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昨日の影、過去の風
彼氏の誕生日パーティーの主役席で——私は、ひとり三時間も待ち続けていた。 華やかに着飾り、主役として登場するはずの彼——桐生律真(きり...
Chương (1)
第1章
彼氏の誕生日パーティーの主役席で——私は、ひとり三時間も待ち続けていた。
華やかに着飾り、主役として登場するはずの彼——桐生律真(きりゅう・りつま)は、一本の電話で病院へと呼び出されていた。電話の相手は、彼が長年心に秘めていた初恋の人、藤崎詩織(ふじさき・しおり)。
足を捻ったという口実で、詩織は病院の個室で彼を待ち構え、自ら仕掛けたカメラの前で——彼にキスをねだった。
その唇が深く重なる頃——「足が不自由で立てない」はずの律真が、何の躊躇もなく立ち上がり、詩織を壁際に押し付けた。
「律真……どうして高梨文咲(たかなし・ふみさき)には、足が治ってることを隠してるの?」
詩織の問いに、彼は熱を帯びた声で囁いた。
「知られたら、結婚しろって騒ぎ出すに決まってるだろ。
あいつなんか、ただの無料の家政婦だ。俺が妻にする価値なんてない」
そして——彼と詩織は激しく絡み合い、詩織は私が心を込めてデザインした純白のウェディングドレスを身に纏いながら、カメラ目線で勝ち誇った笑みを浮かべた。
画面は、淫らな水音と共に途切れた。
そうか。彼は、最初からずっと私を騙していたんだ。
私は、彼のために作ったバースデーケーキを無言でゴミ箱に投げ捨て、震える指先で母にメッセージを送った。
「お母さん。わかった。お見合い、行くよ」
第1話
彼氏の誕生日パーティーの主役席で——私は、ひとり三時間も待ち続けていた。
華やかに着飾り、主役として登場するはずの彼——桐生律真(きりゅう・りつま)は、一本の電話で病院へと呼び出されていた。電話の相手は、彼が長年心に秘めていた初恋の人、藤崎詩織(ふじさき・しおり)。
足を捻ったという口実で、詩織は病院の個室で彼を待ち構え、自ら仕掛けたカメラの前で——彼にキスをねだった。
その唇が深く重なる頃——「足が不自由で立てない」はずの律真が、何の躊躇もなく立ち上がり、詩織を壁際に押し付けた。
「律真……どうして高梨文咲(たかなし・ふみさき)には、足が治ってることを隠してるの?」
詩織の問いに、彼は熱を帯びた声で囁いた。
「知られたら、結婚しろって騒ぎ出すに決まってるだろ。
あいつなんか、ただの無料の家政婦だ。俺が妻にする価値なんてない」
そして——彼と詩織は激しく絡み合い、詩織は私が心を込めてデザインした純白のウェディングドレスを身に纏いながら、カメラ目線で勝ち誇った笑みを浮かべた。
画面は、淫らな水音と共に途切れた。
そうか。彼は、最初からずっと私を騙していたんだ。
私は、彼のために作ったバースデーケーキを無言でゴミ箱に投げ捨て、震える指先で母にメッセージを送った。
「お母さん。わかった。お見合い、行くよ」
その直後——母からの音声メッセージが届いた。
驚きと嬉しさが入り混じった声で、母は言った。
「文咲、ようやく目が覚めたのね。前から言ってたでしょ、あの桐生なんか、あんたには全然釣り合わないって!
