君のために、雲海を越えて

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君のために、雲海を越えて

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篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。 ぼんやりして戸...

Chương (1)

第1章

篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。 ぼんやりして戸を閉めようとしたその瞬間、ふいに、唇と舌が絡み合う艶めいた音が響いた。 自動照明がパッと灯り、目の前にはあらわな体が、何の隠しもなく晒されていた。 三日前に一度見かけたあの女が、夫の篠宮楓(しのみや かえで)に玄関のドア板に押し付けられ、激しくキスされていた。 彼女の頬はほんのりと紅潮し、眩しいほどに艶やかで、身体を震わせながら、楓に問いかける。 「社長、こんな堂々と私を家に連れ込んで、奥さんに怒られないの?」 「怒る?」楓は冷笑を隠そうともせず、「夫婦交換ごっこするって約束したんだぞ。あいつがお前の旦那のところに行く勇気もないくせに、俺に文句があるとでも?」 月村莉奈(つきむら りな)は首を傾け、楓に白い耳たぶを甘噛みされながら、ふと目を開いた。そこで、悠璃と目が合った。 だが莉奈は怯えることもなく、むしろゾクゾクと興奮しているようだった。瞳の奥には、刺激を楽しむ光がちらついていた。 「へぇ?本当に平気なの?奥さんが他の男と寝ても?」 楓は肩をすくめ、冷たく笑った。「ゲームなんだし、気にするわけないだろ。もし嘘だったら、バチが当たるさ」 第1話 篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。 ぼんやりして戸を閉めようとしたその瞬間、ふいに、唇と舌が絡み合う艶めいた音が響いた。 自動照明がパッと灯り、目の前にはあらわな体が、何の隠しもなく晒されていた。 三日前に一度見かけたあの女が、夫の篠宮楓(しのみや かえで)に玄関のドア板に押し付けられ、激しくキスされていた。 彼女の頬はほんのりと紅潮し、眩しいほどに艶やかで、身体を震わせながら、楓に問いかける。 「社長、こんな堂々と私を家に連れ込んで、奥さんに怒られないの?」 「怒る?」楓は冷笑を隠そうともせず、「夫婦交換ごっこするって約束したんだぞ。あいつがお前の旦那のところに行く勇気もないくせに、俺に文句があるとでも?」 月村莉奈(つきむら りな)は首を傾け、楓に白い耳たぶを甘噛みされながら、ふと目を開いた。そこで、悠璃と目が合った。 だが莉奈は怯えることもなく、むしろゾクゾクと興奮しているようだった。瞳の奥には、刺激を楽しむ光がちらついていた。 「へぇ?本当に平気なの?奥さんが他の男と寝ても?」 楓は肩をすくめ、冷たく笑った。「ゲームなんだし、気にするわけないだろ。もし嘘だったら、バチが当たるさ」 そう吐き捨て、皮肉な笑みを浮かべる。「それに、あいつは俺のことが狂おしいほど好きなんだ。他の男なんて眼中にない。交換ゲームなんて、できるわけがない」 「桜井家のお嬢様の純愛さを知らないのか?」楓は誇らしげに眉を上げる。「十年以上も俺一筋。俺が事故で腎臓を壊したとき、自分の腎臓をくれるって言い出したんだぜ。 俺が意識不明で寝てる間、正安寺まで登って祈りに行った。足を血まみれにしてまでなあ。 それだけじゃない。俺のために将来を捨て、家族とも絶縁し、プライドも人格もかなぐり捨てた。