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初雪の日にあう君
「江崎さん、こちらはスイスの自殺ほう助機関ですが、12月25日の安楽死を申請されたのはご本人でいらっしゃいますか?」 江崎 瑠奈(えざき るな...
Chương (1)
第1章
「江崎さん、こちらはスイスの自殺ほう助機関ですが、12月25日の安楽死を申請されたのはご本人でいらっしゃいますか?」
江崎 瑠奈(えざき るな)のまつげがかすかに震えたが、声はとても落ち着いていた。
「はい」
「かしこまりました。申請はすでに承認されております。こちらから半月の猶予を差し上げますので、その間に後始末をお願いいたします」
電話が切れた直後、寝室のドアが勢いよく開かれた。
堀尾 修(ほりお しゅう)は冷たい風をまとって入ってきて、彼女を見るなり笑顔で美しく包装されたプレゼントを差し出した。
「瑠奈、誕生日おめでとう」
瑠奈は穏やかに微笑んだ。
「私の誕生日は、昨日だったよ」
修の動きが一瞬止まり、顔に戸惑いと気まずさがよぎった。
「ごめん、最近仕事が忙しくてさ……」
第1話
「江崎さん、こちらはスイスの自殺ほう助機関ですが、12月25日の安楽死を申請されたのはご本人でいらっしゃいますか?」
瑠奈のまつげがかすかに震えたが、声はとても落ち着いていた。
「はい」
「かしこまりました。申請はすでに承認されております。こちらから半月の猶予を差し上げますので、その間に後始末をお願いいたします」
電話が切れた直後、寝室のドアが勢いよく開かれた。
堀尾修は冷たい風をまとって入ってきて、彼女を見るなり笑顔で美しく包装されたプレゼントを差し出した。
「瑠奈、誕生日おめでとう」
瑠奈は穏やかに微笑んだ。
「私の誕生日は、昨日だったよ」
修の動きが一瞬止まり、顔に戸惑いと気まずさがよぎった。
「ごめん、最近仕事が忙しくてさ……」
そう言いながら、彼はしゃがんで手を伸ばし、彼女のふくらはぎに優しく手を当ててマッサージを始めた。話題を変えるように言った。
「今日、足はどう?」
力を入れすぎたせいか、彼の長い指は赤くなり、手の甲には浮き出た血管が目立っていた。
その手つきも力加減も専門的だったが、瑠奈は何の感覚もなかった。
返事がないことに気づき、修は顔を上げようとしたちょうどそのとき、ポケットの中のスマホが鳴った。
彼は画面を見て、登録された名前を確認した瞬間、思わず嬉しそうな笑みを浮かべた。
口に出しかけた言葉は頭の中から消え、彼はそのまま立ち上がり、一言だけ残して書斎へ向かった。
「ちょっと用事があるから、あとでまたマッサージするね」
瑠奈は何も言わず、静かに彼の背中を見送った。
彼の姿が完全にドアの向こうに消えても、彼女の脳裏には、さきほど彼が浮かべたあの隠しきれない笑顔がはっきりと残っていた。
それが仕事相手とのやり取りで出るような笑顔だろうか?
あんな心の底から嬉しそうな表情は、きっと「好きな人」を目の前にした時しか現れない。
あの笑顔は、彼女も何度も見てきたものだった。
高校時代の毎朝、彼女が慌ただしく牛乳を飲み終えて階段を降りると、目の前にはいつもあの笑顔の修がいた。彼は微笑みながら彼女に歩み寄り、重たいカバンを受け取り、彼女を自転車に乗せて一緒に登校していた。
あの頃、二人は18歳。まだ幼さの残る顔立ちに、青春のきらめきが宿り、互いしか見えていなかった。
幼い頃から一緒に育った二人は、まるで小説の定番のように、自然と惹かれ合って恋に落ちた。
学校にも親にも隠れて、こっそりと付き合い始めた。約束したのは、同じ大学に合格して、堂々と付き合おうという未来。
互いに支え合い、努力し、最終的に二人とも高得点で東大に合格した。
すべては順風満帆、完璧な未来のはずだった。
だが、事故が起こった。
入学の前日、二人は交通事故に巻き込まれた。危機が迫ったその瞬間、瑠奈は真っ先に修を突き飛ばした。
その日、彼は無傷で済んだが、彼女は両脚を失った。
泣きっ面に蜂とはこのことか。その年、彼女の両親は飛行機事故で亡くなり、あまりの出来事に心が耐えきれず、彼女はうつ病を発症した。
修は彼女を気遣い、大学を卒業するとすぐにプロポーズした。
絶対に君を裏切らない、と。そう誓ってくれた。
そして結婚してからの3年間、彼はその言葉どおりに過ごしていた。
