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執念、晩秋に散る
庄司海青(しょうじかいせい)が愛人とデートしていたその夜、桑原秋帆(くわはらあきほ)は非業の死を遂げた。 閻魔大王は彼女に七日間の還魂...
Chương (1)
第1章
庄司海青(しょうじかいせい)が愛人とデートしていたその夜、桑原秋帆(くわはらあきほ)は非業の死を遂げた。
閻魔大王は彼女に七日間の還魂を許し、未練を果たすよう言い渡した。
彼女のただ一つの願い。
それは――
海青と離婚することで過去を清算して、今後一切、死んでも生きても再び顔を合わせないことだった。
第1話
夜九時、桑原秋帆(くわはらあきほ)は暴漢に路地裏へと引きずり込まれていた。
その時、庄司海青(しょうじかいせい)は愛人と共にドローンショーを眺めていた。
九時十分、秋帆は暴漢により暴行されていた。
海青は愛人に情熱的な告白をしていた。
十時、秋帆は滅多刺しにされ、ドブに投げ捨てられた。
海青は愛人と肉体を重ねていた。
深夜十二時、魂となった秋帆は自宅に戻り、風呂上がりの海青と鉢合わせた。
二人の視線が交わる。
海青は眉をひそめた。
「なんだその格好は」
そのときの秋帆は髪は乱れ、服は破け、全身に傷があり、目元は赤く、顔色はまるで死人のように青白かった。
秋帆は彼をじっと見つめ、しばらくして口を開いた。
「海青、離婚しましょう」
海青の美しい眉が深くしかめられた。
「こんな小さなことで離婚だなんて、大げさすぎないか?」
秋帆は虚ろな表情で目を伏せ、もう一度繰り返した。
海青は冷たい目で彼女を見つめ、沈黙した。
しばらくして彼は溜息をつき、彼女を抱きしめた。
「わかったよ、アキ。途中で君を車から降ろしたのは俺が悪かった。でもさ、それはアキが頑固過ぎたから悪いんだよ?俺と詩緒は遊びみたいなもんだ。庄司奥様の座は君だけのもの、誰にも奪えないよ」
すでに風呂は済ませていたが、海青の体からはまだ他の女の香水の匂いが微かに残っていた。
それはまるで棘のように、秋帆の心に突き刺さった。
前夜、彼女は海青の浮気を知った。
そして、笑えることに相手は、彼女が七年間支援していた貧困学生だった。
車内で二人は口論になり、海青は怒りにまかせ、わざわざ人通りの少ない場所まで車を走らせて、彼女を置き去りにした。
その後、事件が起きた。
死後、秋帆の魂は冥府に赴き、閻魔大王は彼女の生前の善行を見て、七日間の還魂を特別に許可した。
いま、彼女の唯一の願いは、海青との離婚だった。
秋帆の心は痛みで麻痺していた。
気づけば涙が頬を濡らしていた。
彼女は海青を押しのけた。
「17歳、私たちが付き合い始めたときに言ったよね。もしいつか海青が私を裏切ったら、私は迷わず去るって。あんたもあのとき、絶対に裏切らないって約束してくれた。この約束は絶対よ」
殺されたとき、暴漢は彼女を十七回も刺した。
その傷が、彼女の17歳の純粋さを嘲笑っているようだった。
海青は一気に忍耐を失い、鋭い目に冷たい光を宿した。
「約束?学生のときに言ったことを本気にしてるのか?」
「いいか?名家の子息なんて、みんな愛人くらいいるもんだ。俺はまだマシな方だぜ?これまでずっと君だけを守ってきた。俺が一番愛してるのは君だ。それは間違いない。でもたまには目新しさも欲しいんだよ。一度くらい、体の浮気くらい許してくれたっていいだろ?」
秋帆は絶望のまなざしで彼を見つめた。
冷えきった指が白くなるほど強く拳を握る。
「もし私がもう死んでるって言ったら、信じる?」
「今の私の願いはただひとつ。海青と離婚すること」
海青は怒りで笑い声をあげた。
「そんなを嘘く必要がどこにあるんだ?」
「私は......」
秋帆が何か言おうとしたそのとき、寝室のドアが突然開き、有川詩緒(あきかわしお)が出てきた。
彼女はセクシーなキャミソールワンピースを着ていて、露出した肌には無数のキスマークがあった。
秋帆がじっと見つめると、詩緒は慌てて海青の背後に隠れ、怯えた声で言った。
「秋帆さん、海青さんと付き合ってしまったことに謝ります。ごめんなさい。でも海青さんみたいに実力のある人が愛人を持つのは普通のことですよ......?」
「安心してください、海青さんが一番好きなのはあなたです!それは絶対に間違いありません!私、庄司奥様の座を狙うつもりもありません!」
秋帆は何も言わず、ただ視線を寝室に向けた。
昨日の朝、彼女が自分の手で整えたベッドは、いまではぐちゃぐちゃになっていた。
秋帆は思わず苦笑した。
「恩を仇で返すなんて、面白い女」
彼女のお金で、彼女の夫と彼女のベッドで寝ている。
その上、着ている寝間着すら彼女のものだった。
詩緒の目が赤くなった。
「秋帆さん......」
「もういい」海青は苛立ったように眉間を揉んだ。
「頭冷やせ」
そう言い捨てると、海青は詩緒の手を引いてその場を去っていった。
バタンという扉の音が響き、秋帆はまるで全身の力が抜けたように、その場にへたり込んだ。
目の前の壁には、彼女と海青の結婚写真が飾られていた。
写真の中の二人は、まるで世界で一番幸せそうに笑っていた。
その笑顔を見つめていると、秋帆の心はふと遠のいていく。
かつて、あれほど自分を愛していた海青が、どうしてこんな風に変わってしまったのか、彼女にはもうわからなかった。
第2話
その夜、海青は二度と帰ってこなかった。
秋帆はバスタブに身を沈め、汚れた痕を何度も何度も擦り洗いした。
だが、皮膚が擦りむけて血が滲んでも、昨夜の出来事はまるで刃物のように骨に貼りつき、血が舐められているかのように痛みを残した。
