君は時の流れに消えていく

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高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。 逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書...

Chương (1)

第1章

高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。 逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。 「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」 胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。 「……願ってもないことです」 第1話 高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。 逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。 「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」 胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。 「……願ってもないことです」 彼女は引きつった笑みを浮かべた。泣いているような表情だった。 どうせ余命幾ばくもない。国の役に立てるなら本望だ。 診断書には「筋萎縮性側索硬化症」--通称ALSの文字が躍っている。さらに合併症で肺感染症を併発し、余命は一ヶ月を切っていた。 担当者の目に憐憫が滲んだ。 「科学研究へのご協力、感謝いたします。これは微々たるものですが……」 痙攣する手でお金入りの封筒を受け取った。神経薬の過剰摂取の後遺症で、指が勝手に震える。このお金は児童養護施設に寄付し、最後に墓参りを済ませたら、あとは静かに死を待つつもりだ。 よろめきながら外へ出ると、樹木の陰で待ち伏せていた男たちと目が合った。 「いたぞ!こっちだ!」 「逃げやがって……戻ったら電気ショックでぶっ殺すぞ!」 血の気が引く。反射的に走り出す。胸腔に鋭い痛みが走り、鉄の味が喉に広がる。恐怖で筋肉が硬直し、警備員の多いビルへ必死で駆け込んだ。 勢いあまって誰かにぶつかり、封筒の中のお金がばら撒かれた。 硬い胸板に顔を打ち付け、耳元に騒ぎ声が響く中、冷たい薫りが鼻腔を刺した。 「高梨夏希」 低音の声が宣告するように名前を呼ぶ。凍りついた彼女の眼前には、五年ぶりの神尾直人(かみお なおと)が立っていた。 より鋭くなった眉尻、冷徹さを纏った貴公子然とした顔。だがその視線には、紛れもない嫌悪と憎悪が渦巻いている。 心臓を掴まれたような痛み。目頭が熱くなる。 「神尾……社長」 追ってきた男たちが直人の姿にたじろぐ。直人は夏希を睨みつけ、声を絞り出した。 「誰の許可で戻ってきた?」 俯いたまま答えない。あの夜、資産家の息子に精神病院へ押し込められ、五年間虐待されたことは、彼には伝わっていないのだ。 直人の視線が男たちへ移ると、彼らは地面の札束を見て慌てて叫んだ。 「社長!こいつが俺たちの金を盗んだんです!」 「……高梨夏希」 直人が嗤った。 「ここまで堕ちたか」 痙攣する手を抑え、必死で首を振る。違う、違うんだ、あのお金は-- 「直人さん」 甘い声が響く。妖艶な肢体の女性が直人の腕に軽く絡みつき、夏希を見て目を見開いた。 「まあ……高梨夏希!?」 血液が逆流するような感覚。眼前に立つのは小山千春(こやま ちはる)--かつて彼女を地獄に突き落とした張本人だ。 