぴたりと足を止め、眉をひそめた。
「翔太の結婚式に出ると言っただろう?」
「ごめんなさい、忘れていた……」
奈々の言葉が終わらないうちに、颯人の苛立った声が飛んできた。
「記憶喪失のふりも飽きないな」
彼女は俯き、潤んだ瞳を隠すように呟いた。
「ごめんなさい。もう二度と『忘れた』なんて言わないわ」
二時間後、ホテルの結婚式場。
純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁が、スポットライトを浴びながら、一歩一歩と花婿のもとへ歩み寄っていく。
目の前の幸せそうな光景に、奈々は両手を組み、羨望の眼差しで見つめていた。
花婿花嫁が挨拶に来た時、奈々はグラスを手に取り、心からの祝福を述べた。
「末永くお幸せに。そして早く可愛い赤ちゃんにも恵まれますように」
すると花嫁は口元を手で隠し、くすくす笑いながら颯人に向かって言った。
「お兄さん、お義姉さんともう七年も結婚してるのに、いつ結婚式を挙げてあげるの?
さっき舞台の上にいた時、お義姉さんの熱い視線で鳥肌が立っちゃった。まるで私に嫉妬してるみたいだったわ!」
奈々の心臓が鷲掴みにされたようにきゅっと締め付けられた。
唇を固く結び、人前で声を漏らさないよう必死に耐えた。
颯人は奈々をちらりと見て、淡々と言った。
「お前が面倒じゃないなら、式を挙げてもいい」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、颯人の母である高橋美智子(たかはし みちこ)が厳しい口調でそれを遮った。
「何を言ってるの。
親戚や友人に彼女のことをどう紹介するつもり?両親がいなくて高卒だって?
それとも大学の食堂で配膳のバイトをしていて、颯人と知り合ったって言うの?」
これ以上、どれだけ心を引き裂かれればいいのだろうか。
周囲からくすくす笑う声が聞こえる中、奈々は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
かつては彼女も颯人と同じく、全国トップクラスの京市医科大学に合格し、高額の奨学金も得ていたのだ。
しかし、母の重病と高額な医療費のため、奈々は学業も将来も諦めるしかなかった。
自分の全てを投げ打っても、結局、母の命を救うことはできなかった。
奈々の人生は後悔に満ちていた。
だからこそ、颯人のためなら何もかも捧げる覚悟があった。
朝早くから夜遅くまで働いて貯めたお金を、ためらうことなく匿名で颯人に援助し、彼が逆境を乗り越え、立派に成功していく姿を見守ってきたのだ。
「結婚式なんてただの形だけだ。夫婦関係がうまくいっていなければ、結婚式がどんなに華やかでも意味がない」
颯人の言葉に、奈々はこわばった表情で頷いた。
「もう結婚して七年も経つのよ。今さら騒ぐことでもないわ」
まあ、いい。
どうせあと半月もすれば、自分は彼のもとを永遠に去るのだから。
第3話
結婚式が終わって帰宅すると、颯人は疲れ果ててソファに深く沈み込んだ。
「さっきはろくに食べられなかったから、うどんを一杯作ってくれ」
「わかったわ」
奈々はすぐに湯気の立つうどんを用意し、テーブルに置いた。
颯人は一口啜ると眉をひそめ、吐き出すように言った。
「なんでこんなに塩辛いんだ?
