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あなたを想うことも、春の雨と一緒に流れて
「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」 婦人科の診察室で、朝菜はお腹をそっと撫でながら座っていた。 スマホからは、夫と義妹の声が...
Chương (1)
第1章
「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」
婦人科の診察室で、朝菜はお腹をそっと撫でながら座っていた。
スマホからは、夫と義妹の声がはっきりと聞こえてくる――
第1話
「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」
婦人科の診察室で、春坂朝菜(はるさか あさな)はお腹をそっと撫でながら座っていた。
スマホからは、夫と義妹の声がはっきりと聞こえてくる――
結婚して三年。なかなか授からなかった命。
やっと、やっと宿った愛しい我が子のことを、早く春坂征史(はるさか まさふみ)に伝えたくて――
でも、耳に飛び込んできたのは、現実を疑いたくなるような、淫らな音声だった。
女の子の声が続く。わざとらしく、ベルトのバックルをカチリと鳴らして。
「でも兄さん、姉さんは今、階下で妊娠検査中なんでしょ?今こんなことして、バレたらどうするの?」
男のくぐもった笑い声が応えた。
「俺はここの主治医だ。それにお前は心臓病持ちだろ。朝菜が見たって、まさか疑うはずないさ。
さ、手で助けてくれ」
ふたりの荒い呼吸音が、耳元で生々しく響いた。
朝菜の全身から血の気が引いていく。
本当に……征史なの?
しかも相手は、彼の義妹、神崎句美子(かんざき くみこ)?
ガクガクと震える指先。
現実を否定したくても、携帯から聞こえる声は、さらに朝菜を突き落とす。
「兄さんなんてウソつき、口では姉さんが好きって言いながら、身体は私を離してくれないくせに」
征史は手を止めることもなく、気だるげに答えた。
「ベッドの上の腕前なら、朝菜よりお前のほうが上だよ」
「だったら、彼女と離婚して、私と結婚してよ」
句美子が甘えるように囁く。
「姉さんは体が弱くて、もしかしたら子どもが産めないかもしれないけど……私は若いし、元々は兄さんの許婚だったんだよ?」
その瞬間、征史の声色が一変した。
低く、重く、真剣に。
「句美子、くだらないことを考えるな。俺が一生守りたいのは、朝菜だけだ。子供がいようがいまいが、あいつだけは裏切らない」
「今回だけは、朝菜に赤ちゃんができたから……俺も流石に、傷つけたくないんだ。
だから朝菜が無事に出産したら、お前は国外に行け。そしたらまた、俺は朝菜のもとに戻る」
「でも、私は兄さんの妹なんだよ?そんなの……」
句美子の不安げな声を、征史は気怠げに遮った。
「妹?血なんて繋がってないだろ」
「むしろ……スリルがあって、いいと思わないか?」
彼の声は甘く、水のように柔らかかった。
「余計なこと考えるな。朝菜が検査を終えるまで、もう一回……違う姿勢で楽しもう」
朝菜はふらふらと、まるで魂が抜けたみたいに診療所を出た。
誰かが、首をぎゅっと絞めているような息苦しさ。
――征史は、二十三年も自分を愛してくれたはずだった。
七歳の時、流れ星に誓ってくれた。
「絶対に、一生守る」って。
十七歳の時、借金取りに追われた自分を、身を挺して庇ってくれた。
ナイフで刺され、重症で運ばれた彼の姿。
父親の作った莫大な借金を返すため、まだ治りきらない体で、裏社会の賭博場に命を懸けて飛び込んだ。
九死に一生を得た、あの日。
二十二歳、珍しい病気にかかった自分を救うため、医学博士に挑み、寝食を忘れて研究に没頭してくれた。
二十七歳、世界中に生中継された、誰もが羨む最高の結婚式。
征史の愛は、いつだって堂々としていた。
なのに――
どうして、どうしてこんなふうに変わってしまったの……?
携帯が、また震えた。
朝菜はぼんやりと受話ボタンを押す。
「朝菜、今ちょっと急な用事ができちゃってさ。
3号駐車場の5番スペースで待っててくれないか?」
征史の優しい声。
けれど、朝菜は答えなかった。
返事どころか、止めようのない涙が、次から次へと頬を伝い落ちた。
朝菜は必死に顔をぬぐった。
けれど、拭っても拭っても、涙はあとからあとからあふれてきた。
征史は、彼女が黙ったままでいるのに焦ったようだ。
「朝菜、泣いてるのか?何があったんだ……?」
その声を、朝菜は無言で遮った。
無慈悲に、通話を切った。
ぼんやりと、どれくらい歩いたのか分からない。
世界がぐらぐらと揺れて、ついには意識が飛びそうになる。
「朝菜!」
誰かの叫び声。
そして、ふわりと支えられた。
見上げた先にいたのは――征史だった。
彼は背後にある長い階段を見て、顔面蒼白になっていた。
「……今、ほんの少しでも転んでたら、大変なことになってた。朝菜、無事でよかった。本当によかった……」
震える手で、征史は彼女の涙を拭った。
その目には、確かに愛情があった。
なのに。
――どうして、その心を他の誰かにも分けてしまえるの?
