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深秋に散るアイリス
結婚してからの七年間、星野晴奈(ほしの はるな)はずっと、自分がとある女性の「身代わり」にすぎないことを自覚していた。 日向浩介(ひな...
Chương (1)
第1章
結婚してからの七年間、星野晴奈(ほしの はるな)はずっと、自分がとある女性の「身代わり」にすぎないことを自覚していた。
日向浩介(ひなた こうすけ)に抱かれるたび、涙ぼくろに何度も口づけされるたびに、その事実が鋭く胸に突き刺さる。
彼女は知っていた――あの女性の愛称が、自分の名前と同じ発音であることを。
そして、自分こそが、亡くなったあの女性を偲ぶために作り上げられた完璧な「模造品」であることも。
浩介には自分という身代わりがいれば十分だと彼女は思っていた。
けれど、彼はまるでコレクターのように、あの女性を彷彿とさせるすべてを集め続けていた。
その姿に、晴奈は心から落胆し、ついに彼のもとから去る覚悟を決めた。
第1話
結婚してからの七年間、星野晴奈(ほしの はるな)はずっと、自分がとある女性の「身代わり」にすぎないことを自覚していた。
日向浩介(ひなた こうすけ)に抱かれるたび、涙ぼくろに何度も口づけされるたびに、その事実が鋭く胸に突き刺さる。
彼女は知っていた――あの女性の愛称が、自分の名前と同じ発音であることを。
そして、自分こそが、亡くなったあの女性を偲ぶために作り上げられた完璧な「模造品」であることも。
浩介には自分という身代わりがいれば十分だと彼女は思っていた。
けれど、彼はまるでコレクターのように、あの女性を彷彿とさせるすべてを集め続けていた。
その姿に、晴奈は心から落胆し、ついに彼のもとから去る覚悟を決めた。
ちょうどその頃、浩介が新進気鋭の女優・黒澤レナ(くろさわ れな)とともにホテルに入る姿が、パパラッチによって激写された。
写真は瞬く間に拡散され、スキャンダルとして一週間、エンタメの話題をさらい続けた。
晴奈は黙って一週間も待ち続けた。彼が戻ってきて、何か説明をくれることを。
たとえ一通のメッセージでも、ひとことでも構わなかった。
しかし――何もなかった。
あの騒動の初日から、彼は家に戻ることもなく、連絡すら寄こさなかった。
怒りも、無力さも、やがて深い諦めへと変わっていった。
彼女は最初から知っていたのだ。自分は拾われただけの、仮の存在に過ぎないと。
十一年も一緒に過ごしてきたが、偽物はどこまでいっても偽物だった。
浩介が望めば、彼女の幸福な幻想など、いつでも壊すことができた。
だからこそ、捨てられる前に、自ら去ることを選ぼう。
晴奈は、かつて住んでいた小さなアパートへ戻った。物が積み上がり、横向きでしか通れないような狭い空間。
懐かしくもあり、どこか他人の部屋のようにも感じた。
浩介と出会ってから、一度も戻ることのなかった場所。
十一年の間に、彼は家も車も与えてくれたが、彼女はそれに心を動かされなかった。
なぜなら、彼女は彼を心から愛していたから――物で満たされる愛ではなく。
今になって思えば、癒しを求めるなら、この場所しかなかった。
簡単に部屋を片づけ、彼女はそこに身を置いた。
十五日間の逃避生活。仕事に没頭し、心も視線も設計図とスケッチに集中させた。
けれど、夜になると、胸の奥から痛みが押し寄せてくる。息をするのも苦しくなり、気づけば涙がこぼれていた。
結局、すべては自分が悪い。
身代わりだと分かっていながら、どこかで期待してしまった自分がいた。
だから痛むのだ。
「おい、開けろ!」
突然、浩介の声が響き、晴奈は反射的に左耳の補聴器を外した。
体温が残る金属の感触がぎこちなく、晴奈はしばらく呆然としながら、自嘲気味に笑みをこぼした。
もう彼を愛さないと決めていたはずなのに――習慣はそう簡単に消えたりしない。
彼女は五年間、左耳の聴力を失ったことを浩介に隠してきた。
知られれば、「欠陥のある身代わり」だと見なされ、捨てられるかもしれないという恐れがあったから。
たとえ聞こえなくなったのは、浩介のせいだったとしても。
鉄製の古びた門が二度蹴られ、浩介の苛立った声が飛ぶ。
「晴奈、十五日間も行方不明だとはいったいどういうつもりだ?俺に探させるのはそんなに気分がいいか?さっさと出てこい!」
