恩返しの結婚

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恩返しの結婚

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栗原真人(くりはら まさと)がオフィスで女性といちゃついている時、緒方莉緒(おがた りお)はホテルに電話し、すでに彼のために、部屋を取っ...

Chương (1)

第1章

栗原真人(くりはら まさと)がオフィスで女性といちゃついている時、緒方莉緒(おがた りお)はホテルに電話し、すでに彼のために、部屋を取っておいた。 真人がバーで騒いでいる時、莉緒は「そろそろ帰りましょう」と一言言っただけだった。すると彼はビール瓶でいきなり彼女の額を殴りつけた。真っ白なワンピースを真紅の血が染め上げ、その光景は目を背けたくなるほどだった。 真人は若いモデルを連れてホテルの部屋の前まで来て、扉の前で激しく抱き合い始めても、傍らに立つ莉緒の存在をまったく気にする様子はなかった。彼は莉緒に「ここを一歩も離れるな」と言い放った。 莉緒は頭を下げ、恭しく横に立っていた。彼の連れてきた女性は彼女に向かって嘲るような笑みを浮かべたが、莉緒は無表情のままだった。 もう慣れている。五年間、真人に虐げられ、これ以上屈辱的なことだって何度も経験してきた。 部屋の中からは男女の声が漏れ、まるで階全体に響き渡るかのようだった。莉緒はその場にとどまらず、静かに別荘へ戻った。玄関をくぐった瞬間、力が抜けたように倒れ込んだ。 壁に掛けられていたウェディングフォトが彼女の腕に落ちて、長く鋭い傷を残した。 第1話 栗原真人(くりはら まさと)がオフィスで女性といちゃついている時、緒方莉緒(おがた りお)はホテルに電話し、すでに彼のために、部屋を取っておいた。 真人がバーで騒いでいる時、莉緒は「そろそろ帰りましょう」と一言言っただけだった。すると彼はビール瓶でいきなり彼女の額を殴りつけた。真っ白なワンピースを真紅の血が染め上げ、その光景は目を背けたくなるほどだった。 真人は若いモデルを連れてホテルの部屋の前まで来て、扉の前で激しく抱き合い始めても、傍らに立つ莉緒の存在をまったく気にする様子はなかった。彼は莉緒に「ここを一歩も離れるな」と言い放った。 莉緒は頭を下げ、恭しく横に立っていた。彼の連れてきた女性は彼女に向かって嘲るような笑みを浮かべたが、莉緒は無表情のままだった。 もう慣れている。五年間、真人に虐げられ、これ以上屈辱的なことだって何度も経験してきた。 部屋の中からは男女の声が漏れ、まるで階全体に響き渡るかのようだった。莉緒はその場にとどまらず、静かに別荘へ戻った。玄関をくぐった瞬間、力が抜けたように倒れ込んだ。 壁に掛けられていたウェディングフォトが彼女の腕に落ちて、長く鋭い傷を残した。 その写真をじっと見つめる彼女の表情には、どこか現実感のない翳りが差していた。 写真の中の莉緒は、子どものように無邪気に笑っていた。対する真人の顔には陰りがあった。最初は冷静でクールな性格だと思っていたが、やがて気づいた。彼は誰とでも寝られるが、彼女には一切触れようとしなかった。 なぜなら彼が結婚した理由は、家の決めた縁談への反発として、「下劣な犬」と結婚するという形で報復するためだった。 電話が鳴った。莉緒はなんとか気力を奮い起こし、通話ボタンを押した。 「莉緒、ホテルでのこと聞いたよ。大丈夫かい?」 電話の向こうからは、あの偽善的なお祖父様の声が聞こえた。「君がこれまで苦しんできたことは分かってる。真人は君を誤解していた。もしもう少し頑張って、子どもを産んでくれたら、真人もいつか受け入れてくれるかも」 「結構です」 莉緒は首を振り、瞳に一瞬苦悩の色を浮かべたが、すぐに決意を込めて言い切った。「藤村を帰国させること、もう同意されたんでしょう?真人様は彼女のために自分を見失ってきた。この茶番劇はそろそろ終わりにすべきです」 お祖父様は言葉を失い、少し気まずそうに言った。「そうか、もう決めたことなら、無理は言わない。去る前に、何か望みがあれば言ってくれ」 莉緒はしばらく黙ってから、口を開いた。「私が去ったこと、真人様には知らせないでください」 電話を切った後、莉緒は窓の外を見つめた。空に月がかかり、銀色の月光が世界を照らしていた。 思いは、五年前のあの夜へと戻っていく。 母が長年の疲労で脳出血を起こし、命を救うには多額の費用が必要だった。当時、名門大学を卒業したばかりの莉緒は、泣き、跪き、叫んだが、誰一人手を差し伸べてはくれなかった。 絶望の時、孫を病院に運び込んできたお祖父様が彼女に近づき、「助けてやる代わりに、頼みを聞いてほしい」と言った。 莉緒は一瞬の迷いもなく頷いた。 その晩、母は治療費を得て入院したが、結局助からずに亡くなった。葬儀を簡素に済ませた彼女は、すぐに栗原家の企業に応募した。 入社後、会社の門前で偶然を装って真人と出会い、猛烈なアプローチを始めた。 彼に好意を寄せる女性は多かったが、尊厳も命も惜しまないほどの執着を見せたのは、莉緒だけだった。 