朝菜の胸が、痛くてたまらなかった。
征史は優しく彼女を抱き上げ、車に乗せた。
そして、そっと髪をかき上げながら、スープジャーを取り出した。
「道中お腹が空くといけないから……俺が作った、スペアリブスープだ。まだ温かいよ」
言葉通り、彼は丁寧にスプーンで少しずつすくい、朝菜に食べさせた。
時々、くだらないジョークを挟んで笑わせようとするその目には、惜しみない愛情が宿っていた。
耐えきれず、朝菜はそっと尋ねた。
「征史……何か、私に言いたいことはないの?」
征史は微笑み、彼女の鼻先をくすぐった。
「朝菜が、ずっと平和で、幸せでいられますように」
そう言って、彼は朝菜の指先にそっと口づけた。
そして耳を寄せて、お腹の中の命の気配に耳をすました。
「……ねえ、どっちが先に言うと思う?『パパ』って?それとも『ママ』?」
ぴんぽん。
征史のスマホが鳴った。
彼はチラリと画面を覗き見ると、表情をわずかに曇らせた。
黒曜石のような瞳の奥に、見えない欲望が渦巻く。
朝菜には分かった。
――きっと句美子からだ。
征史は何かを短く打ち込み、すぐに画面を消した。
そして、少しかすれた声で言った。
「朝菜、ごめん。急患が運ばれてきた。俺、病院に戻らないと」
朝菜は、黙って彼を見つめた。
心のどこかで、たった一言でもいい、何か説明してほしかった。
けれど、征史はただ彼女をそっと抱きしめただけだった。
「人の命がかかってる……朝菜には寂しい思いをさせてごめん。帰ったら、ちゃんと埋め合わせするから……君と、子どもにも」
彼は運転手を手配したことを伝え、急ぐようにその場を後にした。
征史が去ったその直後。
朝菜のスマホにも、メッセージが届いた。
【兄さん、水に何か入れた?すごく熱くて、もう我慢できない……】
添付されていた写真に、朝菜の指先が震えた。
そこには、ピンクの超ミニセーラー服をまとった句美子の姿。
白く柔らかな肌が露わになり、潤んだ瞳でこちらを見上げている。
【さっきあんなにたっぷりもらったばかりなのに、また欲しくなっちゃった。待っててね、兄さん楽にしてあげる】
画面を閉じても、冷たい絶望感が胸に突き刺さる。
朝菜は静かに目を閉じた。
長い間、心の中で何度も問い直してきた。
それでも――
もう分かった。
彼は、自分たちの誓いを裏切った。
ならば、自分がこの場所にとどまる理由も、もうない。
朝菜はタクシーに乗り、「擬似死亡サービスセンター」へ向かった。
スタッフはにこやかに対応した。
「春坂さん、間もなく身分情報は抹消されます。擬似死亡サービス規約に基づき、七日後、あなたは『交通事故による死亡』という形で処理されます。何か異議はございますか?」
朝菜は首を横に振った。
「異議なしです」
「かしこまりました。それでは、こちらの署名欄にお名前をお願いします」
彼女は一切の迷いも見せず、スラスラと自分の名前を書き記した。
あと七日――
それだけで、すべてに別れを告げられる。
第2話
すべての手続きを終えたあと、朝菜はぼんやりとした意識のまま、家に帰り着いた。
広すぎる部屋。
そこにはもう、征史の姿はなかった。
ただ、寒々しい静けさだけが満ちている。
冷蔵庫には、貼り付けたままのメモがあった。
征史の、癖のある柔らかな字で。
【食いしん坊ちゃん、冷たいものは食べちゃダメだよ】
【寒いから、ちゃんと厚着してね】
【世界で一番素敵な朝菜、どうか元気でいて】
部屋のあちこちに、彼の痕跡は残されていた。
大きな抱き枕のクマ。
征史が作詞してくれた手作りの落書きCD。
オーダーメイドの一粒ダイヤの指輪。
ガラスのように透き通ったブルーのクリスタルシューズ。
彼が編んでくれた、ピンクのうさぎのぬいぐるみ――
どこを見ても、彼がいた。
征史は、本当に細やかな人だった。
どんな小さな記念日も、欠かさず祝ってくれた。
毎年毎年、違うサプライズで自分を笑顔にしてくれた。
朝菜は、まっすぐに、心から彼を愛していた。
――それなのに。
気づけば、自嘲の笑みが漏れていた。
朝菜は荷物を一つ一つ丁寧に詰めていった。
あの千億円相当の指輪でさえも――彼女は貧困地域の子どもたちにすべて寄付した。
……ただ一つ、クリスタルシューズだけは残した。
朝菜は目を伏せ、小さくつぶやいた。
――最後の名残として、これだけは。
そのとき、スマホにビデオ通話が入る。発信者は征史だった。
彼の声は焦っていた。
「朝菜、なんで俺が贈ったプレゼント、全部寄付しちゃったの?」
朝菜の声は冷静で、穏やかだった。
「さっき、動画を一本見たの。貧しい地域の子どもたちが、お腹も満たせず、寒さに震えてるのを見て……なんか、すごく胸が苦しくなって」
その言葉に、征史は明らかに安堵した声を漏らす。
「さすが朝菜、優しいな……でも婚約指輪だけはダメだよ?あとで現地に電話して、二十億円分の物資を寄付するよ」
朝菜は天井を見つめながら、静かに言った。
「……そう。ところで、今どこにいるの?」
「え、ああ……こっちは緊急手術があってさ。たぶん今日はちょっと遅くなるかも。朝菜、眠かったら先に寝てて?」
「そう……」朝菜は言葉を継いだ。
「でも、今そっちから……女の人の声が聞こえた気がする」
征史は、息をのんだ。
彼の体は、今まさに真っ白な病院のベッドに横たわっていた。
その上には句美子が、彼にすり寄りながらいたずらっぽく舌を出していた。
彼女は唇を小さく動かし、無音でこう囁いていた――
「気持ちいい?」
征史は慌ててスマホを伏せ、深く息を吸い込むと、
優しげな声を作って応えた。
「……朝菜、聞き間違いだよ」
朝菜はそれ以上多くを語らず、いくつか言葉を交わしただけで電話を切って、荷物をまとめた始めた。
明日の朝には、この家を離れ、田舎の祖母の元へ帰るつもりだった。
軽くシャワーを浴び、ベッドに潜り込む。
……しかし、夜半。
耳元に、甘ったるく卑猥な声が響いた。
「んん……早すぎるよ、征史……もう我慢できない……」
隣のベッドから、微かに衣擦れの音が聞こえる。
男がネクタイを外す、鋭い音。
「誰に向かって口をきいてる、ちゃんと『兄さん』って呼べ」
その瞬間、朝菜は目を見開いた。
朦朧としていた頭が、一気に覚醒する。
朝菜が妊娠してから、征史は万が一にも彼女のお腹を傷つけないようにと、寝室にベッドを二つ置いた。
けれど――
今、かすかに開けた視界の先で、見たものは。
二つの影が、絡み合っていた。
ぐしゃりと心を踏みつけられるような、耐え難い屈辱感が込み上げる。
――どうして、そんなことができるの。
だけど、体に力が入らなかった。
まぶたを開けているだけでも、やっとだった。
句美子はわざとらしく、征史の肩に甘噛みして、くすぐるように囁いた。
「ねえ、兄さん。もし姉さんが目を覚ましたら、どうする?」
