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流れ星のように輝かしい
「確認させていただきますが、日笠さんは旦那さんとの離婚協議書を作りたいということでよろしいですか?」 電話の向こうの弁護士が繰り返し確...
Chương (1)
第1章
「確認させていただきますが、日笠さんは旦那さんとの離婚協議書を作りたいということでよろしいですか?」
電話の向こうの弁護士が繰り返し確認した。
数秒の沈黙の後、日笠夕夏(ひがさ ゆうか)はうなずいた。
「はい。いつできますか?」
「処理には少し時間がかかります。おおよそ、半月ほどで大丈夫です」
電話が切れ、夕夏が通話画面を閉じた瞬間、すぐに一件のチケット予約成功の通知が届いた。
それはZ国行きの航空券で、日時はちょうど半月後だ。
ぴったりだ。
第1話
「確認させていただきますが、日笠さんは旦那さんとの離婚協議書を作りたいということでよろしいですか?」
電話の向こうの弁護士が繰り返し確認した。
数秒の沈黙の後、日笠夕夏(ひがさ ゆうか)はうなずいた。
「はい。いつできますか?」
「処理には少し時間がかかります。おおよそ、半月ほどで大丈夫です」
電話が切れ、夕夏が通話画面を閉じた瞬間、すぐに一件のチケット予約成功の通知が届いた。
それはZ国行きの航空券で、日時はちょうど半月後だ。
ぴったりだ。
夕夏はソーシャルアプリを開いた。
すると、すぐに一件のメッセージが目に飛び込んできた。
【日笠さん、本当に治療を続けないつもりですか?】
主治医の木村先生からだった。
夕夏は一年前にすでに膵臓がんと診断されていた。
医師からは、生存率は非常に低いと言われた。
手術や一連の治療を受けたとしても、余命が約4か月ほどしかない。
彼女はもう、時間を無駄にしたくなかった……
まだ返信していないうちに、次々とメッセージが届いた。
【手術はリスクが高いですが、成功率は5%あります】
【医師としては、簡単に諦めてほしくないと考えています】
夕夏は深いため息をつき、こう返信した。
【結構です。ありがとうございます。私はもう決めました】
メッセージを閉じると、彼女はいつものようにツイッターを開いた。
すると、トレンド入りのニュースが目に飛び込んできた。
【周防天承に新たな熱愛疑惑 深夜のホテルで美女と目撃】
夕夏は無表情でその投稿を開いた。
記事の下には2枚の写真が添付されていた。
その男性は、間違いなく彼女の夫、周防天承(すおう てんしょう)だ。
写真がどれだけぼやけていようと、彼女にはすぐにわかった。
彼は写真の中で、スレンダーな女性を抱きしめながら、ホテルへと入っていった。
彼女の指先が、スマホ画面の中の男性の顔にそっと触れた。
しばらく、ずっと動けなかった。
ようやく画面をスクロールすると、コメント欄はすでに大盛り上がりだった。
野次馬:【おい?また新しい女か?この前、名の知らないアイドルはどうなったの?女を変えるスピード、あまりにも速いぞ】
子豚:【この女、スタイル抜群!金持ちってマジで遊び放題だな。羨ましい!(涎)】
ウサギ飼育員:【周防の奥さん、可哀想だよ……」
笑顔:【そうだよ。日笠って本当に不憫だよ。なんであんな遊び人と結婚したの?(怒)】
パンダは竹が好き:【いやいや、あれは政略結婚だったって聞いたし、愛情なんて最初からなかったんでしょ。どっちも勝手に遊んでるよ。金持ちの結婚なんてそんなもんだ!】
蝶:【理解不能……】
……
コメント欄はどれも、夕夏を皮肉る内容だ。
ある者が「周防家に嫁いだところで、結局は一人で寂しさを我慢するしかない」と言った。
さらには、「実は日笠も遊んでいるが、周防ほど派手じゃないからバレてないだけだ」と言う者もいた。
彼女が呆然とコメント欄を眺めていると、突然、細くて綺麗な手がスマホをすっと取り上げた。
夕夏の耳元は熱を感じた。
「何を見てる?」と、低く静かな声がした。
その声に、彼女の心がざわついた。
天承だ。
どこかの女のベッドから帰ってきたばかりなのか、鼻をつく香水の匂いが漂っている。
夕夏は眉をひそめ、本能的に彼から距離をとって立ち上がった。
「返して」
彼女は手を差し出す。
天承は応じず、勝手にスマホを見始めた。
【周防天承、深夜にモデルとホテルへ】
彼は一語ずつ区切って読み上げた。
軽く笑い、スマホを彼女に投げ返した。
「インタビューするよ。周防の奥さんとして、どんなご感想を?」
そのふざけた口調に、夕夏は吐き気すら覚えた。
目の前の彼を見つめながら、胸が締めつけられるような痛みに襲われた。
3年前、彼はこんな人ではなかったのに……