彼の笑顔が見たい一心で、犬の真似までした。 重要な契約のために、お酒を2本空けて病院で胃洗浄し、死にかけた。 それに仇に狙われた真人をかばい、彼の前に飛び出してナイフで九度も斬られ、瀕死となった。 その時、真人は血まみれの彼女を抱きしめ、涙を流しながらこう言った。「死ぬな。もし目を覚ましたら、結婚して、愛する努力をする」 莉緒は生き延び、彼と結婚した。 最初は優しかった彼に、彼女の孤独な心は溶かされ、知らず知らずのうちに恋に落ちていた。 だが半年後、彼の態度は一変した。まるで憎しみに満ちていた。 原因は海外にいた藤村萌香(ふじむら もか)が、結婚を知ったことで怒り、他の男と結婚してしまったから。 その知らせを聞いた真人は、発狂したように空港へ走り出し、途中で事故に遭い、昏睡状態に陥った。その間、彼は何度も「萌香ちゃん、行かないで」と呟いていた。 莉緒は三日三晩、黙って彼のそばを守った。 目覚めた真人は、すべての元凶が莉緒だと決めつけた。 彼女が自分を追いかけなければ、萌香は今でも自分を愛していたはずだと。 それから彼は、あらゆる手で彼女を辱め続けた。 彼の萌香への想いは、少しも変わらなかった。今でも、これからも。 莉緒がどれだけ努力しても、彼女は萌香にはなれなかった。 ふたりは幼い頃からの幼なじみで、長年想い合っていたが、藤村家の没落により、お祖父様は彼女を国外に追いやった。 その知らせに、真人は浴室でリストカットし、命を絶とうとした。 その夜、お祖父様は莉緒と出会ったのだった。 そして最近、藤村家が再び勢力を取り戻し、お祖父様は萌香の帰国を許した。それが何を意味するか、言うまでもなかった。 真人が酒瓶を彼女の額に叩きつけ、女モデルと乱れる様子を見た時、莉緒は理解した。 彼女は永遠にお祖父様から言い渡された任務を果たせないのだと。 そして永遠に、真人の心に入ることはできない。 五年もの長い別れの後、真人はすぐに愛する人と結ばれるだろう。そして彼女とお祖父様の契約も、そろそろ終わりを告げる時が来た。 もう、去るべき時だった。 第2話 夜の闇はまるで獲物を喰らう獣の口のように、メイド部屋を呑み込んでいた。莉緒は服を着たままベッドに横たわっていた。昼間、傷の手当てで打たれた麻酔のせいで、どうしても眠気に抗えず、そのまま深い眠りに落ちていった。 どれくらい時間が経ったのか分からない。突然、バシャッという音とともに、冷水が顔に叩きつけられた。氷のような冷たさが一瞬で彼女の体を貫き、莉緒は跳ね起きた。視界に飛び込んできたのは、怒りに燃えた目だった。 真人の顔は嫌悪感に歪み、低く冷たい声が落ちてくる。「門の前で待てって言っただろう。なぜ俺の命令を破った?」 莉緒は静かに顔の水滴を拭き取り、黙っていた。 真人はさらに怒ろうとしたが、莉緒の体の傷に目がいき、その瞳に一瞬だけ複雑な色が走る。 水で濡れた衣服の下、彼女の体は傷だらけだった。特に胸元には、傷がくっきりと残り、目を背けたくなるほど痛々しかった。 あの時、彼女が九回も刺されて、自分を庇ったことを思い出したのかもしれない。真人の顔色は少しだけ和らいだが、口調は冷たいままだ。「次に勝手に動いたら、地獄を見せてやる。俺にはいくらでも方法がある」 「はい」莉緒は静かに頷き、メイド部屋を出て、温かい二日酔いスープを持ってきた。 戻ってきた時には、手に温かい二日酔いスープと、ちょうどよい温度の足湯を持っていた。 真人はソファに横たわり、足を上げる。莉緒はひざまずき、足湯を差し出し、丁寧にマッサージを始める。 このスープは、彼女が高いお金を払って入手した秘伝のレシピだった。 マッサージの技術も、先生に二年間ついてようやく身に付けたものだ。 彼女は常に、真人を帝王のように奉仕していた。外の人間たちはよくこう言った。「栗原家の若様は、いい犬を飼っているな」 彼女という犬はとても使いやすく、心の中でどれだけ嫌っていようが、捨てるには惜しい存在だった。 その夜、真人は珍しく彼女を罵倒することもなく、スマホに集中していた。画面の中の誰かと親しげにやり取りし、彼の口元には見たことのない、優しさに満ちた微笑が浮かんでいた。 それは、莉緒が見たことのない笑顔だった。まるでナイフのように、彼女の心を突き刺す。 彼女は静かに足湯を持ち上げ、真人の背後を通った瞬間、スマホの画面に映る名前がちらりと目に入った。 萌香。 すべてが腑に落ちた。 彼が穏やかになった理由、幸せそうな表情を見せた理由。 彼が最も愛する女が、帰国したからだ。 莉緒はメイド部屋からファイルを持って出てきて、その最終ページを開き、静かに差し出した。「サインをお願いします」 ファイルに目を通した真人は、冷たく言い放った。「会社の話を家に持ち込むなと、前に警告したはずだ。お前にこの仕事が務まらないなら、代わりなどいくらでもいる」 莉緒は俯いたまま、淡々と答える。「これは離婚届です」 その一言に、真人は一瞬、言葉を失った。だがすぐに、大げさなほどの嘲笑を浮かべて、頭を振った。「お前が離婚だと?はっ、俺と別れたら、お前なんて犬以下の存在だぞ」 彼の中では、莉緒は自分に心底惚れ込んでおり、周囲から「ペット」と揶揄される存在でしかなかった。 