塩の瓶でもひっくり返したのか?」
「ごめんなさい……」
奈々はうろたえ、エプロンの裾をぎゅっと握りしめた。
最近、記憶がいつも混乱していて、調味料を何度入れたか分からなくなることが多かった。
だが、颯人の前では、もう「忘れた」という言葉は口が裂けても言えなかった。
「また『ごめんなさい』か。一日中謝ってばかりで、何の役に立つんだ?」
颯人は箸を乱暴にテーブルに叩きつけ、声を荒げた。
「うどん一杯まともに作れないお前に、他に何ができるのか?」
彼の冷たい眼差しは底なし沼のようで、奈々を少しずつ引きずり込み、窒息させるようだった。
奈々は目に熱いものがこみ上げるのを感じながら、涙をこらえて声を絞り出した。
「私……私には、まだ鍼治療の治験の被験者になることができます……」
彼女は去り際に、自分が何の役にも立たない人間だという印象だけは、颯人に残したくなかった。
奈々の潤んで赤くなった瞳と視線が合うと、颯人はふいと目を逸らし、唇を真一文字に結んだ。
「お前がそう言うなら、明日から毎日、時間通りに治験に来い」
以前は週に一度だった鍼治療の治験が、毎日行われることになった。
奈々の顔色は日に日に青ざめ、意識も日に日に朦朧としていった。
それでも彼女は毎日欠かさず、朝九時きっかりに東洋医学クリニックへに現れ、長椅子におとなしく座って、颯人が準備を整えて呼ぶのを待っていた。
その日、十時を過ぎても颯人は現れなかった。
心配になった奈々は立ち上がり、ガラス窓越しに診療室の中を覗き込んだ。
そして、颯人が片膝をつき、ある若い女性、宮本詩織(みやもと しおり)の前に屈み込んでいるのが見えた。
その女性は頭の帽子をしっかりと押さえ、痩せた小さな顔には涙で潤んだ大きな瞳があった。
か弱く、思わず守ってあげたくなるような雰囲気を漂わせていた。
「詩織は俺にとって一番美しいよ。髪がなくたって、きれいだ。
いいから、帽子を取って。必ず治してみせるから」
颯人の声は柔らかく、その表情の優しさはは人を蕩けさせるほどだった。
詩織は目尻を赤くし、緊張した様子で彼の袖をつかんだ。
「颯人くん、鍼を打つとき、優しくしてくださいね。痛くしないで」
「もちろんだよ」
颯人は優しく彼女の帽子を外した。
詩織の緊張と怯えを和らげようと、銀鍼を持つ手を彼女から見えないように引き、もう片方の手の親指で彼女の額を優しく撫でた。
「明日、体育館でコンサートがあるんだ。一緒に行かないか?」
窓の外で、奈々は体が凍りついたように立ち尽くしていた。
颯人が詩織に見せる心からの優しさと気遣い。
それはこれまで自分には欠片ほども向けられたことのないものだ。
奈々の目は刺すように痛み、心は引き裂かれるようだった。
ベッドに横たわっていた詩織は、自然な仕草で両腕を伸ばし、親しげに颯人の首に腕を回した。
その親密な様子は、まるで寄り添う白鳥のようだった。
詩織の甘えた声は、聞く者の心を和ませた。
「じゃあ、私がおりこうにしていたら、他にもご褒美はある?」
颯人は溺愛するように微笑んだ。
「ああ。何でも望みを叶えてやる」
この光景を目の当たりにして、奈々は二人が単なる医師と患者の関係ではないことを確信した。
なぜなら、颯人が詩織に向ける心からの優しさと喜びは、これまで一度も自分に注がれたことがなかったからだ。
奈々はよろめきながら踵を返し、突然壁に手をついてかがみこんだ。
内臓を引き裂かれるような痛みが全身を襲った。
口に流れ込む涙は苦く、彼女は小さく呟いた。
「大丈夫……すぐに痛みなんて消えるから……」
「奥さん!」
奈々の様子がおかしいことに気づいた時宗が心配そうに駆け寄った。彼女の顔色は普段より悪く、どこか優れない様子に見える。
次の瞬間、彼はハッと何かに気づいたように目を見開き、驚愕の声を上げた。
「奥さん、妊娠されてるんですか!?」
第4話
奈々は信じられない気持ちで手を上げ、呆然と自分のお腹に触れた。
多嚢胞性卵巣症候群で妊娠しにくい体だと分かっていたのに、まさかこんなタイミングで妊娠するなんて……
七年もの間、どんなに願っても授からなかった子が、よりによって彼のもとを去ろうと決めたこの時期にやって来るなんて。
これは、運命が私にここに留まれと言っているのだろうか。
時宗は険しい表情で診察室に入り、颯人に奈々を被験者に使うのをやめるよう説得した。
一方、奈々の妊娠を知った詩織は、泣きながら颯人の胸に顔を埋めて訴えた。
