夢見る貴方は真冬に降る雪の如き

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夢見る貴方は真冬に降る雪の如き

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「平野さん、当時約束した期間は十年でしたよね。もう期限になったし、音夢を連れてこの家から出ていきたいのです。 知ってるはずです。彼はず...

Chương (1)

第1章

「平野さん、当時約束した期間は十年でしたよね。もう期限になったし、音夢を連れてこの家から出ていきたいのです。 知ってるはずです。彼はずっとあの子のこと、気に入らなくて」 茶房で、時光美波(ときみつ みなみ)は苦笑いを浮かべながら、話していた。 十年も平野冬雪(ひらの ふゆき)のそばにい続けてきたのに、彼の心は尚氷のように冷たかった。 しかしあの日、酔っ払った冬雪は彼女をベッドに押し倒し、情欲にかけられ、あの子ができてしまった。 その後、美波は一軒家をもらい、音夢を産む許可ももらったが、冬雪は未だ恋人がいることを公表していないから、唯一の条件として、音夢が彼のことを「パパ」と呼ぶことは許されなかった。 「一生お前と結婚したりしないから、諦めろ。 子育て費用は俺が払う。ただし、こいつが自分の娘だなんて認めると思うなよ。俺に娘なんていない」 第1話 「平野さん、当時約束した期間は十年でしたよね。もう期限になったし、音夢(ねむ)を連れてこの家から出ていきたいのです。 知ってるはずです。彼はずっとあの子のこと、気に入らなくて」 茶房で、時光美波(ときみつ みなみ)は苦笑いを浮かべながら、話していた。 十年も平野冬雪(ひらの ふゆき)のそばにい続けてきたのに、彼の心は尚氷のように冷たかった。 十年前、冬雪の初恋は彼を振って、海外に行ってしまった。それから、ショックを受けた冬雪は毎日酒を浴びて、退廃した日々を過ごしてきた。 見ていられなくなった冬雪の母は、二億円で美波を渡し、十年間冬雪のそばにいてあげることを頼んだ。 学生時代から冬雪を慕っていた美波はそう頼まれて、思わず二つ返事をした。 それから、冬雪に振り向いてほしくて、彼女は色々頑張ってきた。 冬雪の機嫌が斜めの時、一生懸命笑わせようとしていた。 冬雪の体調が優れない時、世話をしてあげるために一夜休まず、病院で駆け回っていた。 冬雪の胃が弱いと知った時、わざわざ料理の作り方を学んで、自ら彼の食生活を支えてきた。 彼女は冬雪を失恋の沼から引っ張り上げ、ずっとそばにいてあげてきたのに、所詮彼の中では何者にもなれず、単なる片思いでしかなかった。 彼の友達が雑談の時に、「あの人は一体何者なんだ?」と彼に聞くのが、美波の耳に入ってきた。 その時、冬雪はただ微笑みながら、何も言わなかった。 しかしあの日、酔っ払った冬雪は彼女をベッドに押し倒し、情欲にかけられ、あの子ができてしまった。 その後、美波は屋敷をもらい、音夢を産む許可ももらったが、冬雪は未だ恋人がいることを公表していないから、唯一の条件として、音夢が彼のことを「パパ」と呼ぶことは許されなかった。 「一生お前と結婚したりしないから、諦めろ。 子育て費用は俺が払う。ただし、こいつが自分の娘だなんて認めると思うなよ。俺に娘なんていない」 「音夢が彼のことを『パパ』と呼ぶことは許されない」というのは本気で、冬雪は心を鬼にした。 音夢が三歳の時に、うっかり彼のことを「パパ」と呼んでしまったことで、彼に丸一日中足留めを食わされて、喉を枯らしてまで泣いていた。 四歳の時に、彼の手を繋いでしまったことで、力強く押しのけられて、階段の下まで転んでしまって、骨折するところだった。 しかし昨日、冬雪は嬉しそうに帰ってきて、音夢にプレゼントを持ってきただけでなく、彼女の誕生日を祝ってあげると約束した。 音夢は狂ってしまうほど嬉しかった。 「パパはちょっとだけ自分のことが気に入ってくれたのかな」と問い続けていた。 けれど美波は誰よりもわかっていた。冬雪が嬉しそうにしているのは、彼の初恋が帰国したからだった。 彼があの女を誰よりも優しく可愛がって、あの女の子供を抱き上げながら、「パパと呼んで」と親しく言い続けている光景が、美波の目に映った。 その瞬間から、美波の心は死んだのだ。 冬雪の母がそれを聞いて、深くため息をついた。 「まあいい。もう決意したんなら、無理強いはしない」 家に帰ってきたら、美波は荷物を片付け始めた。 