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前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意
滝川奈津美は三年間、黒川涼に尽くし続けた。自分の誇りも、プライドさえも捨て去るほどだった。 しかし涼にとって彼女は所詮、予備の選択肢、...
Chương (1)
第1章
滝川奈津美は三年間、黒川涼に尽くし続けた。自分の誇りも、プライドさえも捨て去るほどだった。
しかし涼にとって彼女は所詮、予備の選択肢、いつでも切り捨てられる存在でしかなかった。
神崎市の誰もが知っていた。涼が本当に愛しているのは白石綾乃であり、奈津美は安っぽい代用品に過ぎないことを。
結婚式当日、奈津美は何者かに拉致され、三日三晩もの間、散々な目に遭わされた。
それなのに涼は身代金を払うことを拒否し、むしろその日のうちに白石綾乃と結婚式を挙げてしまったのだ。
その時、奈津美の目が覚めた。
気づけば三年前、婚約パーティーの日に戻っていた。白石綾乃の自殺未遂の知らせを聞いて、涼が彼女を置き去りにした、あの日に。
周りの視線は冷ややかだった。
しかし奈津美は一切取り乱すことなく、ただ静かに婚約破棄を告げた。理由は「黒川グループ社長のED疑惑」。
その一言で世間は騒然となった。
かつて彼女を徹底的に軽蔑していた涼が、今度は彼女を壁際に追い詰めて言った。
「奈津美、こんな駆け引きが楽しいのか?」
「社長、厚かましいという言葉は初めて聞きました?」
第1話
神崎市の誰もが知っていた。滝川奈津美(たきがわ なつみ)が黒川涼(くろかわ りょう)に一途な想いを寄せていることを。
誇りもプライドも捨て去るほどの、狂おしい恋だった。
結婚式の日、白石綾乃(しらいし あやの)のたった一言で、涼は花嫁の奈津美を置き去りにし、カーウェディングで空港まで白石を迎えに行ってしまった。
三年もの間、心待ちにしていた結婚式は、奈津美の人生で消えることのない悪夢となった。
式当日、彼女は涼の仇敵に誘拐され、涼への報復として三日三晩も責め続けられた。
最後には全裸で甲板に縛り付けられ、犯人たちは涼への復讐として、その様子を生配信した。
冷たい潮風に全身が震え、奈津美は泣きながら命乞いをした。プライドは地に落ち、踏みにじられた。
その時、涼は何の迷いもなく綾乃と入籍していた。
「黒川、二千万円の身代金を払えば、お前の婚約者を解放してやる。さもなければ、海に沈めてやるぞ」
犯人は侮蔑的な声で最後通牒を突きつけた。
しかし返ってきたのは、冷ややかな嘲笑だけだった。
「穢れた女なんて、死のうが生きようが、俺には関係ない」
その言葉を聞いた奈津美は、凍りついた。
穢れた女?
まさか涼の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
涼の潔癖症は周知の事実で、奈津美はずっと純潔を守り通してきた。
この三年間、涼の言うことには絶対服従し、命さえ差し出す覚悟だった。
せめて罪悪感くらいは感じているだろうと思っていたのに。
でも違った。これが涼の本心だった。
電話を切られた犯人たちは激高し、奈津美を海に投げ込むよう命じた。
その瞬間、奈津美は自分が滑稽な存在でしかないことを悟った。
神崎市の誰もが知っていた。滝川奈津美は白石綾乃の代わりに過ぎないことを。
涼と結婚するため、誇りある地位も捨て、世間の噂にも耐え、涼のおばあさまの面倒を見続けた。
すべては涼のためだった。
三年もの時間をかけて、やっと涼の心を掴めたと思ったが、すべては他人のための土台作りに過ぎなかったと気付いた。
奈津美は絶望と共に目を閉じ、後悔の涙を流した。
もう一度人生をやり直せるなら、絶対に涼には近づかない――そう心に誓った。
「まさか!本当に飛び込むなんて!正気じゃないわ!」
「そこまでする必要ある?黒川様の指輪だからって、拾いに飛び込むなんて......」
「滝川が黒川様に尽くしてるのは周知の事実でしょ?プールに飛び込むくらい平気よ。裸踊りだって命令されりゃ喜んでやるんじゃない?」
周りから嘲笑の嵐が降り注ぐ。
息苦しさが込み上げてくる。
頭がクラクラする中、男たちの嘲るような笑い声が耳に響く。
「げほっ、げほっ......!」
やっとの思いで水面に顔を出した奈津美は、目の前の光景に我を疑った。
プールサイドには物見高い招待客ばかり。純白のドレスは水を吸って重たく体に張り付いている。
見覚えのある光景――三年前の婚約パーティーだ。
もしかして......タイムスリップ?
すぐに思い出した。前世では涼は、奈津美が黒川家の祖母を説き伏せて早めに婚約式を開かせたと誤解し、このパーティーで意図的に彼女を辱めたのだ。
今でも鮮明に覚えている。涼がプールに婚約指輪を投げ込み、「この指輪を拾えるなら、お前と結婚してやってもいい」と冷笑いながら言い放った瞬間を。
泳げないことを知っていながら、奈津美は必死になってプールに飛び込んだ。何度も沈みそうになりながら、やっとの思いで指輪を掴んだ。
全身ずぶ濡れで、惨めな姿でプールサイドに上がった時、待っていたのは想像以上の屈辱だった。
綾乃が手首を切ったと聞くや否や、涼は血相を変えて席を立った。
奈津美の存在など眼中になく、彼女の立場も体面も全く気にかけなかった。
こうして奈津美は神崎市中の笑い物となった。
奈津美は握りしめている指輪を見つめ、苦笑いを浮かべた。
これが私の望んだことだったの?
皆の視線を浴びながら、奈津美はゆっくりとプールサイドに上がった。
「すごいわね!あんな深いプールから指輪を拾うなんて。早く黒川様にご報告に行ったら?」
「そうよ。その指輪がないと婚約できないんでしょう?」
......
周りはまだ騒がしい。
彼らの目には、奈津美は単なる笑い物でしかなかったのだ。
嘲笑が続く中、奈津美は無表情のまま、自分の婚約指輪も外し、両方の指輪をプールへ投げ入れた。
「ぽちゃん」という音とともに、場内の笑い声が嘘のように消え失せた。
第2話
奈津美が立ち去ると、数人が嘲笑うように言った。
「何様のつもりだろう?
黒川様と婚約できないとなったら、指輪を拾いに行くのは目に見えてるじゃない」
「そうよ。黒川様が白石さんを一番愛してるのは誰でも知ってることでしょ。
あの子なんて所詮何なの?黒川会長が気に入ってなかったら、黒川様は見向きもしないはずよ」
周りの人々は噂話に花を咲かせていた。
......
一方、ずぶ濡れになった奈津美は披露宴会場に戻っていた。
継母の三浦美香(みうら みか)は慌てて駆け寄ってきた。
「どこに行ってたの?なんでこんな姿に?
