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初恋優先の彼氏に絶望して、私は母になることを諦めた
社長である彼氏は、私に約束してくれた。 「怪我をして記憶を失った初恋の人の願いを、九十九個だけ叶えてあげたら……必ず、お前の元に戻る」...
Chương (1)
第1章
社長である彼氏は、私に約束してくれた。
「怪我をして記憶を失った初恋の人の願いを、九十九個だけ叶えてあげたら……必ず、お前の元に戻る」って。
だけど、私が静かに九十九個数え終わったとき、目に映ったのは、初恋の彼女を優しく抱きしめる彼の姿だった。
それから私は、彼にすがって初恋の彼女の世話をやめさせようなんて、もう思わなくなった。
ただ一つ、彼に頼んだのは――
生まれてくるはずだった子どもの記念に、小さなベビー用の足輪をひとつだけ。
子どもの話になると、彼の表情は少しだけ柔らかくなった。
「仕事が片付いたら、一緒にベビー用品を選びに行こう」
そう言った彼に、私は素直に「うん」とだけ応えた。
本当は伝えなかった。
一週間前、私はもう弁護士に頼んで、別れの手続きを済ませていたことを。
そして今、私たちはすでに――終わっていた。
第1話
退院の手続きを終えた私は、病院の中庭で天音和樹(あまね かずき)とばったり出くわした。
如月瑠奈(きさらぎ るな)は彼の胸に甘えるようにもたれかかり、ふたりは耳元でそっと言葉を交わしていた。
けれど、私に気づいた瞬間、和樹の顔から笑みはすっと消えた。
彼は瑠奈を庇うように背後に隠し、まるで私が何かするんじゃないかとでもいうように、冷たい目で睨んできた。
「ここで何してる」
その視線があまりにも鋭くて、胸の奥がひやりと凍った。
瑠奈が和樹の袖をつまんで、甘えた声で言う。
「和樹にい、そんな怖い顔しないで。ありすねえが驚いちゃうよ」
私が何か返すより早く、彼女は今にも泣きそうな顔でこちらに向き直った。
「ありすねえ、誤解しないで。私、怪我してるから、和樹にいが心配してくれてるだけなの」
和樹は彼女を優しく慰めながら、私を見る目にはやっぱりあの、鬱陶しそうな色しかなかった。
「用があるなら早く言えよ」
唇を開きかけて、けれど言葉が出なかった。
結局、私はかすかに首を振っただけだった。
「……通りすがっただけ」
和樹は、私の様子に何か感じたのか、珍しく少しだけ優しい声をかけてきた。
「何もないなら、家に帰れ。おまえ、今お腹に子どもがいるんだから、気をつけろよ」
その後ろで、瑠奈はつまらなそうに私を睨んでいた。
私は小さく頷く。
「……うん」
それだけ言って、和樹は瑠奈を連れてさっさと去っていった。
ふと見ると、瑠奈の顔には、またしても勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
私は背を向け、自然に両手をお腹へと重ねた。
胸の奥から、どうしようもない痛みがこみ上げてくる。
今この瞬間、私の夫は――
別の女を守り、笑いかけ、寄り添っている。
けれど、彼は知らない。
彼の背後にいる妻は、すでに、彼との子どもを失っていることを。
あの日、ほんの一度だけでも彼が振り返ってくれたら。
ほんの一度でも病室に来てくれたら。
そしたら、すべてを知ることができたのに。
私は、自嘲するように口角を引きつらせた。
ふと、ポケットの中の小さなガラス瓶に触れる。
ぎゅっと握りしめた瞬間、胸の奥に押し込めた思い出が一気に蘇った。
彼が初めて――そして最後に――病院に付き添ってくれた日。
そのとき、彼の初恋の人が現れた。
それからというもの、彼は家にも帰らず、会社にも顔を出さず、ただ彼女のそばにいるためだけに時間を費やしていった。
泣きそうな顔で、「一日だけ一緒にいて」と頼んだ私に、彼はこう言った。
「瑠奈は体が弱い上に、事故で記憶まで失ったんだ。今は俺が側にいなきゃいけない。
安心しろ。ただ彼女が回復するまでのことだ。他には何もない」
彼はそう約束した。
瑠奈の九十九個の願いだけを叶えたら、きちんと私のもとに帰ってくると。
その日から、彼がひとつ瑠奈の願いを叶えるたびに、私は一つ、折り紙の星を折った。
七日前、ついに私は、九十九個すべての星を折り終えた。
だから、思ったんだ。
あなたが瑠奈の九十九の願いを叶えられるなら、私も――この九十九個の星と引き換えに、一つだけ願いを叶えてもらえないかな?