……半月前に、彼の日記を見つけるまでは。
日々、彼女への愛を語っていた人は、日記ではその苦しみを吐き出していた。
そこにはこう書かれていた、
プロポーズは、義務感からのものだった。そうしなければ、世間から非難される気がした。
彼女と家にいると、息が詰まるような抑圧感に襲われ、彼女のそばにいる時間すべてが苦痛だと。
もし人生をやり直せるなら、彼女に助けてもらうくらいなら、むしろ自分が車椅子生活になっていた方がマシだった。少なくとも、こんな罪悪感に苛まれることもなかったと。
今、自分は別の女性に恋をしている。その子の名前は秋場 陽菜(あきば ひな)。情熱的で、明るく、太陽のような存在で、まるで事故前の瑠奈のようだった。
翌日、瑠奈のもとに陽菜からメッセージが届いた。
「修から聞いたけど、あんたの足って一生治らないんでしょ?これだけ長く付き合ってるなら、もう解放してあげられない?」
「知らないの?あんたのせいで彼、毎日すごく苦しんでるの。死にたいけど、死ねないの。瑠奈の面倒を見なきゃいけないって。とても可哀想だよ」
「私と出会わなければ、彼きっともう壊れてた。私は彼を大切に思ってるの。今、彼が好きなのは私。お願い、もう彼にすがらないで。離婚して、私たちの恋を応援してくれない?」
その後、一気に十数枚の親密な写真が送られてきた。
カメラの中心にいたのはすべて修。
彼は笑いながらコーヒーを淹れ、陽菜が自撮りを始めると顔を寄せてピースサイン。
山盛りのエビを剥いて、彼女の前に差し出し、指に付いたソースを丁寧に拭き取っていた。
海辺では、陽菜の足跡をなぞるように歩きながら、微笑んで大きな貝を彼女に渡していた。
写真を一枚ずつ見ていくうちに、瑠奈の胸は締め付けられ、息ができなくなった。ナイフで刺されたような痛みだった。
だが、もう涙は出なかった。
ただ空虚が広がっていた。
彼女はそのメッセージに返信しなかった。けれど、陽菜は止まらなかった。
それから毎日、新しい日常の写真が送られてきた。すべてに撮影日時の透かしが入っていた。
11月21日。夕陽の中、公園で二人は寄り添って歩いた。
11月26日。一緒に陶芸教室に行き、協力して花瓶を作った。
12月1日。コンサートに行き、音楽と未来について語り合った。
……
すべての写真の日時は、修が「残業中」と言っていた時間と一致していた。
そして昨日、彼女の誕生日。
彼女は一日中彼の帰りを待っていた。だが彼は、帰ってこなかった。
その理由は、陽菜と一緒に花火を見に行っていたからだった。
写真を見つめながら、瑠奈は笑って泣いた。
17歳の修は、17歳の瑠奈をあれほどまでに好きだった。
けれど、25歳の修は、もう25歳の瑠奈を愛してはいなかった。
その夜、彼女は窓辺に座って一夜を明かした。
そして翌朝、国外の自殺ほう助機関に資料を提出し、自らの人生に幕を引く申請をした。
【修、私にはもう、あなたしかいないの】
【でもあなたは、私をまるで化け物のように恐れている】
【だったら、もういい】
【あなたを解放する】
【そして、私自身も】
第2話
瑠奈は一人で長い間リビングに座っていた。夜になってようやく車椅子を押し、書斎の前まで移動して、ドアを軽くノックした。
修は電話を慌ただしく切って出てきた。
「瑠奈の誕生日、俺、勘違いしてたみたい。ちょうどもうすぐ結婚三周年の記念日だし、一緒にお祝いしない?君の行きたい場所なら、どこでも付き合うよ」
瑠奈は彼を一瞥し、静かに口を開いた。
「スイスに行きたいの。初雪が見たい」
その言葉を聞いて、修の目にかすかな驚きがよぎった。
「初雪?一ヶ月もすれば京ヶ原にも雪が降ると思うよ。家でお祝いしよう?瑠奈の足は不自由だし、そんな遠くまで行くのは大変だよ」
瑠奈は首を横に振った。めったにないことだが、彼の提案をはっきりと拒絶した。
彼女の命は、もう15日しか残されていなかった。一ヶ月後なんて、とても待てない。
彼女がそれほど強く望んでいるのを見て、修もそれ以上は何も言わず、素直にクリスマス当日のスイス行きの航空券を予約した。
瑠奈にはわかっていた。彼がきっと承諾してくれることは。
それは他でもない、彼の日記に何度も書かれていたからだ。
彼が陽菜とのデートから帰ってくるたびに、罪悪感に苛まれて、どうにかして彼女に償おうとする。
瑠奈はスマホを取り出し、時計のアプリを開いて、新しいカウントダウンを設定した。
