クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!

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クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!

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紗雪はかつて母親と賭けをした——もし加津也が自分を愛したら、彼との恋を成就させると。彼が控えめで芯の強い女性を好むと知り、彼女は貧し...

Chương (1)

第1章

紗雪はかつて母親と賭けをした——もし加津也が自分を愛したら、彼との恋を成就させると。彼が控えめで芯の強い女性を好むと知り、彼女は貧しい女子大生を装い近づいた。 しかし、彼が抱き寄せたのは初恋。冷ややかに彼女を嘲笑いながら、彼は言った。 「お前みたいな成金趣味の貧乏人が、初芽と比べられると思うのか?」 完敗を喫した彼女は、やむなく家へ戻り、億万の財産を継ぐことになった。 それから時が経ち、 彼女は数億円のオートクチュールを纏い、権力と名声を誇る「禁欲の男」と噂される男性の手を取る。華やかな姿で再会したとき、ようやく加津也は後悔を知った。 彼はSNSで堂々と告白する。 「俺はずっと芯の強い特別な女性を愛していると思っていた。でも紗雪、君と出会って初めて、『愛には例外がある』ということを知った」 しかしその夜、決して公の場に姿を現さなかった華原家の若き御曹司が、一枚の写真を公開した。それは長年大切にしまわれていた一枚。 写真の中の少女は、自由奔放で眩いほどの輝きを放っていた。 彼は紗雪の手をしっかりと握りしめ、こう宣言する。 「二川さん、君は俺にとって例外じゃない。君は俺の朝も夜も思い焦がれる人。そして、ずっと前から心に決めていた人だ」 第1話 西山 加津也(にしやま かづや)が初恋を誕生日パーティーに連れて来たその瞬間、二川 紗雪(ふたかわ さゆき)は自分の負けを悟った。部屋の隅で、母親からのメッセージを開く。 「紗雪の負けよ」 「三年間、加津也は愛さなかった。約束通り、戻って責任を果たすべき時が来た」 紗雪の視線は、ほど近くで加津也が抱きしめる少女に向けられた。 それが、彼が『初恋』と呼ぶ人物だった。 彼女にとって初めて見るその姿は、純粋で柔らかく、穏やかな雰囲気をまとっている。 決して高価な服を着ているわけではないが、不思議と目を引く魅力があった。 加津也の好みがこういう女性だったと知り、紗雪は口元に苦笑を浮かべる。 ふと、四年前のことを思い出した。派手な令嬢が加津也に告白しに行った時、彼はタバコの灰を払いつつ、桃花眼の瞳に冷たさと遊び心を滲ませながら言った。 「ごめん、お嬢さん。俺はもう少し素直で、普通な女が好みなんだ」 当時、紗雪は密かに彼を二年間想い続けていた。 しかし、母親はその恋を固く反対した。両家の事業が衝突している上、母は恋愛を軽んじる性格で、奔放な加津也の生き方も彼女の理想とは程遠かった。 だが、彼の好みを知った紗雪は母と賭けを交わすことにした。「もし加津也が私を愛したなら、母さんも認める」と。 それ以来、彼女は彼に付き従い、一夜にして二川家の令嬢から貧乏でおとなしい女学生へと変貌した。ある晩、酔った加津也が微酔いの瞳を輝かせながら尋ねる。 「俺のこと、好きなのか?」 「じゃあ付き合ってみる?」 この三年間、彼女はすべての情熱と勇気を注ぎ、彼のために料理を覚え、病気の際は昼夜を問わず看病した。 皆は彼女が加津也に夢中だと口々に言った。 加津也もまた、かつてのチャラ男から改心したように見えた。 彼は何度も笑顔で「俺の妻になってくれ。養ってやる」と言って彼女を気遣ったが、紗雪はそれを断った。 彼女は長い葛藤の末、誕生日の日に賭けの全貌を明かす決心をしていた。 そんな時、小関 初芽(おぜき はつめ)が現れた。 彼女の沈黙に気づいた誰かが意味ありげに冗談を言う。 「初芽が戻ってきたってことは、誰かさんの失恋決定だな」 「せっかく玉の輿に乗ったのに、君の帰還で計算が狂いそうだね」 初芽は柔らかな声で皆の話を遮り、紗雪に申し訳なさそうに語りかけた。 「ごめんなさい、二川さん。私と加津也は数年前、ある事情で別れました。彼が八つ当たりして、あなたと付き合うことになるとは思いもしませんでした。私たちの問題に二川さんを巻き込むべきではなかったのは確かですが、二川さんにとって損はしなかったでしょう?」 彼女の誠実な丸目の瞳は、紗雪が加津也のような人物に近づけたことが、どれほどのお得だったかを物語っている。 確かに、貧乏な大学生である彼女が、たとえ一時的であっても加津也と付き合えたのは、誰が見ても幸運なことだった。 その傍らで、加津也は紗雪に視線を向ける。 今日の彼女は、普段の清楚なおとなしさとは一線を画していた。 シンプルな赤いドレスを纏い、控えめな魅力を抑えた代わりに、奔放さを感じさせる。まるで満開のバラのように、見る者の心を奪う美しさだった。 彼女がただ座るだけで、誰もが目を奪われる。 しかし、加津也はこの変貌を好まなかった。 女性はやはりおとなしく可愛がられるべきだと考えていた。 仮初の恋人は所詮偽物、やはり初芽には敵わない。 彼は穏やかな口調で言った。 「初芽が戻った以上、俺たちのことはここで終わりにしよう。