泣きすぎて気を失いかけた時、朦朧とした意識の中で、温かい腕に抱き上げられる感覚があった。
「アキ!」
馴染みのある声が、諦めずに彼女の名を呼び続けていた。
秋帆はやっとのことで目を開けた。
気づけば、海青がいつの間にか帰ってきていて、いつも冷静な顔がこのときばかりは驚愕と焦りに染まっていた。
「アキ、寝るな!病院に連れて行くよ!」
彼の顔を見た瞬間、秋帆の意識は遠い過去へと引き戻された。
あれは17歳の時、宮京で大地震が起きた。
教室の天井が落ちてきた瞬間、海青は命の危険を顧みず、彼女を守るために自分の体で覆ったのだった。
二人は奥深くに閉じ込められ、五日間何も口にできず、秋帆はついに幻覚まで見始め、生きる気力を失っていた。
その中でずっと、海青だけが彼女を励まし、眠りに落ちそうになるたびに声をかけ続けてくれた。
死の淵から生還した二人は、付き合い始めた。
あの頃の秋帆は、二人の間には生死を超える絆があると信じていた。
どんな嵐が来ても、二人なら共に歩んでいけると。
しかし、まさか結婚して三年で裏切られるとは思ってもいなかった。
目が覚めると、病院のベッドの上だった。
最初に目に入ったのは、ベッドの傍にうずくまる海青の姿だった。
彼は昨日と同じ服を着たままで、どうやら一晩中眠っていないらしく、目の下には大きなクマができ、憔悴しきった顔をしていた。
秋帆はしばらく彼を見つめたあと、手を伸ばしてそっと頬を撫でた。
海青はその手に驚いたように目を開き、すぐに彼女を強く抱きしめた。
「アキ、昨日は本当に怖かった......無事でよかった。昨日あんなこと言って、ごめん」
朝、家に帰った彼は、浴槽で目を閉じたまま動かない秋帆を見つけた。
水はすでに冷たく、赤く染まっていた。
その時、彼は気が狂いそうになった。
涙がぽたぽたと落ちる中、秋帆はすすり泣きながら彼を押しのけ、蒼白な笑みを浮かべた。
「海青、話し合おう?」
海青はすぐにうなずいた。
「うん、わかったよ。だからもう、そんな無茶しないで......」
「昨日の夜、実は私――」
突然、海青のスマホが鳴った。
彼はちらっと見てすぐに切ったが、どこか気まずそうだった。
「......アキ?」
言いかけたとき、秋帆の目に映ったのは、通知に表示された【詩緒ちゃん】の名前だった。
その瞬間、秋帆は一気に力が抜けた。
「......出てよ、電話。少し疲れた、もう休むから」
そう言って彼女はベッドに横たわった。
海青は彼女を一瞥すると、無言で病室を出ていった。
直後、秋帆のスマホに見知らぬ番号からメッセージが届いた。
【地下駐車場に来れる?】
拳を握りしめ、無視しようとしたものの、結局は何かに導かれるように足を運んだ。
地下駐車場では、詩緒が海青の袖を掴み、涙でぐしゃぐしゃになりながら叫んでいた。
「この子、産んじゃダメ?私たちの初めての子なの、お願い海青さん......中絶したくないの!」
海青は眉をひそめ、冷たい口調で言った。
「俺とアキにはまだ子供がいないのに、君が先に産むなんて無理だ。俺とアキの子ができたら、その後なら何人でも産めばいい」
詩緒はさらに声を上げて泣いた。
「でも、中絶ってすごく痛いのよ!怖いの......!それに海青さんは、最初に私に手を出したとき、責任取るって言った!」
海青は仕方なさそうにため息をつき、彼女を抱きしめて優しく慰めた。
「......一緒に病院行こう。あとでマンション何件か買ってあげるよ。家が嫌なら別のものでもいい」
詩緒は彼の首に腕を回し、甘えるように言った。
「ねえ、プロポーズだけでもして?本物の奥さんにはなれなくても、せめて形だけでも......」
海青は眉間に皺を寄せ、黙り込んだ。
すると彼女はすぐに口を尖らせた。
「ほら、嘘ばっかり!」
「......わかった、わかったから。約束するよ」
彼女がしょんぼりしているのを見て、結局、海青の心は甘かった。
詩緒はすぐに笑顔を取り戻した。
「じゃあ、婚約指輪とウェディングドレス、秋帆のときのと同じものがいい!」
「わかった」
「それと、私もお城の式場がいい!」
「君が好きなら、何でも」
第3話
海青は優しげに微笑みながら、詩緒の紅く染まった唇を見つめ、堪えきれず彼女の顎を引き寄せて口づけた。
二人はキスを交わしながら車内へと移動し、やがて車は規則的に揺れ始めた。
柱の陰に身を潜めていた秋帆は、顔面蒼白で口元を押さえ、必死に声を漏らさないよう堪えていた。
大粒の涙が次々と頬を伝い落ちる。
海青は、詩緒を妊娠させたのだ。
「俺が一番愛してるのは君だ」と言いながら、今や二人だけの思い出を、他の女に再現してやると約束している。
秋帆はその場に飛び出して叫びたかった。
だが結局、背を向けて立ち去った。
彼女は自分がどうやってその場を離れたのかも覚えていない。
病院には戻らず、街をあてもなく彷徨っていた。
程なくして、庄司グループの本社ビルが目に入った。
ビルの電光スクリーンには、二年前の映像が繰り返し流されていた。
それは、宮京中の女性が羨んだ結婚式の記録だった。
ロマンチックなお城、美しいフラワーガール、感極まって涙を浮かべる海青と秋帆――
まるで昨日の出来事のようだった。
画面を見つめながら、秋帆の目に再び涙が溢れた。
そのとき、スマホにメッセージが届いた。海青からだった。
【アキ、会社で急な会議が入った。今夜は帰れそうにない。明日ちゃんと話そう】
涙が画面に落ち、秋帆は苦笑した。
「明日、か......」
でも、もう彼女には明日が残されていない。
昔、まだ海青の浮気に気づいていなかった頃、彼はよく「急な会議がある」と連絡してきていた。
おそらく、あの頃からずっと......