すぐにお見合い相手の連絡先を送るからね」
私は三日後に帰省すると伝え、通話を終えた。
そのタイミングで——部屋のドアノブがゆっくり回る音がした。
ドアを押し開けて入ってきたのは、例の動画の主人公——律真。
彼は相変わらず車椅子に座り、私がソファで座り込んでいるのを見て眉をひそめた。
「俺の誕生日を祝うんじゃなかったのか? いつまでボーッとしてるつもりだ」
ゴミ箱には、私が心を込めて作ったバースデーケーキが静かに横たわっていた。
私は律真をじっと見つめ、その視線を彼の足元に落とした。
一瞬だけ——彼の表情に動揺が走った。
目を逸らし、苛立った声を投げてくる。
「いいよ、最初からお前には期待してなかった。
腹減った。さっさと飯作れよ。そんな簡単なこともできないわけ?」
律真は当然のように命じた。
心が冷え切っていくのを感じた。
彼にとって、私は五年間付き合ってきた恋人ではない。
ただの無料の家政婦。
尽くすことが当然。支えることが義務。
彼の目には、私はただの便利な奴隷だった。
胸の奥が、少しずつ、確実に冷たく凍りついていく。
「なんで私に嘘をついたの?」そう問い詰めようとした瞬間——
もうどうでもよくなった。
彼の足が本当はどうなっていようと、知ったことじゃない。
どうせ、私はここを去るんだから。
そんなとき——ノックの音が響いた。
何の遠慮もなく入ってきたのは、藤崎詩織だった。
この重い空気に気づく様子もなく、律真の後ろに回り込むと、親しげにマフラーを巻き始める。
そして、わざとらしく私に目を向け——驚いたふりをする。
「文咲さんもいたんですね? 暇だったからマフラー編んでみたんです。律真さん、気に入ってくれるといいけど」
律真はちらりと私を見やり、微笑んで詩織に言う。
「詩織の手は本当に器用だな。いいセンスしてる」
二人の視線が絡み合った。
私はふと、彼女が持っているマフラーを見つめた。
そういえば、一週間前。私も律真にマフラーを編んで渡したのだった。
そのとき彼は——どうした?
嫌そうにマフラーを持ち上げ、まるでゴミでも見るような目で床に投げ捨てた。
嘲るような声で、こう言い放った。
「文咲、お前がマフラー編む暇があったら、もっと仕事に打ち込めよ。だから職場で疎まれるんだ」
私は黙って床に落ちたマフラーを拾い上げた。
その夜——彼はなぜか、ソファに置いたそのマフラーを手に取り、急いで外に出て行った。
口ではああ言っても、本当は気に入ってくれたのかもしれない。
そう思った私は、風邪を引かないようにと心配になり、そっと彼の後をつけた。
でも。彼はそのマフラーを外で待っていた詩織に、何のためらいもなく手渡した。
「詩織、ちょうどいいや。これ、お前にやるよ。わざわざ捨て犬の服買わなくて済むだろ。文咲が編んだマフラー、結構暖かいし。犬小屋にでも敷いとけ」
第2話
「文咲、耳が遠いのか?詩織にコーヒー淹れてやれって言っただろ?」律真の苛立った声に、現実へと引き戻された。
深く息を吸い込み、私は自分に言い聞かせた。
あと三日。我慢して、三日経てば、あの二人から解放される。
そのとき、不意に詩織が私をかばうように口を挟んできた。
「律真さん、そんな言い方しないで。文咲さん、最近ずっと看病してくれて疲れてるんだよ。だから気づかなかっただけじゃない?」
その視線が、ほんの一瞬、律真の脚へと滑った。
それが、彼の地雷だった。
律真の目に怒りが灯った。
「文咲、いい加減にしろよ。俺の世話をするのはお前の当然の義務だろ?だって、俺の『彼女』なんだからさ」
その声には、ねじれた支配欲と苛立ちが滲んでいた。
私は、目を逸らさず、静かに言い放った。
「もうすぐ、『元』になるけどね」
彼は、何かを聞き間違えたようにきょとんとした。
いつものように、私が怯えて取り繕うのを期待していたのだろう。でも、私は何の動揺も見せなかった。
それを見て、彼は私を睨みつけると、詩織に命じた。「ちょっと外に出よう。気分転換だ」
二人が出ていったあと、私は荷物の整理を始めた。
律真に関係するものは、何もかも、すべて捨てた。
半分ほど片付いた頃——彼が戻ってきた。
車椅子に座り、ドアの前で腕を組んで冷たく私を見つめていた。
「ちょっと注意しただけで、その態度か?