「颯人くん、お願い、もうやめて。私の脳腫瘍は末期でもう助からない。
でも、あなたの子は……かけがえのない命なのよ」
颯人の冷たい瞳に葛藤と痛ましさの色がよぎったが、それでも掠れた声で詩織をなだめた。
「君がいたからこそ、今の俺の医学があるんだ。どんなことがあっても、君を死なせはしない」
奈々の胸には、大きな穴が開いたような痛みが走った。
彼女は最後の望みを託すように、懇願するような眼差しで呟いた。
「颯人、私がこの子を授かるのがどれだけ難しかったか、分かっているでしょう……」
颯人は感情を読み取らせない深い眼差しで奈々を見つめ、きっぱりと言い放った。
「医学の世界では、出産よりも個々の生命が優先される。子供は、またきっと授かる」
その有無を言わせぬ態度に奈々はなすすべもなく、込み上げる苦しさを押し殺して小さな診察台に横たわった。
鍼の実験の途中、下腹部に鈍痛を感じ、はっとして手を当てた。
颯人は眉をひそめ、即座に彼女の手首に指を当てて脈を取った。
「心配するな。子供は大丈夫だ」
一瞬、彼の顔に苦渋の色が浮かんだように見えたが、奈々が捉える間もなく消え去った。
「今日はここまでにしよう」
颯人は突然振り返り、時宗に告げた。
頭の鍼がすべて抜かれた後、奈々はバッグを肩にかけ、東洋医学クリニックの入口へと歩いた。
すると、颯人がベビーカーの前で片膝をつき、優しい表情で小さな赤ちゃんをあやしている姿が目に入った。
その光景に、奈々の胸は甘酸っぱさと切なさ、そして言いようのない感情でいっぱいになった。
彼がそんなに子供好きなら、どうして私たちの子は愛してくれないの?
きっと……颯人は私を愛していないからだ。
もしこの子がいなくなったら、私にはもう、彼のそばにいる理由なんてなくなってしまう。
翌朝。
颯人は珍しくクリニックへ早出せず、ソファに座って医学雑誌を読んでいた。
「お前の検診結果を全部持ってこい。一緒に病院へ行って、母子手帳の手続きをするぞ」
奈々は驚きと期待で胸が高鳴り、一瞬息が止まるほどの思いで聞き返した。
「もう被験者やらなくていいの!?」
本当は、彼がこの子を産むことを許してくれるのか、それを確かめたかった。
颯人は何気ない口ぶりだったが、その言葉には熟慮の跡が感じられた。
「まずはこの子を無事に産むことを考えよう。詩織のことは、俺が別の方法を考える」
その瞬間、奈々の全身が喜びに震えた。
颯人を待たせたくない一心で、彼女は急いで部屋に向かったが、クローゼットの前で突然足が止まった。
途方に暮れた表情で立ち尽くす。
さっき颯人が何を準備しろと言ったのか、病院で何の手続きをするのか、どうしても思い出せなかったのだ。
仕方なく、奈々はクローゼットや机の引き出しを開けて書類を探し回り、ついでに大切な証明書類をまとめ、キャッシュカードには暗証番号を書き添えた。
「検診結果を探すのに、何をそんなに手間取ってるんだ?」
颯人が部屋に入ってきて急かした。その視線が、ふと机の上の一枚の振込明細書に吸い寄せられた。
日付は十二年前。匿名の振込で、金額は174万4260円。
備考欄には「学費援助」とあり、受取人は颯人となっていた。
颯人はその明細書に釘付けになり、震える手でそれを拾い上げると、信じられないといった様子で呟いた。
「どうしてお前がこの振込明細書を持っているんだ?」
第5話
「わたし……」
奈々は必死に記憶をたぐり寄せようとしたが、結局、困惑した表情で首を振るしかなかった。
「ごめんなさい、思い出せないの……」
颯人の瞳は底知れぬほど暗く沈んでいた。
「お前、振込明細書を偽造して、わざと部屋で時間を稼いだんだろう。俺に見せたかったんじゃないのか?」
奈々が言い返す間もなく、颯人は目尻を赤くしながら冷たく言い放った。
「子供のために治験を中止して、別の方法を探すと言ったばかりだ。
なのになぜ詩織が昔してくれた援助を、お前が横取りしようとする?」
颯人の冷たい詰問に、奈々の心は引き裂かれるように痛み、体がまるで氷を浴びせられたように冷え切った。
「ごめんなさい、本当に覚えてないの……」
彼女の涙に濡れた赤い瞳を見ると、颯人は背を向け、ドアを乱暴に閉めながら言った。
「駐車場で待っている。五分以内に来い」
一時間後、産婦人科の超音波検査室で、赤ちゃんの小さくも力強い心音が聞こえた時、颯人の表情はようやく和らぎ、顔つきも穏やかになった。