その会議のたびに、彼は詩緒と密会していたのだ。
秋帆は短く返信した。
【詩緒と会議?】
すぐに相手が入力中になったが、なかなか返事が来なかった。
ようやく届いたのは、
【誤解だよ。信じられないなら、俺の秘書に聞いてみて】
という言い訳めいた一文だった。
秋帆はそれ以上、返信しなかった。
その直後、今度は詩緒からメッセージが届いた。
【秋帆、地下駐車場で私たちが話したこと、全部聞いてたでしょ?はっきり言うけど、奥様の座が私のものになるのは時間の問題よ。今はまだ半分だけど、海青さんの心は確実に私にあるよ。だって私のほうが若くて、彼を満足させられるからね!惨めな捨て犬になりたくなかったら、さっさと離婚してあげなよ!】
さらにメッセージには、破られたストッキングと開封済みの避妊具の写真まで添付されていた。
そのメッセージを見て、秋帆の手は震えた。
彼女は「死後に離婚したい」と望んではいた。
けれど、こうした侮辱を黙って受け入れられるわけではない。
雷鳴が轟いた。
空が割れるような音とともに、土砂降りの雨が降り始めた。
頬を伝い落ちる水滴は、涙なのか雨なのか、もう分からない。
そして彼女は、海青に最後のメッセージを送った。
【海青、離婚しましょう】
家に戻ったのは夜遅くだった。
秋帆はソファに倒れ込んだ。
身体が異様に重く、どうやら高熱を出しているようだった。
「死んで魂だけになったのに、風邪ひくなんてね......」
苦笑しながらも、彼女はなんとか起き上がり、椅子に乗って壁に掛けられたウェディングフォトを外した。
細い指先で写真を優しく撫でた後、無情にもハサミでずたずたに切り裂いた。
次に、家中のアルバムと額縁を集めて、二人の写真を全てバラバラに。
海青から贈られたプレゼントもすべて整理した。
高価な品は中古アプリで格安出品し、手作りのものは砕いてゴミ箱に捨てた。
最後に彼女は、家の展示ルームに向かった。
ショーウィンドウの奥には、かつて彼女が結婚式で着たドレスが飾られていた。
秋帆はそれをじっと見つめたあと、ハサミで一気に切り裂いた。
ピンクの大粒ダイヤが輝く、世界に一つだけの婚約指輪。
海青がデザインした、数億円の価値がある逸品。
秋帆はそれをしばらく眺めていたが、最後にはトイレに放り投げた。
二人は本当に愛し合っていた。
その証だったものは、どれも大切な思い出だ。
それを他の誰かに汚されるくらいなら、自らの手で壊したほうがいい。
全てを終えると、秋帆は力尽きたように床に座り込んだ。
そのとき、扉が勢いよく開かれ、海青が飛び込んできた。
第4話
海青は、荒れ果てた部屋の様子を見るなり、顔色を変えて険しい目つきで秋帆に怒鳴った。
「一体何をやってるんだ!ふざけるのもいい加減にしろ!」
「これらは、一生大切にすると約束したものだろ!なぜ壊した!」
秋帆は視線を落としたまま、かすれた声で言った。
「感情が壊れてしまったなら、こんなものを残していても悲しみが増すだけ。だったらいっそ、壊した方がいい」
そう言った彼女は喉をつまらせるようにして続けた。
「......離婚しましょう」
「何回それを言ったら気が済むんだ?君からのメッセージを見て、急いで戻ってきたんだぞ。もう勘弁してくれ!」
「言っただろ?詩緒とはただの遊びだって。どうしてそんなに狭量なんだよ。少しぐらいいいだろう?」
秋帆は首を横に振った。
「狭量なのは、あの人の方よ」
海青は顔を引きつらせ、秋帆の腕を乱暴に掴んで引き起こし、冷たい声を吐き捨てた。
「それに、君の家族はもういないんだ。俺と別れて、君は何ができるというのだ」
その言葉は刃のように何度も秋帆の心を切り裂いた。
かつて両親が事故で亡くなった時、親戚たちは一夜にして獣のように変わった。
その中で彼女を守ってくれたのが海青だった。
だからこそ、秋帆は彼を唯一の家族だと思っていた。
荒れた海の中の流木のように、しがみつくしかなかった。
けれど今、自分はもう死んでいる。
そんな脅しは意味を持たない。
それでも、まさか海青がこんな酷いことを言うとは思わなかった。
一番近しい人間こそ、一番残酷に傷つけてくる。
「どうして......」
秋帆の目から大粒の涙が溢れた。
