忘却の風に身を任せ

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忘却の風に身を任せ

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神崎颯真(かんざき そうま)が事故で大怪我を負った。それを聞いた七瀬詩穂(ななせ しほ)は急いで病院へ駆けつけ、大量出血の彼に1000ccもの血...

Chương (1)

第1章

神崎颯真(かんざき そうま)が事故で大怪我を負った。それを聞いた七瀬詩穂(ななせ しほ)は急いで病院へ駆けつけ、大量出血の彼に1000ccもの血を提供した。 彼の仲間たちが「早く帰って休んだほうがいい」と口々に言うものだから、詩穂は仕方なく病室を後にしたのだが、出口まで来たところで、どうしても心配が募り、また引き返してしまった。 しかし、戻った彼女の目に飛び込んできたのは、看護師が自分の血液が詰まった五袋もの輸血パックをゴミ箱に捨てている光景だった。 その直後、隣の病室から天井が抜けそうなほどの笑い声が響き渡っている。 「はははっ、あのバカ、また騙されたぞ!」 第1話 神崎颯真(かんざき そうま)が事故で大怪我を負った。それを聞いた七瀬詩穂(ななせ しほ)は急いで病院へ駆けつけ、大量出血の彼に1000ccもの血を提供した。 彼の仲間たちが「早く帰って休んだほうがいい」と口々に言うものだから、詩穂は仕方なく病室を後にしたのだが、出口まで来たところで、どうしても心配が募り、また引き返してしまった。 しかし、戻った彼女の目に飛び込んできたのは、看護師が自分の血液が詰まった五袋もの輸血パックをゴミ箱に捨てている光景だった。 その直後、隣の病室から天井が抜けそうなほどの笑い声が響き渡っている。 「はははっ、あのバカ、また騙されたぞ!」 呆然としながら半開きの病室の扉を覗き込むと、人だかりの中に、病衣を着たあの男の姿が見えた。 颯真はベッドにだらしなくもたれかかり、スマホをいじっている。少しばかり誰かの背で顔が隠れているものの、しっかりした鼻筋と、彫りの深い眉骨ははっきりと見て取れる。 どこが重傷なんだ? 詩穂は目を瞬かせ、自分が悲しみのあまり幻覚を見たのではないかと思った。 「なあ、みんな、今回で何回目の復讐か数えてみようぜ?」 「最初はな、兄貴が贈る予定だったネックレスをなくしたって嘘をついて、あいつが大雪の中を一晩中探し回ったときだな。結果、40度の高熱を出しても諦めなかったっけ」 「二度目は、兄貴が意識不明になったって騙して、あいつは999段の階段を夜通し登ってお守りを手に入れてきた。でも、そのお守りは兄貴がとっくに捨てちまったけどなあ」 「三度目はカンニングをでっち上げて、あいつの卒業を潰した。必死に無実を証明しようとしている姿、今思い出しても笑いが止まらないぜ」 「今回の献血の件で、たしか九十六回目だろ?あと三回でゲーム終了だ。いやぁ、兄貴もよく我慢したもんだ」 「だってさ、あいつ昔、緋月のダンス大会の優勝を奪ったんだから。一晩中泣きじゃくった緋月の姿を見て、兄貴が許すはずないじゃん。だからこそ兄貴はあいつと付き合って、99回復讐するって決めたんだよ。でも、復讐終わったら、あいつはポイだな。ちょっと寂しくなるけど、まあ仕方ないか」 …… 耳の奥がジンジンする。まるで雷が頭上で炸裂したかのような衝撃だった。 詩穂は心がまるで刃物で切り裂かれるように痛み、胸を押さえながら大きく息を吸い込む。苦しくて呼吸すらままならない。 信じられなかった。今聞いた言葉。あの颯真が、まさか自分と付き合った理由が、復讐のためだったなんて。 彼は、自分がどれだけ彼を好きだったか、きっと知っていたはずなのに。 神崎颯真――京市で名を馳せる名家の御曹司。学業、家柄、容姿、どれをとっても完璧な存在だ。