真夏の果実

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真夏の果実

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十年間ずっと御村嘉之のそばに寄り添い、ようやく結ばれることになった鈴木芙実。 けれど、結婚式の前夜、芙実は嘉之の口から、思いもよらない...

Chương (1)

第1章

十年間ずっと御村嘉之のそばに寄り添い、ようやく結ばれることになった鈴木芙実。 けれど、結婚式の前夜、芙実は嘉之の口から、思いもよらない言葉を聞いてしまう。 「芙実?あの子なんて、文乃の代用品だよ」 それを聞いた瞬間、芙実は嘉之と過ごした日々に終止符を打ち、もう二度と彼に会わないと、そう心に決めた。 第1話 「手術には70%のリスクが伴いますし、たとえ成功しても記憶喪失などの後遺症が残る可能性があります......本当に、覚悟はできていますか?」 鈴木芙実(すずき ふみ)は力強くうなずいた。 「ええ、もう決めたの」 医者はふぅとため息をついた。「実は、海外の方が技術も設備もずっと進んでいます。あなたの恋人の御村さんは人脈も広く、素晴らしい方です。お願いすれば、きっと最先端の病院を手配してくれるはず。わざわざこんな大きなリスクを冒す必要はないと思いますよ」 芙実の口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。 その医者が言う「素晴らしい恋人」――御村嘉之(みむら よしゆき)は、確かに自分にはとても優しかった。 自分を主役にするために、何十億というテレビドラマ投資を惜しまず注ぎ、何十時間ものフライトを経て海外のオークション会場に赴き、高額なダイヤモンドリングを競り落として喜ばせ、徹夜で帰国してプロポーズをする――まるで夢のような話だった。 自分は深く愛されている、そう信じて疑わなかった。もしあの時、酔っ払った嘉之の本音をドア越しに聞かなければ―― 「芙実?あの子なんて、文乃の代用品だよ......文乃の妹だから助けてやっただけで、一度寝たからには責任取らなきゃな」 その瞬間、全身の血が凍ったようだった。まるで氷の底に沈んだような感覚。 でも、個室での会話はそれだけじゃ終わらなかった。 「もし文乃と結ばれない運命なら、芙実と結婚するのも悪くない。俺に一途だし、どれだけ突き放しても離れようとしないんだ」 一瞬の沈黙のあと、部屋の中から笑い声が上がった。嘉之の友人たちは彼を持ち上げた。 「まさに『純愛の塊』じゃん!御村家にはお前みたいな奴がいるんだな!」 そのとき初めて、芙実は気づいた。嘉之が何度も呼んでいた「ふみちゃん」という名前――それは、自分のことではなかったのだ。本当に呼ばれていたのは、姉・鈴木文乃(すずき ふみの)だった。 遠く海の向こうまで数十時間かけて飛んだあの日も、実は文乃に恋人ができたと聞き、最後にもう一度文乃の顔を見たい一心からだった。 そして、文乃が幸せそうに他の誰かの肩にもたれているのを見たその瞬間、嘉之は諦めた。そしてその直後、気晴らしのようにオークション会場でプロポーズ用の指輪を買ったのだ。 夜通し車を走らせて帰国し、芙実のマンションの下で夜明けまで待ち続けた。雪が髪に積もるほど。 あのプロポーズは、たちまちネットで話題になった。 高級車に大豪邸、美男美女のカップル。ロマンチックなその光景は多くの人の注目を集め、ショート動画アプリで爆発的に拡散され、数百万、いや、千万単位のいいねがついた。 「商界の新星」と呼ばれる嘉之は、整った顔立ちと冷徹な印象の持ち主。けれど、そのとき指輪を差し出した手は、かすかに震えていた。 「この指輪をつけたら、ふみちゃんを永遠に縛っておける。もう、どこにも行かせない」 いつもは高飛車な嘉之が、人前でここまで頭を下げたのは、ただ「ふみちゃん」に離れてほしくない一心からだった。 そのプロポーズ映像に、たくさんの人が心を打たれ、ニュースもこぞってこの名場面を報じた。 ――でも、実際はどうだったのだろう。 嘉之にとって、あれはただ報われない恋への惜別、あるいは妥協にすぎなかったのかもしれない。 どこにも行かせない? 芙実は唇を皮肉に歪めた。残念だけど、その願いにはもう応えられないかもしれない。 病院を出たあと、芙実は名刺を取り出し、そこに書かれた番号に電話をかけた。電話の向こうから聞こえてきた男性の声には、どこか狡猾な笑みがにじんでいた。 「どうです?もう決まりましたか?僕の腕は冗談抜きで一流ですから。偽装死亡の契約を結べば、世の中から鈴木芙実という人間は完全に消えることになりますけど」 芙実は目を閉じ、静かに答えた。 嘉之のライバル・中条凪時(なかじょう なぎと)との契約にサインし、一か月後に事故を装って「偽装死」を遂げると約束した。 その一か月は、この世から自分の痕跡をすべて消すための時間。そして、これまでの人生で最も重要な「物語」を演じ切るための時間になるはずだった。 第2話 芙実がちょうど病院を出てタクシーを拾おうとしたそのとき、1台のフェラーリが突然ドリフト気味に彼女の目の前に停まった。すぐあとに、長身で凛としたシルエットが足早に近づいてくる。 「ふみちゃん、検査終わったら電話くれるって言ってたよね?