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幾たびの歳月、いかほど深く
周藤光陽と婚約を解消したとき、誰もが口を揃えて言った。 元松紗江の人生はもう終わりだ、と。 彼に五年間尽くし、彼の期待に応えるために、...
Chương (1)
第1章
周藤光陽と婚約を解消したとき、誰もが口を揃えて言った。
元松紗江の人生はもう終わりだ、と。
彼に五年間尽くし、彼の期待に応えるために、自身の評判すら投げ捨てた。
そんな彼女を引き受けようとする男など、もうどこにもいないと誰もが思っていた。
やがて、光陽に新たな恋人ができたという噂が社交界に広がると、周囲の人々は当然のように、紗江が未練たらしく彼に縋りつくのを待っていた。
だが、誰も知らなかった。
紗江は自ら望んで、年若い妹の代わりに港市との政略結婚を引き受けたのだと。
嫁入り前、紗江は光陽から贈られた宝石箱をきちんと返却した。
少年の頃、彼が手作りで贈った空白の願い事カードさえも。
未練も、しがらみも、すべて綺麗に断ち切って旅立った。
それからずいぶんと時が経ったある日、光陽はふと紗江の名を口にした。
「ずっと音沙汰もない......紗江は、もう死んだのか?」
同時に、新婚の夫の熱い口づけで目を覚まされながら、紗江は甘く囁かれた。
「紗江、いい子だね。四回って約束したよね?一回も、減らしちゃだめだよ......」
第1話
周藤光陽(すとう こうよう)が突然「結婚したい」と言い出したあの日。
元松紗江(もとまつ さえ)はもう三ヶ月も彼に会っていなかった。
最後に会ったとき、彼が友人たちに「彼女にはもう飽きた」と言っているのを、偶然耳にした。
その場にいた人々は、みな笑っていた。
五年間も光陽について回り、彼に合わせるために名声を汚した。結局彼に捨てられたのだ。
この三ヶ月間、実家の元松家での暮らしは辛いものだった。数日前に父・元松文宏(もとまつ ふみひろ)が酔って、彼に殴られた。その時の傷が今も背中に鈍く痛んでいる。
だからこそ、今日突然光陽から電話がかかってきて、来てほしいと言われたとき、紗江の心にはまた一縷の希望が灯った。
婚約のときに贈られた翡翠の腕輪をわざわざ身に着けて、急いで彼の元へ向かった。
別荘に着いたとき、光陽はすでに酔っていた。
目を閉じて、若い女の子の膝にもたれかかるようにしていた。
その子はまだ学生のようで、純粋そうな雰囲気を纏っていた。
紗江が部屋に入ると、彼の頭をマッサージしていた少女は慌てて立ち上がろうとした。
だが、彼女の手首は光陽に握られたままだった。
「そのままでいい」
彼は目も開けず、ただ少しだけ力を込めて手を引いた。
少女の体は彼に引き寄せられた。
素直に顔を伏せ、彼に唇を奪われるままになった。
彼は手を離すと、今度は彼女の顎を指でつまんだ。深く、音を立ててキスをした。
紗江は入口でクラッチバッグを握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
やっと気持ちを整え、何事もないように窓の外を見ながら言った。
「先に庭を見てくるわ。あとでまた来るから」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、光陽がふっと鼻で笑った。
彼の隣にいた少女はすぐに気を利かせて立ち上がった。
「じゃあ、私が先に外に出ます。元松さんは用事がありそうですね」と、遠慮がちに言った。
今度は光陽も彼女を引き止めることはしなかった。
ただ、彼女の手をしばらく弄んでから、名残惜しそうに手を放して、「外は寒いから、風邪ひくなよ」と優しく言った。