俺が一番嫌ってた時期、ブスだとボケだと罵っても、なお俺の後にすがってきたんだぞ」楓は、悠璃の愛をまるで戦利品のように並べ立てる。 「そんな女が、本当に相澤社長とくっつくと思うか? ていうかさ、交換ゲームなんて、ただの口実だ。女を家に連れ込むために適当に作った嘘だぞ。あいつが真に受けたけど、お前も信じてたの?」 そして、二人は快楽の絶頂に達する。 だがその同じ瞬間、悠璃は、底知れぬ絶望の闇へと堕ちていった。 かつて、いつか楓が変わってくれると、本気で信じていた。 だから結婚して七年、楓の周りにどれだけ女がいようと、耐えてきた。 彼の「約束」を信じ続けてきた。 悠璃は子供の頃から、楓のことが好きだった。 生まれつき体が弱く、よくいじめられていた彼女に、唯一優しく声をかけてくれたのが彼だった。他の子に「悠璃をいじめるな」と守ってくれた。 十歳の頃から、ずっと彼の後ろをついて回っていた。彼は遊び好きだが、彼女は一途で、どんなに辱められても、決して離れなかった。 七年前、楓は突然プロポーズしてきた。 「篠宮家には女主人が必要だ。お前が最適だ」 「遊び人もいつかは飽きる時が来る。約束しよう、いつか落ち着く日が来る。その時は、お前と仲良く、老いるまで一緒に生きていく」 彼女は本気で信じた。 嬉々として、彼と結婚した。 だが新婚の夜、楓は別の女――あるモデルさんと過ごしていた。 帰宅した彼を平手打ちしたら、彼は怒らず、逆に宥めてこう言った。 「外の女なんて一時の遊びだ。お前が本妻だ。家には絶対に女を連れ込まないと約束するから」 その言葉、また信じてしまった。 愛しているから、何度でも彼を信じてしまう。 数日前、「夫婦交換ゲーム」を提案されたときさえ、ただ無感動に首を振って拒んだだけだった。 楓は意味深に笑う。「なあ、俺は公平主義だ。俺が一途じゃないなら、お前も一途じゃなくていい。心が定まるまで、お互い好きにすれば?」 「楓はどうでもいい。けど、私は参加しない」と悠璃はため息をついた。 だが今―― その女を抱きかかえ、二階へと急ぎ足でやってきた楓を見て。 悠璃は、屋根裏部屋に逃げ込んだ。 狭い、埃だらけの闇の中で、熱気に灼かれながら、心も体も、限界を感じていた。 もう、これ以上待ち続けるのは無理だと。 また響いてきた艶めいた声に、熱い涙が止めどなくあふれ出した。 まだ、泣けるんだ。まだ、こんなにも悲しいんだ。 目を赤く腫らしながら、悠璃はスマホの通話履歴を開き、三日前にかかってきた見知らぬ番号に電話をかけた。 相手はすぐに出た。「何かご用?」 「前に言ってた交換ゲーム、私、やる」 相手はしばらく黙り込み、やがて意外そうに応えた。 「なんだって?」 悠璃は苛立ちを隠そうともせず続ける。「あなたの奥さん、今うちの旦那と盛り上がってるから。だから私もあなたと組むって言ってるの、分からない?」 「分かったよ」相澤啓司(あいざわ けいじ)は笑う。「今どこ?迎えに行く」 悠璃は伏し目がちに、静かに言った。 「どうせなら、思いっきりやろうか?」 「思いっきりって?」 「本物の交換よ。婚姻届の名前まで、全部交換するくらいの。覚悟ある?」 第2話 悠璃は知っていた。啓司には、それを現実にする力がある。 彼は浜市の大物。ほんの指先一つ動かすだけで、街を揺るがす嵐を巻き起こすことさえできる男だ。 婚姻届の名前くらい、裏でどうにでもできるはず。 だからこそ、彼に頼るしかなかった。 ここ数年、家族とも絶縁し、友も去り、誰も頼れる相手がいなくなった。最後に思い浮かんだのが啓司だけだった。 けれど、彼女は、ほんの少しの希望すら持っていなかった。 そんな彼女の思いを嘲笑うかのように、啓司は淡く笑った。