仕事片付けたらレストランに迎えに行くって話だったじゃん」 朝、嘉之は「検査に付き添う」と言っていた。けれど出発前から彼のスマホは鳴りっぱなしだった。 だからこそ、嘉之は申し訳なさそうな顔で説明した。 「ごめん、会社で急にトラブルがあってさ。検査終わったらすぐ連絡して。すぐ迎えに行くから」 だけど、病院を出てから芙実が何度電話をかけても、全部切られてしまった。 芙実はうつむき、着信拒否された履歴がずらりと並ぶ画面をじっと見つめた。 その視線に気づいたのか、嘉之もようやく異変を察した。不在着信の数々を見て、少しバツが悪そうに言った。 「知ってるだろ?会議中はマナーモードにしてるからさ」 堂々とした口調でそう言いながら、彼の口から出てくるのは「仕事が忙しい」の一点張りだった。 その「忙しい」間、芙実には一日中ほとんど連絡が返ってこなかった。 でも、嘉之は知らない。彼の一挙一動が、すでに誰かによって芙実にリアルタイムで報告されていたことを。 「会議中」と言い残して彼が去った直後、芙実のもとに匿名の誰かから一枚のスクリーンショットが送られてきた。 画像には、黒いストッキングに包まれた長い脚が艶めかしく光っていた。ただ、膝の部分が何かに擦れて血がにじんでいるのが目に留まる。 女性は弱々しく床に座り込み、カメラを見上げるその瞳には涙が浮かんでいた。 「階段から落ちちゃって、すごく痛いの......もう動けない」 そのすぐ下には嘉之のLINEアイコンと返信メッセージ。 「怖がらないで、そこにいて。すぐ行く」 夕陽の余韻が芙実の影を長く伸ばした。彼女は、がらんとした病院の廊下の長椅子にひとりで座っていた。 手には、脳腫瘍と記された診断書をぎゅっと握りしめている。 まるで迷子になった子どものように、どうすればいいのかわからないまま座り込んでいると、スマホがひっきりなしにバイブ音を響かせた。 匿名の人物は、次々と写真や動画を芙実に送りつけてくる。 映っているのは、嘉之がその女性のアパートに駆けつけたときの、焦りを隠せない表情。 別の動画には、彼がその女性をお姫様抱っこして、彼女が甘えるように肩に身を預ける姿。 動画の中で嘉之は、女性の不注意をたしなめながらも、大事な壊れ物でも扱うかのように傷口を消毒していた。 嘉之の目は、手元の白く滑らかな脚を見つめながら、どこか陰りを帯びている。 そして、彼はその足をそっと手のひらに乗せて、冗談めかした声で言った。 「こんな美脚、怪我させるのもったいないな。むしろ――」 その先の言葉は喉の奥で止まり、彼の喉ぼとけが上下に揺れた。 女性は足のつま先で彼の手のひらをくすぐるようになぞり、上目遣いで艶っぽくささやいた。 「むしろ、何......?」 そのあとは、嘉之が身を寄せた瞬間、ふたりの影が絡まり合い、見ていられないような光景が広がっていった。 嘉之は仕事を放り出し、丸一日その女性のそばに張りついていた。 その甘えた声も、涙を浮かべた顔も、芙実には見覚えがあった。 それは、十数年にわたって彼女の悪夢に出てくる「名ばかりの姉」、文乃だった。 思いに沈んでいる芙実を見て、嘉之は優しく髪に触れながら、不思議そうに尋ねた。 「何、考えてたの?」 鼻先に、かすかに女性用香水の匂いが漂ってくる。 芙実は無意識に、その手から身を引いた。 込み上げてくる吐き気を必死にこらえ、首を横に振って「なんでもない」と答えた。 突然の拒絶に、嘉之は一瞬だけ不安そうな顔を見せたが、すぐに気にも留めなくなった。 「そうだ、今日はお前の誕生日だよね。プレゼント用意してるんだ。行こう。場所は都心に新しくできたレストランでさ、きっと一生忘れられない日になるよ」 そう、確かに今日は、芙実にとって一生忘れられない日になった。 婚約者に裏切られ、姉に挑発され、そして病気の診断まで受けた。これ以上に忘れ難い日なんて、他にあるだろうか。 第3話 レストランの前には、すでにマネージャーとスタッフが一列に並んで待っていた。芙実が車から降りると、店員が急いで駆け寄ってきた。 その店員の目には、ほんの少し羨望の色が浮かんでいた。 「鈴木さん、こっそり教えますけど......今日、社長があなたのために特別なサプライズを用意してるんですよ」 なんと嘉之は、わざわざシンガポールからデザート職人を呼び寄せ、ケーキの材料だけでも数百万円をかけたという。 しかもそのケーキには、高価なエメラルドが忍ばせてあり、それを想いを寄せる相手への誕生日プレゼントにしようとしていたらしい。 芙実は話を聞きながら、何も言わずに静かに後ろにいる嘉之のほうを見つめた。 「男はお金の使い方で本気度がわかる」なんて言葉があるけど、ここまで手間をかけて準備してくれるってことは、もしかして......彼、自分のことを想ってくれてるのかもしれない。 嘉之はちょうどスマホをいじっていて、誰かとチャットをしているようだった。時折、画面を見ながら口元を緩めて笑っている。 次の瞬間、芙実のスマホも鳴った。画面を開くと、チャットのスクリーンショットが次々と送られてくる。 【昨日あなたがちょっと乱暴だったせいで、私の服が全部破れちゃったんだから】 怒った顔のウサギのスタンプが添えられていた。文乃からだった。 その可愛らしいスタンプに、嘉之はつい笑って、こう返信していた。 【昨日のお前のあの姿、男で我慢できるやつなんかいないよ】 【午後、新しい服を一緒に買いに行こう?