真人はためらいもなくペンを取り、勢いよくサインした。 莉緒はそれを受け取り、まるで肩の荷が下りたように静かに息を吐いた。思っていたよりも、ずっと簡単だった。 それだけ、彼の目には自分が「どうでもいい存在」だったということだ。 ただ、もし彼が少しでも確認のために書類を読んでいれば、これが正式な離婚届だと気付けたはずだった。 でも、彼にとって莉緒は、わざわざ指一本動かして読む価値すらない存在だったのだ。 莉緒は、真人を主寝室まで支えて連れていった。言葉をかけようとした瞬間、一蹴りが飛んできて、彼女は廊下に叩き出された。バタンッと扉が閉まり、内側から冷たい嘲笑が響く。「出ていけ」 莉緒は黙って床から立ち上がり、服の埃を軽く払った。もちろん、この家の床には埃など一つもない。ピカピカに磨かれている。 それでも彼女は「汚れている」と感じていた。 真人に触れられた場所は、すべてが汚れている。 彼が不機嫌になるたびに、彼女はエアコンのない、薄暗いメイド部屋に閉じ込められる。そして気まぐれに、隣の部屋に呼び出されて命令を待つ。 一緒のベッドで眠ることなど、車の事故以来、一度もなかった。外のモデル女を抱くくらいなら、彼女に触れたくない。 そんな生活に、莉緒は慣れていた。彼女は部屋に戻り、離婚届を丁寧にしまい、再びベッドに横になる。 傷口の痛みが容赦なく襲ってくる。だが、その痛みさえ、自由への渇望を止めることはできなかった。 真人から完全に離れるまで、あと三十日。 第3話 翌朝九時、莉緒は初めて六時以降に目を覚ました。体に力が入らず、頭痛がひどい。昨夜、真人から浴びせられた冷水のせいで、傷口が炎症を起こし、高熱を出していたのだ。 莉緒はメード部屋を出て、今日も罵倒される覚悟をしていたが、別荘はやけに静かだった。屋敷中を探し回ったところ、執事から「真人様は朝早くに出かけられました」と告げられた。 彼女は黙ってうなずくと、真人がいない隙を見計らって、二階の部屋に行き、荷物の整理を始めた。 すでに離婚届にサインした以上、あとは荷物をまとめるだけだった。 部屋にあった荷物は少なく、いくつかの身分証と、数着の服、それに、彼のために用意した数々の記念日の贈り物だけ。 五年間、真人は彼女に贈り物を強要し続けた。毎回違うものを用意しなければならないという条件つきで。 莉緒は、それがチャンスだと思い、心を込めて毎回贈り物を選んだ。だが今にして思えば、それもまた彼が彼女を嘲笑うための手段に過ぎなかった。 彼は一瞥すらせず、それらを庭の犬に投げ与えるだけだった。 その嘲るような視線は、まるで「お前も犬と変わらない」と言っているかのようだった。 結婚して最初の半年は、まだまともに暮らしていた。莉緒も、「もしかしたら、この結婚も悪くないのかもしれない」と夢を見た。 けれど、それはすべて幻想だった。 最初から、恩返しと結婚は別物だと、はっきり線を引くべきだったのだ。 それでも、まだ間に合う。 荷物をまとめてメード部屋に運び、真人に関する物、贈り物や思い出の品はすべて大きな袋に詰め、ゴミ箱へと投げ捨てた。 そのとき、一台の赤いフェラーリが玄関前に停まり、真人が顔を出した。ちょうど彼がその様子を目にし、眉をひそめた。「何を捨てた?」 莉緒は無表情で答えた。「いらないゴミです」 ゴミ箱の中には、美しくラッピングされた箱が見える。それが「ゴミ」とはどうしても思えず、真人が怒鳴ろうとしたそのとき、背後から咳き込む声が響き、彼の注意はそちらに向けられた。 「萌香ちゃん、大丈夫か?」 真人の表情が一変し、心配そうに車のドアを開け、そっと一人のか弱く美しい女性を抱き起こした。 莉緒は、彼女をじっと見つめた。なるほど、だから真人はこの女性を忘れられなかったのか。 萌香は白いワンピースを身にまとい、清楚で儚げな雰囲気を漂わせていた。誰が見ても、守ってあげたくなるような存在だった。 莉緒が立ち尽くしていると、真人は突然声を荒げた。「突っ立ってないで、トランクから荷物を持ってこい!まったく、お前を飼ってる意味がわからん。犬のほうがマシだ!」 萌香の表情が曇り、小さな声で言った。「真人、そんな言い方しないで。彼女は奥さんでしょ?悪いのは私よ、こんなふうにお邪魔して」 そう言いながら涙を拭い、どこか切なげな顔を見せた。 真人の目つきは険しく、莉緒に向ける視線には嫌悪が滲んでいた。「この家は俺が仕切ってる。こいつに発言権なんかない」 萌香は申し訳なさそうに微笑み、「お邪魔しました」と静かに頭を下げた。 莉緒はふらつきながらも荷物を引き出しに行こうとしたが、突然目の前が真っ暗になり、そのまま倒れ込んだ。 真人が慌てて駆け寄る。 莉緒は、自分のことを心配してくれたのかと思い、必死に体を起こしながら言った。「大丈夫です」 だが次の瞬間、彼は彼女を力強く突き飛ばし、冷たく言い放った。「やっぱりお前は役立たずだな!こんなこともできないなんて、もし萌香ちゃんの荷物を汚したら、ただじゃ済まさねえぞ!」 莉緒は床に座り込んだまま、真人が萌香を気遣いながら別荘の中へ入っていくのを、呆然と見つめた。