そんな想いを込めて、私は満面の笑みで、瓶いっぱいの星を抱えて彼を探しに行った。
だけど、私が見たのは――
和樹が瑠奈を抱きしめているところだった。
テーブルの上には、願いを込めたバースデーケーキとキャンドル。
そして、彼の優しい声が聞こえた。
「瑠奈の願いは、全部叶えてあげる。何個だって、絶対に」
どうやって二人の前まで歩み寄ったのか、自分でも覚えていなかった。
この瞬間、私が欲しかったのは、たった一つの答えだけ。
「――何してるの?」
震える声でそう問いかけた。
和樹は、私の声に驚いたように瑠奈を抱きしめた手をぱっと離し、動揺した目でこちらを見た。
「ありす、どうしてここに?……違うんだ、誤解しないで。俺たちはそんな――」
言い終える前に、瑠奈が泣きそうな顔で私に向き直った。
「ありすねえ、誤解しないで。和樹にいは、私の願いを叶えようとしただけなの」
和樹は彼女を庇うように優しく慰め、その目を私に向けたときには、なぜか責めるような色が浮かんでいた。
彼の言葉を遮るように、私はかぶせるように口を開いた。
「……ごめん、邪魔しちゃったね」
それだけ言って、私は踵を返し、足早に出口へ向かった。
だけど、あまりに焦っていたせいで、向かってくるトラックに気づかなかった。
――ドン、と身体に衝撃が走り、私は地面に叩きつけられた。
倒れ込んだ私の視界に映ったのは、和樹が必死の形相で、泣き崩れた瑠奈を抱きしめながら、彼女のために慌ただしく救急車を呼んでいる姿だった。
助けを求める私を、彼は見ていなかった。
通りすがりの救急車に、私は「ついでに」運ばれただけだった。
瑠奈は、和樹に抱きかかえられ、彼自身の手で病院へ運ばれていったというのに。
目を覚ましたとき、医師から告げられたのは、
――子どもを失った、という現実だった。
私に残されたのは、溢れる涙と、埋め尽くせない悲しみだけ。
和樹、私はあなたを許すよ。
あなたたち二人を、そして私自身を。
――全部、終わりにするために。
第2話
もう、何も考えたくなかった。
背後で聞こえる瑠奈の笑い声が、耳を刺すように響いて、私は自然と歩く速度を速めた。
和樹が家に帰らなくなってから、家の中はがらんとして、私と早乙女さん以外には誰もいない。
私が帰ってきた気配を聞きつけて、家政婦の早乙女さんが嬉しそうに出迎えてくれた。
だけど、私の顔色を見た途端、心配そうに眉をひそめる。
「粟田さん、お顔の色が優れませんが……ずっとお戻りにならなかったのは、どこかご体調でも崩されたのでしょうか?」
――早乙女さんですら、私をこんなに心配してくれるのに。
どうして和樹は、一度も私を気遣ってくれないんだろう。
心の奥が痛んだけど、私は無理に笑みを作った。
「大丈夫だよ、早乙女さん……ちょっとお腹すいちゃっただけだから、何か作って?」
「すぐご用意いたします。粟田さんのお好きなスープ、たっぷりお作りしますね」
早乙女さんはそう言って、慌ただしくキッチンへ向かった。
私はテーブルに、ポケットから取り出したあの瓶をそっと置いた。
星を詰め込んだ瓶を、じっと、じっと見つめる。
――そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
私は立ち上がり、ドアを開ける。
そこに立っていたのは――和樹のお母さんだった。
彼女は私の顔を見るなり、驚きの声を上げた。
「まあっ、ありすちゃん!そんなに顔色悪くして……!」
すぐに私の手を取って中へ引っ張り込み、今にも病院へ連れて行こうとする勢いだった。
私は慌てて彼女を制した。
「だって、ありすちゃん、今は大事な身体なんだから。赤ちゃんのこともあるし、無理しちゃダメよ」
彼女は心底心配そうな顔でそう言った。
「……和樹は?あの子、そばにいないの?