ここには二千万円、補償としてやるよ」 まるでその金で、三年間の記憶が軽々と消されるかのようだった。 紗雪は過去を振り返りながら、皮肉めいた笑みを浮かべる。 「お金はいいわ。あんたのEDにも、正直もううんざりだわ」 そう言いながら、近くに置かれた赤ワインを手に取り、遠慮なく加津也の顔に浴びせた。この三年間、彼は彼女に一度も触れなかった。 『初恋』のために自らの清純を守っていたのだ。 なのに彼女は、純愛を信じて三年も待ち続けた。 会場は一瞬にして静寂に包まれた。 紗雪は無頓着にティッシュで手を拭き、赤い唇をわずかに上げた後、嘲るように一言つぶやく。 「この一杯は、盲目的な三年間に」 言い終えると、一切振り返ることなく、彼女は個室を後にした。残された客たちは息をのんで互いに顔を見合わせ、加津也を注視する。 普段は温和な口調で、彼に対しても従順だった紗雪が、今日だけは全く違う姿を見せたのだ。 「どうかしてる。二千万円は彼女が一生稼げる金額じゃないのに、何偉そうにしてんだよ」 「好きにしろ」 加津也は歯を食いしばりながら皮肉を込めて呟く。 「しつこく絡んで俺と初芽の邪魔をしなければ、それでいいんだ」 「それにあんな女、もう会うことはないだろう」 彼は紗雪のことをよく知っているつもりだ。 頼るものもなく、家の背景も乏しい、ただの貧乏な女子大生である彼女。 彼を離れたら、この世で独りぼっち。 これはきっと彼に見せかけるためだけの演技だ。 だけど彼女は一度も振り返ることなく、堂々とその場を離れた。 以前、彼女と加津也は何度も衝突したが、そのたびに頭を下げて謝りに来たのは、いつも彼女だった。 しかし今回は違った。 紗雪は今度こそ本気で去る決意を固め、億単位の家業を継ぐために帰るのだ。 第2話 紗雪は恕原に長く留まることはなかった。本来、彼女がこの地で学業を続けたのは加津也のため。しかし、大学は卒業したし、彼の心にはもう別の女性がいる。 この街に、もはや彼女がいる理由はない。 紗雪はその夜のうちに航空券を手配し、鳴り城へと飛び立った。 空港に降り立ったとき、迎えに来ていたのは松尾 清那(まつお せいな)だった。 「今度は、もう行かないの?」 「うん」 かつて、紗雪は加津也を追いかけるため、鳴り城に滞在する時間が少なく、清那と過ごす機会も限られていた。 しかし、賭けには敗れた。 もう、離れる理由もない。 清那は彼女と加津也のことを聞き、少し複雑な表情を浮かべたが、何も言わずに紗雪の腕を軽く引いた。 「暗い話はやめよう。今日はあなたの歓迎会よ」 紗雪は微笑みながら頷き、断ることなくその言葉を受け入れた。 清那は彼女を鳴り城で最も高級な会員制クラブへ連れて行き、最高級の酒を注文し、独身パーティーを開いてくれた。 グラスを傾けるごとに、紗雪の胸に残っていたわだかまりは少しずつ薄れていく。 「紗雪が加津也と別れてくれて、正直ほっとしたよ」 清那が冗談めかして言った。 「あのときの紗雪、本当に別人みたいだった。加津也に合わせるために、猫かぶって大人しくしてたし、酒もやめて、スポーツカーも手放して、毎日図書館にこもってたの、今思い出しても衝撃だったわ」 加津也の好みとは真逆のタイプだった紗雪。 二川家は鳴り城でも屈指の名家であり、かつての紗雪は華やかな世界を好み、カーレースや乗馬、登山やバンジージャンプに夢中だった。 明るく、情熱的で、自由奔放。 恋愛など、人生のささやかな彩りに過ぎないと考えていた。 それなのに、加津也のためにすべてをやめ、静かで従順な少女に成り変わった。 「あの時の私はどうかしてる」 過去を思い出しながら、紗雪は気怠げに言う。 彼女は絶世の美女だった。 ただ、かつては無理をして、自分に合わない姿を作っていただけ。 今の彼女には、そんな違和感はない。その自然な美しさに、隣で酒を注いでいた男性すら、思わず頬を赤らめるほどだった。 清那は笑いながら問いかけた。 「紗雪、加津也とは終わったことだし、本当に二川家を継ぐの?」 「約束はちゃんと守らないと」 紗雪はグラスの酒を一口飲み、淡々と答えた。 二川母はやり手の女性であり、夫を亡くした後、激しい企業内の抗争をたった一人で乗り切ってきた。 姉の二川 緒莉(ふたかわ いおり)は生まれつき体が弱かった。 そして、紗雪は自由を愛する性格だったため、二川母は無理強いすることなく、彼女に選択の自由を与えた。 それが、今回の賭けにつながった。 負けた以上、潔く認めるしかない。 清那は肩をすくめる。 「二川家の決まりは、結婚してから家業を継ぐことよね?相手、もう決めた?」 「実はまだ」 紗雪は母の考えをよく理解していた。 母は確かに強気な人間だが、結婚相手を厳しく制限することはなかった。 かつて彼女が加津也との交際を強く反対したのは、小関家と西山家が競合関係にあったからだ。 「紗雪が負けたとしても、おばさんは無理に結婚させたりしないわよ。だいたい、世の中には男なんていくらでもいるし、どうしてもっていうなら、私の従兄を紹介しようか?」 清那の従兄、椎名 京弥(しいな きょうや)。 彼は有名な「高嶺の花」だった。 冷淡で、禁欲的な雰囲気を持ち、それでいて容姿は端整を極める。 紗雪は、幼い頃に彼の顔を見たとき、あまりの美しさに息をのんだことがある。 子供の頃の浅い恋心は、やがて静かに消えていった。 その後、互いに遠くで存在を知るだけの関係になり、一度も会うことはなかった。 