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愛されし者の囚われ
「市村さん、覚悟を決めたわ。ハリウッドでやっていく。あなた専属の脚本家として、この月末にはそっちに飛ぶ」 吉永凛音は妊娠検査の結果を握...
Chương (1)
第1章
「市村さん、覚悟を決めたわ。ハリウッドでやっていく。あなた専属の脚本家として、この月末にはそっちに飛ぶ」
吉永凛音は妊娠検査の結果を握りしめ、撮影現場の隅で電話をかけていた。
寒さが厳しく、彼女は足を踏み鳴らしたが、それでも手足の冷たさは和らがなかった。
電話の向こうからは、低くて心地よい男性の声が響く。「君の才能なら、もっと大きな舞台に立つべきだとずっと思ってたよ。だけど草野のために、この八年間で僕の誘いを九十九回も断ったんだ。今回は本当に彼を置いていけるのか?」
「うん、もう彼はいらない」
凛音は妊娠検査の紙を握りしめながら、苦笑いを浮かべた。
第1話
「市村さん、覚悟を決めたわ。ハリウッドでやっていく。あなた専属の脚本家として、この月末にはそっちに飛ぶ」
吉永凛音(よしなが りおん)は妊娠検査の結果を握りしめ、撮影現場の隅で電話をかけていた。
寒さが厳しく、彼女は足を踏み鳴らしたが、それでも手足の冷たさは和らがなかった。
電話の向こうからは、低くて心地よい男性の声が響く。「君の才能なら、もっと大きな舞台に立つべきだとずっと思ってたよ。だけど草野のために、この八年間で僕の誘いを九十九回も断ったんだ。今回は本当に彼を置いていけるのか?」
「うん、もう彼はいらない」
凛音は妊娠検査の紙を握りしめながら、苦笑いを浮かべた。
電話を終え、撮影現場に戻った。他のスタッフと一緒にモニターで撮影を見守る。
カメラが向いている先では、彼氏の草野拓斗(くさの たくと)が志賀芽衣(しが めい)とキスシーンを撮っていた。
芽衣にキスする拓斗は、まるで本当に恋しているかのように深く情熱的だった。
あんなに切なく、愛おしそうな表情を、凛音は一度も見たことがなかった。
芽衣が現れる前は、凛音を気遣って、拓斗は一切ラブシーンを受けなかった。彼女の前で他の女性と親密な演技なんて、絶対にしなかったのに。
凛音は過去のことを思い出すと、胸が苦しくて息もできない。
「カット!今日はここまで、お疲れ様でした!」
監督の声が響くと、現場は一気に明るくなった。
拓斗のアシスタントたちがすぐに駆け寄り、上着をかけ、保温ボトルを渡す。
凛音は、拓斗が芽衣と楽しそうに話しながらこちらに歩いてくるのを見て、無意識に道を譲った。
かつて彼が言った「人気に影響するから」との一言で、彼女は八年間も秘密の恋人でい続けた。
この事実を知っているのは、彼のマネージャーと、数人の親しい友人だけ。
拓斗は凛音を徹底的に隠し、存在すら匂わせなかったくせに、芽衣とは堂々と仲睦まじく振る舞っていた。
芽衣のことでは、凛音は何度も拓斗と衝突してきた。
でも彼はいつも、「仕事の一環だ、無駄に騒ぐな」と冷たく言い返すだけだった。
そのとき、制作担当の竹内香織(たけうち かおり)が近づいてきて、噂話を始めた。
「草野くんと志賀さんのキスシーン、ほんとリアルだったよね。ホントのカップルみたい!業界でも付き合ってるって噂になってるけど、凛音ちゃんはどう思う?」
「……さあ、わからない」
「え、全然気にしてないの?まあいいけど、凛音ちゃんは人気脚本家なんだし、草野くんとは距離取った方がいいよ?TwitterでCPオタにめっちゃ叩かれてるよ。『図々しい、不倫女』とか言われてたけど、気にしてないの?」
気にしてないわけがない。
あまりの誹謗中傷に、凛音は鬱になりかけて、布団の中で何度も泣いた。
拓斗に「交際を公表してほしい」と頼んだこともある。
でも彼は拒否した。
「何騒いでるんだよ?公表しないのはお前を守るためだろ?ブスで、欠点だらけで、情緒不安定で面倒くさいお前が本命だってバレたら、ファンに毎日監視されるぞ。耐えられるのか?」
本当に守るためだったの?
自分は彼の言うように、そんなにダメな人間なの?