一度も自分を気遣ったことのない男が、あんなにも優しく他人を支える姿に、胸の奥がひどくえぐられるような痛みに襲われた。 自分の命なんて、萌香の服の裾一枚にも劣るのだろう。 「萌香は帰国したばかりで、まだ滞在先が決まってない。当面はここに住むから、お前は会社に行かず、家で彼女の世話をしろ」 別荘に戻った莉緒は、玄関でそんな命令を耳にした。 高熱で頬が真っ赤に染まり、足元もおぼつかない彼女に気づくこともなく、真人は楽しげに萌香の世話のことをあれこれ指示していた。 その姿を見て、莉緒は心の中で問いかけた。 名ばかりの妻に、恋人の世話をさせるなんて、真人、それでも人間なの? けれど、もうすぐこの地獄のような家から出られる。 莉緒は何も言わず、静かに台所へと向かった。 その背中を見て、真人はどこか違和感を覚えた。以前はもっと感情をあらわにしていたはずなのに、今日の彼女は異様に静かだった。 だが、その疑念もすぐに消えた。真人の中では、それは教育の成果だった。 ただひとつ気がかりなのは、莉緒が逆上して騒ぎ、萌香の気分を害する可能性だ。 だが今の彼女なら問題ない、そう思った。 莉緒は、まずスープを煮て、お椀に入れて台所を出た。そのままリビングを通ろうとしたとき、ちょうど萌香の足が伸びており、莉緒は転んでしまった。 真人が叫び声を上げ、萌香を抱きかかえ、莉緒を睨みつける。 萌香は怯えたような顔をして「ごめん」と繰り返しながら、頭を押さえ痛みに顔を歪めた。 莉緒の意識はもう朦朧としていた。熱いスープが腕にかかり、水ぶくれができていたが、痛みすら感じなかった。 意識を失う直前、彼女は真人が自分を激しく蹴りつけ、罵倒の言葉を浴びせているのを見た。 彼は萌香がショックを受けていないかを心配し、彼女を連れてすぐに病院の精神科へ向かった。 そして、傷だらけの莉緒は、誰にも助けられることなく、冷たい床の上に放置された。 莉緒はゆっくりと目を閉じる。真人の姿も、それに残っていたわずかな情も、静かに霧のように消えていった。 第4話 莉緒が目を覚ましたのは、それから三日後のことだった。病院のベッドに横たわり、意識ははっきりしていた。 医者によると、長年の不眠により血管が硬化し、さらに高熱が下がらなかったせいで意識を失ったらしい。あと少し発見が遅れていれば、命すら危なかったという。 「若いからって無理ばかりしてちゃダメだよ。お金も大事だけど、命があってこそだ」 医者の言葉に、莉緒は苦笑いを浮かべて「ありがとう」とだけ答えた。 この五年間、彼女はまるで地獄にいるかのようだった。朝から晩まで真人の罵倒と命令に耐えて、こうして今生きていること自体が奇跡のようだった。 医者の話によれば、彼女を病院に運んだのは執事だった。入院中、真人には何度も連絡したが、返ってきたのは冷たい一言。「そんなくだらないことで俺を煩わせるな。死にたいなら外で死ね。家の中を汚して、萌香の目に入るな」 そのあまりの冷酷さに、医者は呆れ、莉緒に同情の眼差しを向けた。 莉緒はベッドに腰かけ、茫然とする。あの日、萌香が故意に足を出したのは明らかだったのに、真人はそれを見て見ぬふりをして、自分を怒鳴りつけた。あげく、家に置き去りにして見殺しにしようとまでした。 たとえもう離婚に同意していたとしても、人としてそんな扱いを受けるなんて。 だが、もうすぐこの日々も終わる。もうすぐ、彼女は自由になれるのだ。 この街で五年。親も友人もなく、恩返しという名目で栗原家に身を売り、五年もの間、真人の奴隷のように過ごしてきた。 後悔しなかったわけではない。だが、結婚して最初の半年、真人は確かに優しかった。ナイフで斬られた日、彼の涙が頬に落ち、「死ぬな。もし目を覚ましたら、結婚して、愛する努力をする」と言った。 その言葉に、莉緒はすべてが報われたような気がした。 だが、その後は地獄だった。 莉緒はさらに四日ほど入院して、体を整えた。本来は離婚の手続きが完了するまでここで過ごすつもりだったが、病院の規則と、真人からの「すぐ帰れ」という命令で全てが変わった。 彼女は仕方なく退院手続きを済ませた。帰り道で、久しぶりにスマホを開き、SNSをチェックすると、なぜこの七日間、彼が一度も電話を寄こさなかったのか、その理由がすぐにわかった。 萌香と、旅行に出ていたのだ。 アップされていた写真には、満月を背景に二人の手で形作ったハート。 添えられていた一言はこうだった。【君がいてくれる人生は幸せだ】 真人は萌香への愛を隠さず、全世界に知らしめたかったのだ。 ただし、萌香の評判を考え、顔は映さないように配慮している。 コメント欄は【お似合い】や【素敵】の嵐。 全て、真人の友人たちからのものだ。彼らは皆、莉緒を見下して、虐待や侮辱した。 彼女はもう、何も感じなかった。 彼女が屋敷に戻ると、ちょうど真人と萌香がソファに並んで座り、テレビを見ながら、くだらないドラマの展開を語り合っていた。以前の真人なら、「こんなドラマ、庶民の妄想にすぎない」とバカにしていたくせに、今、萌香と話す彼の顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいる。 彼の中のルールは、萌香のためならいくらでも変えられるのだ。 