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出所の日、婚約者は別の女と年越しに夢中だった
私、天野悠が出所したのは、折しも大晦日のことだった。 その日、迎えに来るはずだった婚約者の佐伯桐矢は、別の女と過ごす年越しに夢中だった...
Chương (1)
第1章
私、天野悠が出所したのは、折しも大晦日のことだった。
その日、迎えに来るはずだった婚約者の佐伯桐矢は、別の女と過ごす年越しに夢中だった。
私が記憶を頼りに家へたどり着いたとき、彼は早坂莉奈と親密に抱き合っている真っ最中だった。
「桐矢、今日、悠さんの出所日だろ?迎えに行かなくていいのかよ?」
仲間の問いかけに、桐矢は鼻で笑った。
「あいつを迎えに行くより、年越しの方が大事に決まってる。
何年も塀の中にいたんだ。いまさら一日くらい増えたって死にやしねえよ」
「悠さん、怒るんじゃないか?」
窓の外で吹き荒れる風雪よりも冷たく、私の心に突き刺さったのは、桐矢の薄情なその言葉だった。
「あいつが自分で招いた結果だろうが。どの面下げて怒るってんだ。
俺がこうしてまだ受け入れてやるってだけでも、ありがたく思えってことだ」
その言葉が終わるやいなや、桐矢はふと戸口に立つ私と目が合って、顔から笑みを消した。
部屋の無機質な照明が冷たく私の姿を照らし出し、心もまた冷え切っていくようだった。
桐矢はまだ、私を「受け入れてやってもいい」と思っているようだった。けれど、私の方はもう彼を必要としていなかった。
第1章
私、天野悠(あまの ゆう)が出所したのは、折しも大晦日のことだった。
その日、迎えに来るはずだった婚約者の佐伯桐矢(さえき きりや)は、別の女と過ごす年越しに夢中だった。
私が記憶を頼りに家へたどり着いたとき、彼は早坂莉奈(はやさか りな)と親密に抱き合っている真っ最中だった。
「桐矢、今日、悠さんの出所日だろ?迎えに行かなくていいのかよ?」
仲間の問いかけに、桐矢は鼻で笑った。
「あいつを迎えに行くより、年越しの方が大事に決まってる。
何年も塀の中にいたんだ。いまさら一日くらい増えたって死にやしねえよ」
「悠さん、怒るんじゃないか?」
窓の外で吹き荒れる風雪よりも冷たく、私の心に突き刺さったのは、桐矢の薄情なその言葉だった。
「あいつが自分で招いた結果だろうが。どの面下げて怒るってんだ。
俺がこうしてまだ受け入れてやるってだけでも、ありがたく思えってことだ」
その言葉が終わるやいなや、桐矢はふと戸口に立つ私と目が合って、顔から笑みを消した。
部屋の無機質な照明が冷たく私の姿を照らし出し、心もまた冷え切っていくようだった。
桐矢はまだ、私を「受け入れてやってもいい」と思っているようだった。けれど、私の方はもう彼を必要としていなかった。
……
一瞬、その場の空気が凍りついた。
真っ先に我に返った桐矢が、大股で私へと歩み寄った。
肩までのショートヘアに流行遅れの古着をまとった私は、華やいだ雪の夜にあって、あまりにも場違いだった。
桐矢は一瞬ためらうそぶりを見せたが、すぐにそれを振り払うかのように、私の体をそっと抱き寄せた。
「どうして……迎えを待たなかった?」
頭上から降ってくる男の優しい声に、私は一瞬、心が揺らいだ。だが、脳裏には先ほどの光景が鮮明に焼き付いて離れない。
「ううん、平気。道は覚えてるから」
嘘だった。雪に打たれながら刑務所の門前で、私はずっと彼を待ち続けていたのだ。見かねた年配の看守がタクシーを呼んでくれるまで。
桐矢の肩越しに、私の視線はその背後に立つ女――莉奈の姿を捉えた。
莉奈は完璧なメイクを施し、鮮やかな赤の高級ブランドスーツに身を包んでいる。私の視線に気づくと、彼女は即座に瞳の奥の憎しみを隠し、にこりと作り笑いを浮かべた。
「あら、悠さんじゃない。
出所なさったのね、すごい偶然。
ちょうどお正月にも間に合ったし、これは……ダブルでおめでたいってことかしら?」
言い終わると、莉奈はすっと立ち上がり、桐矢の腕にこれみよがしに自分の腕を絡ませた。その瞳には、あからさまな挑発の色が揺らめいていた。
私はかろうじて唇をきつく結んだ。
桐矢は莉奈に腕を絡ませられたまま、もう片方の手で乱暴に私の腕を掴むと、皆が集う輪の中心へと半ば強引に座らせた。
莉奈は桐矢の親友である本田相馬(ほんだ そうま)と、示し合わせたように目配せを交わした。
相馬はすぐに合点がいったというように、人を小馬鹿にしたような嫌味な笑みを浮かべ、私を値踏みするように見つめた。
「へえ、この方が例の許嫁さん?三年ぶりでしたっけ?