タイトルは、
終わりのカウントダウン。
チケットを取り終えた修は、優しい笑顔を浮かべながら彼女を見た。その声には、どこか甘やかすような響きがあった。
「クリスマスのスイス行き、ちゃんと予約したよ」
瑠奈は彼の視線が自分の手元を通り過ぎ、何かを見たようでいて、結局そのまま何も気づかず目を逸らすのを感じながら、そっとうなずいた。
彼女の了承に安心したのか、修はそのままバスルームへと向かった。
その背中を見送りながら、瑠奈はふっと笑みを浮かべた。
昔なら、彼は彼女が何をしていてもすぐにそばに来て、首を突っ込み、あれこれ聞いて注意を引こうとした。
でも今は、スマホの画面に大きく表示された「終わりのカウントダウン」を彼の目が確かに通り過ぎたのに、何一つ気づかなかった。
やっぱり、もう愛されていないんだ。
お互い、見ているだけで疲れるようになったなら、それはそれで悪くない。
あともう少し。あと15日、我慢すればいい。
すべての痛みが、終わるのだから。
第3話
翌朝、瑠奈は早くに目を覚ました。
修が起きたのは10時ごろ。寝室から出てきた彼は、テーブルに向かって何かを書いている彼女の姿を見て、目をこすりながら近づいてきた。
ノートにはびっしりと文字が書き込まれていた。一行一行目で追っていくと、それが様々な「やりたいこと」であると気づいた。
一つ、実家に帰って、友達と集まること。
二つ、湖に行って、鳩に餌をやること。
三つ、バーで泥酔してみること……
「瑠奈、なんでこんなの書いてるの?」
瑠奈の手がぴたりと止まり、彼を一瞥して答えた。
「願い事リストよ」
その言葉を聞いて、修は何かを思い出したように目元に笑みを浮かべた。
「そういえば瑠奈、17歳の時にも願い事……」
そこで言葉に詰まり、バツが悪そうな顔をした。
瑠奈にはわかっていた。きっと彼は、自分が過去の話をされて嫌な気持ちになると思って、口をつぐんだのだ。
だがもう、彼女の心は過去に縛られてなどいなかった。むしろ、自分から話を続けた。
「うん、あの時私は『18歳までに叶えたい百のこと』って書いたんだ。バンジージャンプ、スキー、川下り、サーフィン……どれもめちゃくちゃだったよね。でも、もっとめちゃくちゃだったのは修の方。全部記録して、しかも私と一緒に体験してくれたよね」
彼女の懐かしむような口調を聞きながら、修の脳裏にも、色あせた記憶がいくつも浮かんできて、つい笑ってしまった。
「だって君のことが好きだったからさ。君が何をしようとしてても、ずっとそばにいたかった。君がそばにいるってだけで怖いものなんてなかった。何百メートルの高さからでも、目を閉じて飛び降りられたんだ……」
瑠奈は静かに彼のはしゃぐ顔を見つめていた。
やがて、彼の視線がふと彼女に戻ってきた瞬間、彼女はぽつりと、唐突に言った。
「こんなに楽しそうに笑うの、久しぶりに見たわ」
修の笑顔が、ふっと凍りついた。
空気が一瞬止まり、彼は話題を逸らすように言った。
「じゃあ、今回のこの願いも、俺が一緒に叶えてあげよう?」
瑠奈は首を横に振った。頑なな響きを帯びた声で言う。
「これは私の願い。修には関係ない。仕事で忙しいんでしょ、気にしなくていい」
なぜだろう、その淡々とした表情を見たとき、修の胸にかすかな痛みが走った。
何か言いかけたところで、電話が鳴った。
彼が画面を見ると、さっきまで消えていた笑みが再び浮かんだ。
「仕事電話だ」と一言残し、彼は瑠奈の顔を見ようともせず、そのまま部屋を出ていった。
その背中をぼんやりと見つめながら、瑠奈はしばし呆然とした。
昔の彼なら、彼女が「一人でやる」と言っても絶対に引き下がらなかった。しつこく粘って、強引にでもついてきたのに。
今はもう、すべてが違う。
彼はもう、説得すらしない。
心配とか、口先だけの優しい言葉さえかけてこない。
結婚は恋の墓場。
彼女は昔、それを信じていなかった。
けれど今は、その言葉の意味を痛感していた。
彼らの恋は、白髪になる未来にたどり着くことなく、その途中で息絶えてしまった。
少しずつ、完全にすり減って、疲労だけが残された。
瑠奈は一人で静かにリストを書き上げた。
最後に、あらかじめ空けておいたタイトル欄に、丁寧な字でこう記した。
「遺願リスト」
書き終えたその時、脇に置いていたスマホがふっと光った。
送信元は、秋場陽菜。
今度は、修の助手席に座っている自撮り写真だった。