当時、彼を一目見た女子は誰もが彼に恋をするという噂まで流れたほどだ。 七瀬詩穂もそんな彼に恋をした一人だった。 詩穂はプライドを捨てて三年間も追いかけ続けた。彼はずっと無反応だったけれど、ある日突然、奇跡のように告白を受け入れてくれた。 本当に夢が叶ったと思っていた。まさか、それが全部、残酷な復讐劇だったなんて。 彼が彼女の告白を拒んでいたのは、心の中に白石緋月(しらいし ひつき)という存在がいたから。 そして告白を受け入れたのは、自分が緋月の優勝を奪い、緋月を泣かせたから。 その復讐のために、彼は99回の嘘で、彼女を地獄の底へ突き落としたのだ。 涙が止まらない。喉は何かで塞がれたように苦しく、息をすることさえできない。 病室の中で、嘲笑う人々。颯真の冷たい横顔。 自分が、まるで道化のようだと、ふと気付く。 真心を込めて自分の気持ちを差し出したのに、彼はそれを容赦なく踏みにじり、ゴミのように投げ捨てた。まるで紙くず同然にされたかのようだった。 その時、病室の誰かが異変に気付き、扉の方を振り向いた。 詩穂は慌てて背を向け、早足でその場を離れた。 歩くうちに、どんどん速くなり、ついには走り出していた。 どこへ行けばいいのか分からない。ただ、ここから逃げ出したかった。颯真から、この悪夢から。 もう一歩も動けなくなるまで走り、ついにその場にしゃがみ込むと、涙が堰を切ったようにあふれ出す。 顔を両手で覆い、喉の奥から押し殺した嗚咽が漏れる。あふれる痛みと悔しさを、すべて涙で流すように。 笑っちゃうよね、七瀬詩穂。あんた、本当にどうしようもない馬鹿だ。 どれくらい時間が経ったかわからない。ふいにスマホが鳴った。 震えながら電話を取ると、母の柔らかな声が聞こえてきた。 「詩穂、お父さんも私も、もうすぐ海外に移住するわよ。本当に一緒に来なくていいの?」 少し前、親の海外赴任が決まり、一家で引っ越す予定だった。でも、颯真への未練が捨てきれず、ずっと答えを先延ばしにしていた。彼のために、京市に残ることさえ考えたほどだった。 だけど今は、こんなにも皮肉な気持ちしか湧いてこない。 「ううん」と、頬の涙をぬぐい、深く息を吸う。声は掠れていたけれど、決意だけははっきりと込めて答えた。「お父さん、お母さん、私も一緒に行く」 第2話 電話越しに、母の喜びに満ちた声が弾けた。「本当によかったわ!じゃあ、すぐに手続きするからね。手続きが終わったら、もう後戻りはできないからね」 スマホを握る指先は微かに震えていたが、それでも彼女の声は揺るぎなく響いた。「大丈夫、私は後悔なんてしない」 母が電話を切ろうとした時、ふと思い出したように尋ねてきた。「そういえば、詩穂の彼氏はどうするの?あれだけ長く追いかけて、すごく好きだったんじゃないの?」 「彼氏」という言葉が、鋭い針のように胸に突き刺さる。 脳裏に蘇るのは、あの病室の嘲笑、颯真がベッドにもたれスマホをいじる姿、彼の仲間たちの悪意に満ちた笑顔、そして緋月のために三年もの歳月を費やして自分に復讐した彼の冷酷さ。 心臓がぎゅっと縮み上がり、息が詰まりそうになる。 「もう好きじゃない」自分の口から出たその声は、掠れていたけれど、どこか静かで冷え切っていた。「もう二度と、好きにはならない」 電話を切った後、詩穂は道端に立ち尽くしたまま、冷たい風に髪を乱されていた。灰色の空を見上げ、深く息を吸い込み、「家」へと向かった。 ドアを開けた瞬間、懐かしい匂いが全身を包み込む。 玄関に立ち尽くし、見慣れたリビングの光景を眺める。 ここは颯真が、告白を受け入れたその日に渡してくれた鍵で入るようになった家。 あの日、彼はドアに寄りかかり、気だるそうに言ったのだ。「同棲しよう」 その時の自分は、恥ずかしくて、でも嬉しくて――これが二人の恋の始まりだと、本気で信じていた。 この家でいつか結婚して、子どもが生まれて、幸せな日々を過ごす。