少女は口元に微笑みを浮かべて頷いた。
長く黒い髪がほとんど顔を覆い、赤らんだ頬を隠していた。
紗江のそばを通るとき、丁寧に「元松さん」と挨拶してくれた。
紗江は軽く会釈しながら、笑顔で応えた。
この子はまだ若く、透き通った瞳と、おどおどとした様子が、妹にどこか似ていたと、紗江は思っていた。
「紗江、こっちに来い」
光陽はソファにもたれ、隣の空いた席を手で叩いた。
豪華で絢爛な巨大なシャンデリアが色とりどりの光を放ち、その光に照らされた彼の顔は、細く整った輪郭に、際立った目鼻立ちだった。
光と影の中で、現実離れした美しさを纏っていた。
一瞬、紗江は幻のように感じて、胸の奥が苦しくなった。
彼の艶やかな切れ長の目は酒気を帯び、目尻には赤みが差していた。
開いたシャツの襟元から見える鎖骨と首筋には、いくつものキスマークが残っていた。
「さっきの子が小嶋彩葉(こじま いろは)だ」
紗江は頷いた。「うん、知ってる」
「どう思う?」
少し考えてから、真剣に答えた。
「とても純粋で、清らかで、素直な子」
光陽は頷いた。
「五年前のお前とそっくりだと思わないか?」
紗江は一瞬、思考が止まった。
第2話
五年前、紗江は大学に入学したばかりだった。
光陽は当時、紗江のことを「天使のような無垢さだった」と言っていた。
あの頃の彼は、本当に紗江を愛してくれていた。
そして、過剰なほどに甘やかしてくれた。
まるで、一番大事な宝物を扱うように大切にしていた。
紗江は彼にとって、最も長く付き合った恋人だった。
大学を卒業する前に婚約までした。
ただ、そこまでだった。
今の紗江は、もはやかつての面影すらなく、名誉も地に落ちた。
東都市中の人が知っている。
この玉の輿を何がなんでも掴むために、紗江はどれほど恥知らずなことをしてきたかを。
彼が「お前の純粋さには飽きた」と言ったとき、紗江は彼に合わせるため、無理に自分を変えた。
彼の汚れた交友関係に身を投じ、彼の変態な趣味に迎合しようとした。
彼が欲しがったのは、色っぽく、情熱的で、大胆な女。
紗江は恥ずかしさを堪えて、すべてを受け入れた。
けれど、そんな努力の果てに返ってきたのは、彼の侮蔑の言葉だけだった。
「紗江、お前って本当に下品だな。
娼婦でも、お前ほどベッドで乱れねぇよ。
今のお前、どこに名家の令嬢らしさが残ってるんだ?」
彼は紗江に別れを告げた。
そのとき父の文宏は、年端もいかない弟と妹を人質のようにして紗江を脅した。
紗江は光陽を引き止めるために、手首を切ったり、薬を飲んだりした。
できる限りのことは、全部した。
そして今、光陽は昔の面影の消えた紗江に、こう言った。
「俺は彩葉のことが本気で好きなんだ。
五年前のお前に似てる」
紗江は笑おうとしたが、笑えなかった。
「本気で好きだから、きちんと身分を与えたい。
彼女はお前と違って臆病で、すごく純粋なんだ。俺が守ってやらなきゃ」
紗江は、何か言おうとしたけれど、結局、一言も声が出せなかった。
しばらくして、ようやく微笑みを浮かべて絞り出した。
「そう......わかったわ」
「元松家には、俺から少し話しておく」
「いや、自分で何とかするよ」
「じゃあ好きにしろ」
彼はよろめきながら立ち上がり、ポケットから何かを取り出した。
それを音を立ててテーブルに放り投げた。
紗江は目を見開いた。
それは二人が婚約を交わした時に交換した誓いの品だった。
亡き母の遺物、ダイヤモンドのネックレスだった。
そして彼が紗江に贈ったのは、彼の母親の嫁入り道具であった翡翠の腕輪。
今、紗江の手首に嵌められているものだ。
「腕輪、外せ。婚約は、これで終わりだ」
紗江は彼を見上げた。
