愛しすぎたから、永遠は望まない

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愛しすぎたから、永遠は望まない

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誰もが知ってる――長宏グループの社長、一ノ瀬智也は筋金入りの「妻バカ」だ。 最初に出した音声AIの名前は「チイちゃん」 最新スマホの名前...

Chương (1)

第1章

誰もが知ってる――長宏グループの社長、一ノ瀬智也は筋金入りの「妻バカ」だ。 最初に出した音声AIの名前は「チイちゃん」 最新スマホの名前は「トシネ」 どうやら、彼の頭ん中には「千歳を全力で愛する」ってプログラムでも入ってるらしい。 ……千歳も、そう思ってた。 でも、現実はちがった。 だって、智也は――ずっと前から、秘書とベッドを共にしてたのだから。 その瞬間、すべてが崩れた。 「……子どもは、降ろす。いらない。 十日後、私は彼の前から、完全に消える」 第1話 「一ノ瀬さん、本当に……中絶するご意思で間違いありませんか?」 一ノ瀬千歳(いちのせ ちとせ)は手の中の検査報告書を強く握りしめたまま、こくりと頷いた。 「はい。間違いありません」 医師は惜しそうにため息をついたが、強く止めることはしなかった。 「分かりました。中絶の最適時期は妊娠から35日〜55日です。お身体の状態を見て、10日後に予約を入れておきました」 「ありがとうございます」 千歳は病院の長い廊下に腰掛け、無意識にお腹をそっと撫でながら、スマホで10日後の帰省チケットを予約する。 そのとき、近くのテレビでは長宏グループの新商品発表会が生中継されていた。 製品の品質だけでなく、社長である一ノ瀬智也(いちのせ ともや)の私生活も世間の注目の的だ。 顔よし、頭脳明晰、資産も豊富。 そして、「愛妻家」として知られる男。 初代音声AIの名前は「チイちゃん」――千歳の名前をもじったもの。 そして、今回発表された新作スマホの名は「トシネ」 智也の「妻への愛」は、まさに世界中に見せびらかすようなものだった。 その影響もあって、新製品は女性層に大ウケ。 取材中、ある女性が笑顔でインタビューに応えていた。 「正直、新しいスマホの機能なんて全然分からないんです。でも……旦那にこれ持たせたら、智也さんみたいに妻を大事にしてくれるかも、って期待しちゃいますよね」 この発言を聞いた記者が、本人に伝える。 「一ノ瀬社長、皆さんご存じの『妻バカ』ですが――もし将来、奥さまとの間にお子さんができたら、『子バカ』にもなるんでしょうか?」 カメラが寄る。 智也は一瞬、真面目な顔つきで考え込み――やがて、ふっと口元を緩めた。 「その日が来るのが楽しみですね。ただ、すべては彼女の意思を最優先にしたいと思ってます。それに、『子どもバカ』より、『妻バカ』って肩書きのままのほうが、俺には合ってる気がするんです」 会場は和やかな笑い声に包まれる。 …… 千歳のスマホが震えた。 表示されたのは、親友の坂野比奈子(さかの ひなこ)からの連続メッセージだった。 【ちょっとあんた!智也止めてよ!】 【無理ならもう、あんたらの赤ちゃん作って!今日うちの子、撫でられすぎてハゲそうなんだけど!!】 【正直さ、千歳が羨ましいよ。こんなにいい旦那、前世でどんだけ徳積んだの!?】 メッセージを見て、千歳は自嘲気味に笑った。 たしかに、彼女は恵まれてる。 両親は昔からずっと仲がよくて、何十年経ってもラブラブ。 その姿を見て育ったから、逆に千歳の恋愛は険しかった。 本物の愛を知ってしまったせいで、理想が高すぎたのだ。 もうすぐ二十六歳なのに、いまだ彼氏ナシ。 ――でも、智也と出会って、すべてが変わった。 まるで「千歳を全力で愛する」ってプログラムが最初から仕込まれてるみたいに、 日常の小さなことから、人生の大きな決断まで、すべてが千歳優先。 智也はメモまでつけていた。 魚は苦手、ネギもショウガもダメ、チェリーが好き、寝起きは機嫌悪め―― それを知った彼の友人が驚いて、こう聞いた。 「お前、そんなに気を遣って疲れないの?」 智也は笑って、ただ一言。 「かわいいって思わない?」 ――その一言で、誰も何も言えなくなった。 千歳は慎重派で、なかなか心を開けなかった。 けれど、旅行中に土砂崩れに巻き込まれたあの日、状況は一変する。 山から転がり落ちてきた岩が車を直撃。 智也は迷わず千歳をかばい、意識不明の重体でICUへ。 