彼の怒声を聞きながら、晴奈は涙をぬぐい、静かに微笑んでドアを開けた。
「ごめんなさい、私……」
言い終わる前に、浩介の腕が彼女の身体を引き寄せた。
七年の間も愛し続けたその温もりが、彼の体から伝わってくる。
けれど、そこには知らない女の香水の匂いが混ざっていた。
晴奈は彼を押し返すと、不満げな視線を向けられた。
「これは何の茶番だ?」
彼が自分の考えなどに無関心であることなど、今さら驚くことではない。
けれど、自分は去る時、離婚届に署名し、テーブルに置いていったはずだ。
なのに、彼はそれを「茶番」だと思っている。
晴奈は深く息を吸い込んだ。
「テーブルの離婚届を見た?時間があったら手続きをしに行きましょ?」
浩介の眉が冷たく寄せられる。
「離婚届……?」
第2話
晴奈は苦笑を浮かべた。
「もしかして酔って帰ってたの?」
浩介には、酔うと必ず晴奈を探し回るという悪い癖があった。彼女のそばにいないと落ち着かず、物を壊し、人に当たり散らすまで暴れ続ける。
彼の友人たちは、夜中に何度も晴奈に電話をかけてきて、どうか彼を迎えに来てほしいと懇願した。
浩介の顔がみるみるうちに険しくなり、固く結んだ唇が一筋の線を描く。
「だから何だ?昔俺に泣きついて結婚してくれって言ったこと、もう忘れたか?今になって離婚だと?ふざけるな、俺をなんだと思ってる!」
晴奈は少し顔の向きを変え、ようやく彼の言葉を聞き取れた。彼女は微笑みながら言った。
「あなたの心にいる望月はるなさんみたいな存在よ」
その瞬間、浩介が目を細めた。
「どうしてその名前を?」
十六歳の時、晴奈は両親を事故で亡くし、街をさまよっていた。そんな彼女を拾ってくれたのが浩介だった。
彼は晴奈に服や食事を与え、家を与え、そして彼女をもう一度学校へ通わせてくれた。
晴奈にとって、浩介は恩人だった。長い時間を共に過ごすうちに、その感謝はやがて恋と、一緒にいたい気持ちに変わっていった。
晴奈の二十歳の誕生日、浩介は盛大な成人式を用意してくれた。その日、晴奈は彼に想いを伝えようと決めていた。
だが、式が終わって彼を探していた晴奈は、偶然、彼と友人たちの会話を耳にした。
「ずっと彼女をそばに置くつもりなのか?」
「……ああ。あの目が、はるなにそっくりなんだ」
浩介のその声は、驚くほど静かだった。けれど、晴奈の胸に落ちたその言葉は、鉄のように重かった。
家の掃除をしていたお手伝いの女性が話していたのをふと思い出す。浩介には幼馴染がいたが、何かの理由で亡くなったと。
彼女の名前は望月はるな(もちづき はるな)。
——そうか、自分はただ「目が似ていた」から拾われたのだ。
その夜、浩介はひどく酔っていた。晴奈は思いきっていろいろと問いかけた。
そこで全てを知ってしまった——彼が最も愛していたのは、望月はるなだと。
そして、自分はその面影に心を動かされた、ただの代用品に過ぎなかったことも。
晴奈とはるな。
彼が夜ごとに囁く「はるちゃん」という愛称も、自分ではなかった。
それから、晴奈の心は揺れ続けた。
彼を愛している。けれど、他人の影で生きることが苦しい。
それでも、彼女は自分に言い聞かせた。
浩介が愛する「本物」はもういない。ならば、自分が愛し続ければいい。例え偽物だとしても、あの「本物」に少しでも似ていれば、浩介は自分を愛してくれるはずだ。
だが、現実は違った。どれだけ尽くしても、彼は満足しなかった。
むしろ、他の「身代わり」まで見つけ、自分を滑稽な道化にしたのだ。
「あなたが彼女を心にしまい続けるように、私も昔のあなたを大切にしてきた」
晴奈はまっすぐに彼を見つめた。
「でも、今のあなたとはもう一緒にいたくない。
こんなにも似た目を持っていたのに、それでも捨てられるなんて……そんな結末、もう嫌なの」
最後の一言は、かすかに漏れただけだった。浩介には、聞こえなかった。
彼は怒った。その目は、昔晴奈が同級生にいじめられていた時と同じだった。
あの頃、会社を立ち上げたばかりの彼は忙しかったにもかかわらず、晴奈をいじめた生徒たちの家庭を調べ上げ、親たちにまで圧力をかけて謝罪させた。
その時、浩介がこう言っていた。
「俺は、お前が居候だなんて一度も思ったことない。勝手にそう決めつけたあいつらが何様のつもり?」
だが、今の浩介は違っていた。
「甘やかしすぎたんだな。これまでの衣食住、全部俺が与えたものだ。それを捨てて勝手に出て行くと?ふざけるな!
