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情は山や月の如くあらず
幼なじみと弟が、我が家に身を寄せることになった貧しい少女に、そろって恋をした。 気づけば、家族の愛も、恋心も、すべて彼女のものになって...
Chương (1)
第1章
幼なじみと弟が、我が家に身を寄せることになった貧しい少女に、そろって恋をした。
気づけば、家族の愛も、恋心も、すべて彼女のものになっていた。
私にはもう、何も残っていなかった。
だから私は、この家から——いいえ、この世界から、静かに消えることを選んだ。
だけど、
「死ねばいいのに」
そう言い放ったあの人が、私を探して狂ったように彷徨い始めたのは、皮肉にも私がいなくなったその後だった。
第1話
「理事長、特許を国に提出し、医科学研究所に入る決意をしました」
言葉を聞いた理事長は思わず立ち上がった。
「素晴らしい決断です、白河さん。この特許は、何百、何千という患者の命を救えるでしょう。
ただ、これは国家機密級の研究機関での任務です。少なくとも三年は表に出られません。十日後には出発ですが……ご家族や恋人には、相談しなくて大丈夫ですか?」
「必要ありません」
白河澄月(しらかわすみづき)は、淡く苦笑した。
——どうせ、あの家に私の居場所なんて、もうとっくになくなっていたから。
去年、家でずっと支援してきた貧困家庭の少女・三条陽菜乃(さんじょうひなの)が、両親の事故死をきっかけに、父に連れられて白河家に住むことになった。
何でもそつなくこなす澄月とは違い、陽菜乃は人の懐に入るのが上手だった。
白河家に来てまだ一年も経たないうちに、彼女はすっかり家族の中心になっていた。
父は彼女を宝物のように扱い、澄月の幼なじみであり婚約者の相馬慶悟(そうまけいご)、そして弟の白河凜士(しらかわりんじ)までもが、彼女に心を奪われた。
亡き母の遺影が陽菜乃によって割られても、父は「過去は過去だ、忘れろ」と言い、仏壇そのものを片付けてしまった。
澄月が母を偲んで研究し完成させた心臓ステントの特許まで、陽菜乃は奪おうとした。
それを譲れと言ってきたのは、幼なじみで恋人でもあった慶悟。彼は「もし譲らないなら別れる」とまで言い放った。
血のつながった家族も、長年育んできた恋も——甘い言葉に勝てなかった。
もう疲れた。争うことに意味なんてない。
——もう、行こう。自分を、これ以上苦しめないために。
家に戻ると、ダイニングは賑やかだった。
白河家に新しい「家族」として迎えられて一年——陽菜乃の「新生活一周年記念パーティー」の真っ最中だった。
だれも気づかない。今日は、澄月の誕生日でもあるということに。
母が亡くなってから、誰も彼女にプレゼントを贈らず、誕生日を祝う者もいなかった。
テーブルには慶悟と凜士が陽菜乃の左右に座り、微笑みながらプレゼントを手渡していた。
その様子を冷ややかに見つめながら、澄月は無表情のまま通り過ぎようとした。
だが、父・白河誠一(しらかわせいいち)が彼女を呼び止める。
「理事長に言って、特許を陽菜乃に譲るように頼んだか?」
「もう私のものじゃないから」
周囲の人達は、それを「譲渡した」と受け取った。
慶悟は歓喜の声を上げ、陽菜乃を抱きしめた。
「やったな陽菜乃!国家級の特許だ。これがあれば進学も就職も心配ない!おめでとう!」
澄月は一歩引いてその光景を冷ややかに見つめ、背を向けようとした。
そのとき、陽菜乃がマンゴーケーキの一切れを切り取り、彼女の前に差し出した。
「澄月さん、今までありがとう。これはあなたのためのケーキだよ」
背を向けた瞬間、陽菜乃の顔から「無垢な仮面」がはがれ、勝ち誇った挑発の笑みが浮かぶ。
それは、勝者の表情だった。
澄月は冷たく言った。
「下げて」
陽菜乃は数日前、澄月と一緒に健康診断に行っていた。
彼女がマンゴーにアレルギーがあることを知っているのは、陽菜乃ただ一人だった。
「何怒ってるんだよ。特許のことは俺が頼んだんだ。文句があるなら俺に言えよ」
慶悟が立ち上がり、冷たい視線を澄月に向ける。
陽菜乃は涙をぬぐいながら震える声で言った。
「慶悟さん、澄月さんを責めないで……悪いのは、全部私だから。
この家には、もともと私の居場所なんてなかったのに……
澄月さん、いつも私の物が汚いって思ってるでしょ?ごめんなさい。もし嫌なら……今日、すぐにでも出て行くから。
寄生虫みたいに思われたくない。ただ、白河家の恩返しがしたかっただけなの……本当に、ごめんなさい……」
「陽菜乃姉ちゃん、ここはもうあなたの家なんだよ。誰が追い出そうとしても、俺は絶対許さない」
凜士がすぐに彼女の手を握った。
誠一も箸を叩きつけ、怒鳴った。
「せっかく楽しくやってるのに、お前が来ると台無しだ。
いつになったら人並みに物事を理解できる?