命の危険すらあったというのに――それでも彼は、千歳を守った。 あの瞬間、千歳の心は動いた。 ――これが、愛じゃなければ、何なんだろう。 結婚式の日、智也は子供のように泣いていた。 震える手で指輪をはめ、誓いを立てた。 「一ノ瀬智也は、安原千歳を一生愛し、誠実であり続けます。もし裏切ったら――死んでも構わない」 千歳の声は、静かだけど決意に満ちていた。 「そんな日が来なきゃいいって思ってるよ、智也。私、好きになったらとことんで、裏切られたらもう、絶対に戻らないから」 智也は千歳を愛していた。 だから、千歳だって彼に夢中だった。 でも、その愛は、現実に打ち砕かれた。 半月前。 千歳は、智也が別の女とホテルに出入りしていたことを知った。 記録によると、すでに半年以上の関係。週に二度は会っていた。 ――あの誓いは、まるで顔面に叩きつけられた嘘のよう。 千歳は平らなお腹に手を当て、無言で離婚届にサインをした。 それを封筒に入れ、しっかりと封をした。 ――一度裏切られたら、二度と戻らない。 そう決めていた。 その約三十分後。 発表会の会場から息を切らして戻ってきた智也は、汗まみれで千歳を抱きしめた。 「ねえ、佐藤さんが言ってたんだけど……君、妊娠したって本当?」 千歳は胸の奥が軋むのを抑えながら、静かに頷いた。 「うん、そうよ」 ――でも、すぐにこの子は消える。もう、二度と戻らない。 その言葉は、心の中だけに留めた。 智也はそんなことなど知る由もなかった。 ただ、ひたすら喜びに満ちていた。 我に返ると、すぐにスマホを取り出し、秘書に電話をかけた。 「今月、社員全員のボーナス、倍にしておいて!」 そのあとも、友人たちに次々と報告。 喜びを共有しようと躍起になって、返ってきたのは羨望と祝福の嵐だった。 千歳は笑みを浮かべながら、先ほど封をした封筒を差し出した。 「ねえ、もうひとつプレゼントがあるの」 智也が封を開けようとするのを、千歳が止めた。 「十日後に開けて。今じゃないの」 「了解、すぐメモする」 智也はスマホに予定を追加し、千歳の唇に軽くキスを落とした。 「俺って、世界一幸せな男だよなあ……」 千歳は、黙って微笑んだだけだった。 第2話 翌朝早く、智也はすべての仕事をキャンセルし、自ら千歳を連れて、長宏グループが出資しているプライベート病院へと向かった。 検査の結果が再確認されたその瞬間、智也は嬉しそうに千歳のお腹へ顔をうずめた。 そばにいた家政婦が小声で口を挟む。 「旦那様、今はまだ胎動なんて感じませんよ?」 智也はニコニコしながら、まるで子供みたいに反論した。 「感じる!絶対感じるって!」 家政婦は笑いをこらえながら、そっと口元を押さえた。 その後、智也は医師に妊娠初期の注意点を一つひとつ細かく確認。 「総資産〇〇億円」の企業社長とは思えないほど真剣な顔で、スマホのメモに一字一句記録していく。 「つわりでご飯が食べられなくなったり、吐き気が続いたりしますので……」と聞いた瞬間、 智也の目にうっすら涙が浮かんだ。 「ごめんね、千歳……つらい思いさせて……」 彼は千歳を抱きしめ、喉を詰まらせながら続けた。 「もし男も妊娠できたらよかったのに。俺たちに子どもができるのは嬉しいけど…… 君に苦しい思いはしてほしくない」 千歳は黙って、彼の髪をそっと撫でた。 涙がこぼれそうになるのを必死で堪える。 心の奥底で叫びたくなる気持ちも、ぎゅっと抑えこんだ。 ――どうして? ――あんなに「愛してる」って言ってたのに、どうして他の女と寝られるの? ――たった一人を大切にし続けるって、そんなに難しいことなの……? 智也は、そんな千歳の胸の内にまったく気づいていなかった。 その時、彼のスマホが激しく震えた。 上場企業の社長である彼が半日仕事を空けたことで、事務方からは催促の嵐。 それでも、彼は千歳を連れて会社へと戻ることを選んだ。 空調は千歳好みに調整し、好きなお菓子も用意。 接客担当の秘書もいつもと違う人に変えてから、ようやく会議へと向かった。 出かける前、智也はまるで犬のように千歳の肩に頬をすり寄せた。 「はあ……ずっと君のそばにいたいのに。なんでこんなに仕事あるんだろうな」 職場でも、智也は妻への愛情を隠そうとしない。 周囲の女性社員たちはこっそりと彼らを見つめ、ひそひそと噂が千歳の耳に届いた。 「いいなあ……いつか私も、奥さまみたいな人生送りたい」 「普段は女性と距離をとってるのに、奥さまの前ではあんなに甘えてるなんて……」 「奥さまもすごく綺麗で、名門大卒って聞いたし。