ゴールドカード使っていいよ。上限なしで】 あの朝に味わった絶望のあとなら、もう二度と心が揺れることはないと思っていた。それでも胸が締めつけられるような痛みが走り、全身が鈍くうずいた。 レストランは豪華に飾られていたけれど、その場にいるのは二人だけ。なんだか少し寂しい雰囲気が漂っていた。 嘉之は言った。 「大勢呼ぶ必要なんてないよ。賑やかなの、好きじゃないから」 けれど芙実は、賑やかなのが何より好きだった。 二十分後、嘉之が巨大な城の形をしたケーキを運んできた。 芙実と目が合った瞬間、彼は甘く優しい笑顔を見せた。 そして芙実の頭にバースデーハットを乗せ、しっとりとした口調で語りかけた。 「ふみちゃん、知ってる?このお城のケーキには意味があるんだ。お前と家族になりたいってこと」 嘉之は真剣な表情でそう言った。 もし、さっきのスクリーンショットにあんなに露骨で下品なやりとりが映っていなければ、きっと感動して涙を流していたかもしれない。 ついにケーキを切る瞬間がやってきた。嘉之は芙実の手を取り、一緒にケーキを半分に切った。 けれど、何もなかった。 エメラルドも、サプライズも、なにも......入っていなかった。 「どう?気に入った?」嘉之は満面の笑みを浮かべて近づいてきた。「これはシンガポールから特別に呼んだパティシエが、ふみちゃんのために作ったお城のケーキなんだよ」 芙実は無表情のままケーキの前に立ち尽くし、まるで全身に冷たい水を浴びせられたような気分だった。 あの女店員が嘘をついたとは思えない。芙実を騙したところで、彼女に何の得もないはずだ。 贈り物が勝手に消えるなんてことはない。店員は確かに、嘉之がケーキの中にギフトボックスを入れるのを見たと言っていた。 つまり、答えは一つ。 嘉之が手ずから用意したバースデーケーキは、芙実のためのものじゃなかった。 そして芙実の24年間で、自分と同じ誕生日の人物は、たった一人しかいない。 電話が鳴った。 着信音は『エリーゼのために』。 芙実にはすぐに分かった。嘉之は昔から派手なものが嫌いで、着信音もずっとデフォルトのままだ。 でも、姉の文乃は子どものころからこの曲が大好きで、小さな頃から「将来、結婚式の入場曲にするんだ」って言っていた。 嘉之はスマホを指さして言った。 「ごめん、ふみちゃん。会社のことで急ぎの用が入って......ちょっと電話してくるね」 芙実は視線を伏せ、小さくうなずいた。 けれど、ナイフとフォークを握る両手はわずかに震えていて、金属が皿に当たる音が、その心の動揺を物語っていた。 実のところ、脳腫瘍が神経を圧迫していて、甘いものを食べるのも本当は辛かった。それでも芙実は、涙をこらえながら、大きく口を開けてケーキを食べ続けた。 そして次の瞬間、芙実のスマホがまた鳴った。 第4話 ひび割れだらけのスマートフォンの画面をアンロックすると、高校時代のグループチャットから通知が届いていた。 グループの管理者が珍しく全員にメンションを飛ばし、嬉しそうな口調でこう言っていた。 「文乃が帰国したよ。今は都心部の北都ホテルにいるんだけど、誰か会いに行きたい人いる?」 そのメッセージには、ついでのように一枚の写真も添えられていた。 写っていたのは、長いこと見ていなかった懐かしい顔ぶれ、同じデザインのバースデーケーキ、キラキラしたプレゼントが並ぶテーブル。そして、右下には嘉之の顔の半分が、何気なく写り込んでいた。 背景のインテリアは、芙実が今いるレストランとほとんど同じだった。 ただ、部屋の広さも華やかさもまるで違って、人の数も圧倒的に多かった。 そうか。彼の言っていた「急用」って、自分に黙って、隣の会場で文乃の誕生日を祝ってたってことだったんだ。 文乃が帰国したという知らせが入った途端、グループチャットは瞬く間に更新されて、祝福や歓迎の言葉で溢れ返った。 その中には、いくつか冷たい言葉も混ざっていた。 「なんでこのグルチャで報告するの?アイツ、いるだけで不快なんだけど」 「わざと見せてるのよ!文乃の両親を奪って、次は嘉之まで。文乃が戻ってきたのに、どのツラ下げて北都にいるのかしらね」 その非難の言葉に、芙実の中で十年前の記憶が一気に蘇った。 十四歳のとき、芙実は本物のお嬢様として鈴木家に迎えられた。 家に着いた瞬間、名目上の姉・文乃は母の腕の中で、涙を浮かべてこう言っていた。 「芙実ちゃんに嫌われたらどうしよう......私、何もいらない。ただパパとママと一緒にいたいだけなのに......」 怯えたようなその表情は可憐で、思わず守ってあげたくなるような雰囲気だった。 父は複雑な顔をしながら玄関に立つ芙実を見つめ、文乃をきゅっと抱きしめた。 母も、気まずそうに口を開いた。 「芙実、この子があなたのお姉ちゃんよ。文乃はね、小さい頃から私たちが大事に育ててきたの。もう、私たちから離れられないのよ」 まるで文乃を守るかのように、両親は芙実の前に立ちはだかった。 誕生日が同じだったにもかかわらず、両親は文乃を優先した。 「芙実にはもうパパとママがいるでしょ?だから、お誕生日会はお姉ちゃんに譲ってくれる?」 「今回はお姉ちゃんを優先して、来月ちゃんと芙実の誕生日もお祝いするからね」 誕生日当日、文乃はプリンセスドレスを着て、高級なバースデーケーキをワゴンに乗せて運んでいた。 そのとき、芙実は誰かに足を引っかけられ、つまずいてしまう。