愛が終わるとき

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晩餐の席で、天才画家の夫・葉山尚吾(はやましょうご)は、何十億もの保険がかけられたその手で、若いアシスタント・姫野莉子(ひめのりこ)...

Chương (1)

第1章

晩餐の席で、天才画家の夫・葉山尚吾(はやましょうご)は、何十億もの保険がかけられたその手で、若いアシスタント・姫野莉子(ひめのりこ)のために丁寧にカニを剥いていた。 「食欲がない」とぽつりと呟いた彼女のために、まるで絵を描くような手つきで、一口ずつ殻を外してゆく。 その一方で私・葉山紬(はやまつむぎ)は、彼のために投資を引き出そうと、酒席で限界まで酌を重ね、ついには吐血するほどに飲まされていた。 それでも苦しさに耐え、震える声で、ひと言だけ絞り出す。 「……胃薬、取ってくれる?」 返ってきたのは、いつもと変わらぬ冷淡な声だった。 「俺の手は絵を描くためのものだ。自分の手ぐらい使えよ」 ——十年という歳月の中で、彼は一度もその「拒絶の定型句」すら変えることはなかった。 その夜、冷たい風の中、独りで酔いを覚ましながら、私は静かに決意した。 弁護士に連絡を入れ、離婚協議書の作成を依頼する。 尚吾——この荒々しく、喧騒に満ちた「人間」という名の世界で、あなたと私の道は、ここで終わりを迎える。 もう、二度と交わることはない。 第1話 晩餐の席で、尚吾は、食欲のない若いアシスタント・姫野莉子(ひめのりこ)のために、自らカニの殻を剥いていた。 その場にいた誰もが、気まずそうに私を見た。 つい一分前まで、私・葉山紬(はやまつむぎ)は胸を張って出資者にこう語っていたのだ。 「葉山尚吾は、画家として手を非常に大切にしています。普段は手を保護するため、食事の場でさえナイフすら握りません」 空気を取り繕うように、私はワインを三杯、黙って飲み干した。 喉を焼く熱とともに、鉄のような味がこみ上げる。血の気が混じっていたことには、もう気づいていた。 それでも、笑顔を崩すわけにはいかなかった。 ようやく場が和みかけたその時—— 尚吾は唐突に席を立ち、「この子をマクドナルドに連れていく」と言い出した。 出資者は顔をしかめ、口論となり、彼はその相手に手を上げた。 その後始末は、私の役目だった。 謝罪をし、平手打ちを受け、金を払って事を収めた。 ふと彼の手が怪我をしていないか気になり、顔を上げたその瞬間。 尚吾の冷たい視線が、私を切り裂くように射抜いた。 「お前が金に目がくらんで成金どもに媚びるから、この子が空腹を我慢する羽目になったんだろうが。 俺は彼女をマクドに連れていく……お前は来るな。 お前がいると、食欲がなくなる」 莉子は、申し訳なさそうな声色で私に言った。 「ごめんなさい、紬さん、尚吾さんが私をこんなに気遣ってくれるなんて思わなくて…… 少しくらい具合が悪くても、我慢すればよかったですね……」 尚吾は優しい声で、彼女の頭を撫でながら言った。 「お前が悪いわけじゃない。ただ、真っ直ぐで純粋なだけだ。 悪いのは——吐血するまで酒にさらしても、なお席を離れようとしない、そういう金と虚勢にまみれた女だ」 ……そうか。 彼は、私が吐血していたことに気づいていた。 けれど——気に留めるほどのことではなかった、ただそれだけ。 私はその場に立ち尽くし、冷たい夜風の中で三十分、何も言わずにじっとしていた。 そして、静かに携帯を手に取り、弁護士に連絡を入れる。 「離婚協議書を、用意してください」 第2話 翌朝、尚吾はようやく帰宅した。 ダイニングテーブルには、いつものような温かい朝食もなく、玄関のハンガーには、私が前夜にアイロンをかけておいたスーツの姿もなかった。 彼は、それに気づいて一瞬だけ眉を寄せる。 「……昨日、帰るの遅かったんだな」 私は黙ってうなずいた。 