「いいよ」 「え?」思わず言葉を失う。 「悠璃さんは今、僕に頼んでるんだよね?」彼は薄く微笑む。「頼みごとをするなら、それなりの態度がいるんじゃない?」 「これは取引よ!」悠璃は歯を食いしばって叫ぶ。 「言っとくけど、僕と莉奈は夫婦じゃない。だからその取引は成立しないよ」 その一言で、頭の中に雷が落ちたような衝撃が走る。 「嘘だろう?」 「莉奈は僕の従妹さ。暇だったし、ちょっと手伝っただけ。自分の頭でよく考えてみな」そう言い終えると、啓司はあっさりと電話を切った。 悠璃は、その場に立ち尽くすしかなかった。まるで全身が氷水に沈んだように、凍りついた。 結局、あの交換ゲームなんて、全部作り話だったんだ。 楓は最初から分かっていた。 自分が他の男と関わるはずがないからこそ、「好きにすれば」と余裕ぶっていられたのだ。 公平主義だと? そんなの、笑わせる! 七年も楓の妻でいることが、まるで長い夢でも見ていたよう。 そして、ついに夢が覚めた。 悠璃が寝室に戻ったとたん、楓からメッセージが届いた。 【もう寝た?】 まるでプログラムされたAIのように、無意識に即レスしてしまう。 【まだ】 するとすぐに、ノックの音。上半身裸の楓が、扉の向こうに立っていた。 胸元から首筋にかけて、色濃いキスマークが無数に刻まれている。その淫靡さに、胸の奥がかき乱される。 悠璃は顔を上げて彼を見つめた。「どうしたの?」熱のせいで頬が赤く染まり、ぼんやりと光る電灯の下で、その赤みが一層際立つ。 楓は眉をひそめ、額に手を当てる。「熱があるのか?」 「大丈夫。薬飲んだから」 「ふうん」彼が気のない返事をした。その時、セクシーなネグリジェ姿の莉奈が、彼の後ろからひょこっと顔を覗かせ、無邪気に笑った。その一瞬で、楓の関心は途切れる。 「お姉さん、私、体調悪くて……薬、買ってきてもらえる?」 悠璃は黙ったままだった。 楓は莉奈の手を握る。眉をひそめるが、何も言わない。 莉奈は甘えるように喉を鳴らす。「さっき出前頼んだけど、大雨で誰も来てくれなくて……薬がないと死んじゃうよ」 悠璃は無意識に楓の表情を探った。 彼は知っているはずだ。自分がまだ熱を出していることを。 莉奈は弱々しく、楓の腕に絡みつく。「ねえ、楓お兄ちゃん」 楓は一瞬の沈黙の後、ようやく悠璃に言った。「じゃあ、薬局まで取りに行ってくれないか?すぐ近くだし」 その一言で、悠璃の心はグシャリと押し潰された。 まだどこかで期待していたからこそ、こんなにも苦しいのだと、改めて思い知らされた。 そうよ。期待しないわけがない。この男のことが、十八年も好きで、愛してきたのだから。 幼い頃から、青春のすべてを、今という今まで、人生の全てを楓に捧げてきた。 彼女の世界には、もう彼しかいないのに。 悠璃は唇を噛みしめた。「私、まだ熱があるの」 莉奈が肩で彼の腕に軽く体当たりする。 すると楓は、あっさりとこう言った。「薬飲んだんだろ?」 その瞬間、悠璃はわかってしまった。 もう、これが現実なんだ。 楓の愛を待つことは、空港で、永遠に来ない船を待ち続けるようなもの。 彼を愛する気持ちも、もうここまでだ。 第3話 外は、まるで天地が怒り狂ったかのような豪雨だった。 マンションの排水も追いつかず、雨水はもうすぐで足首を飲み込みそうになっていた。 悠璃はドアを開けた瞬間、激しい雨にズボンの裾をびしょ濡れにされて、ようやく傘を持ってきていないことに気づいた。 慌てて二階に取りに戻ろうとしたとき、楓の部屋は、無遠慮に開け放たれていた。 二人のじゃれ合う声は、何の遠慮もなく悠璃の耳に突き刺さる。 