倒れた拍子にワゴンがひっくり返り、ケーキは見事に文乃に直撃した。 ドレスはベタベタのクリームとジャムでぐちゃぐちゃになり、文乃は顔を覆って恥ずかしそうにその場を飛び出した。 父はすぐに追いかけ、母は烈火の如く怒りを露わにした。 みんなの前で、母は芙実の頬を平手で打った。 「わざとでしょ?お姉ちゃんに恥をかかせるためにやったんでしょ!ママがあのドレス買ってあげなかったから?ちゃんと言ったでしょ、次の誕生日には買ってあげるって!なんでこんなことしたの!」 集まった人たちの冷たい視線が芙実に突き刺さる中、ただ一人、嘉之だけが芙実の前に立ってくれた。 「俺も見てた。芙実は、誰かにわざとつまずかされたんだ」 そう言って嘉之はポケットからティッシュを取り出し、顔についた汚れを拭くように渡してくれた。 「芙実......だよね?すごく綺麗だよ。こんなに可愛いんだから、泣いて顔ぐしゃぐしゃにしちゃったら、もったいないよ」 あれから何年経っても、あのときの嘉之の優しい声は、思い出すたびに呪いのように響いて、吐き気を催す。 芙実はその場から逃げるように飛び出し、廊下の洗面所でひどく嘔吐した。 隣の個室からは、楽しげな笑い声が響いていた。その中に嘉之の声も混ざっていた。 理性は「早くここを離れろ」と叫んでいた。 このまま隣の部屋に近づいたら、きっと心が壊れてしまう。そう分かっているのに、呪われたように足がそちらへ向かってしまう。 ドアの隙間から、嘉之が城の形をしたケーキを切り分け、中から精巧なギフトボックスを取り出す姿が見えた。 嘉之は腰をかがめて、文乃の唇の端についたクリームを丁寧に拭い取っていた。 そして、自分の指についたクリームを躊躇なく舐め取りながら、その目には優しさが満ちていた。 それを見ていた男友達が茶化すように声を上げた。 「エメラルドのアクセ、まじで花が咲いたみたいに似合ってるじゃん!奥さんって感じだよな。どこかの死人みたいな顔したヤツと違ってさ。あいつ、精気吸い取られたゾンビみたいだし」 芙実は金属製のドアの縁に映った自分の姿を見つめた。 顔から血の気が引いて、唇まで真っ白......病気で、もう身体は限界だった。 言われた通り、まるで命を吸い取られたような顔をしていた。 その言葉を聞いた嘉之は、冷ややかに彼らを一瞥し、静かに口を開いた。 「冗談はいいけど、ふみちゃんの前で言っていいことと、ダメなことくらいわかってるよな?」 彼らはすぐに口をつぐんだ。 「わ、わかってるって、嘉之。誰にも言わないよ。口だけの話だし 、聞き流していいよ」 「だって文乃さんって、嘉之がずっと想い続けてる『女神』じゃないか。冗談でも言いたくなっちゃうんだよ」 その言葉を聞いたとき、芙実の脳裏には、嘉之が初めて自分を友人たちに紹介してくれた、あの起業当初の光景がよみがえった。 第5話 あの頃、この連中も口を揃えて「お義姉さん」って呼んでたっけ。 「前から嘉之に幼なじみがいて、ずっと彼のこと想ってる子がいるって聞いてたけど、今日ようやく紹介してくれたな」 「お義姉さん、この世で嘉之を手懐けられるのは、もうあなただけだよ。これからは俺たち全員、お義姉さんの家族みたいなもんだから。嘉之がもしお義姉さんを怒らせたら、まず俺たちが許さないからね!」 結局、最初から最後まで馬鹿だったのは、自分ひとりだけだった。 「そうだ、今日はお義姉さんの誕生日でもあるんだよな。ちゃんとお祝いして、怪しまれないようにしよう!」 その時から、芙実のスマホに通知音が次々と鳴り始めた。 画面を開くと、やっぱりあの「家族たち」からの誕生日メッセージだった。 【お義姉さん、お誕生日おめでとう!】 【本当は、俺たちも誕生日パーティー行きたかったんだよ。でも嘉之が「今日は二人きりで過ごすから、邪魔すんな」って言ってさ......でも安心して、今度ちゃんと改めて、みんなで盛大に祝うから!】 スマホ画面に並んだ、その嘘くさいメッセージのやりとりが、芙実にはこれまでにないほどの嫌悪感を呼び起こした。 でも、大丈夫。こんな偽りの宴も、もうすぐ終わる。 あと一ヶ月。もう一ヶ月だけ我慢すればいい。 芙実はすぐに踵を返して、自宅へ戻った。 別荘の中に入って、ようやく胸の奥に溜まっていた重い息を、ゆっくりと吐き出した。 もう、離れる準備はできてる。この世界に残す痕跡は、ひとつ残らず消していかなくちゃ。 思い出以外に、この世界に残すものなんて、何もない。 まず最初に手をつけたのは、地下室の鍵だった。 あの年、十五歳のときに御村家は破産。莫大な借金を背負った嘉之の両親は、ビルから身を投げて自殺した。 その余波で鈴木家も会社が傾いた。 それでも鈴木家はどんなに困窮しても、芙実の学費が払えなくなっても、両親は家産を売ってまで、姉の文乃を海外に留学させた。 姉が去ったあの日から、嘉之はまるで魂が抜けたみたいになっていた。 その傍に、ずっと寄り添っていたのが芙実だった。彼にとっては、手放せない影のような存在。 嘉之の仲間たちですら、「この世の誰が見放しても、芙実だけは絶対に裏切らない」って言っていた。 でも、そういう言葉を聞くたびに、嘉之はどこかうんざりしたように言った。 「変なカップル設定、やめてくれよ。俺、芙実のことは妹としか思ってないし」 口ではそう言いながら、会社設立の日、酔った勢いで嘉之は過ちを犯した。 