もしかして、ただ拓斗が自分を愛していないだけなんじゃないかと、凛音はそう思った。
でも、そう言い捨てた彼が、後から優しく抱きしめて、プレゼントを山ほど買ってきて、「愛してるよ」と囁くたびに、自分が悪かったのかと思ってしまう。
凛音は彼を疑ったことに、罪悪感すら覚えていた。恋に溺れ、自分を見失っていた。
でも数日前、拓斗が酔ってうっかり漏らした言葉で、凛音はすべてを知った。
彼にとって自分は、芽衣の代用品でしかなかったことを。
ブンッ。
スマホのバイブ音が、思考を遮った。
拓斗からメッセージだ。【凛音ちゃん、会いたいよ。ちょっと来て】
凛音は唇を引き結び、少し迷ったあと、彼の元へ向かうことを選んだ。
彼女が十七歳のとき、父が失業し、母が癌になり、家庭は崩壊寸前だった。
そんな時、拓斗が2000万円を出して母の治療費を出し、父に仕事を用意してくれた。
大学入試の直前、酔っぱらいに右手を潰されかけた時も、彼が助けてくれた。
彼は、凛音にとってずっとヒーローだった。
ただし、彼氏としては失格だった。
凛音は深く息を吸って、スマホをしまい、拓斗のトレーラーへと向かった。
入った瞬間、彼がいきなりキスしてきた。
凛音は彼の様子を見て、芽衣がまた彼に冷たい態度を取ったのだと悟った。
芽衣に冷たくされたとき、拓斗は決まって凛音に甘えてくる。
凛音の目元は芽衣にそっくり。だから、顔の下半分を隠すと、彼にとってはちょうどいい代用品になる。
吐き気がこみ上げ、彼女は本能的に彼を押しのけた。「やめて……そういう気分じゃない」
もう、代用品としての愛には耐えられなかった。
拓斗は動きを止めた。
そして彼女を抱きしめたまま、肩に顔を埋めて甘えるように言った。「お前がいてくれてよかった。お前だけは、絶対に俺のそばから離れないでくれるもんな」
凛音は、何も答えなかった。
だって、あと七日で彼の元を離れるつもりだから。永遠には、いられない。
拓斗は気にした様子もなく、彼女の手を握りしめた。「なんでこんなに手が冷たいの?佐藤、マンゴーミルク持ってきて、凛音が温まるように!」
凛音はマンゴーアレルギーだった。
それは何度も彼に伝えていた。けれど、彼は一度も覚えたことがない。
彼の優しさを断れず、いつもアレルギー薬を飲みながら、マンゴーミルクを飲んでいた。
でも最近になって、ようやく気づいた。
彼が覚えていないんじゃなくて、芽衣がマンゴーミルクを大好きだったからだと。
凛音は目を伏せ、嫌悪を隠しながら静かに言った。「いらない。飲みたくない」
でも拓斗は聞いていなかった。
すぐに佐藤がマンゴーミルクを持ってきて、ついでに伝言をした。「草野さん、志賀さんがラブシーンの確認でお呼びです」
「うん、すぐ行く!」
拓斗の目が輝き、急いで立ち上がった拍子に凛音を押し倒しそうになった。
彼女のバッグが床に落ち、中身が散らばる。
彼は慌てて彼女を支え、床に落ちた荷物を拾った。
そして、拓斗は折りたたまれた妊娠検査の診断書を見つけて、手を止めた。「これ、何だ?」
第2話
凛音のまつげが小さく震えた。「これは……」
「カバンに入れておいたよ!凛音、俺は芽衣を探してくるから、お前は出るとき誰にも見られないように気をつけて!」
拓斗は妊娠検査の用紙をぐいっと彼女のバッグに押し込み、手渡すと慌ただしく立ち去った。
凛音は思わず彼を呼び止めた。「拓斗、もし私が妊娠してたら……」
「ちゃんと対策はしたし、大丈夫。妊娠なんてしないよ!それに、万が一妊娠しても堕ろしてもらう。そんなの、俺にとってスキャンダルだ!」
拓斗は再び彼女の言葉を遮って、逃げるようにその場を離れた。
凛音はその場に立ち尽くし、まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。
彼は、彼女に対しても、子どもに対しても、同じくらい冷酷だった。
それでいいのかもしれない。子どもの存在を隠して生きることに、これ以上罪悪感を抱かなくて済む。
ホテルに戻った凛音は、赤く腫れた目でSNSから拓斗に関する投稿をすべて削除し、彼のファングループからも退会した。
どんなに未練があっても、どれだけ苦しくても、彼のために作ったファンアカウントを潔く削除した。
そして、ミニカレンダーの23日の欄に、大きなバツ印をつけた。
彼女は、自分に七日間の猶予を与えた。拓斗との、この哀れな恋に終止符を打つための七日間。
七日が過ぎたら、永遠に彼の前から姿を消すつもりだった。
凛音がすべてを終えたとき、空はすでに明るくなりかけていた。
拓斗から電話がかかってきた。「今日、お粥と肉まんが食べたいな!」
「他の人に頼んで。私、忙しいの」
凛音は一睡もしておらず、頭が割れそうに痛んでいた。
以前なら、どれだけ体調が悪くても、彼が「お前の料理が食べたい」と言えば、無理してでも市場に行き、材料を買い、料理をしていた。
拓斗は味にうるさくて、美味しくて新鮮でなければ絶対に口にしなかった。
近年、彼はほぼ凛音の料理しか食べていない。
凛音は一度、真剣に彼に注意したことがあった。「あなたは胃が弱いんだから、三食ちゃんと食べて、好き嫌いしないで。私の料理しか食べないなんて、もし私がいなくなったらどうするの?」
