明月が一度も来なかった

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明月が一度も来なかった

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小林芽依(こばやし めい)が浅間深志(あさま しんじ)と結婚して五年。二人の間には息子も生まれ、芽依はこの穏やかな家族の形がずっと続くの...

Chương (1)

第1章

五年にわたる結婚生活で、小林芽依(こばやし めい)は浅間深志(あさま しんじ)に息子を育て、ずっとこのまま幸せに暮らせると信じていた。 しかし、白坂夏寧(しらさか なつね)が帰国して初めて、芽依は自分がただの余計者にすぎなかったと気づいた。 深志は何度も夏寧のために芽依を置き去りにし、息子も夏寧に懐いてしまった。 しかし幸いなことに、これらはすべて契約にすぎなかった。七日後、芽依はついに真の自由を手に入れた。 第1話 「おばさん、契約を解約したいんです。五年以内に深志が私を好きにならなかったら、契約は無効になるって、おっしゃったじゃないですか?」 「それは私の言葉だけど、あなたには風初ちゃんがいるでしょ?あんなに風初ちゃんを愛してるくせに、彼が他の人をママって呼んでも大丈夫?」 「平気よ」 小林芽依(こばやし めい)は迷いなく、断固とした口調でそう言い切った。 「私と深志との結婚は、最初から契約だった。この子だって、その契約の一部に過ぎない。 それに、今は白坂夏寧(しらさか なつね)が帰国して、深志も子どもももう私を必要としてない」 五年間、芽依も本気で浅間深志(あさま しんじ)に惹かれたけど、結果はたび重なる失望だった。 深志の母は、息子が起こした騒動を思い返して、ため息をついた。 「契約はあと七日あるわ。サインさえすれば、七日後には浅間家があなたに自由を返す」 芽依はためらうことなく契約書にサインし、大股で浅間家の扉を出て行った。 車を走らせていると、幼稚園から写真が送られてきた。 写真の中で深志は満面の笑みを浮かべ、体を思わず夏寧に寄せていた。そして浅間風初(あさま ふうい)は夏寧の手をぎゅっと握っていた。 彼ら三人が着ている服は、まさに芽依が風初の運動会に用意した親子コーデだった。 今では運動会には夏寧が代わりに行っただけではなく、親子コーデまでも着ていた。 …… 深志と夏寧の恋愛は大きな話題を呼んでいた。 深志は資産数十億を誇る若様、夏寧は学業を捨てて芸能界でキャリアを築くスターだった。 格差の大きい二人が恋に落ちたのだ。 けれど夏寧がブレイクしたとき、彼女は深志に別れを告げた。理由は「自分の仕事のため」だった。 それ以降、深志は精神的に追い詰められ、毎日酒に溺れ、死にたい衝動さえ抱いた。 浅間家の若様が恋愛で自殺を図ったことが、その夜にはSNSでトレンド入りした。 そんなとき、芽依の父親が手術室に横たわっていて、高額な手術費用に彼女は途方に暮れていた。 そこで深志の母は芽依を見つけた。 「契約に同意してくれれば、手術費は全額こちらで払う」と芽依に持ちかけた。 そして条件は、五年間で、芽依が浅間家に嫁ぎ、深志を立ち直らせることだった。 その後、深志の母は深志の前で芽依を紹介し、彼女を浅間家に迎える話を切り出した。 「深志、芽依を妻に迎えてもいいか?」 二人ともドキドキだった。もし深志が同意しなければ契約は結ばれないから。 でも深志はうなずき、血の気が引いた顔でぽつりと言った。「どうでもいい。夏寧じゃないなら、誰でも同じだ」 契約で出会った二人は、ただの利害関係のはずだった。けれど過ちだったのは、芽依が日々のケアの中で本気になってしまったこと。 それなのに深志は終始冷たく、まともに彼女の顔すら見ようとしなかった。 二人の関係を証明する唯一の証拠である婚姻届まで、仕事が忙しいという理由でずっと提出されなかった。 ある日の真夜中、酔いつぶれた深志がふらふらと帰ってきて、ぼんやりと芽依を見つめた。 「子どもを作ろうか」 その夜、二人は合歡した。 芽依はその夜が二人の愛の始まりだと思った。