いやあ、ずいぶん老けましたね。莉奈さんの隣にいると、正直、母娘かと思いましたよ」
甲高い嘲笑が部屋に満ちた。莉奈は顔を赤らめ、恥じらうように相馬の肩を軽く叩いた。
「もう、相馬ったら、何言ってるのよ」
そう言いながら、莉奈は私に向き直り、猫なで声で囁いた。
「若い男の子って、すぐこういう冗談を言うの。悠さん、どうかお気になさらないでね」
嘲笑の声は、プロジェクターから流れるBGMさえもかき消すほどだった。込み上げてくる屈辱と怒りに、私は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
私が押し黙ったままでいると、桐矢が苛立ったように、肘で軽く小突いてきた。
「みんな仲間内の冗談だろ。場をしらけさせるなよ」
桐矢の言葉は、まるで鋭い刃のようだった。それが私の心を容赦なく切り裂き、刺すような痛みが胸の奥に広がっていった。
他の誰に何を言われようと構わない。だが、桐矢だけは違うはずだった。彼こそが、誰よりも私を理解し、どんな時も揺るがぬ味方でいてくれるはずの人間だったのだから。
それなのに今、私のこの苦しみは、彼にとってはただの気晴らしの冗談の種でしかない。
込み上げる感情を悟られまいと、私は無理やり話題を変えた。
「……お母さんは?」
桐矢の目に一瞬、後ろめたさがよぎったが、彼はすぐにそれを取り繕うように言った。
「ああ、お義母さんなら、静かな方がお好きだから、ここにはいらっしゃらないよ。また日を改めて、俺も一緒にお伺いしよう」
私は小さく頷いた。すると桐矢は、私の薄着に気づいたのか、上着を取ってくる、と寝室へ向かった。
莉奈たちとだけこの場に残されるのは耐え難く、私はとっさに化粧室へ行くと言い訳を残して席を立った。
冷たい水で顔を洗おうとした、まさにその時だった。
背後から、声が投げかけられた。
「――147番」
身体が、本能で反応した。私は瞬時に振り返り、直立不動の姿勢をとっていた。
「はいっ!」
「ぷっ!」
莉奈の甲高い笑い声が響いた。口元を押さえてはいるものの、その声は、私の耳に突き刺さった。
私の濡れた髪先から、ぽたり、と水滴が洗面台に落ちた。私は目の前の女を冷ややかに睨み据えた。
「何が、そんなにおかしいの?」
第2章
莉奈はからからと笑っていたが、やがてその笑いを収め、眉をひそめると、目にありありと軽蔑の色を浮かべて言った。
「ほんと、笑えるわ。せっかくの大晦日、退屈で仕方なかったのよ」
莉奈は私の肩を指さし、眉をつり上げて言った。
「あなたみたいなピエロが現れるまではね。
ムショは楽しくなかった? そんなに急いで娑婆に戻ってきてまで桐矢を誘惑するなんて」
突然、莉奈に襟元をぐいと開かれ、あらわになった肌には、大小様々な痛々しい痣が浮かんでいた。
「でも、あなたを見くびってたわ。そんな汚らしい姿でよくもまあ桐矢に会いに来られたものね。母親そっくり、本当に恥知らずなんだから!」
母親を侮辱され、抑えようのない怒りがこみ上げ、私は反射的に莉奈の髪を鷲掴みにし、鋭く睨みつけた。
「その口、慎みなさい!」
その勢いで莉奈はぐっとのけぞったが、口元には依然として嘲るような笑みを浮かべ、笑い声が止まらなかった。
「数年ぶりなのに、随分と気が荒くなったのね。もしかして、私がムショの人に頼んでおいた『特別待遇』、お気に召さなかったのかしら?」
心臓がどきりとした。私の視線が、ふと莉奈の胸元でこれみよがしに輝く指輪に落ちた。