芙実の唇を噛み、耳元で名前を囁き、体を重ねながら、必死に言った。 「もうお前しかいない。絶対に離れないでくれ」 それ以降、嘉之はその快楽を知ってしまい、芙実に愛や温もりを求めるようになった。 後に芙実の両親が離婚し、どちらも芙実の親権を押し付け合って醜く争ったとき、彼女を受け入れたのは嘉之だった。 そのとき彼は芙実の手を取って、こう言った。 「親に捨てられるっていうなら、俺のところに来ていいよ」 その日、嘉之は一つの鍵を芙実に渡した。 新しく借りた地下室。狭くて、暗くて、湿っぽい場所。 でも、それが二人にとっての「最初の家」だった。 芙実はハンマーを手に取り、鍵を何度も叩きつけた。ぐにゃりと曲がった鍵を、そのままゴミ箱に放り込んだ。 次に処分するべきものは、薬箱だった。 あの頃、パーティーで芙実が若いボンボンにからかわれ、嘉之が彼女を守るために北都最大の暴力団と敵対した。 後に罠にはめられ、芙実が身代わりになってバットで殴られ、肋骨を三本折った。 その瞬間、嘉之は狂ったようになり、命を投げ出す勢いで十人相手に殴り倒した。 そして血まみれの芙実を抱きしめ、声が枯れるまで泣いた。 それ以来、嘉之は芙実が少しでも傷つくことを、極端に恐れるようになった。 外国から高額な専門医をプライベートドクターとして雇い、芙実が頭痛や風邪を訴えるだけで、取り乱すほどだった。 そんな過剰な溺愛ぶりに無駄を感じた芙実は、起業初期の資金を節約するために、その医師を解雇した。 でもその翌年、芙実は脳腫瘍を患っていることを知った。 けれどその事実を、今に至るまで、嘉之に一度も打ち明けてはいない。 芙実は薬箱にガソリンをぶちまけ、火のついたライターを投げ入れた。燃え上がる炎を、じっと見つめた。 三番目に処分すべきだったのは、山のように積まれた贈り物の数々。 嘉之は、芙実に居場所を与えるために、十年間、表も裏も関係なく、命を削って戦い続けてきた。 そしてようやく数年前、都心部の最高級別荘を買えるだけの金を貯めた。 落ちぶれていた頃に何も与えられなかった償いとして、芙実が欲しがるものは何でも与えた。 宝石、高級ブランド——家の中は贈り物で溢れ返っていた。 それらを全て片付けるのは大変なはずだったが、芙実は未練もなく、近所のリサイクルセンターに電話した。 数十億円分の贈り物を、すべて無償で引き取らせた。 荷台に積み込む途中、回収に来たおじさんが恐る恐る訊いてきた。 「お嬢ちゃん、こんなに素敵なものを、本当に廃品として処分していいの?」 芙実は笑顔でうなずいた。 「ええ、ごみはごみ捨て場に出すものですから」 贈り物を積んだトラックが去る途中、空気中の埃が目に入り、少ししみた。 芙実は目をこすりながら、胸の奥からこみ上げてくる感情を必死に押し殺した。 すべてを片付け終えた。あとは、最後の―― 俯いて、左手の薬指を見つめた。 光に照らされてきらめくそのダイヤの指輪は、人生で初めて、誰かから「愛」を込めて贈られたものだった。 あの日、芙実はその指輪を身につけて、わざわざ一番きれいな薄手のワンピースに袖を通し、凍える冬空の下で手を高く掲げて、プロポーズしてくれた嘉之に「喜んで」と誇らしげに叫んだ。 でも、知らなかった。その人生でたった一度のロマンスさえ、他人の気まぐれな嘘にすぎなかったなんて。 「愛される幻想」なんて、そんな愚かな夢は一度だけで、もう十分だ。 チリン―― メッセージの通知音が鳴った。 第6話 【今夜あなたが隣の部屋にいたことも、嘉之が私の誕生日を祝うためにあなたを置いて出ていったことも、全部知ってるわ】 【ずっと嘉之に愛されてきた私に、あなた程度で勝てると思ってるの?】 両親のひいきも、自分を代用品として扱う恋人も。 芙実にとっては、どちらも手に入らないものだった。けれど、文乃にとっては、どちらも簡単に手に入るものだった。 芙実は、自分じゃ勝てないって分かってた。だから、争うこともしなかった。ただ静かに、この街を離れようとしていた。 その後どんな日々が続こうと、嘉之が何時に帰ろうと、どんな言い訳を繰り返そうと、もうどうでもよかった。 ただ、北都を離れる日までを指折り数えながら、無表情で「理想的な妻」を演じていた。 いつものようにスーパーで買い物して、家に戻って夕飯を作った。 けれど料理は、一品一品が冷めては温められ、温めてはまた冷めていくだけで、嘉之は結局帰ってこなかった。 芙実は夕飯を口にすることなく、ずっとリビングで彼の帰りを待ち続けていた。 薄暗い部屋には、退屈なバラエティ番組が流れ、賑やかな笑い声ががらんとした部屋に反響し、かえって寂しさを際立たせていた。 ようやく深夜1時、誰かがソファで眠っていた芙実を抱きかかえた。 檀香の中に混ざったジャスミンの匂いが鼻を突き抜けて、芙実は吐き気を感じた。 あの香りは、姉の一番のお気に入り。あまりにも馴染み深い匂いだった。 込み上げてきた吐き気に耐えきれず、芙実はとっさに嘉之を突き飛ばし、トイレへ駆け込んで激しく嘔吐した。 嘉之は慌てて背中をさすりながら言った。 「また辛いもん食べたんじゃないか?あんなにたくさん辛い料理作ったら、お腹壊すって」 でも彼は気づいてなかった。あの食卓には、誰の箸もつけられていなかったことを。 それに芙実は、辛いものが苦手で、特に味の濃い料理はNGだった。あの食卓に並んでいたのは、全部嘉之の好物ばかりだった。 