でも後になって知ったのは、あの日夏寧が彼氏の存在を公表したってことだった。 でも風初を授かってから、深志はそれほど冷たくなくなって、芽依の尽くす姿を無視しなくなった。 芽依はこのままずっと続くと思っていたが、夏寧が別れを正式に発表した日、 その夜には夏寧が深志と川辺で手をつないで散歩している写真をメディアに撮られ、ニュースのタイトルは「復縁?」だった。 その後、二人の関係はますます親密になり、深志は夏寧を家に連れ込むことさえ増えた。 冷淡だった風初も、夏寧と会うとまるで別人のように変わった。 彼は甘えん坊になり、しょっちゅう夏寧のところへ駆け寄って遊びたがった。 三人の写真もどんどん増えていった。 これまでは深志が写真嫌いで、この五年間、芽依と深志とのツーショットがほとんどなかった。 だが、夏寧が家の顔馴染みになってから、深志は最新モデルのカメラまで購入し、彼らを隠し撮りしたタブロイド紙の切り抜きを全部きれいにファイリングしてコレクションしていた。 夏寧には、彼にとって永遠に特別だった。 芽依ははっきり悟った。深志がどれだけ時間を与えられても、彼女を好きになることは一生なかった。 だって深志の心には、夏寧しかいなかったのだから。 だが芽依にとってどうでもいい。これは全部契約のためだった。 七日後には彼女がこの尊厳を踏みにじる家を去って、海外で作家としての夢を追いかけられるから。 そう考えると、芽依は携帯を手に取り、海外の出版社に連絡を入れ、そして七日後の航空券を予約した。 家に着くと、いつもの駐車スペースへ車を進めた。 次の瞬間、夏寧の車が先にそこに停まっていて、その中には深志と風初が乗っていた。 第2話 夏寧は車を降りると、わざわざ芽依のもとへ歩み寄り、挑発的な笑みを浮かべた。 「ごめんね、うっかりこの駐車スペース使っちゃって。気にしないよね?」 芽依が返す前に、深志が先に言い放った。「ここは誰かの専用じゃない。君が停めたいなら、文句を言うやつなんていないよ」 そう言いながら、深志は芽依を一瞥し、まるで警告するかのように視線を送りつけた。 風初も合わせて言った。「おばちゃん、ママのことは気にしなくていいよ。ママはダサい車ばっかり運転して、ここに停められるなんて恥ずかしいから」 風初の言葉に芽依の胸はぎゅっと締めつけられた。四年もの間、彼女はこの子を懸命に世話してきた。 だが今では風初が夏寧の肩を持つだけでなく、さらに彼女にこんなに辛い言葉を話したなんて。 そのとき、深志は夏寧の手を取り、嬉しそうに声を上げた。 「さあ、俺が用意した部屋を見に行こう。俺の隣の部屋だよ」 風初も嬉しく叫んだ。「やったー!これで遊び相手が増えるね!おばちゃんは何でもできるんでしょ? ママなんか、つまんないし!」 深志は芽依をちらっと見て、言い忘れていたことに気づいた。 「夏寧の住むマンションの契約が切れたから、しばらくはこの別荘に仮住まいさせるつもりだ」 芽依は淡々と「うん」とだけ返し、感情を表に出さなかった。 深志は芽依の反応を見て、思わず戸惑った。彼女がこんなに平然だと思いもしなかった。 だが夏寧が気まずそうに言った。「じゃあ、私ホテルにでも行こうかな……だって、浅間さんがあなたの夫なんでしょ?私、よそ者だし……」 風初はそんな夏寧の言葉を許さなかった。「おばちゃんはよそ者なんかじゃないよ!だってパパとおばちゃんのほうが先に知り合ったんだから!」 「そうだ、この別荘も本来は君のために用意されたものなんだから、よそ者なわけないよね」 深志と風初は二人がかりで夏寧を別荘へ引っ張り込み、入る前に、深志は夏寧の車のキーを芽依に手渡した。 「トランクを開けて、荷物を降ろしてあげてくれ」 「彼女は手がないの?」 深志はきょとんと芽依を見つめた。こんな態度を見せられたのは初めてだった。 彼の反応をまったく怖がらず、感情をすべて閉じ込めてしまっていた。その光景に、深志は思わず背筋がひんやりした。 「無理ならいいよ。執事に……」 「いいの。私がやるから」 芽依はいつものようにキーを受け取り、顔に一切の表情を浮かべなかった。残っていたわずかな感情すらも、ぴたりと凍りついて消え去ったかのようだった。 