なんで俺がこんな器の小さい、常識のない娘を育てちまったんだ?
さっさとケーキ食って、陽菜乃に謝れ!」
実の父の目に宿る、あからさまな嫌悪を見た瞬間——
もう、こんな家なんか出ていくと決めていたはずなのに、澄月の指先はかすかに震えた。
心臓を、巨大な掌でぎゅっと掴まれたように、苦しくて、呼吸ができなかった。
歯の隙間から、かろうじて言葉が漏れる。
「断ったら?」
その瞬間、鋭い平手打ちが澄月の頬に炸裂した。
そして、誠一はケーキを掴み、そのまま彼女の口に押し込んだ。
突如の暴力に、澄月の身体はついていけなかった。
唇が痺れ、呼吸が苦しくなり、膝が崩れるように床に倒れ込んだ。
陽菜乃は慌てたように言う。
「澄月さん!? 大丈夫? 救急車呼んだほうがいい?」
「放っとけ。どうせ演技だ。続けよう」
……
騒がしい音の渦のなかで、澄月は這うように自室へ戻った。
引き出しを開けて、震える手で薬を口に運ぶ。残されたわずかな力を振り絞り、彼女は救急への電話をかけ終えた。
ぼんやりと天井を見つめた。
——あと十日。
あの場所へ行けば、誰も私を知らない。
この冷たい家とも、腐った人間関係とも、やっと——縁が切れる。
血のつながりも、偽りの恋も、もう、いらない。
第2話
いつの間にか、澄月は意識を手放していた。
夢の中で、彼女は中学生の頃に戻っていた。
当時、自分の書いた論文が医療雑誌に掲載され、嬉々としてその雑誌を家に持ち帰った。
けれど、家族は誰も内容が分からず、雑誌に一瞥をくれるだけで、すぐに放り出してしまった。
ただ一人、母だけが、何度も何度もページをめくり、最後に優しく彼女の頭を撫でながら言ってくれた。
「お母さんには、難しいことは分からないけどね、ここにあなたの名前があるって、それだけで嬉しいのよ」
母の声は、春の水のように柔らかかった。
その午後のぬくもりを、澄月は今でもはっきりと覚えている。
今では、彼女の論文は何度も名だたる医学誌に掲載されるようになった。
けれど。
——あの時のように頭を撫でて、心から褒めてくれる人は、もういない。
「……お母さん……」
目を覚ました澄月の目尻には、乾ききっていない涙の跡があった。
視界に飛び込んできたのは、不安げに覗き込む一人の少年——
彼女の後輩であり、現在病院で実習中の東雲悠馬(しののめゆうま)だった。
「先輩……家族、ひどすぎませんか?
救急隊の人が言ってました。命が危なかったっていうのに、家族は宴会を続けてて、誰も付き添ってなかったって……
この二日間も、誰一人見舞いにすら来なかったそうです」
悠馬の憤りの声も、澄月には何ひとつ届いていなかった。その顔には、感情の欠片すら浮かんでいない。
そのあまりにも冷めた様子に、悠馬は胸が締めつけられる。
——絶望って、きっと、こういう顔のことを言うんだ。
「先輩、お粥、買ってきました。少しでも食べてください」
澄月が返事をする前に、悠馬は遠慮もなくスプーンで粥をすくい、彼女の口元へ運んだ。
拒む気力もなく、澄月は一口、口にした。
その姿を見ているうちに、目の前の悠馬の姿と、記憶の中の「誰か」が重なって見えた。
——あのときも、そうだった。
母が亡くなったばかりの頃、澄月は遺影を抱えて、何日も何も食べず、学校にも行かず。
怒り狂った父にベルトで打たれ、体中に痣をつくった。
弟でさえ、怯えて隅で震えていた。
そんなとき、家に駆け込んできたのが、まだ幼かった慶悟だった。
彼は小さな身体で彼女をかばい、家に連れて帰り、自ら食事を作って食べさせてくれた。
——そのときの慶悟は、まさに彼女の世界を照らす光だった。
ずっと信じていた。
一生、一緒にいると誓ってくれた彼が、まさか他の誰かを愛するなんて——
「澄月、そいつは誰だ?」
冷たい声が病室に響き、澄月は現実に引き戻された。
病室の扉のところに、慶悟が立っていた。険しい表情で。
陽菜乃への想いを自覚し、澄月との関係を終わらせるつもりだった彼。