3年前、両家の勧めで、夕夏と天承は婚約した。
将来結婚すると知ったあの頃、彼女は本当に心の底から嬉しかった。
誰にも言えず、ずっと彼を想い続けてきたのだから。
結婚したらきっと幸せになれると信じていた。
でも、想像はあくまで想像だった。
結婚後、天承はだんだん彼女に無関心になっていった。
やがて、夜の街に頻繁に出入りし、毎晩バーで泥酔するようになった。
そして、パパラッチに撮られて、ゴシップ記事の常連になった。
それでも、彼を好きだった夕夏は、「彼はただ結婚したばかりで、慣れてないだけ」と、何度も言い訳を探した。
だから、彼女は耐えて、許し続けた。
でもその後、彼はますますエスカレートした。
色んな女性たちと関係を持ったり、公の場にも平気で新しい恋人を連れて行ったりをして、報道を一切気にしなかった。
そのたびに、夕夏は皆の嘲笑の的になった。
たった3年で、彼女の愛は完全に擦り切れた。
今、残されたわずかな命の時間くらい、自分のために使いたい。
夕夏は唇を引き締め、静かに言った。
「別に。好きにすればいいわ」
「いい、怒るなよ。今日は俺たちの結婚3周年記念日なんだ。だからわざわざ帰ってきたんだよ」
天承はそう言いながら、ポケットから小さなボックスを取り出し、彼女に差し出した。
その優しい口調に、夕夏は一瞬、幻聴かと思った。
手のひらに押し込まれたボックスを見下ろす。
彼女の指先がかすかに震えた。
何か言おうとしたそのとき、不意にスマホの着信音が鳴った。
それは天承のものだった。
夕夏がちらりと見ると、表示された名前は「小林茜」(こばやし あかね)。
どうせまた新しい恋人の一人だろう。
彼女を一瞥してから、天承は電話を取った。
「天承、ちょっと来てくれない?」
電話の向こうの女性の声は、弱々しく甘えていた。
「どうした?」
天承の声は少し緊張していた。
「なんだか体調が悪くて……熱があるみたい。病院に連れて行ってもらえないかな?
無理なら……」
夕夏にもう一度目をやると、天承の瞳に一瞬の迷いが浮かんだ。
だが次の瞬間には、こう答えていた。
「今の場所を送ってくれ」
第2話
天承が出て行って間もなく、夕夏のスマホに友達申請が届いた。
彼女が開くと、アイコンはピンクのハローキティだった。
メッセージ欄には短く一言だけ書かれていた。
【小林茜です】
小林茜……
夕夏はすぐに、さっき天承のスマホで見た名前を思い出した。
明らかに、天承の新しい恋人が挑発してきたのだ。
少し迷ったが、夕夏は承認ボタンを押した。
承認したとたん、通知音が鳴った。
ポップアップでメッセージが表示され、夕夏はそのまま開いた。
すると、天承の横顔の写真が表示された。
続けて、またメッセージが届いた。
【奥様、天承をよくしつけてくれてありがとう。私はちょっと熱を出しただけなのに、彼はとても心配してくれたの。
水を持ってきてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり、大忙しよ。
トイレまで一緒についてきたの】
文章の端々から、悪意と挑発が滲み出ていた。
まるで「彼は名義上あなたの夫でも、心も体も私のものよ」と言っているかのようだった。
夕夏は思わず笑ってしまった。
こんな天承のために、駆け引きするなんて。
本当に、そこまでの価値があるの?
彼女は何も返さず、そのメッセージをスワイプで消した。
ちょうど消したところで、またしつこくメッセージが届いた。
【奥様、彼がどれほど私を愛しているか、知りたくないか?】
興味はない……
そう思っていたところ、さらにメッセージが届いた。
【もし興味があるなら、私のインスタを見ればいい】
言われた通り、夕夏はざっと覗いてみた。
頻繁な投稿は1週間前から始まっていた。
ちょうど天承と付き合い始めた時期だろう。
その後、ほぼ毎日投稿されていた。
最新の投稿は、今しがたアップされたばかりのシネマグラフだった。
動画の中で、天承は横のテーブルで仕事をしており、茜は病床に座っていた。
彼女が笑いながら天承に顔を上げるよう促すと、彼は言われた通り顔を上げ、カメラを見ずに彼女に優しい笑顔を向けた。
その瞬間、夕夏の頭に浮かんだ言葉があった。
彼女がふざけているが、彼が笑っている。
キャプションには「じゃーん!」と書かれていた。
コメント欄には、茜の追記もあった。
【ある人がわざわざ会いに来てくれたの】
夕夏の心がぎゅっと締め付けられた。
幾度も心の中で「天承なんて、悲しむに値しない」と言い聞かせてきた。
それでもこの瞬間、夕夏は感情を抑えられなかった。
心臓が締め付けられるように痛み出した。
まるで誰かに心を手のひらで握られ、容赦なくねじられているかのようだった。