奈々の心はその瞬間に温かさで満たされた。颯人がエコー画面に集中している隙に、こっそりスマホを取り出してメッセージを送った。
【鈴木教授、今月末は行けなくなりそうです】
すぐに返信が来た。
【枠は月末まで確保しておくから、よく考えなさい】
奈々は「もう考える必要はありません。今、私は幸せですから……」と入力しかけたが、颯人が突然口を開き、メッセージを送信できなかった。
「見舞いの品と果物を選んで、一緒に詩織の見舞いに行くぞ」
十五分後、腫瘍科の病棟。
颯人が病室のドアを開けると、詩織は飛ぶように彼に駆け寄り、抱きついてきた。
「颯人くん!」
しかし、彼の背後にいる奈々に気づくと、詩織ははっとしたように動きを止め、気まずそうに呟いた。
「ごめんなさい……颯人くんが来てくれたのが嬉しくて……」
「構わん。こいつには気にしなくていい」
颯人は奈々に見向きもせず、慣れた手つきで詩織をベッドに座らせると、言葉を選びながら話し始めた。
「今日来たのは、君に相談したいことがあるんだ。
子供を産むことにして、鍼の治験は中止することに決めた。だが、必ず別の方法を見つけて君を治す。詩織、俺を信じてくれ」
詩織は驚いた表情で、奈々のまだ平らなお腹をじっと見つめた。
そして涙を浮かべながら颯人の肩にもたれかかった。
「颯人の気持ちは分かるし、信じてる。
もしこの子を犠牲にするなら、私の生きる日々は全て借り物のように感じるわ。
あなたがそう決めてくれて、私も安心しているの」
「詩織、そんなに我慢しなくていいんだ……」
颯人は目を潤ませながら言った。
二人は奈々の存在など気にせず、強く抱きしめ合った。まるで命懸けで愛し合いながらも、残酷に引き裂かれた恋人同士のようだった。
奈々は胸が痛み、顔を背けた。
心の中でどうしても理解できなかった。
颯人は紛れもなく自分の夫なのに、なぜ自分が他人の幸せを奪った悪役のように扱われるのだろう。
「颯人くん、お腹すいた」
詩織の一言で、颯人はすぐに立ち上がって世話を焼き始めた。
彼が病室を出て行くとすぐ、詩織は奈々に言った。
「悪いけど、水を一杯持ってきてちょうだい」
奈々はがん患者である詩織の頼みを断れず、水を汲みに行った。
だが、背を向けた瞬間、突然背後から強く押され、頭を棚の角に激しく打ちつけた。
詩織の甲高い悲鳴とともに、部屋を出たばかりの颯人が血相を変えて駆け戻ってきた。
奈々は目の前がチカチカして、颯人に手を伸ばし、助けを求めた。
「颯人、頭がくらくらする……」
しかし颯人は、床に倒れ血を流す奈々を無視し、詩織のそばに駆け寄った。
「何があった?」
奈々は体から温もりが抜けていくのを感じ、ふらりと頭を傾げ、意識を失った。
次に目を開けた時、真っ白な病室の天井が目に入った。
奈々が目覚めたのを見ると、颯人は開口一番、非難するように言った。
「詩織が無事だったからよかったものの、もし彼女に何かあったら、絶対にお前を許さなかったぞ」
奈々のぼんやりした視線がゆっくりと焦点を結び、美しい瞳に深い戸惑いの色が浮かんだ。
「詩織って……誰ですか?その人がどうなろうと、私に何か関係があるんですか?」
第6話
奈々の記憶喪失を前にしても、颯人は平然としており、まるで全てを見透かしているかのようだった。
「この鍼法は六年かけて研究してきた。リスクや副作用はすべて記録してあるが、記憶を失うという症状は一つもない」
颯人の皮肉めいた声はますます冷たくなった。
「お前の記憶喪失の芝居はやりすぎだ。本気でやるなら、俺のことも忘れたことにしてみろよ」
彼は未練なく背を向けて病室を出て行き、奈々はめまいと頭痛に苦しみながら、ぼんやりと残された。
しばらくして、颯人はスープの入った椀を持って戻ってきた。
「子供のことを免じて、一度だけチャンスをやろう。
今後、もしまた詩織に何か企んだりしたら、必ず後悔させてやる」
颯人は奈々をじっと見つめたが、彼女の顔に悲しみや苦悩の色は微塵も見られなかった。
奈々の澄んだ瞳はテーブルのスープ椀だけをじっと見つめ、静かに言った。
「私はセロリも刻みねぎも苦手なの」
一瞬呆気に取られた後、颯人はまるで尻尾を踏まれた猫のように身を強ばらせた。
「じゃあ自分で好きなものを頼め。退院の時に迎えに来る」
慌てて立ち去る彼の背中を見送りながら、奈々は独り言のように呟いた。
「どうしても思い出せない。そもそも、なぜ私は颯人と結婚したんだろう?