以前は、こんなメッセージを見るだけで胸が張り裂けそうになった。
でも今は、何の感情も湧いてこない。
ただ無言でノートパソコンを開き、メッセージを転送し、プリンターで印刷した。
それを願い事リストと一緒に、引き出しの中にしまった。
このようなものは、すでに何枚もその引き出しに溜まっていた。ここ数日、少しずつ集めてきたものだ。
彼女にとって、死は解放だった。
だが、それは修と陽菜を祝福することとは違う。
たとえ彼がもう彼女を愛していないとしても、正直に別れを切り出すべきだった。心だけ浮気するようなことはしてはいけない。
そして、陽菜も、何度も何度も挑発するべきじゃなかった。
彼女が今していることは、日記に書かれていた「純粋で優しい少女」の姿とは、まるで別人だった。
瑠奈は心から願っている。
修が、秋場陽菜の本当の姿を、
その醜さを、ちゃんと認識できますように。
第4話
その後数日間、修は一度も家に帰ってこなかった。出張だというメッセージが一通届いただけだった。
けれど、陽菜が彼の行動をすべて暴いてくれた。
瑠奈は今回もそのメッセージに返信することはなく、変わらずプリントアウトして、ひとつひとつ保存していった。
暇な時間は、ひとりでリストに書かれた願いごとをひとつずつ叶えていった。
十個目の願いを実行する頃、彼女は「花を見に行く」という言葉を見つめ、スマホで少し検索したあと、梅の花が咲いたばかりの人気の公園に行くことを決めた。
平日だったので、公園にはあまり人がいなかった。彼女は車椅子をゆっくり押しながら小道を進んでいた。
午後の三時か四時ごろ、広場にはたくさんのストリートミュージシャンがやってきて、ギターを弾きながら、ゆったりとしたラブソングを歌っていた。
瑠奈はその音につられて目をやると、少し離れた場所に修と陽菜の姿を見つけた。
二人はひとつの屋台料理を分け合いながら、何かを楽しそうに話していた。
陽菜は自分の箸でひと切れ取り、それを彼の口元に差し出した。修はごく自然にそれを口にした。
彼の目元に浮かぶ笑顔を見つめながら、瑠奈は少しだけぼう然とした。
まさか、こんな場所で二人に会うとは思っていなかった。
しばらく黙って見ていた彼女だったが、修が急に立ち上がり、近くの歌手のもとへ歩み寄るのを見た。彼はかがみ込んで何かを耳打ちし、歌手はマイクの場所を譲った。
彼はギターを調整し、好奇の目が集まる中、軽くコードを鳴らした。
「この曲を、俺が一番愛している女の子ーー秋場陽菜さんに捧げます」
その声と同時に、清らかで優しい歌声がギターの音色とともに響き始めた。
辺りは静まり返り、誰もがその情熱的なラブソングに耳を傾けた。
隣にいた数人の女性たちは目を輝かせながら小声で囁き合った。
「かっこいい……羨ましいな、この子。私の彼氏にはこんなロマンチックなこと絶対できない」
「この歌、すごく泣ける。初めて聴いたんだけど、オリジナル?」
「そうよ」
瑠奈は思わず応じていた。それが彼女たちへの返答だったのか、それとも懐かしさのせいだったのか、自分でも分からなかった。
この曲は、彼女が16歳の元日に聴いたものだった。
修が作詞作曲し、学校の年越しパーティーで披露した。
舞台の上で、全校生徒の前で、彼は笑いながらさっきと同じ言葉を言ったのだ。
ただしそのときの「一番愛している女の子」は、彼女だった。
会場中が歓声で溢れ、高校生たちは口笛を吹いて大興奮だった。
数日後、彼は放送部に入部した。
それから毎日の昼休み、瑠奈はこの曲を耳にするようになった。
あの頃のすべてが夢のように美しかった。
でも今はもう違う。この曲はもう彼女のものではない。
彼の心にいるのも、もう彼女ではない。
女の子たちは彼女のすすり泣く声に気づき、驚いてティッシュを差し出した。
「お姉さん、大丈夫?そんなに感動しました?」
瑠奈はようやく、自分がいつのまにか涙を流していたことに気がついた。
ティッシュを受け取り、そっと拭って、ゆっくりと首を振った。
そして、車椅子を押してその場を離れた。
十九番目の願いは「母校を訪れること」だった。
彼女は古い学生証を手に、かつて通っていた学校へ足を運んだ。
修と一緒に走ったトラック、一緒に勉強した図書館、彼が彼女をおぶって登った階段。
どこもかしこも、二人の思い出が詰まっていた。ただ、今の彼女は立ち上がれない。だから、遠くから見つめることしかできなかった。