その指輪には見覚えがあった。私と桐矢の結婚指輪だった。
私が指輪を見つめているのに気づくと、莉奈は一層勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「桐矢も、パパも、みんな私のものよ。
これ以上、恥知らずな真似を続けるなら、またムショに送り返してあげるわ」
莉奈が言い終わるのを待たず、私はためらうことなく手を振り上げ、莉奈の頬を思い切り張った。
乾いた音が鋭く響き渡った。莉奈は甲高い悲鳴を上げ、とっさに胸元のネックレスを引きちぎると床に叩きつけた。それに通してあった指輪も一緒に床に転がり落ちた。
「天野悠!」
慌ただしい足音と共に桐矢が姿を現し、血相を変えて私を怒鳴りつけた。
「お前、何をやっているんだ!」
再び振り上げた私の手首は桐矢に荒々しく掴まれ、そのまま容赦なく脇へと突き飛ばされた。
背中を硬い洗面台の角に強かに打ち付け、私は思わず苦悶の息を漏らした。
「桐矢、ごめんなさい……
私がネックレスを外しておくのを忘れたから、悠さんを怒らせてしまったのね……」
莉奈は桐矢の胸に顔をうずめ、か弱い声でしくしくと泣きじゃくった。その姿は、傍から見れば庇護欲をそそるほど痛々しい。
私は激痛をこらえて釈明しようとしたが、桐矢の怒号に遮られた。
「天野悠、その芝居はもうよせ!見苦しいんだよ!
お前がどんなやつか、この俺が知らないとでも思ってるのか!」
「さっさと莉奈に謝れ!さもなければ、とっととここから失せろ!」
私は全身が凍り付いたように、その場に立ち尽くした。身体の痛みなど、心の絶望的な疼きに比べれば、万分の一にも満たない。
「もういいの、桐矢」
莉奈がしおらしく桐矢を制した。
「今日はせっかくみんなで集まってお祝いしてるんだから、私のせいで雰囲気を台無しにしないでちょうだい」
桐矢は軽蔑の眼差しで私を一瞥し、怒りを込めて言い放った。
「お前に莉奈の半分でもまともさがあれば、そもそもムショ送りになんてならなかったはずだ」
かつて、私を命懸けで愛すると誓った男が、今は鋭利な刃を手に、ためらいもなく私の心臓を抉り、刺し貫いてくる。
彼は莉奈を壊れ物でも扱うかのようにそっと抱きしめ、床に転がった指輪を、まるで路傍の石ころのように無造作に踏みつけた。
言い尽くせない思いが込み上げて喉を詰まらせるのに、私は一言も発することができなかった。
「ここで頭が冷えるまで反省しろ。気が済んだら、自分で莉奈のところへ行って謝罪しろ」
桐矢が吐き捨てるように言った。去り際に、莉奈は私に向かって勝ち誇った笑みを浮かべた。洗面所のドアがバタンと大きな音を立てて閉められた。
生温かい涙が、止めどなく頬を伝い落ちた。部屋の外からは、騒々しい音楽と歓声が、まるで別世界のことのように響いてきた。
私は、傷ついた心を抱え、床に転がるダイヤの指輪をみじめに拾い上げた。照明の下で指輪は変わらず星のようにきらめいていたが、私の目には、もはや以前のような眩い輝きは映らなかった。
ドアの外から聞こえる騒々しい歓声とは裏腹に、私は自分の頭が鉛のように重くなり、身体が熱っぽくなるのを感じていた。
いつしか冷たい壁に身を預けたまま、私は抗いがたい眠りに引きずり込まれるように、夢の中へと落ちていった。
夢の中の桐矢は、愛おしそうに私を抱きしめ、「信じている」と繰り返し囁き、生涯私だけを愛すると固く誓っていた。