中学時代、両親の事故死で受験に失敗した夏希は底辺校に進学した。そこから悪夢が始まった。破られた教科書、謎の液体をぶっかけられた机、切り裂かれた制服、閉じ込められたトイレ…… 鬱の発作に苦しんだ頃、千春は常に彼女を追い詰めた。恐怖と憎悪の化身だった。 転機は幼馴染の直人がいじめを知った時だ。 彼は進学校を退学し、夏希の学校に転入。いじめた連中を片っ端から叩きのめし、千春を退学に追い込んだ。 パニック発作で震える夜は、直人が「俺がいる」と繰り返し手を握り、再び光の中へ連れ出してくれた。 十年前に交わした初めてのキス。八年前に経験した疼くような夜。六年前に決めた結婚の約束。そして五年前--彼の姉を焼き殺した罪で、恋人関係は断絶した。 今、最愛の人と最憎の敵が、腕を組んで立っている。 第2話 「神尾社長、大変申し訳ございません。このクソ女のせいでご不快な思いをさせて……すぐ連行いたします!」 男が猛然と踏み込み、夏希の髪を掴んでぐいと後ろへ引っ張った。 「このクソ女!お金を盗んで逃げようとしやがって……死にたいのか!」 頭皮が裂けるような痛みに、彼女は苦悶の声を漏らす。膝から崩れ落ちた際、腕を路面に擦りつけ深い擦り傷ができた。 「放して!あれは私のお金だ!」 「貧乏人の分際で、どこにそんな金ができるんだ!」 抵抗しようとした夏希の後頸部を男が押さえつけると、彼女は突然硬直した。精神病院での電気ショック療法を思い出したのだ。顔から血の気が引くのを感じながら、震えが止まらなかった。 「ほら、大人しくなったろうが」 男が罵りながら引きずろうとした瞬間、冷たい声が響いた。 「いい加減にしろ。神尾グループの前で何たる醜態だ」 直人がカードケースからカードを一枚取り出すと、男の足元へ投げ捨てた。「金を持って消えろ。二度と会社の前に近づくんじゃない」 男が慌ててカードを拾い逃げ去ると、直人は夏希の手首を掴んで社内へ引きずり込んだ。背中を壁に叩きつけられる衝撃で、彼女は目眩を覚えた。檻のような腕が覆い被さる。 「高梨夏希……五年ぶりだな。まるで野良犬みたいな身なりで現れるとは」 直人の憎悪に満ちた声が鼓膜を刺す。「まさに天罰だ」 その瞬間、夏希は全てを打ち明けそうになった。だが喉元で言葉を飲み込む。神尾幸子(かみお ゆきこ)との約束を思い出したのだ。 五年前の誘拐事件--夏希をかばい、誘拐犯に連れ去られた幸子。再会した彼女は両足を誘拐犯に折られ、顔も傷つけられた。炎上する廃工場から脱出寸前、幸子は夏希の手を握り締めて泣いた。 「夏希ちゃん、あなただけでも……夫と弟には、きれいなままの私を覚えていてほしいの」 そう言い残し、炎の中へ消えていった。 清らかな幸子。輝ける直人。だが自分は誘拐犯の巣窟をくぐった身--汚れ役は彼女一人で十分だって、夏希がそう思ってた。 「夏希……姉さんは?姉さんはどうした!」 直人が血走った目で抱き締めてきた夜、夏希は涙を笑顔に隠して答えた。 「死んだわよ。『二人のうち一人しか助けない』って匪賊が言うから。私が生きたいから、あの人は死んだの」 直人の瞳が怒りと絶望で歪むのを、今でも鮮明に覚えている。幸子の夫の平手打ち。肩を抉るような直人の爪。「夏希、本当のことを言え!これが全部嘘だと言ってくれ!」 しかし、夏希が彼に返したのはただの沈黙だけだった。三日三晩引き籠もった後、彼が渡したのは海外行きの航空券だった。 「二度と俺の前に現れるな」 直人はお金持ちの友人に夏希を海外まで送り届けさせたが、その友人が腹いせに、彼女を密かに精神病院に監禁し、なんと五年もの間閉じ込めていたことを知らなかった。 第3話 握り締められた手首に鋭い痛みが走り、夏希は眼前の獣のような男を見上げると、ふと艶やかに笑った。「この程度の報いですか?幸子さんは死んだのに、私はまだ生きていますよ」 その言葉に男の理性は崩れ、目が暗く濁った。 直人は突然、夏希の首を扼し、力を込めて締め上げる。