拓斗は、気にも留めずに笑って言った。「俺を愛してるだろ?俺を置いていくなんて、できるわけないよ」
その言葉を思い出すたびに、凛音の胸に込み上げるものがあった。
彼はまだ知らない。彼女が、あと六日で彼の前から消えるということを。
これから彼がまた胃を壊して、食事もまともに取らなくなっても、それはもう彼女には関係のないこと。
電話を切った凛音は、少し仮眠を取り、目が覚めるとデリバリーを注文した。
だが、まんじゅうのパックを開けてテーブルに置いた瞬間、拓斗が芽衣を連れて突然部屋に入ってきた。
「凛音!」
彼は怒鳴るように名前を呼んだが、テーブルの上にある熱々の肉まんを見て、少し表情が和らいだ。
「そりゃあ、メッセージも既読にならないし、電話も出ないわけだ。料理してたんだな。今度からさ、手が塞がってても一言言ってよ。本気で怒るところだった」
凛音は眉をひそめ、「自惚れないで、あなたたちのためじゃない」と言いたくなった。
けれど、言葉を発するより早く、拓斗は彼女を押しのけ、まんじゅうを取り上げると芽衣に食べさせ始めた。
「食べてごらん。凛音の料理は本当に美味しいんだ。きっと気に入るよ」
芽衣は彼の手から一口食べ、わざとらしく彼の指先を舌でなぞった。
彼はその様子を見つめながら、目に欲望を浮かべていた。
凛音はもう食べる気をなくした。
彼女が胸がむかつき、席を立とうとしたとき、芽衣は声をかけてきた。
「吉永先生、あなたの料理、なかなかイケてるね。これから毎日食べたいな。このチャンス、大事にしてね。ファンの中には、私の料理係になりたいって子がたくさんいるけど、選ばれるのはあなただけなんだから!」
これは凛音が注文したデリバリーだ。味なんてたかが知れてる。
つまり、これはただの侮辱だった。
凛音はきっぱりと拒んだ。「私は料理人じゃない」
その瞬間、拓斗が怒鳴った。「もういいだろ!何様のつもりだよ」
芽衣はわざとらしく彼の腕を引いて、「拓斗君、吉永先生って優秀なんでしょ?あんまりひどい扱いしてると、他社に引き抜かれちゃうかもよ?」
拓斗は彼女の頭を優しく撫でながら、こう言った。「大丈夫。心配いらない。俺から離れてく人はいても、彼女は絶対に俺を見捨てない」
そして、凛音に向き直ったときには、冷たさだけが残っていた。「芽衣もこれからお前の料理を食べたいそうだ。問題あるか?もし嫌なら、俺の分ももう作らなくていい。どうせお前の料理にはもう飽きたんだ」
「わかった」
凛音は拓斗を見つめたが、もう言い返す気力すらなかった。
彼にとって、彼女の料理はもう飽きたもの。彼女自身も、もう飽きられていたのだろう。
でも、それでいい。あと六日後には、彼を自由にしてあげられるのだから。
第3話
どうせ彼女が作るわけじゃない。ただあと六日間、外食で済ませればいい。
凛音は二人のいちゃつく姿を見たくなくて、外に出て会社の同僚たちに送金を済ませる。そして一本の電話をかけた。
「会社にある私の私物、片付けて全部捨ててもらえる?もう全部新しくするつもりなの」
「わかった。すぐ行くよ」
「ありがとう」
それらはすべて、かつて拓斗が彼女のために用意したものだった。
以前は宝物のように大切にしていたのに、今となっては、一つも残したくなかった。
電話を切った凛音は、ミニカレンダーの24日に大きなバツ印をつけ、そのままノンストップで仕事に向かった。
脚本を書き直す必要があり、拓斗と芽衣の対応にも追われて、てんてこ舞いだった。
そんな状態だったから、25日の朝に市村礼司(いちむら れいじ)から電話がかかってきたとき、一瞬反応できなかった。「はい、どちら様ですか?」
「僕だよ!君、五日後にハリウッドに行くって約束、まだ覚えてるよな?」
その声から、相手がかなり緊張しているのが伝わってきた。
凛音は、彼の世界的な地位、「奇跡」とまで呼ばれる容姿、そして威圧感さえあるオーラを思い出した。
そんな完璧な人が、自分の一つの返事でここまで緊張するなんて思わなかった。
一気に意識が覚醒した彼女は、慌てて言った。
「覚えてる!」
「じゃあ30日の夜、ファーストクラスのチケットを取るけど、大丈夫か?」
「大丈夫、でもファーストじゃなくて普通席でいい」
そう答えた直後、拓斗が近づいてきて、彼女をじっと見つめた。「チケット?どこに行くつもりだ?」
「しばらく両親に会ってないから、ちょっと顔を見に行こうと思って」
凛音は、彼に嘘をついたことがなかったから、言葉がぎこちなくなった。
だが拓斗は気づきもせず、不機嫌そうに言った。「お前がいなくなったら、俺と芽衣は何を食べればいい?一番の家政婦と介護スタッフを雇ったから、帰る必要なんてないだろ」
その一言で凛音の喉は詰まり、かつての自分が哀れになった。
彼の中で自分は、家族や友人を犠牲にして、ただ彼の周りを回り続ける存在なのだろうか。
拓斗は彼女の沈黙を承諾だと勘違いし、さらに続けた。「何社かお前を引き抜こうとしてる会社があるって聞いたけど、連絡あったのか?」
「うん」凛音は適当に返事した。もはや言葉すら交わしたくなかった。
「どこからそんな自信が来るんだか。お前を引き抜けるなんて思ってさ。でも断るときは、ちゃんと丁寧にな。俺に恥かかせるようなことするなよ?」