海青は一瞬言葉を失い、自分の言い方が酷すぎたと気づく。
慌てて彼女を抱きしめ、優しく宥めようとした。
「アキ、ごめん......俺の、言い過ぎだ」
だが秋帆は彼を押しのけ、目にあふれる悲しみで問いかけた。
「どうして急に......もう愛してくれないの......?」
海青は再び彼女を抱きしめ、頬に伝う涙に唇を寄せながら言った。
「何を言ってるんだ、アキ。愛してるに決まってるじゃないか!」
「じゃあ、離婚しよう」
そのか細い声は鋭い棘のようで、ついに海青の堪忍袋の緒が切れた。
彼は秋帆を壁に押し付けて怒鳴った。
「秋帆!そんなに離婚したいのか!」
「私はもう死んだの。最後の願いは、あなたと離婚して、縁を切ること」
「あの夜、海青が出て行ったあと、私は暴漢に路地裏へ連れ込まれて......」
秋帆はあの夜の出来事を語り始めた。
だが「七日間の還魂」の話に差しかかった瞬間、海青は再び怒声を上げた。
「もう27歳だろ!子供じゃないんだ!俺だってバカじゃない!そんなくだらない作り話、いい加減やめてくれ!」
「どうしても詩緒を受け入れられないなら、しばらく海外に行け!」
そう吐き捨てるように言うと、彼は背を向けて歩き出した。
「つまり、彼女とは別れるつもりがないのね?」
海青の足が一瞬止まったが、振り返ることはせず、冷たく言い放った。
「好きに思えばいいさ。遊びに飽きたら戻ってくるから」
秋帆は崩れ落ちるように地面に座り込み、虚ろに首を振った。
その日が来るのを、もう待っていられない。
その日から、秋帆と海青の間に区切りをつけた。
秋帆は焦っていた。
残された時間はあと五日しかない。
彼女は海青にメッセージを送った。
だが、返信が来るまでにかなり時間がかかり、その内容も冷たいものだった。
【しばらく家に帰らない。君が落ち着いてから話そう】
その冷淡な文字列を見つめながら、秋帆の手は小刻みに震えていた。
気持ちを抑え込み、彼女は車を走らせて庄司グループ本社へと向かった。
だが、ビルの前で警備に止められる。
「海青に会わせてください!」
新しい女性スタッフが丁寧に対応する。
「申し訳ありません。今はお昼休憩中のため、ご面会できません。ご用件がある場合は予約を――」
「私は彼の妻よ」
受付嬢は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに首を振った。
「有川さんの指示で、どなたであっても社長の休憩時間は邪魔をしないようにと伺っています。奥様であっても......本当に申し訳ありません」
秋帆は思わず笑ってしまった。
長い間会社に顔を出さなかったうちに、すっかり空気が変わっていた。
「秋帆さん!」
そのとき、詩緒が姿を現した。
彼女はドーパミンカラーのワンピースを着こなし、若々しく輝いていた。
手には最新モデルのバッグを提げている。
第5話
「海青はどこ?」
秋帆は怒りを必死に抑えながら言った。
詩緒はぷっと笑い出し、「秋帆さんって、彼の奥さんでしょ?自分の旦那の在りかを、私に聞くの?それとも海青さんが、今はあなたのこと無視してるの?」
彼女の声は大きくはなかったが、その挑発的な言葉はたちまち周囲の注目を集めた。
多くの古株社員は秋帆を知っており、彼女の姿を見ると表情を曇らせた。
それもそのはず。
これまで海青のイメージは「純愛」で、愛妻家の代表だったのに、今では愛人が正妻に挑発するという修羅場に様変わりしていたのだから。
しかも一部の人間は、詩緒がかつて秋帆に援助されていた貧困学生だったことを知っており、表情はより複雑さを増していた。
「秋帆さん、もし海青さんが今なにしてるかわからないって言うなら、教えてあげる。彼、今お昼寝中よ。本当は私がそばで添い寝してたんだけど、お友達に誘われてショッピング行くから下に降りてきたのよ」
そう言って彼女は何気なく首元のネックレスに手を添えたが、その瞬間、秋帆の目に彼女の胸元にうっすら浮かぶキスマークが映った。
「秋帆さん、もう用がないなら帰ったほうがいいよ。海青さん、今はあなたに会いたくないって。会いたくなったら、私から連絡してあげる」
周囲の視線がまるで針のように秋帆を刺した。
怒りが一気に噴き出し、彼女は思わず詩緒の頬を平手打ちした!