莉緒に気づくと、真人は眉をひそめた。彼女の存在が二人を邪魔したとでも言いたげだった。だが、意外にも彼は怒鳴らず、代わりにこう言った。「執事から聞いた。あの日、体調が悪かったんだって?なんで早く言わなかった」 莉緒は首を振る。「急に具合が悪くなって、今後は気をつけます」 真人はさらに眉をひそめた。「今度から調子悪い時は早く言え。お前のせいで萌香ちゃんが怖がったらどうするんだ」 莉緒はうつむいたまま、胸の奥で苦い思いに駆られた。 真人が心配していたのは、彼女が病気で萌香の面倒を見られなくなることだったのだ。 彼はバッグから何かを取り出し、彼女の足元に投げ落とした。「これは、萌香の世話をちゃんとした礼だ。それと」少し間を置き、不機嫌そうに言った。「萌香ちゃんに謝れ。彼女はもともと精神状態が不安定なのだ。下手すればトラウマになるところだった」 莉緒は一瞬言葉を失った。なるほど、だから今日は機嫌がいいのか。全部、萌香を喜ばせるため。 萌香は慌てて手を振り、「私のせいです、莉緒さんは悪くありません」とかばって見せた。 萌香が必死に取りなしてくれたおかげで、真人はようやく莉緒を許したのだった。 やがて、二人は外食の準備を始めた。真人が着替えのために二階へ上がると、萌香の表情は一変した。さっきまでの笑顔は消え、冷たい目で莉緒を見つめていた。 その視線に、莉緒は思わず息を飲んだ。このような冷酷な眼差しが、純粋な萌香から向けられるべきものではない。 萌香は上の階をちらりと見てから、低く笑った。「莉緒、5年も替え玉で贅沢三昧して、もう十分じゃない?さっさと消えてくれない?」 莉緒は黙っていた。本性、やっと見せてくれたね。 第5話 萌香は莉緒を値踏みするように眺めながら、冷ややかに言い放った。「田舎者は所詮、田舎者。栗原家の名を借りて上流社会に入れるとでも思った?真人が退屈しのぎに飼ってただけよ、自覚ぐらい持ちなさいよね」 莉緒は淡々と答えた。「そこまで自信あるなら、もう少し待ってみたら?」 萌香の顔色が一瞬曇り、目に冷たい光が走る。 「安心して。私はもう、真人に興味なんてない。あなたたちの幸せを心から祈ってるわ。もうすぐ、ここを去るから」 萌香は鼻で笑った。「よく言うわ。調べさせたけど、あなた、お母さんが亡くなってからはひとりぼっちなんだ。真人を追いかけ回してたのは、金目当てでしょ。善人ヅラなんかしても無駄よ。私の登場で計画が台無しになっただけじゃない?」 莉緒はもう説明する気すらなかった。 萌香はその無関心な態度に苛立ち、冷たい視線を向けた。「後でわからせてあげるわ。真人の心の中で、あなたなんか、私の足元にも及ばないってことを」 「ご自由に」 莉緒は病院で七日間も寝込んでいたおかげで、すでに吹っ切れていた。穏やかに去れるなら、わざわざ争う必要もない。 しかし、萌香ごときにおもねる必要などない。 真人さえ捨てるつもりの彼女が、ましてや萌香など眼中になかった。 彼女は退院したばかりで、体はまだ本調子ではなかった。歩くのも辛い状態で、メイド部屋に向かっている途中、ちょうど階段を下りてくる真人と鉢合わせた。目が合った瞬間、彼はその青白い顔と静まったまなざしに、なぜか心がざわついた。 「萌香ちゃんが戻ってきたんだ。彼女と一緒になれるんだから、莉緒なんか追い出せばいいのに」でもなぜか、頭の中で声が邪魔をする。 会社でも家でも、彼女がいれば何も心配せずに済んだ。だから、彼女を捨てられないのだ。 莉緒が入院している間、真人は何かが足りないような気がしていた。今、ようやく彼女の腕に巻かれた包帯に気づき、説明しようとした。ちょうどその時、外から賑やかな足音が響いた。 友人たちがプレゼントを持って別荘へやってきたのだ。 真人は目を輝かせ、そのままそちらに向かってしまう。口にしかけた言葉は飲み込まれた。 莉緒は、ようやくわかった。彼が自分を戻した理由は、宴会の準備と接待のためだったのだ。 彼女は何の不満も見せず、使用人のように人々の間を動き回った。誰も彼女を女主人として扱わず、金のためにプライドを捨てた女として見下した。 それでも、莉緒は平然としていた。頭の中では、ここを出ていくまでの残り日数を数えていた。 真人の手配により、庭園はおとぎ話の城のように飾り立てられた。萌香を喜ばせるため、盛大な演出が施されている。 かつて見たことのない情熱を、彼は今、別の女性のために注いでいた。莉緒は黙って彼の指示に従い、愛し合う二人の姿をただ見つめていた。そのうち、友人たちは二人にグラスを交わす「ラブラブ乾杯」を煽り始めた。 萌香は微笑みを浮かべ、当然のように受け入れた。 だが、そのとき、真人の視線は、なぜか隣に立つ莉緒へと向かっていた。 夢にまで見た瞬間のはずなのに、どうしてこんなにも迷いが生まれるのか。 その様子を見た友人たちは、次々と矛先を莉緒に向けた。 「主役が来たら、身代わりは退場ってのが常識だろ?」 「真人が萌香のために何をしてきたか、知らないんだろ?命すら懸ける男だよ。そんな愛、邪魔できるわけないだろ」 「萌香ちゃんと真人こそ運命の相手だ。愛されてない女こそ浮気者。真人、さっさと追い出した方がいいよ。