その愛は賞味期限切れ

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その愛は賞味期限切れ

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白洲直人(しらす なおと)を十年間追い続けて、もう本当に飽き飽きしてしまった。 彼を諦めて、私を想ってくれる藤木一樹(ふじき かずき)と...

Chương (1)

第1章

白洲直人(しらす なおと)を十年間追い続けて、もう本当に飽き飽きしてしまった。 彼を諦めて、私を想ってくれる藤木一樹(ふじき かずき)と付き合うことにした。 一樹は街中で一晩中花火を打ち上げて、島を一つ買い取り、私にプロポーズしてくれた。 だけど、結婚式の前夜に彼は突然姿を消した。 彼を見つけた時、ほかの人にこんなふうに嘲笑っているのを聞いてしまった。「白洲直人を苛つかせたくて、わざと樋口清香(ひぐち さやか)を口説いたんだよ」 「手に入れたら、かえってつまらなくなった」 「でも引き下がるのも癪だから、結婚式から逃げて恥かかせるのって面白くない?」 だから私が先に逃げた。彼を街中の笑い者にしてやった。 その後、プライドの塊だった藤木家の御曹司が、西京中を探し回っても、行方不明の花嫁はついに見つからなかったらしい。 第1話 結婚の一ヶ月前、私の婚約者・藤木一樹(ふじき かずき)が失踪し、街中を探し回ったが見つからなかった。 彼が消えて七日目、名井市に現れたという知らせが届いた。 私はその夜の便で飛んだ。 そして、ある一艘の船の上で、ようやく彼の姿を見つけた。 ドアをノックしようとしたその瞬間、中から彼の嘲るような声が聞こえてきた。「白洲直人(しらす なおと)を苛つかせたくて、わざとあの樋口清香(ひぐち さやか)を口説いたんだよ」 「手に入れたら、かえってつまらなくなった」 私は足を止めた。 彼は酔っている様子はなく、むしろ驚くほど冷静な声だった。 だからこそ、さらに容赦ない言葉が彼の口から続いた。「それに、あいつと寝てみたけど、まあ……大したことなかったな」 部屋の中からは、くすくすと含み笑いが漏れた。 「さすが一樹さん、高嶺の花を落としただけあるっすね」 お世辞に気を良くしたのか、一樹は満足げに煙をくゆらせながら、さらに口を開いた。「白洲を追ってた頃の清香なんて、命懸けだったのにな。めっちゃ純情なんだよ。ほんと、もったいなかった……」 「何がもったいないんですか?」 そう誰かが尋ねると、一樹はふうっと長く煙を吐き出した。「俺があいつの初めての男だったけどさ、最初に好きになった男じゃないんだよな」 「十年も白洲に惚れてた女だぜ。そんな簡単に気持ち切り替えられると思うか?」 「もし白洲とあそこまで敵対してなかったら、清香を追いかけて嫌がらせしようなんて思わなかった。わざわざ陰から見守る一途な男なんて芝居、する必要もなかったんだ」 誰かが冗談混じりに言った。「三年も付き合っておいて、今さら何を嘆いてんっすか、一樹さん?」 一樹は苛立ったように顔をしかめ、冷たい声で答えた。「長く追いかけた分だけ、引き下がるのが悔しいんだよ」 人混みの中から、また別の声が飛んだ。「清香、あちこち探し回ってもう狂いそうだってさ。何日も姿くらまして、大丈夫なの?」 一樹は一本煙草を吸い込み、ふっと煙を吐きながら、鼻で笑った。「結婚式すっぽかして恥かかせるって、最高に面白いじゃん」 その顔に、後悔も、憐れみも、愛しさもなかった。 あったのは、積年の恨みを果たした男の、ゆがんだ達成感だった。 ずっとこの瞬間を待っていたんだと、そう言わんばかりの目だった。 