芽依が箱を運んで戻ると、風初は得意げに夏寧にプレゼントを差し出していた。 それはが四本の五グラムのゴールドバーだった。風初はまるでお宝を捧げるかのように夏寧に見せた。 夏寧の目は驚きで大きく開いたが、芽依の顔が真っ青になった。 浅間家に金がないわけではない。だがこの四本のゴールドバーは、芽依が少しずつ貯めたお金で買ったものだった。 毎年の風初の誕生日に、芽依は五グラムのゴールドバーを一本贈っていた。 芽依にとって、それは風初に対する自分の信念を象徴するものであり、彼に対する深い願いを込めたものだった。 しかし今、それが彼によって簡単に夏寧に渡されることになるとは、芽依は思いも寄らなかった。 深志は芽依の顔色が明らかにおかしいことに気づき、眉をひそめた。 「風初、それはママがくれた誕生日プレゼントだろ?どうしてほかの人にあげるんだ」 風初は反論した。「おばちゃんはほかの人じゃないよ!僕が好きなのはおばちゃんなんだから。それに、たかがゴールドバー数本じゃん?浅間家にはこれくらい何でもないし!」 深志はまだ何かを言いたいが、背後から、芽依の冷たい声が響いた。 「風初の言う通り。ゴールドバーなんて大したものじゃないわ。あげたい人にあげればいいじゃない」 そう言い捨てると、芽依は誰の視線も気にせず、自室へ歩いて行った。 ドアにもたれかかり、疲労が全身を襲い、彼女は痛んで目を閉じた。 あと七日。 契約が終われば、彼女が離れられた。 第3話 翌日、芽依は早く目を覚ました。 彼女と深志はずっと別々の部屋で寝ていた。ひとつの理由は深志が彼女を完全に受け入れていなかった。 もうひとつは彼が潔癖症で、ほかの人が自分の部屋に入るのが耐えられなかったからだ。 洗顔を終えた後、彼女は友人の法律事務所へ向かった。 村上美月(むらかみ みつき)は芽依と話をした後、すべてを理解した。 「だから、浅間深志にそんなに優しくしてるのは、結局契約のせいだったんだね?」 芽依は頷いた。 美月は息をついて言った。「ここ数日ずっとニュースで見かけて、私も心配してたけど、契約のことを知って少し安心したわ」 そして、美月は続けた。「今日はどうして来たの?離婚届を提出するため?」 芽依は皮肉な笑みを浮かべて答えた。「私と深志はまだ婚姻届も提出してなかった。今回は養育権放棄の契約を作りたくて」 美月は驚いて叫んだ。「誰もが知ってるじゃない、あなたが子どもをどれだけ大事にしてるか、今、風初の養育権を放棄するなんて!」 芽依の目の端に悲しみが浮かび、彼女は顔を上げて言った。「契約書を作ってくれればそれでいい」 美月は何も言わず、契約書をすぐに作成し、芽依に手渡した。 芽依は契約書をしっかりと握りしめ、足早に事務所を出た。 美月は芽依の背中を見送りながら、寂しさを感じた。 彼女は大声で叫んだ。「芽依、五年間あなたがいくら頑張っても彼の心は温まらなかった。これからは、その優しさを自分に使ってね」 芽依は一瞬足を止め、振り返って微笑みを浮かべた。「うん、そうするよ」 …… 芽依が家に帰ったのは十時を過ぎていたが、リビングは相変わらず静かで空っぽだった。 テーブルには、彼女が出かける前に作った朝食が置かれて、すっかり冷めていた。 彼女は朝食を再び温め直し、いつものように上の階にいる風初と深志を起こしに行った。 深志は誰かが彼の部屋に入るのを嫌うため、部屋に入る前に必ずノックをしなければならなかった。 ノックをすると、すぐにドアが開いた。 そこには夏寧が背伸びをして立って、芽依を見ても表情は変わらなかった。 「深志の部屋を借りてお風呂を使おうと思ったの。朝からどうしても腰が痛くて」 芽依の顔色は白くなり、夏寧が更に挑発的な言葉を続けようとしたその時、深志が寝巻き姿で部屋から出てきた。 「夏寧、誰がノックしてた?風初かな?」 芽依はその視線を辿ると、深志の首筋に細かくて赤い痕がいくつもついているのを見てしまった。 芽依は自嘲的に笑った。 結婚して五年、二人はほとんど身体的な接触がなかった。 彼女は彼が性的方面に興味がないだけだと思っていたが、今考えると、彼は単に自分に興味がなかっただけだと気づいた。 