そんな未来まで、密かに夢見ていた。 けれど今となっては、すべてが滑稽に思える。 同棲?ただ復讐をやりやすくするための口実だったのだろう。 彼がどれほど緋月を愛していたのか。三年もの歳月をかけて、同じ家で暮らし、あんなに何度も自分と……セックスした。 すべては、自分に「愛されている」と信じ込ませるためだった。 その後の三日間、詩穂は一度も颯真を見舞うことなく、ひたすら家にこもっていた。彼に関するものを、ひとつひとつ整理し始めた。 片想い時代につけていた日記帳を取り出し、ページをめくる。 「今日も図書館で彼に会えた。彼の白いシャツ姿、本当に素敵!」 「今日は彼が私に話しかけてくれた。ただの頼みごとでも、一日中幸せだった」 「彼が私の告白を受け入れてくれた。これって夢かな」 ページをめくるたび、静かに涙がこぼれる。 日記帳をゴミ袋に投げ入れる。まるで、少しずつ自分の心から彼への想いを剥がし落としていくかのように。 次に手をつけたのは、彼に贈ったプレゼントの数々だった。 ネックレス、腕時計、コート、どれも彼への想いを込めて選んだものだった。 最後は、こっそり撮った彼の写真だった。 スピーチをする姿、バスケをする姿、廊下で誰かと話す姿……どの写真も、彼女を心からときめかせた。 全部、ゴミ箱へ。それは、過去の自分との決別だった。 三日目の夕暮れ、とうとう最後の荷物を整理し終えた。 がらんとした部屋の真ん中に立つと、不思議なくらい心が軽くなった気がした。 その時、颯真がドアを開けて帰ってきた。 空っぽになった部屋を見回し、眉をひそめる。「何か捨てたのか?」 詩穂は静かな目で彼を見上げた。「別に。ただのいらないもの」 颯真は少し苛立った様子で歩み寄った。「俺、あんなに重傷なのに、どうして一度も見舞いに来なかった?」 詩穂は薄く笑みを浮かべ、冷たく答えた。「もう退院したんじゃない?そんなに重傷なら、こんなに早く帰ってこられるはずないけど」 颯真は少し面食らったような顔をしたが、すぐに口を開いた。「お前が俺にたくさん血をくれたって聞いて、心配で帰ってきたんだ」 そう言いながら、彼女の腕に目をやり、珍しく優しい声を出した。「痛まないか?」 詩穂はそっと手を引っ込めて、静かに返す。「何も感じないわ」 颯真は彼女の冷淡な態度に気づき、眉を寄せた。「一体どうしたんだ?俺が入院しただけで、お前随分変わったな」 詩穂は彼を見つめ、一瞬だけ薄く笑った。「どこが?」 彼は答えなかった。だが、二人ともそれがどういう意味かわかっていた。 かつて、彼女の目には愛しかなかった。彼が少し風邪を引いただけで、彼女は大袈裟なほどに心配し、彼のそばを離れようとしなかった。 でも今は、彼が三日も入院していたのに、一度も連絡すらよこさなかった。 颯真はじっと彼女の顔を見つめ、何かを探るようにしていた。 そしてふいに、優しく低い声で切り出した。「最近疲れてるんだろう?今日、俺の歓迎会があるんだ。一緒に行こう!」 第3話 詩穂が断る暇もなく、颯真は彼女の手を引いて車へ連れていった。 車が高級クラブの前に停まると、颯真は車から降り、回り込んで彼女のドアを開けてくれた。 詩穂は黙ったまま車を降り、そのまま会場へ。 クラブに入ったその瞬間、彼女の視線は一つの馴染み深い人影に吸い寄せられた。 白石緋月。 白いワンピースに、長い髪をふわりと垂らし、優しい微笑みを浮かべながら友人たちと談笑している。 緋月は颯真の幼なじみだ。幼い頃から一緒に育った二人だが、詩穂が颯真と付き合っているこの三年間、二人が接点を持つことは一度もなかった。 まさか、颯真が緋月を好きだなんて、考えたことはなかった。 緋月が二人の手が繋がれたまま会場に入ってくるのを目にしたそのとき、彼女の笑みは微妙に変わり、まるで全てを知っているかのような含み笑いを浮かべていた。