最後に、彼女は裏庭の一角にたどり着いた。
そこには彼女の背丈と同じくらいのヒトツバタゴの木があった。
この木は、当時の文化祭で、クラス活動として植えられたものだった。修が自らの手で植えた。
他の生徒たちが植えた木はどれも枯れてしまったが、この一本だけは残っていた。
別に生命力が強かったわけではない。彼が毎日水をやり、肥料を施し、欠かさず世話をしていたからだ。
瑠奈がそれに気づいて、彼に聞いたことがある。
「どうしてそこまでこの木にこだわるの?」
彼は彼女を木の前に連れて行き、雑草をかき分けた。
そこには、木の根元に一行の文字が刻まれていた。
8年の歳月が経ち、木は腰の高さまで伸び、今では車椅子の彼女とちょうど同じくらいの高さだった。
彼女は家を出る前に持ってきたナイフを取り出し、その文字を少しずつ削り消していった。
「堀尾修は江崎瑠奈のことが好き」
その削られた跡を見つめながら、瑠奈は笑いながら泣いた。
修。
どうやら無理だった。
「好き」すら守れなかった。
どうして嘘をついたの。
しばらくして、彼女は車椅子を押して学校をあとにし、市役所へと向かった。
彼女は除籍の手続きをするつもりだった。だが、職員は眉をひそめて言った。
「この手続きは死亡者にしかできません」
瑠奈は鞄から安楽死の証明書と重度のうつ病の診断書を取り出し、まるで天気の話でもしているかのように淡々とした口調で言った。
「家族はもう全員亡くなってます。離婚もすぐですし。私が死んだあと、この手続きをしてくれる人もいないと思って。だから今のうちにやっておこうと思って」
職員は書類を見直し、上司に相談した後、特例として手続きを受理してくれた。すべてが終わった後に病院から死亡証明書を送ればいいとのことだった。
瑠奈はその条件をメモし、職員に礼を言ってその場を後にした。
市役所を出てすぐ、タクシーを呼ぼうとしたそのとき、
車から降りてきたのは、驚いた顔の修だった。
「瑠奈……こんなところで何してるんだ?」
第5話
瑠奈は、ここで彼に会うなんて思いもしなかった。
彼女は答えずに、逆に問い返した。
「修こそ、何か用事?」
修は一瞬表情を曇らせ、目にかすかな動揺が走った。
「友達と近くで食事してて。たまたま君を見かけたから、降りてみた」
その言葉が終わるか終わらないうちに、車のドアが開いて、陽菜が笑顔で二人の間に歩み寄ってきた。
「もしかしてこの人が修の奥さん?」
彼女が降りてくるとは思っていなかった修はますます焦ったが、無理に落ち着いたふりをして紹介を始めた。
「瑠奈、この子は……友達の秋場陽菜」
陽菜は礼儀正しく手を差し出して挨拶した。
「こんにちは。こんなにわざわざ出てきたってことは、何か特別な用事?」
瑠奈はまるで見えていないかのように視線を落とし、小さく答えた。
「誕生日の願い事を叶えるために。写真を撮ろうかと」
その言葉を聞いて、陽菜の目がぱっと輝いた。
「写真?一緒に行ってもいいですか?私、センスはある方だから、いろいろアドバイスできますよ!」
瑠奈は修の方をちらりと見た。彼が何も言わなかったので、断らなかった。
三人は車に乗り込み、瑠奈は一人で後部座席に座り、車窓の景色をぼんやり眺めていた。
最初のうちは、車内は静まり返っていた。
修は緊張して、余計なことを言わないようにしていた。
しばらくすると、陽菜が映画の話題を出してきた。最近公開されたばかりの作品だった。
礼儀として彼は返事をしたが、それが彼の好みに合った話題ばかりだったせいで、ついつい会話が弾んでしまった。
気づけば、すっかり話に夢中になっていて、後ろに誰がいるかなど忘れていた。
目的地に着いたときも、彼は真っ先に陽菜と一緒に車を降りた。
その背中を見送りながら、瑠奈は一人で横の車椅子を車から降ろし、苦労しながら座り込んで、静かに二人の後ろを追いかけた。
三人がスタジオの入口に到着すると、スタッフが笑顔で修と陽菜の前に歩み寄ってきた。
「おふたり、ウェディング撮影ですね?お似合いのカップルで、本当に……」
ウェディングという単語を聞いた瞬間、修の眉がぴくりと動いた。
「何言ってるんだ。うちの妻は後ろにいる」
スタッフの顔に気まずい表情が浮かび、慌てて謝罪した。
「おふたりがあまりにもお似合いで、しかもずっとお喋りされてたので、てっきり……申し訳ありません!」