見てて不快だ」 心ない言葉が飛び交い、場の空気は一層冷たくなる。 いつもなら莉緒を怒らせ、嘲笑うのが彼らの目的だった。 だが莉緒は平静を保ち、反論もせず、ただキッチンへと歩き去った。 その背を見ていた真人の眉間に皺が寄る。なぜか、胸が痛む。あの背中が去っていくと、取り返しのつかない何かを失う気がしてならなかった。 結局、彼は萌香とグラスを交わすことなく、慌ててその場を立ち去ってしまう。 萌香の笑顔が凍りつき、じっとキッチンの莉緒を睨みつけた。その瞳には、強い怨念が宿っていた。 五年も待った。藤村家が倒産した時、栗原家の支援があれば立て直せるかもしれない。しかし栗原お祖父様により二人は引き裂かれ、国外へ送られた。 ようやく藤村家が持ち直し、お祖父様の反対もなくなった。 真人の心に揺らぎが見えるなんて絶対に、許さない。 ちょうどその時、莉緒がゴミ箱を持って通りかかった。萌香は顔に作り笑いを浮かべ、すり寄った。「莉緒姉さん、ごめんね。あの人たち、ちょっと悪ノリしすぎただけで、真人との関係も、あなたが思ってるようなものじゃ……」 そう言いかけた瞬間、「きゃっ!」萌香が莉緒にわざと倒れかかる。そして彼女の腕を強くつかみ、共にバーベキューの火の中へと倒れ込もうとした。 第6話 萌香はわざと大声で叫びながら、莉緒の体に覆いかぶさった。だが、その声のトーンはふたりだけに聞こえるような低さで、毒々しくささやいた。「信じる?たとえわざとでも、真人はあんたのせいにするに決まってる」 莉緒は萌香のこんな陰湿な策略を想像もしていなかった。身体はまだ回復途中で力も弱く、背中に走った焼けるような痛みに、意識が飛びそうになった。 周囲の人々は急いで萌香を引き剥がしたが、彼女はまだ莉緒をいたぶろうとしていた。立ち上がる時には、驚きと後悔を装いながらも、顔には明らかに挑発的な笑みを浮かべていた。 莉緒は痛みに声も出せず、誰ひとりとして彼女を気遣う者はいなかった。必死の力を振り絞って火のそばから這い出し、立ち上がったものの、今にも崩れ落ちそうだった。 「何があった?」 そのとき、真人が戻ってきた。人だかりの中心に萌香がいるのを見て、顔色が一変し、怒りに満ちた声を上げた。 「誰がやったんだ!」 萌香の袖が少し焼けただけなのに、真人にとっては命に関わる一大事のようで、胸を痛めている様子だった。 周囲の人間たちは口々に莉緒を非難した。 「萌香ちゃんに嫉妬して火に突き飛ばすなんて、ひどすぎるわ。真人、絶対に許しちゃダメよ」 「家にこんな毒のある女を飼ってたなんてな。今のうちに始末しとけ。今は萌香ちゃんを狙ったけど、そのうち栗原家に災いをもたらすぞ。こんな奴、置いとけるか!」 「……」 真人の友人たちは、明らかに萌香が仕組んだ罠だと知っていながら、真実をねじ曲げ、媚びへつらっていた。その心根は醜く、罪深い。 「なぜ?」 真人は振り返り、莉緒をにらみつけた。瞳には激しい怒りが宿り、まるで深い憎しみを抱いているかのようだった。「栗原家に何年も育ててもらっておいて、裏切るとは……恩知らずのクズが」 莉緒の意識は朦朧とし、焼けるような背中の痛みで神経は麻痺し、視界には非難と罵倒、嘲笑と憎しみしか映らなかった。 彼女は口を開けて、自分が冤罪であることを伝えたかった。しかし、声が出なかった。 真人は歩み寄ると、容赦なく莉緒の頬を叩いた。「帰ってから、きっちりケリをつけてやる。萌香、怪我はないか?」 真人は萌香を抱きしめ、顔には取り乱したような焦りが浮かび、上下から身体を確認した。「病院に連れて行く、ごめん、本当に俺が不注意だった。あんな奴に隙を与えてしまって」 萌香はまるで主役のように人々に囲まれながら、病院へ向かっていった。振り返りながら、莉緒に投げかけた視線は、軽蔑に満ちていた。 莉緒の身体はまるで魂から引き裂かれたかのように痛み、声も出せなかった。 真人の全力の平手打ちと怒りのまなざしは、心臓に鉄槌のように降り注ぎ、彼女の心を粉々に砕いた。 もはや立っていられず、その場に崩れ落ちた。 目を覚ました時、莉緒はベッドの上にいた。診察していたのは、前と同じ救急医だった。 医師はため息をつき、注意事項を伝えて部屋を出ていった。 彼女は莉緒の家族に電話したが、真人の対応は前回よりもさらに冷酷だった。「死なせればいい」 何年も医師をやってきて、変わった家族は何度も見てきたが、ここまで冷血な人間は滅多にいない、と医師は思った。 莉緒の背中は重度の火傷だった。もし分厚い服を着ていなかったら、皮膚移植が必要だっただろう。 重傷のため、彼女は十日以上入院することになった。古傷が癒えぬまま、新たな傷が重なった。莉緒はこの日々、ただ病室の窓から庭を眺めていた。まだ開いていないその花を、ずっと見つめていた。 退院の前日、栗原家のお祖父様が見舞いに訪れた。顔には深い悔しさが滲んでいた。 当初は、真人が過去の失恋から立ち直れるよう、莉緒に支えてほしいと頼んだだけだった。だが、莉緒が持つビジネスセンスを知るにつれ、彼女は真人の会社を陰で支え、数々の難題を解決し、生活面でも真人を完璧にサポートした。 これぞ、財閥の理想的な嫁だった。 