どう見ても、彼は私を愛していないみたいだ」
翌日、産婦人科。
わざわざ奈々を迎えに来た颯人だったが、病室は空っぽで、彼は呆然と立ち尽くした。
「何だって?彼女が自分で退院したって?」
去り際に、退院時には自分が迎えに行くと奈々に伝えたはずだ。
以前なら、たとえ真冬の深夜二時でも、凍えるほど寒い中でも、奈々はおとなしくロビーで彼を待ち、一緒に家に帰ったものだった。
その頃、奈々のスマホからは備忘録の音声通知が流れていた。
「星市へ行くまであと十二日。荷物を整理し始めなきゃ」
スマホを操作すると、何百もの録音を保存していることに気づいた。
「颯人は朝食にうどんが好きで、調味料は控えめで、ねぎをたっぷり入れるのが好み。
今日、うっかり忘れて自分好みに醤油をたくさん入れて、ねぎを入れなかった。彼は一口も食べずに、空腹のまま不機嫌そうに出勤してしまった」
その録音に込められた心配さと罪悪感が、画面越しに奈々の胸に突き刺さった。
次の録音は、まるで世話焼きな母親の小言のようだった。
「洗濯室の左上の棚に、颯人専用の『ピュアソープの香り』の洗剤がある。
毎回キャップ一杯分を入れて、同じ香りの香り付けビーズを二粒加える。
強すぎず弱すぎず、彼が一番気に入ってる香り」
治験で記憶を失いながらも、必死に颯人の要求に応えようとしていた自分を思い、奈々は拳を固く握りしめた。
「私、妊娠したの。この子は、私にとってこの世でたった一人の家族。
どうすれば颯人を説得して、この子を産ませてもらえるんだろう。
たとえ私がこの子の代わりに、自分の寿命を三十年、詩織に差し出したって構わない」
最後の録音は今朝のもので、明るく喜びに満ちた声だった。
「颯人がこの子を産むことを許してくれた。
自分から産婦人科に連れて行って、母子手帳の手続きもしてくれるって。
赤ちゃん、頑張ってね。もうすぐ会えるよ」
まさか、この結婚生活で、彼女がこれほど自分を押し殺し、一歩間違えば全てが崩れるような恐怖の中で愛を捧げてきたとは……
複雑な思いでお腹を撫でていると、突然颯人から電話がかかってきた。
「今夜、家で食事する」
その夜、銀色の月光が窓から差し込む中、颯人が電気をつけると、食卓には三品の料理とスープがきれいに並んでいた。
しかし、どれも冷め切っていて、誰も手をつけていなかった。
ソファにうずくまっている奈々を見て、颯人はどこか不機嫌そうな、複雑な表情で言った。
「詩織のところで急用ができて、対応していたら遅くなった。どうして先に食べていなかったんだ?」
奈々は静かに問い返した。
「それなら、なぜ早く言わなかったの?」
颯人は理解できないといった様子で、疲れた声で言った。
「俺がいつも忙しくて手が回らないのは今に始まったことじゃない。
今日初めて知ったわけじゃないだろう?」
だが今回は、奈々はかつてないほど冷静な眼差しで彼を見つめ、静かに言い返した。
「いつもそうだからといって、それが正しいということになるの?」
第7話
颯人は一瞬言葉に詰まり、喉に何かが引っかかったような感覚に苛立ちを覚えた。
しばらく我慢した末、冷たく言い放った。
「もう疲れてるんだ。お前のわがままに付き合う暇はない」
彼はドアをバンっと閉めて出て行きながら、心の中で「5、4、3……」とカウントダウンし始めた。
以前の奈々なら、颯人が怒った顔を見ると、たとえ裸足でも必死に駐車場まで追いかけてきたものだった。
エレベーターが到着する音と共に、颯人は自信を持って最後の数字まで数え終えた。
しかし、廊下は静まり返っており、自分の呼吸音しか聞こえなかった。
奈々が何か用事で来られないのかと思い、颯人はわざとしばらく長く待ってみた。
二分経っても何も起こらず、彼は苦虫を噛み潰したような顔でエレベーターに乗り込みながら呟いた。
「奈々、いつまでその芝居を続けるつもりだ」
その後、颯人と奈々の冷戦はこれまでにない十日間も続いた。
彼は毎日、少しでも時間ができるとスマホを確認したが、奈々からの連絡は一切なかった。
颯人の顔色は日に日に険しくなっていった。
彼の様子に気づいた時宗が、からかうように言った。
「先輩、どうしても気になるなら一度家に帰って様子を見てきたらどうですか?