けれど、悠馬が優しく澄月に粥を食べさせている姿を目の当たりにし、思わず胸が痛んだ。
まるで——自分のものだったはずの何かを、奪われたような感覚。
悠馬が口を開こうとした瞬間、慶悟は無言で歩み寄り、手元の粥を叩き落とした。
陶器の器が砕け、破片が飛び散る。
澄月は避けきれず、腕を大きく切ってしまった。
真っ赤な血が流れ出し、痛みに体が震えた。
けれど慶悟は、彼女に一瞥もくれなかった。
ただ、悠馬を睨みつけ、冷たく言い放った。
「出ていけ」
その口調は、まるで澄月が「自分専用の持ち物」かのようだった。
だがその直後、慶悟のスマホに着信が入り、彼の顔色が一変した。
「陽菜乃が自責の念にかられて、鬱病が悪化して……薬を大量に飲んで自殺未遂を……今から付き添って胃洗浄に行く。それが終わったら、また来るから、いいよな?」
その言葉に、澄月への思いやりは、微塵もなかった。ただの「報告」に過ぎなかった。
血のにじむ腕を押さえながら、澄月は彼の冷酷な顔を見つめ——乾いた声で笑った。
「うん、いいよ」
もう、何も期待なんてしていない。
慶悟、あと八日で。
あなたは、もう二度と「演じる必要」なんてなくなるのよ。
第3話
澄月の虚ろな瞳と向き合った瞬間、慶悟は一瞬だけ目をそらした。
だが——
陽菜乃が病院に運ばれたことを思い出し、歯を食いしばると、そのまま踵を返して病室を去った。
悠馬はその様子に、ただ言葉を失うばかりだった。
彼はずっと、密かに澄月に想いを寄せていた。
だが、彼女には幼なじみの恋人がいると知ってからは、その気持ちを心の奥深くに封じ込めてきた。
——彼女が想う相手は、どんな人間なのか。
想像するたびに、どうしようもなく嫉妬した。
けれど今、彼が目の当たりにしたのは、澄月が血まみれのままベッドに倒れているというのに、他の女の元へと迷いなく向かうその男の姿だった。
どうして……
彼女の腕からはまだ血がにじんでいる。
だというのに、まるで痛みを感じていないかのように、澄月の瞳は深く沈んだままだった。
悠馬の唇が震えた。
あの男は一体、どれだけ彼女を傷つけたのだろう。
あれほど明るく、いつも誰かに微笑みかけていた彼女が、今では影のように沈んでいる。
「先輩、ちょっと待っててください。ガーゼを持ってきます」
そう言って彼は急いで処置室へと走り、傷を丁寧に包帯で覆った。
その後、澄月は彼に頼み、退院の手続きをしてもらった。
病院を出る前、悠馬はそっと彼女の腕を掴んだ。
「今、あの家に帰っても、居場所なんてないでしょう。
よかったら、もう少しここにいてください。僕が看病します」
けれど、澄月は微笑みながら首を横に振った。
彼を巻き込みたくなかった。
——傷つくのは、自分一人でいい。
白河家に戻ると、父の誠一からメッセージが届いていた。
【陽菜乃がさっき胃洗浄したばかりでな、今夜は家に帰らん】
【台所にご飯置いてあるから、帰ったら勝手に食べてくれ】
ダイニングのテーブルには、冷めきった脂っこい肉と、クタクタに煮込まれた青菜の残り物。
冷えた味噌汁が一緒に並べられていた。
それは彼女のために用意されたものではなく——陽菜乃の食べ残しだった。
澄月は表情ひとつ変えず、ただ淡々と受け止めた。
こんなこと、もう慣れている。
陽菜乃がこの家に来てから、父はずっと彼女を気遣っていた。
「山の中で育って、栄養も足りていなかったのだから、良いものは先に陽菜乃に食べさせろ」
澄月は陽菜乃より年上だから、我慢して当然——
そう言われ続けてきた。
澄月はもともと争うことが得意ではなかった。
だから何も言わず、ただただ奪われるがまま、譲り続けてきた。
部屋さえも。
もともと彼女の部屋だった空間は、今では陽菜乃の私物で埋め尽くされている。
代わりに彼女に与えられたのは、すきま風が吹き込む屋根裏部屋。
硬い板のベッドが、彼女の唯一の居場所だった。
もしかすると、父の誠一にとっては、愛想がよく、気の利く陽菜乃こそが「理想の娘」なのかもしれない。
そのとき、玄関の扉が開く音がした。