深志は芽依を見て慌てて服を引き上げ、言い訳を始めた。 「夏寧はただモバイルバッテリーを借りに来ただけだよ。余計なことを考えないでくれ」 芽依はその言葉を聞いて、思わず冷笑した。嘘をつく前に、少しも口裏を合わせなかったかと思ったが、 彼女はあえてその嘘を指摘せず、朝食ができたことを告げて階下に降りていった。 この結婚は最初から契約であり、深志が誰と親しくしようと彼女には関係がなかった。 彼女がすべきことはただ待つこと、七日後に完全にこの家を離れることだった。 五分後、ようやく三人はゆっくりと階下に降りてきた。 風初はお握りを見て眉をひそめた。「お握りが温められてるけど、もう新鮮じゃない!ママ、風初はママが作った唐揚げが食べたい!」 深志は穏やかに説得した。「風初、ママが作ったんだから、無駄にしないようにしようね。明日ママが作った唐揚げを食べよう」 「いやだ!今すぐ食べる!」 深志は子どもを甘やかさない主義で、冷たい顔をしようとしたが、 夏寧は話を続けた。「小林さん、あなたの唐揚げが絶品だって聞いた。ぜひ、あなたの腕前を試してみたいな」 深志は夏寧が食べたいと言った瞬間、態度を変え、芽依に指示を出した。 「みんな食べたいって言ってるんだから、作ってきてくれ」 「作れない」 芽依はお握りを食べながら、顔を上げずに言った。 「食べたいなら、自分で作って。お握りは私が今朝手作りしたものよ。 お握りを食べたくなければ、捨ててもいい」 第4話 深志は呆然とした。これまでの芽依は、彼の要求をほとんど断ったことがなかった。どんなに無理でも、彼女は努力して応えてくれたはずなのに。 彼女に拒まれるなんて、ほとんどなかった。 夏寧はそれを聞いて、自嘲めいた笑みを浮かべた。「私が唐突だったよね。せっかく住まわせてもらってるだけでも十分なのに、小林さんの手料理まで期待しちゃってさ」 そう言うと、夏寧は立ち去ろうとした。 風初は泣きながら芽依を叩いて抗議した。「ひどいママ!おばちゃんをいじめちゃだめ!」 深志は慌てて夏寧を引き止め、芽依を責めるように言った。「まだ朝のことで怒ってるのか?夏寧はただモバイルバッテリー借りに来ただけだって言っただろ」 芽依は無表情のまま答えた。 「今は体調悪いから、ごはん作る余裕ないの」 「ママ、病気になったの?」 風初は驚きながらも嫌気で口を押さえた。 「なんで早く言わなかったの?おばちゃんも体調悪いから、伝染されたらどうしよう」 そして風初は深志の袖を引っ張りながらお願いした。「パパ、おばちゃんに薬を買いに行こう。予防しないと」 「風初、大丈夫だって。私は何でもないから」 深志は夏寧を優しく見つめながら言った。「風初の言う通りだ。無理しないで。前に君も病気のとき、治るのに半月がかかっただろ?」 三人は手をつないで家を出て行った。 残されたのは芽依と、また冷え切ったお握りだけだった。 何年も一緒に暮らしてきたのに、 夫も息子も彼女に関心を示さず、代わりに病気でもない夏寧のために薬を買いに行くなんて。 芽依は残ったお握りを捨て、一瞬呆然とした。 そのとき、深志からのメッセージが届いた。 【スーパーに行くから、車で迎えに来て】 スーパーに着くと、そこには夏寧と風初だけがいた。 「おばちゃん、アイス食べたい!」 夏寧は風初の顔をさすり、「わかった、風初が食べたいならおばさんが買ってあげる」と言った。 芽依は眉をひそめ、すぐに制止した。 「風初、医者からの注意を忘れたの?胃腸が弱いんだから、アイスはダメでしょ」 風初の嬉しそうな顔は一瞬で曇った。 「小林さん、子どもが欲しがるなら買ってあげればいいのに、そんなに緊張にならなくても」 芽依は顔を曇らせて答えた。「これは私の家の問題。白坂さんが口を出すことじゃないわ」 その瞬間、深志が戻ってきた。 夏寧は深志を見つめ、いじけた声で言った。「深志、風初にアイス買ってあげたいのに、小林さんが反対で……」 芽依は淡々と説明した。「さっき医者が言ったばかりでしょ?まずは他のお菓子を食べて、アイスは後でいいって」 深志は夏寧が傷つくのを見過ごせず、冷たい顔のまま言い放った。 