指先は無意識に掌を掴み、心臓は針で突かれたみたいに痛くて、呼吸すらままならなかった。 私は、ずっと思っていた。一樹こそが、私を救ってくれる人で、私の物語の終着点だって。 彼に対する気持ちが、ただの感動なんかじゃなくて、ちゃんと好きなんだと確かめたうえで、私は彼の想いを受け入れた。 あの日、彼は嬉しそうに、街中で花火を打ち上げた。 付き合って三年。彼は私の名義で島を一つ買い、プロポーズしてくれた。空には、無数のスカイランタンがふわりふわりと舞っていた。 それが愛だと、ロマンチックだと思った。 けれどまさか、それが全部、直人への復讐のための芝居だった。 あの十数年にわたる優しさも、支えも、全部演技だったの? ぼんやりとした意識の中で、ふと昔の記憶がよみがえった。 十二歳のとき、南の小さな町から樋口家に引き取られた私は、不安でいっぱいで、自信もなく、臆病だった。 あの頃、直人がただ一度、私をいじめから庇ってくれただけで、私はどうしようもなく、彼に恋をしてしまった。 それからは、誰もが知るほどに彼を追いかけた。 でも、彼は私を心の底から嫌っていた。 やがて私は、そんな恋に意味を見出せなくなって、ようやく彼を諦めた。 そのとき気づいたのが、ずっと私のそばにいて、黙って見守ってくれていた一樹の存在だった。 あの夜、ひどい雨が降っていた。彼は一言も文句を言わず、ずっと私に傘を差し続けてくれていた。 第2話 彼は言った。「清香、お前が俺を見てくれることなんて望んでない。ただ、お前がこれからは自由に、心のままに生きていけたらそれでいい」 なんて、滑稽な言葉だろう。 私は心の奥底まで掃き清めて、一樹を迎え入れた。 彼の優しさに、少しずつ少しずつ、沈んでいった。 やがて、彼との未来を甘く思い描くようになっていた。 まさかそれが、私の心をゆっくり切り裂く機会を、彼に与えてしまっていたなんて。 一撃、また一撃。 血まみれになった。 鼻の奥がつんと痛み、目にはどうしても抑えきれない苦しさがにじんだ。 一粒の涙がこぼれ落ち、私はそれをすぐに指で拭った。 船室の中では、まだ声が続いていた。誰かが彼に、あろうことかアドバイスをしていた。「女を本気で報復するならさ、一番幸せな瞬間に奈落に突き落とすのが一番だよな?」 「そうそう。だから一樹さんは戻るべきなんすよ。彼女と一緒にドレスを選んで、招待状も一緒に配って、全部完璧に演じきる。で、式当日、彼女をひとり取り残す。間違いないっすよ、清香は絶対に壊れるって」 室内には、下品な笑い声が充満していた。 私はこみ上げる吐き気を必死に堪えながら、一樹の返事を待った。 どうか、どうか彼の口からこう言ってほしかった。「くだらないことを言うな、俺は清香を愛してる」と、 あるいは「女の子に対してそれはやりすぎだ」など。 でも、長い沈黙の後に聞こえてきたのは、冷たく落ち着いた一樹の声だった。 「うん、その考えはいいね。そうしよう」 果てしない怒りが、胸の奥で膨らみ続け、息ができなくなりそうだった。 私は無理やり笑みを引きつらせた。けれど、涙は構わず頬を伝って落ちていく。 一樹、遊びのつもりだったのね? いいわ。だったら、私もとことん付き合ってあげる。結婚式のその日、私が姿を消した時、そのときあんたがどんな顔をするのか、私も楽しみにしてる。 私は名井市へ行った痕跡をすべて消して、一樹との新婚用の部屋に戻った。 彼がここ数年、私に贈ってくれたプレゼントをひとつひとつ取り出し、全部ハサミで切り裂いていった。 本当に、不思議だった。 何も考えていないはずなのに、なぜこんなにも涙が止まらないんだろう。 昔、誰かが言っていた言葉を思い出す。 失恋はリウマチみたいなもの。昼間は何も感じないのに、 夜になると湿気が骨に染みて、心の奥が疼く。 