今日は奈津美の婚約パーティーよ!早く服を乾かしなさい!」
「それに、そんな地味な服装じゃダメでしょ!男性は色気のある女性の方が好きなのよ」
美香は奈津美の襟元を無理やり引っ張り、谷間が少し見えるまで開けて満足げに頷いた。
奈津美は美香の言葉など耳に入らず、会場内を見渡していた。
招待客で埋め尽くされた会場は薄暗く、多くの人々が一人の男性を取り囲んでいた。
黒いスーツに身を包んだ涼の姿があった。
彫刻のように整った冷たい表情で、深い瞳には笑みの欠片もない。
人を寄せ付けない雰囲気を纏い、高い鼻筋と薄い唇は、まるで神が創り上げた最高傑作のようだった。
「男なんてね、下半身で考える生き物なのよ。
奈津美は今日から涼の婚約者なんだから、彼を喜ばせることだけ考えなさい。
早く子供を授かって、できちゃった婚で黒川家の奥様になれば、一生お金の心配なんてないわよ!」
美香は自分が婚約するかのように興奮していた。
その言葉を聞いて、奈津美は冷ややかに笑った。
贅沢な暮らし?前世で彼女は涼に心も体も捧げた三年間の末に、結婚式当日に誘拐され、三日三晩も拷問を受けた。
誘拐された初日、奈津美は涼が助けに来てくれることを祈り続けた。
しかし涼は彼女との結婚など最初から考えていなかった。
代わりに空港へ白石綾乃を迎えに行き、本来奈津美との結婚式が行われるはずだった会場で、綾乃と指輪を交換し、永遠の愛を誓ったのだ。
奈津美は何年も待ち続けたが、結局この結婚式は涼が綾乃のために用意したものだった。
二日目、涼は奈津美の生死など気にも留めず、彼女が婚約を一方的に破棄したと公表した。誘拐されたと知りながら、綾乃との甘い時間を過ごすことしか頭になかった。
三日目、涼は身代金の支払いを拒否し、急いで綾乃と入籍を済ませ、奈津美との関係を完全に断ち切ろうとした。
その三日間は地獄そのものだった。最初の期待は完全に絶望へと変わっていった。
そして今日は涼との婚約パーティー。
しかし奈津美の服装も、化粧も、すべて綾乃と同じように仕立てられていた。
神崎市では誰もが知っていた。綾乃こそが涼の本当の愛する人で、奈津美は安っぽい代用品に過ぎないことを。
奈津美は鮮明に覚えていた。前世で、この姿で涼の前に現れた時、彼は嫌悪感を隠そうともせずに言い放った。
「下品な真似事だ。綾乃がそんな卑しい真似をするはずがない」
綾乃は白石家の一人娘で、涼の幼なじみだった。
もし後に白石家と黒川家の関係が悪化せず、白石家が黒川財閥の助けになれたなら、そして黒川会長が綾乃を嫌っていなければ、涼はとっくに綾乃を娶っていただろう。
涼が好むのは、綾乃のような清楚で上品な女性だった。
そして奈津美は偶然にも綾乃に少し似ていた。
だから美香は意図的に奈津美を綾乃のように仕立て、涼の気を引こうとしていた。
奈津美は三ヶ月もの間、涼の傍で献身的に尽くした。
神崎市中の人が、奈津美が恥知らずにも黒川家の嫁になりたがっていると噂していた。
しかし涼は完全に無視を決め込んでいた。
結局、黒川会長が奈津美を気に入ったため、涼は会長の催促で仕方なく婚約を承諾したのだ。
しかし、婚約パーティーでの屈辱、綾乃のために奈津美を見捨てたこと......
そして3年間の利用と最後の冷酷な仕打ち、これらすべてが奈津美の心を刃物で切り刻むようだった。
前世の悲惨な結末を思い出し、奈津美は今、手放したいと思った。
涼が綾乃を愛しているなら、自分は身を引くべきだ。
「お母さん、涼さんと少し話をしたいんです」
奈津美は浅い笑みを浮かべ、いつもの従順な態度で言った。美香はすぐに安心した様子を見せた。
奈津美が涼と話したいと言うのを聞いて、美香は即座に賛同した。
「そうね!そうよ!これからは家族なんだから」
美香は嬉しそうに笑いながら、奈津美の服を整えるのをやめた。
奈津美は涼の方へ歩み寄った。
涼は彼女を見向きもしなかった。
涼のボディーガードが機転を利かせて奈津美を止めた。
「滝川さん、黒川様は今お忙しいので、お会いできません」
奈津美は言った。
「涼さんに話があるんです」
「黒川様はまだお客様の対応があります。お時間がないと思います」
ボディーガードの目にも不快感が見えた。
奈津美はボディーガードの態度をすべて見透かしていた。
そうだ。今の彼女は涼にべったりの厄介者だ。
きっと涼は彼女にうんざりしているに違いない。
でなければ、ボディーガードがこんな態度を取るはずがない。
「今夜から私と涼さんは婚約者同士です。
将来の黒川夫人にそんな口の利き方をして、後のことを考えていないんですか?」
奈津美が黒川家の奥様面をするのを聞いて、ボディーガードはさらに軽蔑的な態度を取った。
「滝川さん、今夜は婚約パーティーに過ぎません。
たとえ結婚式当日だったとしても、私は指示通りに動きます。
黒川様がお時間がないとおっしゃっているのですから、お時間がないのです。
お座りになって待つことをお勧めします。私たちに面倒をかけないでください」
面倒?
つまり、涼にとって自分はただの厄介者だったということか。
「今すぐ会わせてもらいますが?」
「滝川さん、なぜ自分から恥をかきに行くんですか」
この3ヶ月間、奈津美は涼の後を追い回していた。
朝は朝食を届けても、涼は見向きもせずに捨てた。
昼は会社に顔を出しても、涼は会うことを拒否した。
夕方も涼の退社を待っていたが、涼は残業を選んで奈津美に会うのを避けた。
周りの人間には明らかだった。涼が奈津美を嫌っているということが。
奈津美だけが自分の分際をわきまえていなかった。
こんな女が、どうして未来の黒川夫人になれるというのか?
今日の婚約パーティーだって、会長の強要があってこそ開かれたものだ。
彼らにとって、白石綾乃こそが黒川家の正統な後継者の伴侶なのだ。
奈津美が黙り込むのを見て、ボディーガードは以前のように大人しく引き下がると思い込んで言った。
「このまま立ち去られないなら、力づくでも退いていただきます」
婚約パーティーの場で力づくとは、まさに奈津美の面子を地に落とすようなものだった。
普段なら、この言葉を聞いただけで奈津美は引き下がっていただろう。
しかし今回、奈津美は冷笑して言った。
「黒川家のボディーガードは、こんなにも礼儀知らずなんですね」
その言葉に、ボディーガードは一瞬固まった。
「私はまだ黒川家の人間ではありませんが、れっきとした滝川家の令嬢です。
涼本人でさえ、私にそんな口の利き方はできないはず。
一介のボディーガードが私に手を上げるなんて、黒川家も見直さないといけませんね」
ボディーガードの表情が一変した。
確かに奈津美はまだ黒川家の人間ではないが、紛れもない滝川家のお嬢様なのだ。
「滝川さん......そういう意味ではなく......」
ボディーガードは笑顔も作れず、態度も軟化せざるを得なかった。
以前の奈津美は涼の前での印象を保つため、彼らに強い言葉を投げかけることは決してなかった。
これまで奈津美は扱いやすい相手だと思っていたのに、今日の言葉遣いは驚くほど鋭かった。
「どうやら黒川家は本気で滝川家と縁を結ぶ気がないようですね。であれば、この婚約は取り消しましょう」
奈津美の言葉が終わるか終わらないかのうちに、目の前で拍手の音が響いた。
涼は先ほどからどれだけの会話を聞いていたのか分からなかったが、前に進み出てきた。
まず奈津美の空っぽの手に目をやり、その後、冷ややかな口調で言った。
「滝川奈津美、ついに本性を表したというわけか」
てっきり奈津美がプールに飛び込んで指輪を拾いに行くと思っていたが、所詮は見せかけだったということか。
本当は傲慢な令嬢なのに、この3ヶ月間、彼の前では清純な振りをしていたなんて。
先ほどの言葉で、やっと本当の姿を見せてくれたというものだ。
奈津美は目の前の涼を見つめた。今回は、涼の目に宿る嫌悪と軽蔑を見逃さなかった。
前世では、愚かにも涼に心のすべてを捧げた。
良き妻になろうと努力し、会社の仕事にも心血を注ぎ、さらには黒川会長の世話まで献身的にこなした。
それで涼の心を温められると思っていた。
しかし結局、結婚式当日に涼の敵に誘拐され、涼は二千万円の身代金さえ払おうとしなかった。
なんて滑稽なことか。
かつて黒川家の奥様になるためにあれほど努力したのに、結局は自分を感動させただけだった。
目の前の涼を見つめながら、奈津美は笑って言った。
「そうですね。もう演技はやめましょう。婚約も破棄しましょう。お互い忙しいですから」
第3話
奈津美の言葉が終わると同時に、外から涼の秘書が慌てて駆け込んできた。
涼という男は、普段なら何が起きても動じない人物だった。
先ほどの婚約破棄の話にも平然としていたのに、この時ばかりは瞳孔が縮み、明らかな動揺を隠せないでいた。
奈津美にはすぐ分かった。綾乃が自殺を図ったという知らせが届いたのだと。
険しい表情で立ち去ろうとする涼の前に、奈津美は立ちはだかった。
「涼さん、私たちの話はまだ終わっていません」
「邪魔するな」
涼の声は冷たく、危険な雰囲気を漂わせていた。
目の前のこの女は、会社と祖母を納得させるための道具に過ぎず、彼女に対する感情など一切持ち合わせていなかった。
奈津美と結婚することはできる。だが今日、綾乃に何かあれば、簡単には済まないつもりだった。
奈津美は一歩も引かず、尋ねた。
「そんなにお急ぎなのは、白石さんのところですか?」
その言葉に、涼は嘲りを込めて答えた。
「そうだが、何か?