ようやく事態を理解した修は、すぐに瑠奈のそばへ戻り、気まずそうな顔で立ち尽くした。
陽菜も申し訳なさそうに戻ってきた。
「すみません。つい話に夢中になっちゃって……何も言ってくれなかったから、気づきませんでした」
瑠奈は二人の芝居のようなやり取りを黙って見ていた。ただただ、疲れを感じて、それ以上何も言えなかった。
若い頃、自分たちだって、あんなふうに夢や未来のことを語り合っていた。
なのに今は、ただただ、言葉もない沈黙があるだけだった。
場の空気が一瞬固まった。
スタッフは空気を読み、すかさず話題を変えた。
「本日はどのようなテーマで撮影されますか?」
修と陽菜の視線が、同時に瑠奈に向けられた。
彼女は淡々とした表情で、「生活写真」とだけ答えた。
すると陽菜がくるくると目を動かし、また何か思いついたようだった。
「じゃあ、お義姉さんは先に衣装を選んでください。足が不自由ですから、私と修で先に何枚か撮って、ポーズの参考になるようにしておきますね」
瑠奈が返事をする前に、陽菜は勝手に修を連れてスタジオに向かった。
修は最初こそ乗り気ではなかったが、陽菜がそばでポーズを指示するうちに、だんだんとその気になっていった。
二人でカメラの前に立って何枚か撮るうちに、すっかり楽しんでしまったようだった。
陽菜はつま先立ちで彼の頬をつまんで、いたずらっぽく笑いかけた。
「ね、もうちょっと笑って!」
彼は、彼女の瞳に映る明るさを見つめて、どこか甘やかすような微笑みを浮かべた。
第6話
瑠奈は外から二人の親しげな様子をただ黙って見ていた。
止まる気配のない彼らを見て、そばにいたカメラマンを呼び止めた。
「すみません、人物写真を一枚撮ってもらえますか?モノクロでお願いします」
カメラマンは彼女を別のスタジオに案内しながら、モノクロ写真は映えないと優しく説得した。
だが瑠奈の意思は固かった。
彼女が撮りたかったのは、遺影だったからだ。
カメラマンはしぶしぶ彼女の希望通りに撮影し、写真が現像される頃には、隣のスタジオの騒ぎもようやく収まった。
陽菜は撮ったばかりの写真を手にしてやって来た。顔には申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「すみません。修と夢中になって撮ってたら、ついお義姉さんのことを忘れちゃって……一緒に何枚か撮りましょう?」
瑠奈は彼女の背後で視線を逸らしている修を見て、ふっと笑みを浮かべ、首を静かに横に振った。
「もういいわ」
修も自分の振る舞いが不適切だったことに気づいたようで、罪悪感が一気にこみ上げた。
彼は慌てて瑠奈の車椅子を押しながら、償いにネックレスを買ってあげると言った。
陽菜も一緒について行きたがり、ピアスを買いたいからついでに見てあげる、と笑顔を見せた。
三人は商業施設を一周していたが、途中で修のスマホに会社からの電話が入った。
周囲が騒がしかったため、彼は先に地下駐車場へ戻っていった。
瑠奈は何を見ても興味が湧かず、帰りたいと言い出したので、陽菜が彼女を車椅子でエレベーターに向かって押し始めた。
数歩進んだところで、突然、消防警報が鳴り響き、大勢の人々がどっと押し寄せてきた。
人の波が車椅子を押し倒し、瑠奈は激しく床に叩きつけられた。
何度も人に踏まれながらも、彼女は必死に手すりを掴み、なんとか顔を上げた。
その瞬間、逆流する人波の中を突き進んでくる修の姿が目に入った。
彼は必死の形相で人混みをかき分け、陽菜を抱きかかえながら、嗚咽混じりの声で叫んだ。
「陽菜、無事でよかった……心臓止まるかと思った……!」
陽菜は地面に倒れている瑠奈をちらっと見て、彼女の視線に気づくと、やっと困ったような顔を作った。
「修、さっき人が多すぎて……お義姉さんが転んじゃったの」
修はその視線の先に目を向けた。
そこには、青アザだらけの瑠奈がいた。
その瞬間、彼は動けなくなった。
慌てて陽菜を放し、瑠奈に駆け寄って身体を起こす。
その瞳には後悔の色が濃く滲んでいた。
「人が多くて、見えなかったと思ったら......本当にごめん、瑠奈」
瑠奈は何も言わなかった。
まるで何事もなかったかのように、穏やかな顔をしていた。
三人は沈黙のまま建物の外へと向かった。
途中、すれ違ったカップルの会話が耳に入ってきた。
「さっきめっちゃ危なかったのにさ、みんな逃げてる中、わざわざ突っ込んでいった人いたじゃん?
