雪降り、雲深く我を渡さず

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雪降り、雲深く我を渡さず

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三年前絢瀬若菜の両親は、鬼塚グループのビルで不可解な死を遂げていた。 上場を控えた鬼塚家は世論を鎮めるため、鬼塚隼人に絢瀬との結婚を強...

Chương (1)

第1章

三年前絢瀬若菜の両親は、鬼塚グループのビルで不可解な死を遂げていた。 上場を控えた鬼塚家は世論を鎮めるため、鬼塚隼人に絢瀬との結婚を強要した。 絢瀬はずっと、鬼塚が白鳥千早と結ばれなかったことを恨み、自分に怒りをぶつけているのだと思い込んでいた。そして彼女は両親の死の真相を探るため、鬼塚の全ての怒りと屈辱に耐えていた。 ある日、絢瀬は鬼塚のオフィス前で白鳥の甘えた声とその思わず漏れた言葉を耳にした。 「大丈夫よ。三年前、あの夫婦に私たちの関係を知られてしまって、このビルで死なせたんじゃない?」 絢瀬はよろめきながらその場を離れた。 「叔母さん、両親を殺した犯人が分かったわ。全て準備ができたから、一ヶ月後のヨーロッパ行きのチケット用意して」 第1話 「奥様、お待ちください。社長はただいま外出中でございます」 秘書の制止を振り切って、絢瀬若菜(あやせ わかな)は弁当箱を手にして、社長室まで足早に進んだ。 「大丈夫ですよ。お弁当を置いていくだけですから」 しかし、彼女がドアノブに手を掛けようとした瞬間、室内からはっきりと男のうめき声と、女の甘い喘ぎ声が聞こえてきた。 「あなた、すごい……もう、たまらない」 「我慢しなくていいよ。誰にもばれやしないから」 ――女のほうは白鳥千早(しらとり ちはや)の声だ。 差し伸べた手が止まり、震えるように引き戻された。 三年前のあの日。自分の両親が鬼塚ビルで命を落とさなければ、今の鬼塚夫人は白鳥のはずだった。 引き返そうとしたが、その瞬間に白鳥の声が再び耳に飛び込んだ。「三年前、あの夫婦に私たちの関係を知られてしまって、このビルで死なせたんじゃない?」 誇るような、得意げな声だ。 絢瀬の表情が凍りつき、心の傷が一瞬で引き裂かれて、血が滴る感じだった。 弁当箱を握る手に力をこめ、彼女は逃げるようにその場を立ち去った。 鬼塚隼人(おにつか はやと)との結婚を承諾したのも、三年間彼の前で犬のように従順に振る舞い、嘲りを受け続けてきたのも、全てこの日のためだった。 すべて、両親の死の真相を暴くためだった。 今、ついに分かった。 犯人は白鳥と鬼塚だ。 体の震えが止まらない。すでに予想がついたはずだったが、それでも信じたくなかった。 エレベーターから降りた時、その瞳は虚ろなままで、頭には憎しみで満たされていた。正面から歩いてくる鬼塚にさえ気づかなかった。 「奥様!どうなさったのですか?」 「絢瀬!」鬼塚の冷たい声が鼓膜を突き刺す。 顔を上げると、男の怒りと疑いの混じった視線にぶつかった。 彼女はぽかんとした。眉をひそめて鬼塚とその側の社員を見比べ、混乱したように呟いた。「あなた……どうして外から?今、社長室には……」 「何を言ってる?」鬼塚は怪訝そうだ。 絢瀬はハッと気づいた。つまり、さっき社長室で白鳥と情事に耽っていた男は鬼塚ではない? ならば、両親を殺したのも彼ではなかったのか? 胸の奥でふっと力が抜けた感覚があった。 次の瞬間、絢瀬の目には申し訳なさと、憐れみの色が浮かび上がった。 「隼人!お帰り!ずっと待ってたのよ」白鳥がハイヒールを鳴らし、鬼塚の腕をすり寄るように抱きしめた。 「あ~、靴が汚れちゃったわ。どうしよう?」 鬼塚が視線を落とすと、白鳥の黒のマットな革靴に白い液体が付着している。 