いいか、選択肢は二つ。一つ目、これまで俺が使った金を全部返せ。そしたら離婚を認めてやる。
二つ目、俺と一緒に家に戻れ。何もなかったように、これまで通り過ごすんだ。そしたら金のことは水に流してやってもいい」
第3話
「わかった、じゃ――一つ目を選ぶわ」
浩介がドアを乱暴に閉めて出て行った後、晴奈はただ一人、夜が明けるまでぼうっと座っていた。
朝になり、彼女はこれまで稼いだお金をすべてまとめ、浩介が自分に使った金額を記憶と記録を頼りに見積もった。
両者を比べた結果、埋められないほどの大きな差額が出た。
それでも晴奈は彼の会社へ向かった。いつものように、浩介専用のプライベートエレベーターに向かおうとしたところ、受付で止められる。
受付の女性は、会社創業当初からの古株だった。彼女を見て、にこやかに笑う。
「またお兄さんに会いに来たんですか?ちょっと待っててくださいね。さっき女優さんが上がったばかりだから、社長はきっと取り込み中だと思いますよ」
創業初期、浩介は毎日会社に泊まり込む勢いで働いていた。晴奈は学校が終わると家で食事をしてから彼のために夜食を届けに通っていた。
人の噂を避けるため、浩介は「彼女は妹だ」と言っていた。
会社が安定してからは、学業もあり、晴奈は次第に会社に行かなくなった。
そして今、七年も夫婦でいたのに、浩介は誰にも自分のことを妻だと紹介していなかったのだと知った。
晴奈はロビーの椅子に座り、行き交う人々をただぼんやりと眺め、自分はなんて滑稽なんだろうと思った。
どれほど時間が過ぎた頃だろうか、プライベートエレベーターが開き、一組の男女が降りてきた。
浩介の腕に絡むのは女優のレナ、彼女は満面の笑みで彼を見上げている。浩介もまた、優しい目で彼女を見つめ、時折うなずいて言葉を返していた。
二人は幸福という名の空気に浸っていて、そこに晴奈という人物など最初から存在していなかった。
二人が目の前を通り過ぎようとした時、晴奈の視線はレナの手首に止まった――あれは、あの手作りのブレスレット。
反射的に立ち上がり、レナの前に立ちはだかると、彼女の手首を掴んで叫んだ。
「返して!」
「えっ? な、なに……?ストーカーか何か?」
レナは困惑しながら浩介の背後に隠れようとした。手首にはうっすら赤い跡が残る。
「やめろ!」
浩介が晴奈の手首を乱暴に掴んだ。その衝撃で晴奈は仕方なく手を離す。
彼の目は怒りに燃え、まるで彼女がレナに暴力を振るったとでも言いたげだった。
晴奈は彼を見上げて言った。
「返して。それは私が、あなたのために作ったブレスレットよ」
浩介は眉をひそめた。
「それだけ?大袈裟すぎるだろ」
彼は手を伸ばし、レナに目配せをした。レナはすぐにブレスレットを外し、彼女に差し出す。
「ただのブレスレットだろ?テーブルに置いてあったのを、レナが気づいてつけただけだ。びっくりさせるなよ」
――そのブレスレットは、浩介の会社の上場を祝うために、晴奈が贈ったものだった。
その清めの祈りが込められた紐を手に入れるために、晴奈は三千段を超える石段を一段一段と祈りながら登っていた。
他人にはただの手間としか思えないその道のりも、彼女にとっては浩介への深い愛の証だった。
だが、浩介はそれを指先でつまみ、彼女の胸に放り投げた――まるで無価値なガラクタでも押し付けるかのように。
そして今度は、レナを優しく抱き寄せて、彼女の背をとんとんと叩いてから晴奈に言い放った。
「今からでも選び直せるぞ。金を返すんじゃなくて、二つ目をな。まだ間に合う」
レナは彼の胸を甘えるように軽く叩いた。
晴奈はブレスレットを握りしめ、そして、静かにカードを差し出した。
「これは私が持っている全財産。足りない分は、これから少しずつ返すわ」
浩介はそのカードを見つめ、口元に意味の読めない笑みを浮かべた。
そして、彼はカードを受け取り、レナの手に押しつける。
「持っていけ。好きなものを買うといいよ」
第4話
浩介は晴奈を見下ろし、鼻で笑った。