綾乃はお前たちに追い詰められて自殺未遂まで追い込まれた。
言っておくが、黒川家の夫人の座は与えてやるが、それ以上は期待するな」
涼の言葉を聞いて、奈津美は虚しさを感じた。
彼女は綾乃に何一つ仕掛けていない。誰にも何もしていない。
なのに涼と綾乃は、彼女に最も深い傷を負わせた。
彼らの愛の生贄にされたのだ。
奈津美は声を張り上げた。
「涼さん、今日はあなたと私の婚約パーティーです。
もしここを出て白石さんのところへ行くなら、私たちの婚約は破棄させていただきます」
奈津美の声は大きくなかったが、周りの招待客全員に届くほどだった。
報道陣のカメラフラッシュが二人を照らし続けた。
涼は危険な目つきで眼を細め、言い放った。
「破談をちらつかせて脅すつもり?滝川奈津美、随分と図々しい女だな」
そう言い放つと、涼は奈津美の横を素通りして立ち去った。
彼は奈津美に黒川家との婚約を破棄する勇気などないと確信していた。
涼が去るのを見届けた奈津美は、凛として壇上に上がり、招待客に向かって微笑んで告げた。
「本日、涼は白石綾乃さんのために婚約を破棄されました。
私、滝川奈津美はそれを受け入れます。これからは涼とはそれぞれの道を歩み、無関係な者となります」
その言葉を聞いて、他の奥様方と談笑していた美香の顔色が一変し、手に持っていたシャンパングラスを落としてしまった。
まさか?
破談?
この奈津美は正気を失ったのか?
一方、車内で。
「社長、先ほど滝川さんが破談とおっしゃいましたが、もし本当なら、会長様の件は......」
破談?
涼は冷笑を浮かべた。
滝川家は必死に奈津美を黒川家に嫁がせようとしていた。
奈津美に至っては綾乃の真似をしてまで彼の気を引こうとしていた。
やっと願いが叶うというのに、破談するはずがない。
滝川家がそんな馬鹿げたことを奈津美にさせるはずもない。
「三浦夫人に伝えろ。芝居はもう十分だと。
黒川家の夫人の座が欲しくないなら、他にいくらでも候補はいる」
もしおばあさまが早く孫の嫁を迎えたいと焦っていなければ、こんなに早く婚約などしなかった。
「社長、では......本当に婚約を取り消すんですか?」
涼は冷淡に答えた。
「滝川家にはまだ用がある。婚約は予定通り進める」
「では先ほどの......」
「婚約は進めるが、滝川家には分をわきまえてもらう必要がある」
「滝川さんに説明を入れた方が......」
「必要ない」
奈津美の名前が出た途端、涼の目には軽蔑と嫌悪の色が浮かんだ。
「どうせ一日も経たないうちに、謝りに来るさ。こんな手は飽き飽きだ」
この三ヶ月間、奈津美は彼に取り入ろうと必死だった。
彼の好みを探り、日々のスケジュールを把握し、しょっちゅう祖母の元へ通っては機嫌を取っていた。
本当に吐き気がする。
おばあさまが奈津美を気に入り、さらに滝川家に利用価値があるからこそ、このような女との婚約を承諾したのだ。
今回、奈津美が婚約パーティーで駆け引きをするつもりなら、決して妥協するつもりはない。
夕方、滝川家の邸内。
奈津美が車から降りると、すぐ後ろに美香の車が止まった。
美香は車から降りるなり怒鳴り始めた。
「奈津美!正気を失ったの?
あんな場で破談なんて言い出すなんて!頭がおかしくなったんじゃないの!」
奈津美は無視して歩き続け、身につけていたアクセサリーを次々と外していった。
女中の鈴木愛理(すずき あいり)は早々に戻ってきた奈津美を見て、不思議そうに尋ねた。
「お嬢様?今日は黒川様との婚約パーティーじゃありませんでしたか?どうしてこんなに早くお戻りに?」
奈津美は答えず、衣装部屋へと向かった。
首のパールネックレスを引きちぎり、ドレスを脱ぎ捨て、クローゼットから綾乃風の服をすべてダンボールに放り込んでいった。
「お嬢様!何をなさっているんですか......」
愛理は呆然とした。
奈津美は棚に並んだ香水の列を見つめた。
これらはすべて綾乃が好んでいた香水だった。
「パリーン」という音とともに、奈津美は香水を床に叩きつけて割った。
愛理は奈津美の突然の行動に驚いて飛び上がった。
「どいてください」
奈津美の冷たい声が耳に入り、愛理が反応する間もなく、奈津美はダンボールを抱えて階下へ向かった。
滝川家の裏庭で、奈津美はダンボールの中身を大きな金属製のドラム缶に空けた。
ガソリンとライターを投げ入れると、たちまち炎が上がった。
燃え盛る炎を見つめる奈津美の目は冷たかった。
天が彼女にやり直すチャンスをくれた。
今度は、もう綾乃の影武者にはならない。
そう思うと、奈津美は携帯を取り出し、親友の村上月子(むらかみ つきこ)に電話をかけた。
「月子、あなたのお家の新聞社に記事を書いてもらいたいの。
一時間以内にネットで話題になるような記事。費用は私が出すわ」
「え?今夜、涼と婚約したんじゃないの?婚約くらいで全国民に知らせる必要ないでしょ!」
「後悔したの」
「何を後悔したの?もっと早く全国民に知らせなかったことを?」
「破談にするって言ってるの」
「破談?冗談でしょ!
誰が破談するっていっても、奈津美は絶対しないはずよ!
三ヶ月も必死に涼を追いかけたんだもの!」
電話の向こうが黙り込み、月子はようやく事の重大さを悟った。
「まさか......本気?」
翌日、滝川家のお嬢様の破談宣言がネットで大炎上した。
この話題について様々な議論が飛び交い、神崎市中の誰もが知っていた滝川家のお嬢様・滝川奈津美が黒川財閥の社長・黒川涼に一途な想いを寄せていたことを。
ところが婚約パーティー当日、奈津美が突然破談を宣言し、黒川家との婚約パーティーを台無しにした。
これは黒川家の面子を完全に潰す行為だった。
「滝川家お嬢様の滝川奈津美氏が、黒川財閥社長の黒川涼氏のED疑惑と暴露。
将来の夫婦生活における不和を避けるため、やむを得ず破談を決意。
黒川家には深くお詫び申し上げます、とのこと!?」
会員制クラブの個室で、早見陽翔(はやみ はると)は携帯を手に大笑いしながら言った。
「おいい涼、マジかよ?お前、そんな問題があったのか?見せてみろよ!」
陽翔が手を伸ばしてきたのを、涼は払いのけ、顔を険しくして尋ねた。
「どこの新聞社だ?」
「どこって?村上新聞だよ。
今回は相当な数の媒体に配信したらしいぜ。一面トップの新聞も10万部刷ったって。
今やネット中が『黒川財閥の社長、ED疑惑』って大騒ぎだぞ。トレンド1位だ。見てみるか?」
陽翔がふざけて携帯を涼の目の前に突き出すと、涼の表情はますます暗くなり、グラスを握りしめながら殺気を帯びた目つきで言った。
「滝川奈津美の仕業か?」
「間違いないでしょ。滝川家のお嬢様と村上家の娘は幼なじみの親友だもん。
お前、何か彼女に酷いことしたんじゃないの?
だって、あれだけお前に夢中だった奈津美が、ここまでお前を全国的に貶めるなんて」
そこへ田中秘書が個室に入ってきて、声を上げた。
「社長......」
涼は険しい表情のまま尋ねた。
「調べたか?滝川奈津美はどこにいる?」
「あの......隣の部屋にいるようです」
第4話
隣の個室で、月子はビールを3本空けて、カラオケで熱唱していた。
奈津美はスマホのトレンドを見ながら違和感を覚え、月子の袖を引っ張って尋ねた。
「私、いつ涼さんのEDの話なんてしたっけ?」
「あ~それ?私が書いたの!ニュースは衝撃的じゃないと注目されないでしょ」
奈津美は顔を曇らせた。
「でも、こんなことをした結果について考えなかったの?」
酔っ払った月子は、マイクを握りしめたまま大声で言った。
「結果?何があるっていうの!