白鳥はぺろりと舌を出し、「朝、牛乳をこぼしちゃってさ。これじゃ恥ずかしいわ」と言いながら、意味ありげに絢瀬を見た。 即座にその意図を悟った鬼塚は、冷たく命じた。「お前が拭け」 周囲の視線を浴びながら、絢瀬は静かにしゃがみ込んで、袖で白鳥の靴を丁寧に拭った。 ためらいがなく。 拒むこともなく。 立ち上がると、なぜか鬼塚の目の中の怒りはさらに燃え上がったように見えた。 白鳥は甘えた声で続ける。「わあ!お義姉さん、またスープ作ったの?うちのワンちゃん、ちょうど調子悪くて食欲なかったの。これ、もらってもいい?」 鬼塚が眉を上げ、声に威圧を込めて言った。「聞こえないのか?早くしろ」 絢瀬は終始うつむいたまま、鬼塚を見ようともしなかった。 そう言われれば、何も考えずに弁当箱を差し出した。 このスープは鬼塚が「飲みたい」とリクエストしたから、朝から煮込んだもの。 だが、犬が飲もうと、鬼塚が飲もうと、彼女にとっては同じことだ。どっちも人ではない。 「じゃ、私はこれで」 目の前のこの女はいつも通り従順で、瞳には一片の悲しみも見つからない。 その背中を見送りながら、鬼塚は思わず拳を握りしめた。 「隼人、私の家で映画でも見ない?」白鳥が首を傾げて聞いた。 「仕事がある」 「じゃあ、私も帰るね」 「待て」 帰ろうとする白鳥を呼び止め、鬼塚はその手からスープを受け取って、淡々と言った。「後で獣医を呼んでやるよ。病気の犬にスープは良くない」 周囲の社員たちは感嘆した。「鬼塚社長、白鳥さんのこと本当に溺愛してるよね。犬のことまで気遣うなんて……結婚さえしてなければ完璧なカップルだったなのに」 一方、絢瀬は家に帰ってからすぐ部屋に引きこもって、鍵をかけた後、電話をかけた。 「叔母さん、両親を殺した犯人が分かったわ。全て準備ができたから、一ヶ月後のヨーロッパ行きのチケット用意して」 第2話 鬼塚が夜遅く帰宅した時、絢瀬は既に寝ていた。 シャワーを浴びた後、彼は布団を乱暴に剥ぎ取り、ごく自然に寝ている人のパジャマを手際よく引き裂いた。 乱暴に起こされた絢瀬の首を締め上げ、いつものように命令した。「仮面を付けろ」 仮面というのは、鬼塚が専門スタジオで白鳥の顔を模型に特注したものだ。 絢瀬を辱めるための道具だった。 ベッドで絢瀬を狂ったように責め立てる夜には、彼は必ずこの仮面を着けさせた。 鬼塚が言うには、白鳥だと思わないと無理だそうだ。 男の動作は激しくて乱暴で、何かを必死に発散しているようだった。 仮面の下、絢瀬の虚ろな瞳はじっとこの男を見つめていた。 彼女には理解できなかった。なぜわざわざこんなことをする必要があったか。 初めて仮面を渡された時、彼女は拒んでいた。 「白鳥さんがそんなに好きだったら、直接彼女を呼んでくればいい。私は別に気にしないし、あなたと寝たいとも思ってないから、こんなことをする必要ないよ」 すると鬼塚は明らかに怒り出し、嫌悪を露わに言い返した。「ああ、俺はあいつが好きなんだよ。けどな、両親の命を引き換えにやっと鬼塚家に嫁入りできたお前が、俺に要求する資格がないんだ」 両親の話が出た瞬間、絢瀬は口をつぐんだ。 拒否などできなかった。 両親の死の真相を調べるため、鬼塚家に残る必要があったのだ。 こうして三年間耐え続けてきた。 今、ようやく逃げられる。 「つまらない女だな。いつまで無反応でいるつもりだ?死体とやってるみたいだ」鬼塚は彼女から離れ、怒りを滲ませた目で刺すように言った。 「お前には心がないのか?何をされても同じ反応しかできないのか?」 絢瀬は静かに仮面を外し、無反応のままだった。 「クソっ!」鬼塚は怒鳴ると、浴室に引き返した。 絢瀬はゆっくりと起き上がり、鬼塚がベッドサイドに置いたスマホに視線を落とした。 シャワーの音を確認しながら、彼女は慎重にスマホを手に取った。 