だが、孫の真人は情に流され、優れた莉緒を捨て、病弱な女を選んだ。 お祖父様にはどうしようもなかった。結局、孫の気持ちに従うしかなかった。 「莉緒、真人のこと、わしがきちんとしつけられず、本当にすまない」 彼は肩を落とし、言いかけては飲み込んだ。 莉緒は首を横に振り、何も言わなかった。ただ、庭のつぼみを見つめ続けていた。 お祖父様は杖を手に立ち、顔には明らかな心配の色が浮かんでいた。「もうすぐ出て行くんだろう?どこへ行くか決まってるのか?助けが必要なら、わしは……」 莉緒は視線を戻し、無理に微笑んだ。「ありがとうございます、行くあてはありますから」 お祖父様は何かに罪悪感を抱いているようで、さらに尋ねた。「他に、手伝ってほしいことはないのか?」 ちょうどそのときだった。莉緒の目がぱっと明るくなった。あのつぼみが、まるで使命に導かれたかのように、奇跡のようにふわりと花開いたのだ。 心が急に晴れやかになった。五年間、地獄にいたような人生だったが、ようやく一筋の光が差し込んだように感じた。 彼女の目が輝き、口調が優しくなった。「なにも要りません。ただ私が出て行ったあと、どうか真人様には何も言わないでください」 お祖父様は深くため息をつき、仕方なさそうにうなずいた。「わかったよ」 「出て行くって、どういう意味だ」 病室の扉から冷徹な声が響いた。真人が現れ、冷たい表情でこちらに歩み寄ってきた。 第7話 真人は困惑した目で莉緒をじっと見つめた。 お祖父様が口を開き、説明しようとした。 その時、莉緒は、ここで何かあってはならないと感じ、急いで話題をそらした。「藤村さんは無事ですか?」 萌香の名前が出た瞬間、真人の顔は一気に陰りを帯び、莉緒の腕を乱暴に掴んだ。「お前の嫉妬のせいで、萌香がどれだけ精神的に傷ついたか分かってるのか?彼女は五年間も苦しんだ結婚生活からようやく解放されて、癒やしのために帰国したんだ。それなのに、お前は彼女に何をした?」 彼は莉緒の冷めた表情には気づかず、一方的に言葉を続けた。「今すぐ一緒に来い。萌香の許しを得たいなら、今が償いのチャンスだ」 そう言い放つと、莉緒が点滴を受けている腕から無理やり針を引き抜き、彼女を力ずくで引っ張っていった。 お祖父様は孫のあまりの横暴さに眉をひそめ、止めようとした。 「おじいちゃん、口出さないで。これは彼女が萌香に償うべきだ」と、真人は苛立ちを隠さずに遮った。 莉緒は抵抗する力もなく、そのまま車に押し込まれた。 真人に連れられて会社に到着すると、既に大勢の人が集まっていた。莉緒が人混みの中心を見ると、瞳孔が一瞬にして縮んだ。 刃物を持った男が萌香を人質にしていたのだ。目は虚ろで狂気を孕み、今にも命を奪いかねない様子だった。 萌香の顔は真っ青になり、身体を震わせながら微動だにできずにいた。 真人は莉緒の手を強く引いて人混みをかき分け、男に向かって大声で叫んだ。「人違いだ!俺の妻はこっちだ!その女は無関係だ!」 莉緒はその言葉に呆然とし、すぐに顔色を変えた。 彼女はその男を思い出したのだ。五年前、真人を救うために、ナイフで九度も斬られ、死にかけた。あの時の犯人だった。なぜまた現れたのか?真人への復讐のためか? 背筋が凍る思いだった。真人が連れてきた理由は、身代わりにするためだったのか。 犯人の視線は莉緒と萌香の間を行き来し、やがて莉緒を認識したようで、うなずいた。 真人は大喜びし、ためらうことなく莉緒を前へと突き出した。 莉緒は地獄に突き落とされた気分だった。 犯人の目に鋭い殺意が宿り、今にも襲いかかろうとしたその瞬間、周囲から数人の私服警察官が飛び出し、男を地面に押さえつけた。 危機はようやく去った。 莉緒はその場に座り込んだ。身体は震えが止まらず、あの日のトラウマが甦る。あのトラウマがどれほど深いか誰も知らない。 あの日、真人は泣きながら言った。「死ぬな。もし目を覚ましたら、結婚して、愛する努力をする」と。 あの日以降、莉緒はその決意に後悔もなかった。 だが、真人は萌香を守るため、自分を犠牲に差し出した。 信じていたものが崩れ去ったその瞬間、莉緒の心は深く傷ついた。五年間すべてを捧げてきた時間、それが本当に価値あるものだったのか、わからなくなった。 周囲の人々は皆、萌香を気遣っていた。彼女は生まれながらの主役だった。 真人も萌香を抱きしめ、泣き崩れている。やっと落ち着いた頃、ようやく莉緒の存在を思い出したようだ。 振り返った彼の目が、莉緒と合った。何かを言おうとしたが、そこにあったのは冷えきった、まるで別人のような目だった。 真人の心に、なぜか計り知れない恐怖が走った。 これまで見たこともない、他人のような冷淡な莉緒の姿に、引き寄せられるように近づいた彼は、慌てて言葉を紡いだ。「誤解しないでくれ。実は、あらかじめ警察が配置されてて、問題は起きないように……」 「もう疲れたの」 莉緒はその一言だけ残し、ボロボロの身体を引きずりながら、人混みの中を離れていった。 真人はその背中を見つめながら、五年前の光景を思い出した。彼女が、自分を庇って刀の前に飛び出してきた瞬間を。 同じ場所、同じ犯人。 あのとき、彼は確かに心が打たれた。