凛音はうつむいて、感情を隠したままぽつりと聞いた。「もし、私が本当に辞める日が来たら?」
「冗談はやめろよ、全然面白くない」
拓斗は、まるで笑い話のように言って、彼女の手の甲にキスをした。「なんでまたこんなに手が冷たいんだ?佐藤にお前の好きなマンゴーミルク持ってこさせるよ!」
そして彼女の手からテイクアウトの袋を奪い、芽衣に朝ごはんを届けに走って行った。
凛音はその背中を見つめ、皮肉に口元を引きつらせながら、芽衣の無茶な要望に従って脚本を修正し続けた。
どれくらい経った頃か、香織がやって来た。
「凛音ちゃん、みんな志賀さんの受賞パーティーに行ったよ?なんでまだここにいるの?早く行こう、草野さんがホテル丸ごと貸し切って、今日志賀さんに公開告白するんだって」
その一言に、脚本修正で朦朧としていた凛音の頭が一瞬で真っ白になった。
いくら彼が身勝手でも、別れも言わずに他の女に告白するなんてそんなことあるはずがない。きっと誤解だ。
でも、彼女がホテルに到着すると目の当たりにしたのは……
「花火がすごい!」
「このバラの量、街中のを集めたんじゃない?」
「わあ、ドローンで巨大な顔が!しかも動いてる!芽衣と拓斗のだ!」
「これ、もうドラマよりロマンチック!草野さん、相当本気だね!」
周囲は拓斗の芽衣への愛を語る声で溢れかえっていた。
ただひとり、凛音だけが、その現場の華やかな飾りつけを見つめ、茫然と立ち尽くしていた。
第4話
花火、バラ、ドローンで描かれた人物画像……
それはかつて、凛音が拓斗に語った「一番理想の告白シチュエーション」だった。それを彼は、他の女に使ったのだ。
ステージに立つ拓斗と芽衣を見つめながら、彼女は思った。
自分が代わりだったと知っただけでも十分に傷ついていたのに、この光景はまるで心臓を剥ぎ取られ、生々しく地面に叩きつけられたようだった。
「吉永先生、来た?」
ステージ上で、芽衣がマイクを持って呼びかけた。会場中の視線が一斉に凛音に注がれる。
彼女は人に押されるようにしてステージに上がった。
拓斗は今日のことについて何の説明もなく、低い声でこう警告してきた。「今日の告白は俺にとって大事なんだ。余計なこと言うなよ」
まだ言葉を発する前に、芽衣が横から割り込んできた。
彼女は舌をちょこんと出して、わざとらしくからかうように言った。「何ヒソヒソ話してるの?拓斗君と吉永さんって、もしかして何かあるの?」
「ないない!絶対に誤解しないで!彼女は会社の脚本家だよ。ブスで性格も最悪で、見るだけで気分悪くなる。俺が彼女を好きになるなんて、目が腐ってもあり得ない!」
凛音は信じられない思いで拓斗を見つめた。
あまりにも必死に距離を取ろうとするその姿が、まるで彼女が穢れた存在であるかのようだった。
その瞬間、拓斗は彼女の目の中で完全に光を失った。
凛音は、自分の心臓を自ら抉り取るような痛みに耐えながらも、彼を心から消し去ろうと決意した。
ステージ下では、拓斗の友人たちがまだ茶化していた。
「拓斗のステータスで、吉永みたいな田舎者に興味持つわけないじゃん?」
「芽衣ちゃん、業界のみんな知ってるよ。拓斗が好きなのは君だけ。君が8年前に突然彼氏できて留学したとき、拓斗どれだけ落ち込んでたか!」
「今は君もフリーだし、もう拓斗にOKしてあげて!彼、何年も待ってたんだよ!」
凛音はその男たちの顔を見た。
彼女と拓斗の関係を、彼らは知らないはずがない。
以前は、ただ嫌われているだけだと思っていた。
でも今わかった。彼らは拓斗が本当に好きな人を知っていたから、最初から彼女のことなど眼中になかったのだ。
喉の奥が詰まるほど苦しくて、拓斗の冷たい視線に、もう滑稽さしか感じなかった。
ふと気づいた。彼女は一度も彼の本当の姿を見ていなかったのかもしれない。
「用事がないなら、私、もう降る」
あまりにも嫌気が差して、笑い声が飛び交う中、凛音はステージを降り、会場を後にした。
夜風が冷たい。
風が目に当たって、涙がこぼれそうになる。
拓斗を惜しんでるんじゃない。ただ、昔の自分が可哀想で仕方なかった。
凛音は唇を噛みしめ、腕をつねって、感情が溢れ出さないよう必死で堪えた。
八年間、拓斗はただ彼女を代わりとして扱ってきた。
それだけじゃない。今も別れを告げていないのに、他の女に告白するなんて!
演技力はさすがだった。でも、彼女の愚かさもまた本物だった。
スマホが震えた。立て続けに二回。
彼女は涙でぼやけた視界で画面を開くと、届いていたのは礼司からのメッセージだった。
礼司【航空券の写真】
礼司【待ってるよ】
【うん、五日後には行くから!】
凛音は目を赤くしながら返信した。
そう、あと5日で、彼女は永遠にここを離れ、拓斗や芽衣とは一切関わりなくなるのだ。
凛音は階段室で気持ちを落ち着かせてからホテルに戻ろうとした。
けれど、ほんの数分で芽衣がやってきた。
「やっと見つけたわよ、凛音!あんた、ただの代わりのくせに、よくも拓斗君の子どもなんか妊娠できたわね!今すぐ堕ろして、拓斗君の前から消えなさい。でないと、容赦しないわよ!」
凛音は眉をひそめた。どうして彼女が妊娠のことを知っているの?