まさか黒川が包丁を突きつけてトレンド削除しろって脅しに来るわけないでしょ?」
「バン!」
突然、個室のドアが蹴り開けられた。
カラオケの音楽が急に止まった。
奈津美はドアの前に立つ、険しい表情の涼を見て、心臓が一拍飛んだ。
涼が来ることは予想していた。
だが、こんなに早く来るとは思っていなかった。
「記事、お前が流したのか?」
涼の声には殺気が含まれていた。
月子は怖くなって奈津美の後ろに隠れた。
奈津美は落ち着いた様子を装って言った。
「私です」
「そうか」
涼は冷笑し、前に進み出て月子を引っ張り出し、陽翔の腕の中に投げ入れた。
「全員出ていけ!」
涼を見た瞬間、月子の足はガクガクと震えていた。
奈津美を守ろうとしたが、陽翔が彼女を部屋の外へ引っ張り出した。
「早く出ろよ、急いで!」
ドアが閉まり、部屋の中には奈津美と涼だけが残された。
涼が徐々に近づきながら冷たく言った。
「昨夜は破談を宣言し、翌日にはもうクラブで遊び歩く。
滝川奈津美、今まで随分と見くびっていたようだな」
目の前の男を見つめながら、奈津美の脳裏には前世で誘拐犯に押さえつけられた時の忌まわしい記憶が蘇った。
胃が激しくむかつき、思わず一歩後ずさりした。
「涼さん、婚約パーティーで私を置いて綾乃さんのところへ行ったのはあなたです。
私たち滝川家では分不相応でした。この婚約は、お互い穏便に終わらせましょう」
穏便に終わらせる?
涼は冷笑した。
「お前の言う穏便とは、ネットで俺を中傷することか?」
「あれは事故です!」
「滝川奈津美、俺の気を引くための手段としては面白いと認めよう。
だが前にも言っただろう。私の前で策を弄するなと」
突然、涼は彼女を壁に押しつけた。
涼の目には冷酷な色が宿っていた。
奈津美は涼に強く押さえつけられた手首を見つめ、前世のこの日のことを思い出した。
婚約パーティーの翌日、会長の命令で涼が彼女を家まで送ることになったが、涼は彼女を寒風の中に置き去りにし、冷たく言い放った。
「お前との婚約は、滝川家に価値があるからに過ぎない。私がお前を好きになると思うな」
前世の記憶が蘇り、奈津美は急に手を振り払い、涼の左頬を思い切り平手打ちした。
「パシッ!」
その音がマイクで増幅され、響き渡った。
外にいた陽翔と月子が慌ててドアを開けた。
「奈津美!大丈夫?」
「おい涼!いくら怒ってるからって、手を上げるのはダメだろ!」
陽翔と月子が駆け寄ってきたが、言葉を失ったのは奈津美ではなく、涼の方だった。
奈津美は冷たく言い放った。
「涼、人の言葉が分からないの?
この婚約、あなたの黒川家だけが破棄できるわけじゃない。
私、滝川奈津美が破棄すると言えば、必ず破棄します」
「貴様!」
涼は怒りに震えたが、奈津美の目に浮かぶ露骨な嫌悪感を目にして、一瞬凍りついた。
これまで奈津美がこんな目で自分を見たことは一度もなかった。
たった一晩で、あれほど自分に献身的だった奈津美が、まるで別人のように変わっていた。
「月子、行きましょう」
奈津美は涼に一瞥もくれず、まるで彼を見るだけで吐き気を催すかのようだった。
月子は酔っ払っていて、何が起きたのか理解できていなかった。
さらに困惑していたのは陽翔だった。
酒も飲んでいないのに、幻覚を見ているのだろうか?
かつて涼に優しく接し、綾乃のように温和で思いやりのあった奈津美が、涼に手を上げるなんて?しかも平手打ちまで?
「お、おい涼......」
陽翔は涼の前で手を振りながら尋ねた。
「気が変になってないか?」
涼はまださっきの平手打ちから立ち直れていないようで、眉をひそめながらドアを指差した。
「あいつ、俺を殴った?」
「ああ......殴った。跡もまだ残ってるぞ」
その言葉を聞いて、涼の表情はさらに暗くなった。
先ほどの奈津美の大胆な言葉を思い出し、涼は怒りを笑いに変えた。
「滝川家に伝えろ。この婚約、滝川奈津美には破棄させん」
翌日、滝川家にて。
「破棄しないですって?」
リビングのソファに座った奈津美は眉をひそめた。
前世では涼は骨の髄まで彼女を嫌っていた。
会長の強い意向がなければ、涼は決して妥協しなかったはずだ。
昨夜、自分から破談を切り出し、おまけに涼を平手打ちまでした。
これは涼の面子を完全に潰す行為だった。それなのになぜ破談に応じないのか?
「よかった!本当によかった!」
美香は胸をなで下ろし、言った。
「てっきり黒川様が今度こそお怒りになったかと思ったわ。でも大丈夫よ。
奈津美、早く黒川様のところへ謝りに行きなさい。そうすればこの件は水に流してくれるわ」
「謝りたければお母さんが行ってください。私はこの結婚はしません」
奈津美の態度は冷淡だった。
これに美香は不満げに言った。
「この子ったら、どうしてこんなに分かりが悪いの?
お父様がいなくなって、私たち滝川家が黒川家を頼らなければ、どうやって生きていけるというの!」
その言葉を聞いて、奈津美の表情が冷たくなった。
前世で父が亡くなった時、彼女が精神的に最も弱っていた時期だった。
その時、涼が滝川家に援助の手を差し伸べ、美香は常に涼が奈津美に好意を持っているという考えを吹き込んでいた。
次第に、彼女は涼に恋をしてしまった。
後になって分かったことだが、涼が滝川家を助けたのは、単に奈津美が綾乃に少し似ていたからに過ぎなかった。
しかしその時には、彼女はすでに涼に深く心を奪われ、抜け出せなくなっていた。
さらに美香の言葉を信じ、綾乃の代わりとして涼の機嫌を取ることさえ厭わなかった。
当時の彼女は、いつか涼の冷たい心を温められると愚かにも信じていた。
今思えば、本当に笑い話だった。
「お母さん、ご心配なく。滝川グループは父が残してくれた会社です。
私が必ず守り抜きます。もしお母さんが黒川家なしでは無理だとお考えなら、ご自身で試されたらいかがですか」
奈津美はそう言い残して階段を上がった。
「あんた!なんてことを!
私はみんな滝川家のためを思って......あんたみたいな女の子に会社の経営なんてできるはずがないわ!
いい旦那様を見つけて、大人しく家庭を守る方がずっといいのよ!」
奈津美は後ろで叫ぶ美香の声を無視した。
美香が彼女を涼と結婚させたがるのは、自分の息子に滝川グループを継がせ、未来の黒川夫人である彼女に母子の道を開かせるためだった。
でも滝川グループは父が彼女に託した会社だ!
前世のように愚かに、この恩知らずな母子に滝川グループを明け渡すようなことは、二度としない!
第5話
翌朝、涼が階下に降りると、使用人が荷物を片付けているのを見て眉をひそめ、尋ねた。
「何をしている?」
「旦那様、これは滝川お嬢様のお荷物です。
昨日お電話があり、もうお邪魔することはないので、荷物を送ってほしいとのことでした」
目の前のスーツケースを見つめながら、涼の脳裏に奈津美の姿が一瞬よぎった。
普段なら、この時間には奈津美が朝食を作り終え、期待に満ちた表情で彼を待っているはずだった。
椅子を引いてくれたり、他愛もない話をしてくれたりするのが日課だった。
今日はその姿が見えず、何かが足りないような気がした。
まさか奈津美のことを考えているのかと気づいた涼は、冷たい声で言った
「早く片付けろ。目障りだ」
「はい、かしこまりました」
リビングの椅子に座った涼は、テーブルが空っぽなのを見て不機嫌そうに言った。
「朝食はまだか?」
「申し訳ありません。
いつもはお嬢様が作っていて、新しい家政婦はまだ時間の把握が......」
「急げ。仕事に行かなければならない」
涼は腕時計を見ながら、急に苛立ちを覚えた。
すぐに家政婦がパンと目玉焼き、ソーセージを載せた皿を運んできた。
涼はその質素な朝食を見て、冷ややかな目を向けた。
「これは何だ?」
「朝......朝食でございます」
家政婦は怯えた様子で、自分が何を間違えたのか分からない様子だった。
涼は冷たく言った。
「片面焼きは食べない。朝は肉類も控えている。
月給40万も払って、こんなものを出すために雇ったわけではないだろう」
「申し訳ございません!存じ上げませんでした......」
「新人でございますので、すぐに作り直させます!」
「結構だ」
涼は険しい表情で立ち上がった。
そこへ黒川会長が寝室から出てきて、テーブルの上を見ただけで孫が怒っている理由を理解した。
「普段は奈津美が朝4時から丁寧におかずを作って、蒸籠で蒸して、最低でも16品の栄養たっぷりの朝食を用意してくれていたのに。
奈津美がいなくなって、この家は本当に住めたものじゃないわ」
その言葉を聞いて、涼は眉をひそめた。
破談を切り出したのは彼女だ!行きたければ行けばいい!