あの頃、艶やかだった花のような瞳は、今や霜雪のような冷たさを宿していた。
彼が言った「結婚したい」という言葉は、紗江への言葉ではなかった。
五年間の歳月も新しい女との数日の戯れには勝てなかったのだ。
きっと、絶望して、泣いてしまうと思っていた紗江は、不思議なほど涙一滴も流れなかった。
ただ静かに、翡翠の腕輪を外して、彼に返した。
光陽は少し驚いたように眉をひそめたが、無言でそれを受け取り、振り返ることもなく去って行った。
第3話
紗江が光陽に婚約を破棄されたという噂は、すぐに広まった。
予想していたような、あの激しい暴力はなかった。
ただ、再び海外にいる弟と妹との連絡が途絶えた。
紗江は知っている。それは父親が怒りをぶつけるときに、よく使う手段だということを。
彼と継母は、東都市を駆け回って、紗江の結婚相手を探し始めた。
元松家の贅沢な生活を保つために、紗江を嫁がせようとしていた。
けれど、外では次第に耳をふさぎたくなるような噂が立ち始めた。
紗江がこの数年、光陽の心を得るために、どんな下劣なことでも平気でやってきただの、 すでに多くの男に弄ばれて、もはや子どもを産む能力すらないだのと。
「東都には、あんな女を娶ろうとする男はいない」
そんな言葉まで、堂々と囁かれるようになった。
父親の機嫌はますます悪くなり、紗江の暮らしも日に日に苦しくなっていった。
光陽と婚約を解消してから、二か月後。
光陽にまつわる、またもや世間を騒がせるような噂が流れた。
今度は、彩葉との婚約が決まったという話だった。
光陽は、両親の反対を押し切ってまで彼女を娶ろうとしていた。
火に油を注ぐ人が、わざわざ紗江の耳にその話を届けてきた。
彼らが見たかったのは、紗江の反応だった。退屈な日々に飽き、また紗江の惨めな姿を恋しく思ったのだろう。
「紗江さん、光陽さんって、実は今でもあんたのこと好きなんじゃない?」
「今つらいんでしょ? 一回お願いしてみたら?」
「光陽さんって情に弱いしさ、泣いてすがれば、最悪死ぬって騒げば、戻ってくるかもよ?」
「小嶋なんかより、紗江さんの方がずっと綺麗だしさ」
そんなメッセージを見ても、紗江は一切返事をしなかった。
その代わり、ただひたすらに嫁ぐ準備を始めた。
ちょうど一週間前。
紗江は一晩中、父親の前で跪き続けた。
そしてようやく、成年したばかりの妹の代わりに、紗江が嫁ぐことを許された。
行き先は、港市。
相手は、財前家の長男——財前深志(ざいぜん ふかし)。
彼は手段が冷酷で、絶大な権力を誇り、港市の「影ノ王」と呼ばれている。
ただし、脚に障害があるため、性格は極めて暴虐との噂だった。
それでも、紗江は少しも怖くなかった。
元松家から逃げ出せること。弟妹を自由にできること。
それだけで、紗江は甘んじて受け入れることができた。
それに、京城にはもう紗江の居場所はなかった。
港市なら、もしかしたら微かな希望が残されているかもしれない。
第4話
嫁ぐ前に、紗江は親友と食事の約束をした。
途中で洗手所に立ったとき、偶然、彩葉と出くわした。
彼女は以前とはまるで別人のようだった。
丁寧に化粧を施していて、ディオールの一番人気な黒のドレスを身にまとい、その体つきはしなやかで艶めかしい。
鮮やかな唇には、細いレディスシガーが咥えられていた。
「元松さん、もう聞いたでしょう?」
彩葉は紗江を見て、挑発的に笑った。
「光陽が私と婚約するの」
紗江は彼女を見つめた。
ふと、初めて会ったときの、あの純粋で恥じらいのある姿が頭に浮かんだ。
なぜか胸の奥に、言いようのない物悲しさが広がったのだろう。
「うん、聞いたわ」
彩葉の瞳には、さらに深い笑みが宿った。
「元松さん、嫉妬してるのかしら?