だが、不意に場面が切り替わった。彼は莉奈を親しげに抱き寄せ、冷酷な声で私のことを「147番」と呼んでいた。
私は恐怖に震え、大きく目を見開いたまま、狼狽しながらベッドから飛び起きた。見慣れたはずの自分の部屋が、なぜか今はひどく異質な空間に感じられる。
そこは私がかつて使っていた部屋で、ベッドのヘッドボードには、桐矢と親密に寄り添う二人の笑顔の写真が、今も変わらずに飾られていた。
「悠、目が覚めたのか?」
すぐ傍から桐矢の声がした。彼はベッドの縁に腰掛け、手慣れた様子でリンゴの皮を剥いている。
やがて、つながった一本の皮が、彼の手からするりと滑り落ちた。その眼差しは、嘘のように優しさに満ちている。
「すまなかった。昨日はわざと迎えに行かなかったわけじゃないんだ。ただ、お前がそんなに早く出てくるとは、本当に思わなくて……」
その取って付けたような言い訳を聞きながら、私は唇を固く引き結んだ。作り笑いさえ浮かべる気力もなかった。
「あの指輪……」
桐矢はふっと口元を緩め、優しく微笑んだ。
「ああ、あの指輪か。ゲームに負けて、罰ゲームで莉奈に一日だけ貸したんだよ。
それに、あの指輪はもう古くなるし、お前にはもう似合わないさ。結婚する時には、もっといいのをオーダーメイドしてやるよ」
あの指輪は、私が二人のためだけに心を込めてデザインしたものだ。色褪せたり、価値を失ったりするはずなど、あるはずがないのに。
心の奥が微かに揺さぶられるのを感じた。私はためらいながらも、彼が差し出すリンゴを受け取った。
自分が過敏になっているだけかもしれない。そう思った、まさにその矢先だった。桐矢の次の言葉が、冷たい氷水のように私の全身に浴びせられ、身も心も完全に凍りつかされた。
「もう大丈夫そうだな。
――だったら、俺と一緒に莉奈のところに謝りに行くぞ」
第3章
心臓がどきりと跳ね、私は自分が聞き間違えたのかと、信じられない思いで桐矢を見つめた。
「今、なんて……?」
桐矢がこともなげに同じ言葉を繰り返すと、悔しさと悲しみが一気に胸にこみ上げてきた。
必死にこらえたものの、私の声は震え、言葉に詰まった。
「どうして私が莉奈に謝らなきゃいけないの? 彼女が昨日、私を何て呼んだか知ってる?」
桐矢は眉間を揉み、いかにも頭が痛いといった様子で、まるで私が我儘を言っているかのように振る舞った。
「彼女がお前を何と呼ぼうが、手を出す理由にはならない」
私はリンゴを握りしめ、声を振り絞るように反論した。
「彼女は私を……147番って呼んだのよ!」
「お前は147番だったんだろう?」
桐矢は冷ややかに言い返した。
私は凍りついた。心臓が一瞬止まったかのようだった。絶望と悔しさに震えながら桐矢を見つめていると、堪えきれない涙がとめどなく頬を伝い落ちた。
私の涙を見ると、桐矢は完全に苛立ちを募らせ、眉を顰めた。
「天野悠、芝居はやめろ、見苦しいぞ。莉奈はお前に殴られても泣かなかった。お前に泣く資格などあるものか」
桐矢の詰問に、堰を切った奔流のような悲しみと怒りが私を完全に飲み込んだ。感情の爆発と共に、私は手の中のリンゴを傍らにあった二人の写真立てに叩きつけた。
ガラスのフレームは粉々に砕け散った。
「天野悠!」
桐矢は勢いよく立ち上がり、私の眼前に立ちはだかった。その瞳から最後の優しさの欠片も消え失せ、そこには底知れぬ嫌悪だけが宿っていた。
「人間と畜生の一番の違いが何か、お前は知っているか?