「そんなふうにすると、風初はますますあなたのこと嫌いになる。ひと口を食べさせ、あなたが残ったのを食べてもいいでしょ?それに夏寧も善意なのに、度量が小さすぎじゃないか?」 その言葉に、芽依の胸は深く刺された。深志が夏寧をかばうために、子どもの健康さえ軽視し、 しかも彼女が大事にしていることを嘲ったなんて。 それでも芽依は苦笑し、反論しなかった。 突然、彼女は悟った。 白坂夏寧が戻ってから、彼女は完全によそ者になった。 どれだけ尽くしても、彼らの心には決して白坂夏寧には敵わなかった。 第5話 夏寧は得意げな笑みを隠しきれず、風初も大声で叫んだ。 「パパとおばちゃんって、最高だね!意地悪なママみたいに、アイスすら買ってくれないんじゃないもん!」 その声に周囲の通行人も注目し、みんなが芽依を責めた。 芽依の心はますます冷たく沈んでいった。 これが、四年間必死に育ててきた息子なのか。 しかも深志は、風初のわめき声をただ見過ごしているだけで、制止する気配すらないのだった。 最後に夏寧がわざとらしく制止して、この騒ぎはようやく収まった。 スーパーのあと、三人は料理屋へ行こうと提議した。 だが、芽依がその提議を断る機会はまったくなかった。 深志はメニューをどんどん注文し、風初の玉子焼き以外は、ほぼ全部辛い料理だった。 席に着くまで、一度も芽依に好みを聞くことはなかった。 「深志、こんなに久しぶりなのに、私の好きなものを全部ちゃんと覚えていてくれたんだね」 夏寧は気を持たせるように深志の手に触り、深志の耳元を赤く染めた。 料理が揃うと、深志は夢中で夏寧に箸を伸ばした。 だが芽依はただ黙ってご飯を食べて、料理は一切食べなかった。 不思議そうに深志が聞いた。 「どうして料理食べないんだ?」 芽依は淡々と答えた。「辛いものは食べられないから」 深志は呆然とした。芽依がいつも作る料理は、ほぼ辛いものだった。 彼女も辛い味付けを好むとばかり思い込んでいたが、芽依の好みさえ、一度もちゃんと気にかけていなかった。 苦い気持ちが込み上げた。深志はメニューを手に取り、改めて聞いた。 「じゃあ、何かほかに頼もうか?好きなものを言ってくれ」 「いいよ、あなたたちで食べて」 深志はまだ何かを言いたいが、近くの通行人が夏寧を指さして声を上げた。 「あなたは白坂夏寧さんですよね?」 「あなたは浅間深志社長……ですか?!」 夏寧が頷くと、その人は興奮気味に続けた。「私はお二人のファンです!SNSのあのニュース、本当に甘すぎてドラマみたいでした! もう一度復縁したって、本当なんですか?」 深志は芽依をちらりと見てから、期待に満ちた夏寧の目を見返した後、 彼はファンに頷き、軽く「うん」と言った。 ファンは興奮して言った。「紆余曲折を経て五年ぶりにまた一緒になりました。本物の愛ってこういうことですよね!」 夏寧は微笑んで言った。「昔は私が大切にできなかったけど、これからは深志をちゃんと大事にするから」 深志はそんな夏寧を幸せそうに見つめた。 ファンが去ったあと、風初は満面の笑みで聞いた。 「パパ、おばちゃんと本当に一緒になったら、僕、新しいママを変えてもいい?」 深志は慌てて風初の口を押さえ、芽依に向き直った。 「風初はまだ小さいから、今の言葉は気にしなくていい」 芽依が反応しないのを見て、深志は続けた。「さっき言ったのは、夏寧の仕事のことを考えてのことなんだ」 芽依は静かに頷いた。「わかってる。説明はいらないよ」 深志はそんな平然とした芽依の態度に、胸の奥が違和感を感じた。 その横で夏寧は優しく深志の手を握っていた。 「深志、早く食べないと冷めちゃうよ」 深志は甘い笑みを浮かべ、今は芽依を見る余裕もなく、夏寧の優しさに溺れていった。 食事を終え、四人は道路の向かいにある駐車場へ向かって歩いていた。 突然、小型セダンが交差点から飛び出してきた。 深志は急に夏寧と風初を路肩に引き寄せたが、 道路に立っていた芽依のことをすっかり忘れていた。 次の瞬間、急ブレーキの音が響き、芽依がその場に倒れ込んだ。 深志は目の前の光景に愕然とし、すぐに夏寧の手を離して芽依へ駆け寄った。 