うちらじゃ無理だよね」 そんな中、一人の女が鼻を鳴らすように冷笑を漏らした。 艶やかな容姿にくびれた腰、ブランド品を身につけたその女は、バッグをデスクに無造作に置いて不機嫌そうに言い放つ。 「どこが羨ましいっていうのよ?」 その場にいた社員たちはすぐに察して、ご機嫌取りのように続けた。 「は、はい!綾瀬さんのご主人も奥さま思いですし!」 「そうですよね、最近マイバッハ買ってもらったとか。すっごくカッコよかったです!」 「それに別荘の話も出てるって聞きましたよ?いいなぁ~」 …… 横にいた秘書が、千歳が綾瀬真理奈(あやせ まりな)をじっと見ていることに気づいて、そっと耳打ちした。 「奥さま、あの人も社長の秘書です。旦那さんがうちの会社の出資者らしくて、ここには暇つぶしで来てるだけみたいですよ。 ……気にしないでくださいね」 千歳は、冷ややかに微笑んだだけだった。何も答えず。 智也はすべてを巧妙に隠していた。 一緒にいる時間がどれだけ長くても、彼女がどれほど近くにいても、誰もその真実には気づかなかった。 なぜなら―― 真理奈の背後にいる「出資者」は、他ならぬ智也本人だったのだ。 堂々と、目の届く場所に置いておく。 行動をともにしていても、誰も不審に思わない。 それが、彼の狡猾さだった。 人だかりの中で、真理奈が突然手を伸ばし、きらびやかなブレスレットを取り出した。 隙間なく並んだダイヤが、どれも完璧な輝きを放ち、眩いほどに煌めいていた。 そこには、ぎっしりとダイヤが敷き詰められたブレスレットが光り輝いていた。 得意げな笑みを浮かべながら、真理奈が言った。 「これもね、うちの旦那がオーダーメイドしてくれたの。ブランドはSVIC、どれだけお金出しても、普通じゃ手に入らないのよ」 ざわつきが広がる。 「すごい……私も見たことある!あれ、ネットで千万以上だったはず」 「たった一つのブレスレットにそれだけ使うなんて……綾瀬さんの旦那、一ノ瀬社長並みに財力あるんですね」 千歳の瞳孔がかすかに震えた。 彼女は思わず自分の手首をぎゅっと握りしめる。 ――先週、誕生日に。 智也が彼女に贈ってくれたブレスレット。 「これはね、俺が特別にカウンターで頼んだんだ。君のためだけの、世界でひとつのオーダーメイドだよ。 だって、千歳は俺にとって、唯一無二の宝物だから」 そう言って、彼は笑っていた。 ――けれど、今。 真理奈の手首に光るそのブレスレットは、千歳が持っているものとまったく同じだった。 唯一無二? 千歳はその言葉を噛みしめるように心の中で繰り返し、そっと俯いた。 一粒の涙が、静かにまっすぐ頬を伝った。 なんて皮肉な「唯一無二」なんだろう。 息が、苦しいほど詰まった。 第3話 千歳の顔色が冴えないことに、すぐ秘書が気づいた。 この状況で軽く見るわけにはいかない。 誰もが知っている――千歳は、智也にとって命よりも大切な存在だということを。 秘書は慌ててその様子を智也に報告した。 そして五分後。 ちょうど国際会議を終えたばかりの智也が、休む間もなく千歳のもとに駆けつけた。 彼はまず千歳の額に手を当て、次に手つかずのままのスナック類を見て、心を痛めた。 「うるさかった?居心地、悪かったかな」 千歳の肩をそっと抱いて、智也は優しく囁く。 「……帰ろうか」 千歳は黙って頷いた。 すると智也は、まるで使用人のように千歳にコートを着せ、ハンドバッグを肩にかけて、腕を差し出す。 その一連の動きの中、彼の目線が周囲に向けられることは一度もなかった。 でも、千歳には分かった。 誰かの視線が、自分にずっと注がれていたことを。 帰宅後、智也はすぐにエプロンを着けてキッチンへ向かった。 兆単位の資産を動かす男が、料理をするなんて誰も想像できないだろう。 けれど、智也にとってそれは特別なことじゃなかった。 千歳は食にうるさく、それでいて人には優しい。 たとえお手伝いさんの料理の味が合わなくても、文句を言わずに静かに食べる量を減らすだけ。 それを見て、智也は彼女に料理を任せるわけにはいかないと決めていた。 キッチンで三十分、手際よく立ち回り、智也は三品一汁の夕食をテーブルに並べた。 息をつく暇もなく、智也は箸でひと切れのスペアリブをつまみ、千歳の口元へと差し出した。 「あーん」 千歳がちょうど飲み込んだ、その瞬間。 スマホの着信音が鋭く部屋に響いた。 画面を一瞥し、智也の表情が一瞬だけ強張る。 だがすぐに笑顔を作って、自然に言った。 「ごめん。会社の出資者からなんだ。