「この賭け、どうやら莉奈の負けなあ」 「つまらないね」莉奈は猫みたいに拗ねて、「こんな大雨なのに、文句一つ言わずに出ていくなんて!ほんと、楓お兄ちゃんが指示すれば何でもする。なんであんなに言いなりなの?つまらない、つまらなすぎる!」 楓は大笑いした。「だから言っただろ?あいつは骨のない犬だって。いくらいじめても、ちょっと甘くすれば、すぐに俺にすがりついてくるさ」 「やだぁ、ひどいね」 「どうだ、降参だろ?じゃあ、約束通り……」 声はだんだんと艶めかしくなり、莉奈は甘えた声でささやく。「楓お兄ちゃん、あたしの負け。今夜は、兄ちゃんの好きにして……」 悠璃は、玄関で凍りついたまま動けなかった。全身の血が逆流するような衝撃、目が真っ赤に染まる。あと一歩で、二人の間に飛び込んで全てをぶち壊したくなる衝動にかられる。 でも、動けなかった。 ガラス越しに、二人の愚かな姿が揺れて見える。 楓が黒い手錠をカチッと鳴らし、莉奈の手首にかける。 「お姉さんはこういうのを付き合ってくれるの?」莉奈が笑いながら問う。 「ベッドの上じゃ死んだ人と変わらん」楓は眉を上げて言う。「誰もがお前みたいにやんちゃなわけじゃないぞ」 「楓お兄ちゃん、いっそ、私と結婚しちゃえば?」 その後の声は悠璃にはもう何も届かなかった。 傘も取りに行けず、ほとんど逃げるようにして、彼女は今夏一番の土砂降りの中へ飛び出した。瞬く間に全身がびしょ濡れになり、水たまりを踏みつけて泥だらけになった。 警備員が慌てて駆け寄る。「奥様、どうして傘を持っていないんですか?この傘を使ってください!」 でも、悠璃には何も聞こえなかった。ただ、雨に身を任せ、狂ったように歩き続けた。 足元のぬかるみを踏みしめながら、携帯が鳴り響く。楓の苛立った声が響く。 「1キロなのに、何でそんなに時間かかってるんだ?まだ帰ってこないのか!」 「怒らないでよ、大雨なんだから」莉奈が楓をなだめる。「そんなに怒るなら、ねぇ、私の中で好きなだけ……」 その時、通り過ぎた車が泥水をはね上げ、悠璃の全身に降りかかる。 彼女は驚いて手を離し、袋の中身が道に散らばった。 バラバラと転がるコンドーム。 その瞬間、悠璃の血が逆流する。自分に取ってこさせたのは、二人が使うためのコンドームだったのだ! どうやって帰ったか、もう覚えていない。 まるで幽霊のように別荘のドアを押し開け、寝室のドアを乱暴に開け放った。 莉奈と楓の空気が、一瞬で凍りついた。 莉奈は悲鳴を上げて、急いで布団で体を隠す。 「何するのよ!」 楓はさらに冷たい目つきで彼女を睨みつける。「お前、こんな夜中に何の真似だ?」 バンッ!悠璃は十数箱のコンドームを、二人の顔に向かって投げつけた! 鋭い角が莉奈の頬を切り裂く。 「彼女が病気なんじゃなかったの?」 自分の声が、ほとんど絶叫に近いことに気づく。 「これが病気ってことなの?」 楓は飛び起きて悠璃の手首をつかむ。その手の熱さに驚き、目の色が変わった。「お前、こんなに熱いじゃないか……薬飲んだんじゃなかったのか?」 莉奈は泣き叫ぶ。「楓お兄ちゃん、痛いよ……」 楓は眉をひそめ、莉奈のもとへ駆け寄る。 莉奈の額から血が流れ、顔を伝う。 「顔、顔が……このままじゃ私、もう生きていけない!」 莉奈は裸のまま窓際に駆け出し、飛び降りるふりをして大騒ぎを始める。 その瞬間、悠璃の手は再び振り払われた。 楓は莉奈を強く抱きしめ、振り返って悠璃に怒鳴る。 「お前、いい加減にしろ!」 「莉奈に謝れ!」 第4話 悠璃はその場に立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。 全身の細胞が燃え上がるような熱さ、意識は朦朧として、まるで夢の中にいるみたいだった。 