征史は低く笑った。
「朝菜は妊娠してからよく眠る。こんな時間に起きるわけないだろ?……じゃなきゃ、こんなことお前にさせない」
「だったら――」
句美子はわざと息を弾ませながら、長く甘い声を引き伸ばした。
「ねぇ、兄さん、姉さんを起こしてこれたら……口で、ごほうび、あげる~」
征史は眉を上げ、楽しそうに微笑む。
「小悪魔め。そんなこと言って、あとで後悔するなよ?」
「えへへ、兄さん、できるかなぁ?」
小悪魔のように挑発する句美子に、征史はほんの一瞬迷ったあと、ぺしりと彼女の太ももを叩いた。
「……待ってろ」
朝菜の体は、無意識にびくびくと震えた。
しばらくして、誰かの影がそっと近づいてきた。
ベッドの端に、征史が膝をついた。
優しく、彼女の肩に手を置く。
「朝菜」
その声は、信じられないほど優しかった。
でも、朝菜は動かなかった。
瞼も、唇も、指先すらも、微動だにしなかった。
そのとき、征史はふと気づいた。
彼女の頬には、一筋の涙の跡。
眉をひそめ、低くつぶやいた。
「……悪い夢でも見たのか」
征史はそっと、朝菜の額に手を当てた。
次の瞬間、顔色を変える。
「朝菜……!?熱があるじゃないか!」
朝菜は目を開けなかった。
意識が朦朧とする中で、彼に身を任せるしかなかった。
冷たいタオルを換えられ、抱き上げられ、口元に薬を押し当てられる。
それが、どれくらい続いただろう。
征史は焦りながらも、懸命に世話を焼き続けた。
そんな中、甘ったるい声が割って入る。
「ねえ、兄さん……」
句美子だった。
征史は顔を上げることもなく、冷たく言い捨てた。
「今はそれどころじゃない……どけ」
句美子はそれでもめげなかった。
するりと征史の腕に絡みつき、甘えるように言った。
「邪魔しないよ。姉さんの看病は兄さんがして……私は、兄さんを癒してあげる」
そう言って――
句美子は征史の太ももに顔を埋めた。
征史の体が、びくりと強張った。
だが、拒絶することはしなかった。
朝菜には、征史の喉がごくりと鳴る音がはっきり聞こえた。
心臓が、高鳴っているのも。
胃の中に流し込まれた薬が、逆流してきそうだった。
吐き気がした。
でも、どうしても吐けなかった。
見えない場所で、句美子が小指で朝菜の脚を、くい、と引っかいた。
まるで、「知ってるよ、起きてるんでしょ?」と囁くように。
征史の体はさらに硬直する。
震える声で絞り出した。
「……もういい、句美子」
しかし句美子は、濡れた瞳で見上げてきた。
「……兄さん、いやだった?」
征史は短く答えた。
「……いやじゃない」
そのまま、彼は朝菜をベッドに寝かせると、句美子を抱き上げ、浴室へと急ぎ足で消えていった。
――シャワーの音が、壁越しに激しく響く。
けれど、それでも、二人の声は聞こえてきた。
第3話
朝菜は高熱で寝込み、何日も意識が朦朧としていた。
ようやく熱が引き、目を覚ましたとき――
キッチンから漂ってきたのは、甘ったるい匂いだった。
そこにいたのは句美子だった。
彼女は手にスープの鍋を持ちながら、朝菜ににこりと微笑みかけた。
「お姉さん、やっと起きたの?鶏スープ煮てるんだ、飲む?」
その手には、鋭く光るフォークが握られている。
句美子はそれを、ガスコンロの火にかざして、じりじりと炙っていた。
朝菜は何も言わず、無表情のまま通り過ぎようとした。
けれど――
「きゃっ」
突然、句美子が悲鳴をあげた。
手に持ったスープの鍋ごと、床に倒れ込む。
なんと彼女は、熱々に焼けたフォークを、ためらいもなく自分の手首に押し当てた。
じゅっ、と嫌な音がした。
朝菜の右目のまぶたが、ぴくりと跳ねた。
次の瞬間、句美子は顔色を真っ青にして、涙声で言った。
「お姉さん、私のこと嫌いなのはわかるけど……お願い、追い出さないで。私、ちゃんといい子にするから……」
そんな中、征史が家に戻ってきた。
ドアを開けた彼は、床に倒れている句美子を見た途端、慌てふためいた。
「句美子!?大丈夫か!?」
駆け寄り、彼女を抱き起こすと、すぐに焼けただれた手首に気づく。
赤く腫れ上がった傷口を見て、顔をこわばらせた。
「一体どうしたんだ!」
句美子はすすり泣きながら、朝菜をちらりと見て、か細く言った。
「お姉さんが……私が兄さんを誘惑したって怒って……それで、私、びっくりして、火傷しちゃった……」
征史は朝菜を睨んだ。
その目には、明らかに怒りの色が宿っていた。
「句美子は、ただの子どもだ。そんなこと、するわけないだろう。
それに、彼女はお前の妹だ。お前の看病だって、何日も寝ずにしてくれてたんだぞ……どうして、そんな無理を言うんだ?」
こんなにも、征史に怒鳴られたのは、初めてだった。
喉が塞がったみたいで、朝菜は何も言えなかった。
句美子は、怯えたように彼の腕をぎゅっと掴み、震える声で続けた。
「ごめんなさい……全部私が悪いの。私なんかがここにいるのが間違いだったのに……」
征史は、句美子をそっと抱き上げた。
「いい子だ……お前のせいじゃない。病院に行こう」
そのまま足早に彼女を連れて出ていく。
広い家の中には、再び朝菜一人だけが取り残された。
時計の秒針の音だけが、静かに響く。
ぽつん、と立ち尽くしていると――
スマホが震えた。
声を聞いた瞬間、胸が冷たくなる。
「……朝菜?今すぐ帰ってきなさい。おばあさん、もう……長くないのよ」
近所のおばさんの、震えるような声だった。
「……え?」
耳を疑った。
「ずっと病気を隠してたんだよ。あんたに心配かけたくなかったんだろうね。
でももう……たぶん、最後に一目会いたいんだと思うよ」
朝菜は、その場に立ちすくんだ。
両親は、早くに離婚した。
どちらも、彼女のことを荷物のように扱った。
たった一人、拾った瓶やダンボールを売りながら、必死に育ててくれたのが――
おばあさんだった。
結婚してからも、頑なに一緒に住もうとせず、「迷惑をかけたくない」と、離れた場所で暮らしていた。
それが、彼女なりの愛だった。
涙が、堰を切ったようにあふれた。
朝菜は何も考えずに飛び出した。
駐車場に向かい、征史の車を必死に叩く。
征史は、眉をひそめ、明らかに不機嫌そうだった。
「何の用だ?」
朝菜は、携帯をぎゅっと握りしめた。
必死に、喉の奥から声を絞り出す。
「征史、お願い。一緒に実家まで送って……おばあさんが……もう……」
彼も知っているはずだった。
朝菜の家がどれだけ遠く、今すぐ行かなければ間に合わないことを。
けれど、征史の目は冷たく光った。
「朝菜、俺を引き留めたいなら、もう少しマシな言い訳しろよ……どけ」
吐き捨てるように言うと、アクセルを踏み込んだ。
朝菜は必死に車の窓を叩き、今にも泣き崩れそうだった。
「征史……お願い……嘘なんかじゃないの!