「弁護士と、ちょっと話をしてたの」 バッグから書類を一式取り出し、無言で彼の前に差し出す。 「二部あるから、サインお願い」 尚吾は書面に目を通すこともなく、最後のページだけを開いて、迷いなくサインをした。 ——彼がデビューしてからの十年間、結婚してからの七年間。彼の舞台裏はすべて、私の手で支えてきた。 私はそっと息をつき、書類をバッグに戻して出かけようとした。 そのとき、玄関口で彼の腕が私を掴んだ。顔には、不機嫌と警戒が混ざったような陰が差していた。 「誤解するなよ。昨日のあと、莉子が蕁麻疹を出して…… それで病院に連れてっただけだ。何もなかった、本当に」 ——結婚して以来、彼が私に「釈明」するのは初めてのことだった。 けれど、彼は忘れていたのだ。私も、かつて蕁麻疹で体中に真っ赤な発疹が出たことがある。 苦しみながら「病院に連れて行って」と頼んだ私に、彼はこう言ったのだった。 「自分の足くらいあるだろ?俺にうつったら絵が描けなくなるんだよ」 私は無表情のまま彼を見返した。彼は何かを言いかけたが、その瞬間、電話が鳴った。 ——莉子からだった。 「ひっく……尚吾さん……今日アトリエに行ったら、みんなに笑われちゃって…… 莉子、恥ずかしくて死にそう……」 「バカだな、お前は。昨日言ったろ?病気なんだから、無理せず休めって」 鼻をすする音の合間に、か細い声が続く。 「でも……個展の準備が間に合わなくなったら…… 莉子のせいで、尚吾さんのキャリアが台無しになっちゃう。 そんなの、耐えられないよ……」 「バカ。病気になることに罪なんてない」 彼は優しい声でそう言ってから、冷ややかに私の方を振り返った。 「全部、金に目がくらんで、他人の命なんてどうでもいいと思ってるやつのせいだ。 自分さえ稼げればいい——そんな人間がいるから、莉子みたいな子が無理をする羽目になるんだ」 「いい子にして、俺のオフィスで待ってろ。あとで家まで送ってやる」 それだけ言い残し、彼はドアを乱暴に閉めて出ていった。 最初から最後まで、私の腫れた顔に一瞥すらくれることはなかった。 私はそっと目を伏せ、スマートフォンを手に取る。 連絡を入れたのは——ずっと前から私をパリに誘ってくれていた、若手画家だった。 第3話 私はスマートフォンで、パリの若手画家から送られてきたマネジメント契約書を眺めていた。 ちょうどそのとき、LINEに莉子から、ねっとりと甘い声の音声メッセージが割り込んできた。 「ごめんなさいね、紬さん……尚吾さんがどうしても、私の家に来て看病すると言って聞かなくて…… 個展の準備が遅れたのは、全部私のせいなんです。 だから、尚吾さんのことだけは……どうか責めないであげてくださいね?」 台詞のすべてが、わざとらしく聞こえた。 誰に言い訳しているのか、誰に勝ち誇っているのか——あまりに分かりやすい。 私は返信する気にもならず、ふと目に留まった彼女の新しいプロフィール画像を拡大した。 そこには、絵の具の跡がかすかに残る大きな手が、蕁麻疹で赤くなった彼女の頬を、そっと包み込んでいる姿が写っていた。 ——その手は、私が十年、知り尽くしている手だった。 尚吾の手。かつては、私のために存在していたはずの手。 ……彼は、本当にあの子のことを、よく見ているのね。 私は静かに画像を閉じ、かつてのウェディングフォトだったプロフィール写真を、大空を羽ばたく一羽の鳥に差し替えた。 自由とは、こんなにも静かなものだっただろうか。 個展最終日、私は終始バックステージで雑務の後処理に追われていた。 ようやく集合写真を撮るために表に出たときには、尚吾はすでに莉子を腕に抱き、写真の中央でスポットライトを浴びていた。 記者たちは浮き立った様子で声を上げた。 「葉山先生と奥さま、本当にお似合いですね!結婚七年とは思えない、新婚のようです!」 「奥さま、お若いですね〜!