凜士が、買い物袋を提げて戻ってきた。
澄月の姿を目にすると、一瞬立ち止まり、不快そうに眉をひそめた。
まるで、部屋の隅に転がったゴミを見るかのような目だった。
「陽菜乃姉ちゃんの洗面道具、忘れてたから取りに戻っただけ。
あと、慶悟さんが言ってたよ。お前とはもう終わりだって。別れたんだから、綺麗に別れようってさ。
それと——これ、返してくれって」
そう言って凜士が取り出したのは、小さな古びたレコーダー。
それは、澄月が慶悟に初めて贈ったプレゼントだった。
あの頃、お金がなくて、ろくな物も買えなかった彼女が。
半年分のお小遣いをためてやっと手に入れた安物のレコーダーに、彼の好きな音楽をたくさん吹き込んで、手紙まで添えた。
——「これはずっと大事にする。絶対に、捨てたりしない」
泣きながら、そう言って抱きしめてくれた日のことを、今も鮮明に覚えている。
なのに。
約束も、想い出も。何もかも忘れてしまったのだろうか。
自分の手で返すことさえ、もう面倒になったのか——
第4話
澄月の瞳には、冷ややかな皮肉が浮かんでいた。
もう、何も感じない。慶悟に対しても、期待なんて、とうに捨てた。
静かに、一言だけ落とした。
「分かった」
それだけだった。
しかし、凜士は信じられないというように目を見開いた。
「慶悟さん、あんなにお姉ちゃんを大事にしてくれてたのに、たったそれだけ?
ねえ……お母さんが亡くなってから、お姉ちゃん、なんかおかしくなったよね。
陽菜乃姉ちゃん、今回のことで命まで危なかったのに、お姉ちゃんは一言も心配してあげないの?
分かってるよ……お姉ちゃんは、家族の愛情を陽菜乃姉ちゃんに取られたって思ってるんでしょ?
だから、あんなふうに自殺未遂させて、心の中じゃ死ねばいいって思ってるんだよね?
陽菜乃姉ちゃん、あんなに苦しんでるのに、それでも嫉妬して……お姉ちゃん、いつからそんなに汚くなったの?」
そこまで言われて、澄月は思わず笑いそうになった。
陽菜乃が本当に自殺を図るつもりなら、どうしてあんなに「ちょうどよく」家族に見つかるような量の薬だけを飲んだのだろう?
この数年、陽菜乃はいつだってそうだった。
小賢しい策略で、少しずつ家族の愛情を奪っていった。
——それに、今さら言い訳したって、どうせ無駄だ。
何も言わなくても、彼女はいつだって「加害者」にされる。
沈黙さえも、彼女の「罪」になる。
家を出ようとしたとき、凜士は冷たく言い放った。
「知ってる?あの日、事故で俺が倒れたとき、輸血してくれたのが陽菜乃姉ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんだったらよかったのに、って俺、今でも思ってる。
お姉ちゃんは俺の本当の姉なのに……一番苦しい時に、なんでいてくれなかったの?
俺、お姉ちゃんのこと、もう……許せない」
ドンッと音を立てて、玄関のドアが乱暴に閉められた。
振り返ることもなく、彼は去っていった。
——あの日、半年前の夜。
凜士は酒気を帯びた運転手に轢かれ、重傷を負った。
大量出血で命が危ぶまれ、病院の血液ストックも底を尽きかけていた。
あと1400mlが、どうしても足りなかった。
そのとき、父の誠一と澄月は、共に輸血に協力しようとした。
だが、誠一はわずか200mlを抜かれただけで「もう無理だ」と騒ぎ、針を抜かせた。
代わりに澄月は、800mlの時点で意識を失いかけながらも、歯を食いしばって——1200mlを抜き終えるまで、じっと耐えた。
目を覚ましたときには、見知らぬ古い病室のベッドにいた。
誰も、そばにはいなかった。
そして——
後から知ったのは、誠一が「息子と陽菜乃の関係を深めるために」、輸血したのは陽菜乃だと嘘をついたということだった。
退院後、フラフラの身体で凜士に会いに行き、真実を話そうとした。
しかし返ってきたのは、凜士の平手打ちだった。
彼は泣きながら怒鳴った。
「どうして、俺が一番つらい時に、側にいてくれなかったんだよ!