まもなく窒息しそうだった。
結婚したばかりの頃を思い出した。
天承は写真が嫌いだと言っていた。
結婚写真さえ、彼は妥協してくれなかった。
あの時、夕夏は写真が二人の美しい記憶を永遠に留められると説得した。
しかし、彼から返ってきたのはそっけない一言だった。
「愛する人と撮るからこそ意味があるんだ。俺たちに愛情なんてあるか?」
そうだ。彼は自分を愛していなかった。
だから、そんな写真を撮る気もなかった。
また一つ、自分を納得させる理由が増えた。
夕夏は悟ったように微笑んだ。
チャット画面では、茜が次々と自慢の写真を送り続けてきた。
天承が彼女に対して、自分とはまったく違う対応をしていることを見せつけたかったのだ。
だが夕夏にとって、そのすべてがどうでもよかった。
彼女は相手にせず、スマホを放り投げた。
そして荷物をまとめ始めた。
天承からもらったプレゼントは、開けたものも開けていないものも、彼女はそれらすべてを段ボールに詰めた。
そして、服やアクセサリーも次々と取り外していった。
写真を撮り、低価格で中古品販売サイトに出品した。
第3話
何日も続けて、天承は帰ってこなかった。
その日の午後、夕夏が中古の服を発送して帰ってくると、家のリビングに天承が立っているのが目に入った。
彼はあの日と同じスーツを着ていて、ジャケットは無造作に開けたまま、中の白いシャツが見えていた。
シャツの襟には、はっきりと口紅の跡がついていて、非常に目立っている。
夕夏はわずかに眉をひそめた。
天承は彼女に近づき、思わず腕を伸ばして抱き寄せようとした。
夕夏は一歩後ろに下がり、その手を避けた。
「触らないで」
「どうした?」
天承の目に驚きが一瞬浮かんだが、すぐにその表情は消えた。
ただ近づかれただけで、夕夏は彼の体に染みついた匂いで吐き気がした。ましてや抱きしめられるなんて、耐えられない。
夕夏は頑なに顔をそらした。
「別に」
「ん?」
天承は隣に立っていたアシスタントに視線を向けた。
アシスタントは察して、丁寧に何かを手渡してきた。
夕夏が問った。
「何これ?」
「君って、外国の画家たちの変わった作品が好きだったよな?高値で買い取って持ってこさせたんだ。もう怒らないで。開けてみて」
天承は顎を軽く上げ、開けるように促した。
変わった作品……
彼は今まで一度も、彼女の好きなものをちゃんと理解しようとしなかった。
彼女が何度も楽しそうに話していたが、彼の目には、彼女の趣味はいつも変わっていて奇妙だと決めつけられていた。
夕夏は深く息をつき、口を開いた。
「いらないわ。送り返して。もう好きじゃなくなったの」
その淡々とした口調は、天承にとって、彼女がまるで別人のように感じさせた。
だがすぐに、彼は気のせいだと思った。
天承は一歩踏み出し、無理やり彼女を腕の中に引き寄せた。
「記念日のことで怒ってるのか?
結婚三周年の記念日だったのに、君のそばにいなかった。確かに俺が悪かった。
だから、今日は罰として、一日中君と一緒にいるよ。どう?」
彼の大きな手が彼女の頭を優しく撫でた。
その優しさは、もう彼女だけのものではなかった。
少し顔を上げれば、他の女との愛の痕跡が、彼の首筋に見えてしまう。
心がまたじくじくと痛んだ。
夕夏は目を閉じ、吐き気を抑えながら言った。
「じゃあ、学校の近くの屋台街に行かない?」
「ん?」
天承は少し驚いた。
「なんで急にそんなことを?」
「さあね」
二人が通っていた大学はどちらも京市にあり、しかもすぐ近くだった。
たった一本の通りを挟んでいた。
その通りが、大学生に人気の屋台街だった。
結婚してからずっと行っていなかった……
突然そこに行きたいと言い出した夕夏に、天承は少し疑問に思ったが、最終的には頷いた。
彼は車を出し、屋台街へと向かった。
道中、見覚えのある風景が次々と目の前を過ぎていく。夕夏の目には、知らず知らず涙が溜まっていた。
夕夏が天承に片思いをしていたのは、高校の頃からだった。
彼女が高校に入学した時、天承はすでに高校三年生だった。
二学年上の彼は容姿端麗で、バスケが得意で、成績もトップクラス。まさに学校のスターだった。
そんな彼に憧れる女子が多いのも、当然だった。
夕夏も、その憧れの大群の中の一人にすぎなかった。
彼に近づくために、必死に勉強した。
彼を追いかけるように、後ろをついていった。
彼女が高校二年生になった年、天承は京市で一番の大学に推薦入学した。
その瞬間から、夕夏の第一志望、第二志望、第三志望はすべて、天承の通う大学か、そのすぐ近くの大学になった。
彼が、彼女のすべてになったのだ。
そして彼女は、見事に天承の大学に最も近い京市大学に合格した。