紗雪は清那の言葉を冗談と受け流した。 冷たい酒が喉を通り抜けると、後になってわずかな苦みを感じる。 宴が終わりに近づいた頃、二人の足取りは少しふらついていた。 清那は妙な顔をして言った。 「京弥が、迎えに来るって」 そう言いながらも、少し不思議に思っていた。 彼女は昔から従兄と特別親しいわけではなかった。 それなのに、突然メッセージが届き、「紗雪と一緒にいるのか?」と尋ねられ、さらに迎えに行くとまで言われた。 清那はあまり深く考えず、それを単なる気まぐれな親切だと思っていた。 数分後、一台の黒いマイバッハがクラブの前に滑り込んだ。 車の窓が下がると、そこには冷たく、それでいて妖艶な雰囲気を纏った男性の顔があった。 端正な顔立ち。 陶器のように滑らかな肌。 上品で、気品を感じさせる佇まい。 月明かりの下、その美貌は一段と際立ち、まるで人ならざる存在のように思えた。 まさに、目の保養。 「乗れ」 低く響く声は、耳をくすぐるような魅力に満ちていた。 京弥の視線が清那を軽くかすめ、最後に紗雪の上で止まる。 目が合った瞬間、紗雪の心臓がわずかに跳ねた。 第3話 清那は、この従兄に対して少しばかり畏れを抱いていた。大人しく車に乗り込むと、一言も発さなかった。 車内は異様なほど静かだった。 紗雪の視線は京弥の手首にある数珠に落ちる。どこかで見たことがあるような気がしたが、酔いのせいで頭がぼんやりしていた。 ただ、脳裏には彼に初めて出会った時の光景がかすかに浮かんでいた。 数年が経っても、この男の容姿は少しも衰えていなかった。 清那の家は近かった。 京弥は彼女を送り届けた後、紗雪をホテルまで送るつもりだった。 車内に残るのは二人きり。 男の声がふいに響いた。 「鳴り城に留まるのか?」 「ええ」 紗雪は一瞬怔み、軽く頷いた。 彼とはそこまで親しい間柄ではなかった。それゆえ、彼がこの一言を発した後、再び沈黙が訪れる。 車内のエアコンが効きすぎていたせいか、紗雪はいつの間にか眠りに落ちてしまった。 どれほど時間が経ったのか。 低く落ち着いた声が響く。 「紗雪、着いたよ」 紗雪はゆっくりと目を開け、男の深い瞳とぶつかった。 視線が交錯し、一瞬、現実感が薄れる。 「......京弥?」 声には倦怠感が混じる。 車のドアが開き、男の体が半ば車内に差し込まれる。その端正で目を引く顔が、すぐ目の前にあった。 彼は伏し目がちに紗雪を見つめ、冷ややかで端正な表情を浮かべていた。 身にまとう気配には、冬の松の清涼感のある香りが含まれている。それは心地よく、どこか懐かしい香りだった。 少年時代、彼女が心奪われ、忘れがたかった姿と重なった。 紗雪は赤い唇をわずかに弧を描くように歪めた。 「やっぱり、すごく綺麗だね」 酔いが回る中、彼女はまばたきを繰り返しながら、ふいに手を伸ばし、彼の首に絡める。 「ねぇ、私としない?」 尾を引く甘ったるい声。 挑発的な色が濃い。 京弥は一瞬、動きを止めたようだった。 彼は彼女の乱れた髪をそっと払うと、平静な声で答えた。 「君、酔ってるだろ」 紗雪はくすぐったさを感じつつも、彼を逃がさなかった。 「酔ってない」 彼女の頭の中には、加津也との過去、二川家のことがちらつく。 反抗的で、破天荒で、自由で。 それなのに、加津也のために良い子を演じ、賭けのせいで家に縛られた。 もしかすると、これが最後の自由かもしれない。 「さあ、どうする?」 彼女はさらに近づき、その黒髪が彼の鼻先をかすめた。 その瞬間、くすぐったい感覚がじわじわと広がる。 まるで何かのウイルスのように。 次の瞬間、ひんやりとした唇が重なった。 腰を引き寄せられ、彼の吐息が頬を掠める。 「紗雪、後悔するなよ」 彼は舌先を軽く噛む。 その行為は優しさを含みつつも、圧倒的な支配力を持っていた。 二人の息遣いが熱を帯び、紗雪の睫毛が微かに震える。 彼の瞳に映る自分——そして、その奥に隠れた沈むような情欲。 冷淡な色の奥に、情熱が見え隠れしていた。 彼女の喉がひどく渇いている気がして、ますます彼の口づけに溺れた。 車内で、熱が渦巻く。 水音が重なり、 男女の行為が、理性を狂わせるほど中毒性を持つのだと改めて思い知らされる。 車からベッドへ。 事が終わる頃、紗雪の体は甘い痺れに包まれ、感覚が鈍くなるほどだった。 目が覚めた時、紗雪は全身に疲労感を覚えた。 まぶたを開くと、昨夜の記憶が断片的に戻り、彼女の体が微かに硬直する。 京弥と寝た? まさかの事態に、紗雪は苦笑しそうになった。 緒莉のことを考えると、妙に滑稽を感じる。 そうしているうちに、浴室の水音がぴたりと止んだ。 「起きたのか?」 紗雪が顔を上げると、浴衣をまとった男が現れた。 引き締まった体躯に、腰まで滴る水滴。 その長身と細いラインが、妙に目を引いた。 彼女の顔が、無意識に熱を持つ。 「ごめん、昨日は酔ってたの」 反射的にそう言うと、京弥は一瞬動きを止め、冷たい目を細めた。 なぜか、彼の声色はさらに冷ややかになった。 「それで?」 紗雪は床に散らばる服を拾い上げる。 昨夜の痕跡はあまりに鮮明で、それを隠そうともせず、京弥の視線を受け止める。 そして、艶やかな唇を小さく弧を描くように歪めた。 「清那とは友達だし。だから昨日のこと、京弥さんは気にしないよね?」 声は気怠げに甘く響いた。 けれど、彼女は敏感だった。 言い終えた途端、彼の表情がさらに冷えたような気がした。 彼は煙草に火をつけ、黒い瞳で彼女を見据える。 