呼吸を奪われた彼女の顔は青ざめ、喉から「グッ」という苦悶の音が漏れ、生理的な涙が頬を伝った。 窒息死するかと思った瞬間、男は手を離した。脱力した魚のように床に崩れ落ちた夏希は、激しく咳き込む。涙で滲んだ視界の先で、直人が蹲む姿が見えた。冷たい刃物のような声が響く。「生き地獄にしてやる」 再び伸ばされた手が空中で微かに止まり、次の瞬間、彼女の襟首を掴んで引き裂いた。 「ビリッ」と布が破れる音。男の怒声が炸裂する。「これは何だ!?」 指痕の下に、紫黒く変色した深い痕が夏希の喉を横切っていた。 血の気を含んだ唾液を飲み込み、夏希は震える手で傷を隠そうとする。精神病院で刻まれたものだ。彼らは「窒息療法」と称し、首を吊り上げながら毎日こう囁いた。「繰り返せ。高梨夏希は卑劣な女で、神尾直人にふさわしくない」 涙を流しながら、彼女は繰り返した。「高梨夏希は……卑劣な女です……」 最初の二年は最後の言葉を拒み、三年目からは麻痺したように呟くようになった。もはや直人に値しない、と。 直人の指が痕に触れた瞬間、夏希の痙攣が激しくなる。涙を流しながら、彼女は笑みを浮かべた。 「海外じゃ、こんな特殊な遊びが流行ってるのよ」 直人の怒りが爆発するのを見据え、ためらわず続ける。「あなたとの夜より……ずっと刺激的だったわ」 男は夏希を引きずり上げ、休憩室へ放り込んだ。ベッドに叩きつけられると、暴力的な気配が覆い被さる。衣服を引き裂く音。夏希が震える声で問う。「千春さんに顔向けできますか?」 冷笑が返ってきた。「勘違いするな。千春は妊娠している。お前は単なる性欲処理の道具だ」 「高梨夏希、これがお前の報いだ。借金を返すか、あの連中に引き渡されるか、選べ」 「妊娠」「性欲処理の道具」--その言葉が鉄槌のように脳髄を叩く。夏希は震えるまぶたを閉じ、引き裂かれる心臓を抱えて抵抗を断念した。 抱擁も慈しみもない。男の荒々しい復讐行為に、文字通りの「道具」として蹂躙される彼女の耳元で、執拗な問いが響き続ける。「奴らも同じように締め上げたのか?」 夜が白々と明けかける頃、直人は彼女から離れた。惨めな姿の彼女に一瞥もくれず、冷たい声を残す。「汚れを拭え。今夜は接待だ」 ドアが鈍い音で閉じると、意識を失っていた夏希が震えながら起き上がった。膝をついて散らばった衣服の切れ端を拾い、血痕を拭う指先が小刻みに震える。浴室へ這うように移動する途中、ふと自分の胸元に目が止まった。 暴行の中で必死に守り通した上衣だけが、奇跡的に無傷だった。その服を握りしめたまま抵抗したため、逆上した直人の暴力はより残忍さを増したのだ。 シャワーの水音に紛れ、夏希はゆっくりとボタンを外し始める。死に物狂いで隠し通した「何か」が、ついに露わになる瞬間-- 第4話 彼女の腕、肩、背中には、びっしりと刻まれた文字が残っていた。 精神病院に入った当初、夏希は直人が自分を救い出してくれるよう祈り続け、苦痛に耐えるたび、爪で皮膚に「直人」と「夏希」の名を刻むことでかろうじて踏みとどまっていた。 一年、三年、五年……次第に「夏希」の文字は消え、残ったのは「直人」だけになった。 二人の再会を望むことは諦めたが、直人だけが生きる支えとなった。 しかし今、その信仰は崩れ、彼女にはもう立ち直る力もなかった。 シャワーの水を浴びながら、夏希は声を絞り出すように泣いた。 夜、体調が回復しないまま酒席に呼び出され、嘲りと笑い声の中、杯を空け続けた。 一方で千春は直人の腕に抱かれ、優しく気遣われている。 直人は夏希を走り使いにし、ふらつく足を必死に堪えさせた。 最後に客を送り出した夏希は花壇に倒れ込み、嘔吐した。直人は冷たい目で傍らに立ち、札束を撒き散らした。 「拾って拭け」 痙攣する手を押さえ、夏希は報酬を一枚一枚拾い上げた。 あの施設に戻りたくない。あんな穢れた場所で汚されるくらいなら--綺麗に溶けて、骨の欠片すら残さず消えてしまいたい。 