おばあさんは……私にとって、たった一人の家族なの……!」
声が震え、喉が枯れそうになる。
「二十年以上、私はあなたに何も求めたことなかった。
でも……今だけ、今だけは……お願い、子どももいるんだから……!」
彼女の声には、どうしようもない無力感と、深い絶望が滲んでいた。
隣で、句美子が小さくすすり泣いた。
涙に濡れた瞳で、征史を見上げる。
「兄さん……姉さんを送ってあげて。
私は大丈夫だから……家族のほうが、ずっと大切だよ……」
それを聞いた征史は、たまらず句美子の手を握りしめた。
「句美子……そんなに無理しなくていい。
お前の手はピアノを弾くためにあるんだ。手遅れになったらどうする。
彼女は――」
征史は朝菜に冷たい視線を投げた。
「ここまで悪どい女、百回死んだって足りないくらいだ」
そう言うと、迷うことなくアクセルを踏み込んだ。
向かった先は、病院だった。
朝菜の目尻は、もう涙も出ないほど乾いていた。
痛むお腹を抱えながら、彼女は必死に立ち上がって、タクシーを呼ぼうとした。
けれど、何度アプリを開いても、誰も応じてくれない。
時間だけが無情に過ぎていく。
仕方なく、親友に電話をかけた。
やっと駆けつけてくれた親友は、朝菜の顔を見るなり息を呑んだ。
「朝菜……!?顔色、どうしたの?征史は?」
朝菜は震える唇で、事情を手短に説明した。
「……お願い、急いで」
親友はすぐにハンドルを握り、怒りをにじませながら叫んだ。
「何それ!最低すぎる!
朝菜、車に救急箱があるから、先に手だけ消毒して。
うち、今から飛ばすから!」
言われて、朝菜は初めて気づいた。
自分の手の甲に、長く深い傷ができ、血がにじんでいることに。
かつてなら――
ほんの小さな擦り傷でも、征史はすぐに気づいて、真っ先に手当てしてくれたのに。
でも今は……
彼女も、お腹の中の子どもも、句美子の足元にも及ばない存在だった。
朝菜の瞳に、ゆっくりと憎しみが浮かび上がる。
自分でも、あまりに愚かだったと気づいた。
こんな男が戻ってくるかもしれないと、少しでも期待した自分が――
馬鹿みたいだ。
――「百回死んだって足りない」って、そう言ったのよね?
なら――
本当に「死んで」みせる。
この子と一緒に、あんたの世界から完全に消えてやる。
「二人まとめての死」なら、さすがに目に焼きつくだろう?
何千回、何万回後悔しても――
もう、私を見つけることなんてできないから。
第4話
朝菜は、結局――祖母の最後に、間に合わなかった。
隣のおばさんは、悔しそうに首を振った。
「あと……たった三十分早ければね。
本当に、惜しかったよ……」
そう言って、ひとつの小さな木箱を手渡してきた。
朝菜は震える指で、それを受け取った。
箱の中には、びっしりと思い出が詰まっていた。
小学校の頃にもらった賞状、くるくる回る小さな風車のおもちゃ、そして――
もうずっと前に賞味期限が切れた、包み紙の色あせたミルクキャンディ。
幼い頃、甘いものが大好きだった自分に、「虫歯になるから」と、祖母はいつもキャンディを隠していた。
なのに、大人になった今、祖母が差し出したキャンディを、自分はもう受け取れなかった。
――取り返しのつかない時間。
胸が、痛かった。
箱の一番底に、ふくらんだ赤い封筒があった。
封筒の表には、拙い字でこう書かれていた。
「私の大切な朝菜へ」
中には、びっしりと詰まった紙幣。
大切に、大切に貯めたお金だった。
朝菜は、祖母に新しい服を着せた。
火葬場へと送り、戸籍も正式に抹消して――
胸に抱えたのは、たった一つ、小さな骨壷だけ。
帰宅した家には、祖母が生きたままの空気が、まだ漂っていた。
新品の洗濯機、食洗機、洋服ダンス。
どれも使われることなく、梱包すら解かれていない。
「もったいない」
そう言いながらも、祖母はご近所に自慢していた。
――うちの孫が、買ってくれたんだって。
「わん、わん」
ふわふわの小さな犬が、しっぽを振りながら駆け寄ってきた。
足元にちょこんと座る。
朝菜はその頭を撫でながら、かすかに微笑んだ。
「……シュガー、もう、あなただけになっちゃったね」
犬は事情も知らず、嬉しそうに彼女の手に身体をすり寄せた。
祖母の葬儀の前日。
征史が、姿を現した。
黒いスーツに、胸元には白い花。
きちんとした弔いの装いだった。
「朝菜、ごめん、遅くなって……」
朝菜の親友は、怒りを爆発させた。
彼のもとへ駆け寄り、叫ぶ。
「今さら何しに来たの!?朝菜があんなに必死でお願いしてた時、どこにいたんだよ!?あんた……!」
けれど、朝菜は静かに首を振った。
「もういいよ」
穏やかな声だった。
それが、かえって痛かった。
「なにそれ!?朝菜、なんでそんなに簡単に許すの!?」
親友は歯ぎしりして、涙をこらえた。
朝菜は視線を伏せ、手の中にある骨壷をそっと撫でた。
「おばあさん……生前は、あの人のこと、すごく気に入ってたんだ」
昔、征史はよく祖母を訪ねてきていた。
そのたびに、祖母は冗談めかして言ったものだった。