そして、ふと気の抜けたような声で問いかけた。 「他の人にも、そうしてるのか?たとえば、あの西山加津也に」 第4話 彼は自分と加津也のことを知っているのか? そんな疑問が頭をよぎったが、紗雪はただ微笑を浮かべたまま、「いや?ただ、京弥さんも楽しんだんだから、この話はもう終わりってことでいいでしょ?」と軽く言った。 そう言いながらも、彼女の心の奥底には一抹の不安があった。 京弥は特別すぎる。 彼は天才的な才能を持ち、若くして成功し、さらに有名な「高嶺の花」。まるで空高く輝く月のような存在だった。 やり過ぎた。 紗雪は心の中で悪態をついた。 京弥は煙を軽く払うと、肯定も否定もせず、ただその目を深く沈ませた。 「好きにしろ」 冷たくそう言われ、紗雪は密かに息をついた。 彼女は服を整え、ホテルを後にし、タクシーで二川家へと向かった。 ちょうどその時、ホテルの入り口近く。 初芽は遠くに見えた紗雪の姿に気づき、ふと足を止めた。そして、そばにいた加津也の袖を軽く引いた。 「加津也、二川さんを見かけたかも」 「紗雪が?」 加津也は眉をひそめた。 このホテルは五つ星クラスの高級ホテルだ。紗雪のような貧乏人が泊まれるような場所ではない。 「加津也への未練が断ち切れないんじゃない?加津也が椎名社長に会いに来るって聞いて、わざわざ待ち伏せしてるとか......」 「気にするな」 加津也は不機嫌そうに言った。彼はしつこい女が大嫌いだった。 誕生日パーティーで騒ぎを起こしただけならまだしも、今度はストーカーのように追いかけてくるなんて。 それに、自分は紗雪に対して十分に親切だったつもりだ。 普通なら、彼のような男と交際できること自体が紗雪にとって一生に一度の幸運だったはず。 考えながら、加津也は祖父の言葉を思い出した。 「椎名社長の方が先だ。椎名のプロジェクトは何が何でも手に入れるんだ」 西山家はここ数年、衰退の一途をたどっている。もし椎名と繋がることができれば、立て直すチャンスが生まれるかもしれない。 しかしホテルに到着した時には、京弥はすでに姿を消していた。彼の秘書すら会わせてもらえなかった。 「加津也、大丈夫よ」 初芽は柔らかく微笑んだ。 「椎名は近いうちにビジネスパーティーを開くらしいわ。その時にまた接触できるはずよ」 「ああ」 加津也は深く考え込むように頷いた。 「どうしても、このプロジェクトを手に入れてみせる」 一方、紗雪はそんなことを知る由もなかった。 ホテルを出た彼女は二川家へ戻った。家には母親と姉の緒莉がいた。 二川母は彼女を見るなり、冷たい声で言った。 「前にも言ったけど、加津也なんてろくな男じゃないわ。西山家と私たちは敵対関係よ。賭けに負けた以上、明日から二川グループに出社しなさい。そして、結婚したら業務に慣れた後、私のそばで働かせる。緒莉は体が弱いんだから、二川グループのことは紗雪がしっかり支えるのよ」 紗雪は母の性格をよく分かっている。 母が譲歩したのは、唯一、この賭けだけだった。 彼女が何も言わないままいると、隣にいた緒莉がふと笑い、意味ありげに口を開いた。 「お母さん、紗雪は帰ってばかりなのよ。それに辰琉はもう彼女の義兄になりそうだし......彼女を誰と結婚させるの?」 安東 辰琉(あんどう たつる)。 緒莉が言及したその名は、もともと紗雪の婚約者だった男。 しかし、辰琉は緒莉に一目惚れし、数年前に婚約を破棄していた。 紗雪と緒莉の仲は昔から悪い。 緒莉は母が養女として迎えた娘だったが、病弱なために幼い頃から母の寵愛を一身に受けてきた。 対照的に、紗雪に対する母の態度は冷淡だった。 今、このタイミングで緒莉が辰琉の話を持ち出したのは、紗雪を貶めるために決まっている。 二川母はちらりと紗雪を見やり、淡々と言った。 「数日以内に、紗雪の縁談を進める。適当な相手を見つけるわ」 緒莉の唇がゆるやかに弧を描いた。 母は冷静な人だ。 紗雪の結婚相手も、当然ながら利益優先で選ばれることだろう。 きっと、紗雪にとって満足できるものにはならない。 しかし、紗雪の表情は変わらなかった。 「母さん」 彼女は静かに言った。 「以前、こう言ってたよね。『結婚相手は、誰でもいい』って。それなら、私が自分で選びたい」 二川母は少し眉を寄せた。 第5話 紗雪は冷静に言った。 「ご心配なく。加津也とはもう終わったよ。ただ、これから二川家を継ぐなら、結婚は安定したほうがいい。少なくとも、嫌いじゃない相手を選びたいね」 二川母は最初から加津也との関係に否定的だった。 理由の一つは、紗雪が恋愛に溺れ、冷静な判断を失っていたこと。 もう一つは、西山家と二川家が競合関係にあったことだ。 規模でいえば二川家のほうが上だったが、それでも敵は敵だった。 実のところ、二川母は紗雪の結婚に強い支配欲を持っているわけではなかった。 二川家の跡取りとして期待はしていたが、紗雪の人生に過度に干渉することはなかった。 少なくとも、緒莉に対する関心ほどではない。 二川母はじっと紗雪を見つめた。 冷静で鋭いまなざしで、しばらく考えた後、口を開いた。 「いいでしょう」 「相手は自分で選びなさい。でも、賭けに負けた以上、覚悟はしておきなさい。紗雪、私を失望させないで」 「ええ」 紗雪は淡々と答えた。 二川母はそれ以上何も言わず、踵を返して二階へ上がっていった。 広いリビングには、緒莉と紗雪だけが残った。 姉妹という肩書きはあっても、二人の関係は希薄だった。 