「少しずつ返すって、それ、いつになったら完済するんだ?俺は慈善家なんかじゃないぞ。銀行に預けてたほうが利子がたくさんもらえる。
……ま、他にも返済の方法はある」
浩介の目が意味ありげに細められる。
「待ってろ、また連絡する」
そう言って、彼はレナを腕に抱きながら、晴奈の前を通り過ぎていく。レナは振り返り、彼女をじっと見つめた。
「ねぇ、あの人誰?あなたとどういう関係なの?」
浩介は満面の笑みで答える。「そんなの見れば分かるだろ。俺に借金してる女だ」
彼らが離れていっても、その楽しげな笑い声が晴奈の右耳に響き続けた。
晴奈はぎゅっと目を閉じ、涙を飲み込む。
――悲しいことなんて、もうたくさん経験した。今さら一つ増えたって、どうってことない。
ただ、かつて自分を借金から救ってくれた人が、今や新たな借金の主に変わっただけのことだ。
あの頃、浩介がいなければ、彼女はたぶん街をさまよい、野良犬と食べ物を奪い合い、橋の下で眠り、もしかしたら人さらいに売られていたかもしれない。
彼にどれだけ傷つけられようと、自分が無事に大人になれたのは彼のおかげ――そう思えば、この借りは返すべきだ。
でも、まさか「また連絡する」と言ってきた内容が、これほど屈辱的なものだとは思わなかった。
浩介が彼女に命じたのは、レナの専属家政婦をやれというものだった。
「私を辱めないと気が済まないの?」
震える指で服の裾を握りしめながら、晴奈は彼に問う。心の奥が、ずきずきと痛んだ。
浩介は軽く笑った。
「辱める?選択肢はちゃんと与えたよ。借金を返すか、俺の妻をやり続けるか。
返済を選んだのはお前自身なんだぞ」
「……妻?」
その言葉に、胸の奥がひりつく。晴奈は力なく笑った。
「そんな器じゃないわ。私はただの身代わり。七年も飼われた挙句、捨てられた代用品にすぎないのよ」
浩介の顔が険しくなる。
「誰が捨てると言った?出ていったのはお前のほうだろ。離婚するって騒いで」
「じゃあ私はどうすればよかったの?婚姻届を振りかざして、あなたが浮気したって公表しろと?それとも何も知らないフリをして、あなたを愛し続けろと?」
浩介は無言のまま、冷めた目で彼女を見つめた。
かつてその目は、確かに自分を優しく見つめてくれていた――そう、思っていた。
自分は身代わりでもいいと思い込んでいたせいで、その愛が誰に向けられていたのか、見分けられなかった。
今、その目にあるのは、ただの苛立ちと我慢の怒気だけだった。
「――二ヶ月だ」
浩介の声は低く冷たかった。
「あと二ヶ月だけ待つ。それまでに残りを完済できなければ、大人しく家に戻れ。もう俺を怒らせるな」
晴奈がオフィスを出ると、ちょうどレナがドアの前に立っていた。
真っ白なロングドレスに、首元には限られた富裕層しか手に入れられないようなブランドのネックレス。
その姿を、晴奈は少しだけ見つめた。
レナはその視線に気づき、微笑んで言う。
「素敵でしょ?全部浩介さんが買ってくれたの。映画がクランクアップしたお祝いだって!このあと一緒に食事に行くのよ」
「素敵ね」
晴奈は顔を逸らし、無表情にうなずいた。
「では、食事を楽しんで」
レナは、期待したような反応が得られなかったのか、つまらなさそうにオフィスに入っていった。
閉まりかけたドアの隙間から、晴奈はレナが浩介に甘えるように飛びつくのを見た。その目に宿る愛情は、まるでかつての自分のようだった。
けれどレナは知らなかった。
彼女が今着ているそのドレスも、つけたネックレスも――すべて、かつて望月はるなが好んだものとまったく同じだということを。
晴奈のクローゼットにも、同じ服とアクセサリーが眠っている。
代用品は、どこまで似せても、決して本物にはなれない。
晴奈とレナもそうなのだ。
第5話
晴奈は、浩介と十一年間共に暮らした家に戻ってきた。
未練があったわけではない。ただ、ふと思い出したのだ――あの家には、彼から贈られた服やアクセサリーがまだ残っていることを。