命がけで血をくれたのは、陽菜乃姉ちゃんなんだ!あの人が、俺を救ってくれたんだ!」
澄月は、血の気が引くような冷たさを押し殺しながら言った。
「病院に確認して。記録を見れば、誰が輸血したか分かるから」
だが、それから半年が経っても——
凜士は一度も、病院の記録を確認しようとしなかった。
代わりに、頑なに信じ続けた。
自分の身体に流れる20%の血液は、陽菜乃がくれたものだと。
彼の中で、澄月という姉は「見殺しにした裏切り者」に変わっていた。
彼女が何をしても、何を言っても、すべてが「悪意」にしか映らない。
——もういい。
説明なんて、もうしたくない。
疲れ果てた。
ソファに座る澄月の周りには、虚無の空気が漂っていた。
誰もいないリビング、冷えきった部屋。
窓の外からは、風の音が遠く響く。
彼女は目を閉じ、両耳を手で塞いだ。
けれど、あの重たく、押しつぶされそうな「この家の空気」から逃れることはできなかった。
誰も、彼女を必要としないこの家。
ならば。
——私は、ここから消える。
永遠に。
第5話
スマートフォンの通知が鳴った。
陽菜乃がSNSに投稿していた。
【皆さん、たくさんのご心配ありがとうございました。もう大丈夫です。苦しい時、いつも側にいてくれる慶悟さんに、感謝しかありません。
残りの人生をかけて、あなたに恩返しします】
添えられていた写真は、病室のベッドに横たわる陽菜乃と、その手を握る慶悟の姿。
まるで映画のワンシーンのようにお似合いの二人。
だが、澄月はその投稿を一瞥しただけで、スマホの画面を閉じ、無造作にテーブルの上へ置いた。
もう、慶悟との関係は——終わったのだ。
陽菜乃が何を意図してこの投稿をしたのか。
見せつけたかったのか、挑発だったのか。
どちらにせよ、澄月の心は動かなかった。
静かにキッチンに立ち、自分のためだけに温かい夕食を作った。それを食べ終え、ベッドに横たわると——
家の中に誰もいない夜、彼女は数年ぶりに安らかな眠りについた。
翌朝。
澄月は、自分のために丁寧に豆を挽き、一杯のハンドドリップコーヒーを淹れた。庭の籐椅子に腰かけ、朝のラジオを聴きながら、ゆっくりと身体を伸ばす。
これまで家族のことで心をすり減らし続けてきた彼女にとって、こんな時間は初めてだった。
——そうだ、もっと早く、自分のために生きるべきだった。
朝食を終え、部屋に戻ると、澄月は慶悟からもらった物も整理して返そうと思った。
だが、引き出しを開けて気づいた。
交際期間中、彼がくれたものは、本当にわずかしかなかった。
しかも、どれも安価で雑な物ばかり。
それでも澄月は、それらを大切に、大切にしまっていた。
鍵のかかる引き出しの中に。
けれど、取り出してみれば、それらはどれも色あせ、カビまで生えていた。
まるで——彼からの愛情そのもののようだった。
澄月はそっと首を振った。
潔癖症の彼が、こんな古びた物を受け取るはずがない。
彼女はすべてを鉄製のゴミ箱に投げ入れ、かつての写真やプレゼントと共に火をつけた。
炎が勢いよく立ち上がり、パチパチと音を立てながら、過去の思い出をひとつ残らず焼き尽くしていく。
それは、彼女の決別の儀式だった。
その足で、澄月は大学へ行き、休学の手続きを済ませた。
残されたわずかな日々くらい、自分の心を整えるために、少し旅に出ることにしたのだ。
観光地の情報を眺めながら、穏やかに計画を立てていた、そのときだった。
慶悟が、突然やって来た。
澄月の穏やかな様子とは対照的に——
凜士から「お姉ちゃんが、返されたプレゼントを無表情で受け取った」と聞かされた慶悟は、その夜、一睡もできなかった。
澄月が自分をどれだけ想っていたか、彼が一番よく知っている。
だからこそ、そんな反応をされるなんて、信じられなかったのだ。
庭の隅、まだ焦げた匂いがわずかに残る鉄のゴミ箱。
その中に、真っ黒に焼け焦げた写真とプレゼントの残骸が見えたとき——
彼の心が、音を立てて崩れていった。
澄月にとって宝物だったはずのそれらが、まるでただのゴミのように焼かれている。
「なんで俺のプレゼントや写真まで、全部燃やしたんだよ……?」
震えるような声で問いかける慶悟に、澄月はわずかに目を上げた。
彼の顔は青白く、唇は引き結ばれていた。
「カビてたから。長く置きすぎてた」
一瞬、言葉を失った慶悟だったが、すぐに顔色を変えた。
「そうか、わざとだな。俺が来るって分かってて、こんなことしたんだ。
そうやって、欲しがらせるつもりか?ほんと、いつもそうだよな、澄月は……!」
彼は踵を返そうとした。だが、そのとき、視線の端にそれが映った。
——テーブルの上に置かれた、休学届け。
慶悟の脳内が、真っ白になった。
「休学って……どうして?