緒莉は、二川母が高額で落札した翡翠の数珠を指で弄びながら、冷笑を浮かべた。 「紗雪、本気で自分が辰琉よりいい男を見つけられると思ってるの?」 「この社交界で、あなたが加津也のためにどれだけ格を落としたか、知らない人はいないわ。まさか、嫁にしたがる人いるなんて思ってないでしょうね?」 小関家と西山家の付き合いは少ないが、紗雪が男と関係を持ったことは、市内で噂になっていた。 紗雪は緒莉を一瞥した。 もともと彼女に対して特別な感情は持っていない。 ましてや、辰琉との婚約が破談になったときはむしろホッとしていたくらいだ。 それなのに、緒莉はなぜかいつも彼女に敵意を向けてくる。 「辰琉?」 紗雪は眉を上げ、くすっと笑った。 「好きならあげるわ。あ、そうそう、彼、結構遊んでるみたいだから、定期的に検査させたほうがいいわよ?」 「あなたっ!」 緒莉は顔を真っ赤にして怒りに震えた。 彼女には分かっていた。 二川母が紗雪に厳しく、彼女に甘いのは、紗雪に期待していたからだ。 それでも納得できなかった。 なぜ紗雪が二川家を継ぐのか。 自分は継げないのか。 養女だから? 紗雪の背中が見えなくなるまで、緒莉は悔しさを滲ませた目で見送った。 紗雪は緒莉の考えなど気にも留めず、日々を過ごしていた。 彼女の「破局」の話を聞きつけた友人たちは、こぞって見合いの話を持ってきた。 三日間、いろいろな男性と会ったが、どれも興味を惹かれるものではなかった。 その日も、紗雪は食事を終えて帰ろうとしていた。 すると、少し離れたところから、馴染みのある声が聞こえてきた。 「二川さん?奇遇ですね」 話しかけてきたのは初芽だった。 彼女は加津也の腕にそっと手を添え、高級ブランドの服をまとっていた。 相変わらず、柔らかく愛らしい雰囲気を纏っている。 加津也も彼女の隣にいた。 彼は紗雪の姿を見た瞬間、眉をひそめた。 何かが違う。 以前とはまるで別人のようだった。 きっちりとしたメイク、紅い唇、黒く艶やかな髪。 余裕で、自信に満ちた態度。 奔放で、気高く、目を引く存在感。 「お前、ここで何してるんだ」 加津也はそんな考えを振り払い、冷たい声で問いかけた。 この店は会員制だ。 紗雪のような人間が入れる場所ではない。 紗雪は唇の端をわずかに上げ、楽しげに言った。 「私がここにいちゃダメ?」 「二川さん、もしかしてバイト?」 初芽がくすくすと笑った。 「ここは給料がいいらしいですけど......名門大学を出た二川さんが、まさか生活のためにウェイトレスを?」 「悪い?」 紗雪の視線が、初芽の数万円する服を横切った。 「自分で稼ぐほうが、男に養ってもらうよりマシ」 初芽の顔がサッと青ざめた。 唇を噛み、今にも涙を浮かべそうな表情を見せる。 だが、加津也は苛立った声で言った。 「自分の女に金を使って何が悪い?」 「お前と別れるとき、ちゃんと二千万円渡したはずだ。それをお前が受け取らなかっただけだ。そんな接客態度で、よくここで働いてられるな?」 彼はすぐさま店のマネージャーを呼んだ。 初芽は静かにその様子を見守っている。 紗雪は二人を見つめながら、ふと可笑しくなった。 もし本当に貧乏な女子大生だったら。 加津也のこの行動は、彼女の唯一の収入源を奪い、生活をさらに苦しめるものだった。 初芽も、それを一番理解できるはずなのに、見て見ぬふりをしている。 まるで、何も関係のない赤の他人のように。 初恋って、案外大したことないのね。 やがて、店のマネージャーが駆けつけてきた。 「お客様、いかがなさいましたか?」 「このウェイトレスの態度がなってない。こんな奴、さっさとクビにしろ」 加津也は冷たく言った。 マネージャーは一瞬動揺し、すぐに首を振った。 「お客様、何かの誤解です。二川さんは当店のVIP会員でして、決して従業員ではございません」 「は?」 加津也は呆然とした。 信じられなかった。 紗雪がこの店の会員? 昔は屋台の食べ物すら節約していたはずだ。 いちごを食べるときだって、一番安いヘタの部分から食べていた。 なのに、今は高級会員? そこまでして彼の気を引きたいのか? 加津也の顔には、心底うんざりした表情が浮かんでいた。 「お前、何がしたいんだ。まだ俺に執着してんのか?」 紗雪はゆっくりと彼を見上げた。 そして、真顔で一言。 「ドアホ」 第6話 初めて、彼女は目の前の男を見て、かつての記憶と結びつけることができなかった。 一時的に視力を失ったあのとき、何度も何度も優しく慰めてくれたのは彼だったはずなのに。 あの地震のとき、加津也は彼女を救い、救助が来るまで寄り添い続けてくれた。 だからこそ、彼に長く心を寄せていた。 だが、彼女は考えもしなかった。 暗闇の中で自分を支えてくれた男が、こんなにも自惚れていて、こんなにも冷酷だったなんて。 「二川さん、女の子はもっと自分を大切にしたほうがいいですよ。こんなふうに執着しても、あなたのためにはなりませんから」 初芽は困ったように微笑んだ。 まるで、自分の恋人にしがみついて騒ぐ元カノを寛大に許す女性のように。 紗雪は弁解しようとしたが、突然、誰かがマネージャーに何かを耳打ちした。 マネージャーの表情が一変し、加津也に向き直る。 「申し訳ありません、西山様」 「お客様への会員招待ですが、当店のオーナーが撤回されました。今後、西山様は当店の会員ではなくなりますので、ご退店をお願いいたします」 撤回? このレストランは有名で、オーナーは謎めいた人物として知られている。 