きっとこれは、私の禁断症状なんだ。 私は立ち上がって、オーダーメイドのウェディングドレスをそっと床に広げた。 そして、無表情のまま、ハサミで一文字に裂け目を入れた。 自分に言い聞かせる。 感情もまた、一度ひびが入ってしまえば、どれだけ丁寧に繕っても、もう最初のかたちには戻れない。 私はすべてを片づけて、それらの品を書斎にしまった。一樹はそこへほとんど足を運ばない。 眠る気にもなれず、ベッドに横になったままショート動画を眺めていると、「知り合いかもしれない人」として、あるユーザーが目に入った。 『一樹を愛する私』という名前だった。 なぜだか分からない。けれど私は、気づけばそのプロフィールを開いていた。 それはある女の子が、ある男に片思いしている様子を綴った記録だった。 最新の投稿には、位置情報が「名井市」となっていた。 そして、こう書かれていた。【十年想い続けた人が、来月結婚するの。思いきって告白してみたい。応援してね】 添えられていた写真の中に、私は見覚えのある手を見つけた。 薬指には、結婚指輪がはめられていた。 ……それは、一樹だった。 私は一樹からの連絡を待っていたけれど、結局何も届かなかった。代わりに、直人から電話がかかってきた。 「名井市で、誰に会ったと思う?」 「直人、私には関係ないわ。番号変えてまで電話してこないで」 電話を切ろうとしたその瞬間、彼の声に含まれた、抑えきれない得意気な響きが聞こえた。 「清香、藤木がなんでこんなに長く消えてたか、まだわからないのか?彼はお前と結婚したくなかったんだよ。お前が俺を追いかけてた過去を、ずっと気にしてたんだ」 「あいつはただ、俺に復讐するためにお前に近づいただけだ。最初から、信頼なんてできる男じゃない」 「……で、あんたは何が言いたいの?」私はだんだんと、苛立ちを隠せなくなっていた。 「清香、少なくとも俺のそばには、十年も俺を好きでいてくれたお前以外、他の女なんていなかった……」 第3話 私は勢いよく体を起こし、声を張り上げた。「直人、あなたはわざとやったのね?」 「五年経ってもまだ、私と一樹の関係を壊すことにそんなに夢中なの?」 「でもね、はっきり言っておく。どんな結果になろうと、これは私の選んだ道よ。賭けた以上、負けても悔いない。絶対に振り返ったりしない」 直人は一瞬沈黙したあと、質問には答えず、まったく別のことを口にした。「メッセージを送った。きっと気になると思う」 電話を切った直後、一本の動画が届いた。 薄暗い照明の中、ひとりの女の子と一樹が向かい合って立っていた。 彼は煙草の煙をくゆらせながら、いつも通り気だるげな表情を浮かべていた。 周囲の囃し立てる声に乗せられるように、その女の子はつま先立ちになり、彼の唇にキスをした。 そして彼は、それを避けなかった。 動画はそこで終わった。 私はその女の子のSNSアカウントを開いた。 投稿はすでに更新されていた。【大成功!】 添えられていたのは、彼とその女の子がキスしている写真だった。 胸がむかついた。私はこみ上げる吐き気に襲われて、トイレへ駆け込んだ。便器を抱えて、長いあいだえずき続けた。 そしてふと思い出した。今日一日、私は何も口にしていなかった。吐き出せるものなんて、何もないじゃない。 今、胃の痛みで私は痙攣を抑えられなかった。 そのままどうにかベッドまで戻り、私は身体を丸めて、痛みに耐えながら眠りについた。 ふと、一樹と付き合い始めたばかりの頃のことを思い出した。 真夜中にふと「山の上から星を見たい」なんて言い出した私に、一樹は何ひとつ聞かず、私のわがままをそのまま受け入れて、車を走らせてくれた。 夜の涼しい空気の中、彼はそっと私を抱きしめ、体温が私にじんわりと伝わってきた。