特許を陽菜乃に譲れって言ったから? それで、全部投げ出して、どこかに行くつもり?
どこに行くんだよ、答えろよ!」
突如として、胸の奥から湧き上がる焦燥感。
慶悟は思わず、澄月の腕を掴んだ。
目の前にいる彼女は、確かにそこにいる。
触れられるし、見つめ合うこともできる。
けれど——
どうしようもなく不安だった。
このまま、彼女が本当にどこかへ行ってしまう気がして。
一度、完全に消えてしまう気がして。
第6話
澄月は、いま真実を明かすつもりはなかった。
「ちょっと疲れちゃってね。しばらく休学して、近場を旅してこようかと。そんなに遠くには行かないよ」
そう言いながら、手元の観光ガイドを慶悟に見せる。
嘘ではないようだと察した慶悟は、ようやく安堵したように手を離した。
「ならいいんだ。いや、まさかそんなことでキレるなんて思わなかったよ。特許なんてまた作ればいいだろ?」
そのとき、彼のスマホが鳴った。
電話の主は、病院にいる凜士だった。
「慶悟さん、今どこ?陽菜乃姉ちゃんが目を覚ましたら慶悟さんがいなくてさ、また症状がぶり返して……壁に頭打ちつけて血だらけだよ!早く戻って!」
電話を切ると、慶悟は大急ぎで出て行こうとした。
去り際、振り返って言った。
「旅行して気分転換してくればいい。だけど、あまり遠くに行くなよ」
澄月は、静かに微笑んだ。
——心配しないで。遠くには行かないよ。
ただし、「あなたたちには絶対見つからない距離」だけれど。
庭を通り過ぎるとき、焦げた灰の山がまだ残っていた。
それを見た慶悟は、わずかに顔をしかめた。
胸の奥に、言いようのない不快感が広がる。
けれど、すぐに気持ちを切り替えた。
——澄月があそこまで冷たくなるなんて、こっちだってもう、情けは無用だ。
なのに、なぜか胸騒ぎは消えなかった。
……あいつ、俺に何か隠してる気がする。
……いや、考えすぎか。どこに行くっていうんだよ。
今は陽菜乃のことで手一杯なんだ。余計なことに構ってる暇はない。
慶悟は再び、澄月のことを頭の中から追い出した。
数日後——
澄月は市内の名所を巡るツアーに参加し、仲間たちと充実した時間を過ごしていた。
同年代の参加者たちと共に、山の頂で夕日を見たり、星空の下で歌ってバーベキューをしたり。
そこには、家族の裏切りも恋人の欺瞞もなかった。
ただ、自分の時間を、自分のために使える世界が広がっていた。
彼女は確信した。
——人はやっぱり、自分のために生きるべきだ。
旅の最終日、澄月は評判の良いガーデンレストランを訪れ、窓際の席に座って静かな午後を楽しもうとしていた。
だがそのとき、ドアのベルが鳴り、新たな客が入ってきた。
陽菜乃だった。
今日は彼女の退院日であり、家族総出でお祝いに来ていたのだ。
一行はレストランの最も目立つ席に陣取り、テーブルにはシャンパンやプレゼント、豪華なケーキが並ぶ。
それは、かつて澄月が一度も与えられなかった祝福だった。
父の誠一が陽菜乃にグラスを差し出す。
「お祝いだ、今日は飲んでもいいだろ?」
慶悟が少し心配そうに止めに入る。
「白河さん、陽菜乃はまだ退院したばかりですし……お酒はやめたほうが」
「何言ってる、俺一人で飲んでもつまらんだろ? 慶悟、お前が代わりに二杯くらい飲めばいい」
「慶悟さん、心配しないで。少しだけなら平気だから」陽菜乃はそう言って、そっと慶悟の耳元に顔を寄せた。
「叔父さん、すごく嬉しそうだったから……私、場の空気を壊したくなくて」
その声音は甘く、吐息は耳をかすめるほど近かった。
まるで、恋人たちの密やかな戯れのように。
その光景を見て、凜士が場を盛り上げようと声を上げた。
「じゃあ、飲まない代わりに、キスでチャラにしようぜ!」
誠一の目が輝く。
「それだ!キスしてくれたら、飲ませたりしない!」
陽菜乃の頬が一気に紅潮した。
だが、否定の言葉は出なかった。
むしろ、慶悟の顔を見つめるその瞳は、挑発的に潤み、少しだけ顎を持ち上げて——
「さあ、あなたの方から来て」とでも言いたげだった。