人間は自分の感情を制御できる。畜生にはそれができないんだ!」
私はその場に立ち尽くし、信じられなかった。かつて私に優しさと愛着を囁いたその唇が、いつか自分を最も深く傷つける言葉を吐くことになるなど、どうして想像できただろう。
心臓が抉られるような痛みが止まらない。その一つ一つの疼きが、涙の雫となって溢れ落ちる。
空気は死のような静寂に包まれた。しばしの沈黙の後、桐矢が冷ややかに口を開いた。
「まだ俺に嫁ぎたいなら、莉奈に謝ってこい」
その言葉を吐き捨てると、桐矢はドアを激しく閉めて出て行った。
彼はまだ私と結婚するつもりらしい。だが、私はもう彼に嫁ぐ気など、とうに失せていた。
ドアが閉まる轟音と共に、全身から力が抜け、私は張り詰めていた背中を丸め、ベッドのヘッドボードにぐったりと身を寄せた。
鏡を見なくても、今の自分がどんなに涙でぐしょ濡れの無様な姿をしているか、容易に想像できた。
疲労困憊の身体を引きずり、洗面所で簡単に顔を洗い、身なりを整えた。服に隠れた肌には、古い痣に新しい痣が重なり、痛々しい痕が無数にあった。
刑務所での三年間、自分が一日一日をどのように過ごしてきたか、おそらく莉奈が誰よりもよく知っているだろう。
かつて、天水グループが上場を目前に控えた矢先、会社の重要機密が競合他社の手に渡るという事件が起きた。
会社の法律顧問であり、桐矢の秘書でもあった莉奈は、私が情報を漏洩したのだと断言し、あろうことか婚約者であった桐矢までもが、微塵の疑いもなく彼女の側に立ったのだ。
莉奈が私のオフィスに出入りする姿を、私は確かにこの目で見たのだ。
だが、その時間帯の監視カメラの映像は都合よく紛失しており、結果として、すべての罪は私一人に着せられることになった。
納得がいかず、私はパソコンを取り出し、当時の事件に関する手がかりを見つけようと躍起になったが、成果は何もなかった。
再び深い戸惑いの中に突き落とされ、私はあてもなく街を彷徨い歩いた。そしていつしか、かつて母と二人で暮らした古い家の前にたどり着いていた。
父の不貞が原因で、母はずっと心のバランスを崩していた。
母に心配をかけまいと、収監される際には海外研修へ行くと嘘をついた。それでも母は大きな衝撃を受けたと聞き、私は罪悪感からずっと母に顔向けできずにいた。
家の前を長い時間うろついた末、ようやく勇気を振り絞ってドアをノックしたが、いくら待っても応答はなかった。
やがて隣に住むおばさんが出てきて、そこで初めて私は母がとうに亡くなっていたこと、そして母が私に残したものは、古びた兎のぬいぐるみ一つだけだったことを知った。
私は何度も何度も首を横に振り、その事実を受け入れようとはしなかった。雪の中にただ佇み、どれだけ時間が過ぎても、この残酷な現実を受け止めきれずにいた。
抑えきれない怒りを胸に、私は桐矢へ電話をかけた。なぜこのことを今まで黙っていたのかと、一刻も早く彼を問い詰めたかった。
だが、電話は何度も一方的に切られ、そして最後に、彼から短いメッセージが一件だけ送られてきた。
第4章
【今は忙しい。莉奈に謝る気がないなら、電話してくるな】
続いて、莉奈がSNSに新たな投稿をした。そこには、桐矢と莉奈がトランプ越しにキスを交わし、幸せそうに微笑む写真が添えられていた。
キャプションにはこうあった。
【新年最初のラッキーナンバーは147よ】
そして、その下にはご丁寧にカラオケボックスの詳しい住所まで記載されていた。
心臓が狂ったように高鳴り、獣のような怒りが私の全身を飲み込んだ。示された個室に駆けつけると、桐矢が仲間たちと談笑しているところだった。
「桐矢、なんで悠さんが莉奈さんに絶対謝りに来るって分かったんですか?」
仲間の一人が尋ねた。
桐矢は手の中のグラスをもてあそびながら、自信に満ちた声で答えた。
「あいつが俺に嫁ぎたがってるからだ」
相馬がお世辞半分に、からかうように言った。
「でも桐矢があの女と結ばれたら、莉奈さんはどうするんですか?」
「俺に嫁ぎたいと焦っているのはあいつの方だ。俺は娶ると承諾した覚えはない」
「ははっ、だから言ったじゃないですか。ムショ帰りの女なんて、桐矢に釣り合うわけないって」
怒りがこみ上げてドアを押し開けようとした瞬間、背後から不意に莉奈の声がした。
「147番、久しぶり」
莉奈は腕を組み、私を頭のてっぺんからつま先まで侮蔑するようにじろじろと眺めた。
「あなたも本当に自分が売れ残るのが怖いのね。そんなに必死になって私に謝りに来るなんて」
私は無表情に彼女を見据え、言った。
「ええ、確かに謝るべきだわ」
莉奈は得意げに髪をかき上げ、その頬は興奮のためか微かに赤らんでいた。
私は冷笑を浮かべ、言葉を続けた。
「ええ、あなたが、私に謝るべきよ」
莉奈は意に介さず、かえって面白そうに笑みを深めた。
「何のことかしら? 私があなたに謝ることなんて、何かあったかしら?」
彼女にはとぼける時間があるのかもしれないが、私にはもう茶番に付き合う気はなかった。
「天水グループの機密情報、あなたが私のアカウントを盗んで漏洩したんでしょう」
「誰がやったかなんて重要じゃないわ。大事なのは、桐矢が誰を信じるかってことよ」
「桐矢があなたを信じたからって、それが何だっていうの? あなたの演技が上手だって証明にしかならないわ」
私の言葉を聞くと、莉奈は声を上げて笑い出し、その瞳には侮蔑の色が満ちていた。
これ以上彼女と関わるのは時間の無駄だと、私が身を翻してドアを開けようとしたその時、莉奈が突然私の手首を掴んだ。
見るからに華奢な莉奈だったが、その力は意外なほど強かった。
彼女は素早く周囲を見回し、誰もいないことを確かめると、私の耳元に唇を寄せた。
「私の演技が上手いのか、それとも桐矢が私を特別扱いしてるのか、あなたもよく分かってるでしょう?