ちょっとだけ電話出てくるね」 五分後、戻ってきた智也は申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。 「トラブルがあって……ごめん。君は先に食べてて。すぐ戻るから」 返事を聞く間もなく、彼は嵐のように玄関へ駆け出していった。 千歳には分かっていた。 今の時間、彼を引っ張っていく相手は――あの秘書しかいない。 胸の奥に溜まっていた食欲は、すっかりどこかへ消えてしまった。 千歳は無言で玄関を出て、タクシーを止めた。 智也の車載記録を辿って、ある高級マンションの前で降りる。 ちょうどその頃、智也も同じマンションの地下駐車場に車を停めたばかりだった。 偶然にも――この場所は千歳が大学時代に親から贈られた、自分名義の部屋だった。 ルームメイトとのトラブルを心配した両親が、わざわざ購入してくれた部屋。 智也はその事実を知らない。 千歳は「空き家のままだったから」と適当な理由をつけて、管理室に向かった。 モニターを確認してもらっていると、エレベーターのドアが開く。 そこには―― 智也と真理奈が、抱き合ってキスを交わす姿が映っていた。 千歳の目が見開かれる。 画面の中の智也は、真理奈の服の裾に手を差し入れ、強く、ためらいなくその体をまさぐっていた。 真理奈は甘い笑みを浮かべ、くすぐったそうに手で制する仕草をしながら、それを受け入れる。 そして、より深いキスへ。 エレベーターが十七階に到着した瞬間、智也はもう我慢できないといった様子で、真理奈を抱き上げてそのままフロアへ消えていった。 あまりに早く、あまりに自然すぎて、モニターを見ていたスタッフさえ気づかない。 だが、千歳だけは―― モニターの前で、ただ静かにそのすべてを見届けた。 涙が、突然頬を伝って落ちた。 裏切られていたことも、それが長く続いていたことも、もう全部知っていたはずなのに。 それでも、どこかで「違うかもしれない」と思っていた自分の甘さを、千歳は思い知った。 ――どれだけ愛していたとしても、どれだけ信じていたとしても。 自分が全てを捧げた相手が、あんなふうに他の女に飢えた目を向けている姿を見ることほど、残酷なものはなかった。 かつての智也は違った。 起業当初、彼のまわりにはいろんな誘惑があった。 クラブに行こうと誘う友人たちもいたけれど、彼はそれをすべて断っていた。 「誰にでも欲情するなんて、それは人間じゃない。獣だ」 彼はそう言っていた。 そして照れくさそうに、こう付け加えた。 「……まあ、欲情するけど、君にしか反応しないけどね」 千歳はその時、恥ずかしくなって智也の胸を軽く叩いた。 ――だから、どんな場所に行っても、彼のことは信じていられたのに。 でも今、智也は何度も、千歳との信頼を踏みにじった。 愛も、誓いも、すべて―― 彼の手で、無惨に壊された。 千歳は抜け殻のようにタクシーに戻り、無言で座席に身を沈める。 ふと、スマホに通知が表示された。 ――病院からの予約確認メッセージだった。 「一ノ瀬千歳様、6月15日午後2時にて人工妊娠中絶手術のご予約を確認いたします」 画面を見つめながら、千歳は静かに「確認」のボタンを押した。 涙が、止まらなかった。 夜遅く、ようやく帰宅した千歳は、ベッドに潜り込んだ。 どうしても我慢できなくなって、母に電話をかけた。 「……お母さん」 そのひと言だけで、胸の奥からすべての感情が溢れ出そうになる。 泣きそうになったが、心配をかけたくなくて、必死にこらえた。 けれど、母親はすぐに気づいた。 「どうしたの?千歳……何かあったの?」 千歳は口を開きかけたが、真実を吐き出す勇気はなかった。 「なんでもないよ……ちょっとだけ、お父さんとお母さんに会いたくなっただけ。15日に帰ってもいい?」 母はすぐに喜びの声をあげた。 「あらまあ、お父さんも今ちょうど聞いてたわよ。何作ろうかって、もうワクワクしてるわ。 千歳は私たちの宝物なんだから、いつ帰ってきてもいいのよ」 電話を切った後、千歳の頬は涙で濡れていた。 それから間もなく、玄関のドアがそっと開く音がした。 ――智也だった。 真理奈と甘い時間を過ごし終えた後、シャワーを浴びてから帰ってきたらしい。 そっと千歳に寄り添い、彼は囁いた。 「愛してるよ」 その手が千歳の頬に触れた瞬間―― 濡れていた肌に驚いて、智也は慌てて明かりをつけた。 「どうした?体調悪いの?すぐ病院行こう」 千歳はその手を制した。 目の前の、美しいはずの顔が、どうしようもなく汚れて見えた。 