奥さん、妊娠中なんですから」
奈々と連絡が取れない期間があまりにも長く、颯人が帰るべきかと考え始めた矢先、まるで思いが通じたかのように奈々から電話がかかってきた。
受話器越しに、奈々の慌てた声と申し訳なさそうな口調が聞こえてきた。
「ごめんなさい、颯人。
実は……前から時々記憶が曖昧になることがあったんだけど、あの日病室で頭をぶつけてからひどくなって、今日やっと少し落ち着いたの。
私があんな態度を取るべきじゃなかった。お昼に帰ってきて食事しない?」
颯人の表情はすぐに和らいだものの、声のトーンはまだ少し冷たかった。
「もう我慢できなくなったなら素直に謝ればいい。妊娠してるんだから、今回は大目に見てやる。
わざわざ記憶喪失なんて嘘をつかなくていい。そんな下手な芝居で俺は騙されないし、お前自身が惨めになるだけだ」
奈々は一瞬黙った後、重い口調で答えた。
「わかったわ。じゃあ、仕事が終わったら早く帰ってきてね」
正午の十二時半、颯人が家に帰ると、奈々はキッチンで忙しそうに料理をしていた。
彼女は白いTシャツを着て、高くポニーテールに髪をまとめていた。
全身から清潔感と爽やかさがあふれ、まるで朝焼けが差し始めた光のように美しかった。
ちょうどその時、奈々はスペアリブを一口食べて、満足そうに目を細めた。
「おかえりなさい」
奈々は颯人に気づくと、目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
なぜか颯人の心臓が一瞬ときめき、しばらくしてから「ああ」とだけそっけなく答えた。
奈々はスペアリブを箸でつまんで颯人の口元に持っていった。
「あなた、濃い味付けは苦手よね。
これは私特製の塩だけで味付けしたスペアリブよ。あっさりしてて臭みもないから、食べてみて」
颯人が口を開けようとした瞬間、けたたましいスマホの着信音が鳴り響いた。
彼はリビングに行って電話に出ると、戻ってきたときには何か考え込んでいるような表情をしていた。
その頃、奈々はもう食卓に料理を並べ終えていた。
「手を洗って、ご飯にしましょう」
二人が食卓で向かい合って座ると、颯人は突然沈んだ声で言った。
「一度子供ができたんだから、またできる。後で病院に行って、検診を受けよう」
奈々はその言葉のつながりに少し違和感を覚えたが、深くは考えず「いいわ」と答えた。
車がしばらく走ったところで、彼女はふと気づいた。
「これ、東洋医学クリニックに行く道じゃない?」
「さっき時宗から電話があって、詩織の容体が悪化したそうだ。とりあえず様子を見に行こう」
なぜか颯人の声に苦しさが滲んでいて、奈々の胸に不吉な予感が広がった。
そして、二人が東洋医学クリニックに着いたとき、目の前に広がっていたのは惨状だった。
詩織は顔も体も血まみれで、力なく椅子に崩れ落ち、床には真っ赤な血が広がっていた。
「颯人くん……」
詩織は赤く腫れた目でかすれた声で呼びかけた。
しかし言葉を続けることもできず、彼女は唇を押さえて大量の血を吐き出してしまった。
第8話
潔癖症の颯人は、血だらけの床に構わず跪き、声を震わせた。
「どうして急にこんな状態になったんだ!」
詩織は悲痛な表情で首を振った。
「私に生きる望みはほとんどないの。
颯人くんに自分の子供を失ってほしくなくて……薬を止めたの。
こうして静かに去って、もう誰の重荷にもなりたくなかった」
颯人は拳を指の関節が白くなるほど強く握りしめて呟いた。
「なんて馬鹿なことを……」
彼は拳を開いては握り、何か決意を固めたように言った。
「時宗、ちょっと来てくれ」
二人は診療室に入り、ドアを閉めて会話を遮断した。
詩織はそれまでの弱々しい様子から一変し、険しい表情で奈々に言い放った。