何度も覗き見たおかげで、パスコードは覚えていた。 ラインを開き、震える手で医者の二文字を検索し、瀬戸という人のダイレクトメッセージを開いた。 【青酸カリありますか?家まで郵送ってください。】 医者から即座に返信が来た。【承知しました。】 絢瀬は浴室の方角に一瞥を投げ、素早くチャット記録を削除した。 緊張で指先が震えていたせいで、証拠を消した後、誤ってアルバムを開いてしまったら、そこに表示されたのは一人の女性の写真だった。 瞳孔が一瞬収縮した。その整った顔立ちは、紛れもなく彼女自身だ。 これは彼女の昔の写真だ! 思わず眉をひそめ、詳しく見ようとした瞬間、浴室の水音が止まった。 なぜ鬼塚が彼女の昔の写真を持っている? 写っているのは学生時代の面影で、少なくとも6年前のものだ。 疑問を胸に押し殺し、彼女はスマホを元の位置に戻し、鬼塚がドアを開ける前に目を閉じて眠るふりに戻った。 第3話 瀬戸先生の手配は迅速だった。 翌日、絢瀬のもとには彼から送られた小包が届いた。 一か月後は彼女の誕生日だ。 奇妙な偶然か、その日は白鳥千早の誕生日でもある。 いつもの慣例なら、鬼塚はその日、町中が知る豪華な誕生パーティーを白鳥のために開くはずだ。 そして彼女の計画が順調に進めば、その日が白鳥千早の命日ともなる。 「今場所を送るから、すぐ胃薬を持ってこい」 夕食後、鬼塚から突然の電話がかかってきた。 電話を切り、外の土砂降りといわゆる胃薬を一瞥して、絢瀬の唇に苦い笑みを浮かべた。 胃が弱いならどうして酒なんか飲むんだ? こんな天気の中、薬を届けろなんて……本音は薬などではなく、彼女を困らせ辱めるための口実に過ぎないだろう。 だが、もうどうでもよかった。 三年間も耐え抜いたのだ。今やもう残り僅か数日間、我慢できないわけがない。 絢瀬は運転手に高級会員制クラブへ向かわせた。 運の悪いことに、入った瞬間、鬼塚が仲間たちと自分について話しているのが聞こえた。 「隼人さん、絢瀬さんってほんと従順だよな。まるで犬みたいに」 「だから何なんだよ?隼人さんが好きなわけないだろ。あの女さえいなきゃ、とっくに好きな人と結婚できてたはずだから」 「それにしても厚かましいよな。いくら辱められても泣いたりわめいたりしねえ。まさに完璧な忠犬だぜ。ハハハ」 嘲りの言葉に、薬を握る指が微かに震えた。 ソファに座る鬼塚はそれらの言葉に一切反応を示さなかった。 絢瀬が入ってくるのに気づいて、その深い瞳がやっと動き、彼女に注がれた。 車で来たとはいえ、雨はあまりに激しく、降りてからクラブまでのわずかな距離でずぶ濡れになった。 髪は水を含み、頬には雨滴が伝う。 彼女はテーブルに薬を置き、鬼塚を一瞥することもなく、静かに言った。「薬は届けました。失礼します」 しかし、言葉が終わらないうちに、鬼塚は突然彼女の手を掴んだ。 彼女が顔を上げ、訝しげに見つめると、鬼塚は即座に手を離し、威圧的な声で命じた。「行くな。ここで酒をつけ」 周囲は皆、面白半分に見守っている。 絢瀬は一瞬呆然としたが、深く息を吸い、ゆっくりと鬼塚の前に進み出た。そして黙ってテーブルの酒瓶を取り、一人一人のグラスに丁寧に注いでいった。 「奥さんはほんと隼人さんの言いなりだな」と誰かが揶揄った。 鬼塚は彼女をじっと見つめ、突然立ち上がると怒りを含んだ声で言った。「ちょっとトイレ」 絢瀬はすぐさま隅へ退がり、俯いたまま黙り込んだ。 鬼塚に公衆の面で辱められることなど、もう幾度も経験済みだ。 だが彼女には理解できなかった。ここまで従順に、言われた通りにしているのに、なぜ彼はますます怒っているのだ? 「鬼塚さんがいると聞いて、ご挨拶に参りました!」突然、禿げた中年男が満面の笑みで個室のドアを開けた。 