そして、少し身を屈めて、ためらうように囁いた。「月がこんなに綺麗なんだから、清香……キス、してもいい?」 もう、あの頃には戻れない。 うとうとと眠りについた深夜、リビングから物音がした。 私は冷や汗がにじんで、身体を起こす力すら湧かなかった。 次の瞬間、寝室の明かりがぱっと点いた。 まぶしすぎて、目を開けることができなかった。 一樹の焦った声が伝えた。「清香、どうしたの?」 朝7時、私は病院のベッドで目を覚ました。 隣では一樹が私の手を握っていた。その顔はやつれきっていて、どうやら一晩中つきっきりだったらしい。 彼は立ち上がって水を注ぎ、口調を荒げた。「俺がいない間に、自分の身体をこんなに酷使してどうするんだよ?胃が弱いの、知ってるだろ?死ぬつもりだったのか?」 彼は私を問い詰めた。 なんて滑稽なんだ。 この一週間、私は彼を探して、食事も喉を通らず、夜も眠れなかった。体重は2.5キロも落ちていた。 私はずっと思ってた。きっと一樹は、仕事で誰かに恨みでも買って、拉致されたんじゃないかって。 心配と不安で、毎晩眠れず、枕を濡らすほど泣いていた私。 でも彼はその間、何事もなかったかのように別の場所で気ままに過ごし、女の子とキスまでしていた。 「黙ってるの?」一樹は目を細めて笑いながら、私の頬を軽くつねった。「ほら、どうせ俺が罰するってわかってるんだろ?」 「さあ、起きて何か食べなさい」 「旦那が帰ってお粥を作ったんだ、一晩中寝ないでね」 まるで何もなかったかのように、彼は私を優しく起こして、スプーンで一口ずつ食べさせてくれた。 何度か口を開きかけた。聞いてみたくて仕方なかった。 一樹、そんなに芝居をして疲れないの? あなたたちの会話、全部聞こえてたよ。結婚したくないなら、すぐにやめればいいじゃない。式なんて中止できるし、入籍もしてないんだから。 でも、何も言わずに飲み込んだ。 本当は私だって知りたかった。こんなにも長く愛してきたのに、なぜ彼は、こんな残酷なことを私にするのか。 ただ昔、別の人を好きだったという理由で、私は愛される資格すらないっていうの? 「清香、どうして泣いてるの?」 お椀をそっと置いた彼は、あたふたと私の頬の涙を指で拭った。「ごめん、ごめんな、俺が悪かった。な?許して?」 私は視線を落とし、そっと目を閉じた。そして次の瞬間、私は一樹の腕の中に抱きしめられていた。 彼は私の背中を優しく撫でながら、語り始めた。「ごめんね、清香。心配かけてしまって」 「ただ……清香と結婚できるってわかったとき、嬉しすぎて、ちょっと信じられなかったんだ。まるで夢みたいで……だから、少しひとりになって頭を冷やしたくて。前もって言わなくて本当にごめん。許してくれる?」 第4話 嘘だ。 「あと二十日で結婚だろ?その間はずっと家にいるよ。清香を世界で一番綺麗な花嫁にするから。な?」 でもね一樹、私たちにはもう未来はない。 そう言いながら、彼は指の腹で私の頬に伝った涙をそっと拭った。 その魅惑的な瞳でじっと見つめられると、まるで心の底から私を想っているように錯覚してしまいそうになる。 「ちょっとタバコ吸ってくる。もう少ししたら退院な」 一樹は、私のことをあまりにも安心しきっていたのかもしれない。 あるいは、私が深く追及するのも恐れていない。だって今の彼は、あの晩、友人たちと語っていたとおりの芝居をただ淡々とこなしているだけなのだから。 だから私は、彼のスマホに次々と通知が表示されるのを見て、そのまま手に取った。 パスワードは私の誕生日。 ずっと前から知っていたけれど、一度も開いたことはなかった。 画面には、「桃の花」という名前の女の子からの大量のメッセージが並んでいた。 追加されたのは、昨日だった。 