たかが3ヶ月一緒に暮らしただけの奈津美がいなくなったからって、自分が生きていけないわけがない。
「おばあちゃん、仕事に行ってきます」
「待ちなさい!」
会長は眉をひそめて言った。
「私の考えはどうでもいいけど、私は奈津美しか孫の嫁として認めないわ。
今すぐ滝川家に行って謝ってきなさい。
奈津美が許してくれないなら、家に帰ってこなくていいわ」
「おばあちゃん......」
「今すぐよ!」
会長の言葉に拒否の余地はなかった。
涼はどれほど気が進まなくても、従うしかなかった。
「分かりました」
一方、滝川家では。
「バン!」
突然の大きな音とともに、奈津美の部屋のドアが破られた。
滝川健一(たきがわ けんいち)が怒りに任せて奈津美の布団をめくり、彼女の手首を掴んだ。
「奈津美!頭がおかしくなったのか?黒川家との婚約を破棄するだって?説明しろ!」
奈津美は健一に掴まれた左手を見て、不快そうに眉をひそめた。
健一は弟とはいえ、父の実子ではない。
美香が父と再婚した時、健一はすでに5歳だった。
父は健一を実子のように可愛がり、滝川家の坊ちゃんとして、美香に甘やかされ放題だった。
前世では、美香は奈津美に黒川家に嫁ぐよう仕向け、滝川グループの経営を健一に任せるよう促した。
その結果、これほど大きな事業が健一の手によって完全に潰されてしまった。
目の前の18歳の反抗期の少年を見て、奈津美は怒りを抑えきれず、思わず平手打ちをした。
この一撃に健一は呆然とした。
「お、お前......俺を殴ったのか?」
今まで弱々しく、いつも優しく接してくれた奈津美が、突然手を上げるなんて。
奈津美は冷たく叱りつけた。
「そうよ、殴ったわ。誰に許可を得て私の部屋に入ってきたの?」
「お嬢様!申し訳ございません!坊ちゃんを止められなくて......」
山下は恐る恐る説明した。
「黙れ!ここは俺の家だ、好きなところに行って何が悪い!」
健一の怒鳴り声に、山下は震え上がった。
奈津美は山下の腕の傷跡を見て、健一の横暴さを悟った。
以前は涼のことばかり考えていて、家が美香母子によって荒らされていることに気付かなかった。
「健一の家?この滝川家はまだあんたのものじゃないわ」
奈津美は立ち上がり、山下を支え起こした。腕には暴力の跡が残っていたが、彼女は何も言えずにいた。
「うちは名家かもしれないけど、法律を無視していい場所じゃないわ。
使用人を殴る権利なんてどこにあるの?」
奈津美の言葉に、山下は涙を流した。
とっくに辞めたかったが、健一が立場を盾に脅し、退職も許さなかった。もうこんな生活には耐えられない!
「お嬢様!どうか私を行かせてください!」
その時、美香も階下から駆け上がってきた。
息子の頬が腫れているのを見て、すぐに状況を理解した。
美香は眉を吊り上げ、奈津美を指差して怒鳴った。
「奈津美!どうして自分の弟を殴るの?本当に頭がおかしくなったんじゃない?
婚約破棄に続いて家族に手を上げるなんて、一体何がしたいの!」
「弟?私にそんな育ちの悪い弟なんていません!」
奈津美は冷たく言い返した。
「お母さん、はっきり言いますけど、健一は父の実子でもありません。
成人した男が私の部屋に無断で入り込み、使用人に暴力を振るう。
これがお母さまの育てた息子なんですよ」
奈津美の言葉に、美香は鼻で笑った。
「健一は幼い頃からこの家で育ち、あなたのお父様も実の息子同然に可愛がってくださったのよ。
姉としてそんな言い方をするなんて、ひどすぎるわ。
それに、たかが使用人じゃない。医療費も給料も払ってるでしょう?」
その言葉を聞いて、奈津美の目はさらに冷たくなった。
「今日は使用人、明日は社員。滝川グループが健一の手に渡ったら、この家は終わりですね」
「そんな極端な!誰だって最初から経営者になれるわけじゃないでしょう。
それに、会社を弟に譲ると約束したはずよ。
黒川様との結婚が駄目になったからって、約束を反故にするの?」
美香の無神経さは想定内だった。奈津美は冷笑し、机から婚約パーティー前に署名した株式譲渡書を取り出した。
「お母さんが言ってるのは、これのことですか?」
第6話
譲渡書を見た途端、美香の目つきが変わった。
急に声を柔らかくし、取り入るように言った。
「奈津美、健一はあなたの弟なのよ。
将来会社を継いだら、お姉さんの後ろ盾になれるわ。
奈津美も安心して黒川様と結婚できる。一石二鳥じゃない?」
美香は急いで健一を引き寄せ、言った。
「早くお姉さんに謝りなさい!
誰が朝早くからお姉さんの部屋に入っていいって言ったの?」
健一は不満げな顔で言った。
「どうせこの滝川家はいずれ俺のものだ!
婚約を破棄して俺の前途を台無しにしたんだから、説明を求める権利くらいある!」
奈津美は冷ややかに見ていた。
まさか弟がこんな早くから滝川家の財産を狙っていたとは。
こんな若さで、すでに自分が滝川家の将来の主人だと思い込んでいる。
これも美香の入念な教育の賜物に違いない。
「この子ったら、とんでもないこと言って。
奈津美、気にしないで。その譲渡書は私が預かっておくわ」
美香の目は譲渡書から離れなかった。
譲渡書には、健一が高校卒業後に会社を引き継げると明記されていた。
母子でこれほど長く待ってきたのだから、この譲渡書に何かあってはならない。
奈津美は美香を見て、軽く笑った。
「お母さん、そんなにこれが欲しいんですか?」
「ええ......」
美香の言葉が終わらないうちに、「ビリッ」という音が響き、奈津美の手の中の譲渡書は真っ二つに引き裂かれていた。
美香の顔が一瞬で青ざめ、健一は怒鳴った。
「何してるんだ!誰が破れっていった!」
健一が慌てて奪おうとしたが、奈津美はあっという間に譲渡書を細かく引き裂き、二人の前にばらまいた。
奈津美は淡々と言った。
「滝川グループを健一に渡すことは絶対にありません。お母さんも弟も、諦めてください」
「何ですって?奈津美!会社を弟に渡さないなら、誰に渡すつもり?
滝川家には健一しか男の子がいないのよ!あんた......」
奈津美は言った。
「健一は結局、父の実子ではありません。
会社は私が直接経営することに決めました。
それに父が亡くなった時の遺産分配書にも明確に書かれています。
会社の経営は私に任せること、そしてお母さんたち母子への遺産は......一億円と、滝川家の二部屋の居住権だけです」
「なんだって!父さんがたった一億円しかくれないはずがない!
奈津美、絶対に父さんの遺言を改ざんしたんだろう!」
健一は信じられない様子だった。
滝川家は少なくとも数千億円の資産がある。
黒川財閥の数十兆円には及ばないものの、神崎市では指折りの資産家だ。
父がたった一億円しか残さないはずがない。
「信じられないなら、今度弁護士に遺言書を持ってきてもらいましょう。
見れば分かるはずです」
奈津美は何か思い出したように付け加えた。
「そうそう、遺言書には滝川グループは私、滝川奈津美が相続すると明確に書かれています。
弟もお母さんも、余計な考えは捨てた方がいいですよ。
もし何か企んでいるなら、容赦はしません」
目の前で驚愕する健一と美香を見て、奈津美は冷笑を浮かべただけだった。
前世、遺言書を受け取った時、この財産分配が美香母子の心を傷つけると思い、ずっと二人に見せずにいた。そして母子の荒い金遣いを黙認していた。
美香が本当に自分を娘のように思い、自分のためを考えてくれていると信じていたからだ。
しかし美香の本当の目的は、早く自分を嫁がせて、息子の道を開くことだったとは気付かなかった。
もし前世、健一が3年で滝川家を潰し、二人で黒川財閥の資産を要求しに来なかったら、この母子の薄情さに気付くこともなかっただろう。
今思えば、前世のあの結婚式で、涼が躊躇なく自分を見捨てたのも、滝川家の令嬢としての利用価値がなくなったからに過ぎない。
「奈津美、今の話......本当なの?」
美香は焦りながら、この事実を確認しようとした。
もし正一が本当にそんな薄情なことを......これからどうやって生きていけばいいの?
たった一億円で余生を過ごせというの?
奈津美は椅子に座りながら言った。
「お母さんはまだ信じられないようですね。
では、これから弁護士に遺言書を持ってきてもらいましょう。
そうすれば、納得していただけるでしょう」
「ママ!彼女の言うことなんか信じないで!