中に好きな人がいたんだって。あんたも一回くらい、ああいう風に命かけてくれたらなあ……」
さっき見た光景が脳裏によぎる。
瑠奈の袖の中の手が小さく震えた。
ふと、昔の記憶が蘇る。
高校時代、鉄パイプを持った不良たちに路地裏で囲まれた彼女を救ったのは、
恐れず、ナイフを握って飛び込んできた修だった。
時が過ぎても、彼は変わらず、命を顧みずに突き進む勇気を持っていた。
ただ、今の彼が命をかけて守るその相手は、もう彼女ではなかった。
第7話
家に戻った後、修は瑠奈の傷を丁寧に手当てしながら、申し訳なさと胸の痛みでいっぱいだった。
その後数日間、彼は外出することもなく、片時も離れず彼女のそばに付き添っていた。
彼の見せる罪悪感に対して、瑠奈はほとんど反応を見せなかった。
夜が更けて人影もなくなると、彼女は車椅子を押して書斎に入り、彼が隠したつもりのあのノートを見つけ出した。
ページを開くと、そこには「修、お前ってほんと最低だ」と何度も書き連ねられており、それを黙って閉じた。
書斎から出た直後、寝室のドアが勢いよく開かれ、修が寝巻のまま、靴も履かずに裸足で飛び出してきた。
彼女が無事な姿を見て、ようやくほっとしたように大きく息をついた。
「瑠奈、こんな時間に、一人で何してるんだ?」
瑠奈は目を逸らし、表情ひとつ変えずに嘘をついた。
「喉が渇いて、水を取りに来ただけよ」
修は慌ててキッチンから水を持ってきて彼女に手渡し、声にはまだ動揺が残っていた。
「こんな時は俺に頼れよ。もしまた何かあったら、俺、本当に生きた心地しないから」
その言葉を聞いて、瑠奈はふと彼を見上げ、じっと見つめた。
「修、最近……私に何か言いたいことはない?」
修は一瞬戸惑ったが、すぐに首を横に振った。
「いや、何も?」
本当のことを打ち明けてくれさえすれば、瑠奈はきっと潔く手放せた。
だが、今この状況に至ってなお、彼はまだ本当のことを言おうとはしなかった。
瑠奈はゆっくりと目を閉じ、うっすらと笑みを浮かべ、その目の奥の失望を覆い隠した。
翌日、彼女はアルバムを取り出し、何のためらいもなくすべての写真をハサミで切り裂いた。
床に散らばった無数の紙片を見て、修は言葉を失い、驚きの声を漏らした。
「どうして……こんなに大事にしていた写真を……?」
瑠奈は理由をつけるのも面倒になり、ただ淡々とこう言った。
「湿気で全部色褪せちゃったし、残しておく意味もない。今度また撮ればいいでしょ」
そんな平然とした彼女の言葉を前にして、修は心のどこかで不安を覚えた。信じるべきか、信じないべきか、分からなかった。
三日目、瑠奈は家政婦を呼び、キャビネットの中のペアカップ、マフラー、服、キーホルダーなどをすべてまとめて、下のゴミ置き場に捨てさせた。
修がそれに気づき、また問いただしてきたが、彼女は「カビが生えてた」と言って誤魔化した。
さらに数日後、彼女は彼からもらったすべてのプレゼントを慈善団体に寄付した。
「デザインが古すぎるから」と言って、「今度はもっと新しいのにしてね」とさえ告げた。
日が経つにつれて、家から「瑠奈」を象徴するものが一つまた一つと姿を消し、ついには何も残らなくなった。
それでも、修は何一つ気づいていなかった。
瑠奈の両親の命日、修も一緒に墓地を訪れた。
だが、彼女が墓前で語った言葉を聞きながら、彼の胸に不意に不安が湧き上がった。
「お父さん、お母さん、元気にしてる?心配しないでね。多分、私、すぐにそっちへ行くから……」
彼の記憶では、いつも彼女は「会いたいよ」と言っていたはずだ。
でも今日の言葉は、どこかおかしい。胸騒ぎがして、彼女にちゃんと尋ねようとした、
その時、後ろから聞き覚えのある声が響いた。
「修、お義姉さん、奇遇だね」
その一言にすべてが中断された。彼は反射的に振り返った。
数歩先に、陽菜が立っていた。どこか怪我をしたようで、顔色が悪い。
彼女の浮いたような左足を見た修の表情に、一瞬、心配の色が走った。
「ここで何してる?怪我したのか?」
「おばあちゃんのお墓参りに来たの。雨で滑って、ちょっと足をくじいちゃって……」
そのか細く委ねるような声を聞き、修は無意識に数歩前に出て、彼女を支えた。
陽菜の目には、うっすらと涙がにじんでいた。
「修……病院まで送ってくれる?」
その一言に、彼の胸は再び締めつけられ、何のためらいもなく頷いた。
瑠奈には、たった一言だけ残して。
「瑠奈、ゆっくり話してて。俺、病院行ってすぐ戻るから」
彼らは最初から最後まで、瑠奈の気持ちなど聞きもしなかった。
ただ彼女を、墓地に置き去りにしていった。
第8話
瑠奈は三時間も待っていたのに、彼は戻ってこなかった。