まったく、すぐに被害者ぶる。詩織みたいに、強くて優しい女になれよ」
その言葉のすべてが、私を傷つけるために選ばれていた。
でも、もうどうでもよかった。
私は、間もなくここを出て行く。
律真が近づいてきて、ベッドに置いていた小さな服を手に取った。それは、半年前に私たちの子どもが生まれてくると信じて買っておいた、ベビー服だった。
彼の指先が微かに震えていた。
「文咲、また子ども作ればいい。今度こそ、大切にするから」
その言葉が、虚しく響いた。
半年前のあの日、あの出来事。今でも私の心に、深く刺さったままの棘だった。
産婦人科の定期検診の日。
病院の前で、偶然詩織と出くわした。
彼女は全身に痣を作り、顔も腫れ上がっていた。
「階段で転んじゃって……」と笑っていたけれど、私はすぐに異変を感じた。
そして——律真は、私を放って詩織の診察に付き添った。
ホルモンの乱れで情緒不安定だった私は、彼に強く当たってしまった。
「どうして私を置いていくの?」
その直後だった。突然走ってきた子どもとぶつかり、私は地面に倒れた。
彼は——私ではなく、詩織をかばった。
目の前が真っ暗になり、その日を境に私は子どもを失った。
そして医師に告げられた、今後の妊娠は難しいという現実。
律真はしばらく返事を待っていたが——いつまで経っても私の声が聞こえない。不審に思って振り返ると、私はもうとっくに部屋を出て行っていた。
彼はその場で呆然と立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。——まだ拗ねているだけだろう。そう勝手に解釈すると、彼は鼻で笑い、大して気にも留めず、ふっと息をついた。
ゴミ捨て場で彼と鉢合わせたのは、その数分後。
「それ、なんで捨てるんだよ?」
私が手にしていたのは、律真が私に贈ったプレゼント。
「いらないから」
冷たく言い放つと、私はそれを容赦なくゴミ袋に落とした。
律真は、何も言えずに立ち尽くした。
夜十時。私は、すべての荷物を詰め終えていた。
彼はようやく異変に気づき、焦った声で問いかけた。
「何で、急に荷物まとめてるの?」
私は彼を見もせず、ただ一言だけ返した。
「断捨離よ」
彼は安心したように息を吐き、不機嫌そうに続けた。
「捨てる前にちゃんと言えよ?俺が前に買ったネックレス、間違って捨てられたら困るから」
その手のひらには、あのネックレスがあった。どこか安っぽく、錆が浮き出て、彼の掌の上にぽつんと横たわっていた。
付き合って四年、初めて彼からもらったアクセサリー。
実は、それがただの露店の安物だったことを、私はあとで知った。
私はそれを宝物のように大事にしていたのに。——ばかみたい。
ひとつ、乾いた笑いがこぼれた。
「それ、大事にしまっておけよ」
そう言う律真を無視し、私はそのネックレスを手に取り——迷いなく、ゴミ箱に投げ入れた。
第3話
律真の怒りを抑え込んだ目線が、私に突き刺さる。
今夜の私は、あまりにもいつもと違っていた。
彼の言いなりだった私が、何度も彼の機嫌を逆撫でしている。
でも、もう彼の顔色を窺う気すら起きなかった。
静まり返った室内に、律真のスマホの着信音が響いた。
どうせ——藤崎詩織だ。
「もしもし、律真さん……今、家にいますか?なんか、さっきから知らない人がドアを叩いてて……怖くて……」
電話の向こうで、今にも泣きそうな甘ったるい声。
律真は眉をひそめ、優しく言葉をかけると「すぐ行く」と約束して電話を切った。
私が彼を見つめていると、律真は取り繕うように言い訳をした。
「会社の社員の家でちょっとトラブルがあって……確認にいく」