二人の大学は向かい合わせに建っており、間には歩行者専用の通りが一本だけだった。
たった一目でも、彼に会うために、休みを取ったり、授業をサボったり、こっそり学校を抜け出したりするのは日常茶飯事だった。
大学の四年間、偶然にすれ違うその一瞬一瞬が、夕夏の心を長く揺さぶれる。
天承の記憶には、彼女は何度か見たことのある後輩程度の存在だったかもしれない。
それでも夕夏は、それで十分だった。
自分なりの方法で、彼を静かに愛してきた。
でも、もし未来がこんな結末だと分かっていたら、あのとき、彼女はもう諦めた。
第4話
「何を考えているんだ?」
天承が彼女の耳元に顔を近づけた。
はっとして我に返ると、夕夏は周囲を見回した。二人はいつの間にか屋台街に着いていた。
通り全体にはさまざまなタイプの露店がずらりと並んでいた。
いろいろな軽食を売る店や、手工芸品を売る店、そしてちょっと風変わりな雑貨を売る店まであった。
二人は容姿がよく、背も高かった。
人混みの中に立つ彼らは、目立っていた。
あっという間に、通り中の人々の注目を集めた。
少し離れた場所に、飴細工を売っている屋台があった。
夕夏はそれを見て言った。
「飴細工がほしい」
それを聞いて、天承はすぐに二本買いに行った。
「彼女さんに買ってあげるのかい?」
飴売りの老人がからかった。
天承は笑みを浮かべたが、答えなかった。
彼は一本を夕夏に差し出した。
「君がこれを好きだなんて知らなかったな」
夕夏は一瞬固まった。
知らない?彼が知らないことなんて、いくらでもある……
夕夏は唇を小さく動かして、何かを言いかけた。
「リンリンリン——」
場違いな着信音が鳴り響き、言いかけた言葉が遮られた。
天承は夕夏を一瞥した。
夕夏は察して視線を逸らし、別の方向を見た。
しばらくして、彼女は隣にいる天承の方へ顔を向けた。
周囲の音がうるさすぎて、夕夏には電話の相手の声が聞き取れなかった。
ただ、天承が「あとで行く」と言ったのが聞こえた。
その後、彼は電話を切り、瞬きする間に車に乗り込んだ。
そして彼の車はそのまま、彼女の目の前から走り去った。
夕夏は我に返ると、急いで道端でタクシーを捕まえた。
「運転手さん、あの車を追ってください」
エンジンがかかり、すぐに車は後を追った。
およそ30分ほどで、車は古びた住宅街に停まった。
前方のマイバッハから天承が降りてきた。
暗い街灯の下、彼は大股で歩き、小さな扉の中へと入っていった。
その姿はあっという間に視界から消えた。
夕夏は焦り、扉を開けて車を降りようとした。
「お客様、こんな夜中にどこへ行くつもりですか?」
突然運転手が声をかけ、夕夏の動きが止まった。
彼は続けた。
「言っておきますが、この辺は治安が悪いですよ。夜はチンピラがよく出ます。
数日前にも事件が何件か起きて、ニュースにもなったんですから」
我に返った夕夏は口元を引きつらせて笑った。
「大丈夫、私は平気です」
「お客様……」
運転手は言いかけて溜息をつき、「自分で言ったからな、あとで何かあっても私のせいにしないでくださいよ」
「はい、ありがとう」
支払いを済ませ、夕夏は決意を胸に車を降りた。
彼女はスマホのライトをつけ、でこぼこの道を照らしながら小さな扉へと向かった。
まだ途中までしか進んでいないとき、前方から何かの気配があった。
目を上げると、天承が小柄な女性を抱えてその扉から出てきた。背後には大勢の人が続いていた。
夕夏は、誰かが話す声を聞いた。
「周防社長、私たちは普通に撮影してただけです。事前に、茜の体調も確認してたんですよ。まさか撮影中に倒れるなんて……」
「そうですよ。これは私たちのせいじゃありません。ここで撮影するのも、茜と相談した上で決めたことです」
「来る前はあんなに元気だったのに……あ、周防社長、待ってください!周防社長!」
スタッフたちの媚びた声が響く中、車は闇の中へと消えていった。
残されたのは、カメラやライトを担いだスタッフたちだった。
誰かが不満を漏らした。
「茜のやつ、ただの名も知らないモデルなのに……もし周防社長が怒ったら、俺らどうすんだよ」
「いつもトラブルばっか起こしてさ、うざいんだよ。周防社長がいなかったら、あいつなんか何の価値もないくせに」
「ただの恥知らずな愛人だろ」
「もういいって、さっさと帰ろうぜ」
そう言いながら、数人はワゴン車に乗り込んだ。
しばらくすると、その車も路地を抜けて去っていった。
静かでぬかるんだ街道に、夕夏だけが取り残された。
背後から冷たい風が吹きつけ、思わず身をすくめた。
彼女はスマホを取り出し、タクシーを呼ぼうとした。