直人と千春の婚約式が迫り、準備は全て夏希に任された。 「オークションのネックレスを千春が気に入った。手段を選ばず落とせ」 「会場の装飾は千春の好みじゃない。豪華客船でやり直せ」 「ジュリエットローズを空輸し、隅々に飾れ。食事も全て千春の好みで」 昼は二人の要求に応え、夜は直人の性欲の道具となり、毎朝起き上がるのもやっとだった。 式当日、壇上に立ったのは彼女ではない。千春が直人の腕を組み、祝福の視線を一身に浴びる。 賛嘆の声が耳に響く中、夏希は暗がりの隅で目を閉じた。ふと、自分が直人と婚約した日の夢を見た。 「捕まえた。これで夏希は俺のものだ。俺が死なない限り、一生離さない」 深い瞳に吸い込まれそうになり、指にリングを嵌められる。 祝福の声が「末永くお幸せに」と囁くが、夢の中の彼女は涙で顔を濡らしていた。 人間が天地に勝てるはずがない。彼女は死ぬ--もう並び立つことなどない。 目を覚ますと、眼前に千春が座っていた。 「高梨夏希、久しぶりね」赤ワインを傾けながら、千春は見下すように笑った。「今さら泣いてるなんて……あの時あんな事をしたくせに」 夢の涙を慌てて拭う夏希。千春の視線に、学生時代のいじめの記憶がよみがえる。手が震え始めた。 「直人さんが私を愛するなんて、悔しいでしょう?あなたみたいな弱虫じゃ飽きられて当然よ。自業自得だわ」 「……邪魔はしません」 夏希は右手を左手で押さえ、声を絞り出した。 「後悔して戻ってきたんじゃないの?」 そう言った千春は突然、自分のドレスにグラスごとワインをぶちまけた。 「あら、大変!高梨さん!」 演技がかった悲鳴が場内に響いた。 第5話 「高梨夏希、何をしているの!?」 やはり背後から直人の怒声が響いた。彼は大股で近づき、夏希を睨みつけた。「どうして千春に意地悪をするんだ!?」 最初に込み上げたのは笑いだった。千春に虐げられてばかりの自分が、他人をいじめることなんてあるはずがない--そう言い返そうとした瞬間、ふと直人の瞳に揺らめく期待のようなものが見えた。 彼は何を待ち望んでいるのか?もしかして、自分が嫉妬していると勘違いしているのか? 夏希は睫を伏せ、病的な痙攣を起こしている手を背後に隠した。声は氷のように冷たい 「私に話しかけてきた男性を追い払ったんですよ。どうして彼女を責めてはいけないんですか?」 直人の目から光が消えた。次の瞬、その瞳は凍りついた。「償わせる」 ウェーターが次々とグラスを運ぶ。夏希はすぐに意味を悟り、拳を握りしめながらグラスを手に取った。頭から酒を浴びせた。 「続けろ」男の声に震えが走る。何杯も注ぎ続け、髪から頬を伝う酒に観客の嘲笑が重なる。 「高梨夏希じゃないか!自業自得だよ」 「神尾さんがどれだけ寵愛してたと思ってるんだ」 服が張り付く不快感と痙攣が止まらない。直人は千春を連れて去り際に命じた。「十時間、ここに立たせておけ」 夜更けまで晒し者にされた夏希がよろめきながらデッキを歩くと、酔い潰れた直人が部屋の前で倒れていた。避けようとした足が、不自然な紅潮に引き戻す。 熱があった。 胸が締め付けられる。彼女が必死に直人を部屋に運び、水を飲ませてタオルで顔を拭いてあげた。医者を呼ぼうとすると、袖を掴まれた。「……行くな」 夏希の胸がぐらりと揺れた。結局、彼女はその場に留まることにした。 直人の額のタオルを何度も替え、一睡もせず見守り続けた。夜が白み始める頃、ようやく熱は下がっていった。 ふらつくほどの疲労に襲われたその時、ドアがノックされた。現れたのは千春だ。 千春が硬直した表情を浮かべるのを見て、夏希は黙ってタオルを彼女の手に押し付けた。嗄れた声で言った。「彼が目を覚ましたら……あなたが看病したって伝えて」 足を引きずりながら部屋を出た途端、視界が暗転した。デッキで気を失い、再び目を覚ました時は高熱にうなされていた。七日間のクルーズ旅行--その後三日間、彼女は断続的に熱に浮かされ続けたが、幸い、直人が接触してくることはなかった。 