まるで私が聞こえてないとでも思っているのか。
私はもう何も言わず、適当に「ああ」と返した。
「文咲、車で送ってくれよ。俺、今は運転できないし、ドライバーも帰っちゃったからさ」
当然のように頼んでくる。
私は皮肉めいた笑みを浮かべ、彼の脚を見やった。
「本当に運転できないの?」
一瞬だけ彼の顔が引きつった。だがすぐに平静を取り繕った。
「知ってるだろ、文咲。俺がそんな嘘をつくわけない」
その目には焦りと真剣さが滲んでいた。
無言のまま車を走らせ、詩織の住むマンションに着いた。
ドアを開けた彼女は、律真を見るなり飛びついた。
彼は私を一瞥すると、詩織の背中に手を回し、優しく囁いた。
その光景を無視して、私は踵を返した。
「文咲」彼が私を呼び止めた。
少しくらい私を気遣う言葉があるかと思った。
でも、彼の口から出たのは冷え切った命令だった。
「詩織、怖かっただろ。台所でお粥でも作ってやれよ。お前の作るお粥が好きなんだからさ」
ああ——思い出した。
最近、粥が嫌いだったはずの彼が、なぜか毎朝お粥を要求してきた理由。
詩織が好きだったから。
「文咲さん、ごめんなさい。でも、これも律真さんが言ったことだから。あなた、いつも彼の言うこと聞いてたじゃない?」
律真は鼻で笑った。
「俺に逆らう嫁なんか、いらない」
溜まりに溜まった失望が、ついに臨界点を超えた。
私は静かに笑った。
振り返り、二人を冷たく見据え、淡々と言い放った。
「桐生律真——私があなたのために朝食を作って、世話をしてきたのは、私が『あなたを愛していたから』。自分でそうしたかっただけ。
でも今は?あなたはもう何の価値もないわ」
言い捨てて背を向けた。
その夜——彼は帰ってこなかった。
夜遅く、眠りにつこうとしたとき、スマホに届いたのは——律真と詩織が、裸でベッドに絡み合う動画。
詩織がカメラ目線でVサインをして、勝ち誇ったように笑っている。嫌悪と侮蔑の感情しか湧かない。
私は動画を消そうとしたが、誤ってビデオ通話のボタンを押してしまった。
スマホから、低く掠れた喘ぎ声が漏れ出した。
律真が詩織を抱き上げた瞬間——彼の目がスマホの画面に気づき、動きが止まった。
私は静かに通話を切り、すべてをシャットアウトするように眠りについた。
こんなにも、心地よい眠りは久しぶりだった。
翌朝。目を覚ますと、彼は既に私のベッドのそばにいた。
車椅子に座ったまま、暗い表情で私を見つめていた。
「昨日のこと、見た?」
彼が探るように尋ねてくる。
ちょうどそのとき、母からLINEが届いた。「いつ帰ってくるの?」
私は「明後日帰る」とだけ返信した。
私が彼を無視してスマホを操作するのが、彼には相当面白くないらしい。
指でテーブルを叩きながら、苛立った声で聞いてきた。「誰とLINEしてるんだ?」
「母から帰省の連絡」淡々と答えた。
彼は「ふーん」と気のない返事。
「昨日の夜、変なものは見てないよな?」
再び確認してきた。
私は鬱陶しくて眉をひそめ、首を横に振った。
彼は露骨に安堵し——
「ならいい。
朝食作ったんだ。食べる?」
第4話
彼が朝食を作るなんて、初めてのことだった。
少し驚いたけれど、身支度を整えてダイニングに座ると——キッチンには、詩織がエプロン姿で立っていた。
まるでこの家の奥さんかのような振る舞い。
私の居場所なんて、どこにもない。
詩織はできた料理をテーブルに並べ、明るい笑顔で言った。
「文咲さん、私の手料理、よかったら食べてくださいね」
その声に、ほんの少しだけ浮かれた響きが混ざっていた。
もし、彼女の目に敵意がなければ、私はもっとおいしく食べられたのかもしれない。