その口調にも腹が立ったが、きちんと伝えるべきだと判断して、冷静に答えた。
「私は拓斗と別れるつもりだ。ただ、私は体質的に妊娠しにくいから、この子は産みたいの。心配しないで、月末には海外に行くわ。私も、この子も、二度とあなたたちに関わることはない」
だが、芽衣は最初から話し合う気などなかった。
いきなり手を伸ばし、凛音を階段から突き落とした。「こんな浅ましい女、たくさん見てきたわよ!子供を盾にのし上がるなんて、百年早いわよ!」
第5話
凛音は不意に階段から転げ落ち、踊り場でなんとか止まった。
驚きと恐怖で全身が痛み、息も絶え絶えだった。
そして、両脚の間に広がる血を目にした瞬間、彼女の顔色は一気に青ざめた。
「お願い、私と赤ちゃんを助けて!」スマホは壊れて使えず、凛音は震える体で芽衣に助けを求めた。
だが芽衣は自分の頬を叩き、床に座り込んだ。
「きゃっ!吉永先生、もう叩かないで!そんなことしても、私、拓斗君にあなたを好きになってもらう方法なんてないよ、ううっ!」
その騒ぎを聞きつけて、拓斗が駆け寄ってきた。
「芽衣、大丈夫か!?」
彼は焦った様子で彼女を抱きかかえ、そのまま行こうとした。階段の下にいる凛音の存在には全く気づかない。
「拓斗、助けて!」凛音は慌てて呼び止めた。
彼女の体から流れる血を見て、彼の表情が一変する。
だが、彼が動く前に芽衣が彼の胸にすがりつき、涙をぽろぽろと流した。
「拓斗君、吉永先生、私を陥れるために自分で階段から落ちたの。ほら、血糊まで準備してたんだよ?最初から私を悪者に仕立てるつもりだったんだ。私、彼女に何かしたのかな」
その言葉を聞いた拓斗は、凛音を見下ろし、顔に嫌悪の色を浮かべた。「お前、本当に気持ち悪い」
「違うの!拓斗、私じゃない、芽衣が私を……」
凛音の言葉は最後まで届かず、彼は芽衣を抱いたまま去っていった。
彼女は震える声で何度も彼を呼び止めたが、彼は一度も振り返らなかった。
階段の角で彼の姿が見えなくなるまで見送った凛音の胸には、震えるほどの絶望と、やがて強烈な憎しみがこみ上げてきた。
まさか八年も付き合ってきた彼が、こんなにもあっさりと芽衣の嘘を信じ、彼女を見捨てるなんて。
結局、彼女はただの代用品だったのだ。彼の中では、きっと犬以下の存在だったのだろう。
あの「一途な彼氏」とか「ヒーロー」なんて、全部、嘘だった。
拓斗は、この世で一番最低な詐欺師だ!
凛音は自力で立ち上がることさえできず、全身の激痛に耐えながら、這うように階段を上った。
血が床に滲み、意識が遠のきそうになるが、倒れるわけにはいかなかった。
こんなところで死んでも、誰にも気づかれない気がしたから。
彼女が声を枯らして助けを呼び続けた結果、ようやくホテルのスタッフが気づき、急いで病院に運んでくれた。そこから先は記憶がなく、病院に着いたときにはすでに意識を失っていた。
26日の朝、凛音はようやく目を覚ました。
軽い脳震とうと極度の疲労はあったが、命に別状はなかった。
だが、赤ちゃんはもういなかった。
手術室から出てきたとき、彼女は現実感もなく、ただ呆然としていた。
あとたった四日で全てが終わるはずだったのに、なぜ今こんなことに?
お腹の中に宿っていた命が、永遠に消えたのを感じた。
「ちょうどよかった、芽衣に謝ってこい」
背後から拓斗の声がして、凛音の手を引いた。
彼女は彼を見上げ、胸が張り裂けそうになった。「私、何もしてない。芽衣が私を突き落として私たちの赤ちゃんを殺したのよ!」
「芽衣は、お前が流産したと嘘をつくだろうって言ってたんだ。まさか本当にその通りになるとはな」彼の目は、完全に失望で満ちていた。
「嘘なんかじゃない。私は妊娠3ヶ月だったの。信じられないなら、医者に聞いてよ」
「もういい。言い訳は聞きたくない。今すぐ芽衣に謝れ。でないとお前のしたこと、全部ご両親に話すぞ」
彼の冷酷さは知っていたつもりだった。
けれど、まさか、その冷たさが自分に向けられる日が来るなんて。
母は乳がんの手術を数年前に受けていて、精神的なショックは禁物だった。
父は心臓病を抱えていて、強い刺激には耐えられない。
凛音は力を失い、かすれた声で言った。「わかった。謝る。だから、お願い、親には言わないで」
「最初からそうすればよかったんだよ」
体調の悪い凛音は早く歩けず、拓斗は苛立ち、彼女を無理やり芽衣の病室へ引きずっていった。「ほら、芽衣に謝れ!」
「ごめんなさい」凛音は拳を握りしめ、か細い声で謝った。
芽衣は「声が小さいよ。聞こえなかったな」と言った。
「ごめんなさい」
「なんか誠意がないって感じ?」
凛音は、彼女が求めているのが屈辱だとすぐにわかった。
彼女は父と母の顔を思い浮かべ、深く息を吸い、声を震わせながら言った。「私が卑しくて、最低で、草野さんが志賀さんに優しいのが羨ましくて、だからあんなことをしてしまった。全部私が悪い、ごめんなさい」
「ふふ、まあ今回はギリ誠意が感じられたかな。でもね、私、二発もビンタされたんだよ?謝るだけじゃ割に合わないでしょ?私、優しいからあんたを叩けない。自分で二発ビンタしてよ」
芽衣は拓斗の腕の中で、純真そうに目をパチパチさせながら言った。
凛音は、これほどまでに無恥な人間が存在するとは思わなかった。赤ちゃんを死なせておいて、さらに彼女にビンタさせようとするなんて!