【一樹さん、こんな遅くまで起きてて大丈夫?早く休んでね】 【結婚するって聞いたよ。私にも招待状送って?幸せのおすそ分けしてほしいな】 【さっき飛行機降りた時、お腹押さえてたけど、大丈夫?】 【夜通しあなたのために粟粥を作ったよ、胃にいいの!私を褒めて!】 それまでのメッセージには一切返信がなかったのに、この一通だけに、彼は返事をしていた。 【この住所に持ってきて】って。 私はふと横目で、テーブルの上に置かれたピンク色の魔法瓶を見た。その瞬間、また吐き気がこみ上げてきた。 その後も、女の子からのメッセージは続いていた。 【体調悪いの?大丈夫?私、病院にいてあげようか?】 【お粥がなくなったら、また作るよ】 【一樹さん、体に気をつけてね】 【ロビーで一晩中座ってたら、足がしびれちゃったし、生理でお腹すごく痛い……】 私はスマホの電源を落とし、メッセージを未読に設定してから、 静かにベッドを降りた。 ロビーに出ると、思ったとおりの光景が広がっていた。一樹と、 昨日見たあの女の子。 人ごしに、ふたりの姿がよく見えた。私は何も言わず、ただじっとその様子を見つめていた。 彼らは笑顔で話し込み、女の子は手を大きく動かしながら楽しそうに喋っていた。ポニーテールが、会話のたびにぴょんぴょんと揺れていた。 何を話しているのかは分からない。でも、彼女がふと口を尖らせてお腹をさすり、その仕草に一樹が優しく手を伸ばし、まるで自然なことのように、彼女の髪を撫でたの。 一瞬、まるで自分が他人の恋を盗み見る浮気相手にでもなったような気がした。 昨夜のキス、そして今日の髪を撫でる仕草。 どうやら、一樹はあの子のことがかなり好きなんだろう。 まあ、無理もない。 自分に何も求めず、黙って尽くしてくれて、目に映るのは自分だけ。そんな存在を、好きにならない人なんていない。 私は自嘲気味に、小さく笑った。 そして踵を返して角を曲がると、そこに直人がいた。 彼は影の中から現れ、鋭い目で一樹の方を睨みつけながら言った。「これがお前が選んだ俺のライバルか?」 私は彼をまっすぐ見返した。「勘違いしないで」 「清香、どうしてあの時、俺を追いかけるのをやめた?」 なんだろう、この質問。私は十年も、彼だけを見てきた。それでも、まだ足りなかったの? 私が追いかけるのをやめた途端、彼はやたらと存在をアピールしてくるようになった。 たぶん、彼も本気で私を想っていたわけじゃない。一樹と同じ。ただ、惜しいと思っただけ。 「それでも結婚するのか?」直人が聞いた。 私は唇の端を引き、無表情で答えた。「あなたとは関係ない」 「あなたのことなんて、もうとっくに諦めた。本当に、本当に、顔も見たくない」 私は彼の隣をすれ違うようにして歩き出した。 背後から、直人の声が追ってくる。「彼にもう別の女がいても、それでも大丈夫っていうのか?」 大丈夫じゃないよ。私は胸のあたりをぎゅっと押さえた。 少し痛い。 でも、いつかきっと癒えるとわかってる。 あと二十日。清香、あとちょっとだけ、我慢しなさい。 一樹と一緒に家へ帰る道すがら、私はふと、オーダーメイドのウェディングドレスをうっかり壊してしまったと告げた。 「ねぇ……これって、何か悪いことが起こる前触れだったりしない?」 そう言いながら、私は彼の表情をじっと観察した。 ほんの少しだけ、眉をひそめた彼は、すぐにいつものように微笑みながら、私の手を握って言った。「じゃあ、明日また新しいドレスを見に行こうか」 第5話 あのウェディングドレスは、半年もかけてオーダーメイドしたものだった。私の一番好きなデザイナーにお願いして、世界にひとつだけのデザイン。 一週間前にようやく手元に届いて、着てみたらとても似合っていた。