「隼人さんはトイレに」 「じゃ、少し待たせてもらうよ」男はそう言うと、隅にいる絢瀬に視線を移した。そして、目を剥いた。 「おい、このクラブ、いつからこんな美人の女の子がいたんだ?見たことないぞ」男は絢瀬に向かって歩み寄った。 「いや、それは……」誰かが止めようとしたが、絢瀬を見て、言葉を飲み込んだ。 「ねえ、一杯どうだ?この仕事、どれくらいやってるんだ?本当に可愛いな。終わったら、どこかで遊ばないか?」 男の目は猥褻そのものだった。 仲間の一人が調子に乗って言った。「彼女はこの仕事じゃないけどな。まあ、隼人さんに一声かければ、タダでベッドに放り込んでくれるかもよ」 「ほんとかい?」男の視線はさらに下品になり、そう言いながら、いきなり絢瀬の尻を触った。 絢瀬は即座に顔を上げ、男を睨みつける。 そしてバシッと男の頬を強く叩き、その場から走り去った。 ちょうど戻ってきた鬼塚と、涙目の絢瀬が廊下でぶつかった。 「どうした?」 絢瀬は答えず、ただ鬼塚を鋭く睨みつけると、そのまま去っていった。 彼女の脳裏には、先ほどの仲間の言葉がこびりついていた。 「隼人さんがタダでベッドに放り込んでくれるかもよ」 鬼塚は良い人ではない、心を動かすなと三年間、何度も自分に言い聞かせてきた。それでも、その瞬間、心が砕けそうな感じがしてならなかった。 ひょっとしたら、鬼塚は本当に他の男のベッドに自分を押し込むかもしれない。 涙を拭いながら、彼女は思った。白鳥しか見ていないあの男なら、平気で彼女を他の男に差し出すだろう。 だから、絶対心を許してはいけない。 たとえ胸が引き裂かれそうでも、計画は必ず遂行しなければ。 しかし、クラブの中では—— 事件の顛末を聞いた鬼塚の顔は、血の気が引いて冷え切っていた。 彼はテーブルの酒瓶を手に取り、一瞬の躊躇もなく男の頭に叩きつけた。 そして、先ほど間違った発言をした震え上がる仲間を指差し、冷徹に口を開いた。「あいつらの足を一本折れ」 「了解です、隼人さん」 すぐに、クラブ中に男たちの悲鳴が響き渡った。 個室は死の静寂に包まれる。 鬼塚は冷ややかに言い放った。「言葉は慎みたまえ。たとえ俺が好きじゃなくとも、彼女は俺の妻だ。次にこんなことがあれば、足一本では済まないぞ」 そして、汗だくで震える禿げ男の前にゆっくり歩み寄り、唇を歪めて尋ねた。 「さっき、どの手で触った?」 「右、右手です……」 ガキッ!鬼塚は男の腕を難なく折った。 第4話 絢瀬は雨に打たれながら一人で歩いて帰った。 道すがら、彼女はずっと考えていた。自分自身のこと、鬼塚のこと、そしてこれまでの忍耐と犠牲が果たして価値があったのかどうかを。 家に着くと、どうやら熱が出たらしく頭がぼんやりとして、思考がまとまらない。 そして彼女は、鬼塚が誰かと電話をしている声を聞いた。内容はわからないが、声は驚くほど優しく、表情も柔らかかった。 絢瀬は数秒間、呆然と見つめていた。だけどすぐに視線を逸らした。 記憶を辿っても、彼がそんな目で自分を見たことなど、一度もなかった。 電話の相手はきっと白鳥なんだろう。 身支度を済ませて、絢瀬は布団に潜り込み、震えていた。 あまりにも寒い。それだけではなく、頭もくらくらとして、軽いめまいを感じる。 すると突然、布団が剥がされ、ひんやりとした体温が寄り添ってきた。鬼塚だ。 でも彼女にはもうまぶたさえ上げられなかった。 鬼塚はすぐに彼女の異変に気づき、眉をひそめて尋ねた。「熱か?」 口を開こうとしたが、喉が焼けるように熱く、彼女は歯を食いしばって言った。「ただの慰み道具に、熱があるかどうか、聞いてどうする?」 鬼塚の動きは一瞬止まった。そしてその言葉に反応するように、前よりも増してまた激しく動き出した。 彼は乱暴に仮面を彼女の顔に押し当て、狂ったように欲望をぶつけた。 突然、携帯が鳴った。 