その「99回の復讐」についても、彼女が知っているということを…… 詩穂は急に息苦しさを覚えた。 颯真も緋月の存在に気づいたのか、彼女の手を握る指が一瞬強ばり、そしてそっと手を離した。 「ちょっと電話してくる。先に楽しんでて、すぐ戻るから」と彼は詩穂に言った。 詩穂はその場に立ち尽くし、彼の背中が遠ざかるのを見ていた。胸の奥が冷え切っていくのを感じる。 何かを言おうとする間もなく、緋月がおとなしく颯真の後を追っていった。 二人の背中が、会場の角を曲がって消えていった。 詩穂は二人がどこで何をしているのか気にする余裕もなく、すぐに颯真の仲間たちに囲まれた。 「お義姉さん、飲もうよ」彼らはニヤニヤしながら彼女に酒を差し出した。「私、お酒はちょっと……」 「いいじゃん、一杯だけ」 そう言って、彼らは詩穂の手に無理やりグラスを押し付け、彼女を前へ押しやった。 詩穂は振りほどいて逃げようとしたが、誰かの強い力で、背中を突き飛ばされた。 「きゃっ――!」 驚きの声を上げた瞬間、彼女の体はバランスを崩し、隣のプールに真っ逆さまに落ちていった。 冷たい水が一気に全身を包み込む。 詩穂は泳げない。必死に手足を動かすが、どんどん深みに沈んでいく。 口と鼻に水が入り、息ができない。意識がどんどん遠ざかっていく。 目の前が暗くなり、ついに、何も感じなくなった。 …… 再び目を覚ました時、詩穂は見覚えのある部屋のベッドに横たわっていた。 頭がぼんやりと重く、体が燃えているかのように熱い。 うっすら目を開けると、颯真がベッドの横に座り、水と薬を持っている。 「熱だ。薬を飲め」颯真の声は低く、どこか優しさを感じさせた。 詩穂はぼんやりと薬を受け取り、水で飲み下した。 それ以上考える余裕もなく、喉が痛むのを感じながら再び目を閉じようとしたが、体の熱はますますひどくなるばかりだった。 どれほど時間が経ったのかわからない。ようやく目を開けると、颯真の姿はもうなかった。 彼女はなんとか体を起こし、自分の額に手を当てた。熱い。まるで燃えるようだ。もうだめだ。病院に行かなきゃ…… ふらふらになりながら、ようやく病院にたどり着いた。 点滴を打ってもらい、ようやく熱が少し下がった。 診察を終えた医者が、眉をひそめて言った。 「早く来てよかったですよ。もう少し遅かったら、肺炎になるところでした」 ベッドにもたれながら、詩穂はかすれ声で尋ねた。「先生、ちゃんと薬を飲んだのに、どうしてこんなにひどくなったんですか?」 医者は少し驚いたような顔で、「どんな薬を飲んだんですか?」 詩穂はポケットから小さな薬瓶を取り出した。「彼氏がくれた風邪薬です」 医者はその瓶を開けて中身を確認した途端、表情が一変した。「これは風邪薬じゃありません。瓶は確かに風邪薬のものですが、中身はただの飴です。薬効はまったくありません。むしろ、病状を悪化させる原因になります」 心臓が、またしてもズキリと痛む。指先が細かく震えた。 その時、スマホが激しく振動し始めた。 かろうじて手に取り、画面を覗くと、颯真の仲間たちからのメッセージが次々に届いていた。 【ハハハ、第97回目の復讐大成功!】 【この作戦考えたやつ、天才すぎる。まずプールに落とし損ねて、次は兄貴が薬をすり替えるとか。あいつ今ごろきっと地獄みたいに苦しんでるな】 その直後、焦ったようなメッセージが飛び込んできた。【やばー、送るグループ間違えた!このグループ、あいつもいる!】 第4話 送られてきたメッセージは、すぐに次々と取り消された。まるで何事もなかったかのように。 詩穂は手にしたスマホを握りしめ、その手が微かに震えていた。心の奥底まで冷たい水に浸されたように、息すら苦しくなる。 結局、プールに落とされたのも、熱を出したのも、薬を飲まされたのも、全部彼らが仕組んだ復讐の一部だったのか。 そして、颯真が与えた「薬」すら、彼女をより苦しめるためのものだった。 