しかし、まだアプリを開く前に、真っ黒に汚れた手が突然伸びてきて、「パチン!」と音を立てると、スマホが手から弾かれた。
スマホは画面を下にして地面に落ちた。
驚く暇もなく、背後から甲高い声が聞こえた。
「このお嬢ちゃん、いい体してんなあ」
第5話
神経が一気に張り詰め、夕夏はゆっくりと振り返った。
見知らぬ男たちの顔が、目の前に現れた。
一瞥しただけで、彼女の胸に警戒のアラームが鳴り響いた。
すぐさま逃げ出そうとしたが、動きを読まれていた。
頭皮に鋭い痛みが走った。
次の瞬間、彼女は髪を乱暴に引っ張られ、無理やり引き戻された。
夕夏は体勢を崩し、背中からアスファルトの道路に倒れ込むと、手のひらを強く地面についた。
掌には数本の血のにじむ擦り傷ができた。
肩からずり落ちたバッグが地面に落ち、中の物が散らばった。
彼女が反応する間もなく、ある汚れた手が肩を押さえつけてきた。
男の一人が彼女の足首をつかみ、自分の方へ引き寄せた。
「おいおい、俺たちちょうど女探してたとこだったのに、こんな美人が自分からやって来るなんてな」
「おい、お前ひとりで楽しもうってのかよ」
「俺が先に見つけたんだから先にやらせろよ!」
……
数人が口論している隙に、夕夏は痛みも顧みず起き上がって走り出した。
だが、彼女の体力では成人男性には敵わなかった。
数歩も走らないうちに、また引き戻されて、後頭部が硬い壁にぶつかると、激しい眩暈が襲った。
視界がぼやけていき、彼女が聞こえるのは男たちの罵声だった。
「このクソ女、逃げてんじゃねぇよ!」
「ちょっと楽しませるくらいいいだろ?」
「夜中にこんな格好で出歩いてるんだ。絶対男を誘ってる」
汚く臭う手が彼女の頬を叩いた。
夕夏の胃がムカムカと込み上げてきて、耐えきれず壁の角で吐いた。
男たちがさらに近づこうとしたとき、突然誰かが言った。
「ちょっと待て!」
「待てって、もう我慢できねーよ!」
その中の一人が彼女のバッグから数枚の書類を取り出した。
「この女、病気持ちだぞ。お前やるのか?」
「は?」
男たちは信じられずその紙を取り上げ、ライトを当てて見た。
その中の読み書きができる男が、ゆっくりと読み上げた。
「がん確定診断通知書」
「うわ、マジかよ、病気なら早く言えよ!」
別の男が夕夏の髪を掴み、「俺たちを道連れにする気かよ!」と怒鳴った。
夕夏は意識が朦朧とし、言葉も出せなかった。
ただ、耳元でがやがやと騒ぐ声が聞こえるだけだった。
彼女の状態を見て、一人が言った。
「もういいだろ。金目の物だけ持っていこう。余計なトラブルはごめんだ」
「だな、マジでツイてねぇ」
男たちはバッグの中を漁り、数枚の千円札を取り出したら、罵りながらその場を離れた。
夕夏が目を覚ましたとき、そこは病院だった。
鼻をつく消毒液の匂いに意識が戻り、うっすら目を開けると見覚えのある顔が飛び込んできた。
「夕夏、やっと目が覚めたのね、もう心配で死にそうだったんだから!」
それは清水林檎(しみず りんご)だ。
彼女の幼馴染で、一番の親友だ。
夕夏は口を開いた。
「林檎?なんでここに?」
それに、彼女がどうやって来たのかも気になった。
問い終わらぬうちに、林檎はすぐに医師を呼びに走っていった。
医師が身体を診察し終えた後、言った。
「大きな問題はありません。手と膝に擦り傷がありますが、数日休めば治ります」
そう言い終わると、医師が去った。
林檎は大きく息を吐いた。
「よかった。本当に怖かったよ」
林檎は胸を押さえながら、安心した様子を見せた。
夕夏はベッドから起き上がり、疑問を口にした。
「私はどうしてここに?誰が私を運んでくれたの?」
「それはこっちが聞きたいわよ!どれだけ心配したと思ってるの!」
林檎はまくし立てた。
「寝ようとしてたら、突然知らない番号から電話がかかってきて、あなたが路上で倒れてるって……
私があなたとどんな関係か聞かれて、急いで迎えに来てって言われたの。
寝ていられず、急いで向かった。そうしたら、車であなたを病院まで連れてきた」
それからずっと病室で彼女を看病していた。
彼女は医師に何度も確認して、ようやくショックによる一時的な気絶と分かると、安心できたのだった。
「ありがとう、林檎」
夕夏は感謝のこもった目で彼女を見た。
林檎は手をひらひらさせた。
「何言ってるの、そんなの当然でしょ」
すると、彼女は急に思い出したように机を叩いて立ち上がった。
「それにしても、天承って本当に最低よね!」
天承の名前が出た瞬間、夕夏の表情は一気に曇った。
林檎は続けた。
「夕夏が一晩中路上で倒れてたってのに、旦那である彼からは一本の電話もなかったのよ?
私が連絡したら、今は大事な仕事があるとか言って、電話切られたのよ?