平手を飛ばしたかった。 大声で叫びたかった。 なぜ、どうして、と問い詰めたかった。 けれど彼女は、声を震わせながらこう言った。 「ねえ……智也。夢で見たの。あなたが浮気してたって」 第4話 その言葉に、智也の心が一瞬ざわついた。 そしてすぐに否定の言葉が飛び出す。 「そんなわけないだろ?千歳……この世界中の男が全員浮気しても、俺だけは絶対しない」 そう言い切ったあと、自分を責めるように言葉を続けた。 「医者が言ってたんだ。妊娠中はホルモンの影響で、不安を感じやすくなるって。 きっと、最近俺が君のそばにいられなかったせいだよね。 そうだ、ちょうど明後日、会社のレクリエーションがあるんだ。一緒に出かけよう。気分転換になるよ」 智也は千歳をぎゅっと抱きしめた。 彼の鼓動が、彼女の体に伝わってくる。 千歳はそのすべてを、はっきりと感じていた。 ――この心臓は、本当に自分を想って高鳴っているのか。 それとも、浮気がバレる不安から? その問いは、喉元まで出かかったのに、どうしても言葉にならなかった。 そして―― レクリエーション当日。 千歳と智也が一緒に姿を現すと、周囲の視線が一気に集中した。 智也はすべての進行を秘書に任せ、自らは「妻バカ」モードに突入。 千歳が喉を潤したいと思えば、何も言わなくてもストローつきのぬるま湯を差し出してくれる。 千歳がチェリーを食べれば、種は智也が素手で受け取る。 トイレに行こうと立ち上がれば、彼は女子トイレの前で黙って待ち続ける。 ――まるで、千歳がいなければ生きていけないかのように。 それを見た女性社員たちは、感嘆の声を漏らした。 「いいなあ……あんな旦那、何回生まれ変わったら出会えるんだろ」 「もうさ、あの人の視線、奥さまにしか向いてないよね」 「ねえ綾瀬さん、今日って会社のレクリエーションでしょ?みんな家族連れてきてるけど、綾瀬さんの旦那さんは?」 誰が言い出したのかも分からないまま、視線が一斉に真理奈へと向けられた。 同じように愛され、同じように裕福。 智也の「妻バカ」っぷりにはもう慣れっこだったが、真理奈の「旦那様」には誰も会ったことがない。 その視線を浴びながら、真理奈は笑顔を浮かべて言った。 「今日はちょっと都合が悪くて……」 みんな一斉にがっかりした表情を浮かべた。 「え〜、会ってみたかったなぁ。ちょっとはうちの旦那に見習わせたかったのに」 「ねえ、綾瀬さんの旦那って、もしかして一ノ瀬社長みたいにイケメンだったりして?」 そんな声があちこちから上がる。 ちょうどそのとき―― トイレから出てきた千歳が、真理奈と鉢合わせた。 真理奈はぶつかるように立ち止まると、皮肉っぽく鼻を鳴らした。 「お嬢さまってのはやっぱり違うわね。みんなが待ってるってのに」 場が凍りついた。 真理奈はいつも強気で派手だが、智也にとって千歳は絶対に触れてはいけない存在。 そんなこと、誰もが知っている。 なのに―― なぜ、こんな無茶を。 慌てた社員の一人が、そっと真理奈の袖を引っ張った。 「ちょっ、ちょっと綾瀬さん、本気でヤバいって……謝った方がいいよ、早く」 けれど真理奈は、唇を固く結んだまま、顔をそむけて黙り込む。 次の瞬間、千歳が何か言う前に、智也の声が鋭く響いた。 「綾瀬、君の担当してる案件は上坂に引き継がせろ。今月の評価はすべてゼロだ」 真理奈の目が大きく見開かれた。 信じられない、といった表情で智也を見つめる。 だが智也は、彼女を一瞥すらしなかった。 千歳の上着を整えながら、柔らかい声で言う。 「行こう、千歳」 千歳は何も言わず、そのまま歩き出した。 横目に映った真理奈は、まるで置き去りにされた子供のように立ち尽くし、黙って涙をこぼしていた。 会社は、有名な五つ星ホテルに全員を宿泊させていた。 その夜―― 千歳はふとした違和感で目を覚ました。 隣に手を伸ばすと、シーツは冷たく、誰のぬくもりもなかった。 腹部に鈍い痛みを感じながら、ゆっくりとベッドを降りる。 しばらく迷った末、千歳はドライバーアプリを開き、智也の車の走行記録を確認する。 そして、ふとしたきっかけで車内の録音機能を再生してしまった。 次の瞬間―― くぐもった、女の甘ったるい笑い声と息づかいがスピーカーから流れた。 「ねえ、やっと思い出してくれたの?今日の昼間、あんなに怒るんだもん……ずっと寂しかったんだから」 智也の低く荒い息づかいが重なる。 彼が突然力を込めたのか、真理奈が小さく喘ぎながら、ついに弱音を吐いた。 その声を受けて、智也は冷たく言った。 「……昼間、調子に乗りすぎたんだよ。 