空気が一瞬静まり返ったあと、辺りはざわめきに包まれた。
詩緒は茫然とした様子で打たれた方向に頭を傾け、地面を見つめたまま呆然としていた。
そして数秒後、彼女は誰かの姿を視界の端に捉えると、地面に崩れ落ちて大声で泣き出した。
「秋帆さん、私が悪かったの......!海青さんにもう怒らないで......お願い......!」
秋帆は彼女の芝居がかった反応に呆れ、「やめなさい」と言いかけたそのとき――
人混みをかき分けて、一人の大きな人影が走ってきた。
「詩緒!」
海青だった。
「海青、私は......」
秋帆が話しかけようとしたその瞬間、彼は彼女を激しく突き飛ばした。
「もういい加減にしろ!ここは会社だぞ!家で暴れるだけじゃ足りないのか?世間にお前の狂った姿を晒したいのか!」
秋帆はバランスを崩して転倒し、うめき声を漏らしながら顔を青ざめさせた。
だが海青は一瞥もくれず、詩緒のもとに駆け寄り、彼女の頬を優しく両手で包み込んだ。
「痛かったか?」
「うん、痛い......ふーってして......」
海青はすぐに彼女の頬に息を吹きかけ、まるで別人のように優しい声で囁いた。
「前に言っただろ?彼女は危ないって」
詩緒は彼の胸元に身を寄せながら首を振った。
「海青さん、秋帆さんのこと責めないで......全部、私が悪いの。私が、怒らせちゃったから......」
海青は彼女を抱きかかえ、辺りを見回して怒鳴った。
「何見てるんだ。さっさと仕事に戻れ!」
その言葉で、群がっていた人々は慌ててその場を離れた。
そして彼の視線が、地面に座り込んだままの秋帆に向けられた。
その鋭い眼差しには、秋帆が今まで見たことのない冷たさがあった。
彼女はただ黙って見返した。
まるで氷の海に沈んでいくようだった。
まさか、この男がこんな目で自分を見る日が来るなんて思ってもいなかった。
かつての優しさは、今となってはただの幻だ。
しばらくして海青は近づき、彼女の腕を掴んで無理やり立たせた。
その手に一切の思いやりはなかった。
「オフィスで話を聞こう」
秋帆はよろめき、足をひねりかけた。彼の手を振り払おうとしながら言った。
「ここでいい!」
海青は冷たく言い放つ。
「秋帆、俺にも限界があるんだぞ!」
「今の君は、まさにヒステリックな女だ」
「......ヒステリック女?」
秋帆の体が小さく震え、思わず皮肉っぽく笑った。
その笑みはすぐに涙に変わった。
「まさか......そんな言葉があんたの口から出るなんて......」
「あんたも恥ずかしいと思ってるんでしょ?」
「あんなことをした時に、今日のことを、考えたことはあるの?」
「もういい!」
海青は怒鳴った。
「どうしたら気が済むんだよ!」
秋帆は離婚届を取り出し、きっぱり言った。
「離婚よ!」
第6話
声は大きくなかったが、その瞬間、ホール全体が静まり返った。
再び多くの人が顔を覗かせ、この一幕の茶番劇を興味深そうに見守った。
視線が次々と秋帆に集まり、彼女は離婚届を握る手に力を込めながらも、目は一層の決意を帯びていた。
海青の表情もその一瞬で凍りついた。
拳を握りしめ、抑えた声で問い返す。
「秋帆......どうしてもか?」
秋帆は涙を拭い、彼と目を合わせた。
「何度聞かれても、答えは変わらないわ」
「ここにサインさえしてくれれば、お互いを解放できるのよ」
海青はもう何も言わなかった。
冷たい視線で秋帆を見つめ、その身から放たれる気配は息が詰まるほどだった。
その様子を見た詩緒の心には、花火が咲き誇った。
彼女はすぐさま火に油を注ぐように、柔らかく華奢な手で海青の服を掴み、か弱げに言った。
「海青さん、私を下ろして......全部私が悪いの。秋帆さんと喧嘩しないで......」
その泣き顔はまるで秋帆の神経を引きちぎるように暴れ回り、秋帆は自嘲気味に笑った。
「庄司社長、早くサインして。その可愛らしい恋人があんたを必要としてるわ」
「庄司社長」の一言が、完全に海青の怒りに火を点けた。
顔色が青ざめるほど変わり、皮肉げに笑った。
「いいだろう!どうしてもというのなら」
「後悔するなよ!」
秋帆は目を閉じて、はっきりとした口調で返した。
「絶対に後悔しない」
「これで離婚だ!」
海青はすぐに詩緒を下ろし、秋帆の手から離婚届をひったくった。
彼の握った拳はギリギリと音を立てていた。
その声は鋭く、秋帆の骨の髄まで突き刺すようで、彼女は思わず涙がこぼれそうになったが、必死に堪えた。
そしてフロントに向かって無理やり笑みを作った。
「ペンを一本、貸してください」
「え、あっ......はい!」
受付がペンを渡そうとしたその時、海青が視線を向けた。
彼は何も言わなかったが、赤く染まった目は異様に恐ろしく、まるでそこから闇が滴り落ちるようだった。
受付はびくっとして手を引っ込め、震える声で言った。
「す、すみません......ペンがありません!」
秋帆が自分で取りに行こうとしたその時、カタンと音がして、詩緒のバッグから一本の万年筆が落ちた。
「きゃっ、ごめんなさい!わ、わざとじゃないの!」
彼女は慌てた様子を見せながらも、拾おうとはしなかった。
秋帆はそれを見てすぐに万年筆を拾い、海青に差し出した。
「サインして」
その場の全員の視線が、再び海青に注がれた。
誰の目にも、彼が本心では離婚したくないのは明らかだった。
先ほどの言葉も、ただの意地だったと。
しかし、もう矢は放たれた。
海青は万年筆を見つめ、目の色が急に険しくなった。
そしてそれを奪うと、ゴミ箱に投げ捨てた。
「誰がこんなものを持っていいと言った!」
彼は怒りを詩緒にぶつけた。
詩緒はすぐに涙目になって答えた。