午後になると、空からしとしとと細い雨が降り出し、ついに彼女の忍耐も尽きた。自分で車椅子を押し、山を降りようとした。
墓地にはバリアフリーの通路が設けられていたが、傾斜がきつく、彼女は力加減を誤ってしまう。車椅子は手すりにぶつかり、そのまま転倒した。
彼女の身体は斜面を転げ落ち、手や顔には大小さまざまな擦り傷ができた。額には小さな切り傷が走り、血が滲んでは雨に洗い流されていく。
誰にも気づかれないまま、彼女はその場に倒れていた。ただ、無数の雨粒が目の前に落ちていくのを、ただじっと見つめることしかできなかった。
冷たい雨が体に染み込み、寒さに震えが止まらない。彼女は歯を食いしばり、全身を襲う痛みに耐えた。
だが、時間はひどく長く感じられた。
どれほど経ったのかも分からない。死んでしまうかと思ったそのとき、ようやく修が傘を差しながら駆けつけてきた。
彼は慌てて彼女を抱き上げ、苦しげに何度も謝った。
けれど瑠奈は、そんな彼をただ無表情に見つめ返すだけだった。その目には、もはや何の感情も浮かんでいない。
「もし……私に足があったら、今日ここから自分で帰れた」
かつて陽だまりのようだった瑠奈は、18歳のあの日に完全に死んだのだ。
修の心に衝撃が走った。罪悪感と後悔が押し寄せ、彼はもはや彼女の目を直視することさえできなかった。
彼は自分の頬を思いきり平手打ちしながら、声を震わせた。
「ごめん、瑠奈……もうこんなミスを犯さないって誓うよ」
それから数日間、修は彼女につきっきりで過ごした。
日向ぼっこに行くときも、ただぼんやりしているときも、彼は一歩も離れずそばにいた。お茶を出し、水を持ってきて、どんな些細な言葉にも真剣に答えた。
ふたりの関係は、あの事故が起きる前、7年前のように見えた。
けれど瑠奈にはわかっていた。人生には「やり直し」なんて存在しない。
彼の行動は、ただの一時の幻想でしかない。長くは続かないと知っていた。
だから彼女は何も言わずに、ただ静かにその日を数えていた、終わりの日が来るのを待ちながら。
クリスマスイブの日、ふたりの乗った飛行機がスイスに到着した。
ホテルにチェックインしてすぐ、修のもとに一本の電話がかかってきた。
三十分ほど話し込んだあと、彼はそのまま荷物を持ち、立ち去ろうとした。
「会社で急ぎの案件が入ったんだ」とだけ言い残して。
彼のその慌ただしい様子を見て、瑠奈は静かに尋ねた。
「行かないとダメなの?」
彼は一切の迷いも見せず、きっぱりと答えた。
「急ぎなんだ。瑠奈、ひとりで雪を見てて。明日には迎えに来るから」
瑠奈はそれ以上、何も言わなかった。
そして、彼には伝えなかった。
明日、もう彼が迎えに来ることはできないのだと。
彼女はホテルの大きな窓の前にひと晩中座っていた。予報されていた初雪は、降らなかった。
夜が明けるころ、彼女は陽菜から一通のメッセージを受け取った。
そこには、病院で撮られた一枚の写真が添えられていた。
写真の中で、修は彼女の隣に座り、みかんの皮を丁寧に剥いていた。穏やかな笑みを浮かべて。
瑠奈は、その写真を長いあいだ見つめていた。
朝日が昇るころ、彼女は車椅子を押してホテルを出た。
そして、自殺ほう助機関へ向かった。
建物の前に着いたとき、彼女は最後に一度だけ空を見上げた。
それでも、あの待ち焦がれた初雪は降っていなかった。
修だけじゃなかった。天気予報でさえ、彼女を裏切ったのだ。
人生最後の日、彼女はやはり見ることができなかった。
あの初雪を。
瑠奈は口元に小さな笑みを浮かべ、そしてゆっくりと振り返った。
車椅子のタイヤが静かに回りながら、彼女は自らの「死」へと向かって進んでいった。
やがて、スタッフが彼女を安楽死の部屋まで運んだ。
ベッドに横たわる前、終末の確認のためにいくつかの質問がなされた。
「江崎さん、最後に会いたい人はいますか?」
「いません」
「遺言として伝えたいことは?」
「ありません」
「心残りは?」
「……何もありません」
彼女は静かにすべての質問に答えた。
修のことは、一言たりとも遺していなかった。
薬剤が準備されるのを見て、瑠奈は声を出した。
「私が死んだら、すぐに火葬してください。骨はお墓に入れなくてもいい。初雪が降った日に、どこかで撒いてくれれば、それでいいです……お願いします」
スタッフはうなずいた。
室内は静まり返った。
腕にかすかな痛みが走り、それもすぐに収まった。
瑠奈の意識は、徐々にぼやけていく。
心の中には、次々と映像が流れていく。走る少年の姿、幼い頃の笑い声、夏の日差し、教室の騒がしさ......
それらはやがてすべて、霞んだ雲のようにぼんやりと彼女を包み込んでいった。
そして瑠奈は、そのやわらかく湿った幻想の中で静かに目を閉じた。
二度と、開くことはなかった。