――こんなにイケメンじゃ、そのうちうちの宝物を放り出すんじゃないかねえ。
そのたびに、征史は耳まで真っ赤になり、朝菜の手をぎゅっと握った。
「俺の一生、愛するのは朝菜だけだ。二十年ずっと好きだったし、これからも、ずっと、ずっと。
もしこの誓いを破ったら――心臓を取り出して、命で償う!」
祖母は、くしゃくしゃに笑って言った。
――そんな怖い誓いまでできる子なら、安心して任せられるね。
宝物のような孫娘を、彼に託すことに、何のためらいもなかった。
朝菜は、苦笑いを浮かべた。
「……おばあさん、人の心って、変わっちゃうんだよ」
征史は、目を伏せたまま呟いた。
「朝菜……すまない」
「おばあさんの後のことは、執事に任せた。今までずっと、大変だったね」
彼はまだその場を動こうとしなかった。
朝菜は静かに顔を上げた。
「……何か、用?」
征史は、彼女の手にあった酒瓶を取り上げた。
その目には、痛々しいほどの優しさが滲んでいた。
「全部……俺が悪かった。でも、朝菜、お前は胃が弱いんだ。酒なんか飲んだら、身体に障るだろ……」
朝菜は何も答えず、無表情のままその場を離れた。
深夜、朝菜のスマホが震えた。
画面を開くと、そこには句美子からのメッセージ。
送られてきたのは、一枚の写真。
征史が、句美子の顎を膝で引き寄せ、親密なポーズを取っている。
【姉さん、お金に困ってるんだって?なら、葬儀場に来て、絵でも描いてよ。六億、払ってあげる】
朝菜は、指が白くなるほどスマホを握りしめた。
そうだった。
今の自分には、どうしてもお金が必要だった。
国外へ――この地獄から離れるために。
残り、三日。
朝菜はこのつらい日々の中、ただ――
ただ征史の「ごめん」の一言だけを、毎秒のように待ち続けていた。
けれど、返ってきたのは裏切りと、耐え難いほどの屈辱だけだった。
あと三日。
すべてが終わる。
この茶番も、やっと――完全に、終わる。
葬儀場の奥、誰にも気づかれない小さな屋根裏。
朝菜はイーゼルを立て、静かに身を潜めた。
下では、散らばった花輪の中で、男と女の声が激しく響いていた。
甘ったるく、どこか狂気を孕んだ声。
「兄さん……もう無理、食べられない……」
「葬儀でこんなドレス着て……句美子、そんな格好で俺を誘ったんだ。その代償、覚悟してるよな?」
征史は句美子の顎をつかみ、指を口の中へ無遠慮に押し込んだ。
「いい子だ、句美子。吐かないで、ちゃんと飲み込め」
句美子は、涙声になりながらも必死で応えていた。
「んん……やだぁ、兄さん、ひどい……服までぐちゃぐちゃ……」
征史の声は、しわがれた低音になっていた。
「ちょうどいい。今度、新しいのを買ってやる。俺のために着ろよ」
その間にも、朝菜の手は止まらなかった。
絵筆が紙の上を、怒りのままに暴れた。
無心で、ただひたすらに描き続ける。
キャンバスの上の征史は、かつての純真な少年ではなかった。
欲望に満ちた目をして、義妹に手を伸ばしている。
思い出す。
十七歳の春。
桜の下で、無邪気に笑って近づいてきたあの少年を。
――それが、三十歳になった今、葬儀の祭壇の前で、義妹に向かって、ベルトを外した。
なぜ?
なぜ、自分はもう彼を手放すと決めたのに、こんなにも胸が苦しくて、泣きたくなるの?
朝菜は、ぎゅっと絵筆を握りしめた。
裂けるような音が響いた。
あまりに強く紙を押し付けたせいで、絵が破けてしまった。
そのとき、低くしぶい声が響いた。
「誰だ、そこにいるのは?」
一瞬、空気が凍った。
句美子は、くすくすと笑った。
「兄さん、気のせいだよ。ここはお葬式だもん、誰もいるわけないよ。
……もしかして、後ろめたいことがあるから、幽霊でも怖いんじゃないの?」
征史は、鼻で笑った。
「俺が、そんなもの怖がると思うか?」
句美子はさらに甘えるように囁いた。
「じゃあ、兄さん、何が怖いの?」
征史は、甘く、どこか狂った声で答えた。
「お前に溺れて、いつか死ぬんじゃないかって、怖いんだよ」
句美子は、朝菜の潜んでいる方向に得意げに視線を投げた。
同時に、朝菜のスマホに次々とメッセージが届く。
【こんなに愛されること、姉さんにはなかったよね?】
【六億は振り込んでおいたから。絵はあなたの手元に残していいよ。兄さんの「愛」、記念にすれば?】
朝菜は無表情のまま、イーゼルを片付け、静かにその場を離れた。
第5話
翌朝。
葬儀場はすっかり片付けられていた。
朝菜は静かに目を逸らした。
――もし、あの棺のそばに、あんな……汚らしい避妊具が落ちていなければ。
昨夜の悪夢も、全部ただの幻だと思えたかもしれないのに。
征史が入ってきた時、彼もそれを見つけた。
表情が、さっと強ばる。
征史は何も言わず、さりげなく朝菜の前に立ちはだかった。
けれど朝菜は、まるで何も見えなかったかのように、無関心に彼をすり抜けた。
祖母の遺影と骨壷を抱え、静かに葬儀場を後にする。
その後、征史は句美子に鋭く詰め寄った。
「……お前、何考えてる!?
あんなもの、ちゃんと片付けろって言っただろ!