家を出た時、そんなものを持っていく気になれなかった。
彼が選んだ品はすべて、見るだけで記憶を呼び起こし、心を締め付けるから。
けれど今、借金を返す必要があるうえ、彼は平然と同じものを別の女に贈っていた。
自分だけがそれを特別だと思っているなんて、滑稽にもほどがある。
扉を開けてみると、家の中は荒れ果てていた。まるで怒りに任せて物を叩き壊した後のように、片付けもされていない。
これでは、浩介がこの家をもう使っていないのは明らかだ。じゃあ、いま彼はどこで誰と寝起きしているのか――言うまでもない。
かつてふたりで作った陶器のオブジェは、粉々に砕けて床に散らばり、自分が飾ったインテリアは傾き、崩れていた。
壁にかかっていた、あの絵も同じだった。
彼が多忙すぎてウェディングフォトを撮る暇すらなかったあの頃、せめてもの思い出として自分で描いた、ふたりの似顔絵のウェディングイラスト――それも、無惨に破られていた。
幸いにも、ドレッシングルームだけはまだ無事だった。
晴奈は、彼から贈られたすべてのドレスとアクセサリーをまとめて荷造りした。
終わりかけた頃、ふとクローゼットの下に何かがあるのを見つけた。
隙間に手を伸ばし、埃まみれの箱を引きずり出す。
何年も前からそこにあったのだろう、表面には厚く灰が積もっている。
ゆっくりと蓋を開けると、そこにはまばゆい光を放つダイヤモンドのヘアアクセサリーが収められていた。
一瞬で、彼女の脳裏に、十数年前の記憶が蘇る――両親が亡くなったあの日、家の前の小道で起きた交通事故。
——「運転してたの、すごく綺麗な女の子だったわよ。キラッキラのヘアアクセ付けてて、きっと金持ちなんじゃない?」
——「しっ! 誰かがこの話を揉み消してるらしいから、もう言わないほうがいいって!」
事故現場は防犯カメラもない、古びた住宅街だった。
轢き逃げ犯は名乗り出ることもなく、真相は闇に消えた。
葬儀の場で、晴奈は地面にひれ伏しながら、断片的に聞こえてきた人々のささやきを聞いていた。
彼女は土下座して、必死に誰かが撮った写真を見せてもらった。
そのぼんやりとした写真に写るダイヤのヘアアクセサリーは、今、彼女の手の中にあるそれと――まったく同じだった。
この七年間、自分なりに情報を集めていた。
ある手がかりによると、望月はるなは十一年前に事故に遭い、その後、重度のうつ病を患って命を絶ったという。
晴奈は一度も考えたことがなかった。なぜ自分が家を追い出され、ただ一人であの古びた路地で彷徨っていた時に、通りすがった浩介に拾われたのか。
そして、なぜ彼のような裕福な男が、あんな場所にいたのかを。
晴奈はダイヤのヘアアクセサリーを手にし、震える指で箱の奥にあった紙片を取り出す。
——【はるなへ】
そこには、紛れもなく浩介の筆跡があった。
彼があの路地にいたのは、やはりはるなのためだった。だから自分と出会い、十一年も一緒に過ごしたのだ。
視界がぐらつく。晴奈は壁に手をついて体を支えるが、胃の奥から込み上げてくる吐き気は止められなかった。
まさか――まさか、自分と彼の出会いが、両親の死を土台に成り立っていたなんて。
冷たい血が、全身を巡る。
晴奈は立ち上がり、持っていたドレスとアクセサリーをすべて中古店に売りに出した。
値は張った。
なんといっても「はるなの代用品」なのだから、浩介が選ぶものはどれも一級品だった。
こういう男にはもっとねだったほうがいい、いい品があったら高く買い取ってあげるよと、店主はそう仄めかした。
晴奈はただ微笑んだだけで、何も答えなかった。
たとえリ面識のない中古店の店主でも、それらの品が晴奈の趣味ではないと一目で分かるというのに――
浩介は、目がはるなに似てるからと、七年間も彼女が好きだったデザインだけを選び続けた。
その金を手に、晴奈はかつて彼から贈られたマンションへと向かった。
そしてすぐに不動産業者に連絡を取り、売却の手続きを始めた。