全部嘘よ!父さんがそんなことするはずないわ!」
健一は奈津美を睨みつけながら言った。
「きっと黒川さんとの結婚が駄目になったから、滝川家を奪い返そうとしてるんだ!
ママ、僕こそが滝川家の息子よ!会社は当然僕が継ぐべきなんだ!」
「残念だけど、今の健一には継承する資格はないわ」
奈津美は薄く笑みを浮かべながら、高圧的な態度で言い放った。
美香と健一が顔を真っ赤にして怒っていた。
その時、突然、外から山下の驚いた声が聞こえた。
「黒川様?どうしてここに......」
その声を聞いて、奈津美は眉をひそめた。
涼が知らぬ間にドアの前に立っていた。
部屋の中のやり取りをすべて見ていた涼は、冷笑した。
こんなに攻撃的な奈津美は初めて見た。
美香は涼を見るなり、媚びるような笑顔を浮かべた。
「黒川様、事前にご連絡いただければ、お迎えに出られたのに」
「結構です。用件だけ済ませて帰ります」
涼の声は平坦で、感情が読み取れなかった。
「はい、はい!」
美香は嬉しそうに口元を緩め、急いで健一を連れて部屋を出ながら言った。
「黒川様、ごゆっくり。お茶をお入れさせていただきます!」
美香は出る時、わざとドアを閉めた。
奈津美には、美香のこの下劣な手口は見慣れていた。
もし涼が自分の寝室に入り、二人きりになったという噂が広まれば、自分は涼の女として世間に認識される。
そうなれば、もう他の男性との結婚は難しくなるだろう。
この神崎市で、涼の女に手を出す男などいないのだから。
奈津美はすぐに寝室のドアを開け、涼との密室状態を避けた。
「涼さん、お話があるなら下で伺いましょう。
私たちは婚約を解消した仲です。二人きりでいれば、余計な噂の種になります」
現代社会とはいえ、多くの人の考えはまだ封建的で下劣だ。
男女が密室にいて、しかもドアを閉めているなんて、まるで何かを隠そうとしているみたいだ。
涼は冷笑して言った。
「おばあさまの前では弱々しく可哀想な振りをして、家族の前では母を虐げ弟を辱める。
俺の見る目を間違えていたようだ」
「私が彼らを虐げる?」
奈津美は何か可笑しい冗談でも聞いたかのように笑った。
涼は明らかに話の途中からしか聞いておらず、彼女が滝川家の遺産を奪おうとしていると誤解しているようだ。
でもそれでいい。涼が自分を嫌えば嫌うほど、彼女は嬉しかった。
早く涼との関係を清算した方がいい。
「黒川様のおっしゃる通りです。私はそういう二面性のある性悪な女です。
わざわざお越しいただく価値なんてありません」
涼は軽蔑的な目で見た。
「おばあさまに頼まれて、謝罪に来いと言われなければ、私が来るとでも思っているのか?随分と自惚れているな」
「ああ、おばあさまのご命令だったんですね。ご安心ください。
おばあさまには私から説明させていただきます。黒川様にご迷惑はおかけしません」
奈津美は道を開け、涼に真剣な表情で言った。
「お話が済みましたら、階下まっすぐお帰りください。お見送りはいたしません」
涼は聞こえていないかのように近づき、目には威圧的な色が宿っていた。。
「警告しておく。おばあさまの前で余計なことを言うな。
もし綾乃の自傷の件がおばあさまの耳に入ったら......」
涼の全身から殺気が漂い、次の瞬間にも彼女を八つ裂きにしそうな勢いだった。
奈津美の胸が締め付けられた。
彼女にはよく分かっていた。涼にとって、綾乃以上に大切な人などいないということを。
もし綾乃に手を出せば、それは涼の逆鱗に触れることになる。
涼は決して許してくれないだろう。
「ご心配なく。ニュースの件はおばあさまにきちんとご説明します。綾乃さんには及びません」
「それが賢明だ」
涼は奈津美との距離を広げ、振り返ることもなく立ち去った。
一階で、美香は涼のためにお茶を入れたばかりだったが、涼が大股で玄関へ向かうのを見て、慌てて声をかけた。
「黒川様!もう少しお座りになりませんか?黒川様!」
涼は足を止めることなく去っていき、美香は悔しげに足を踏み鳴らした。
美香は二階の奈津美の部屋を指差して叫んだ。
「男一人すら引き止められないなんて!本当に役立たずね!」
奈津美は寝室で美香の罵声を聞き、ゆっくりと二階の廊下に歩み出て、階下の美香を一瞥した。
その氷のような眼差しに、美香は思わず身震いした。
かつての従順で優しい奈津美が、いつからこんな冷たい目つきをするようになったのだろう。
もし本当に奈津美が滝川家を継ぐことになったら......
いけない、何とかしなければ。絶対にこの縁談を潰させるわけにはいかない!
第7話
午後、黒川会長から奈津美に電話がかかってきた。
会長が綾乃を嫌っているのは、奈津美にはよく分かっていた。
綾乃は白石家の一人娘で、性格が高慢すぎるからだ。
白石家の全財産を握っているとはいえ、会長は白石家と黒川家の確執から、綾乃を毛嫌いしていた。
会長は綾乃のことを見栄っ張りだと思い、孫と付き合うことを許さなかった。
一方、自分は従順で分別があり、家柄も申し分なく、品性も容姿も学歴も、黒川家の嫁として最適だった。
しかし、会長の好意も所詮は利益のための演技に過ぎなかった。
黒川家の専用車で送られた奈津美が玄関に入ると、会長は笑顔で声をかけた。
「奈津美、こちらへいらっしゃい」
会長は隣のソファを軽く叩いた。
奈津美は頷いて会長の傍らに歩み寄り、すぐに会長の向かいに立つ綾乃の姿に気付いた。
綾乃は前世と同じく、清楚な美人で、気品のある雰囲気を漂わせていた。
人前では常に頑なで冷淡で、高慢な態度を隠そうともしなかった。
綾乃は熱いお茶を持ったまま、手が赤くなっているのに、なかなか置こうとしない。
奈津美は綾乃の手首に巻かれた包帯に目を留めた。
明らかに、綾乃の自傷行為のことが会長の耳に入ったようだ。
このことを知っている人は少ないはずだった。奈津美はすぐに美香の仕業だと察した。
涼は会長に知られないよう情報を厳重に管理していたのに、美香は会長に告げ口をしに行ったのだ。
本当に命が惜しくないらしい。
「奈津美、婚約パーティーの日は涼が悪かったの。私も厳しく叱りつけたわ。もう怒らないでちょうだい」
会長は慈愛に満ちた表情で、奈津美の手を取って言った。
「奈津美は黒川家の未来の奥様よ。それは変わらないわ。まだ怒っているなら、涼に私の前で改めて謝らせましょう」
「ご親切にありがとうございます。でも、結構です」
「まだ婚約パーティーのことが気になっているのかしら?安心して。今日あなたを呼んだのは、すべてを明らかにするためよ」
会長は向かいに立つ綾乃に目を向けた。
表情が冷たくなり、声にも冷気を帯びた。
「白石さん、あの日が涼と奈津美の婚約パーティーだと知っていながら、わざと自傷行為で涼を引き離したのね。
まさか、まだ黒川家の嫁になる野心があるとでも?」
「......会長様、誤解です。そんなつもりは」
綾乃は顔を蒼白にし、力なく答えた。お茶を持つ手が震えている。
「私はただ......一時に魔が差しただけで......滝川さん、申し訳ありません」
綾乃は俯きながらも、目に不満の色を宿していた。
この状況でさえ、背筋を伸ばしたまま、自分が何も間違っていないという態度を崩さなかった。
奈津美は綾乃の本性をよく知っていた。
綾乃は常に悲劇のヒロインを演じ、世界中が自分に負い目があるかのように振る舞い、高慢な態度を崩さなかった。
前世では、自分と涼の婚約前、綾乃は自分を訪ねてきて、涼とは最も相応しい相手だと大義名分を掲げ、二人の末永い幸せを祝福すると言った。
しかしその直後、婚約パーティーで手首を切り、わざと涼に知らせて、涼を自分のもとから引き離し、町中の笑い者にしたのだ。
本当に気位が高いのなら、こんな卑劣な手段で婚約パーティーから涼を引き離したりはしない。
さらに、涼に婚約者がいると知りながら、関係を続けることもない。
要するに、綾乃は建前と本音が違い、涼が欲しいくせに、自分の高潔さも保ちたいだけだった。
結局、前世では綾乃と涼は苦難を乗り越えて結ばれ、自分は二人の恋愛の生贄となり、弄ばれた末に悲惨な最期を迎えた。
二人がこれほど愛し合っているのなら、自分が邪魔をする必要などない。
奈津美は微笑んで言った。
「おばあさま、この件は綾乃さんとは関係ありません。涼さんとの婚約を取り消すのは私の決心です。
それに......涼さんと綾乃さんは本当に愛し合っています。私は二人の幸せを願っています」
「何を言うの!奈津美は私が選んだ孫の嫁よ。それ以外の女性に黒川家の門をくぐる資格などないわ!」
会長の言葉が終わるか終わらないかのうちに、綾乃の手からお茶碗が落ちた。
「綾乃!」
ちょうど入ってきた涼は、蒼白な顔をした綾乃を見て、すぐに駆け寄り、彼女の手の怪我を確認した。
手首から血が滲み、指先まで熱いお茶で火傷していた。
「おばあちゃん!綾乃はまだ怪我が癒えていないんです。
医師が言うには、あと1ミリ深ければ手が不自由になるところだったんです。
こんな追い詰め方をしないでください!」
綾乃を守る涼の様子を見て、会長は冷笑した。
「まだ1ミリ足りなかったでしょ?