ほどなくして、颯真から電話がかかってきた。 「お前どこにいる?なんで家にいないんだ?」低くてどこか焦ったような声だった。 詩穂は深く息を吸い込み、どうにか平静を装って答えた。「熱がひどくて、病院に来てるの」 電話越しに一瞬の沈黙が流れた後、颯真の声が再び聞こえてきた。「今行くから」 「来なくていいよ」と彼女は断った。「点滴が終わったら一日入院して、それで帰るから。最近忙しいでしょ、そっちの仕事を優先して」 颯真は数秒沈黙した後、不意に問いかけてきた。「スマホ、見たか?」 そうか、彼が電話をかけてきたのは、彼女があのメッセージを見たのではないかと恐れたからだ。 詩穂はさりげなく嘘をついた。「ううん。お医者さんに危なかったって言われて……スマホを見る余裕もなかった」 また沈黙。颯真の声は、どこか複雑な色を帯びていた。「俺がいるから、お前は絶対に大丈夫だ」 詩穂はスマホを握る手にさらに力を込めた。 俺がいるって。でも、すべての苦しみを与えたのは、この「俺」だったじゃないの。 退院したその日、詩穂はタクシーを拾おうと病院を出た瞬間、後ろから何人かが突然現れて、口と鼻を塞がれた。 抵抗する間もなく、意識が失ってしまった。 次に目覚めたとき、詩穂は薄暗いホテルの一室に横たわっていた。手足はきつく縛られ、周囲には数人のチンピラが、いやらしい笑みを浮かべて取り囲んでいた。 「目が覚めたか?安心しろ、兄さんたちが優しくしてやるさ」その中の一人が手を伸ばし、彼女の服を引き裂こうとした。 「やめて!誰なの、放して!」 詩穂は必死に抵抗した。だが、熱で弱った体では彼らに太刀打ちできるはずもない。 物を投げ、蹴りつけ、声を振り絞って叫んだものの、助けを求める声は届かない。 服を引き剥がされそうになる絶望の中、涙が止めどなく溢れた。 その時、バタンとドアが蹴り破られた。 「やめろ!」地獄の底から響くような颯真の怒声が部屋中に響き渡った。 チンピラたちは彼の気迫に圧倒され、怯えた様子で一目散に逃げ出した。 詩穂はベッドの隅で小さく震えながら、颯真を見上げた。初めて彼の目に、焦りと動揺が浮かんでいるのを見た。 「詩穂……」早足で近寄った彼は、震える手を伸ばして彼女を抱きしめようとした。 だが彼女は驚いた兎のように身を引き、恐怖に満ちた目で彼を見つめた。 颯真の手は空中で止まったまま、彼の瞳に一瞬苦痛の色がよぎった。 詩穂が何かを言おうとしたその瞬間、再び意識を失った。 …… どれだけ時間が経ったのか。ぼんやりと意識が戻ると、病室から低く押し殺した怒声が聞こえてきた。 「今回の復讐計画、なんで俺に何も言わなかった?」颯真の声だ。 「だってさ、さっさと99回の復讐を終わらせて、緋月と一緒になりたいんだろ?忙しそうだったから、こっちでやっといたんだよ」と、仲間の一人が気にも留めず言った。 「俺は、あいつらにあんなことさせるなんて言ってない!」颯真の声が一気に高まり、怒りが爆発した。 その気迫に、仲間たちは驚き、信じられないといった表情を浮かべた。「何だよ、やっちゃいけなかったのか?どうせ復讐なんだから、徹底的にやるって最初から決めてたじゃん。そんなに怒ることかよ?」 颯真は何も答えず、テーブルを蹴り飛ばした。 なぜ、こんなにも怒っているのか。 彼自身も分からなかった。 この数年、詩穂はいつも彼の後ろを追いかけてきた。まるで明るい太陽のように、彼の目の前で笑い続けていた。彼が彼女の告白を受け入れた時、彼女の顔に浮かんだ信じられないという表情、そして泣きながら喜んだ姿、今でも鮮明に覚えている。 だが、今の彼女はどうだろう。 ベッドの上で枯れた薔薇のように横たわり、命の輝きを失っている。 その姿に、自分はどうしようもなくうろたえていた。こんな彼女、見たくなかった。 彼女が力なく自分を見つめるその瞳が、彼の心を締め付ける。 