最近、あの子会社にも全然顔を出さないから、私たち、てっきりありすちゃんと一緒にいると思ってたのよ。
早乙女さんから連絡なかったら、私、ずっと気づかないままだったわ……ありすちゃん、あなたも隠すつもりだったんでしょう?」
彼のお母さんは、昔から私にとても優しかった。
その温かさに、胸がじんわりとあたたまる。
だけど、何を言えばいいのかわからずにいたら――
タイミングよく、早乙女さんがスープを持って現れた。
「粟田さん、差し出がましいようですが……ずっとご様子が気になっておりまして、心配しておりました」
私は微笑んで首を振った。
「そんなわけないよ、早乙女さん。ありがとう」
そのとき、再び玄関のドアが開く音がした。
顔を上げると、入ってきたのは――和樹だった。
彼は私たちを見て、少し驚いたような顔をする。
「……母さん、なんでここに?」
彼のお母さんはすぐに眉をひそめた。
「よくそんな顔して聞けたわね。あんた、一体どこほっつき歩いてたのよ?ありすちゃんを一人にして」
和樹は気まずそうに視線をそらし、口ごもった。
「……ちょっと、仕事で……」
「仕事より大事なもんがあるでしょ!ありすちゃんは今、赤ちゃんを身ごもってるのよ?自分でなくても任せられる仕事くらいあるでしょうに!」
彼のお母さんの言葉に、私はそっとその手を握った。
「大丈夫だよ。和樹も忙しいんだから……心配しないで。私は平気だよ」
彼は申し訳なさそうに私を見つめた。
「ありがとう……ありす」
その「ありがとう」が、何に対してなのか、私にはわからなかった。
私が助け舟を出したことか、それとも――彼を責めなかったことか。
彼のお母さんは強く言い放つ。
「今夜は絶対に帰らせないから。ありすと一緒に過ごしなさい」
「でも……」
和樹は何か言いかけて、すぐに言葉を詰まらせた。
きっと、自分でもこの状況の後ろめたさをわかっているからだ。
その夜、部屋には壁にかかった小さな明かりだけが灯り、
ぼんやりとした光に照らされる私の顔は、ますます弱々しく見えた。
コンコン――
控えめなノックのあと、和樹がそっと部屋に入ってきた。
ベッドの端に腰掛け、様子をうかがうように口を開く。
「……ありす、瑠奈が、まだ待ってるんだ……あいつ、一人じゃ無理なんだよ」
私は何も言わずに、そっとあの瓶を取り出した。
和樹が、それを見て首をかしげる。
「……それ、何だ?」
「九十九個の星だよ。全部、折り終わったの」
私がそう言うと、和樹は一瞬、目を見開いた。
「もう……九十九回、終わったのか」
私はそっと問いかけた。
祈るような声で、すがるように。
「それでも、行っちゃうの?」
だけど、その小さな願いも、届くことはなかった。
「ありす……瑠奈は記憶を失ってるんだ。今、俺がそばにいてやらなきゃダメなんだよ。
でも、約束する。瑠奈の体が良くなったら、ちゃんとあいつを遠くにやって――それからは、ずっとお前だけを大事にするから……な?」
私は、無理やり笑って頷いた。
だって、わかってたから。
彼の心が、もう私には向いていないってことくらい。
強がるように笑いながら、私は小さなお願いをした。
「……赤ちゃんに、ひとつだけ。ベビー用の足輪が欲しいの。記念に」
和樹は、優しく私の頭を撫でた。
「ああ、いいよ。仕事が片付いたら、一緒にベビー用品も選びに行こうな」
その言葉を最後に、扉の閉まる音が静かに響いた。
――そして、部屋の中に残ったのは、私のすすり泣く声だけだった。
私は震える手で電気をつけ、クローゼットから検査結果の紙束を取り出す。
それは、かつて私を涙ぐませた、幸せの証だった。
このお腹に、小さな命が宿ったことを知った、あのときの喜び。
でも今は違う。
手にしたそれは、私に再び涙を流させるだけだった。
――もう、そこには悲しみしかなかった。
第3話
検査結果の束の下に、ふと、色あせた一枚の便箋が挟まっていた。
それは――和樹が、初めて私に想いを伝えてくれたとき、自分の手で書いてくれた手紙だった。
そっと指でなぞると、あのときの彼の、まっすぐな筆跡が指先に伝わってくる。
でも、もう違う。
今の和樹の目には、瑠奈しか映っていない。
そんなことを考えていたときだった。
いきなり扉が開いて、和樹が入ってきた。
私の顔を見て、一瞬ぎょっとした表情になる。