信じられる?本当に最低だ!」
夕夏は唇を引き結び、何も言わなかった。
林檎が怒るのも当然だ。
最高の親友として、彼女は夕夏のすべてを知っていた。
夕夏がどれほど天承を想い、どれだけのことをしてきたかも知っていた。
明るくて元気だった親友が、あの男のせいで無口に変わってしまった。
林檎は悲しくて悔しかった。
ましてや、それはあんな最低な男のためだった。
だからこそ、彼女は怒りが収まらなかった。
そんな林檎の怒りがようやく静まったころ、夕夏はゆっくり口を開いた。
「もういいの。私、彼と離婚するつもりだから」
「本当?」
その一言に、林檎の目が一気に輝いた。
「うん」
夕夏はうなずいた。
第6話
夕夏が離婚するつもりだと聞いた瞬間、林檎は怒るのをやめた。
すぐに力強く賛成した。
「目が覚めてよかった。天承なんて男、悲しむに値しないわ。
あなたにはもっと良い男がふさわしい。早く別れなきゃ」
夕夏は心ここにあらずといった様子でうなずいた。
点滴が終わると、看護師が来て、退院できると告げた。
林檎は急いで彼女の荷物をまとめたが、ドアを開けた瞬間、思いがけず見覚えのある顔に出くわした。
天承……
なぜ彼がここに?
林檎が先に口を開いた。
「天承、あんたって人は……やっと……」
「天承、どうして入口に立ってるの?誰かと話してるの?」
林檎の言葉は遮られた。
茜が青と白のストライプの病衣を着て、隣の病室から出てきた。
そして、まっすぐ天承の胸に飛び込んで、甘えた声で「どうして黙ってるの?」と言った。
彼女は首をかしげながら振り返ると、夕夏の姿を見て、口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「この方は、夕夏さんなの?」
そう言いながら、天承を見上げて確認した。
天承は軽く「うん」と返事した。
林檎は我慢できず言った。
「ねぇ、あんた!正妻がここにいるってわかってて。それでも天承の胸に飛び込むのか?
そんなに愛に飢えてるの?わざわざ愛人志願?」
「あなたは……」
「うるさい!ほら、起きなさいよ!」
茜に反論する隙も与えず、林檎は彼女を引きずり出そうと前に出た。
だが、手を伸ばす前に、大きな手がそれを制した。
天承は冷たい顔で「やめろ」と言った。
「は?天承、頭おかしいか……」
鋭い視線が飛んできて、夕夏の心は次第に沈んでいった。
彼女は林檎の服の裾をつかみ、首を振った。
林檎は諦めたくなかった。
「夕夏……」
「もういいの」
夕夏は静かにそう言った。
林檎は天承の胸で哀れっぽく演じる茜を憎々しげに睨んだ。
だがどうすることもできず、深くため息をついた。
茜がわざとらしく言った。
「すみません、私ここにいるべきじゃなかったんだね。じゃあ、帰るよ」
そう言うと、彼女は背を向けて出ていこうとした。
だが天承は彼女を引き寄せ、軽く抱き上げた。
彼の目は彼女の裸足に留まった。
眉をひそめて不満げに言った。
「また靴を履かずに走り回ってるのか」
「だって、早くあなたに会いたかったんだもん」
二人は他人の存在など意に介さず、親密なやり取りを続けた。
夕夏のことなど一瞥もしないまま、天承は茜を抱えて病室へ入った。
天承の目に入らないところで、茜は眉を上げ、夕夏に勝ち誇った笑みを見せた。
夕夏は当然それを見逃さなかった。
二人が病室に入り、そのドアが彼女の目の前で閉まった。
夕夏の胸は締めつけられるような痛みに襲われた。
林檎が天承を罵り続ける中、夕夏はようやく家に帰り着いた。
スマホを開くと、弁護士からメッセージが届いていた。
【日笠さん、離婚協議書はほぼ完成しました。財産証明などが終わり次第、5日後には正式な協議書をお渡しできます】
5日後、それはちょうど彼女がこの場所を離れる予定の日だった。
長すぎもせず、短すぎもしない、ちょうどよいタイミングだ。
夕夏の顔に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。
彼女はメッセージの入力欄を開き、返信した。
【ありがとうございます】
部屋に戻り、彼女は再び荷物の整理を始めた。
この数年で彼女が周防家に持ってきたものは多くなかった。
ほぼ、天承が彼女に贈ったプレゼントだ。
結婚してからの3年間、毎年、行事ごとに彼はアシスタントに頼んでプレゼントを用意した。
限定品のバッグや季節ごとの流行服、そして時には高価なアクセサリーまでもがあった。
彼の言葉によれば、愛以外なら、何でも夕夏にあげられる。
だが、彼が唯一くれなかった愛こそが、彼女が一番欲しかったものだった。
「何してるんだ?」
ドアの方から声が聞こえた。
夕夏が振り返ると、天承がいつの間にか帰ってきて、部屋の入口に立っていた。