嘉之は芙実に水を差し出した。そのとき、襟元から隠れていたキスマークがちらりと見え、芙実の心を鋭く突き刺した。 嘉之は芙実の苦しそうな様子を見るに堪えなかった。 だからこそ、彼女を抱きしめる時に、つい力が入りすぎる。大きな骨ばった手で頭をそっと撫で、髪に優しく触れる仕草は、彼の体に染み付いた癖だった。 あの頃、芙実が彼をかばって肋骨を三本も折ったあの事件の後、嘉之は彼女が血まみれで倒れている夢を何度も見ては飛び起きていた。 その記憶は、やがて両親が飛び降りた光景を塗り替え、彼の新たな悪夢になっていった。 昔は、どんなに忙しくても、芙実の体調が少しでも悪くなればすぐに駆けつけていた。 でも最近は、そんなことも減ってきた。 文乃が帰国してから、嘉之の心は乱れ始め、芙実への注意がどんどん薄れていた。 嘉之の視線が落ち着かない。 なぜだろう。最近になって、心の奥にじわじわと不安が広がってきている。何かが変わってしまった。そしてその変化は、彼にとって受け入れがたい結末をもたらしそうな予感があった。 思わず腕に力が入る。彼女を骨の奥まで染み込ませて、永遠にそばにいさせたかった。 そうすれば、芙実はずっと自分のものになるかもしれない。 だけど芙実は、何事もなかったかのようにその手を払いのけた。 他の女に触れたその手が、どうしても汚らしく思えたのだ。 嘉之はその拒絶にムッとしつつも、何とか平静を装い、口を開いた。 「ふみちゃん、この前誕生日祝えなかっただろ?今日ちゃんとやり直そうと思ってさ。花火、用意してきたんだ。今ならちょうどいい時間だよ」 そう言って、芙実を強引に立たせ、上着を探そうと動き出した。 けれど、クローゼットにたどり着く前に、嘉之のスマホが突然鳴り響いた。 彼は反射的に画面を消した。 しかし、数秒もしないうちに、再び着信音が鳴り響いた。再度切ろうとしたその瞬間、芙実が無言で彼を押しのけた。 「出なよ」そう言って背を向け、クローゼットを出ていった。 嘉之は、画面に映った文乃の艶っぽい写真を見つめながら、心の中で誓った。これで文乃と会うのは最後にしよう、と。 嘉之は気づいていた。最近文乃と過ごす時間は、かつて夢見ていたような満たされた感覚はなかった。ただただ退屈だった。 文乃に惹かれた理由は、少年時代に手に入れられなかった「女神様」への憧れを埋め合わせようとしたからだ。 その穴さえ埋まれば、きっと完全な自分でいられる。そんな気がした。そうすれば、芙実にすべてを捧げられると思った。 1分後、覚悟を決めた嘉之はクローゼットから出てきた。 ベッドの上で丸くなってうたた寝している芙実を見つけ、そっと近づいて抱きしめた。 「もう2時か......眠いよな。じゃあ、花火は明日の夜にしようか」 芙実は背を向けたまま、こくりとうなずいた。それっきり、一度も振り返らなかった。 嘉之はその反応に一瞬迷ったが、ほんの少し立ち尽くしただけで、足早に部屋を出ていった。 翌朝早く、芙実はマネージャーに契約解除の申し出をした。 「契約解除......ですか?」 第7話 電話の向こうから、マネージャーの信じられないような声が聞こえてきた。 「あなた、本気なんですか?御村さんがあなたの芸能活動のために、どれだけのお金を出したと思ってるんですか?」 口にしてすぐ、マネージャーは自分の失言に気づき、慌てて口元を押さえた。 「すみません、本当はこれ、会社の機密事項なんです。御村さんから『絶対に本人には言うな』って言われてたのに......」 芙実が芸能界に入ってから、嘉之はすぐに映画会社を立ち上げた。 彼は芙実が芸能界の汚れた部分に関わることを嫌い、巨額の資金を投入して「スズフミメディア」を設立。芙実の上司として、そして彼女を守る後ろ盾として動き出した。 ただ、嘉之は常に控えめな姿勢を崩さず、社長という肩書きすらも公にはしていなかった。 マネージャーでさえ、二人が恋人同士だということを知らなかったほどだ。 そのせいで、周囲の人間は様々な憶測を立てた。中には、芙実が映画会社のオーナーに取り入って仕事をもらっているなどと、陰で好き勝手に噂する者もいた。 けれど、芙実はそうした声に一切反論しなかった。 突然の契約解除は、嘉之にとって大きな損失になる。だから芙実は、今撮影中の作品が終わった後に契約を切る決意を固めていた。 その映画の原作は『真夏の果実』という小説。 八年にわたる少女の片想いを描いた物語で、出版直後からネットで大きな人気を博していた。 だが、その物語に現実のモデルがいることを、誰も知らなかった。 それは芙実が鈴木家で疎まれながら過ごした八年間。そして、嘉之への淡い恋心を胸に秘めていた八年間でもあった。 作者は芙実自身。そして偶然の巡り合わせで、主演も彼女が務めることになった。 芙実は、自らの青春時代を演じることになったのだ。それだけに、この映画には強い思い入れがあった。 幸い、撮影は極めて順調に進んでおり、あと二十日ほどでクランクアップの予定だった。 撮影が終わったら、死を装ってこの街を去るつもりだった。そしてその先は、流れる川のように、嘉之とは永遠に別れるつもりだった。 けれど、その計画が誰かによって壊されようとしていることに、芙実はまだ気づいていなかった。 主演が変更されるという連絡を受けた時、芙実は薄手のTシャツ姿のまま、雪と氷に覆われた屋外の湖に立っていた。 