「今日は大事な契約の話があるって言ってたから......持ってきたの......」
海青は一瞬気持ちが緩んだようで、深く息を吸った。
そして再び秋帆に向き直り、彼女が差し出した離婚届を目の前でビリビリに破いた。
「離婚したいのはいいが、この書類には問題がある。俺が弁護士にちゃんと作らせてから、改めて知らせる」
秋帆は、それが彼のただの言い訳であることを見抜いていた。
彼女は首を横に振り、冷たい声で言った。
「だったら今すぐ弁護士を呼んで。財産なら一円も要らない。とにかく、一刻も早くあんたと縁を切りたいの」
その言葉に、海青は彼女の腕を掴んで自分に引き寄せた。
赤く充血した目が、狂気じみていた。
「秋帆、自分が何を言ってるかわかってるのか?俺と別れてどうやって生きていくか、ちゃんと考えたのか?」
長いまつ毛が涙で濡れ、秋帆の目に溢れる悲しみは、まるで海のように深かった。
彼女は誰にも聞こえないような小さな声で、彼にだけ囁いた。
「前にも言ったでしょ?私は、もう死んだの」
「残り五日しかないのよ」
第7話
言葉が落ちると、空気が数秒間凍りつき、その後まるで氷の表面が一気に砕けたかのように音を立てて崩れた。
海青は秋帆を力強く突き飛ばし、怒鳴りつけた。
「一体何回そんな嘘をつけば気が済むんだ!」
秋帆はよろめいて、もう少しで倒れそうになった。
うつむいたまま苦笑する。
「私のことを信じてくれない......いつもそうだ。まあ当然か。信用なんて、最初からいなかったもんね」
海青は彼女をじっと睨みつけ、体を震わせるほど怒っていたが、何も言い返せなかった。
だが、ほんの一瞬で冷静さを取り戻し、皮肉な笑みを浮かべて言った。
「そうか。だったら、六日目に離婚してやるよ!」
そう言って、彼は詩緒の手を引いてそのまま背を向けた。
「一度ぐらい信じたって......!」
秋帆はすぐに後を追おうとしたが、ビルのゲートに遮られてしまった。
ドンッという音と共に地面に倒れ、高いヒールは片方が折れ、足首からはくっきりと捻挫の音が響いた。
「うっ......!」
呻き声を漏らしながらも、痛みをこらえて受付に必死の目で頼み込んだ。
「お願いします......ドアを開けてください!」
しかし受付が返事をする前に、海青の冷え切った声が響いた。
「入れるな!」
だが、その視線が秋帆の無惨な姿を捉えたとき、氷のような眼差しに一瞬だけ哀しみが滲んだ。
その様子を見た詩緒は、すかさず演技を始めた。
「海青さん......まだ顔がちょっと痛いの。見てくれない?」
海青は視線を彼女に戻し、彼女の頬にそっと息を吹きかけた。
「オフィスに戻ろう。氷で冷やしてあげる」
彼女は唇を噛みしめ、涙をこらえるふりをして言った。
「じゃあ秋帆さんは......」
詩緒の健気な演技に、海青は決意を固めたように言い放った。
「今後、俺の許可がない限り、誰も桑原秋帆をビルに入れるな!」
秋帆は二人の親密な様子を見つめながら、胸を裂かれるような苦しみに涙を流し、叫んだ。
「海青、一度でいいから信じてよ!本当に......私には、あと五日しかないの!」
だが、彼は一瞥もくれず、エレベーターに乗り込んでそのまま去っていった。
一瞬で空気が静まり返った。
秋帆は、周囲の視線が全て自分に集中しているのを感じた。
それは無数の針のように彼女の体を刺していたが、不思議ともう痛みはなかった。
ただただ、全身が冷え切った絶望に包まれていた。
しばらくして、彼女はふらつきながら立ち上がり、ビルを出ていった。
外の天気はどんよりと曇っていた。
バス停の前で立ち止まっていた二人の若い女性が、庄司グループのビルを見上げて疑問を口にする。
「ねぇ、さっきまで上で流れてたのって、庄司グループの社長がプロポーズしてる映像じゃなかったっけ?急に広告に変わってるんだけど?」
「この広告の女の子、そこまで美人ってわけでもないけど......なんか清楚な感じはするね。誰なんだろう......」
秋帆は足を止め、視線を電子看板へと向けた。
そこには詩緒が出演している広告が流れていた。
庄司グループの新しい「深き愛」ジュエリーシリーズの宣伝だった。
その中でひときわ目を引く指輪は、グループが特別に制作した百年記念コレクションの限定指輪だった。
秋帆はそれを見つめながら、意識がぼんやりしていった。
確かジュエリーデザインの段階で、海青が設計図を見せてきたことを思い出した。
「アキはどれが好き?」
秋帆は、楓の葉に似たデザインの指輪を選んだ。
「これが一番綺麗」
海青は微笑み、彼女の唇にキスを落としながら言った。
「俺もそれが好きだ。楓の葉って秋に一番輝くだろ?それを見ると、初めて学校で君を見たときのことを思い出す」
「この指輪は百年記念コレクションにして、販売はしない。ただ、君のためだけに作る」
秋帆は彼の胸に飛び込み、顔を見上げながら甘えたように言った。
「約束だよ?もし嘘ついたら......私、海青の前から消えてやるんだから!」
「命をかけて誓うよ」
第8話
あの頃の約束はまだ耳元に残っているようだった。
けれど、あの愛を託した指輪は、今や詩緒の指にはめられていた。
秋帆はその映像を見つめながら、いつの間にか涙をこぼしていたことにすら気づかなかった。
「あの......大丈夫ですか?」
さっきの二人の女の子が驚いたように彼女にティッシュを差し出した。
だが次の瞬間、彼女たちはさらに驚きの声を上げた。
「もしかして......庄司グループの社長夫人なんですか?」
秋帆はティッシュを受け取り「ありがとう」と一言。
だがその言葉を聞くと、苦笑して首を振った。
「もう違います」