彼は疑問げに部屋に入り、散らかった床と空っぽのクローゼットを見回した。
そして、理解できない様子で尋ねた。
「どこかに行くのか?」
「別に、どこにも」
「じゃあこれは……」
「衣替えよ。もういらないよ」
それを聞いて、天承はほっとしたように言った。
「今度、最新な服を届けさせる。
こんなの、使用人に任せればいい。自分でやる必要ないだろ」
そう言いながら、彼は夕夏の手から服を取ろうとした。
だが、彼女はそれを避けた。
夕夏は淡々と「いいの、自分で片づけるから」と言った。
そのとき、そばに置かれた大きな段ボールが目に入った。
天承は一目で、自分が贈ったプレゼントが詰まっていると気づいた。
眉をひそめて言った。
「これも捨てるのか?」
「違うわ。多すぎて収納できないから、まとめておくだけ」
彼女は平然と嘘をついた。
天承は疑う様子もなかった。
何度も手伝おうとしたが、すべて拒まれた。
ようやく夕夏のいつもと違う冷たさに気づいたのか、天承が口を開いた。
「どうした?病院のことでまだ怒ってるのか?」
彼の手が伸びてきて、夕夏から服を引ったくった。すると、天承が彼女の元に近づいてきた。
すごく近くて、温かい息が彼女の頬にかかった。
夕夏は思わず身を引いた。
だが、腰を引き寄せられて、また抱きしめられた。
「嫉妬したのか?」
天承の声は問いかけるようでありながら、どこか期待がこもっていた。
夕夏は何も言わなかった。
その沈黙が、逆に天承の確信に変わった。
彼は彼女を腕に抱いた。
「もういいだろ。いい子にして。あいつとは遊びみたいなもんだ。君の立場は誰にも取れないよ」
彼はまるで子猫でもあやすように彼女の鼻先をつついた。
その声には、自信のほかには何一つとして感情が込められていなかった。
夕夏の鼻がつんとし、涙がこぼれそうになった。
彼が自分を愛していないと、すでに知っているはずなのに、それでも心はまた激しく痛んだ。
彼女はあれだけ強く愛していたのだから、彼も気づかないはずがない。
そうだろう?
でも答えは最初から分かっていた。
ただ、彼女が諦めきれず、時間で彼の心を動かせると信じていた。
スマホの着信音が鳴り、雰囲気が壊れた。
夕夏は彼の腕から抜け出した。
天承は彼女を一瞥し、電話を取りながら少し迷ったようだが、そのまま部屋を出ていった。
夕夏が外に出たとき、彼の姿はもうなかった。
廊下はがらんとしていた。
そこには、彼女ひとりだけだった。
第7話
しばらくして、夕夏のスマホに茜からのメッセージが届いた。
それは、ベッドの上で寄り添う二人の写真だった。
写真には、茜が天承の胸に抱かれている姿が写っていた。
二人とも上半身は裸で、薄いシーツで覆われていた。
そのほか、明らかに見せつけるような長文のメッセージが添えられていた。
【天承が言ってたの、私の体は最高だって。あなたなんかよりずっと面白いって。堅物なあなたには興味ないって】
【それにね、あなたとするのはほんとに退屈だ。あの気取った態度を見ると欲もなくなるんだって】
【私だったら、とっくに離婚してその座を譲ったわ。彼に好かれてないのに、しがみついてる理由がわからない】
【それにね、私がちょっとケガしただけで、彼すごく心配して、一日中そばにいてくれたの】
【一昨日は一緒に温泉旅行も行ったのよ。彼の体力って本当にすごいの】
……
数えきれないほどの見せびらかしの言葉と、二人の親密な写真が並んでいた。
一目見ただけで、目を汚された気分になるほどだった。
夕夏はそれを無視し、必死に吐き気をこらえながら画面を閉じた。
昔も似たようなことはあったが、その頃はまだ天承を愛していた。
こんなメッセージを見るたびに、泣き明かしたものだった。
だが今はもう、愛情は消え去っていた。
残っているのは、果てしない嫌悪だけだった。
今の夕夏にとって、天承は本当に気持ち悪い存在だ。
自分がかつてあんなにも彼を愛していたことを思い出すだけで、吐き気を催すほどだった。
その夜、天承は一度も帰ってこなかった。
翌朝、夕夏のスマホに天承からメッセージが届いた。
【夕夏、数日出張に出る】
夕夏は無表情で返信した。
【わかった】
慣れた手つきで茜のインスタを開いた。
最新の投稿は1時間前のもので、車の中で二人が手をつないでいる写真だった。
その文はこうだ。
ある人が旅行に連れて行ってくれるんだ。
夕夏は冷笑を漏らした。
天承の出張初日は、夕夏がこの場所を去るまで残り3日のタイミングだった。
彼女は茜の投稿で、二人がクルーズ客船の上でキスをしている写真を見た。
しかもその写真には共通の友人たちも映っていた。
夜になって、夕夏に茜から電話がかかってきた。
電話に出た瞬間、耳に飛び込んできたのは官能的な声だった。
「天承、もう少し優しくして……」