彼女はただお茶を持っていただけよ。私が強要したわけでもないのに。白石さんが自分で持ち続けたのよ。
説教するなら、そんなに意地を張る白石さんに言いなさい。
一生お茶を持ち続けたところで、私は絶対に黒川家に入れないわ!」
涼は眉をひそめ、会長の隣に座る奈津美に視線を向けた。
「お前が密告したのか?」
綾乃の自傷行為については、確実に情報を管理していたはずだ。しかも奈津美にも警告していた。
まさか奈津美にそんな度胸があるとは思わなかった。
「奈津美に何の関係があるの?白石さんが自分から謝りに来たのよ!
涼、今日はみんながいる前で奈津美にきちんと謝りなさい。
それと白石さんにも言っておきなさい。もう黒川家に嫁ぐ望みは捨てなさいって。
うちと白石家とは永遠に付き合いはないのよ!」
「おばあさま、そこまでする必要はありません。私と黒川様の婚約は......」
奈津美の言葉を遮るように、涼が冷たく言い放った。
「奈津美、いい加減にしろ!
おばあちゃんの前で余計なことを言わなければ、綾乃がこんな屈辱を受けることもなかった!」
「涼様......私が自分から謝りに来たんです。奈津美さんは関係ありません......
私はすぐに帰ります。もう二度とお会いしません。
滝川さんこそが涼さんの奥様になれる方です。滝川さんと争うようなことはしないでください」
綾乃は顔を蒼白にしながら、涙を堪えた強情な様子で、誰が見ても同情せずにはいられない姿を見せた。
綾乃はいつもこうだった。口で言うことと、実際の行動が全く違っていた。
案の定、次の瞬間、綾乃は涼の腕の中に倒れ込んだ。
涼は奈津美に冷たい視線を向けると、綾乃を抱き上げた。
涼が綾乃を抱えて出ようとするのを見て、会長は即座に叫んだ。
「涼!そこで止まりなさい!」
涼の足が一瞬止まると、会長はすぐに言った。
「奈津美はあなたの婚約者よ。
他人の女性を抱いて出て行くなんて、体裁が悪いでしょう」
「おばあちゃん、黒川家には二面性のある性悪な女は必要ありません。
同じように、私も心の腐った妻なんて要りません」
そう言い放つと、涼は綾乃を抱いたまま、振り返ることもなく黒川家を出て行った。
第8話
「奈津美、涼はあの白石家の娘に心を奪われているだけよ。安心しなさい。
必ず謝らせますから。あなたは私が選んだ黒川家の嫁、誰にも変えさせません」
会長の声は慈愛に満ちていた。奈津美は微笑んで答えた。
「おばあさま、涼さんの気持ちは固いようですから、私からは何も申し上げることはありません。
お二人のお幸せをお祈りします」
奈津美は立ち上がり、続けた。
「おばあさま、今後もお呼びいただければお伺いいたします。
ただ......涼さんとの婚約は、ここまでにさせていただければと思います」
「奈津美......」
会長がまだ何か言いかけたが、奈津美は首を振った。
「家に用事がございますので、これで失礼させていただきます。
また改めてご挨拶に参ります」
そう言って、奈津美は立ち去った。
会長は奈津美の後ろ姿を見つめながら、深いため息をついた。
以前の奈津美は、こんなに分別のない子ではなかったのに。
玄関を出たところで、突然横から黒い影が現れ、奈津美の口と鼻を押さえた。
奈津美は反射的に袖の中の護身用ナイフに手を伸ばしかけたが、相手の服に黒川家の紋章を見つけた。
黒川家の人間と分かり、奈津美はナイフを収め、誘拐されたふりをすることにした。
たとえ涼が自分を嫌っていても、今この場で危害を加えるはずがない。
案の定、相手は乱暴なことはせず、涼の別の黒い自家用車に彼女を乗せた。
車の中で、奈津美は気絶したふりを続けた。しばらくして、誰かに運ばれる感覚があった。
「ピンポーン」
耳に聞こえたエレベーターの音は、帝国ホテルのものと同じだった。
涼はホテルに連れて来させたのか。
「コンコン」
「失礼します。社長、お連れいたしました」
「入れ」
部屋の中からタバコの強い臭いが漂ってきた。奈津美は息を詰め、柔らかいベッドに投げ出された。
緊張している奈津美の耳に、涼の声が聞こえた。
「目を覚まさせろ」
「はい」
ボディーガードが冷水を奈津美に浴びせかけた。奈津美は即座に目を開けた。
部屋は薄暗く、スタンドの黄色い光が妖しい雰囲気を醸し出していた。
全身濡れた奈津美は、体中が刃物で切られるような痛みを感じながら、怒りを装って言った。
「涼さん、やり過ぎじゃないですか?」
「やり過ぎ?」
涼は冷笑した。
「綾乃は体が弱いうえに、気が強い。
おばあちゃんにあんな屈辱を受けて、今も病院で意識不明だ。
密告した時は、自分がやり過ぎだとは思わなかったのか?」
「黒川、私は密告なんてしていません」
自分の名を呼び捨てにした奈津美に、涼は突然手を伸ばし、彼女の顎を掴んだ。
「信じると思うのか?ん?
そんなに黒川家の奥様になりたいなら、今夜お前の評判を潰してやろうか?
お前の醜聞をネットに流せば、おばあちゃんも黒川家に入れたがらないだろう?」
その言葉を聞いて、奈津美の目が冷たくなった。
評判を潰す?
彼女の評判は、前世であの忌まわしい誘拐犯によってすでに潰されていた。
かつては、名誉や貞操を何より大切にしていた。
涼に清らかな体を捧げたいと思っていた。
しかし前世、誘拐犯に凌辱された瞬間、かつての愚かで純真な奈津美は死んだのだ。
評判?名誉?
生きていけるなら、どちらも捨ててもいい。
涼がこれで脅そうとするなんて、笑止千万だった。
目の前の涼を見つめ、奈津美は突然笑みを浮かべた。
「じゃあ、どうぞ」
いつも自分の評判を気にしていた令嬢がそんな言葉を発するとは思わず、涼は眉をひそめた。
「何だと?」
「どうぞ、と申し上げました」
奈津美は平然と言った。
「浮浪者がいいですか?通りすがりの人?ボディーガードか秘書?