万が一、朝菜が気づいたらどうするんだ!」
句美子は不満げに唇を尖らせた。
「だって、お姉さん、見てなかったじゃん。
そんなに怒ることないでしょ?」
征史の目はさらに暗くなる。
「……俺は、朝菜に誓ったんだ。
この命を懸けて、彼女だけを愛し続けるって。
もし、俺たちのことがバレたら……」
声が低く重く沈み、まるで空気が凍るようだった。
「俺は朝菜を失うくらいなら、死んだほうがマシだ」
その一言に、句美子は一瞬だけ怯んだ。
葬儀の日。
小雨が静かに降り始めた。
征史は黒い傘を差し、朝菜の隣に寄り添った。
「朝菜、濡れたら風邪ひくよ」
そっと声をかける。
だが朝菜は、無言で彼を押しのけ、前へ進んだ。
そのとき。
「きゃっ……!」
句美子が、わざとらしく足を滑らせた。
とっさに前にいた朝菜にしがみつく。
避ける間もなく、朝菜の手から骨壷が叩き落とされた。
パリン――
無情な音を立てて、骨壷は砕けた。
祖母の骨は、雨に濡れながら地面にこぼれ落ちた。
朝菜の瞳孔が、ぎゅっと縮まった。
次の瞬間。
朝菜は反射的に、句美子に平手打ちを食らわせた。
パチン、と乾いた音が鳴る。
句美子は痛みに顔を覆い、すぐに泣き出した。
「ごめんなさい、お姉さん……わ、わざとじゃないの。
道が滑ってて、足をくじいちゃって……骨壷、壊れたなら、もっと高いの買って弁償するから……」
その言葉に、朝菜の中で怒りがさらに燃え上がった。
もう一度手を振り上げようとした――
けれど。
征史が、朝菜の手首をガシッと掴んだ。
顔を厳しく歪めて。
「朝菜、やめろ。句美子に手を出すな……死人の灰なんかより、生きてる人間のほうが大事だろう!」
朝菜のこぶしは、ぎゅっと震えた。
目の端が、痛いほど熱くなる。
「……征史、あんたにとって、彼女はそんなに大事なの?」
征史は、苛立ったように眉を寄せた。
「朝菜……いい加減、冷静になれよ。最初に手を出したのは、お前だろう?」
朝菜は、真っ赤な目で彼を睨みつけた。
そして、その手を振り払った。
征史はしゃがみこみ、句美子の足首を優しくさすった。
「痛くないか?」
その様子を見て、句美子は涙を滲ませながらも、瞳の奥で勝ち誇ったように笑った。
「ううん、大丈夫だよ、兄さん」
征史は、片腕で句美子を抱き上げた。
もう片方の手には、彼女の脱げたヒール。
それは――
かつて、十八歳の誕生日に征史が朝菜に贈った、ブルーのクリスタルシューズだった。
ふたりは、雨のカーテンの中へと消えていった。
朝菜は、静かにしゃがみこんだ。
濡れた地面に、指先を伸ばす。
けれど、どれだけ手を伸ばしても、砕けた骨は、もう二度と集められなかった。
灰は、ただただ冷たい雨に打たれて、静かに溶けていく。
ふと、袖口にふわりと白いものが舞い降りた。
それは、小さな白い蝶だった。
朝菜は、動けずに立ち尽くす。
滲んでくる涙が、止められなかった。
その夜、ネット上では新たな動画が拡散されていた。
――征史が句美子をお姫様抱っこしている映像だった。
「きゃあああ!これって、征史さんと奥さん!?
片手でお姫様抱っことか、尊すぎる~~!!」
無邪気な歓声と、祝福のコメントが溢れていた。
誰も、真実を知らないまま。
「ふたり、まるで小説の主人公みたいにお似合いだね!」
「聞いた?征史さん、十七歳のときに、彼女のためにブルーのクリスタルシューズ作ったんだって!」
「もちろん本当だよ!今動画で征史さんが持ってたあの靴だよ!
まるで王子様とシンデレラじゃん、超ロマンチック~!」
そんな中、ひとつのコメントがひっそり流れた。
「ん……でも、この女の子、朝菜さんとちょっと違わない?」
「え?なに言ってんの。
征史さんがあんなに愛してるの、間違いっこないでしょ!」
コメント欄は、甘い祝福で埋め尽くされていた。
そのうち、ひとつの投稿が一気に話題をさらった。
【みんな心配してくれてありがとう~。さっき足を捻っちゃって、今は征史が薬塗ってくれてるよ】
添えられた写真には――
血管が浮き出た男の手が、優しく綿棒を握り、薬を塗る様子が写っていた。
その手には、はっきりと結婚指輪が。
興奮したファンたちは、顕微鏡レベルで画像を解析し始めた。
そして、写真の端に――
破れた黒いストッキングの一部が、かすかに写り込んでいるのを発見した。
コメント欄は瞬く間に大騒ぎになった。
「きゃああああ!!!薬塗るだけじゃなかったの!?
私まだバカップルで喜んでたのに、あんたらもう濃厚展開いってるじゃん!!」
「征史さん……さすが……もう『朝史カップル』全力推し!!!」
やがて、あの投稿はこっそり削除された。
【ごめんね~征史に怒られちゃった~】
――むしろ火に油を注ぐ結果になった。
その頃。
朝菜は、雨の中に膝をついていた。
冷たい泥に手をつき、ぐちゃぐちゃになりながら。
心臓は――
まるでごっそりとえぐり取られたみたいだった。
感情も、痛みも、すべて空っぽになって。
ただ、壊れた身体だけがそこにあった。
あと二日。
征史――
今、私が味わってるこの絶望は何千倍にもなって、必ずあんたに返してやる。
覚悟はできてる?
生きてるほうが地獄だってこと、教えてあげる。
第6話
疲れきった体を引きずり、家に戻った朝菜。
けれど――
玄関先には、顔を真っ青にした征史が立っていた。
一瞬、素通りしようとした。
だが次の瞬間、バシン、と鋭い音が響いた。
征史の手が、容赦なく朝菜の頬を打った。
ほてるような痛み。
顔半分がすぐに腫れた。
「薬はどこだ!!」
怒声が飛ぶ。
視線の先、句美子が地べたにうずくまり、苦しそうに痙攣していた。
顔は蒼白で、息も絶え絶えだった。
「句美子は心臓が悪いんだぞ!たとえ、お前が怒ってたにしても……
だからって、薬を隠すなんて、殺す気か!!」
征史の怒りは頂点に達していた。
「この薬は、海外の特別な研究所で作られたんだ。普通の病院には置いてない。俺は医者だ。目の前で彼女を見殺しにするなんて、絶対にできない!薬はどこに隠した!?答えろ!!」
朝菜は、黙って彼を見つめた。
ただ、まっすぐに。
その無言の眼差しに、征史は一瞬たじろいだ。
――まるで、すべてを知っているかのように。
心のどこかに、重く冷たい不安が広がっていく。
こんなふうに、朝菜に手を上げたのは初めてだった。
後悔と、戸惑いと、罪悪感。
それでも。
「……悪いのは、お前だろう」
そんなふうに、自分に言い聞かせた。
沈黙の中、句美子は震える手で机の角を指さした。
その視線の先には、ピクリとも動かない小さな犬。