楓の口元が動いても、何一つ耳に入らない。 ふいに彼が怒鳴りながら近づいてきた。 「お前、俺の言うことが聞こえないのか!」 茫然としたまま、悠璃は口を開いた。「何?」 「莉奈に謝れって言ってるんだ!」楓は怒鳴り、彼女の腕を乱暴に引っ張った。 力が入らない。楓に押され、机の角に激しくぶつかった。 全身を走る鋭い痛み―― 悠璃は震えながら、顔から血の気が引いていく。 「痛い……」 声はかすれ、喉の奥から絞り出すようにしか出なかった。 「楓、私、病院に……」 「とぼけるな!」楓は手を振り払って、軽蔑の目で睨みつけた。「お前、いつからそんなに言うこと聞かなくなったんだ? お前を篠宮家の妻にしたのは、素直でおとなしかったからだ。だけど、今のお前はどうだ? いつからそんな嫉妬深い女になったんだ?」 嫉妬深い女?床に崩れ落ちた悠璃は、目の前で自分を見下ろすこの男が、自分をまるで犬のように扱っていることに気づいた。心の中の迷いも、未練も、すべて音を立てて消えていく。可笑しかった。 どうしてこんな男を、何年も愛し続けてきたのか。 どうして彼のために、未来も家族も捨ててしまったのか。 ああ、自分は馬鹿だった。狂っていたんだ。彼のために全てを捨てた、ただの愚か者だ。 悠璃は、苦しげに床から体を起こし、低く冷たい声で言い放つ。 「バカ言わないで。私が、あの女に謝ることなんて、死んでもあり得ないわ」 「もういいよ!」莉奈は涙声で口を挟む。「楓お兄ちゃん、お姉さんもきっとわざとじゃないし、私もちょっとケガしただけ…… お姉さんもケガしてるみたいだし、先に病院連れて行ってあげて」 その思いやりの言葉が、楓のプライドをさらに刺激した。 素直だった悠璃が自分に逆らったという事実だけが、彼を苛立たせる。 「お前、いい加減にしろ!」 楓は荒い息をつきながら、悠璃の腕を引っ張り立たせた。 無理やり謝らせようとしたその瞬間、悠璃の目がゆっくり閉じ、呼吸が荒くなった。 そのまま、意識が闇の底に沈んでいく。 「おい、悠璃!?」 それが、彼女が最後に聞いた楓の声だった。 次に目を開けたとき、もう昼過ぎになっていた。 体中が痛くて、まるで誰かに全力で殴られたかのようだった。 目を覚まし、手を動かすと、何かあたたかいものに触れた。 驚いて飛び起きると、楓がすぐさま彼女を抱き寄せた。 「落ち着け、薬を飲んだって言ってたじゃないか?」楓は低い声で囁く。「昨日の熱、まる一日中引かなかったんだぞ。やっと下がったところなんだ……」 悠璃はさっと身を引き、その手から逃れた。 楓の手が空しく、宙を彷徨う。「どうした?」 悠璃は目を伏せ、淡々と答える。「別に」 目を合わせることもなく、彼女は目を閉じたまま顔を背けた。 楓は眉をひそめ、心に小さな違和感が芽生える。 彼女が自分の触れることを拒むなんて、今までなかったことだった。 楓は苛立ちを押し殺し、無理に優しく振る舞おうとする。「もういいだろ、拗ねるなよ。 昨日は俺が悪かった。お前が薬飲んでるし、大したことにはならないと思ったんだ。 まさか、あんな大雨の中で傘も持たずに外に出るなんて、馬鹿だな」 悠璃は背を向け、腹の痛みに脂汗を流しながら、彼の言葉は一切耳に入ってこなかった。 それでも彼は、延々と文句を言い続ける。 彼女はもう何も聞こえなかった。ついには手で耳を塞いでしまう。 「おい、悠璃!」 楓はとうとう我慢の糸が切れ、強引に彼女の手を引き剥がした。 「俺は莉奈のことをこれ以上問題にしなかっただろう?なのにお前は、まだわがままを言うのか?ちょっと図に乗りすぎじゃないか?」 彼は彼女の顎を掴み、強引に顔を自分のほうへ向けさせる。