芽依の体は激しく震え、膝を抱えてうずくまり、額に細かな冷や汗がにじんでいた。 深志はその瞬間、注意をすべて芽依に向けていた。 彼は慌てて声を震わせた。「芽依!大丈夫か? すぐに病院に連れて行く!」 芽依は何とか口を開こうとしたが、痛みで声が出せなかった。 芽依は深志の手を握ろうとし、彼を安心させたかったのだ。 しかし、手を伸ばしたその瞬間、風初が深志に向かって叫んだ。 「パパ、おばちゃんがもうすぐ倒れそうだよ!早く来て!」 第6話 深志はすぐに夏寧のほうへ視線を向けた。その目には、先ほどよりも強い心配が宿っていた。 夏寧は意地っ張りそうに言った。「深志、大丈夫よ。ただ血を見てめまいがしたから、心配しないで。今は私より小林さんのほうが優先でしょ」 「おばちゃん、顔色がこんなに真っ白になって、大丈夫なんてわけないじゃないか! パパ、何もしないで立ってないで、早くおばちゃんを病院に連れて行ってよ!だって車、もう止まってるのに。ママは演技してるだけで、おばちゃんを妬んだでしょ!」 風初の言葉を聞いて、深志は芽依を見る目に疑いを滲ませた。 彼は眉間に深い皺が寄り、選択に迷った。 夏寧が再び苦しげに唸ると、深志の理性はあっという間に吹き飛んだ。 彼は夏寧を抱き起こし、駐車場にあるセダンへ歩き出した。 芽依の前を通り過ぎるとき、深志は夏寧の目を手で覆い隠した。 振り返り、深志は申し訳なさそうに声を震わせた。「夏寧はずっと体が弱かったんだ。ちょっとしたことでも命に関わる。俺はもう救急車を呼んだよ。すぐに来るから、もう少しだけ待っていて」 遠ざかる足音とともに、芽依は自分が見捨てられた現実を静かに受け入れた。 苦い笑みを浮かべて唇を引き結ぶと、その口元に一筋の血が滲んだ。 救急車が到着したとき、芽依の意識はすでに朦朧としていた。耳に届くのは、医療者の声だった。 「こんな人たち、救急車を呼んで患者をひとり置いていくなんて」 再び目を開けると、芽依は病室のベッドに横たわっていた。医者が彼女に言った。 「これは交通事故ですね。全身に擦り傷があって、軽度の脳震盪もあります」 芽依は淡々と頷いた。運転手が急ブレーキをかけたものの、衝撃は避けられなかったのだろう。 彼女は医者に尋ねた。「いつ退院できますか?」 医者は即座に制止した。「退院ですって?脳震盪は最低でも四日間の入院が必要ですよ」 医者が去ると、芽依は指を折りながら考えた。 契約はあと五日。退院したら、残りはたった一日だけだ。 そう考えると、彼女は息をついた。 もう、あと少しで終わった。 「ねえ、白坂夏寧もこの病院に来てるよ!あの噂の彼氏も駆けつけたらしい」 「マジで?」 「嘘じゃないよ!浅間社長がどれだけ慌ててたかも知らないでしょ?ずっと白坂夏寧を抱きかかえてVIP病棟まで運び込んだんだから! 業界の権威を呼んで、精密検査までやらせたんだって!」 それを聞いて、芽依は苦笑いし、壁に手をついてゆっくり歩いた。 VIP病棟のドアにはわずかな隙間があった。 ベッドには夏寧が横たわり、風初が緊張した顔で彼女の手を握っていた。 深志は優しく夏寧にお粥を運び、その目は芽依がいままで見たことのないほどに柔らかかった。 あの三人は、幸せそうだった。 病室の外に立つ芽依は、まるで幸福を盗み見るだけの覗き魔のようだった。 足元に近づいてきた看護師が薬を夏寧に送ろうとし、芽依をファンだと勘違いしてささやいた。 「あなたも、あの二人が本当に幸せそうだと思うでしょ?浅間社長が白坂さんを運び込んできたとき、自分が彼女の代わりにめまいしたと思うほど心配してたんだって。 あの緊張を見る限り、ネットのニュースは本当みたい」 芽依はかすれた声で答えた。「ええ、確かに幸せそうですね」 看護師が立ち去ると、芽依は静かに自室へ戻った。 入院以来、彼女の携帯は一度も鳴らなかった。夫からも息子からも一通のメッセージも届いていなかった。 夏寧の待遇と比べれば、悲惨というほかなかった。 ただ、赤字でマーキングされた海外出版社からの一通のメールだけあった。 コンテストが間近に迫っているから作品を送ってほしいという連絡だった。 