「この世に永遠の愛なんて存在しない。過程は確かに美しいかもしれないけど、結末は......どれも似たようなもの」
そう言い残し、彼女はふらふらとその場を後にした。
二人の少女は、秋帆の寂しげな背中を見つめながら、互いに顔を見合わせた。
家に帰った秋帆は、熱を出して倒れた。
疲れ切った体でソファに横たわり、目を閉じるとそのまま意識を手放した。
そして夢を見た。
夢の中で彼女は、17歳のあの秋の日に戻っていた。
その日は学校の楓がひときわ鮮やかで、彼女が生まれて初めて遅刻した日でもあった。
校門の前に立っていたのは、海青だった。
十代の彼は痩せていて清潔感があり、彼女がノートに自分の名前を書き込むのを見て、涼しげな目元に笑みを浮かべた。
「秋帆......きれいな名前だな」
彼の澄んだ瞳に見つめられた瞬間、秋帆の顔は一気に赤く染まった。
深夜、熱はさらに上がり、彼女は意識が朦朧とした状態だった。
ぼんやりした中で、誰かが優しく自分を抱き上げ、熱を帯びた身体をそっとタオルで拭ってくれている感覚がした。
「海青......?」反射的に彼の名前を呼んだ。
「いるよ」返ってきたのは、どこかあどけなさの残る少年の声。
17歳の海青の声だった。
秋帆は勢いよく目を開けた。
だがリビングは真っ暗で、静まり返っていた。
そこにいたのは、自分ひとりだけ。
彼女はしばらく呆然とし、やがてそっと目を閉じ、涙がクッションを濡らしていった。
その後の三日間、秋帆は海青に一度も会うことができなかった。
彼は完全に無視を貫き、メッセージも電話も返さず、さらに秋帆のクレジットカードまで凍結された。
残された時間はあと二日。
追い詰められた秋帆は、やむなく彼の秘書に助けを求めた。
しかし、いつもは穏やかだった秘書の態度が一変し、冷たく突き放すような口調で言った。
「桑原さん、社長に連絡を取りたいなら、有川さんを通して下さい。この数日、社長はずっと彼女と一緒にいますから」
そう言って、一方的に電話を切られた。
携帯を握りしめた秋帆の胸に、屈辱感が込み上げた。
秘書の態度こそが、海青の意思をそのまま反映しているのだろう。
そのとき、詩緒からまたもやメッセージが届いた。
【秘書から聞いたよ。可哀想に。海青さんに会うことすらできないんだね〜】
さらに何枚もの写真が送られてきた。
すべてが海青と詩緒の親密なツーショットだった。
写っている部屋の背景は、秋帆にも見覚えがあった。
【正直に教えてあげる。今、海青さんと一緒にY国に来てるの。明日、彼は私にプロポーズしてくれるって!】
【見に来る?あ、でも......そういえばあなた、もうお金ないんだよね。昔私の大学の学費を出してくれた恩があるから、飛行機代くらいは送ってあげる。来なきゃ損だよ!】
そのメッセージが届いて間もなく、秋帆の口座には20万円が振り込まれた。
かつてご飯も食べられなかった貧しい少女が、今では海青の金で、堂々と秋帆を侮辱している。
秋帆は笑いながら、また涙をこぼした。
そして一切迷わず、Y国へのチケットを予約した。
長い道のりを越え、丸一日以上かけて秋帆がお城へとたどり着いたのは、最後の日の午後だった。
残された時間は、もう数時間だけ。
その数時間が過ぎれば、彼女は永遠にこの世を去ることになる。
第9話
美しいお城の中では、ヴァイオリニストが優雅な旋律を奏で、フラワーガールたちが花を撒いて祝福を捧げていた。
盛大でロマンチックな光景だった。
秋帆が旅の疲れも癒えぬまま駆けつけた時、ちょうど海青が婚約指輪を手に、詩緒に向かって片膝をついていた。
「詩緒、俺と結婚してくれるか?」
彼の視線は優しく、まるで溺れそうなほどに深く愛情を湛えていた。
その瞬間、秋帆は三年前の光景を思い出した。
あの時も、海青は彼女をそうやって見つめていた。ただ、あのときの瞳には涙が浮かんでいた。
詩緒は美しいウェディングドレスを身にまとい、長いトレーンがライトに照らされてきらめいていた。
彼女は頬を赤らめながら手を差し出した。
「はい!」
そのドレスは、かつて秋帆が着たものとほとんど同じだった。
まさか、たった数日で海青が同じドレスを作らせていたとは思わなかった。
彼女にとって大切だった思い出は、海青にとっては何の意味もなかったのかもしれない。花嫁が誰であろうと、彼には関係ないのだろう。
涙があふれ出し、手に持っていた離婚協議書の入った袋が「ぱさっ」と音を立てて床に落ちた。
だが、その小さな音は祝福の声にかき消され、誰の注意も引くことはなかった。
海青は詩緒を抱き寄せ、その唇にキスを落とした。
それ以上はもう見ていられなかった。
秋帆は衝動的に走り出し、叫んだ。
「海青!」
そのかすれた声は、幸せそうだった場を一気に冷やし、場内は静寂に包まれた。
海青はぼろぼろの彼女を見て、一瞬戸惑ったような表情を浮かべ、思わず詩緒を押しのけたが、すぐに表情を冷たく戻した。
「何しに来た」
秋帆は涙を拭い、苦笑を浮かべながら言った。
「お祝いに来たのよ。それと......」
彼女は離婚協議書を差し出した。
「離婚しに来たの」
海青は鼻で笑った。
「言っただろ、六日目に離婚するって。まだ時間はある」
秋帆は彼の袖を掴み、懇願した。
「お願い、もう私を解放して......サインだけでいいから」
彼女の目は真っ赤で、頬に髪が張り付いたその姿は、今にも壊れそうなガラス細工のようだった。
海青は一瞬体をこわばらせ、じっと彼女を見つめたあと、突然その手を振り払った。
「お前に俺と交渉する権利なんてあると思ってるのか?」
詩緒はすかさず海青の腕にしがみつき、その胸に寄り添いながら勝ち誇ったように秋帆を見た。