「今日から、莉奈はこの家で一緒に暮らす。お前はしっかり彼女の面倒を見ろ。傷が治るまでだ。それで謝罪とする!」 悠璃は鼻で笑った。「嫌よ」 「は?」楓は低く脅すように言う。「篠宮家の妻を続ける気はあるのか?」 悠璃は静かに、小さく笑った。 「じゃ、やめる。離婚しよう」 第5話 バンッ! 楓はその場で激怒し、手の届く限りの物を床へと叩き落とした。 「よく言うね!お前、俺を脅すつもりか?」 悠璃は咳き込みながらも、顔に熱が上って赤みが差した。 腹部の痛みがぶり返すが、それでも一歩も引かず、毅然とした目で答えた。 「そう思っても構わない」 「ハッ、ハッ、ハッ!」楓は冷笑しながら、「お前、そんなに気骨があるなら、さっさと出て行け!二度とこの家に戻ってくるな!」 そう叫ぶなり、彼は彼女の腕を乱暴に掴んでベッドから引きずり下ろした。 それでも悠璃は、一度も言い訳や弱音を口にしなかった。 ふらつきながらも、玄関まで歩くと、ちょうど莉奈と鉢合わせた。 彼女の無様な姿を見て、莉奈は驚いたように口元を押さえる。 「まあ、お姉さん?どうしたの、その格好……まさか家出?」 莉奈はわざとらしく涙声になり、「もしかして……また私のせい?お姉さん、誤解しないで、私たち、ただのゲームだったの。本気じゃないし、楓お兄ちゃんも私を心配して…… 行かないで!行くなら、私が出て行くから!」 そう言って、莉奈は大げさに背を向けて泣き喚き始めた。 そして、彼女がくるりと振り返ったその瞬間、ドサッという轟音とともに、彼女は階段から転げ落ちた! 「お姉さん!」彼女は絶叫しながら階下へと落ちていく。「もう謝ったのに、どうして私を突き落とすの?」 楓は、靴も履かないまま部屋から飛び出した。 「違う、私じゃ……」 悠璃は混乱し、必死に弁解しようとした。 だが、その言葉が終わる前に、バチンッと楓の平手打ちが、彼女の頬に叩きつけられた。 悠璃は顔を押さえ、ただただ信じられない思いで楓を見つめていた。 「お前に、がっかりしたよ」 楓は頭を振り、階下へ駆け降りていった。 彼は莉奈を抱きかかえ、怒りのまま振り返って悠璃に叫ぶ。 「お前、人殺しするつもりか!わかってるのか?」 「違う!私は……」全身の血が逆流し、これまで押し殺してきた感情がついに溢れ出した。「楓!私たち、何年一緒にいたと思ってるの?私がどんな人間か、本当に何も分かってなかったの? 彼女の言うことだけを信じて、私一体何なの?」 涙も怒りも混ざり、悠璃の目は真っ赤に染まる。 その瞬間、腹部に激痛が走り、恐ろしい予感が頭をよぎった。 下を向くと、白いネグリジェがゆっくりと赤く染まっていくのが見えた。 悠璃は顔を上げ、ほとんど哀願するような声で言った。「楓、もうやめよう、これ以上はやめて…… 病院に連れて行って、お願い……お願いだから、私を病院に……」 だが、莉奈もまた泣き叫んでいた。「楓お兄ちゃん、痛いよ……」 楓は莉奈を抱きしめたまま、悠璃を無視して外へ駆け出していった。 悠璃は、その背中を、消えていく二人の影を見つめながら、胸の奥に残っていたわずかな希望さえも、完全に潰されたことを悟った。 彼は一度も振り返ることなかった。 悠璃はかすかに笑い、肘で床を這いながら寝室へ戻った。 床には、赤い血の跡が長く長く引かれていった。 第6話 悠璃は妊娠していた。 この子がやってきたのは、あまりにもタイミングが悪すぎた。 手にした妊娠診断書を見つめながら、そっと自分のお腹に手を添える。 この中に、小さな命が宿っている。 お医者さんは厳しい表情で告げた。「篠宮さん、お体の状態はとても悪いです。今回も、かろうじて赤ちゃんを保てただけの状態です。これからはくれぐれも無理をしないでください。