電話の向こうでは、二人が裸でベッドの上で交わっていた。
茜は男性の胸に手を当て、リズムに合わせて甘い声を漏らしていた。
彼女は潤んだ目で天承を見上げながら言った。
「ねぇ、私と奥さん、どっちを愛してるの?」
「君だよ。君こそが俺の奥さんだ、茜」
茜はくすりと笑った。
天承の低くて甘い声が耳に届いた。
夕夏は慌てて電話を切った。
完全に呆然とした顔だった。
しばらくしてから、我に返った彼女は、胸を押さえてゆっくりとしゃがみ込んだ。
涙が大粒となって、ぼたぼたと床に落ちていった。
もう愛していないと、どんなに自分に言い聞かせても、かつて心から愛した男が目の前でこんなふうに堕ちていく姿に、彼女は耐えられなかった。
いや、もしかしたら、最初から彼はこういう人間だったのかもしれない。
ただ、自分がそれに気づこうとしなかった。
しばらくして、チャットの画面に新たなメッセージが届いた。
【全部聞こえたでしょ?】
【残念ね、あなたも見てればよかったのに。彼が私と抱き合ってるときの、あの恍惚とした顔】
【彼、あなたより私のほうが断然いいって言ってたわ】
夕夏は静かに目を閉じ、入力していた言葉を一文字ずつ削除していった。
そして、アプリを完全に閉じた。
見なければよいのだ。
第8話
天承が出張に出た二日目は、つまり夕夏が出発する前の二日目だ。
彼女はツイッターのトレンドで、天承に関する話題を見かけた。
【周防天承、オークションで一擲千金!美人のために、千億の「海洋の心」を落札】
その美人とは、もちろん茜のことだ。
クリックすると、二人が一緒にオークション会場を出入りする写真があった。
写真では、茜が天承の腕に親しげに腕を絡め、彼の肩に寄りかかっている。
夕夏はコメント欄までスクロールしてみた。
コメント欄は相変わらず賑やかだった。
みんな、茜が天承と最も長く付き合っている相手なのかどうかを推測していた。
ブロッコリーが好き:【みんな、彼らが何日付き合ってるのか計算してみて?昔だと、このタイミングで別れてるはずだけど、まさか今回は本気なのかな?】
刺々しいバラ:【私はそうは思わない。周防は一途な人じゃないからね】
歓喜:【この女も大胆だよね。正妻のこと、怖くないのかな?】
けらけら:【日笠が本当に追及したいなら、もっと前にしてたでしょ。今さらになって……】
アイガー:【それなら、なんで離婚しないの?理解できない】
クマのプーさん:【家族の利益のためでしょ】
……
もう見る気がなくなり、夕夏は画面を閉じた。
インスタに戻ると、茜が最新の投稿が表示された。
「23歳、私が愛する人が全額で私にネックレスを買ってくれた」
その下には「海洋の心」の写真が添付されていた。
天承が出張に出た三日目は、つまり夕夏が出発する最後の日だ。
早朝、彼女は法律事務所に行き、待ち望んでいる離婚協議書を受け取った。
サイン欄に自分の名前を記入し、その離婚協議書を、結婚指輪と一緒に天承の書斎の机の上に置いた。
さらに、カードを置いておいた。
そのカードには、彼がこれまで贈ったすべてのプレゼントを売って得たお金が入っていた。
それは、彼がこれまで自分に使ったお金を返したつもりだ。
すべてが終わり、夕夏は再び病院へ行った。
そこで、治療放棄の同意書にサインした。
医師は若い彼女を見て、再びため息をついた。
「日笠さん、本当に治療を続けないと決めたのですか?」
夕夏は冷静に頭を振った。
「はい。今は十分です」
どれだけ生きられるかはわからないが、無理に延命するつもりはない。
医師はため息をつきながらも、何か言おうとしたが、結局は何も言わずに終わった。
サインをした後、夕夏は周防家に戻った。
今回は、最後の帰宅だ。
家の中を隅々まで見回したが、もうここには彼女が思い出に留めておくべきものは何もなかった。
この家には、天承との思い出すら、ほとんどなかった。
部屋の隅に置かれた小さなスーツケースを持ち上げ、夕夏は家の外に出た。
その時、スマホに「ピンポーン」と通知音が鳴った。
茜からのメッセージだった。
彼女と天承の結婚写真が添付されていた。
写真の中で、彼女は甘い笑顔を浮かべていた。
【結婚写真撮りたいって言ったら、彼はすぐ、連れて行ってくれたんだよ。しかも、私の花嫁姿がきれいだって、言ってくれた】
夕夏は冷笑を漏らし、入力欄を開いて無表情でこう入力した。
【おめでとう】
メッセージを送信した後、すぐに彼女をブロックして削除した。
続いて、天承をブロックして削除した。
それから、茜から送られてきた動画の中に映っていた友人たちをブロックして削除した。
すべてを終えた夕夏はタクシーを呼び、空港へ向かった。
これからは、天承の世界に夕夏はもう存在しない。
そして、彼女もすぐに解放されるだろう……