あなたが彼のために三人も子どもを失くしたって聞いたわ。
この数年、彼の心を繋ぎ止めたくて、結婚したくて、どれだけ下劣な真似をしたかって」
彼女は窓際にもたれかかり、その笑みには見下すような軽蔑が混じっていた。
紗江は淡々と彼女を一瞥した。
「小嶋さん、それは『聞いた』話であって、事実じゃないでしょう?
私たち、同じ女として、そんな下品な噂を撒き散らす必要、あるかしら?」
彩葉は鼻で笑った。
「東都市のみんなが知ってるのよ?それをただの噂だなんて笑えるわ」
紗江はこれ以上、彼女に言葉を費やす気になれず、振り返って立ち去ろうとした。
すると彼女は、急に皮肉めいた声で言った。
「元松さん、女でもいろいろなのよ。女は自分のことを大事するって、あなたのお母さん、生前に何も教えてくれなかったの?」
紗江はその言葉に、足を止めた。
「お母さん」の言葉をが耳に入った瞬間、熱い血が頭に駆け上った。
思考する暇も、冷静になる余地もなかった。
紗江はくるりと振り返って、手を振り上げて、平手打ちを叩き込んだ。
「元松さん......」
彩葉は一瞬呆然としたが、すぐに顔を押さえ、涙を浮かべた。
「私と光陽が婚約するってことで、あなたが傷ついたのは分かる。
でも、私を殴るなんて......
あなたが怒ってるのも理解できるけど、恋愛は無理やりにできるものじゃないでしょ?
光陽は、あなたみたいに淫らな女は嫌いなの。私のせいじゃないよ......」
彼女の泣き声は哀れで可哀想に聞こえた。
だがその言葉が、紗江の胸を鋭く抉った。
「あなた、お母さん早くに亡くなったんだよね? 誰にもまともに育てられなかったから。今回、私は見逃してあげる......」
紗江は歯を噛み締めた。そして再び、彼女を殴ろうと手を振り上げた。
だがその腕は、光陽の手によって、容赦なく掴み上げられた。
「紗江、彩葉に謝れ」
「謝らない」
紗江は背筋を伸ばし、毅然と立った。顔は青白く、唇にも血の気がなかった。
けれど、その瞳だけは赤く潤み、何よりも強く、鋭く、彼を射貫いていた。
第5話
光陽は、少し驚いたようだった。
この数年、彼は様々な紗江を見てきた。
素直で純真な紗江。
従順で聞き分けのいい紗江。
そして、取り乱して泣きながらすがりついた紗江。
紗江は彼の前で、無邪気にもなったし、艶やかにもなったし、泣いたことも笑ったことも喚いたこともある。
だが、今のように、これほど静かで、これほど冷ややかな紗江を、彼は一度たりとも見たことがなかった。
彼は彩葉を押しのけて、無表情のまま紗江の前に立った。
「紗江、最後に言っておく。彩葉に謝れ」
紗江は彼をまっすぐに見つめたまま、ふと笑った。
決別の笑み、そして破れかぶれの笑みだった。
「光陽......私は謝らない。死んでも、謝らない」
その瞬間、鋭く、乾いたビンタの音が廊下に響いた。鋭く、冷たく、鮮やかに。
その平手打ちに、光陽まで一瞬呆然としたようだった。
彩葉さえ、信じられないという顔で目を見開いていた。
ただ一人、紗江は、ゆっくりと痛む頬に手を当て、少しずつ、瞳を赤く染めていった。
「紗江......」
光陽は無意識のうちに一歩近づいた。だが、紗江は反射的に一歩退いた。
彼が伸ばそうとした手は、空中で止まりってから、すぐに冷たい表情で下ろされた。