静まり返った空気の中、誰かがぽつりとつぶやいた。 「兄貴、大丈夫か?今までの芝居が本気になっちゃった?まさか、あの女を好きになったなんて言わないよな?」 第5話 病室の中は、空気が凍りついたように静寂に包まれていた。 先ほどまで怒りに燃えていた颯真は一瞬、全身が固まった。 頭の中には、たった一つの言葉だけが何度も繰り返されている―― 「まさか、あの女を好きになったなんて言わないよな?」 「あの女を?そんなはずがあるか!」 颯真は即座に否定した。そう必死に自分に言い聞かせるように否定を繰り返すことで、胸の奥に湧き上がる奇妙な感情を消し去ろうとした。 彼が好きなのは、ずっと緋月だけだ。詩穂なんて、復讐のための存在にすぎない。 けれど、もし本当に彼女に何の感情もないのなら、どうして、あのチンピラたちが彼女に覆いかぶさっていた時、あんなに怒りが抑えられなかった? 緋月が誰かに言い寄られたときですら、あれほどまでに衝動的になったことはなかったのに。 颯真の言葉が途切れると、再び部屋には沈黙が訪れた。 仲間たちはほっとしたように肩をなで下ろした。 その中の一人が、彼の肩を軽く叩きながら笑った。「なんだよ、早く言えよ。兄貴が好きになったんじゃないかって、マジで肝を冷やしたぜ。遊びの復讐で自分まで巻き込まれるとか、笑い話にもならねーだろ。もし緋月が知ったら、泣くどころじゃすまないからなあ」 颯真は何も言わず、ただ胸の奥で燻る感情を必死に押し殺そうとしながら、冷たく言い放った。「俺があの女を好きになることなんて、一生ない」 仲間たちは安心したように笑い、「そうだろう。まあ、あいつもそろそろ起きるし、俺たち先に帰るわ」と病室を出て行った。 みんなが出て行った後、颯真はゆっくりとベッドのそばに歩み寄り、眠る詩穂を見下ろした。 その顔は青白く、眉をひそめ、苦しそうな寝息を立てている。 彼は無意識に手を伸ばし、彼女の頬に触れようとした。だが、指先が彼女の肌に触れる直前、まるで火傷でもするかのように慌てて引っ込めた。 彼は窓際へ向かい、煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。煙で心のざわめきを誤魔化そうとするかのように。 詩穂が目覚めた時、病室には颯真だけがいた。 彼はベッドの横に座り、水を手にしていた。「具合はどうだ?まだ辛いか?」 詩穂は何も答えず、ただ顔を横に向けて彼の視線を避けた。 それから数日間、颯真は病院に付き添い、彼女の世話をしていた。 時折、電話がかかってくると外に出ていく。戻ってきた時の彼の表情には、どこか柔らかい温かみが宿っている。 詩穂には分かる。彼が電話越しに話しているのは、きっと緋月だ。 思い返せば、付き合っていた頃もそうだった。時折「仕事だから」と言って電話をかけていた。 その時は何の疑いも持たなかったけれど、今になってようやく気づいた。あの電話の相手は、初めから緋月だったのだと。 薬の交換に来たのは、若く爽やかな医者だった。 「前の主治医じゃないですよね?」思わずそう尋ねると、若い医師は穏やかに微笑んだ。 「ああ、今日は僕の師匠が回診に出ているので、代わりに僕が来ました。僕は研修医です」 詩穂は軽く頷き、それ以上は何も言わなかった。 若い医師は薬の交換を始めた。動作は丁寧で、顔には微かに赤みが差しているように見えた。 薬の交換が終わり、部屋を出ようとした彼は、少し迷った様子で振り返って尋ねた。「あの……もしよければ、連絡先を教えてもらえませんか?」 詩穂は驚いて目を丸くした。答えを出す間もなく、ガチャッと病室の扉が勢いよく開き、颯真が中に入ってきた。 彼は若い医師に冷たい視線を向けると、低く冷徹な声で言い放った。「彼女には恋人がいる。見て分からないか?患者に手を出すなんて、お前、仕事なくしたいのか?」 