でもその時、ちょうど一樹は行方不明で、彼が私の花嫁姿を見ることはなかった。 もう、いらない。 後悔してるかって? してない。 一樹、遊びたいんでしょ?いいよ、まだこれからじゃない。 翌日、私たちは新しいウェディングドレスを選びに出かけた。けれど、既製品のドレスはどれもしっくりこなかった。 私はわざと、一日中一樹を付き合わせたのに、結局何も決まらなかった。 帰り道、車の中で私はわざとため息をついた。「残念だね。全部、私が不注意だったせい」 一樹は笑って言った。「大丈夫だよ。焦らなくていいから、ゆっくり探そう」 私はじっと彼の目を見つめながら言った。「ねえ……ドレスも壊れたし、もういっそ結婚やめようか?」 その瞬間、ブレーキが急にかかった。私は慣性で前に倒れ、一樹の手にぶつかった。 彼はすぐに私を庇い、支えてくれた。「大丈夫か?」 私は首を横に振ってから、 何事もなかったように言った。「どうしたの?冗談だよ」 彼は私の手をぎゅっと握りしめ、そのまま私を強く抱きしめた。「清香、こんな冗談、本当にやめて……俺、今日の日をどれだけ待ったと思ってるのか、わかってる?」 そうか? でも、一樹。これはあなたたちが最初から仕組んだことじゃなかったの? 私と一緒にドレスを選んで、招待状を書いて、思い出を作って、その最後に、私の心にナイフを突き立てる。 私はただ、あなたの舞台を整えてあげているだけ。 なのに、何を恐れてるの? その夜、家に戻ってドアを閉めた途端、靴を脱ぐ暇もなく、一樹は私を抱きしめて、玄関の棚に押しつけた。 熱を帯びた身体が私を包み込み、降り注ぐようなキスが次々と落ちてくる。 彼は感情を抑えきれず、焦るように私に触れてきた。 でも私は、そっと彼を押しのけた。「一樹……気分が悪いの。今日は、したくない」 その一言で、彼の身体がピタリと止まった。 緊張がそのまま彼の中に張りついて、私の顔に何かを探すように目を向けてきた。 しばらくの沈黙の後、彼は深く息を吐き、私をそっと抱き寄せた。そして手を優しく私の腹にあて、ゆっくりとさすった。「……胃、まだ痛いのか?」 私はうなずきも、首を振りもしなかった。 彼は私の髪にキスを落とした。「ちょっと座ってて。シャワー浴びたら、何か作ってあげる」 携帯電話の画面が、横で何度も点滅していた。 私はそっとロックを解除し、画面に浮かび上がった、あの女の子からのメッセージを見た。 【一樹さん、私の招待状まだ届いてないよ~おとなしく待ってるからね】 【そうそう、藤木おばさんが明日あなたの会社に行くようにって。私の履歴書、通ったんだよ~私って本当すごい!】 【すべてうまくいけば、毎日あなたに会えるね。それにお昼も届けに行けるし、私の手作りだよ】 私はその携帯電話を静かに元の場所に戻した。 そして、ベッドの横に置いていた結婚準備のノートを開いた。 ページの一番上に、今日の記録を書き足す。【結婚式まであと19日。今日は一樹と一緒にウェディングドレスを見に行った。どれも合わなくてちょっと残念。きっと、最近彼に会えなくて痩せちゃったからかな。でもね、そんなことどうでもいい。彼の花嫁になれるって思うだけで、心がいっぱいになる。彼も、私と同じ気持ちだよね?】 それから私は、ページをめくって、この数日間の空白を埋めるように書き足していった。 【結婚式まであと30日。一樹がいなくなった。どこにもいない。タブレットで、私たちの結婚式のプランを何度も見返して、一晩中泣いた。目が真っ赤に腫れた】 …… 【結婚式まであと20日。一樹が戻ってきた。私は本当に情けない。もしかして私が追い詰めすぎた?彼に結婚前の不安を与えてしまったのかもしれない。私のせいかも。でもね、ただ彼を愛しすぎただけなんだよ】