彼女は悲しみと怒りを押し殺しながら、無意識に拓斗を見た。
けれど彼は目をそらし、ただ哀れむように言った。「やれよ。終わったら、もうこれで帳消しだ」
第6話
「は……」
凛音は思わず笑ってしまった。涙がつっとこぼれる。
あんな男を、どれほどいい人だと思い込んで、どれだけ愛してきたのか。自分の目が節穴だったことが、ただただ滑稽でしかなかった。
芽衣はからかうように目を細めた。「吉永先生、まさか被害者ヅラしてるの?」
拓斗は苛立ちを隠せず眉をひそめた。「早くやれ。芽衣は休まなきゃいけないんだ!」
「わかったわ」凛音は深く息を吸い、思いきり自分の頬を叩いた。
ぱしん。続けてもう一発。
彼女は燃えるような痛みを顔に感じながら、虚ろな目でふたりを見つめた。「これで満足?」
芽衣は唇を尖らせて首を傾けた。「なんか……ちょっと弱くない?」
拓斗は視線をそらしながら、吐き捨てるように言った。「続けろ」
ぱしん、ぱしん。
口元から血がにじむ頃になって、ようやく芽衣は満足げに笑った。
「吉永先生、これ撮っておいたから、グループチャットに送っておいたわ。あなたのためを思ってのことよ?恨まないでね」
凛音の顔は腫れあがり、ひりひりと痛む。もうここから早く立ち去りたい一心だった。「もう帰っていい?」
「いいよ。ただし、二度と流産したフリとかやめてよね。演技が下手すぎて、まるで道化師みたいだったわ」
死んだ我が子を思い出し、胸がぎゅっと締めつけられた。凛音は黙って踵を返し、ふらふらと歩き出した。
このどうしようもない恋愛の中で、自分は本当に道化師だったのかもしれない。
「夜はちゃんと飯作れよ。芽衣、カニラーメンが食べたいって。蟹味噌たっぷりな!」拓斗が追いかけてきて、まるで何事もなかったかのように命じてくる。
凛音はどうしてこの男が、何事もなかったかのように振る舞えるのか理解できなかった。
本来なら悲しみでいっぱいなはずなのに、心はもう、何の感情も浮かばない。ただ、吐き気がするだけだった。
「芽衣が私を階段から突き落として、子どもを殺したのよ。そんな人に料理なんて、絶対に無理!拓斗、今回は警察に通報しない。でも、よく覚えておいて。これで、私たちは完全に終わりよ」
拓斗が昔、凛音や家族にしてくれた恩は忘れない。でも、それはもう返した。
これ以上、その恩で縛ることはできない。
凛音の言葉は、断ち切るように冷たかった。
拓斗は一瞬、動揺の色を見せた。だがそれもすぐ怒りに変わる。「どういう意味だ?お前が芽衣を傷つけたんだぞ!どの面下げて警察に……」
病室の中から、甘えた声が飛んできた。「拓斗君」それだけで、彼は黙って凛音を振り切り、吐き捨てるように言った。「好きにしろよ、凛音」
その直後、病室からはキス音が漏れてきた。凛音は、昔の記憶がフラッシュバックする。
出会った頃の拓斗は、いつも寂しそうだった。彼はよく彼女に聞いてきた。
「お前は他の誰とも違う。お前だけは、俺を置いていかないよね?」
何が彼をそうさせたのか知らない。でも彼が不安になるたびに、彼女は何度でも言った。「うん。私はずっとあなたのそばにいるよ」
彼は彼女の男友達の連絡先を嫌がったから、全部削除した。
男と話すだけで機嫌が悪くなるから、極力関わらないようにした。
彼が「そばにいてほしい」と言えば、彼女はキャリアのチャンスさえ諦めて、彼のそばにいた。
八年。彼はそれが「当然」だと思っていた。
でももう終わった。
スマホがひっきりなしに鳴る。
開いてみると、自分が自分の頬を叩く動画が、複数のグループチャットに晒されていた。
【まるで捨てられた野良犬みたい】
【草野様の尻尾振ってる犬だよね。草野様がうんこ食えって言ったら、喜んで食べそう】
さらにはネットでも炎上し、拓斗と芽衣のカップルファンが大盛り上がった。
【ねえ見て!不倫者が制裁されてる】
【草野様、さすが!愛妻家すぎる!自社の脚本家にも容赦なし】
【脚本家やってりゃいいのに、勘違い女乙。身の程知らずが、自業自得だわ】
SNSは罵詈雑言で埋まり、凛音は全部のグループを抜けて、アカウントも削除した。
ちょうどそのとき、礼司から電話がかかってきた。「手伝おうか?」
「ありがとう。でも大丈夫。あと4日で、ここを出ていくから」
電話を切り、街を歩けば、「あの不倫者の脚本家、凛音でしょ」という聞きたくもない噂が耳に入る。彼女はタクシーで、かつて丁寧に作り上げた家へと戻った。
せめてもの救いは、年老いた両親がネットをやらないこと。
凛音は、体の痛みに耐えながら、ふたりのカップルスリッパ、歯ブラシセット、パジャマ、部屋の飾り、そして思い出のアルバム、手紙、旅行の記念品など、彼との八年すべてを、何ひとつ残さず捨てた。
そして、カレンダーの26日に、大きなバツ印をつける。