「――どうした?なんで泣いてるんだ」
彼は慌てて私に近づき、涙を拭こうと手を伸ばしてきたけど、私はそっと身を引いた。
「大丈夫だよ」
涙声になりながらも、私は笑おうとした。
「ただ……自分に赤ちゃんができた日のこと、思い出しただけ」
和樹の視線が、私の手元に気づいた。
私は咄嗟に、便箋を隠すように引き寄せる。
「……さっき探し物をしてたら、うっかり出てきちゃっただけだから」
和樹は訝しむような目で私を見たけど、それ以上何も言わなかった。
「今、お腹に子どもがいるんだから、あんまり泣くなよ」
「平気だよ。心配しないで。
……それで、なんで戻ってきたんだ?」
「着替えを取りに。それと……あの、ベビー用の足輪、どんな模様にするか聞きたくて」
思いがけない質問に、私は一瞬言葉を失った。
まさか、そんなふうにちゃんと考えてくれているなんて、思わなかったから。
「……『すべてがうまくいきますように』って意味の模様で、いいんじゃない?」
私は俯き、お腹に視線を落とす。
「……あなたが決めたのでいいよ」
――それでいい。
きっと、これからは、お互いに別々の幸せを目指していくのだから。
荷物をまとめ終えた和樹が、もう一度こちらを見る。
「本当に……大丈夫か?」
その顔を見て、思わず、胸の奥から小さな希望が湧いてしまった。
「……もし、私が『平気じゃない』って言ったら――
少しは、ここにいてくれる?」
思わず漏れたその問いに、和樹は苦笑いした。
「ありす……そんなこと言うなよ。
瑠奈が待ってるんだ……一人にさせたくないんだよ」
私は、かすかに笑った。
「冗談だよ。早く行ってあげな」
心の中で、自嘲する声がした。
――本当に、馬鹿だな。
まだ期待してる自分がいるなんて。
どうして、まだ和樹に期待してしまうんだろう。
そんなの、もうしちゃいけないってわかってるのに。
私は立ち上がり、黙々と荷物をまとめ始めた。
考えたくない、思い出したくない。
けれど、心の奥に沈めたはずの想いが、涙になってあふれ出してしまう。
荷造りを終えて、荷物をそっと脇に置いたとき――
ふと視界の端に、あのガラス瓶が映った。
星が詰まった、小さな瓶。
それは、私がひとつひとつ願いを込めて折ったものだった。
だけど、和樹が、自らの手で粉々に壊してしまった。
私は瓶から一つの星を取り出し、折り目をなぞるようにゆっくり開いた。
掌の上に広がった小さな星を見つめていたとき――
指先に、そっと光るリングが目に留まった。
それも、かつて和樹が「君だけのために」と作ってくれたものだった。
――「世界で一つだけの指輪を作る」
そう、あの日彼は確かにそう言ってくれた。
――
翌朝、目を覚ますと、スマホにメッセージが届いていた。
【足輪ができたよ。取りにおいで】
和樹からだった。
その文面を、私はただ静かに見つめた。
彼らは、もう病院を出て、新しい住まいに移っていた。
私がそれを知ったのは、今日が初めてだった。
案内されたその家の門の前に立ち、私はインターホンを押した。
中に通され、広々とした庭へ。
そこには、ブランコに揺られながら、悠々と遊んでいる瑠奈の姿があった。
まるで、丁寧に飾られたお姫様のようだった。
悩みも不安もなく、ただ穏やかな時間を楽しんでいる。
――少しだけ、羨ましいと思った。
ほんの少し、心の奥で。
私は深呼吸して、できるだけ冷静に声をかけた。
「……和樹は?」
瑠奈はくるりとこちらを振り向き、得意げな顔を見せた。
まるで、すべてを手に入れたかのような笑み。
「ありすねえ、足輪を取りに来たんだよね?」
私は小さく頷いた。
瑠奈はさらに満足そうに歩み寄り、そして――
私は気づいた。
彼女の首には、小さな足輪がかかっていた。
「これ、気に入っちゃったから――和樹にいにねだって、もらっちゃった。
ありすねえも欲しいなら、あとで和樹にいに頼めば?すぐまた作ってもらえるよ」
私は、得意げに笑う瑠奈を見つめた。
その瞬間、心が、氷の底に突き落とされたみたいだった。
――もう、あの子は、この世界に生まれてくることすらできないのに。
――私はただ、あの子のために、たったひとつ、思い出になる足輪が欲しかっただけなのに。
なのにどうして――
どうして、そんな大切なものを、こんなにも簡単に、彼女に渡してしまったの?