アトリエの運営も展覧会のプロデュースも、全て奥さまが担当されてるとか…… 美貌と才覚を兼ね備えた理想の女性ですね!」 二人は、そんな誤解に満ちた称賛の声を浴びながら、否定する様子もなく微笑んでいた。 そのとき、莉子が私の姿に気づいた。 次の瞬間、彼女は涙を滲ませながら、音を立てて膝をついた。 「紬さん……ごめんなさい……本当に、そんなつもりじゃなかったんです…… ちゃんと説明する時間がなかっただけで…… 尚吾さんがここまで来られたのは、全部あなたの支えがあったからです。 そんな大切な功績を、私なんかが奪うだなんて……そんなつもりは、決して……!」 ——その芝居がかった土下座に、場の空気が凍りついた。 ただ、カメラのシャッター音だけが、空虚に響く。 尚吾は一歩前に出て、莉子の前に立ち、私を責めるように言った。 「紬……お前さ、そこまで責め立てる必要ある?」 「今回の個展で、莉子も十分に頑張ってくれた。ちょっと顔を出させただけ。新人を育てる意味で、普通のことだ」 そして彼は、声を低めて私の耳元に囁くように言った。 「……今は公の場だ。頼むから、空気を読んでくれ」 ——私は騒いでなどいない。これから先も、騒ぐつもりはもうない。 私は穏やかな笑みを貼り付けたまま、莉子の腕を取り、立ち上がらせた。 「こちら、今回の展覧会に協力してくれた新しいメンバーです」 報道陣にそう紹介しながら、私の心は既に、ここにはなかった。 茶番は、それらしく終わる。 取材が終わるや否や、私はスマートフォンを取り出し、航空券を予約しようとした。 だがその瞬間、尚吾が私の手元からスマートフォンを奪い取った。 「航空券?出国するのか?俺、何も聞いてないんだけど」 矢継ぎ早に問いを投げかけながら、彼の眉間は深く寄っていく。 「……俺、パリで展示なんて予定してないぞ?なんで、事前に相談しなかった?」 第4話 正直、想像もしていなかった。 いつも人任せで無関心だった尚吾が、こんなふうに私に動揺を見せるなんて—— もしかしたら、ようやく私の異変に気づいたのかもしれない。 尚吾の目に、確かな焦りの色が浮かぶ。そして、私の手を強く掴み、食い気味に問いただしてきた。 「お前……一体、何をしようとしてるんだ!」 私は、答えようとしていた。正直に、すべてを—— だがその時、控室から莉子の叫び声が響き渡った。 尚吾は私のスマートフォンを放り投げ、何も言わず駆け出していった。 私はスマートフォンを拾い上げ、画面を開いて、静かに「お支払い」のボタンを押した。 そしてそのまま、彼の後を追うように、控室へと足を向けた。 そこには、砕けた額縁が床一面に散らばり、莉子が倒れ込み、手首からは血が流れていた。 「ひっく……尚吾さん……莉子の手、もう絵が描けなくなっちゃうかも…… 紬さんに頼まれて整理してただけなのに…… ちゃんと気をつけてたのに、額縁が落ちてきて…… 莉子、そんなに悪いことしたのかな……?」 尚吾は、壊れそうなものを扱うように、彼女の血まみれの手をそっと抱え、目には涙が滲んでいた。 そして振り返り、私に怒声を浴びせた。 「紬……お前、もういい加減にしろ! 莉子は俺のアシスタントだ。俺の身の回りだけ整理していればいい。 なんでこんな重労働をやらせる!?」 「お前が酒の席でどんな連中と絡んでようが、今まで黙ってきた。でも今度は、人を罠にかけようってのか?恥を知れ!」 私は表情を崩さずに、淡々と答えた。 「……私じゃない。ついさっきまで、前の会場にいたの」 だが彼は、私の言葉を聞こうともしなかった。 「わざわざ自分で来る必要なんて、あるわけないだろ!うちのアトリエなんて、全部お前の指示で回ってるだろ?言えば誰かが動くだろ! 今すぐ莉子に謝れ。謝らないなら、警察を呼ぶ!」 私は皮肉な笑みを浮かべ、「では監視カメラを——」と言いかけた、そのとき。 莉子が彼にしがみつき、涙声で懇願した。 