加津也の顔が険しくなった。だが、怒りを抑えながら問いただす。 「どういうことだ?」 「申し訳ございません」 マネージャーは丁寧に手を差し出しながら言う。 「これはオーナーのご指示です。どうか、お引き取りください」 紗雪は少し驚いたが、すぐに小さく笑った。 気だるげに加津也の表情の変化を眺める。 加津也は彼女を一瞥し、奥歯を噛みしめた。 だが、ここで騒ぎを起こすわけにもいかず、初芽を連れて店を出る。 レストランを出ると、初芽はさっきの光景を思い出し、目を赤くしてそっと尋ねた。 「加津也、さっきのこと......二川さんが仕組んだんじゃない?」 「ありえない」 加津也は不機嫌そうに言い捨てる。 「紗雪にそんな力があるわけがない」 「でも......この店のオーナーって、すごくお金持ちなんでしょう?二川さんが加津也を恨んで、わざとオーナーに近づいたとか?それに......彼女、随分変わったように見えたし」 加津也は紗雪の今夜の姿を思い返した。 確かに、昔とは別人のようだった。 気迫も、まるで違う。 「そんなこと、できるわけない」 加津也は冷笑する。 「あんな出自の女、男はただの遊び相手としか見ないさ。相手にする価値もない」 初芽の唇に、ようやく微かな笑みが戻る。 彼女は素直に加津也の隣を歩いた。 一方その頃。 紗雪の今夜の見合いは、とっくに終わっていた。 さっきの出来事を思い返しながら、この店のオーナーが誰なのか気になっていたそのとき。 不意に、少し離れた場所に見知ったシルエットが現れる。 その人影が、こちらに向かって歩いてくる。 紗雪は一瞬戸惑い、そして声をかけた。 「奇遇だね、京弥さん」 まるで、あの夜の出来事などなかったかのように、素直に挨拶する。 だが、男の視線は彼女に留まったまま。 冷たく深い黒い瞳で見つめ、低く響く声で問いかける。 「見合い?」 紗雪は頷いた。 この話は社交界では有名で、京弥が知っていても不思議ではない。 「おばさんの意向なのか?」 京弥の目は深く沈み、その真意は読み取れない。 紗雪は少し戸惑いながら、彼を見上げる。 「ちょうどいいな。うちも最近うるさくて」 そして男は静かにそう呟き、彼女と視線を交わしながら、何気ない口調で問いかけた。 「だから紗雪、俺と籍を入れてみないか?」 低くかすれた声。 冷ややかで、それでいて惹きつける響き。 紗雪の心臓が、一瞬だけ速く跳ねた。 まさか、京弥のほうから言い出すとは思わなかった。 「理由を聞いても?」 紗雪は何かを思い出したように、躊躇いがちに問い返す。 「もしあの夜のことが理由なら、遠慮するわ。京弥さんのテク、悪くなかった。私も楽しめたし」 そんなの、お互いの合意の上でのこと。 ましてや、積極的だったのは彼女のほうで、彼の見た目に惹かれたのも彼女だ。 京弥は、手首に巻かれた数珠を指で弄びながら、静かに言った。 「理由を言うなら......お互いの利害が一致するから、ってとこかな」 「それに、君は清那の友人だろう。俺は清那の目を信用してる」 第7話 彼が清那の名を口にすると、紗雪は口元にかすかな笑みを浮かべた。 もし本当に京弥と結婚するとなれば、清那がどう思うかは想像もつかない。 ただ、京弥のこの顔。 どうしたって、心が揺れる。 彼女が求めているのは、嫌悪感がなく、人間性にも問題のない相手との結婚だった。 その点において、京弥は最適な選択肢だった。 紗雪は赤い唇を弧にし、まばたきをひとつ。 「京弥さん、どうしよう。私、断る理由が見つからないわ」 「じゃあ明日、午前十時、市役所で」 京弥が彼女を見つめる。 紗雪は頷いた。 京弥はまだ用事があるのか、踵を返して歩き出したが、ふと足を止めた。 眉をわずかに寄せ、探るように口を開く。 「あの西山のことは......」 「もう終わったよ」 紗雪は視線を落とし、さっきの加津也の態度を思い出す。 「安心して。私は、過去にすがるタイプじゃないから」 それを聞いて、京弥は再び歩き出した。 彼の背中を見送る紗雪の胸には、妙な現実感が押し寄せる。 本当に京弥と結婚するんだ。 結婚のことは、事前に二川母には伝えなかった。 京弥はもともと目立つのを好まず、メディアでもほとんど姿を見せない。 それに、今回の結婚は、どちらかといえば家族への義理のようなもの。 冷静に振り返ると、彼との関係は、あの一夜の出来事と、かつての微かな片想い、 そして清那の従兄としての縁がほとんどだった。 翌日、二人は市役所で婚姻届を提出し、外へ出た。 それぞれの手には、結婚証明書が握られている。 紗雪は、この瞬間になってようやく「結婚したんだ」と実感した。 「結婚したなら、新居に引っ越すべきかな?」 経験のない彼女は、少し迷いながら尋ねた。 実のところ、紗雪は京弥のことをよく知らない。 ただ、椎名家は相当な資産家であるということは知っている。 きっと、結婚生活の準備も万全のはず。 「結婚」と言う二文字を耳にした京弥の唇が、わずかに上がった。 しかし、その微笑みは一瞬だけ。 「当然だ」 彼は冷静な声で言い、 「これが新居の鍵。それと......」 そう言って、一つの鍵束と赤い小箱を差し出した。 紗雪はそれを受け取り、箱を開く。 瞬間、息をのんだ。 中には、一粒のダイヤモンドリング。 しかも、彼女の好みぴったりのデザイン。 控えめな精巧さの中に、華やかさが際立つ。 かつての自分なら、間違いなくこのデザインを選んでいただろう。 