第6話 若い医者は颯真の威圧感に押され、慌てて謝ると、病室を出ていった。 颯真は不機嫌そうに詩穂のそばに進み寄り、少し苛立った口調で言い放った。「こういう時は、彼氏がいるってちゃんと言えよ。それくらいの一言がそんなに難しいのか?」 詩穂は、彼を見つめながら、心の中でただ呆れるばかりだった。 自分を好きになることは一生ないと言ったのに、この突然の独占欲は何なのだろう? 退院後しばらくして、颯真が突然詩穂を同窓会に連れて行くと言い出した。 彼は元々こういった集まりに顔を出すのを嫌っていた。それなのに、今回は自ら提案してきた。何か裏があるのは明らかだった。 やっぱり、会場に着くと、すぐに緋月の姿が目に入った。 颯真は表向きには緋月と距離を置いているように見せていたが、好きな気持ちは隠しきれない。 同窓会が進む中、詩穂は途中でトイレへと向かった。戻ってきた時、みんなは「王様ゲーム」をやってて、ちょうど緋月が負けて罰ゲームを受ける番だった。 彼女が恥ずかしそうに口を開きかけたその時、颯真がカードを奪い取った。「俺が代わりに答える」 カードの質問は、「あなたの性的な妄想の対象は誰?名前のイニシャルで答えなさい」 その場が一瞬静まり返った後、周囲の人々がざわざわと騒ぎ始めた。「えー!簡単な質問でしょ?だって彼女いるんだし、絶対彼女の名前だよね!」 彼は少し黙り込んだ後、淡々と口を開いた。「H.S.」 詩穂の心が一瞬で冷え切り、指先が微かに震えた。 H.S.―― 白石緋月。 それ以上その場にいることは耐えられなかった。 会場を抜け出し、颯真に「具合悪いから先に帰る」とだけメッセージを送って外に出た。 タクシーを拾おうとした時、「詩穂!」と背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。 振り返ると、颯真が駆け寄ってきた。 「どうして出てきたの?」彼女が問いかけた。 彼は少し眉をひそめ、どこか焦ったような表情で答えた。「お前が具合悪いって言うからだ。どこが悪い?病院に行こう?」 詩穂は彼を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が渦巻くのを感じた。 彼女は首を横に振り、平静を装った声で答えた。「大丈夫。ただ少しめまいがしただけ。……それより、もう戻らなくていいの?」 「お前は俺の彼女だろう?彼女が体調悪いってのに、俺が遊び続けるわけないだろ」そう言って、彼女の額に手を当て熱を確かめる。 詩穂は彼の言葉に戸惑いを覚えた。 彼は緋月に会うために同窓会に出たのではないか? なのに、どうして彼女の一通のメッセージでここまで追いかけてくるのか? だが、彼女は何も聞かなかったし、聞く必要もなかった。 つい先ほど、両親から一通のメッセージが届いたのだ。手続きがほとんど終わった。明後日にはここを離れられるのだ。 颯真は彼女に熱がないと確認すると、安心したように「帰ろう」とだけ言った。 …… その夜、詩穂が眠りに落ちた頃、不意にベランダの方から微かな声が聞こえてきた。 彼女は目を覚まし、ベッドから抜け出して音のする方へ向かった。 そこには、颯真がタバコを咥え、スマホをスピーカーにして通話している姿があった。 「兄貴、99回目は思いっきりやろうぜ!明後日記念日だろ?サプライズだって言って、あの女の目隠しして、あの廃墟の別荘に連れていこうよ。それで、兄貴は何か理由をつけて外に出て、俺たちが火をつけてやる。彼女を中に閉じ込めれば、絶対に絶望するぞ!」 「それ最高!絶望でドアを叩きまくる顔、見てみたい!」 電話の向こうでは、男たちが哄笑しているのが聞こえる。みんなはその計画が素晴らしいとでも言うように盛り上がっている。 だが、颯真の額には青筋が浮かび、声には抑えきれない怒りの色が滲んでいた。「ダメだ、そんなこと絶対にさせない」 第7話 「なんでダメなの?