胸の奥に押し込めたはずの苦しみが、雪崩みたいに溢れ出す。
私は今まで、何も求めなかった。
瑠奈のそばにいてほしいって言われたときだって、頷いた。
和樹のすべてを、許してきた。
なのに、どうして。
――これだけは、絶対に、許せない。
これは、私と、あの子だけの、大切なものだったのに。
怒りがこみ上げ、体が震えた。
目に涙がにじみ、視界が赤く染まる。
瑠奈は、そんな私の様子に気づいて、驚いた顔をした。
でも――
私はもう、我慢できなかった。
思わず、手を振り上げる。
パシンッ!
鋭い音が庭に響いた。
瑠奈は信じられないという顔で、頬を押さえた。
「あんた……あたしを叩いたの?」
私は低い声で、震えながら言った。
「――この一発は、私の子どものため」
私はもう、彼女の顔も見たくなかった。
そして──和樹のことも。
足早に背を向ける。
後ろでは、瑠奈の泣き声が響き始めた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた和樹が飛び込んでくる。
「瑠奈っ!どうした!?その顔、誰にやられたんだ!?」
和樹が駆け寄ったその隙に、瑠奈はこっそり首にかかっていた足輪を外し、ポケットに押し込んだ。
そして、涙でぐしゃぐしゃの顔で、訴えるように言った。
「ありすねえが……っ……あたし、ただ、足輪がどこにあるか知らないって言っただけなのに……
なのに、あたしが無くしたって怒って、いきなり叩いてきたんだよ……」
和樹は、怒りに顔を曇らせた。
「大丈夫か……もう、無理するな」
彼は瑠奈を優しくなだめながらも、心のどこかでふと疑問を覚えた。
――ありすが、本当にそんなことをするだろうか?
「和樹にい、顔……顔が痛いよ……」
泣きながら甘える瑠奈に、和樹は優しく声をかけた。
けれど、彼の心の中では、疑いの芽が静かに膨らみ始めていた。
使用人の声が、和樹の思考を断ち切った。
「霧島先生がお越しです」
「病院嫌いだろ?だから、俺の専属医に来てもらったんだ。これからはわざわざ病院に行かなくてもいい」
霧島先生――和樹のプライベートドクター――は、瑠奈の簡単な診察を済ませると、バッグから一枚の書類を取り出した。
「先ほど病院に行って、瑠奈さんのカルテを取ってきました。
確認しましたが、今は精神的な刺激にさえ気をつければ、順調に回復していくでしょう。どうかご安心を」
和樹は安堵の息をついた。
しかし、霧島先生はさらにもう一枚、別の書類を差し出した。
「それから――こちらは、たまたま目に留まったので、一緒に持ってきました。
粟田さんのカルテです」
和樹は不思議そうに眉をひそめた。
「……それが、どうかしたのか?」
霧島先生は、少し躊躇いながら告げた。
「粟田さん、つい先日……流産されています。
今は特に身体を大事にしなければ、後々、体に負担が残る可能性があります」
――流産。
その言葉を聞いた瞬間、和樹は雷に打たれたみたいに立ち尽くした。
「……流産?誰が……!?」
掠れた声で問い返した。
霧島先生は困惑したように、静かに答えた。
「……天音さん、ご存じなかったんですか?
粟田さん、一週間前に――もう……」
和樹は、全身から血の気が引いていくのを感じた。
なぜ。
なぜ、ありすは何も言わなかった?
なぜ、自分は何も、気づかなかった?
震える手で、霧島先生からカルテを奪い取った。
そこに、しっかりと書かれていた。
――粟田ありす、流産。