船医が事務的に薬を届けに来た。礼を言い終わらないうちに、扉が荒々しく開かれた。直人が入ってくると、病み衰えた夏希を一瞥し、眉を顰めた。 「どうした」 夏希が指先を微かに震わせた。「熱です」 直人が突然、彼女の手首を掴んだ。低く淀んだ声の奥に、かすかな震えが潜んでいた。 「あの夜……俺を看病したのはお前だったのか?」 第6話 高梨夏希はその瞬間、涙が溢れそうになった。 しかし喉元の痙攣を必死に押し殺し、直人の腕を力任せに振りほどくと、すぐ横にいた医師に飛びついた。 「『看病』って何よ?船の上での出会いだけで十分じゃないんですか?」 彼女の声は驚くほど冷静だった。医師が慌てて言葉を返そうとした瞬間、直人の怒鳴り声が響く。 「出て行け!」 医師が急いで部屋を出る途中、直人が夏希をベッドに叩きつける音がした。 「高梨夏希……お前はそんなに男欲しやがるのか!?」 「ええ、だってあなたじゃ物足りないですよ。昔、海外にいた時は一日に何人も替えていたのよ。あなたは退屈すぎるんです」 直人の瞳から最後の情動が消えた。彼は彼女を押し倒し、暴力的に呟いた。「なら、存分に味わえ」 激しい痛みが襲う。精神病院での電気ショック、首絞め、鞭打ちの記憶が蘇り、今がいつなのか分からなくなった。 直人はただ彼女を苦しめるためだけに行為を続け、終わると冷たくドアを蹴破って去った。 薄暗い室内で夏希は崩れた体を丸めた。痙攣が起き、涙とともに嘔吐感が押し寄せる。 これが望んでいたことなのか?直人の前で自分を貶め、徹底的に嫌悪させること。 だが、あまりに痛い。 体が引き裂かれるような疼きに、今すぐ消えてしまいたいと思った。 シャワーを浴び終えると、直人からのメッセージが届いていた。「クルーズのロビーへ来い」 到着すると、直人は冷たい視線を投げかけ、残飯の山を顎で指し示した。 「食え」 夏希は動かなかった。喉の痙攣が悪化し、食べ物を口にすると吐き出す日が続いていた そのせいで、また一段と痩せ細っていた。 直人が札束を彼女の顔に叩きつけると、彼女は震える手で箸を握った。 千春が直人の胸に寄りかかり、甘えた声で囁く。「直人さん、夏希さんを許してあげて」 直人は嘲笑った。「残飯が気に入らねえなら、処分させればいい」 夏希は機械的に咀嚼を続けた。かつては嫌悪した味ばかりだが、精神病院では食べられるだけで感謝しなければならなかった。 喉が軋む。我慢したが、ついに吐き出してしまった。 直人の顔が歪む。「高梨夏希……本当に汚らわしい」 「全部食い終わるまで、出るな」 彼は千春を連れ、嫌悪感を露わに立ち去った。 夏希は吐きながら無理矢理飲み込んだ。喉に血の味が広がり、意識が遠のく。甲板の冷気で正気を取り戻そうとする彼女の前に、千春が立っていた。 「ひどい惨状ね……」彼女は高梨夏希を嘲笑った。「直人さんの手口、私のイジメなんか比じゃないわ」 夏希の体が硬直する。引き裂かれるような痛みが再び蘇った。 「あなたは消えればいいのよ」 千春は突然、彼女の手を掴み、自分の肩に押し当てたかと思うと、欄干から海へと身を翻した。 夏希の血の気が引いた。 「千春!!」 直人の絶叫が響く。かつて姉の幸子を火の中に突き落とした光景が重なった。 「高梨夏希……この悪魔が……!」 直人の目の奥が赤く染まる。彼は狂った獣のように咆哮し、夏希を欄干へと押しやった。 「どうして死んだのはお前じゃないんだ……!?」 夏希は強い衝撃を受けたかのようだったが、反応する間もなく、直人に荒々しく海へ突き落とされた。 第7話 冷たい海水が口と鼻を覆い、夏希は虚しくもがいた。泳げるはずなのに、全身から力が抜けている。 体は沈み続け、空気が押し潰され、海面の光が遠ざかっていく。窒息による意識の遠のきと共に、抵抗する気力も消えた。 このまま死んで海底に沈み、記憶のない魚に生まれ変われたら--そんな思いが頭を掠める。 