何かが開いた感覚を、はっきりと覚えている。 でもあれは遠すぎる記憶だった。今になって、ようやく少しずつ思い出している。 あの時と同じ感覚が、胸の奥からじわじわと広がってくる。 隣から萌香の震えるような呼び声が聞こえた。だが真人は、もう以前のように焦らなかった。莉緒の姿が視界から完全に消えたとき、真人の心に、かつて味わったことのない深く冷たい喪失感が生まれていた。 第8話 莉緒はひとりで別荘に戻った。薄暗いメード部屋のベッドに横たわり、ずっと心の奥に押し込めていた恐怖が、ついに爆発した。彼女は体を丸め、震えながら涙をこらえる。 真人が愛していないことは、最初からわかっていた。むしろ、憎んでいるのかもしれないとさえ思っていた。 でも、ここまで非情だとは思わなかった。 彼はただ、彼女を駒として利用しただけだった。萌香を助け出すための道具。それだけ。自分があの場に突き出された瞬間、犯人が理性を失って刺してきてもおかしくなかったというのに、彼はそんなこと微塵も考えなかったのだ。 莉緒は決めた。もう一度やり直せるなら、絶対に、真人なんかに関わったりしない。 五年前、たとえ地面に膝をついて物乞いをすることになっても、お祖父様の助けなど受けなかった。 あの夜、母が亡くなった。結局、手当てをしなかったのと同じ結果だった。 でも、彼女はそのために五年間という時間を犠牲にし、真人から受けた傷を癒すには、残りの人生すべてが必要だろう。 彼女は後悔していた。 そんなとき、真人から珍しく電話がかかってきた。莉緒は出なかった。ただベッドの上で天井を見つめ、何も考えずにじっとしていた。しばらくして、彼からメッセージが届いた。【さっきのことは、命の危険はなかった。わざとお前を危険にさらしたわけじゃない】 莉緒はそのメッセージをチラッと見ただけで、ただただ馬鹿馬鹿しいと思った。返事はしなかった。 真人は、萌香のうつ病が再発しないよう、病院でずっと付き添っていた。寝る暇もなく、着替えることすらせずに、彼女のそばを離れなかった。 あの交通事故のとき、莉緒も眠ることもせず、彼のベッドの横でひたすら付き添っていた。 運命は皮肉だった。莉緒は自業自得だ。 彼女は、もう誰のことも恨んでいなかった。恨めるのは、自分自身の選択だけだった。 そして離婚の手続きがようやく完了した。 朝日がカーテンの隙間から差し込んできた。 莉緒は静かにベッドを降り、淡々と荷物をまとめ始めた。まさか、こんなときに真人が帰ってくるとは思わなかった。しかもプレゼントまで持った。 彼はひどく疲れた表情をしていた。かつては何一つ自分でやろうとしなかったお坊ちゃまが、萌香の世話のために、すべてを自分でこなしている。 皮肉な話だった。 昔の莉緒が彼を大事にしていたが、彼は彼女を踏みにじった。 真人はいつものように傲慢な態度で、プレゼントをテーブルの上に置いた。「お前が前に好きだったやつだよ」 箱の中には腕時計が入っていた。以前の莉緒なら、嬉しくて笑顔を見せていただろう。でも今は、心に何の波も立たなかった。 ただ早く出ていってほしかった。これ以上、出発の邪魔をしないでほしかった。 真人はしばらく迷ったあと、ため息混じりに言った。「最近、お前は萌香ちゃんのことで嫉妬して怒ってるんだと思う。でも本当は、そんな単純な話じゃないんだ。時間ができたら、ちゃんと説明する」 莉緒はうなずいた。彼が何を言おうと、うなずくしかない。とにかく早く帰ってほしい。それだけだった。 真人は彼女のうんざりした表情には気づかず、さらに続けた。「萌香ちゃんの精神状態はまだ安定してない。もう説明したけど、刺激を与えたらまずいんだ。だから、もうしばらくそばにいなきゃいけない。お前は、家で静かに過ごしてればいい。欲しいものがあれば言えばいい」 そして、彼は突然彼女の手を掴んだ。その目には、何か言いかけて飲み込んだような、複雑な感情が浮かんでいた。「今まで、俺が子供すぎた。ようやく、いろんなことがわかってきた。戻ってきたら、全部きっとうまくいくはずだから」 まだ何か言いかけたそのとき、携帯の着信音が鳴った。 電話に出た真人の表情が一変し、すぐに立ち上がった。「萌香ちゃんがまた情緒不安定になった。まだ数日、家に戻れそうにない」 そう言うと、莉緒の返事も聞かずに、慌ただしく病院へと向かった。 莉緒は無表情で、一言も発することなく、彼が出ていった後、再び荷造りを再開した。 彼女は、自分に関するあらゆる物を片っ端から袋に詰めて捨てた。使っていたコップ、寝ていたシーツ、すべて。 そして最後に手に取ったのは、二人で唯一撮った結婚写真だった。 莉緒は静かに、自分の部分を切り取った。そしてその写真を細かく破いた。 彼女は何度も確認した。もう、この家には自分に関係するものは何ひとつ残っていない。そして離婚届をテーブルの上に置き、スーツケースを引いて玄関へと向かう。 ドアを出たところで、一度だけ振り返った。この五年間、自分を地獄に縛り付けた場所だった。でもその目に、未練は一切なかった。 彼女はこの檻に、もう一秒たりともいたくなかった。 あの悪魔の顔も、二度と見たくなかった。 今日から、莉緒の人生に真人の名前は、二度と登場しない。