鬼塚は画面に表示された名前を見て、一瞬ためらったが、応答した。 「隼人、さっき果物を切ってたら、指を切っちゃった……痛いよ」甘えた白鳥の声だ。 鬼塚は下の絢瀬をじっと見つめた。彼女は相変わらず無表情で、何も聞こえていないかのようだった。 再び抑えきれない怒りが込み上げてきて、鬼塚は絢瀬から離れ、床に落ちた服を掴みながら、驚くほど優しい声で答えた。 「なんて不注意だ。待ってろ、すぐ行く」 「千早バカだから、隼人がいないとだめよ」 鬼塚は去った。 絢瀬は自分の額に手を当てた。熱はさらに上がっているようだ。 彼女は自嘲的に笑い、そのまま意識を失った。 目が覚めれば、すべてが良くなっているならよかった。 彼女は長い長い夢を見た。夢の中の鬼塚は、とても優しかった。指先を少し擦りむいただけで、何時間も抱きしめ、慰めてくれた。 夢の中の彼は瞳には彼女しか映っていなかった。「若菜、お前だけを一生愛するよ」 目が覚めたとき、彼女は消毒液の匂いが充満する病室のベッドに一人で横たわっていた。手には点滴の針が刺さっている。 医者がちらりと彼女を見て、言った。「気が付きましたか?あれだけ高熱を出しながら薬も飲まず、肺炎にまでこじらせて。使用人が連れて来てくれなかったら、命がいくつあっても足りませんでしたよ」 肺炎? 絢瀬は唇を噛んだ。死ななくてよかった。 計画がまだ終わっていない。こんなところで死んでしまったら、白鳥を利するだけだ。 点滴が終わり、絢瀬は処方箋を持って一人薬局に向かった。 そして、運命の悪戯か、病院の廊下で白鳥を連れた鬼塚とばったり出くわした。 「絢瀬さん?どうして病院に?まさか……」白鳥は口を尖らせた。「私のSNSを見て、わざと来たんじゃないよね?病気のフリをして、隼人に心配させようとしたんでしょう?」 絢瀬は穏やかな、しかし場違いな微笑みを浮かべた。「そんなに計算できないよ。白鳥さんのような発想は、私には思いつかないもの」 そう言い残し、二人を無視して歩き去った。 白鳥は鬼塚を見て、指を自分に向けながら言った。「あの人、どういう意味?私を計算高いって言ってるわけ?」 鬼塚は絢瀬の背中を見つめ、唇の端を上げた。「構うな。早く傷の手当てをしろ。会社に戻らなければならない」 白鳥は口実を作り、絢瀬をトイレに追い詰めた。 「絢瀬さん、ここには私たちしかいないんだから、そんな可哀想なふりはやめたら?」 「ふり?」絢瀬は笑った。 「そうよ。隼人から聞いたわ。あなた、ベッドの上で私の真似をしないと、彼が興味を失っちゃうんでしょう?本当に感心するわ、そんなことまで我慢できるなんて。あと、昨日の夜、隼人はとっても優しかったの。最高だったわ」 絢瀬は顔を赤らめながら得意げに話す白鳥を冷ややかに見た。「そう?それなら、どうぞ彼を奪っていてください。私は彼のことが好きでもないし、あなたが奪おうと気にもしないわ。それとも、あなたは元々愛人の名が好きだったのか?まさか、奪う力がなかったの?」 「あなた……!」 白鳥が怒りだそうとした時、ふと、鬼塚が近づいてくることに気がついて、とっさに策を思いつき、わざと足を滑らせ、大きく後ろに倒れた。 腕がドアに擦れ、長い傷ができた。 「痛い……!絢瀬さん、私のことが嫌いなのはわかるけど、そこまでするとは……!」満面の涙で、白鳥は泣き叫んだ。 鬼塚が背後から現れ、白鳥を抱き上げながら、絢瀬を暗い目で睨みつけた。 「大人げない真似はやめろ。二度と千早に手を出すな。言っておくが、たとえ彼女が死んで、世界中でお前しかいなくなっても、俺はお前を愛さないよ」 そう言い捨て、鬼塚は白鳥を抱えて走り去った。 絢瀬はその場に立ち尽くし、二人の背中を見送りながら、拳を徐々に握り締めた。 最後の一片の期待も、消え去った。 元々好きではなかった。そんなことを言われて、なおさら好きになれない。 ――なのに、なぜ胸の奥のどこかが、引き裂かれそうなほど痛むのだろう? 鬼塚は白鳥を診察室に運ぶと、すぐに廊下に出て、タバコに火をつけた。 さっき絢瀬の言葉が、まだ耳に残っていた。 「好きでもないし、気にもしない」 ……本当に、もうちっとも好きじゃなくなったのか? 彼らの過去は、もうすべて意味を失ったのか?彼が何をしようと、他の女とどれほど親しんでも、彼女はもう一切気にしないのか? 胸がますます詰まり、彼はタバコを深く吸い込み、鬱屈した感情を振り払おうとしたが、何の効果もなかった。 第5話 鬼塚は白鳥を家まで送り届けて、白鳥はしなやかに彼の手を握り、甘えた声で言った。「隼人、私、甘野屋の抹茶ケーキが食べたいの。あなたの家の近くにあるお店よ。絢瀬さんに買って届けさせてくれない?」 鬼塚は黙ったまま、何を考えているのかわからない。 白鳥は続けた。「お願い、本当に食べたいのよ」 「わかった」 電話を受けた絢瀬は、すぐにケーキを買いに向かった。 彼女は白鳥を天まで持ち上げるつもりだ。どうせ彼女が威張れるのもあと数日しかないのだ。 ケーキを届けると、絢瀬はすぐに引き返した。二人の顔をもうこれ以上見たくはなかった。 彼女は気づかなかった。白鳥は彼女を見る目には一抹の興味と嘲笑が浮かんでいた。 白鳥家を出た絢瀬は、まだ状況を理解していないうちに、突然二人の大男に立ちふさがれた。 男たちは絢瀬を傍らの野原に引きずり込み、期待に胸を膨らませながら手を擦り合わせた。 「おいおい、こんなに可愛い小娘だぜ。ちょっと手を出すのが惜しくなっちまうな」 「何をするつもり?」絢瀬は警戒した表情で、周りの荒涼とした人気のない環境を見回したが、あるのは遠くにぽつんと灯りのついた別荘だけだった。 鬼塚と白鳥に助けを求めるなんて、不可能に等しいだろう。 「これが何かわかるか?」一人の男が手にした瓶を指さし、得意げに言った。「中身は硫酸だ。だがな、俺たちを恨むなよ。頼まれてやってるだけだから」 「兄貴、こんなに可愛いんだから、まず遊ばせてくれよ。それから顔を潰しても遅くねぇだろ」 「いいぜ、だが早くしろよ」 絢瀬の全身に寒気が走った。 硫酸?顔を潰す? 彼女は抵抗してみたが、男女の力の差はあまりにも大きく、全く無駄だった。 絶望の淵で、涙が頬を伝う。歯を食いしばり、ためらいながら尋ねた。「誰の依頼で来たの?その人がいくら払ったか教えて。私が倍払うから」 「ハハハ、ありえないだろう?お前の金は全部あいつのもんだから」 絢瀬の服は闇の中で引き裂かれ、白く滑らかな肌が露わになった。彼女の心もまた、残酷に引き裂かれた。 彼女のお金は全部あいつのもの?つまり、鬼塚? あの人はもう彼女をここまで憎んでいたのか? 「何をしている!」突然、耳慣れた男の声が響いた。 二人の男は慌てて絢瀬から離れ、ズボンを上げながら、いつの間にか現れた鬼塚と白鳥を不安そうに見た。 絢瀬のメイクはもう涙でぐしゃぐしゃになっていた。本当に恐怖を感じていたのだ。 状況を悟った白鳥はすぐに言った。「隼人、この二人はうちの運転手だ。普段はとても真面目な方たちなの。もしかして絢瀬が……彼らを誘惑したんじゃないかしら?」 男たちもすぐに続けた。「そうそう、こいつが俺たちを誘惑したんです」 鬼塚の深い瞳は絢瀬に向けられ、みじめな彼女の姿を見て、怒りが頂点に達しようとしていた。 彼は必死に感情を抑えながら、絢瀬に問うた。「そうなのか?」 絢瀬は口元を歪め、虚ろな目で男の視線を受け止めて、冷笑しながら言った。「ええ、私が誘惑したよ。どうせ命もないのに、貞節なんてどうでもいい」 「お前!」怒りが爆発した。彼は前に出て絢瀬の手首を強く掴み、ついに我慢できずに彼女の頬を強く叩いた。 絢瀬は何も言わず、ただ彼を見つめただけだった。 