それなのに、脳裏に繰り返し浮かぶのは神尾直人の声ばかりだった。 「夏希、愛してる。俺たちは何度生まれ変わってもずっと一緒だ」 -- まさか目を覚ますとは思わなかった。目覚めた時、彼女は拘束帯でベッドに縛り付けられていた。 電気ショックの器械が見当たらないだけが、精神病院に戻されたのではないとわかる救いだった。 三日間、誰も話しかける者がいない。食事と薬を運ぶ看護師さえ、彼女の問いかけに無反応のまま。崩れそうな時、病室の扉が開いた。現れたのは小田卓也(おだ たくや)--神尾幸子の夫だ。 卓也の瞳には嫌悪が渦巻いていた。彼は近づくと、夏希の頬を平手で打った。 「高梨夏希……よくも戻ってきたな」 夏希は唇を噛んで黙り込む。 「直人があんなに愛し、幸子が大切にしていたお前が……なぜ彼女を殺した?お前が死ねばよかったんだ!なぜ直人は海からお前を引き上げた!」 野獣のように吠える卓也に対し、夏希は腫れた頬を押さえ、目は虚ろだった。 長い沈黙の後、卓也は冷たく告げた。 「小山千春が造血障害で、骨髄移植が必要になった。お前の型が一致した」 何かを意識してきたように、夏希が震える瞳を上げると、卓也は嗤った。 「直人も了承済みだ。午後に骨髄採取する。これがお前の償いだ」 「知ってるか?千春は五年前、火事で直人を助けた恩人だ。二人は切り離せない」 「火事……五年前……?」 夏希の喉が軋んだ。違う--あの時、炎に飛び込んだのは私だ。 「直人に会わせて!」 「直人はお前に会いたくない」 卓也が去ろうとした瞬間、夏希が必死に叫ぶ。 「待って!小田さん!私、だめなの……!」 看護師たちが暴れる彼女を押さえつける。涙で顔を濡らしながら、彼女は哀願した。 「ALSなんだ……神経障害があるから、骨髄提供なんて……」 無機質な声が返った。 「神尾様の指示です。これが貴女の贖罪だと」 夏希は抵抗をやめ、麻酔針が刺さるのを感じた。涙が頬を伝う。 違う……直人、私に罪なんてない。 骨髄を抜かれる痛みは魂が引き裂かれるようだった。手術室に響く自分の悲鳴を、彼女は遠くで聞いているようだった。 下半身の神経が永久に損傷し、二度と立ち上がれなくなった。 現れた卓也は冷たく呟いた。 「自業自得だ」 神尾直人は最後まで姿を見せなかった。 第8話 直人を見つけた卓也は、拳を振り下ろした。相手は避けようとしなかった。 「よくも傍にあの女を!神尾直人、お前は幸子に顔向けできるのか!?人殺しだぞ!まさか未練でもあるのか!」 揺らめく街灯の下、直人の瞳がかすかに震えた。長い沈黙の後、彼は淡々と問うた。「あの人は……どうしている」 卓也は荒々しく息を吸い込み、嗤った。「ああ、元気だよ。金さえくれりゃどこかで遊び暮らすってさ。お前の顔なんか見たくもないらしい」 直人の目から光が消えた。冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。 「そうか」 半月後、夏希は廃品回収場で拾った車椅子で墓所を目指した。神尾幸子の墓は急な坂道の途中にある。車輪が砂に埋もれて動かなくなると、彼女は地面に身を投げ出し、血の滲む手で這い上がり続けた。 墓碑に辿り着いた時、爪先から滴る赤が灰色の石を染めていた。写真の中の幸子は、彼女が望んだ通り、穢れなき笑顔のままだった。 「幸子さん、会いに来ました」 「ずっと……秘密は守りました。幸子さん、あちらでは笑っていらっしゃいますか?」 マーガレットの花弁が涙に揺れる。夏希の爪の割れた手が墓碑を撫でた。 「私が会いに行く時、どうか……この姿でも嫌わないでくださいね」 夏希が額を墓碑に押し当てると、冷たさが傷口に染みた。懐かしい声が耳朶を撫でる--『夏希は私の妹よ。いじめたりしたら承知しないからね』あの日、直人の肩を叩きながら笑う幸子の体温が、今は石のように冷たい。 「直人に……酷いこと言われました。