芽依はすぐに美月にパソコンを届けさせ、病室で執筆を始めた。 個室の静けさは、創作に没頭するには最適だった。 外界の邪魔を断つため、彼女は携帯をオフにし、パソコンもオフラインモードに切り替えた。 深志と過ごした五年間、芽依は深志だけを見つめてきた。 ほとんど書くことはなかったけど、久しぶりにキーボードを打っても、まったく不案内を感じなかった。 彼女は全身全霊で執筆に没頭し、時間の流れすら忘れていた。 看護師から退院の許可を告げられたとき、すでに四日が経っていた。 ちょうどそのとき、芽依の散文も完成し、彼女は作品をメールで送信した。 ようやく携帯を手に取ると、画面には深志からの不在着信とメッセージがいっぱい表示されていた。 99件以上があった。 第7話 芽依は不思議に思った。普段、深志はメッセージすらほとんど送らないのに、どうしてこんなに電話をかけてきたのだろう。 疑問を抱えながら家に帰ると、メイドがにこやかに迎えた。「奥様、お帰りなさいませ。奥様が留守の間、浅間社長は気が気でなく、私たちが作るお食事も一品としてお気に召さなかったのです」 芽依はようやく理解した。彼女が作る料理はなかったので、深志が慣れなかったのだろう。 だが、彼はこれから慣れなければならなかった。だってこれから先、彼の好みに合わせてレシピを研究してくれる人なんて、もういなくなるから。 芽依は靴を履き替え、リビングへ向かった。深志は眉をひそめたままぼんやりとソファに座っていた。部屋にはどんよりとした空気が漂っていた。 足音が聞こえると、彼はゆっくりと顔を上げた。疲れ切った目が、芽依を見た途端に明るく輝いた。 深志は立ち上がり、怒りを帯びた口調で言った。「どこに行ってたんだ?何度も電話をかけたのに、どうして出ないんだ?」 芽依はソファに腰掛け、静かに答えた。「入院していて、今日退院したところ」 深志は言葉を失った。夏寧の世話ばかりしていて、芽依の事故などすっかり忘れていたのだ。 当時、彼は風初の言葉を信じて、芽依が嫉妬で演技していただけだと思い込んでいた。 芽依が怪我しても大したことないと思ったけど、まさか本当に入院するほど重症だったなんて。 深志は恥じ入って言った。「あの日のこと、怒ってないか?まさかこんなに重症だなんて思ってなくて……夏寧の病気が命に関わるから、仕方なく君を放っておくしかなかったんだ」 その言葉に、芽依の心を皮肉がかすめた。自分の擦り傷も出血も全部見て見ぬふりだったくせに、 白坂夏寧はただ血を見てめまいしたが、命に関わるなんて。 だが、芽依はすぐに気持ちを割り切った。愛の深さによって違いもあった。それは仕方なかった。 そもそも彼女と彼の関係は、ただの契約に過ぎなかった。 芽依が淡々と「うん」と頷き、立ち上がろうとしたそのとき、深志は芽依の手にある原稿に目を留めて口を開いた。 「いつから文章なんて書き始めてたんだ?」 芽依の目にわずかな冷たさが走った。彼女が毎年の結婚記念日に深志に贈った詩を、彼は適当に物置に放り込んでいただけだ。彼女が書くことに気づくはずもなかった。 芽依は淡々と答えた。「書いてみただけ」 深志はそれ以上多く言わず、ただ芽依を見つめた。「ここ数日、ろくにご飯も食ってない。君の作るしょうが焼きが食べたい」 芽依は冷蔵庫を指さして答えた。「食材がないよ」 深志は慌てて言った。「じゃあ、一緒に買いに行こう」 そのとき、夏寧が階段から降りてきた。彼女の手がスーツケースを提げていた。 まもなく風初も降りてきて、夏寧の手をしっかり握りながらしょんぼり言った。「おばちゃん、行かないで。僕もパパも寂しくなるよ」 「大丈夫、夜の懇親会でまた会えるでしょ?」 夏寧は深志とまた話していた。 風初は焦ったように深志の手を掴んだ。「パパ、ぼーっとしてないで、早くおばちゃんを送ってあげてよ!」 深志の目に一瞬躊躇いの色が浮かんだ。彼は芽依を指さして言いかけた。「でも、俺は……」 言いかけた言葉を、芽依がすっと遮った。「行ってあげて。彼女にはあなたが必要でしょ」 深志は胸がぎゅっと締めつけられるのを感じ、芽依の手を握ってから、少し遠く離れた。 