「兄さん……薬……たぶん、あそこ……ワンちゃんが……食べちゃったかも……」
征史はぎょっとして、そちらを見た。
確かに。
床には、蓋が開いたままの薬瓶と、散らばった白い錠剤が落ちていた。
句美子は、薬を飲み終えると、無造作に小さな犬の遺体を足で蹴り飛ばした。
彼女は分かっていた。
この犬が、朝菜にとって最後の心の支えだということを。
だから――
あえて、心臓の薬を犬の餌に混ぜた。
すべては計算づく。
一石二鳥。
朝菜を、完璧に打ちのめすために。
征史は、その光景を見て、体を強張らせた。
……違う。
朝菜じゃなかった。
自分は――
何も知らない朝菜を、あんなふうに責めて、叩いてしまったのだ。
征史は、己の頬を何度も平手打ちした。
顔に紅い痕が滲む。
「朝菜……ごめん……俺、取り乱してた……」
震える声で謝りながら、そっと彼女に手を伸ばそうとした。
しかし、朝菜は冷たく身を引いた。
その拒絶に、征史の胸は激しく痛んだ。
それでも、朝菜は一瞥もくれなかった。
ただ、無言で小さな犬の亡骸を見下ろし、そして、静かに自室へと戻った。
鍵が、かちりと閉まる音が響く。
それから、何時間も。
征史は食事やスイーツを運び続けた。
けれど、どれも手付かずのまま、冷たくなっていった。
胸が、締め付けられるように苦しかった。
堪えきれず、句美子に怒りをぶつける。
「……お前、どういうことだ!朝菜が薬を隠したって、言ったじゃないか!」
句美子は、シュンとしながら小さな声で答えた。
「ごめんなさい……姉さんを、勘違いしちゃった……」
「勘違い……?お前、どれだけ重大なことをしたかわかってるのか!」
怒鳴りながら、征史は言葉を続けた。
「シュガーは、朝菜とおばあちゃんが一緒に拾った子だ。
おばあちゃんが亡くなった今、シュガーまでいなくなったら……朝菜がどれだけ辛いか、考えたことあるか!」
句美子は泣きそうな顔で呟いた。
「ごめんなさい……私、本当にあの薬が犬にそんなに悪いって知らなかったの……」
その時。
バタン、と勢いよくドアが開いた。
朝菜だった。
完璧にメイクを施し、きれいに着飾った姿で。
彼女は一言も発さず、颯爽と家を出た。
征史は、心配でいてもたってもいられず、車を出して朝菜のあとをつけた。
彼女が向かったのは、町の小さなカフェだった。
ガラス越しに覗くと、朝菜の向かいに座っていたのは――
穏やかな笑顔を浮かべる、スーツ姿の男性だった。
ふたりは、時折微笑みながら話している。
胸がざわめく。
征史は、窓際に耳を寄せて、何を話しているのか聞こうとした。
でも、声ははっきりとは届かなかった。
カフェの中。
朝菜は、にこやかに会釈した。
「久しぶりですね、先輩」
雪村公生(ゆきむら きみお)は、テーブル越しに一通の推薦状を滑らせた。
穏やかに微笑みながら言う。
「やっと決心がついたんだね。先生も、ずっと君のことを気にしてたんだよ」
朝菜は、推薦状の金色の文字を指先でなぞりながら、静かに呟いた。
「先生には……もったいないくらいのご厚意をいただきました。
……ご高齢なのに、お体のほうは……?」
ふたりは、しばらく懐かしい話を交わした。
店を出ると、征史がカフェの前で待っていた。
目尻はわずかに赤く染まり、どんなに鈍い人間でも、何かがおかしいと気づくほどだった。
「朝菜……そんなに失望したのか?
俺から、離れるつもりなのか?」
朝菜の瞳には、もう光がなかった。
彼女は淡々とした声で返す。
「……私に、失望する理由があると思う?」
征史は、彼女の視線の奥に――
まるで、自分をすり抜けて、昔の自分を見つめているような錯覚を覚えた。
どうして、こんな気持ちになるんだろう。
視線を落としながら、征史は苦しそうに口を開いた。
「……句美子の薬を、お前が隠したって疑った。俺が、間違ってた」
朝菜は、無表情のまま小さく頷いた。
「句美子は……私の妹だもの。そんな子どもと、いちいち争ったりしない」
その言葉に、かえって征史は息が詰まった。
今までにない焦りと、胸を締めつけるような不安が、押し寄せてくる。
――このままじゃ、本当に彼女を失ってしまう。
征史は歩み寄ると、朝菜の手を強く握った。
「朝菜、怒ってくれていい。殴ってくれてもいい。だけど……」
暗い瞳に、悲しみが満ちていく。
「……お願いだから、俺を無視しないで」
朝菜は、黙って彼を見つめた。
何も言わず、何も答えず。
……少し、笑いたくなった。
征史が、こんなにも自分にすがるなら――
なぜ、最初から裏切ったのか。
なぜ、あんなにも酷く、自分を傷つけたのか。
まるで何かを証明したくて仕方がないように、征史は慌ただしくポケットを探った。
そして、胸元から一枚の古びた御守りを取り出した。
目元を赤く染めながら、彼は言った。
「朝菜……この御守り、覚えてるか?
あのとき俺、集中治療室で昏睡してて……
君は、天竹峠を這うように登って、ひとつひとつ膝をついて、これを願ってくれたんだ」
それは、ずっと心の奥に封じ込めていた記憶だった。
医者からは、危篤だと告げられ――
家族に覚悟をするよう宣言された日。
十八歳の少女は、もう二度と彼が目を覚まさないと思い込み。
泣きながら、天竹峠を、一歩ごとに膝をつきながら登っていった。
たった一つの希望を、神さまにすがって。
あれから二十年以上。
彼女の膝が血だらけになりながら、御守りを差し出したあの姿を思い出すたび。
征史の胸には、鋭くて細かな痛みが走る。
それは、今も変わらない。
征史の目に、どうしようもない哀しみがにじんだ。
「……この御守りで、願いを一つだけ叶えたい、朝菜……もう一度だけ、チャンスをくれないか?」
朝菜はじっと、彼を見つめていた。
征史の声は弱々しく、視線すら恐る恐る彼女に向けるほどだった。
それでも――
朝菜は、ふっと笑って見せた。
「うん、いいよ」
「……ほんとに?!」
征史はまるで、子供のように顔を輝かせた。
だけど彼は気づかなかった。
朝菜のその笑みの奥に――凍てつくような冷たさが広がっていることに。
征史――
私は、あなたを許すよ。
裏切りも、無関心も、重ねられた失望も、全部。
でもね――
それは、私があなたの世界から「完全に死ぬ」ってこと。
幻想を壊して、あの白いバラを血で染める。
あなたの胸に刻み込む、消えない紅い痣にしてやる。
その痣はやがて――
鋭い刃になって、何度でもあなたを刺す。
……確実に、命を削るほどに。
第7話
翌日。
朝菜のスマホに、句美子からのメッセージが届いた。