「やだ……警察だけはダメ……莉子、もう大丈夫だから……」 そのひと言で、空気は完全に彼女のものになった。 尚吾は彼女を抱きしめながら、私に冷たい視線を向けた。 「……警察は呼ばない。でも、俺はお前を許さない」 次の瞬間、彼は部屋の隅に置かれていた額縁を掴み、私の足元をめがけて、力任せに叩きつけた。 重い木製フレームの角が、脛に鈍い音を立ててぶつかり、尖った木片が皮膚を裂いた。 血が、音もなく流れ出す。 「これは……莉子の代わりに返すだけだ! 全員、よく聞け。今後、うちのアトリエの仕事はこの女とは一切関係ない! 彼女の指示に従ったやつは、即刻アトリエから出ていけ! 紬、お前は、自分の非を反省して、莉子に謝ってから戻ってこい!」 そう言い捨てて、彼は莉子を抱き上げ、私の肩を荒々しく押しのけ、振り返ることなく立ち去った。 私は動けなかった。 その場に立ち尽くし、ただ静かに、涙がこぼれ落ちた。 涙は、血と混じりながら、砕けた額縁の上に、ぽたぽたと音を立てて落ちていく。 その額縁に収められていたのは—— かつて尚吾が、プロポーズのために三ヶ月かけて描いた一枚の絵だった。 三万回、私の名前を描き連ねて仕上げた絵。 「いつか、パリで一緒に夕日を見よう」と誓った、私たちの未来。 でも今、その絵も、愛も、彼の手で完全に壊された。 私はゆっくりと、額縁の中からその絵を取り出した。 そして、何も言わずに裂き始めた。 一回、二回……四十八回。 細かく粉砕された紙片を、一枚一枚拾い集め、静かにゴミ箱へと捨てた。 第5話 尚吾の言葉は、ある意味で正しかった。 ——これから先、彼のアトリエと私の人生は、何の関わりもない。 私はもともと正式なマネージャーではなかった。「妻」という名の下で、彼の仕事を影から支えていただけ。 けれど、その肩書きすら、もうすぐ終わる。 翌日、私はオフィスへ向かい、机の中の私物を整理していた。 ちょうどそのとき、隣室から微かに会話が聞こえてきた。 「葉山先生、昨日のはさすがにやりすぎです。奥さまがいなければ、今後の展覧会が立ちゆかなくなりますよ」 マネージャーの言葉に、尚吾は短く鼻を鳴らした。 「ふん、あいつは俺のおこぼれにあずかっただけだろ。展覧会が成功したのは、全部この俺の才能のおかげだ。 来たくないなら来なきゃいい。代わりに莉子にやらせればいいさ。雑用なんて誰がやっても同じだ」 少しの間を置いて、彼は続けた。 「ただ、莉子はあいつとは違う。お世辞を言ったり、擦り寄ったりしない。酒の席には、絶対に出させるなよ」 ——本当は、このあと軽く引き継ぎをしようと思っていた。でも、その必要はもうなさそうだった。 スマートフォンの通知音が鳴った。 パリからだった。 【ビザの発給が完了しました。いつでも渡航できます】 私はそのまま家に帰り、スーツケースの中に静かに荷物を詰め始めた。 ほどなくして、ドアが開く音がした。 まさかと思えば、尚吾だった。 手には、テイクアウトの箱に入ったビーフシチュー。 けれどその封はすでに破れ、中身は半分も残っていなかった。 私は黙ってそれを受け取り、何も言わずゴミ箱へと放り投げた。 尚吾は少し苛立ったようだったが、視線がスープの残量に落ちた瞬間、何も言えなくなった。 「……誤解するなよ。これは、残り物なんかじゃない」 ——でも、彼は忘れていた。 私が牛肉にアレルギーがあることを。 かつて彼が敵対者に手を狙われたとき、私は彼の前に立ちはだかり、傷を負った。 その傷が早く癒えるようにと、彼はビーフシチューを買ってきた。 だが、それが私を死の淵に追いやった。 あの夜、私は救急室の中で朦朧とし、彼は扉の外でずっと膝をついて泣いていた。 「二度とお前に牛肉を食べさせない。俺が誓う!」 そう誓ったのは、他でもない彼だった。 けれどその記憶は、時とともに彼の中から静かに風化していったのだろう。 