「結婚指輪だ」 京弥は淡々と言い、彼女を見つめる。 「試してみるか?」 貧乏な大学生を三年も演じていたが、彼女の「キラキラしたもの」に対する憧れは消えていない。 「うん」 紗雪が頷くと、京弥は指輪を取り出し、彼女の指にはめた。 「気に入った?」 平静な口調で、しかし彼女をじっと見つめながら問う。 「気に入らなかったら別のものに......」 「気に入った」 紗雪は唇を弧にする。 およそ九桁の価値がある指輪。 気に入らない理由がない。 思えば、加津也と付き合っていた頃、彼がくれた最高の贈り物は数千円程度の指輪だった。 それ以外の金銭的な贈り物は、彼女がほとんど返している。 結局のところ、男がどれだけ本気かは、金の使い方で分かる。 二川家に金銭的な問題はない。 けれど、京弥の誠意を感じた紗雪の機嫌は、自然と良くなっていた。 京弥は、さらに一枚のカードを彼女に差し出した。 紗雪は、それが家計用のものかと思い、素直に受け取ろうとする。 だが、男はちらりと彼女を見て、悠然と告げた。 「家のことは家政婦がやる。これは君の小遣いだ、椎名奥様」 淡々とした口調で、まるで些細なことのように。 紗雪は目尻を少し上げ、唇を弓なりにする。 冗談めかして言った。 「京弥さん、私、お金と体目当てで騙しているかもよ?」 「お金......」 京弥は微かに笑ったように見えた。 低く落ち着いた声で言う。 「いいだろう。椎名奥様、好きな額を言え。体の方は......」 紗雪が彼の目を覗き込む。 視線がぶつかった。 陶器のように滑らかな白い肌、精巧な顔立ち。 目元の美しいカーブ。 京弥が身を屈める。 紗雪の腰を軽く引き寄せ、そのまま、 唇を、落とした。 第8話 これは抑えのきかないキスだった。 深く、激しく。 紗雪は軽く息をついたが、その吐息さえもすべて唇の隙間から奪われた。 思わず彼の服の裾を握りしめる。 脚が力を失いそうになった頃、ようやく京弥が動きを止めた。 彼は紗雪を見下ろしながら、低く囁く。 「体目当てのわりには、まだまだ手練れとは言えないな、椎名奥様」 紗雪の負けず嫌いな性格が顔を出す。 彼女は薄く微笑むと、突如として京弥の喉仏に唇を寄せた。 微かに震える彼の体を感じ取りながら、すぐに身を引く。 唇に浮かべたのは、気だるげでありながら、どこか挑発的な笑み。 「椎名旦那様も、大したことないわね」 京弥の目の色がわずかに暗くなる。 だが、紗雪はそれ以上の挑発はせず、あっさりと引き下がった。 紗雪は京弥と連絡先を交換した後、彼の新居へと引っ越した。 京弥の新居は、立地が非常に優れていた。 引っ越しの前に、紗雪は二川母に結婚したことを伝えたが、京弥の名は伏せた。 二川母は彼女が思っていたよりも驚いた様子だったが、特に咎めることはなく、ただ淡々と告げた。 「二川家には離婚の習慣はない。自分で選んだ相手なら、ちゃんと覚悟を持ちなさい。結婚した以上は、会社に集中することね」 紗雪は自分の心に湧いた感情をうまく言葉にできなかった。 いつも通りと言えばいつも通りだ。 二川母は基本的に、紗雪が自らの意思に逆らわない限り、細かいことには干渉しない。 だからこそ、ほんの一瞬、言いようのない寂しさが胸をかすめた。 彼女はそんな感情を振り払うように、笑顔で返した。 「分かった」 電話を切る直前、二川母はぽつりと付け加えた。 「今度、その人を連れて帰りなさい」 その日の午後、紗雪は二川グループに正式に入社した。 二川母は彼女の身分を隠さずに明かしていた。 目的は、紗雪を早く会社に馴染ませるためだ。 そのため、会社のマネージャーたちは紗雪に対して非常に丁寧な態度を取った。 「お嬢様、こちらが今月の重点プロジェクトです。椎名は養生温泉リゾートの開発を進めていますが、現在、我々を含む数社が入札に参加しています。このプロジェクトを獲得できれば、グループにとって大きな利益になります」 マネージャーはそう言いながら、資料を彼女に手渡した。 紗雪はファイルを開き、ざっと目を通す。 椎名はこの業界のトップ企業であり、数年前に資産の再編が行われ、新しいオーナーへと変わったらしい。 近年、積極的に動いており、その利益率は業界の中でも群を抜いていた。 「椎名と手を組めれば、たとえ端くれの利益でも、他社にとっては喉から手が出るほど欲しいものになる」 以前、二川母もこのプロジェクトの重要性について言及していた。 彼女の視線は競合企業のリストへと移り、そこにある名前を見つけると、思わず片眉を上げる。 西山。 ......西山家も、このプロジェクトを狙っているのか。 「プロジェクトの詳細と、椎名の情報を送ってちょうだい」 紗雪がそう指示すると、マネージャーは頷いた。 「椎名の社長は再編後、謎めいた存在となっています。ただ、近日開催されるビジネスパーティーには出席するはずです」 紗雪はそれを聞き、軽く指で机を叩いた。 もしこのプロジェクトを手に入れたいのなら、そのパーティーがチャンスとなるだろう。 同じ頃、西山家。 加津也は祖父から競争相手の資料を手渡された。 「加津也、これが今回の入札に参加する競争相手だ。二川グループが最大のライバルになるだろう。聞いた話では、二川家の次女も今回のプロジェクトに関わるらしい。何があっても、この案件は勝ち取るんだ」 「二川家の次女?」 加津也は眉をひそめた。 彼はそんな人物について聞いたことがない。 