その視線に、慶悟は息が詰まりそうになった。
迷っている間に、陽菜乃の方から距離を詰めてきて——
唇を重ねた。
慶悟は驚き、思わず押し返そうとした。
けれど、柔らかな身体が彼に絡みつき、そのぬくもりに飲まれていく。
次第に呼吸は荒くなり——彼は、抵抗するのをやめた。
第7話
かつて——澄月がほんの冗談で、友人たちの前で慶悟の頬に軽くキスしただけで、彼は何日も口をきいてくれなかった。
今になって初めて気づいたのだ。
慶悟は、決して「奥ゆかしい男」などではなかった。
ただ、彼が冷たく振る舞っていたのは——恋人が自分だったからだ。
そう思うと、澄月は込み上げてくるものをどうしても抑えきれず、吐き気すら覚えた。
彼女はゆっくりと席を立ち、レストランの外へ向かった。
その瞬間、彼女の姿に気づいた慶悟は、驚いたように陽菜乃を突き飛ばした。
周囲がようやく気づいた——澄月が、ずっとそこにいたことに。
ドアを出た瞬間、陽菜乃がすぐに追いかけてきた。
「澄月さん、さっきのこと、誤解しないで……!」
「手を離して」
澄月は眉をひそめ、彼女の手を拒絶した。
だが、陽菜乃は執拗に肩を掴んだまま、力を強めていく。
「ねえ、もし私がここで倒れたら……あなたの家族は、私を突き飛ばしたって言うと思う?」
その言葉を口にした直後——
陽菜乃は大きな悲鳴を上げ、わざとらしく後ろへ倒れ込んだ。
その勢いで、レストランのガラス窓が砕け散る。
音を聞きつけて駆けつけた白河家の面々が目にしたのは——
血まみれで倒れる陽菜乃の姿だった。
頭部からは鮮血が流れ、身体中に無数の切り傷。
「澄月、お前……お前、彼女を殺すつもりだったのか!?」凜士は叫び声を上げ、陽菜乃を抱きしめた。
澄月が何も言う前に、誠一の平手が彼女の頬を打ち抜いた。
「このクズが!」
地面に倒れ込んだ澄月の口からは、砕けた歯と混ざった血がこぼれ落ちた。
唇を震わせ、何かを言おうと口を開く——
けれど、家族たちのその目を見た瞬間、言葉は喉で凍りついた。
——憎悪と怒りに満ちた眼差し。
まるで彼女を八つ裂きにでもしたいかのような視線。
彼女が何を言っても、何をしなくても。
この家では「悪」になるしかなかった。
「澄月さん」陽菜乃が凜士の腕の中で、震えながら泣き出す。
「もし私のことが嫌いなら、そう言ってくれればよかったのに。そしたら、私はこの世界から消えるよ。
もし私が慶悟さんを奪ったって思ってるなら、返すから……ね?澄月さんが笑ってくれるなら、私は何だってする。だから……お願い、もう叩かないで……」
その「演技」に、白河家の誰もが目を潤ませた。
「澄月、お前、まさか陽菜乃が俺を奪ったって思ってるから、あんなことをしたのか?」
慶悟は信じられないといった顔で澄月を見つめた。
澄月は黙って彼と視線を交わし——
そして、不意に、血の混じった笑みをこぼした。
極限まで冷え切った心は、笑うしかなかった。
その笑い声を聞いた慶悟の中で、最後の何かが壊れた。
「もういい。
俺、お前のこと、もう全然憎んでないよ。
憎んでるのはあんな『目の腐った自分』だ。あんな毒女を、本気で愛してたなんてな。
死ねばいい。今すぐにでも」
言い捨てて、彼は陽菜乃を抱き上げ、白河家の者たちと共に病院へと向かった。
その背中を見つめながら——澄月の笑いは止まらなかった。
周囲の通行人が、狂人でも見るような目で彼女を見つめる。
けれど、彼女は立ち上がれなかった。
心が、すでに千切れ、引き裂かれ、粉々になっていた。もはや、痛みを感じることさえできない。
黒く沈んだその瞳に浮かんでいたのは、怒りでも、悲しみでもなかった。
——ただただ、完全なる「虚無」
もう、どうでもよかった。
あと三日。
そうすれば、誰も、彼女という「厄介な存在」に、二度と会うことはないのだから。
家に戻ったとき——
リビングの笑い声が、ピタリと止まった。
全員が、同じ目で彼女を見ていた。
「どうして、戻ってきたの?」
その目は、口に出さずともはっきり語っていた。
——「その顔で、まだ帰ってくるなんて、恥知らず」