「もう少し。凛音、あと四日だけ、我慢すればいい」
彼女は空っぽになったお腹を押さえながら、ぽっかり空いた胸を感じていた。
八年間の恋は、全部ひとりよがりの空回りだった。
ただこの残り数日は、穏やかに過ごしたかった。
だが、27日の朝、拓斗から電話が鳴った。内容は「芽衣に弁当を届けろ」
拒否すると、今度は本人が芽衣を連れて現れた。
「芽衣の代わりに、お前が水落ちのシーンを演じろ」
凛音はもう、ここまで我慢してきた。あと少し、我慢すれば終わると思ってる。
けれど彼の要求は、もはや常軌を逸していた。
彼女は怒りを抑えながら、冷静に言った。「私は彼女のスタントなんてやらない。真冬の水に浸かったら、流産したばかりの身体じゃ、命に関わるのよ!」
第7話
その言葉を聞いた瞬間、芽衣は凛音に平手打ちを食らわせた。
「こんな寒い中、水に入るのがどれだけ辛いか、あんたもわかってるくせに!それなのにどうして、わざとスタントに賞味期限切れのミルクティーを飲ませて病気にさせたの?あんた、私を水に入れたいからそうしたんでしょ」
凛音は腫れた頬を押さえながら、悔しさを噛み殺して訴えた。「そんなことしてない!そもそも、あなたのスタントなんて知らないし」
だがその直後、拓斗の怒鳴り声が飛んだ。「黙れ!お前がやってないなら、凛音が嘘ついてるっていうのか?」
その場にいたスタッフたちも一斉に凛音を責め始めた。
「スタントがいない以上、身長も体型も顔も一番似てるのは凛音でしょ。あんたがやらなきゃ誰がやるの?」
「自分のせいで現場が混乱してるのに、責任取ろうともしないとか、マジで迷惑なんだけど」
「スタントが訴えないだけでもありがたいと思ってよね?よくもまぁ、のうのうと断れるわね!」
拓斗も冷たい目で凛音を睨みつける。「今日でクランクアップできるはずだったんだぞ。お前のせいで全体が止まるなんて、いい加減にしろ」
本当は何もしていないのに、彼女は皆の前でまるで悪者扱いされた。
何度も説明しようとしたが、誰も聞いてくれない。ただただ非難の声が浴びせられた。
そして結局、凛音は水に入ることを強いられた。
クランクアップできなければ、彼女は離れられない。
だから、どんなに理不尽でも、今は耐えるしかなかった。
水に入る衣装に着替えながら、凛音は死んだような目で拓斗に問う。「流産したばかりの恋人を水に入れさせるなんて、人として終わってるよ、拓斗」
「演技すんなよ。俺はちゃんと避妊してたし、お前が妊娠なんてするわけないだろ?いい子にしてろ。クランクアップしたら、両親に会わせてやるよ」
「もういい、拓斗。私、離れるから」
あと四日、すべて終わらせる日が来る。もう彼には二度と会わない。
本気でそう伝えたはずなのに、拓斗はまるで冗談のように笑って言った。「また拗ねて実家に帰るつもり?で、寂しくなって戻ってくるんだろ?いい加減、大人になれよ。そんな子どもじみた駆け引き、飽きたわ」
うるさいとでも言うように、彼は凛音を突き飛ばした。
氷のような水が骨の髄まで染み渡り、凛音は震えが止まらなかった。
冷たい風が吹きつけ、体中の細胞が悲鳴を上げる。
何度もNGを出され、長時間水に浸かっていたせいで、手足の力は抜け、熱が出て頭がぼーっとし、視界が揺らぐ。
意識が落ちるその瞬間、視界の端に映ったのは梧桐の木の下で、拓斗が芽衣と甘いキスを交わす姿だった。
滑稽すぎて、笑えてくる。
凛音は高熱で意識を失い、病院に運ばれた。
27日から29日までの三日間、拓斗は一度も見舞いに来なかった。
代わりにSNSでは、彼と芽衣の熱愛報道が流れ続けていた。
【トップ俳優草野拓斗、6億円で百カラットのピンクダイヤ購入、志賀芽衣にプロポーズか?】
【草野拓斗と志賀芽衣、西洋レストランでのデート現場をキャッチ】
【草野拓斗、「キスシーンは志賀芽衣だけ」とインタビューで発言】
退院した凛音は、家に戻り、カレンダーの「29日」にバツ印をつけた。その日になってようやく、拓斗がやってきた。
彼はブレスレットを差し出し、背後から凛音を抱きしめながら言った。
「この三日間は忙しくて、病院に行けなかった。これはお前のために選んだプレゼント。不機嫌になるなよ」
そのブレスレット、凛音はSNSで見たことがあった。芽衣に贈ったジュエリーセットのおまけだった。
彼女は無表情で彼の手を振り払った。「そんな高い物、私にはもったいないわ。芽衣にあげたら?」
「嫉妬してんのか?あれはあくまでカップル営業、仕事さ。お前が本命なんだからさ。何日ぶりかな、俺のこと、会いたかっただろ?」
拓斗はニヤリと笑い、いつものように、揉め事の後は、決まってあのことしか頭にない。
彼は彼女を抱き締め、マスクを着けてやった。
再び視線を合わせた時、彼の目は芽衣を見る時と同じ「深い愛情」に満ちていた。