早くこの復讐ゲームを終わらせたいって言ってたじゃないか?人が死ぬようなことには絶対しないから!あいつが限界ギリギリまで追い詰められたタイミングで、ちゃんとドアは開けるからさ」 颯真の声は、相変わらず冷たくて硬かった。「ダメだ、リスクが高すぎる。彼女に何かあったら困る」 電話の向こう側から、不満げな声が返ってきた。「マジで言ってんの?兄貴が緋月ちゃんを置いて、あの女を追いかけてたから、緋月ちゃんが一晩中泣いてたじゃん。兄貴がどれだけ時間かけて慰めたのか。 緋月ちゃんに変な勘繰りさせないために、こうして第99回目の復讐計画を練ってるんじゃなかったの? それなのに、こっちダメ、あっちもダメって、どういうつもり?本当に好きな人、誰だったか忘れたわけじゃないよな? さっさとあの女とは縁切って、緋月ちゃんの元に戻ってよ。それがずっと望んでいたことじゃないのか?」 颯真の呼吸が突然、荒くなった。何か言い返そうとしたようだったが、ちょうどその時、電話の向こうから、緋月の声が聞こえてきた。 「颯真、さっきの話、全部聞いてたよ。今、一つだけ聞く。あの女への復讐、どうしてもこの方法じゃなきゃダメなの。颯真は賛成するの?それとも反対?」 颯真は黙り込んだ。 緋月の声は、涙声に変わった。「颯真、言ったよね。私のためなら何でもするって!」 彼はやっと口を開いた。かすれた声で、「分かったよ、君の言う通りにする」 緋月は涙まじりに笑い、仲間たちも興奮した声を上げた。「やったな!本当にその日が楽しみだぜ!」 颯真は何度も念を押した。「絶対に、事故を起こすなよ」 陰の中で、詩穂は心臓を誰かにぎゅっと掴まれたかのような痛みを感じて、息すらまともにできなかった。 彼女は静かに部屋へ戻り、スマホを手に取ると、メッセージを送った。 …… 記念日当日。颯真は計画通り、詩穂に言った。「詩穂、今日はサプライズがあるんだ。目を閉じて、連れて行きたい場所がある」 詩穂はじっと彼を見つめ、抵抗せずに目を閉じた。 颯真は微かに笑い、リボンで彼女の目を覆い、手を引いて車に乗せた。 車が止まると、颯真は彼女を別荘の中へと案内した。「ここで少し待っててくれ。プレゼントを取ってくる。すぐ戻るから」 詩穂はその場に立ち、颯真の足音が遠ざかるのを聞いていた。 ちょうど彼がドアを閉めようとしたその時、詩穂は彼を呼び止めた。 「颯真、ねえ、知ってた?私、本当に颯真のこと、好きなんだ」 颯真は一瞬立ち止まり、彼女の声に耳を傾けた。 「ずっと、ずっと好きなんだ。颯真が付き合おうって言ってくれた時、もう嬉しすぎて……夢かと思ったんだよ。だから、あの日は一睡もできなかった。枕、涙でびしょびしょになってた。馬鹿みたいでしょ?」 颯真は何も言わなかったが、呼吸が少し荒くなっていた。 彼女は続けた。「今日は私たちの三周年記念日だよ。颯真が初めて私にプレゼントを用意してくれた日。ずっと楽しみにしてたんだ」 颯真は喉が渇いたように、しばらくしてから低く言った。「すぐ戻る。待っててくれ」 ドアが閉まった。 その瞬間、詩穂はリボンを外し、すぐに空気中に漂う強いガソリンの匂いに気付いた。 彼女は微笑んで、壁際に隠してあった人形を引っ張り出した。 これは、あの日の電話を聞いてから、彼女が自分そっくりの等身大で特注したダミーだった。火に包まれた後、誰もがそれを彼女本人だと信じるだろう。 机の上にレコーダーを置いておいた。そこには、彼女が事前に録音した「助けを求める声」が入っていた。 「颯真、私を98回も騙したよね。99回目は、私の番だ」 彼女は小さく呟くと、レコーダーの再生ボタンを押した。 すぐに、別荘の中に彼女の声が響き渡る。「助けて!ドアを開けて!颯真、助けて!」 彼女は振り返らず、裏口から外へ出て、そのままタクシーで空港へ向かった。 遠くで、炎が夜空を明るく照らしていた。