彼女の目に込められた絶望と憎しみは、鬼塚の心を震えさせた。 焦りと後悔が一気に込み上げた。 口を開き、何か言おうとしたが、絢瀬は既に走り去っていた。 鬼塚はただ長い間その場に立ち尽くし、心乱れ、胸中は混乱の渦だった。 その時、白鳥の携帯が突然鳴り響いた。 電話に出ると、相手が何を言ったかはわからないが、彼女の表情は見る見るうちに険しくなった。 電話を切り、白鳥は慌てて鬼塚の腕を掴み、泣き声混じりに言った。「隼人、どうしよう?さっき病院から電話があって、おじいちゃんが階段から落ちて、今大出血で手術中なんだって!」 「すぐに病院に行こう!」鬼塚は言った。 「でも、おじいちゃんはRh陰性なの。病院では今血液が足りないって。どうしよう?私はおじいちゃんに育てられたの、絶対に助けないと!」 病院に向かう途中、鬼塚は条件に合う人を探して病院で献血させるようと、絶えず連絡を取り続けていた。 「そうだ、隼人、私の記憶が正しければ、絢瀬さんはその血液型だったような!」白鳥は突然目を輝かせ、何かを思い出したように言った。 鬼塚の表情は暗く、何を考えているのかわからなかった。 白鳥は彼の手を握り、懇願した。「隼人さん、お願い、おじいちゃんを助けて!おじいちゃんもずっとあなたのことを気に入ってくれて、面倒を見てくれたでしょう?見殺しにするつもり?」 喉仏が上下した。鬼塚は視線をそらし、目の底に苦しむような色が浮かべたが、秘書に指示を出した。「すぐに絢瀬を病院に連れて来い!」 病院で、白鳥の祖父に献血するよう求められた絢瀬の顔には、呆れ果てたような笑みだった。 「嫌よ!」昔、白鳥は彼女の両親を死に追いやったのに、少しも後悔していなかった。今更その祖父を救えだって?世の中にそんな都合のいい話があるものか? 鬼塚は手術室の前に立ったままで、何も言わなかった。 白鳥は絢瀬を脇に引き寄せ、二人だけに聞こえる声で言った。「絢瀬、よく考えた方がいいわよ。忠告を聞かないと後悔するわよ」 絢瀬は眉をひそめて、その意味が理解できなかった。 「何が言いたいの?」 第6話 白鳥は携帯を軽く振りながら、陰険な口調で言った。「あなたのベッドでの恥ずかしい姿、全部隼人が動画に撮ってるのよ。私の携帯に入ってる。相談してると思って?これは通告だ。全世界に公開されたくなければ、従ったほうがいいわよ」 絢瀬の顔色が一瞬で青ざめた。 ゆっくりと振り返り、鬼塚の背中を睨みつけると、足元から頭のてっぺんまで、凍りつくような冷たさが全身を駆け巡った。 しばらく沈黙が続いた後、彼女は歯を食いしばりながら頷いた。 病院のベッドに横たわり、医師が自分の血管から鮮やかな赤い血液を何本も採取するのを見つめながら、絢瀬はついに涙をこぼした。 鬼塚、あなたは本当に白鳥を愛しているのなら、なぜ世間の目なんかを気にして私と結婚したの?なぜ私だけがこんな目に遭わなければいけないの? 一方、手術室の前では、医師が検査結果を確認しながら鬼塚に告げた。 「鬼塚様、奥様は6年前に大手術を受けられています。可能であれば、近いうちに再検査をおすすめします」 「手術?」鬼塚は驚きを隠せず、「何の手術だ?」 「心臓関係のようです。当時は成功したのですが、やはり一度詳しく調べた方が……」 「わかった」 6年前のことを思うと、鬼塚は思わず拳を握り締めた。 白鳥の祖父の安全を確認した後、鬼塚は暗い表情で絢瀬の病室に現れた。 「医者から聞いた。お前は6年前に手術を受けたそうだ。何があった?」 絢瀬はゆっくりと目を開け、頑なで嘲るような眼差しを鬼塚に向けた。 「あなたに何の関係ある?もしかして、私の血が汚れてると思ってる?じゃあゴミ箱に捨てれば?別に構わないよ」 「お前!」隼人は怒りに震え、その場を去った。 天井を見つめながら、絢瀬は深くため息をつき、こめかみを押さえた。 6年前の手術って?