だが、女が一人参戦したところで、大した問題ではないだろう。 「分かりました。期待を裏切りません」 「それと、初芽との話も早く決めなさい。以前付き合っていた大学生、別れた後もまだ騒いでいると聞いたが?」 祖父は渋い顔で言った。 「今の時期、余計な問題を起こすな」 「安心してください、きちんと処理します」 加津也は紗雪のことを思い浮かべ、心底うんざりした気分になった。 未練がましく付きまとう女ほど、面倒なものはない。 どうせ、彼女も他の女と同じだ。 彼は目を細め、ふと何かを思いつくと、秘書を呼びつけて指示を出した。 「ちょっとした用事を頼みたい」 その夜、紗雪は会社の仕事に追われ、遅くまで残っていた。 不動産業界は競争が激しく、ましてや彼女はまだ半人前だ。 短期間で戦力になるためには、人一倍努力するしかない。 ようやく仕事を終えた頃、スマホの画面にメッセージが届いた。 送信者は加津也だった。 【紗雪、もう別れたんだから、きちんと清算させてもらうよ。今まで贈ったプレゼントを全部返せ】 メッセージの下には、贈り物のリストが添付されていた。 ネックレスからスリッパに至るまで、果てはミルクティーまで含まれていた。 彼女が返信しないのを見て、加津也はさらにもう一通送ってきた。 【三日以内に返せ。それとも、あれは口先だけのプライドか?俺を失望させるなよ】 第9話 送ったプレゼントを回収する? 紗雪は加津也のありえない行動に呆れ、思わず笑ってしまった。 これまで彼のことを、ただちょっとクズな男だと思っていたが、まさかここまでケチでセコいとは。 こんな男と付き合っていたこと自体、運が悪かったとしか言いようがない。 新居に戻った紗雪は、加津也からもらったプレゼントをすべて探し出そうとした。 ちょうどその時、京弥が帰宅した。 「何を探してるんだ」 彼は紗雪を見つめながら、冷静な声で尋ねた。 紗雪は手を止め、何気なく答えた。 「別れた男への清算。元カレがくれた物を探してるの。別れた後にプレゼントを返せなんて、こんなセコい男、人生で初めて見たわ」 彼女は少し歯ぎしりしながら言った。美しい顔にはわずかに苛立ちが浮かんでいた。 次の瞬間、スマホから通知音が鳴った。 【四百万円の入金がありました】 京弥は床に散らばった安物のプレゼントを一瞥し、冷淡に言った。 「そんなガラクタ、全部捨てろ」 紗雪は一瞬動きを止めた。すると彼が続けた。 「椎名奥様、俺は自分の妻が他の男の物を持っているのは好きじゃない」 紗雪はすぐに気が付いた。 自分の恋愛脳な過去が広く知られていることを考えれば、京弥は彼女がまだ元カレに未練があると誤解したのかもしれない。 「安心して。ゴミはゴミ箱に捨てるわ」 そう言いながら、彼女は手元の指輪をわざと揺らし、微笑んだ。 「それに、もう一番のお気に入りが出来てるから」 彼女はこのダイヤの指輪が本当に気に入っていた。 それに、結婚した以上、椎名奥様として京弥を失望させるわけにはいかない。 男はその言葉を聞くと、ふっと唇の端を持ち上げた。 紗雪はスマホの入金履歴を見つめ、少し戸惑いながら言った。 「京弥さん、このお金、やっぱり返すよ」 京弥がお金に困ることはないが、やはり線引きはしておきたい。 「いい」 京弥は軽く眉を上げ、ゆっくりと言った。 「安心しろ。俺は別れた後に請求するほどセコくない。ただの奥様への......お小遣いだと思え」 紗雪は昔も京弥からお小遣いをもらったことがある。 彼女は清那と仲が良く、子供の頃、清那がよく彼女を巻き込んで大人たちに甘えていた。 京弥もその大人の一人だった。 彼女の記憶の中では、甘えておねだりをすると、京弥はいつも微笑みながら、熱っぽい視線で、パンパンに詰まったお年玉を渡してくれていた。 だが、椎名奥様になってから、小遣いをもらうのは今回が初めてだった。 なんとなく、頬が熱くなる。 「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう、京弥さん」 彼女はもう断らず、そのまま受け取った。 不要な物を片付けた後、紗雪はシャワーを浴びようとしたが、その時、あることに気づいた。 加津也からもらった金のネックレスの一部が変色していた。 紗雪は眉をひそめた。 変色した部分に指を触れ、苦笑する。 ――偽物。 加津也からもらった唯一の高価なプレゼントが、まさかの偽物だった。 夜。 紗雪はベッドに寝転びながら、清那とビデオ通話をしていた。 「偽物?」 清那は目を丸くし、驚愕した。 「西山家ってそんなに貧乏なの?女の子へのプレゼントまで偽物って......」 「たぶん、加津也の友達が用意したんでしょ」 紗雪は淡々と言った。 加津也が彼女に贈った物は、すべて彼の取り巻きが準備したものだった。 彼にとって、彼女はそれくらいどうでもいい存在だったのだろう。 清那は呆れたように口元を歪めた。 加津也のやったことがあまりにも酷すぎて、呆れるしかなかった。 ちょうどその時、寝室のドアが開いた。 「まだ寝ないのか?」 ドアの前には、シンプルなパジャマを着た京弥が立っていた。 漆黒の瞳は涼しげで、だるげな雰囲気を纏いながらも、その整った顔立ちは相変わらず人を惹きつける。 彼は無造作にドアにもたれかかり、紗雪を見つめていた。 紗雪は一瞬、動きを止めた。 すると、ビデオ通話の向こうから清那の驚愕した声が響いた。 「......え、ちょっと待って。なんでうちの従兄が紗雪と一緒にいるの?!」