【姉さんの旦那様、まだ私の上から降りてくれないよ……来る勇気、ある?】
朝菜は、何も返信しなかった。
鋭い刃は、いつだって決定的な瞬間に抜かれる。
そして、狙いを外さず、心臓を貫く。
朝菜が高層ビルにたどり着いた。
ここは、かつて征史が朝菜に初めて告白し、プロポーズした場所。
高層ビルの屋上、A市の夜景を一望できる特別な空間だった。
ふたりだけの秘密基地。
喧嘩した時も、仲直りした時も、自然とここへ足が向いた。
朝菜が辿り着いた時、扉は半開きになっていた。
中は、美しく飾りつけられていた。
頭上には無数の星のようなライト、まわりには無数の氷色のバラが敷き詰められ、まるで氷の宮殿のような光景だった。
その奥から、懐かしいギターの音色が聞こえてきた。
前奏だけで、朝菜には分かった。
――征史が、かつて自分に捧げた、あの告白の歌だ。
桜の下、少年だった征史が、笑顔でギターを奏でながら、こう言った。
「朝菜、俺の彼女になってくれる?」
あの頃の輝きが、胸を締め付ける。
だが今――
この音色の向こうにあるのは、別れの痛みだった。
室内から、句美子の震える声が漏れてきた。
「兄さん、お願い……拒まないで……私、ちゃんといい子にするから。
絶対に、姉さんにはバレないようにするから……」
征史は冷たい口調で言い放った。
視線すら向けずに。
「出て行け……もう決めたんだ。
朝菜とやり直すって、これが最後のチャンスなんだ。
誰にも邪魔はさせない」
「でも、まだ八時まであと三十分あるよ?お姉ちゃんには見つからないって……」
句美子はそっと服をずらし。
中に着ていた、レースの下着がわずかにのぞいた。
「兄さん……これが最後。これが終わったら、もう何も言わない。
お姉ちゃんと幸せになって。
私は……何もなかったことにするから……」
征史の喉が詰まり、言葉を失った。
「お前……」
一瞬の沈黙。
その後、部屋の奥から――
女の、かすれた吐息がこぼれた。
「……声、我慢すんな。あと三十分で、朝菜が来る。それまでに終わらせろ」
屋内では、ベッドが軋む激しい音が響いていた。
その場には、思わぬ来訪者もいた。
征史の両親だ。
こっそり様子を見に来て、思わぬ光景を目にし、顔を見合わせて吹き出していた。
「いやぁ、うちの子も大人になったもんだねぇ。許婚って、やっぱり正解だったわ!」
母親は、周囲の豪華な飾り付けを嬉しそうに眺めながら言った。
「これぞ本物の『金の宮殿で愛を育む』ってやつだねぇ」
父親はふんと鼻を鳴らし、苦笑まじりに言った。
「まったく、最初から句美子を選ばせりゃよかったんだ。あの朝菜なんかにこだわるから、無駄な苦労ばかりして……明日になったら、句美子にグループの5%の株を渡してやる。これでもう、誰にもバカにされないだろう」
「でも……朝菜のこと、どうするの?」
母親は、不安そうに顔を曇らせた。
「ふん、何を心配することがある」
父親は鼻で笑った。
「嫁なんて、元々家のために尽くすために迎えるもんだ。三人も四人も女を抱えるくらい、男として当然だろう?子どもができないのは、あいつ自身のせいだ。句美子に子どもができたら、すぐに離婚させるさ」
朝菜は、冷ややかな目で彼らを見つめていた。
かつて――
征史の父親が病で倒れたとき、誰よりも世話をしたのは自分だった。
彼の母親がうつ病を患ったとき、そばに寄り添い、少しずつ笑顔を取り戻させたのも、自分だった。
けれど今、彼らの口から出るのは、ただ損得と打算だけ。
この何年もの尽力は、何だったのだろう。
朝菜は、静かにその場を後にした。
ビルを降り、朝菜は一台の車に乗り込んだ。
一時間後。
征史は、自分がどんなに残酷な裏切りを犯したかを知る。
そして、彼女が絶望し、交通事故で命を落とす――その事実を。
朝菜は、心の底からそう思っていた。
彼にも、生き地獄を味わわせてやるのだ、と。
運転手は、バックミラー越しに尋ねた。
「……本当に、いいんですか?」
朝菜は、感情を殺したまま、静かにうなずいた。
「……いいんです。行ってください」
その頃、摩天ビルの最上階では――
ギターの弦が、ぷつりと切れた。
征史は、手早く身なりを整え、辺りを軽く片付けた。
「リハーサルはこれで終了だ。
もうすぐ朝菜が来る……句美子、お前は今から国外へ送る」
征史の心が、もう決まっていることくらい。彼女にはわかっていた。
それでも――
その瞳は涙に滲み、声が震えていた。
「兄さん……最後に、もう一度だけ……私を見て」
征史は、無表情のまま句美子の手を冷たく引き剥がした。
そして、ためらうことなく電話をかける。
「こっちは準備完了……彼女を、連れて行ってくれ」
句美子は、絶望の叫び声をあげた。
けれど、征史の心は一ミリも揺るがなかった。
針が、ちょうど八時を指した。
次の瞬間――
摩天ビルの外で、轟音と共に、無数の花火が打ち上がった。
夜空を埋め尽くす光の雨。
星が降り注ぐような、幻想的な景色だった。
東風の夜に、花が千本咲き乱れ、流れ落ちる星屑のように、きらめきながら散っていく。
この壮大な光景は、征史が朝菜のためだけに用意したものだった。
そのために、十億円を惜しみなく費やして。
街の人々は、驚きの声を上げ、こぞってスマホを構え、この奇跡の瞬間を記録していた。
しかし――
誰も気づかなかった。
その華やかな輝きの裏で、暗い道路の隅で、二台の車が激しく衝突したことに。
救急車のサイレンが遠くから響き渡る。
三人の負傷者。
そのうち一人は、妊婦だった。
征史は、摩天ビルの中で朝菜を待っていた。
胸いっぱいの期待を込めて。
彼女が来れば、また昔のように戻れる。
夕暮れの海辺を手をつないで歩き、彼女が疲れたら、おんぶして星空を見上げる。
――そんな未来を、夢見ていた。
八時十分。
彼女は来なかった。
八時三十分。
それでも来なかった。
九時五分。
どれだけ待っても、朝菜の姿はなかった。
空っぽの部屋。
胸に広がる、言いようのない不安。
征史は、何度も何度も電話をかけた。
でも、応答はなかった。
心臓が、ぎゅうっと締め付けられる。
右のまぶたが、ぴくぴくと痙攣し続ける。
――悪い予感がする。
そんな中、携帯が震えた。
慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし!?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは――
「……もしもし、こちら、救急センターです。
春坂征史さんですね?奥様が……交通事故に遭いました」