幸子さん、私の味方でいてくれますか?」 返答のない問いかけに、夏希は『もう……幸子さんも私を嫌ってるのかもしれない』と思った。墓所を後にする途中、彼女は石段から転げ落ちた。その場でしばらく気を失い、全身傷だらけで這い上がった。 車椅子に戻りかけた時、黒塗りのセダンが急停車した。降りてきた直人が血まみれの彼女を見て眉をひそめる。夏希は痙攣する手を背中に隠し、「足を滑らせただけです」と先回りして言った。 「お前がどうなろうが知ったことか。廃人になれば拍手してやる」 夏希は表情を保てず、胸が抉られるような痛みを覚えた。 直人が舌打ちすると、運転手に彼女を車へ押し込むよう命じた。 車内にはタバコの匂いが充満していた。直人はただ一本また一本とタバコを吸い続け、ハンカチを放り投げながら、冷たい声で言った。 「顔の血、拭け。汚らわしい」 しかし夏希の手は痙攣し、物を握る力さえ失われていた。直人の眉間の皺が深くなるが、それ以上は何も言わない。 郊外の空地に着くと、積み上げられた品々が視界に飛び込んだ。夏希の足がぎくりと止まる。 成人式の夜、直人が贈ったドレス、高校時代のラブレター、共に作ったお守り--どれも彼女が肌身で覚えた記憶の残骸だった。 直人が着火したライターを放り投げた。油を撒かれた品々が轟音を上げて燃え上がる。夏希は反射的に身を乗り出したが、ただ見つめるしかなかった。瞼は乾き、涙の泉はすでに枯渇していた。 「俺も愚かだった」炎を背にした直人の声が、冬の川底のように冷たい。「お前を愛したことが最大の過ちだ。千春を救った骨髄が、せめてもの贖罪か。二度と俺の前に現れるな。次は本当に殺す」 炎の中ですべてが灰になるのを見届けながら、夏希は頷いた。彼の人生の泥のように、自分という存在が剥がれ落ちていく。震える喉から絞り出した声は、砂を噛むようだった。 「分かりました」 第9話 直人と千春の結婚式が間近に迫っていた。 全国のスクリーンを埋め尽くすほど神尾家の財力を誇示する婚約発表に、メディアは騒然としていた。 夏希はそれを良いことだと思った。 直人の命を救った恩を千春に横取りされても、直人はきっと彼女を愛している。二人は幸せになるだろう。 直人の人生も正しい道を歩み、輝かしい未来が待っている。 ならば、自分は消えるべきなのだ。 身繕いを済ませて家を出た夏希だったが、すぐに背後から覆いかぶさられ、意識を失った。 気がつくと、彼女は縛られていた。同じく拘束されていたのは、小山千春だった。 恐怖で顔を涙で濡らす千春に、誘拐犯は逆上して怒鳴りつけた。「神尾直人の前でもっと泣き叫べよ!」 しばらくして、男の一人が駆け込んできた。「金を持ってきたぞ!」 二人は外へ引きずり出された。 「一億円だ。人を返せ」 誘拐犯は札束を詰めたスーツケースを覗き込み、哄笑する。「いいよ!だが、選べるのは一人だけだ」 千春が泣き叫んだ。「直人さん、助けて……!」 夏希の体が氷のように冷えた。 誘拐犯が合図すると、背後にある廃屋に火が放たれた。炎が渦巻く中、二人は同時に持ち上げられた。 「お前のせいで家族を失った……今度はお前が愛する女を失う味を味わえ!選べ!」 直人の視線が夏希を一瞬掠めた。 その時、誘拐犯の部下が人目を盗んで直人に頷いた。直人は微かに息を吐くと、静かに告げた。 「千春、こっちに来い」 覚悟はしていた。それでも、夏希の体は震えを止められなかった。 あの時、自分が「幸子さんと私、どちらかを死なせるなら私が生きる」と直人に告げたように。今度は彼が自分を選ぶ理由などない。 誘拐犯が手を離すと、千春はよろめきながら直人の元へ走った。 「潔いね」 嘲笑う声と共に、夏希の体が炎の中へ放り込まれた。 視界の最後に映ったのは、千春を優しく抱き留める直人の背中だった。二人は振り返ることなく去って行った。 轟音と共に焼け落ちる梁に直撃され、夏希は血を吐いた。 炎に吞まれる瞬間、彼女の人生は終わりを告げた。