真理奈、最初に言ったよな。遊びはいい。でも、俺の妻の前に出すなって。 それを破ったら――俺たちは終わりだ」 その瞬間、真理奈の声が急に弱々しくなった。 彼の首にしがみつきながら、泣きじゃくるようにしゃくり上げた。 「だって……悔しかったの」 「ねえ、智也……私、千歳が羨ましいの。あなたの『愛』をもらえる彼女が、憎らしいくらいに」 智也の声が少し優しくなる。 「泣くなよ。この間言ってたろ?あのマンション、欲しいって。買ってやるよ。 俺は……真理奈、お前のことを愛してる。でも……頼むから、俺を困らせないでくれ」 その言葉を聞いた瞬間、真理奈の表情が一変した。 もう泣きも騒ぎもしない。 嬉しそうに智也にしなだれかかる。 「そう言ってくれるなら……たとえ一生、日陰の女でもいい。私はそれでいいの……」 彼女が再び体を寄せると、激しい呼吸と甘い声が絡み合い、空気を濡らしていく。 スピーカーの向こうから漏れるその声が、千歳の胸を深くえぐった。 もう、とっくに泣き疲れて、声すら出なかった。 「――愛してる」 その言葉。 智也が真理奈に言ったそのひと言が、千歳の心を真っ二つに裂いた。 それは、鋭い刃で結婚という箱を切り裂いたようなものだった。 そこから溢れ出したのは、膿のような裏切りの現実。 かつて憧れていた女優が、結婚後に「結局、そんなものだった」と呟いた意味が、初めて理解できた。 ――愛は、貴重で、そして脆い。 千歳の下腹部に、耐えがたい激痛が走る。 ベッドから転がり落ちるようにして、身体を床に叩きつけた。 まるで身体が斧で裂かれるような痛み。 意識が朦朧としながらも、なんとか玄関に這っていく。 扉を開けた瞬間―― ちょうど通りかかった女性社員が、顔色を変えた。 「奥さん……うそ、ちょっと、大丈夫ですか!?」 千歳はその顔を見て、かすかに微笑んだ。 そして、何も言わないまま意識を手放した。 第5話 目を覚ましたとき、千歳はすでに病院の個室にいた。 ベッドの横では、智也がうつらうつらしていた。 彼女が身じろぎすると、すぐに目を覚ました。 「千歳!」 驚いたように声を上げ、千歳の目を見て、ようやく落ち着いた表情を取り戻す。 その瞳には、ひどく深い後悔が浮かんでいた。 「ごめん……全部俺のせいだ。ちょっと腹が空いてて、下のビュッフェに行っただけなんだ。まさか、こんなことになるなんて……」 千歳は心の中で冷笑した。 ――腹が空いた? ああ、確かに「腹が空いた」だったわけね。 ホテルの部屋をもう一つ取れば怪しまれると踏んで、車の中で済ませたんだろう。 そうやって、智也はまたひとつ、千歳の想像の範囲を超えてみせた。 智也は何も気づかないまま、千歳の手を優しく撫で、そしてそっと離した。 「千歳、俺を殴っていいよ」 次の瞬間、自分の頬をぱしんと打った。 「本当はずっとそばにいるべきだった。もし、あのとき部屋にいれば……こんなことにはならなかったのに」 「全部……俺のせいだ」 千歳は何も言わなかった。 代わりに、ゆっくりと下腹部へ視線を落とした。 「……赤ちゃんは?」 智也の顔がぱっと明るくなる。 「大丈夫だよ。医者が言ってた。感情の起伏が激しくて、少し出血しただけだって」 「……ごめん、やっぱり連れてくるべきじゃなかったよな。君、あんまり楽しそうじゃなかったし……」 そう言って、ポケットからお守りを取り出し、千歳の手に握らせた。 「これ、今朝わざわざ山に行って手に入れてきたんだ。 千歳が無事で、元気でいてくれれば、それだけでいいんだ。 これからも、ずっと、君を大事にするって決めてるから」 千歳は黙って、智也の瞳を見つめた。 ほんの一瞬、全てをぶちまけてしまおうかと迷った。 どうしてそんなに演技が上手くできるのか、問い詰めてやろうかと。 でも――もう、疲れ果てていた。 ちょうどそのとき、智也のスマホが鳴り出した。 智也はスマホを一瞥すると、すぐに着信を切った。 だが相手は諦めず、何度も何度もかけ直してきた。 ついに智也は千歳に小さく謝り、立ち上がって病室を出た。 そのまま、戻ってくることはなかった。 千歳は点滴の針を抜き、無言で彼のあとを追った。 まさか、ほんの数歩進んだところで、すぐに立ち止まるとは思わなかった。 そこには―― 真理奈が、智也の胸に身体を預けながら、幸せそうにお腹を撫でていた。 「ねえ、智也。私たちの赤ちゃん、できたの」 千歳の耳に、その言葉ははっきりと届いた。 ――ドン、と心臓が凍りついたような音が胸に響く。 足元がぐらつき、立っていられないほどの衝撃が走る。 