突き刺すような冷気が肺の奥まで入り込み、芙実の歯はガチガチと鳴っていた。 「なんで?誰がそんなこと決めたの?」 信じられない思いで尋ねると、マネージャーは困りきった声で答えた。 「文乃さんは、スズフミメディアが推してる新人で......御村さんが支援者なんです。だから文乃さんを優先しないとどうにもならなくて......それに、文乃さんが『この映画の役をやりたい』って名指しで言ってきたから、社長が彼女に甘くて......あなたを降ろすことになったんです」 芙実は一瞬、何も言えなかった。神経を締めつけられるような痛みと共に、込み上げるような吐き気が襲ってきた。 湖から這い上がるとき、全身の震えをこらえながら、震える手で連絡帳を開いて、嘉之に電話をかけた。 けれど、何度かけてもつながらず、十通以上メッセージを送っても、返事はなかった。 着替える暇さえないまま、芙実は濡れた体でタクシーに飛び乗り、映画会社へと向かった。 この映画だけが、生きる意味を支えてくれていた。 家族を奪われても、嘉之を奪われても、自分の人生だけは、文乃に踏みにじらせるわけにはいかない。 タクシーに乗った時点で、芙実はもう風邪をひいており、頭がぼんやりして、うとうとし始めていた。 だが間もなく、スマホのライブ配信から聞こえてきた騒がしい音に目を覚ました。 運転手の感嘆した声が耳に入った。 「金持ちってのは、ほんと派手だよな。女優を口説くために、こんな豪華なチャリティーパーティー開くんだから」 顔を上げると、運転手のスマホの画面に映る文乃の美しい顔が、芙実の目に飛び込んできた。 第8話 文乃は新人ながら、デビュー早々に数々のリソースを独占し、年間で最も注目される小説の実写化作品のヒロインに抜擢されたことで、大きな話題を呼んでいた。 無数のカメラが文乃に向けられる中、彼女は真紅のドレスをまとい、細い首元にはエメラルドが輝いていた。その姿は、もともとの美しさをさらに引き立てていた。 「デビューしてすぐにトップとは......鈴木さん、噂ではスズフミの社長がパトロンだそうですが?」 そんな悪意ある質問が飛んだ。 「パトロン、ですか?」文乃は口元を手で隠して苦笑いを浮かべると、「もう一人の当事者に直接聞いてみてはいかがでしょう」とさらりと返した。 スクリーンが切り替わり、マスクで半分顔を隠した男性が映し出された。映像業界の大物は、素顔を公開するつもりはないようだが、それでも片側だけで圧倒的な存在感を放っていた。 「文乃さんは、俺にとって大切な人です。彼女が望むなら、俺のすべてを捧げる覚悟があります。パトロンなんて言葉じゃ、とても彼女の価値を語れません」 嘉之の声からは、揺るぎない決意が感じられた。 その言葉に、芙実の唇が嘲るように歪んだ。 文乃をああしてかばう時、嘉之は考えたことがあるだろうか。芙実もまた、長い間「成り上がり女」だの「コネで優遇されてる」だのと誹謗され続けてきたことを。 でもあの時、彼は一度だって自分を庇ってはくれなかった。 比べるほどに滑稽で、今の自分はまるで道化そのものだ。 「でも『真夏の果実』の主演って、もともとは別の女優さんで、冬の湖で十数時間も撮影に耐えて、あと一ヶ月でクランクアップってところだったそうですね?」 記者が追及を続けた。 嘉之の目がわずかに揺れ、思考が遠のく気配を見せた。 それを見た文乃はすかさずマイクを取って、「申し訳ありませんが、ヒロイン役として私は最初から御村さんの第一候補でした」ときっぱりと言い切った。 嘉之も我に返ったように唇を引き締め、「あの女優さんも......確かに素晴らしかったが、この役に一番ふさわしいのは文乃さんです」と断言した。 耳元で風が唸り、冷たい風が芙実の頬を刺した。 ようやく届いた嘉之からの返信には、こう書かれていた。 【心配するな、ふみちゃん。俺がついてる。チャンスはまた巡ってくる。だけど、お前のお姉さんは新人で何も持ってないんだ】 なんて皮肉な言葉だろう。 あの誕生日の日、両親も同じようなことを言っていた。「あなたには私たちがついてるけど、お姉ちゃんには何もないんだから、誕生日は譲ってあげなさい」って。 でも芙実だけが知っている。最初から最後まで、両親も嘉之も、誰一人、自分の味方にはなってくれなかったってことを。 自分の味方は、いつだって自分だけだった。 そして今、その人生さえも奪われようとしている。 芙実は嘉之の連絡先をすべてブロックした。 震える指で凪時に電話をかけた。 「中条さん、私......後悔してるんです」 その言葉を聞いた凪時が、冷ややかに笑うのがわかった。 「鈴木さん、今さら何言ってるんですか。偽装自殺の契約書にはもうサイン済みでしょ?」 「そうじゃないんです」芙実が食い気味に遮るように言い、画面に映る男女を赤く潤んだ目でじっと見つめた。 「偽装自殺の契約そのものを後悔してるわけじゃない。計画を......前倒しにしたいんです」 文乃が奪い合いを望むなら、そうさせればいい。 でも、生きている者は、死者には勝てない。 自分の死で、このくだらない姉妹の争いに終止符を打つ。 嘉之の目の前で、自分が轢き殺される姿を見せてやる。 そして、最も愛する存在を失う痛みを、彼に味あわせてやるんだ。 当たり前のように、ずっと側にいると思っていた人間が、いちばん残酷な形で、自分の前からいなくなるということを。 