「あんたがどれだけ颯人のために尽くしたって、彼の心の中にいるのは私だけよ。
信じられないなら、私とあんたたちの子供の間で、彼がどんな選択をするか見ていればいいわ」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、診療室のドアが勢いよく開けられた。
「だめです!それは危険すぎます。
万が一のことがあれば、子供だけでなく奥さんの命も危ないんです!」
時宗の強い抗議に、颯人は断固として言い切った。
「俺の子供だ、俺の妻だ。彼女が同意するなら、お前に口出しする権利はない」
奈々は深い絶望に沈み、喉に詰まる嗚咽を必死に抑えた。
生まれて初めて、彼女は颯人に反抗した。
「この子は、私の子供でもあるのよ……」
颯人は深く息を吸い込んだ。
「あの時、自分から俺に嫁ぎたいと言って、『あなたの仕事を全力で支える』と約束したじゃないか。最初からずっと嘘だったのか?」
奈々は一瞬にして力が抜け、彼に診察台に寝かされるままになり、涙ながらに懇願した。
「お願い、希望を与えておいて、また無情にもこの子を奪わないで……」
しかし颯人は聞く耳を持たなかった。
「今回は前より痛むぞ。我慢しろ」
数本の鍼が打たれただけで、脳神経を鋭いもので掻き回されるような激痛が走った。
頭と下腹部に耐え難い痛みが襲い、奈々は唇を噛みしめ、喉に血の味が広がった。
下腹部から温かいものが流れ出し、それが血なのか痛みによる失禁なのか、区別がつかなかった。
颯人はそれを見て顔色を変え、手を震わせながらも、充血した目で歯を食いしばって鍼を打ち続けた。
痛みで意識が朦朧とする中、奈々は叫んだ。
「痛い……どうしてこんな残酷なことができるの?
颯人はいつも人々を救おうとしているじゃない。どうか、私も救って……」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした彼女を、時宗は赤い目で見ることができず、顔を背けた。
「今日、私はきっぱりとあなたから離れるべきだった……」
彼女は弱々しく呟いた。
「もっと早く見切りをつけていれば……」
颯人は目を閉じ、歯を食いしばり、最後の鍼を打ち込んだ。
激痛を伴う鍼の実験が終わり、虚ろな表情の奈々は呆然と身を起こした。
「成功だ。詩織と他の脳腫瘍患者たちは助かる」
時宗の声には喜びはなく、淡々としていた。
だが、颯人の青ざめた顔には、喜びの色は微塵も見えなかった。
「高橋くん、どうしてここにいるの?
今日は学校休みなの?」
奈々の混乱した視線に、颯人は目を赤くして言った。
「奈々、これが最後だ。
もう二度と治験はさせない。だからもう芝居はやめてくれ。
時宗に産婦人科へ送らせる。おとなしく休んで俺を待っていてくれ」
子供と引き換えに完成させた鍼法で詩織を治療した後も、颯人の胸には言いようのない不安が渦巻いていた。
午前二時、彼は急いで病院に駆けつけたが、医師からの言葉は冷たかった。
「佐藤さんは掻爬手術を終えて退院されました」
子供が助からないことは分かっていたが、「掻爬手術」という言葉を聞いた瞬間、颯人の心臓は強く締め付けられるように痛んだ。
急いで家に帰ったが、奈々の姿はなく、リビングのテーブルの上には、ガラスのコップで押さえられた離婚協議書だけが置かれていた。
信じられない光景を前に、颯人の心の底から恐怖が広がっていった。
震える手でスマホを取り出し奈々に電話をかけると、着信音はダイニングテーブルの方から聞こえてきた。
颯人はぎこちない足取りでそちらへ向かい、彼女が残した最後の音声メモを再生した。
「この五百件以上の録音は、颯人、そして、かつて卑屈に愛を求めた奈々に残すもの」