それとも......私を連れてきた誘拐犯?」
「自分が何を言っているのか分かってるのか?」
涼は単に脅すつもりだっただけだった。だが奈津美は少しも怯えていない。
以前の、自分を見ただけで恥ずかしそうに俯いていた奈津美を思い出し、目の前の人物が急に別人のように感じられた。
「あら?涼さん、やめるんですか?なら、私は帰ります」
奈津美が立ち上がろうとした時、涼は突然彼女の体を押さえつけ、動けなくした。
奈津美は眉をひそめ、反射的に涼を平手打ちしようとしたが、今度は涼が先回りして、左手で彼女の手を受け止めた。
「黒川!」
奈津美の体からは水が滴り、薄い服が肌に張り付いて、しなやかな曲線を浮き立たせていた。
涼は奈津美を押さえつけながら、冷ややかに言った。
「いつもは気位が高いと思っていたが、今日はずいぶん積極的じゃないか?私の気を引こうとそんな手を使うな。
自分を差し出したいのか?私の目を引こうとしてそんな手を使うな。吐き気がする」
「吐き気がする?」
奈津美はまるで面白い冗談を聞いたかのように、突然涼の首に腕を回し、体を寄せた。
二人の体が触れ合った瞬間、涼は感電したように手を引き、立ち上がって奈津美を突き放した。目に嫌悪感を隠そうともしない。
「本当に下劣な女だな」
涼の評価を聞いて、奈津美は全くその通りだと思った。
そう、彼女は下劣だ。
前世で涼に心を尽くし、利用されることを甘んじて受け入れた自分は下劣だった。
これほど尽くしても、結局は「吐き気がする」「下劣」という言葉しか返ってこなかった。
奈津美はベッドから立ち上がり、無関心そうに服を整えながら言った。
「涼さん、信じるか信じないかはお任せします。
でも申し上げておきます。以前の私はあなたに気があったかもしれません。
でも今は、少しも興味が持てません。この婚約は破棄させていただきます。
あなたと綾乃さんのために、身を引かせていただきます」
そう言って、奈津美は部屋を出て行った。
田中秘書が入ってきて尋ねた。
「社長、本当に婚約を破棄するつもりでしょうか?」
「きれいごとを言うのは誰でもできる。
本当に破談にしたいなら、おばあちゃんに告げ口なんてしないはずだ」
「では、どうなさいますか?」
「少し痛い目に遭わせてやる。
誰に手を出していいか、誰に手を出してはいけないか、分からせてやる」
「承知いたしました」
奈津美は濡れた体のまま、タクシーで滝川家に戻った時には、すでに深夜だった。
美香が家の中で大声を上げており、奈津美が帰ってくるのを見るや否や、新聞を奈津美の顔に投げつけた。
「奈津美!よく帰ってこられたわね!見なさい、あんたが何をしでかしたか!
私が黒川様に謝れって言ったのに聞かなかったでしょう。
これで黒川様が滝川家を潰そうと思えば、指一本で簡単にできるのよ!」
第9話
奈津美は床に落ちた新聞に目を落とした。太字の見出しが飛び込んでくる。
【黒川グループ、滝川との契約を破棄 百億円規模の再開発から撤退へ】
奈津美の眉間に皺が寄った。
記憶が確かなら、このプロジェクトは滝川グループが手掛けている大型マンション開発で、工事は既に半ばまで進んでいた。
この時期に涼が撤退すれば、工事は中断を余儀なくされ、新たなスポンサーを探さなければならない。
しかし、涼との決別が報じられた今となっては、神崎市で滝川グループと組もうとする企業など現れるはずもない。
結果として、この百億円規模の開発は頓挫し、滝川も相当な痛手を被ることになる。
身を屈めて新聞を手に取ると、まだ温もりが残っていた。明らかに刷りたてを直接届けさせたものだ。
涼の対応は実に早い。彼女に力の差を見せつけ、この神崎市での影響力を思い知らせようという魂胆だろう。
「奈津美!滝川家のお嬢様として、家のために少し努力するくらいで何なの?
たかが男一人の機嫌を取るだけじゃない。そんなにプライドが高いの?
女なんだから、せっかくの美貌も活かせないなんて、本当に情けないわ!」
美香は憤懣をぶちまけるように言った。
「こんな調子で滝川家を継ぐつもり?
いい加減諦めて、健一に譲りなさい。
会長様の心を掴んで、黒川家に嫁ぐことこそがあなたの本分でしょう!」
「もう十分です!」
奈津美は冷ややかな目で美香を見て言った。
「私のことは心配しないでください。
そんなにご心配なら、お母さんご自身が嫁がれては?
お母さんの方が、私なんかよりずっとお上手なはずでしょう」
「この生意気な!」
美香が声を荒げる中、奈津美は新聞を手に階段を上っていった。
涼の投資撤退......これは意外な好機かもしれない。
前世でこの開発は大成功を収めたはずだ。
ただし、涼が百億円を投じて筆頭株主となっていたため、滝川家の取り分は微々たるものだった。
今、涼が撤退すれば、滝川家が主導権を握れる。
他の投資家に頼らず自力で進められれば、すべての利益を滝川家で独占できる。
ただし......必要な資金を銀行から調達しなければならない。
百億円という規模は、決して小さな額ではない。
翌朝、思いがけず綾乃から連絡があった。
前世では綾乃とはほとんど接点がなかったはずだ。まして綾乃から会いたいと言ってくることなど一度もなかった。
今回は、自分が涼との婚約破棄を持ち出したことで、綾乃の思惑が狂ったのだろう。
カフェに着くと、綾乃はすでに窓際の席で待っていた。店内は二人きりだった。
綾乃は清楚で端正な顔立ちをしているが、自傷行為のせいか顔色が優れない。
コーヒーカップを置きながら、綾乃が切り出した。
「滝川さん、今日は謝罪に参りました」
奈津美が率直に尋ねると、綾乃は唇を噛んで言った。
「感情的な判断は控えていただきたくて、滝川さんと涼様こそが運命の相手です。
私は二人の邪魔をするつもりはありません。心から二人の婚約を願っています」
「婚約を願う?冗談でしょう?」
奈津美は笑って言った。
「本当にそうお考えなら、私たちの婚約パーティーの夜にあのようなことはなさらなかったはずです」
その言葉を聞いて、綾乃の表情が急に曇った。
「本当に故意ではなかったんです。それを責められても仕方ありません。
でも、涼様にふさわしいのは滝川さんだけです。
滝川家の力があってこそ、黒川グループはさらなる発展ができる。滝川さんこそが涼さまのお相手として相応しい方です」
そう言うと、綾乃は突然正座をして深々と頭を下げた。
「滝川さん、約束します。もう二度と涼様とは関わりません。
ただ、涼様と黒川グループのためにも、このような事態は収めていただきたい。
これ以上続けば、滝川家のためにもならないはずです」
綾乃の言葉の端々に、涼への思いが滲み出ている。
同時に、涼が自分を選んだのは滝川家の力が目的だということも暗に示していた。
「白石さんの言葉は感動的ですね。
ただ......なぜ私が涼さんや黒川財閥のことを考えなければならないのでしょう?」
その言葉に、綾乃は明らかに動揺した。
この3ヶ月間、奈津美がいかに涼に夢中だったか、彼女は見ていた。
奈津美が「涼さんのためなら何でもする」と言っていたことも聞いていた。
なぜ突然、態度が変わったのだろう。
「もしお怒りでそうおっしゃっているのでしたら、私からお詫びいたします。
ただ涼様とうまくやっていただきたいだけなんです。
私は身を引いて、涼様の目の届かない場所で暮らします......」
自分の無私の愛を語り続ける綾乃に、奈津美は冷たく言葉を遮った。
「それは白石さんの願望に過ぎません。
なぜ私が、心に別の女性がいる男性と人生を共にしなければならないのですか?
そんなことを仰るのは、非常識だとは思いませんか?」
「私への誤解があるのは分かります。でも涼様のためなら、私は何でも......」
綾乃はバッグからキャッシュカードを取り出し、奈津美の前に差し出した。
「涼様が誤解されて、滝川家にご対応なさったことは存じています。
今、滝川家にはお金が必要なはず。これは50億円です。
お詫びとしてお受け取りください。どうか涼様と仲直りなさって、婚約を続けていただけませんか」
綾乃の真剣な表情を見て、奈津美は心の中で冷笑した。
前世でも綾乃はこんな態度だった。
涼を遠ざけながら、同時に関係を保ち続け、要するに涼を翻弄していたのだ。
綾乃が今、必死に自分と涼の婚約を進めようとする理由は明白だった。
会長が綾乃を認めないことを知っているからだ。
そして、滝川家には後継ぎが少なく、自分には頼れる人もいない。
将来、黒川財閥が滝川家を利用し終えた時、簡単に切り捨てられるだろう。
しかも、神崎市の誰もが知っている通り、自分は綾乃に三分ほど似ている。
綾乃からすれば、涼が他の名家の令嬢と結婚するよりも、誰もが知る「代用品」である自分と婚約する方がましなのだ。
将来、綾乃と涼が和解すれば、人々は「幼なじみが結ばれた」と祝福するだけだろう。
そして今、会長は高齢だ。綾乃は会長が亡くなる日を待つだけでいい。
その時が来れば、涼を頼りに黒川家の奥様の座を手に入れられる。
「白石さん、涼さんはあなたが私に会いに来ることを知っているんですか?」
その問いに、綾乃は一瞬動揺した。
「そんなに長く正座していては、お膝が痛むでしょう。お手を貸しましょう」
奈津美が綾乃を助け起こそうと身を屈めた瞬間、カフェのドアが開き、風鈴の音と共に涼が入ってきた。
涼は強く奈津美を押しのけた。
「滝川奈津美!何をしてやがる!」