「紗江、これは自業自得だ。お前が素直に謝っていれば、俺も手を出さなかった」
彼の声は低く、かすれがちだった。
「俺は......女に手を挙げたことなんて、これまで一度もない。
これだけ長く一緒にいても、一度だってお前に乱暴したことはなかった。
でも、今日はお前が彩葉に手を出した。それがだめだ。
彩葉を好きになったのは俺だ。彼女は悪くない。
紗江、もうやめろ。せめて、自分の尊厳くらいは守れ」
口数の少ない彼が、これほど多くを語ることはなかった。
だが紗江は、その一言一句すら、耳に入らなかった。
瞳は真っ赤に染まり、どうしても抑えきれない涙があふれてきた。
泣きたくなかった。しかし、涙は止まることができなかった。
光陽は、いつの間にか拳を強く握りしめていた。その眉間にも、深い皺が刻まれていた。
彩葉がそっと彼のそばに寄り添って言った。
「光陽、もういいわ。行きましょう」
彼は彼女の手を握り返した。
だが視線は、なお紗江の顔に向けられたままだった。
「紗江。彩葉にもう近づくな。
これから先、俺と彩葉の前に二度と現れるな。
これが......最後の警告だ」
そう言っても、彼はすぐにはその場を離れなかった。
返事を待っているかのように、じっと紗江を見ていた。
だが、紗江は何も言わなかった。
ただ俯いていた。
まるで、これまでの人生すべての涙を、この一瞬で流し尽くそうとしているかのように。
やがて三十秒ほどが過ぎ、彼はようやく彩葉の手を引いて、その場を立ち去った。
背を向けた瞬間、紗江は小さく口を開いた。
「......いいわ。
私は誓う。
この一生、二度とあなたと小嶋彩葉の前には現れない」
その言葉に、光陽の背中が一瞬だけ、ぴたりと止まった。
だが彼はすぐに歩き出して、一度も振り返ることはなかった。
ただ、彩葉だけが、振り返って紗江を一瞥した。
まだ涙を浮かべていたが、その唇の端は、勝ち誇ったように上がっていた。
紗江はそっと手を下ろした。
「よかった」と、そう思った。
五年にも及ぶ執着、深く根を下ろしていた光陽への愛憎は、この一瞬で、全てを引き抜き、切り捨てることができた。
もう、何も思い残すことはない。
迷いも未練もなく、この場所から、永遠に去っていけるのだ。
第6話
その日の帰宅後、紗江のもとには多くのメッセージや電話が届いていた。
その大半は、彩葉のSNS投稿のスクリーンショットで、中でひときわ目立っていたのは、彼女が載せた婚約指輪の写真だった。
紗江は無言のままアプリを閉じ、誰にも返信しなかった。
電話も一切取らなかった。
顔はまだ腫れていたため、氷で冷やすことにした。
そして戻ってくると、スマホの画面には、新たな入金通知が表示されていた。
何気なく開いてみると、その桁数の多さに思わず目を見開いた。
数えきる前に、着信音が鳴り響いた。
ディスプレイに浮かんだ「財前深志」という文字だった。それは彼女自分で登録した名前だった。
婚約が決まって以来、深志からの初めての電話だった。
心臓の鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸を数回してから、通話ボタンを押した。
「元松さん、お金は受け取ったか?」
「はい、受け取りました......