私の沈黙が、彼の不安を煽ったのかもしれない。 部屋を落ち着きなく歩き回りながら、彼はようやく口を開いた。 「……今日のことは、俺が感情的だった。お前に恥をかかせたのは悪かったよ。 でも俺は、このアトリエの主だ。公平でなきゃ、人はついてこないのだ。 お前を追い出したいわけじゃない。 ただ……莉子に、そっと謝ってくれればいいだけだ。な?」 「——どいて」 私は彼の言葉を切り捨てるように言い、すれ違いざまにバスルームへ入った。 化粧品を一つずつ、丁寧にトートに詰めていく。 背後に残ったのは、言いかけたまま喉に詰まった彼の言葉と、その場に取り残されたような沈黙だけだった。 第6話 バスルームの引き出しを開けると、そこには明らかに私のものではない、可愛らしいパッケージの生理用ナプキンが一袋、整然と置かれていた。 その瞬間、ちょうど外からスマートフォンが鳴り、尚吾が電話に出た。 「尚吾さん……病院で急に生理が来ちゃって……でも、いつも使っているあのブランドのナプキンがなくて…… この前、尚吾さんの家のバスルームに置き忘れちゃったみたい。 お願い、持ってきてくれない?」 尚吾は通話を続けながらバスルームに入ってきた。 私が引き出しを開けた、その瞬間に。 目が合った。 彼の視線がわずかに揺れ、すぐに逸らされる。気まずさを言葉にすることもなく、彼は静かに引き返した。 そして、電話の向こうへ平然とこう告げた。 「……見当たらなかった。新しいのを買って届けるよ」 「ありがとう〜!早く来てね〜シーツ汚れたらナースさんに怒られちゃうし……恥ずかしいよぉ……」 その言葉に、彼は何の違和感も示さず、ブランド名もサイズも、丁寧にメモを取っていた。 電話を切る頃には、私の荷造りはすでに終わっていた。 彼はどこか気まずそうに、ぎこちない笑みを浮かべながら言った。 「……勘違いするなよ。あれは……あの日、莉子が着替えに来ただけで……」 私はただ一言、感情のこもらない声で返した。 「全然、大丈夫よ」 その抑揚のない応答が、彼の何かを逆撫でしたのだろう。 「……またその顔かよ。そんなに嫌なら、もう行くのやめてやってもいいだろ」 私は小さく笑った。 怒っていないというよりも、もはや怒る気力すら湧かない、それだけのことだった。 彼は私の態度を測るようにしばらく様子をうかがい、ようやく本当に怒っていないと察したのか、気まずそうに玄関へ向かう。 けれど、ドアノブに手をかけたところで立ち止まり、もう一度、私の方を振り返った。 「……なあ、荷物って……どこに行くんだ?」 「パリ」 その一言で、彼の顔がふっと緩んだ。 「……ちょうど良かったな。来週、時間空けるよ。前に話してたじゃん。パリでハネムーン——あれ、まだ行けてなかっただろ?」 去る前日になって、尚吾はようやく、私たちが交わしたあの約束を思い出した。 でも、それはもう遠い記憶に過ぎなかった。 空港のラウンジで、ふとInstagramの通知が届く。莉子から——【ぜひ見てね】と言われていた投稿だった。 写真には、病床に横たわる彼女の姿。泡に包まれた髪を、男の大きな手が優しく洗っていた。 ライブフォト機能で、よく知っている彼の声が聞こえる。 「……じっとしてろよ」 投稿には、ハートマークと共に、こんなメッセージが添えられていた。 【手を怪我してちゃって水にさわれないから、彼が髪を洗ってくれました♡ ちょっと脂っぽくて恥ずかしかったけど、『これからは俺が全部面倒見る』って……♡♡♡】 その直後、尚吾からのメッセージも届いた。 【来週予定が入った。チケットキャンセルで。来月また行こう】 ……彼は知らなかった。 私は最初から、彼の分のチケットなど取っていなかったということを。 離陸直前、私は弁護士にメッセージを送り、離婚協議書を彼へ転送するよう指示した。 そしてスマートフォンを、飛行機モードに切り替えた。