もしまた何かあれば、この子は……」 悠璃はぼんやりとうなずいた。 その日一日、彼女は病室のベッドで、何も考えられずにただ横たわっていた。 夜、突然ドアが開き、楓が駆け込んできた。 ベッドの脇に立ち止まり、抑えきれない感情が声に滲む。 「悠璃、本当か?妊娠したのか?」 悠璃は背中を向けたまま、何も答えなかった。 楓はため息をつき、少しだけ優しい声になる。「なあ、もう意地張るのはやめよう? どうせ、莉奈を突き落としたのは悠璃だ。もし万が一のことがあったら、悠璃にも責任があるんだぞ。俺は悠璃のことを考えて、急いで莉奈を病院に運んだだけだ。 やっと俺たちの子どもができたんだ。こんな時離婚なんて、もう怒るのはやめよう?」 楓の声は柔らかくなり、そのまま靴を脱いでそっと彼女の隣に横たわる。 その瞬間、彼女の体はびくりと震えた。 彼は彼女のお腹に手を当て、優しく撫でる。 「ここに、俺たちの子どもがいるんだな。 悠璃、子どもが生まれたら、三人で遊園地に行こう。俺たちで育てて、成長を見守って……幸せな家庭を築こう。絶対にそうするから」 楓は、甘い未来を約束してみせた。 「悠璃、これからはもう昔みたいに外で遊びまくるのはやめる」 その言葉に、悠璃の胸が激しく高鳴った。 ふと下を見れば、楓の大きな手が、自分のお腹を包み込んでいる。 決意していたはずの心が、突然ぐらりと揺れる。 もしかしたら、この子は神様がくれた最後のチャンスなのかもしれない。楓が変わってくれる、二人でやり直せる唯一の希望なのかもしれない、と。 そのとき、テーブルの上に置いた悠璃のスマホが不意に光った。 新着メッセージ。 【すべて準備できた。予定通り、明日の朝迎えに行っていい?】 悠璃の指先が、わずかに震える。 「予定って?」楓がその画面を目ざとく見つけ、眉をひそめて問いかける。「どこかに行くの?」 悠璃はそっとスマホを伏せ、声を押し殺して答える。「何でもないの。もともと旅行に行こうかなって思ってただけ。でも、この子のために、もうやめることにしたわ……」 また、負けた。 心の中で誰かが叫ぶ。 でもいい、この子のために。せめてこの子のために、もう一度だけ彼を信じてみよう! 悠璃はそっと楓の方へ振り返り、目を合わせた。 でも、その瞬間、楓のスマホが鳴った。 彼は画面をちらりと見て、すぐにベッドを降り、窓際で電話に出る。 そして、何かを隠すように言い訳した。 「悠璃、母さんが見舞いに来たいってさ」 「迎えに行ってくるから、大人しくここで待ってね」 悠璃は素直に頷いた。「わかった」 だが、彼が急いで病室を出ていったのを見て、悠璃はわかった。 彼が向かったのは、病院の出口ではなかった。 彼は、上の階に向かっていた。 莉奈の病室がちょうど上の階にあることを、悠璃は知っていた。 第7話 夜の病院は静まり返り、廊下には人影ひとつなかった。 悠璃は裸足のまま、冷たい床を一歩一歩踏みしめながら、莉奈の病室へと近づいていく。 病室のドアは半開きで、その隙間から中の会話がはっきりと聞こえてきた。 楓のお母さんは、本当にそこにいた。彼女の顔は嫌悪で歪んでいた。「妊娠した?そんな馬鹿な!楓、ママは何度も言ったわよね。悠璃との結婚なんて絶対に認めないって。結婚したいって言うから仕方なく許したけど、今度は子どもまで作るなんて!」 楓はうんざりしたように言い返す。「じゃあ、どうしたいんだ?」 楓のお母さんは深く溜息をついて答える。「どうするって、そりゃもう産ませるしかないんだろ。他に方法なんてないわよ。 だけど、私は、莉奈しか認めてないの!」彼女は冷たく鼻で笑った。