まるで、追い出した犬が脚を引きずりながら戻ってきたのを見ているかのような。
第8話
澄月は、誰の視線も言葉も無視して、静かに屋根裏部屋へ戻った。この小さな空間だけが、彼女だけのものだった。
鏡の前で、自分の傷口を淡々と処置する。すべてを終えたあと、ベッドに横たわり、墨のように深い夜空をじっと見つめた。
——どうか、時間よ、早く過ぎて。
この血も涙も凍りつく家から、早く解き放たれたい。
それからの三日間。
白河家では、陽菜乃の進学祝いの準備が熱を帯びていった。
誠一は、まるで自分の本当の娘のように彼女を可愛がり、
「正式に養子縁組をする」と宣言した。
「澄月なんかより、陽菜乃の方がよっぽど娘にふさわしい」
そう言い切って。
進学祝い当日——
学校の保護者会にも一度も顔を出さなかった誠一が、わざわざ高価なオーダースーツを着込んだ。
澄月に声をかけてくる者は、誰一人いなかった。
まるで最初から彼女など存在しなかったかのように。
出発直前。
屋根裏部屋のドアがノックされる。
現れた陽菜乃は、もはや「可憐な仮面」をつけていなかった。
「澄月。跪いてお願いしてみなよ。
そうしたら、お父さんに許してもらえるよう言ってあげてもいいよ」
無言を貫く澄月を見て、陽菜乃は口元を歪めた。
「ほんと、なんでも私よりできるくせに、たったひとつ、媚びを売ることだけはできないのよね。
だからさ、恋人も、家族も、特許も——全部私がいただいちゃうわけ。
ねえ、どうしてまだ死なないの?犬みたいに惨めに生きてて、楽しい?ふふっ……」
陽菜乃は言いたい放題だった。
だが彼女は恐れていなかった。
澄月が何を言おうと、誰も信じるはずがないから。すべて「逆恨み」として処理される。
だからこそ、陽菜乃は余裕で笑っていられた。
凜士が呼びに来るまで、そうして勝者の気配を纏って立ち去っていった。
ドアが閉まると、澄月はベッドの下から、録音中のレコーダーを取り出し、静かに【録音停止】のボタンを押した。
今日が、この街を離れる日。
その前に、彼女はこの家の人間に「真実」を見せるつもりだった。
——自分たちが育てた「悪の花」が、どれほど美しく、醜いかを。
三十分後。
医科学研究所の迎えの車が到着した。
澄月は、たったひとつの荷物——母の遺影だけを胸に抱いていた。
「もう出発の時間です。荷物、これだけで大丈夫ですか?」スタッフが不思議そうに尋ねる。
「はい。これだけでいいんです」
この腕の中の記憶以外、彼女が持っていきたいものは何もなかった。
空港に着いた澄月は、搭乗ゲートの近くで柔らかな陽の光に包まれていた。あたたかい光が、肩に、頬に、優しく降り注ぐ。
まるで、これから始まる新しい人生を歓迎しているかのように。
そのとき——
スマホが鳴った。
画面に映る名前は、慶悟。
昨日、彼は例のレストランに再び足を運び、監視カメラの映像を確認した。
その結果——陽菜乃が転んだのは、澄月のせいではなかった。
「進学祝いが終わったら会えないか?あの日のこと……言いすぎた。ちゃんと謝りたいんだ。
それと……誕生日、前に祝えなかったから、遅くなったけど、プレゼント買ってあるんだ」
彼は疑っていなかった。
澄月は、どれだけ傷ついても、きっと自分の元に戻ってくると。
今までもそうだった。どんなに酷いことをしても、彼が優しい言葉をかければ、澄月は必ず戻ってきた。
だが——今回は、電話の向こうから、何の反応も返ってこなかった。
沈黙。
その異様な静けさに、慶悟は初めて焦りを覚えた。
そのとき、空港内のアナウンスが流れる。
「〇〇便、まもなくご搭乗開始いたします」
「今の音、なんだ?お前、まさか……どこにいるんだ?」
声を荒げる慶悟。
だが、その問いに答えは返ってこない。
澄月は静かに通話を切り、SIMカードを取り出し、指でゆっくりと、それを折った。
もう、偽りの愛には、二度と縛られない。
父親も、弟も、かつての幼なじみも——誰一人として、もう会いたくなかった。
そう思った瞬間、彼女は一歩を踏み出し、二度と振り返ることはなかった。