データは私が盗んだわ。でも、監視カメラの映像まで私が消したとでも言うつもり?
私にそんな権限、あるわけないじゃない」
まるで脳天に雷が落ちたかのような衝撃を受け、私は全身を硬直させた。
仕事用のパソコンなら、莉奈が私のパスワードを盗むことも可能だろう。
だが、監視カメラの映像データは普段私の私用パソコンに保存されており、そして、社内の監視システムにアクセスできる権限を持つのは、桐矢ただ一人だったのだ。
「私、早坂莉奈が何より嫌いなのは、他人が私のものに手を出すこと。
もしこれ以上、恥知らずな真似を続けるなら、もう一度刑務所に送り返してやってもいいのよ。あら、そうだわ」
不意に何かを思い出したかのように、莉奈は悪趣味な笑みを浮かべて私を見た。
「まだ知らないんでしょうけど、あなたのお母さん、もう死んでるのよ。
去年の大晦日にね。残念だけど、桐矢は私と過ごすのに忙しくて、あのババアにかまっている暇なんてなかったの。あんなみじめな死に方、私でさえ胸が痛むくらいだわ」
言い終えると、彼女はまるで世界で一番面白い冗談でも聞いたかのように、高らかに笑い出した。
そのあざとく挑発するような表情に、私はついに堪忍袋の緒が切れ、手を振り上げた。
だが今度は莉奈も学んでいた。彼女は素早くドアを押し開けると、自ら床に倒れ込み、助けを求める叫び声を上げ続けた。
桐矢は即座にソファから飛び起き、駆け寄ってくると、莉奈に掴みかかろうとする私を引き剥がした。
「それがお前の謝罪の態度か!」
桐矢が怒鳴った。
莉奈は身を縮こませ、哀れっぽく桐矢の背後に隠れた。
「桐矢、悠さんがおかしくなっちゃったの!
私が親切に声をかけたら、いきなり襲いかかってきて、殺されるかと思ったわ!」
桐矢は莉奈の言葉を鵜呑みにし、怒りに燃える目で私を睨みつけた。
「謝る気がないなら失せろ!ここで狂った真似をして恥を晒すな!」
彼は私を乱暴に引き寄せ、よろめかせた。その手は、まるで私を殴りつけたくてうずうずしているかのようだった。
私は唇の端を歪め、涙を浮かべた目で彼を見上げた。
「お母さんが亡くなったこと、どうして教えてくれなかったの?」
桐矢の顔に一瞬だけ後ろめたさがよぎったが、すぐにそれは冷酷な無表情に塗り替えられた。
「俺が教えたところで、お前の母親が生き返るのか?」
心臓が真っ二つに引き裂かれるような、耐え難い激痛が私を襲った。
桐矢は掴んでいた手から力を抜き、いくらか声の調子を和らげた。
「お前も、いつまでもどうにもならない過去のことばかり気にしてないで、さっさと莉奈に謝ればいい。そうすれば、約束通り俺がお前を娶ってやる」
「娶って、ですって?」
私は呆然と繰り返した。次の瞬間、そこにいた誰もが息を呑む中、私の手が振り上がり、桐矢の頬を鋭く打ち据えた。
「天野悠、てめえ、何しやがる!」
桐矢は両目を血走らせ、私を八つ裂きにでもするかのような形相で吼えた。
私は腕を引き抜き、バッグからあの指輪を取り出すと、力任せに桐矢の顔面めがけて投げつけた。
「私を娶るですって? 私があなたに嫁ぐと承諾した覚えはないわ」