「昔お見合いさせようとした時は嫌だって言ったくせに、今になって莉奈を好きになるなんて、一体何を考えているの?」 「おばさん、そんなふうに言わないで……」莉奈は俯いて唇を噛みしめる。「大丈夫、私は楓お兄ちゃんを待てます。たとえ一生待つことになっても……」 楓は黙って俯いた。 「もう離婚しちゃいなさい!」楓のお母さんは鋭く言う。「子どもが産まれたら、離婚して、莉奈と盛大な結婚式を挙げて、大燕市中が羨むような……」 だが楓は顔を上げ、きっぱりと否定した。「無理。あれは俺の子どもだ……」 楓のお母さんは冷笑した。「今回の騒ぎで、あの女が本当に子どもを産むかどうかも分からないわよ。もしかしたら、楓が帰ったら離婚届が待ってるかもね」 楓は鼻で笑った。「そんなことあるもんか! あいつは、俺の言うことには絶対逆らわない女だ。離婚なんて言われたら、腰が抜けて泣き出すような奴だぞ。 俺の子どもを産めるのなら、むしろ喜ぶだろう」 「それはどうかしら」楓のお母さんは皮肉気に言う。「その子が生まれれば、我が家の長男。そうなったら、そのガキを盾にして好き勝手求めてくるんじゃないの?離婚どころじゃなくなるわよ?」 楓はタバコに火をつけ、煙をくゆらせて顔を隠した。 悠璃に聞こえたのは、冷たい彼の声だけだった。 「そうか?でもな、俺が指一本動かせば、あいつはどんなに強がっても、俺の前で跪いて行かないでって泣きついてくるさ」 「信じない?なら賭けてみるか」 その時、空に雷鳴が轟いた。 眩い稲光が一瞬で楓の姿を飲み込む。 「今、呼び出してやる。もしあいつが上がってきたら、そっちの負けな」 「じゃあ、もし来なかったら?」莉奈の瞳が興奮にきらめいた。まるであの日の篠宮家の別荘のように、彼女はまた熱くなって言い続けた。 「もし来なかったら、子どもを産ませた後であの女を篠宮家から追い出し、私を篠宮家の奥様として盛大に迎えてよ。それ以降、絶対に他の女を入れないで、どう?」 ぽつり、ぽつりと大雨が降り始めた。 楓の軽い「いいよ」という一言が、悠璃の世界を音もなく壊した。 その瞬間、彼女のスマホが光る。 幸い、マナーモードにしていた。 彼女は電話を取りながら、慌てて階段を降りていく。 「もしもし」楓の声が電話越しに響く。「莉奈が目を覚ました。 今回の件はどう考えてもお前が悪い。俺はお前のためにいろいろ約束しただろう?だからお前も一つだけ、俺の頼みを聞いてくれないか?」 悠璃は静かに答える。「いいよ」 楓は意外そうに少し黙った後、続けた。「上に来て、莉奈に謝れ。俺の言うこと聞け。な?」 悠璃はまた「いいよ」と答えた。 「本当か?」楓は異変に気付き、慎重に尋ねる。「大丈夫か?」 彼の心に今まで感じたことのない不安がよぎる。 「もし嫌なら……」 「嫌じゃない。待ってて。検査が終わったらすぐ行くから」 そう言って電話を切った。 悠璃はふらつきながらナースステーションに駆け込み、中絶薬をもらった。 看護師は驚いた。「赤ちゃん、もう大丈夫だったんじゃ……」 「でも、もういらないんです」悠璃は答えた。 当直医を呼んで、書類にたくさんサインして、全て終わるまで一時間かかった。薬をぬるま湯で飲み干すと、彼女は啓司にメッセージを送った。 【早めに迎えに来てくれる?】 【いいけど。いつ?】 楓からの三、四件の不在着信を見ながら、悠璃は返信した。 【今すぐ、お願い】 その後、彼女は十分だけ待った。 その間、楓からメッセージが次々と届いたが、彼は、一度たりとも下の階へ降りてくることはなかった。 十分後、何も持たず、何も求めず、悠璃は啓司のパサートに乗り込んだ。 車は、浜市の方へと走り去っていく。 彼女は一度も振り返らなかった。 別れの言葉さえ、告げなかった。