近くにいた看護師が慌てて駆け寄った。 「大丈夫ですか!?ご家族の方は?」 そのとき、智也が振り返り――千歳と視線がぶつかった。 彼は驚きのあまり、真理奈を突き飛ばすように離れ、千歳の元へ駆け寄る。 「千歳……どうした?トイレに行きたかったのか?呼んでくれればよかったのに」 千歳が何も言わず、ただじっと真理奈を見つめているのに気づき、智也の声が慌て始める。 「ああ……彼女は綾瀬真理奈、うちの秘書だ。 君が寝てる間に妊娠が分かって。ちょうど彼女の旦那――俺のビジネスパートナーなんだけど、その人から連絡が来てて。頼まれて、ちょっとだけ面倒見ることに…… だから、変な勘違いはしないで」 千歳は何も答えない。 ただ、真理奈の手にある妊娠検査報告書をじっと見つめた。 「……どのくらい、経ってるの?」 その問いに、真理奈はにっこりと微笑んだ。 目には確かな勝ち誇った色が混じっている。 「先生が言うには、もうすぐ五十日だって。 最近ずっと忙しくて、生理が来たかどうかも気づかなかったの。 でもね、旦那が言ってくれたの。そのぶんしっかり補償するって。カード使い放題にしてくれて、しかもひと月まるまる、仕事を休んで付き添ってくれるって」 ――五十日。 その数字を聞いた瞬間、千歳は目を閉じた。 もし、智也が支えていなかったら――彼女はきっと、そのまま地面に倒れていただろう。 彼女と智也の子どもは、まだ妊娠三十三日目だった。 つまり―― あの夜、彼が千歳を抱いたその直前まで、真理奈のベッドにいたということになる。 そして、仮に出産まで進んだとしても―― 真理奈の子どものほうが先に生まれる。 ふと視線を落とした千歳は、真理奈の手に握られたあるものに気づく。 ――お守り。 その瞬間、すべてが腑に落ちた。 千歳はわずかに微笑みながら、静かに言った。 「……それは、おめでとう」 そう言い終えると、さりげなく智也の腕をすっと引き抜き、何事もなかったように病室へ戻っていった。 ベッドに横たわったその直後、スマホにメッセージが届く。 ――真理奈からだった。 【もう気づいてるんでしょ?】 【あの子、智也の子よ】 【千歳、あんたみたいに独り占めしようなんて思ってない】 【私はほんの少しでも、彼の愛がもらえればそれでいいの】 【それにね、私の子のほうが先に生まれる。だから当然、あんたの子より先に『兄』か『姉』って呼ばれるのよ】 そのタイミングで、智也が病室へ戻ってきた。 千歳は、メッセージをそっと閉じてスマホの画面を消す。 智也は何も知らない様子で、うきうきとスマホを取り出した。 「ねえ見て、これ。全部、赤ちゃん用品なんだ」 買い物カゴには、ベビー用品やら幼児用おもちゃがぎっしり。 「ねえ、どれがいいと思う?っていうか、全部買っちゃおうかな」 「俺さ、君とこの子に、世界で一番幸せになってほしいんだ!」 千歳は何も言わなかった。 ただ、黙って智也の顔を見つめた。 その笑顔は、自分たちの子を想っているのか。 それとも――真理奈の子どもを思ってのことなのか。 もう、分からなくなっていた。 気づけば、千歳の口から問いが漏れた。 「ねえ、智也……本当に、うちの子を楽しみにしてるの?」 第6話 その問いに、智也は迷いなく答えた。 「もちろんだよ! 俺の大好きな千歳が産んでくれる子なんだから、誰よりも楽しみにしてるに決まってるだろ? それでね……今、新しい広い別荘を探してるんだ。ベビールームもちゃんと用意できるやつ。 そうすれば、赤ちゃんが生まれる頃には、空気もキレイになってて、オモチャも全部揃ってて――完璧だろ?」 目を輝かせて夢を語る智也は、まるで少年のようだった。 そのあと、千歳の肩に顔を寄せ、鼻先で彼女の頬をくすぐるように擦り寄る。 「千歳……ありがとうな。 辛い思いさせてごめん。でも、これからは完璧な夫になるから。何でも君のためにするよ」 千歳は何も答えなかった。 会社のレクリエーションから戻って以来、智也は以前にも増して優しくなった。 会議をキャンセルしてでも、千歳のそばにいようとする。 あまりに露骨で、もう外の人間には隠せないほどだった。 周囲も、「ああ、また始まったか」というように納得していた。 ネットでは、智也が「妻バカ」と「子どもバカ」の二冠王に認定されていた。 でも―― それが「真実」じゃないことを、千歳だけが知っていた。 朝、智也と一緒に散歩をしたあと、 「残業がある」と言って別れた彼の背中を見送った三十分後。 千歳のスマホには、一通のメッセージが届く。 