「俺、お前のこと、本気で愛してるんだ。欲しいものは全部あげるよ。だから、もう冷たくしないでくれよ。お前がそうするたび、俺、胸が苦しくなるんだよ」
彼の言葉は、凛音に向けられたものなのか、それとも別の誰かへの告白なのか。
第8話
かつて、凛音はマスクが彼のちょっとしたフェチだと思っていた。
でも、今は真実を知って、ただただ気持ち悪く感じる。
彼女は顔のマスクを取り外して、彼を突き放した。「拓斗、もう無理」
滅多に拒否されることのない拓斗は興ざめした様子で聞いた。「生理中か?」
「うん」
凛音は彼を相手にするのがしんどくて、そのまま部屋を出た。
どうせまた、芽衣に捨てられて戻ってきただけ。そんなこと、もう慣れた。
彼女はスマホで芽衣のSNSをチェックした。
果たして、最新の投稿がこれだった。
【おじさんが撮影終わったって知って、会いに来てくれたの。ほんとに甘やかしてくれるんだ。一緒に出かけたら、カップルかって聞かれちゃった。似合ってるってことかな】
添えられてたのは、彼女とおじさんのツーショット写真。
その下には、拓斗の親友である玉城秀太(たまき しゅうた)のコメントだった。
【拓斗はお前のこと、何年も想ってきたんだぞ。お前が何を言っても、どんなことだってしてやったじゃねえか。死ねって言っても、本当に死ぬ勢いだった。なのに、なんでまた告白断ったんだ?他の男といちゃついてさ。お前、拓斗を犬扱いしてんのかよ】
芽衣【拓斗君はずっと私の親友だよ。おじさんも家族だし】
秀太【家族?血のつながりなんてないだろ?ただの他人の家に寄宿してる孤児じゃねーか!】
コメントはまだまだ続いていた。
それを見た凛音は、鼻で笑った。「また喧嘩して、こっちに戻ってきただけってわけね」
もうそれ以上は見なかった。彼女はスマホを閉じて、荷物の整理を続けた。
本気で見れば、凛音の持ち物が減ってることくらい気づくはずだ。
でも、拓斗は何も気づかなかった。
最後に忘れ物がないかを確認していたとき、拓斗が彼女のカレンダー帳を持ってきた。
「最近の一週間、全部の日付に線が引いてある。しかも『あと一日だけ』って書いてあるけど、何のこと?」
凛音は彼の手元を一瞥し、何でもないと言うように言った。「別に」
拓斗は笑って言った。「わかった!明日が俺たちの8周年記念日だから、覚えとけって意味だろ?そんな大事な日、忘れるわけないだろ?ちゃんと準備してるよ」
「うん」
どう思われてもいい。どうせ、明日彼が記念日を祝いたいなら、それを機にきっちり別れを告げてやる。
翌朝、目が覚めると、拓斗が大きな赤いバラの花束を抱えて目の前に現れた。
「凛音、8周年おめでとう!」
「……うん」
彼女は花束を受け取り、無造作に横へ置いた。以前みたいに嬉しそうに写真を撮ったりはしなかった。
それに、好きなのは赤いバラじゃなくてピンクの百合って、何度も言ったはずだ。
「気に入らなかった?次は別のにするよ」
「うん」
どうでもいい。
次なんて、もうないから。
拓斗は、凛音の変化に全然気づかなかった。
花を渡し終えると、家庭用の映画ルームでラブストーリー映画を一緒に見た。
主演は、彼と芽衣だった。
彼は夢中になって観ていたが、凛音はスマホを弄ってばかりで、まったく興味なさそうだった。
昼には、拓斗が珍しく自分で料理を作って、テーブルいっぱいに並べた。
さらに、秘蔵のワインを開け、二人にグラスを注いだ。
拓斗は椅子を引いて凛音を座らせると、グラスを掲げた。「凛音、8周年、本当にありがとう」
凛音はグラスに触れる気もなく、いきなり別れ話を切り出そうとした。「拓斗、私たち……」
そのとき、スマホが振動した。
拓斗は着信表示を見て一度切り、しかし二度目の呼び出しにはすぐ応答した。
彼は声を抑えて話した。「もう断ったんじゃなかったのか。何の用だよ?」
「拓斗君、苦しくてたまらないの。今すぐ来てくれない?」
芽衣の泣き声を聞くや、拓斗の態度は一変した。「どこだ?すぐ行く!」
彼は電話を切ると、上着を持って、そそくさと出ていこうとした。
「拓斗……」
彼女が呼び止めても、振り返りもしなかった。「待ってて!」
それだけ言って、車に乗り込んで、視界から消えた。
凛音は、テーブルいっぱいの料理を見下ろして、皮肉っぽく笑った。
待ってろって?もう、十分すぎるほど待ってきたわよ。
これ以上、改まって別れを告げる必要なんてない。
凛音は30日の日付にバツ印を付け、キャリーケースを引っ張り出した。
【別れよう、拓斗】
彼女はそのメッセージを彼に送り、何の未練もなく、空港へ向かった。
彼のことを八年間も愛してきた。だけど、その愛の痕跡を、たった八日間で全部消し去った。
これから先、もう二度と彼に会うつもりはない。