第9話 煌びやかな宴会場には、華やかな衣装に身を包んだ男女が行き交っていた。 チャリティーパーティーで最初に展示されたのは、ヴィクトリア時代の名作「蛇型ネックレス」。このネックレスを、嘉之はなんと20億円という驚くべき額で落札し、文乃に贈ったのだった。 蛇の形に巻きつく宝石とダイヤモンドが見事な輝きを放ち、目を奪われるほど鮮烈な光を反射していた。その煌めくジュエリーと美しい文乃の組み合わせに、出席者たちは思わず見惚れ、嘉之もまた、目を離せずにいた。 これまでにも嘉之は文乃に多くの贈り物をしてきたが、ここまで高価なものは初めてだった。 その瞬間、会場のカメラが、まさに「お似合いカップル」の二人にフォーカスを合わせた。文乃は恥じらいを浮かべ、潤んだ瞳をきらきらと輝かせながら、大胆にも嘉之に想いを告げた。 「ずっと私のために尽くしてくれて......ありがとう」 しかし、その言葉とは裏腹に、嘉之の表情にはどこか曇りがあった。 ここ数日、嘉之はチャリティーパーティーの準備に追われていて、芙実に会えていなかった。 理由はわからないが、最近彼は何度も悪夢を見ていた。夢の中には、血まみれの芙実が現れ、そのたびに冷や汗をかきながら飛び起きていた。 先ほど送ったメッセージにも芙実から返事はなく、再度送信してみたところ、なんとブロックされていることに気づいた。 「大丈夫、問題ない」と自分に言い聞かせた。たとえ芙実が何かに不満を抱えて距離を置いたとしても、それが長く続くはずがない。北都には身寄りも親もなく、芙実が長いこと怒り続けるとも思えなかった。 以前だってそうだった。どんなに喧嘩しても、きちんと謝れば芙実はすぐに許してくれた。そう自分に言い聞かせながら、嘉之は高級ブランド店に電話をかけた。 かつて、ダイヤモンドで飾られたウェディングドレスをオーダーメイドしていた。それは芙実への結婚の贈り物だった。来月、芙実と結婚する予定だったのだ。ただし、その計画は彼女にはまだ伝えていなかった。サプライズで驚かせたかったのだ。 嘉之にとっては、その1ヶ月が猶予期間でもあった。その間だけ、禁断の恋に溺れるつもりだった。だが、結局1ヶ月も持たなかった。文乃との関係にも、その甘い幻想にも、もう嫌気が差していた。 たった1ヶ月......もう、我慢できそうになかった。 そんなことを考えていると、不意に目の前に女性の華奢な手が伸びてきた。細い指がくるりと円を描くように腹部をなぞり、そのままベルトに指をかけた。 文乃の目にはまだ涙が浮かんでいて、赤くなった瞳で訴えかけてくる。 「一緒にいてくれる?お願いだから」 だが嘉之は冷めた目で文乃から身を引いた。 「言っただろ。この期間だけ、お互い利益のために付き合うって。芙実のリソースを君に渡したら、それで俺たちは終わりだ」 それでも文乃は涙を溜めたまま、はっきりと言い切った。 「嘘よ!芙実のキャリアまで私に譲ったんだから、私のことを本当に愛してるに決まってるじゃない!」 嘉之は文乃を振り切り、後ろで懇願する彼女の声も構わず、宴会場をあとにした。 【芙実、どうして返事くれないの?俺に怒ってる?】 【今どこ?迎えに行くよ。夜は鍋にしない?】 電話もメッセージも返ってこなかった。嘉之は無意識に眉をひそめた。不思議なほどに、最近は常に不安が胸をかすめた。 もしかして、怒りすぎて......わざと姿を消して連絡を絶とうとしている? 湧き上がる苛立ちをなんとか抑えながら、芙実の居場所を調べ始めた。スマホの位置情報を確認すると、どうやらチャリティーパーティーの近くにいるようだった。 芙実がそばにいない、その欠落感に胸が爆発しそうだった。もう待っていられず、すぐに秘書に電話をかけた。 「結婚式、前倒しにする。北都中のメディアリソースを総動員して、芙実との結婚式を盛大に挙げたい。それから、新しいメディアチームを組んで芙実を探してくれ。結婚式のサプライズを伝える瞬間まで、全部ライブ配信して!」 秘書の行動は驚くほど素早かった。すぐに北都最大の中央公園に結婚式の会場が設営され、演奏チームとウェディングチームもすでにスタンバイ。 1ヶ月前に招待されていたゲストたちも続々と集まり、「逃げた花嫁を探せ」と題したライブ配信がスタートした。 大画面には期待を込めた視線が集まり、司会者が興奮気味に状況を伝えた。 「ついに花嫁を発見しました!市内の防犯カメラの映像によると、ターゲットはついさっき、この歩行者天国に現れたとのことです!それでは、カメラの映像を追いながら、交差点付近に映る華やかな姿をご覧ください!」 案の定、白い影がゆっくりと人々の視界に入ってきた。 優雅なその姿に長い髪――嘉之はすぐに、それが芙実だと気づいた。 その姿が現れた瞬間、ここ数日、胸にぽっかりと空いていた穴が一気に埋まった気がした。 カメラが彼女に寄っていくのに合わせて、嘉之も無意識に立ち上がっていた。 もうすぐだ。あの白い影がこちらを振り返れば、夢にまで見たあの笑顔が―― だが、次の瞬間、観客の悲鳴が響き渡り、嘉之の目が大きく見開かれた。心臓が見えない手で鷲掴みにされたように、息が詰まった。 スクリーンの中、猛スピードで突っ込んできた大型トラック。その車体は制御不能の獣のように、死の気配をまとって芙実に迫る。 白い影は衝突の衝撃で、まるで紙のように宙に舞い、そして地面に激しく叩きつけられた。