でも財前さん、結納金はすでにお支払いいただいたはずでは......」
紗江は控えめにそう伝えながら、誰かが間違えて送金したのではないかと考えた。
「結納金は元松家に送ったものだ。今回の金は、君個人に贈ったものだ」
その言葉に、紗江はスマホを握りしめたまま、しばらく黙り込んだ。
やがて低く、かすれた声で答えた。
「財前さん、そんなことをしていただかなくても大丈夫です。私......以前に婚約していたこともありますし、評判も......」
「構わない」
深志の声は、静かでありながら、どこか人の心を落ち着かせる響きを持っていた。
噂で語られる彼は、冷酷で容赦なく、気まぐれで暴力的とまで言われる男だった。
だが今、受話口から聞こえてくる声には、そんな人物像は微塵も感じられなかった。
「君も言っただろう、『以前』の話だ。過去は過去、今はもう別の話だ。気にするな。
もうすぐ遠く港市に嫁ぐことになるから、欲しいものがあれば、持っていくといい」
紗江は、思わず目に涙をためながらも、微笑んで感謝の言葉を口にした。
「ありがとうございます、財前さん」
港市への嫁入りの話は、一切外部に漏れていなかった。
それは、深志の意向だった。
財前家からの迎えの者たちは、すでに東都市に到着していた。
彼らの存在ゆえに、元松家の人間は静かに従っていた。
そのため、紗江が遠く港市へと嫁ぐことを知る者は、東都市には一人もいなかった。
出発の三日前。
荷物の整理はすべて終わっていた。
ドレッサーには、精巧な細工が施された宝石箱と、黄ばんだ願い事カードが置かれていた。
宝石箱は、かつて光陽が追いかけてきた時に贈られたものだ。
九つの層があり、それぞれにジュエリーやアクセサリーがびっしりと詰まっている。
そして空白の心願カードは、光陽が十二歳の頃、彼女に贈ったプレゼントだった。
もちろん、彼はもうすっかり忘れているだろう。
紗江は、かつてこのカードを使って、彼に結婚を願おうと思ったことがあった。
だが結局、そんな男に人生を費やすのは、あまりにも愚かしいと思い直した。
高価すぎる宝石は、返却すべきだった。
光陽の捺印が押されたカードも、他人の手に渡るべきではない。
彼女は二つのものを丁寧に梱包し、光陽の側近・杉本彰(すぎもと あきら)に連絡を入れた。
「大切なものですから、必ず彼に直接渡してください」
何度もそう念を押す紗江に対し、彰は形式的に丁寧ではあったが、その口調には明らかな苛立ちがにじんでいた。
「元松さん、忠告しますけど、もう無駄なことはやめたほうがいいですよ。
周藤さんはもうすぐ婚約されます。お互い、穏やかに暮らしましょう」
彼は、紗江が未練を断ち切れずに復縁を狙っていると勘違いしていた。
彼女は何か言い返したかったが、相手はすでに関心を失っていた。
荷物の箱を雑にトランクに放り込んで、そのまま車に乗り込んで行ってしまった。
第7話
紗江は、財前家から迎えに来た人々に付き添って、静かに東都市を離れた。
そして二日後――彼女は初めて、未来の夫と対面することになった。
彼の名は財前深志、財前家の跡取りだ。
よく仕立てられた黒のスーツをまとって、その姿は高貴で端正だった。
車椅子に座り、膝には薄い毛布が掛けられていたが、背筋はまっすぐに伸び、広い肩は力強く、見る者に障害を意識させない堂々とした佇まいだった。
「紗江」
低く、静かな声で彼は名を呼んだ。
紗江は深く息を吸い、足早に近づくと、静かに膝をついてしゃがみ込んだ。
彼の目線と自分の目線がぴたりと重なった。
その瞬間、彼女は自分がどれほど緊張し、そして恥じらっていたかを悟った。
彼の深く漆黒の瞳の奥に、自分の姿が映り込んでいた。震えるまつ毛までも、そこに映っていた。
そっと息を呑んで、勇気を振り絞って手を伸ばした。
毛布の上に置かれていた彼の手を、そっと包み込むように握った。
「初めまして、財前さん。元松紗江と申します」
その痩せた手を握った瞬間、周囲から小さな驚きの息が漏れるのが聞こえた。