「芽依、今年の冬は風初を連れて西海に行こう」 彼は珍しく優しい口調で言った。「ずっと行きたいって言ってたよね?家族みんなで一緒にさ」 芽依は、深志の背後で風初と夏寧が笑いながらじゃれ合っているのを見つめた。彼らはまるで本当の親子みたいだった。 彼女は淡々と口を開いた。「また今度ね」 どうせもうすぐ離れるから、そんなチャンスはなかった。 風初が叫んだ。「パパ、早く乗ってよ!」深志は慌てたようにしながらも、ためらったまま車に乗り込んだ。 芽依はその場に立ち尽くし、カレンダーの日付を見ながら笑みを浮かべた。 今夜が終われば、彼女は浅間家を完全に離れられるのだから。 第8話 その夜は会社の懇親会だった。参加者は全員、一人のダンスパートナーを連れてこなければならず、夏寧は深志にエスコートされて華やかに登場した。 芽依は案内も届かないまま、ただ養育権放棄の契約を深志の母に渡すためだけに会場に来た。 飛行機はあと二時間で飛び立った。残った時間はわずかだった。 彼女は人混みの中、深志の母の姿を探し回った。 そのときステージの照明がパッと点き、ステージに深志が立ってスピーチを始めた。 傍らには風初と夏寧が立っていた。 会場の社員たちは囁きが飛び交った。「噂通りだな、浅間社長、ほんとに一途すぎる。噂の相手はずっと同じ人だったってわけか」 「結婚してるって聞いたけど?」 「社長はあの田舎女には感情なくて、本命はやっぱり白坂さんなんだよ」 芽依はそんな声が耳に入る余裕もなく、ただ階段の脇へ深志の母を探しに行った。 あたりを一通り見回したが見つからず、芽依は引き返そうとした瞬間、背後から声が響いた。 「招待状、届いた?参加者は一人だけのダンスパートナーを連れてこられるんだってね。 明らかで、勝つのは私でしょ」 振り返ると、そこにいたのは夏寧だった。さっきまでの可憐な様子はどこへやら、彼女の顔は歪んでいて挑発的だった。 「ねぇ、信じてる?深志が、あんたと私なら、いつだって私を選ぶって!」 芽依は淡々と答えた。「そんなくだらないゲームに付き合ってる暇はないの」 夏寧は鼻で笑うと、 芽依の肩を強く押した。 バランスを崩した芽依は階段を転げ落ち、重くフロアへ叩きつけられた。だが彼女の手は契約書をぎゅっと握り締めたままだった。 まるで稲妻に打たれたかのような鋭い痛みが芽依の全身を走った。 新しい傷と古い傷が同時に疼き、芽依は思わず息を飲んだ。 激しい声に会場中の視線が一斉に集まった。 深志が駆けつけると、そこに芽依を見つけ、慌てて彼女のもとへ走った。 彼はそっと芽依を抱き起こし、焦って聞いた。「芽依、どうしてこんなことに?」 芽依が振り返ると、凶行を犯した夏寧は逃げずに、かえって挑発的に叫んだ。 「深志、足が痛いの」 風初も叫んだ。「パパ、おばちゃんの足、大変なことになってるよ!早く見てあげて!」 しかし深志は躊躇い、芽依を心配そうに見つめた。 芽依は力を振りしぼり、自分で体を支えながら言った。「私のことを気にしなくていい」 深志は慌てて答えた。「俺が先に様子を見ていく。すぐ戻るから」 芽依はようやく深志の母を見つけ出した。 世事に通じている深志の母も、芽依の姿を見て思わず目を大きく見開いた。 「なんで顔が埃だらけになったの?服にも血がついてるじゃない?!」 芽依は「大丈夫」と言って、震える指で契約書を差し出した。「これ、預けます」 深志の母は見た後、深いため息をついた。「もしかしたら、最初からあなたと契約を結んだのが間違いだったのかもしれないわ。あなたを巻き込んだだけじゃなく、こんなにひどい目に遭わせてしまって…… 浅間家はあなたに借りがある。さあ、もう行きなさい。これであなたと浅間家の関係は切れるのよ」 芽依は震える声で呟いた。「ありがとうございます……」 …… 芽依は飛行機に乗り込んだ。全身が傷だらけでボロボロだったけど、胸の奥には幸福が満ちあふれていた。 ついに解放されたのだ。契約という鎖から逃れた。 この瞬間、彼女は自分自身の人生を取り戻した。 翌朝、飛行機の窓の外に初めて差し込む柔らかな光が芽依を包んだ。 灰色に沈んでいた日々は過ぎ去り、これからは澄み切った未来だけが、彼女を待っていた。