彼女自身も覚えていなかった。 ただ、あと5日もすれば、白鳥はこの世から消えるんだ。 そして、鬼塚――私たちも、これで終わりね。 誕生日パーティーの日はあっという間に訪れた。 絢瀬はすでに荷物をまとめ、スーツケースも準備済みだった。 計画が成功次第、すぐにヨーロッパへ飛ぶつもりだ。 例年と違い、今年のパーティーは自宅で開催されることになった。逆に都合がいい。 階下ではゲストが賑わっている。 一方、階上は静かで、廊下に潜んだ絢瀬の耳に、女の甘えた喘ぎ声がかすかに聞こえてきた。 白鳥の声だ。 鬼塚と何をしているのか、想像に難くない。まさに計画通り。 絢瀬は息を殺し、そっとドアを開けると、中の声が一瞬よりはっきりと耳に伝わった。 「隼人……胸が苦しいの、揉んでくれない?」 「ねえ、今日のパンツ、何色だと思う?」 耳をふさげたらよかったが、胸に込み上げる吐き気に耐えながら、絢瀬は白鳥のバッグに手を伸ばした。 口紅を取り出し、事前に用意していた青酸カリを塗りつけた後、元の場所に戻した。 そして、薄笑いを浮かべ、絢瀬は振り返らずにその場を去った。 「鬼塚さん、先日のオークションで60億のネックレスを落としたそうね。イギリス王妃の愛用品だって」 「白鳥さんへの愛は本物よね、何年経っても変わらなかった。絢瀬さんって本当に可哀想……ちっとも愛されない妻なんて」 噂話が聞こえてきたが、絢瀬はただ冷笑した。 鬼塚の愛なんて、要らないわ。 「絢瀬さん」 突然、肩を叩かれた。振り向くと、優しげな老人が立っていた。 「どなたですか?」 「白鳥千早の祖父の白鳥源蔵(しらとり げんぞう)です。先日は輸血をありがとうございました」 絢瀬は胸が締めつけられるような感覚に襲われた。目の前の人は白鳥のお祖父さんなのに、なぜか、憎めない。むしろ親近感さえあった。 「他の人でも、助けますよ」 「これからもし何かあっても、いつでも頼ってください。絢瀬さんにはどこか縁を感じますね」 「はい」喉が熱くなった感覚だ。 そして、パーティーが始まった。群衆の期待の眼差しのなか、鬼塚は白鳥にプレゼントを贈った。 だか、それはただのダイヤのネックレスだった。 あの60億の品ではない。 白鳥も心の中でがっかりしたが、無理やり笑顔を作り、鬼塚の頬にキスした。 「ありがとう、隼人。私のこと、本当に大切にしてくれるのね」 「ああ」鬼塚の視線は、群衆の中の絢瀬に向いていた。 彼女はただそこにいて、冷ややかに見つめるだけだった。目には嫉妬も怒りもなく、まるで知らない人の事を見ていたように。 胸が苦しくなった。 あの60億のネックレスは、本当は絢瀬への贈り物だ。さっきも書斎で既に秘書に命じていた。 彼は忘れるものか。今日は絢瀬の誕生日でもある。 彼はこのパーティーが終わり、皆が帰った後、最初に彼女に祝福を伝えるつもりだった。 パーティーはまだ続いている。 突然、鬼塚とダンスをしていた白鳥は口から泡を吹き、そのまま倒れた。 場内は騒然となった。 「早く救急車を!」 救急車は駆けつけて、白鳥を運ばれた。 救急車に同乗する前に、鬼塚はちょっとためらった。彼は冷たい表情をしている絢瀬の方を一瞥した。 時間を確認しながら、彼は心の中で願った。絢瀬の誕生日が終わる前に、必ず零時までに、戻るようにと。 白鳥はどうして急に倒れたのか分からないゲストたちは混乱のままだった。 無人の隅で絢瀬の口元にはやっと得意げな笑みが浮かんだ。青酸カリは猛毒だ、白鳥はこのまま死ぬだろう。 たとえ一命を引き留めたとしても、何ならの後遺症は残るはずだ。 混乱に乗じ、絢瀬はスーツケースを持ち、空港へ向かう車に飛び乗った。 飛行機の窓から、街の明かりを見下ろしながら、彼女は静かに笑った。 さよなら、鬼塚隼人。残りの人生で、もう二度とあなたと会わないように。