真理奈からだった。 添付された写真には―― 智也と真理奈が、手を重ね合わせている姿が写っていた。 【ねえ、智也が本当にあんただけを愛してると思ってるの? あんたの知らないところで、ずっと私のそばにもいてくれてるのよ】 昼、智也が作ってくれた手作りのランチを食べたあと、またしても三十分後。 再び届いたメッセージ。 【正妻だからって、何?私だって、同じ味の料理を、彼の手から食べてるの。何も変わらない】 夜―― 智也は「一緒に寝よう」と千歳に言った。 けれど、帰宅前には必ず真理奈のもとへ立ち寄る。 千歳のスマホには、何度も真理奈からの写真が届いた。 ベッドの中で、上半身裸の智也が、同じく裸の女を抱いて眠っている姿。 その首元には―― 明らかな、ふたつの歯型が残っていた。 添えられていたメッセージには、こうあった。 【あんたの男は、私だけのものよ】 千歳は、その写真をただ黙って保存するだけだった。 ――そして、十五日の前日が訪れる。 その朝、千歳は智也に言った。 「大学に行ってみたいの。ちょっとだけ……昔を思い出したくなって」 ふたりが出会ったのは、大学院を卒業した年だった。 専門は違ったけれど、同じ指導教員の紹介で知り合い、恋に落ちた。 結婚式では、その恩師が祝辞まで贈ってくれた。 だから―― 終わりにするのなら、その場所をきちんと見届けたかった。 千歳の言葉に、智也の手がぴたりと止まる。 けれど、すぐに笑顔を作って答えた。 「もちろんいいよ、千歳」 そして彼は、自ら運転して車を走らせた。 学校の正門に着いたとたん、突然スマホが鳴る。 智也は一瞥するなり、すぐに車を降りて電話に出た。 数分後、戻ってきた彼は、申し訳なさそうな顔で千歳に言った。 「千歳……ごめん、急に仕事でトラブルが入って。先に戻っていいかな? ここで少し待ってて。すぐ戻るから」 その瞬間、千歳のスマホが鳴いた。 真理奈からだった。 【何であんたが智也を独り占めするの!?今この時間、あの人は私のそばにいるべきなのに!】 ……そのとき、千歳の胸の中に浮かんだ感情は、もうよく分からなかった。 落胆? ――そんなもの、とうに通り過ぎている。 千歳は静かに頷き、車を降りた。 智也は、去っていく千歳の背中を、車の中からじっと見送った。 不思議なことに―― こういうことは、智也にとっては何度も繰り返してきたことのはずだった。 けれど、今回はなぜか、胸の奥にざわつくような不安が残っていた。 その理由は、自分でも分からない。 ただ、スマホから響く着信音が急かすように鳴り続け、智也はそのまま慌ただしく車を走らせた。 ――その頃。 千歳は、ひとりで大学のキャンパスへ向かっていた。 校門のそばにある掲示板。 そこには、いまもなお――智也が「伝説の卒業生」として紹介されていた。 若き日の智也の、大きな写真がそのまま掲げられていた。 少し幼さの残る顔立ちに、凛々しく整った目鼻立ち。 写真の中の彼は、まさにあの頃、千歳を一途に愛していた青年そのものだった。 千歳はその写真を見つめ、ぽつりとつぶやいた。 「……智也。私たちの縁は、これで終わりね」 そう言い終えると、すっと踵を返して立ち去った。 向かった先は、病院。 ちょうど午後二時。 千歳は冷たい手術台の上に横たわり、最後の時間を、まだお腹の中にいる小さな命に捧げた。 「……ごめんね、赤ちゃん。 ママは、あなたが生まれてくるのをすごく楽しみにしてた。でも……パパの裏切りを知ってからは、あなたを迎えるのが正しいのか分からなくなったの。 あなたに辛い思いをさせたくない。だから――これが、ママなりの『責任』なんだ。 バイバイ、赤ちゃん」 静かに、涙が頬を伝った。 …… 一時間後。 千歳は顔色の悪いまま目を覚ました。 身体はまだひどく弱っていた。 ――たった今、彼女の中から、血のつながった存在が奪われたばかりだった。 でも、心だけは静かに澄んでいた。 スマホを手に取ると、またしても真理奈からメッセージが届いていた。 内容からして、智也はまだ真理奈の元を離れられていないらしい。 それを見て、千歳はようやく安心したようにベッドを降りる。 自宅に戻ると、あらかじめ用意していた身分証や書類を取り出し、離婚届の封筒を開ける。 その中に、今しがた病院で受け取った中絶同意書をそっと差し込んだ。 家をひととおり見渡してから、最後に一度だけ―― この「家」を見つめた。 そこは、かつて幸せだと信じていた場所だった。 そして千歳は、その扉を開けて外へ出た。 もう二度と、この家には戻らない。