「海青さんがもう約束したじゃないですか。あと数時間だけですよ。そもそも今日じゃなきゃだめ?もしかして、私へのプロポーズを見て嫉妬しちゃいました?」
海青は彼女の髪を撫でて、冷たく言った。
「こいつにこれ以上言う必要ない」
秋帆の体は震えていた。
「海青......今日が、本当に私の人生最後の日なの。これは嘘じゃない......」
「もういい!」
海青は怒鳴った。
「秋帆、何度言わせるんだ。そんなくだらない嘘、もう聞き飽きた!お前が死ぬ?証拠は?死人が飛行機に乗れるのか?そんな嘘でもう一度俺を騙すなら、お前を精神病院にぶち込むからな!」
その瞬間、秋帆の中で張り詰めていた理性の糸が、ぷつんと切れた。
「海青!」
彼女は怒りと悲しみに満ちた声で叫んだ。
「私を傷つけてそんなに楽しい?どうして......一体どうしたら私を手放してくれる?」
「詩緒なんてただの遊びだって言ったじゃない!それなのに、今の茶番は何なの?そんなことまでしてたのに......どうして私を解放してくれないの......」
言葉の途中で、秋帆はまた涙をこぼし、その場に崩れ落ちた。
「私、嘘なんてついてない。あの夜......私は十七箇所も刺された。痛くて痛くて......すごく痛かった......」
その声はだんだんと小さくなり、秋帆は膝を抱えて、声を上げて泣いた。
まるで心に針を刺されたかのように、海青の目にも涙が浮かんだ。
彼は秋帆の腕を掴み、勢いよく立ち上がらせた。
「来い!」
詩緒は海青の袖を掴み、泣きそうな声で言った。
「海青さん、どこに行くの?」
第10話
「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」
海青はそう簡単に詩緒をなだめると、秋帆の手を引いてその場を離れた。
秋帆は抵抗せず、されるがままに書斎へと連れて行かれた。
部屋の空気は再び静まり返る。
海青はじっと秋帆を見つめ、長い沈黙の末、低い声で言った。
「......離婚、やめないか?詩緒とはもう別れるから......!」
秋帆は苦笑して首を振った。
「本当に別れるつもりなら、こんなところで言わない。あなた自身が気づいていないだけで......海青はもう彼女のこと、好きになってるよ」
それに詩緒は始まりにすぎない。
たとえ彼女がいなくなっても、きっとまた別の彼女が現れる。
海青の冷たい指先は、強く握りしめられて白くなっていた。
それでも諦めきれず、さらに言う。
「じゃあ、彼女を海外に残すよ。互いに干渉しないってことでどうかな......?」
胸の痛みがひどく、秋帆はもう何も言いたくなかった。
ただ、首を横に振った。
「無理だよ」
海青の目は赤くなり、ほとんど敵意のこもった目つきで睨みつける。
「なんでそんなにこだわるんだよ!俺から離れるならお前は......!」
秋帆はとうとう我慢できず、彼の頬を力いっぱい叩いた。
「私はもう海青のことを愛してないの!この意味、分かるの?裏切られたあの日から、すべては終わったのよ!」
その瞬間、空気が凍りついたように沈黙した。
海青は顔をそむけ、信じられないというように床を見つめ、目は血のように赤かった。
我に返ると、彼は無意識に手を上げかけた。
だが、結局その手は落ちることなく、ぎゅっと震えながら拳に変わった。
「......そう。離婚したいんだな?じゃあしてやるよ!ただし、後悔するなよ!」
そう言って海青は離婚届を乱暴に奪い取り、目も通さずにサインし、最後にはそれを秋帆の顔に叩きつけて怒鳴った。
「これで満足か?」
秋帆の頬はひりつき、真っ赤に腫れ上がった。
彼女は思わず一歩後退し、しばらく呆然とした後に、床に落ちた離婚届を拾い上げ、大切そうに胸に抱いた。
「やっと解放された......」
その姿を見た海青の怒りはますます燃え上がった。
「お前、絶対後悔するからな!」
歯の隙間から絞り出すような声でそう言うと、彼は踵を返して去ろうとする。
「海青!」
秋帆が彼の腕を掴み、涙で潤んだ瞳に怒りはもうなかった。
そして、どこか哀しげな笑みを浮かべながら言った。
「裏山のもみじの森、一緒に歩こう?最後のお別れってことで......」
海青は一瞬動きを止めたが、すぐにその手を振り払った。
「無理だ。これから先、お前が生きてようが死んでようが、俺には関係ない」
それだけ言い残し、振り返りもせずに立ち去った。
秋帆は彼の背中を見送りながら、胸の奥が麻痺するほど痛んだ。
それでいい。
これなら、自分が死んだって知っても、彼はもう悲しまない。
その頃にはもう空は完全に暗くなっていた。
秋帆は静かな空に浮かぶ冷たい月を見上げ、離婚届を胸に抱きしめながら、一人でもみじの森へと向かった。
月明かりが美しく、もみじは鮮やかに照らされていた。
彼女は林の中をしばらく歩き、時計が11時58分を指した時、スマホを取り出して一通のメッセージを海青に送った。
【海青。あなたを愛したことに後悔はない。あの頃の幸せは本物だったから。でも、もし人生をやり直せるなら......私はもうあなたと出会いたくない。だって、こんな結末は受け入れられないから】
送信ボタンを押した瞬間、ちょうど午前零時を告げる鐘の音がお城に鳴り響いた。
静かな夜に、その音はやけに大きく感じられた。
秋帆は虚ろな目で、メッセージ送信画面のエラーを見つめた。
頬には冷たい涙が流れていた。
月の光が降り注ぐなか、彼女は目を閉じて小さくため息をついた。
そして、そのまま跡形もなく消えてしまった。
ちょうどその頃、遠く離れた宮京の薄暗い下水道のそばで、誰かが警察に通報した。
「身元不明の女性の遺体がある」と。