多少安くなっても構わない、とにかく早く手放したいという彼女の即決ぶりに感心し、業者の男性は彼女を食事に誘ってきた――
第6話
晴奈は家を出た後も、吐き気がなかなか収まらなかった。胃の奥に鈍い痛みが走り、気分はますます悪くなるばかり。
そんなこともあり、彼女は誘われるがまま、不動産業者の青年と食事をすることにした。
彼はまだ大学を出たばかりの若者だったが、気配りの効く性格で、礼儀も正しかった。
食事の席で、晴奈が酸っぱい筍を少しつついただけで、顔色がどんどん青白くなっていくのを見て、青年は心配そうに尋ねてきた。
「星野さん、大丈夫ですか?顔色が悪いですよ。病院に付き添いましょうか?」
晴奈は首を横に振って答えた。
「大丈夫、ちょっと胃が荒れてるだけだから……」
それでも彼は諦めず、身体を大切にしなきゃと、優しい声で何度も説得してくる。
その穏やかな声色がふと、昔の浩介に重なった。夜になると、彼はいつもこんな風に優しく語りかけてくれた。
体調を崩した時には、すぐに異変に気づいて、すべての予定をキャンセルし、病院に連れて行ってくれた。
――あの頃の自分は、彼の愛を信じて疑わなかった。自分が「身代わり」だったなんて夢にも思わずに。
けれど今では、あの優しさの一つ一つに、はるなの影を見てしまう。
目の前で、自分を真剣に心配してくれる青年の姿に、晴奈は思わず口を開いた。
「……うん。病院に行こうかな」
青年は驚いたように目を丸くし、すぐに笑顔を咲かせた。
「分かりました!ちょっとだけ待っててください。すぐ食べ終わりますから!」
青年はすぐ食事を再開した。その勢いは凄まじいが、決してだらしないものではなかった。
彼の姿を見て、また浩介のことが頭をよぎる。
彼はどんな時も上品で、常に完璧な振る舞いを求められてきた。たとえ嫌いな料理でも、何事もなかったかのように食べ、笑顔で「美味しい」と言うのが常だった。
ある夜のことを思い出す。浩介が友人の食事会に呼ばれ、途中で晴奈に迎えに来るよう頼んできた時。
彼はビルの屋上にひとりで佇み、首元には真っ赤な蕁麻疹が浮かんでいた。
晴奈は慌てて病院へ連れて行ったが、その後で問い詰めた。
「どうしてアレルギーがあるのに食べたの?」
彼はこう言った。「身体が拒んでも、食欲のほうが勝ったんだ」と。
今になって思う。自分は彼にとって、あの時の料理のような存在だったのかもしれない。
欲望には惹かれるけれど、結局は傷つけ合うだけだ。
病院はすぐ近くだった。
青年は終始明るく、手際よく受付や案内をこなしてくれた。
担当してくれたのは、年配の女医だった。丁寧に問診をした後、彼女は静かに口を開いた。
「……お嬢さん、妊娠してますよ」
その一言は、まるで空から落ちる雷のようだった。
一瞬、右耳の調子も悪くなったのではないかと、頭の中が真っ白になった。
戸惑いと衝撃の表情を浮かべる晴奈を見て、医師はすぐに悟った。この妊娠は、若い彼女にとって「予定外」のものかもしれないと。
女医は診察券のような紙を二枚差し出した。
「お相手の方とよく相談なさい。もし産むつもりがあるなら、こちらの産婦人科で手続きできます」
ぼんやりと紙を受け取り、ふらふらと外に出ると、青年が心配そうに駆け寄ってきた。ちらりと紙に目を落とした彼は、すぐに事情を察したようだった。
「星野さん、その……子供の父親に、連絡しますか?」
彼の問いに、晴奈は即座に答えていた。
「――いや」
そして、自分でも驚くほど自然に、手でお腹をそっと撫でながら言った。
「……産婦人科、一緒に来てくれる?」
彼女はただただ不安で、誰かに一緒にいてほしかった。
結婚して七年の間、子どもを望んだことは一度や二度ではなかった。子供ができれば、浩介は自分を「身代わり」ではなく、母親として見てくれるかもしれない――そう思ったこともあった。
だが、何年経っても子どもは授からず、その間に彼女は少しずつ、自分自身をはるなへと作り変えていった。
そして今、浩介との関係を終えようとしたその時に――
命が、宿っていた。