残念だけど、数口で箸を置いた。律真は、私の様子を伺うように見つめてきた。
そして、突然「服を買いに行こう」と言い出した。
おかしくて、笑いがこみ上げた。
四年間付き合って、一度も私の買い物に付き合おうとしなかった人が。
「忙しいから」、「会社があるから」、「空気読んで」——そうやって、ずっと私を後回しにしてきた人が。
でも詩織とは、海外旅行まで行ってたのに。
馬鹿みたいだ。
律真は、私の返事をじっと待っていた。
昨夜の私の態度を見れば、もう彼に対して恋人としての情など残っていないことは明らかだったはずだ。
彼は、ただの便利な家政婦を手放したくないだけ。
何せ、私がそばにいて世話を焼く生活に、いつの間にか慣れきっていたから。
初恋は、心の奥に大切にしまっておくもの。決して穢してはいけない神聖な存在。
だからこそ——使い倒すのは、私。巧妙に、あれこれ理由をつけては、都合よくこき使おうとしていた。
結局、必要なものもあったので、一緒に出かけることにした。
詩織も当然のようについてきた。
「律真さん、お願い~!私も一緒に行っていいでしょ?絶対邪魔しないからぁ」
涙ぐんで袖を引っ張る彼女に、律真は困ったように私を見る。
私は淡々と答えた。
「好きにすれば」
その冷たさに、律真は明らかに驚いた顔をした。詩織がいる手前、何も言えずに私を見つめていた。
私はその視線を無視して、静かに着替えに行った。
ショッピングモールに着くと、詩織が律真の車椅子を押すと申し出た。
途中、スイーツ店の前を通ったとき——詩織は私を見やり、甘えるように言った。
「律真さん、ケーキ食べたいなぁ~」
「昨日の夜、あれだけ食べても足りなかったのか?」
律真がからかうように笑うと、詩織は恥ずかしそうに彼の胸を軽く叩いた。
目を背けて、スマホで母にLINEを送る。「もうすぐ帰るね」
「中に入るか?」
律真が私に声をかけた。
その目は、「断るな」と言っていた。
詩織の前で恥をかきたくないのだろう。
でも私は首を振った。
「いい。買いたいものがあるから、二人でどうぞ」
背を向けようとしたとき、彼が私の手を掴んだ。
「文咲、お前最近なんかおかしいぞ。まさか詩織のこと、嫉妬してるのか?」
呆れて、思わず白目を剥きそうになった。
適当にうなずいてみせた。
彼は勝ち誇ったように手を離すと、涼しい声で言った。
「詩織とはただの部下だ。気にすんな。欲しいものあったら言え。全部買ってやるから」
言い終えると、彼は車椅子を漕いでスイーツ店へ入っていった。
店を出たとき、陽射しは穏やかで、風も気持ちよかった。
入口で待っていた二人。
そのとき——詩織の手首に、見覚えのある数珠ブレスレットが光っているのが目に入った。
あれは……数年前、私は律真の健康を祈って、あるお寺で買ったものだ。
その日、私は交通事故に遭い、生死の境をさまよった。
でも、その数珠だけは、必死に抱えて守った。
「これは、大事なものだから。絶対に手放さない」
あのとき、律真はそう言ったのに。
私が見つめているのに気づき、律真は慌てて言った。
「詩織が見たいって言うから、ちょっと貸しただけだよ」
その瞬間だった。突然、人混みの中から一人の男が刃物を振りかざし、詩織めがけて飛び込んできた。
私は、呆然とするしかなかった。そのとき——律真が車椅子から立ち上がった。
立ち上がって、詩織を抱えて走った。健脚で、何の不自由もない足で。
人に押されながら、私はその背中を見つめていた。逃げるように、彼女を守るその姿を。
混乱が落ち着いたあと、律真は私を探していた。でも、もう遅かった。
私はモールを離れ、すでに帰りの便を早めて、空港へと向かっていたのだから。