だが、緊張で胸がいっぱいの彼女には、それを気にする余裕などなかった。
むしろ、その手をぎゅっと、無意識に強く握りしめた。
深志は彼女の手を振り払うことなく、じっと受け止めていた。
彼の指は長く、関節は力強く、彼女の手ではとても包みきれなかった。
呼吸が詰まりそうになるほど緊張したその刹那――彼の手が動いた。
深志は、氷のように冷たい彼女の指を、静かに、しかし確かに握り返したのだ。
大きな手が、彼女の手をすっぽりと包み込んだ。温もりを与えるように、しっかりと。
「紗江、部屋まで俺を押してくれ」
彼の言葉に、紗江は慌てて立ち上がろうとするが、急に身体がふらついて、よろけかけた。
すると、深志はすぐに手を伸ばして、彼女の腰をしっかりと支えた。
「気をつけて」
その手はすぐに離されたが、彼女の頬にはじんわりと熱がこもったままだった。
小さく「うん......」と頷いて、使用人から車椅子のハンドルを受け取って、部屋へと押していった。
ドアが閉まり、暖かな照明が灯された室内。
財前深志は彼女を一瞥すると、自身の脚を指差した。
その唇の端が、わずかに弧を描いたようにも見えたが、きっと見間違いだろう。
「脚が不自由でね。紗江、今夜は少し苦労をかけるかも」
彼の言葉に、紗江は視線を落とし、ただ小さく頷いた。彼と目を合わせることはできなかった。
気まずさに耐えきれず、思わず耳たぶを指先でつまんだ。だが、そこが既に熱くなった。
第8話
光陽は披露宴の前に、仲間内でひと席設けた。
だが、その場に姿を見せなかったのは、肝心の婚約者・小嶋彩葉だった。
集まったのは、彼の身の回りにいる放蕩な友人たちばかり。
酒が回るにつれ、誰もが次第に気が緩み、口も滑らかになっていった。
ふと、誰かがふざけ半分で「紗江」という名を口にした。
「光陽さん、今まで何人とも付き合ってきたけど、やっぱり紗江さんが一番美人だったよな」
「それは確かだ。全員一致だろ」
「光陽さんが本気で拒まなかったら、マジで俺、口説きにいってたかも」
「お前の出る幕かよ、後ろに並べって」
くだけた笑いと共に、言葉はどんどん下品に、悪乗りしていった。
その時、いつの間にか光陽はグラスを置いていた。
ソファにもたれ、無言で彼らをじっと見つめている。
気づいた仲間たちは、徐々に口をつぐみ始めた。
「......光陽さん、いや、その......冗談だってば」
「酔ってたんだよ、ちょっと悪乗りが過ぎただけで......真に受けないでくれよ」
光陽は、ふっと笑った。
「お前らがそう言うと、逆に紗江って女を思い出したな。
でも、あいつ......死んだのか?今まで音沙汰ないなんてさ」
その口調は冷ややかで、どこか投げやりにさえ聞こえた。
まるで本当に、今ようやく思い出したかのように。
まるで、彼女が本当に死んでいたとしても、それが取るに足らぬ出来事であるかのように。
その場の空気が一瞬で凍りついた。
慌てて笑いながら口を開いたのは、側近の彰だった。
「周藤さん、申し訳ありません。お伝えしそびれてしまいました。
実は数日前、元松さんから荷物を託されまして......とても大切なものだと。
たぶん、復縁でも望んでたんでしょう。だから私、少し釘を刺したんです。周藤さんの前で騒がれたら困りますし......」
その言葉に、光陽は薄く笑いながら、彰を静かに見据えた。
「......杉本、お前、だんだんといい度胸してきたな」
彰は顔色を変えて、すぐさま立ち上がった。
「周、周藤さん......」
「俺のことを、いつからお前が勝手に判断していいってことになった?」
「す、すみません......越権でした」
何度も頭を下げ、冷や汗をかいた。
光陽は目を伏せ、中指にはめた指輪を無意識にひねった。
そして、淡々と命じた。
「彼女に電話しろ。三十分以内にここへ来いと伝えろ」
彰は目を丸くした。
「周藤さん?」
だが彼は、漆黒の夜空を見つめたまま、低く言い放った。
「間に合わなければ......明日、俺は本当に彩葉と婚約するって伝えろ」