五歳の音夢はドアの外から入ってきて、少し腫れた瞼で問いかけた。 「ママ、わたしたち、ほんとにパパから離れるの?」 娘を見た瞬間、美波は動揺していた。 「パパの好きな人が帰ってきたからね。これ以上ここにいるのはよくないわ」 冬雪は彼女のことも、音夢のことも愛していなかった。 その彼の本気で愛している人が帰ってきた以上、彼女たちはもうこの家にいられない。 美波はしゃがんで、音夢に言い続けた。 「ママと一緒にここを離れて、海外で暮らそう、ね?」 音夢はませた子供なので、この話の意味がわかっていた。 彼女は頭を下げて、涙を堪えながら言った。 「パパは約束してくれたの。誕生日を祝ってくれるって。遊園地に連れてくれるって。 まだ一度もパパと遊園地に行ったことがないのに……」 彼女がどれほど父からの愛を欲しているか、美波にはわかっていた。 一度も父に見向きされたことのない子供が、いきなり一緒に遊ぶ約束をされたら、例え無謀だとしてもやってみたいのであろう。 音夢はまた瞼を濡らした。 「どうしてもパパに誕生日を祝ってほしかったの。最後に三回だけチャンスをあげてみない? やっぱりパパに嫌われてるなら、ここを離れよう」 音夢の涙目を見て、美波は心を痛めて、この子を抱きしめた。 結局、音夢の涙には勝てなかった。 「わかった。そうするわ。最後にパパに三回だけチャンスを与えよう」 三日後は音夢の誕生日だ。 彼女は最後に冬雪に三回だけチャンスを与えることにした。 結局、彼は音夢と自分をがっかりさせてしまうのなら、音夢を連れて彼の目の前から跡も残らず消える! 第2話 翌日、美波は音夢に朝食を作るために早起きした。 階段から降りてきた冬雪の身には、まだ酒の匂いが残っていた。 音夢はうさぎのぬいぐるみを抱えながら、彼へ飛びついていった。 「パパ……」 まだ話の途中なのに、冬雪の険しい目つきを見て、彼女は立ちすくんでいた。 彼は冷たい口調で詰問した。 「今なんて?」と。 それに怯えた音夢は腕の中のぬいぐるみを抱きしめて、もごもごと「ひ……平野さん」と答えた。 冬雪はイライラした顔でネクタイを引っ張って、美波に警告のように言った。 「こいつにちゃんと教え込め。次があったら出て行け」 美波の心はチクチクと痛みだした。 「出て行け」という言葉は、冬雪の一番よく言っている言葉だった。 毎回その言葉を聞く度に、彼女も音夢も怖くて仕方がなかった。しかし今、彼女は自分から出て行くと決意をしたのだ。 冬雪に返事せず、美波は朝食をテーブルに運んできて、音夢を膝の上に抱き上げ、箸をつけた。 作った卵焼きもパンも冬雪の好みに合ったものなのに、彼は見向きもせず、ただ冷たく話した。 「梨乃(りの)が戻ってきたから、彼女のいる時には現れるな。梨乃は嫌がるから」 そう言って、冬雪は音夢のほうに目が行って、「そいつも」と補足した。 美波はその無慈悲な目を見て、「人の心を持ってるの?」と問いかける衝動を抑えた。 結局、彼女はただ苦笑を漏らしながら、「わかった」と答えた。 音夢を幼稚園まで送ってから、美波は自分の画室に向かった。 彼女は美大の卒業生で、まあまあ人気のあった画家だった。その故、卒業する前から個人美術展を開いたのだ。 結婚した後、冬雪と家族の世話をするために、美波は熱情を傾けてきた美術生涯を諦めて、暇な時にだけ趣味として描いていた。 大半の作品は、冬雪にまつわるものだった。 彼女は自分の愛をすべて絵に込めた。点から線まで、その愛の強さが現れていた。 しかしその絵を見た冬雪本人は、嫌そうな顔をして、「そんな無意味なことをやめろ。俺が愛してるのは、最初から梨乃一人だ」と言った。 彼の心は溶けない氷のように、どんなに熱い愛だとしても溶けなかった。 今や、美波はこの十年間、自分の描いた冬雪にまつわる作品を全部まとめて、市外まで運んでいった。 そして油を注いで、火をつけた。 平野冬雪、何をしても「無意味」なら、手放すわ。 無数の冬雪の顔が炎に燃やされて、消えて、最終的に灰になった。 美波の今の気持ちのように。 彼女は冬雪のことを完全に手放して、この人を跡もなく自分の人生から消すと決めたのだから! 突然、彼女のポケットに入っているスマホが鳴った。 美波が電話に出たら、幼稚園の先生の声が向こうから届いてきた。 「時光さん、早く幼稚園に来てください。音夢ちゃんが……!」 第3話 美波は表情を引き締めた。 音夢は昔から大人しい子で、幼稚園でトラブルを起こしたことなどなかった。 先生からそのような電話が来たのは初めてだった。 美波が急いで職員室に来たら、音夢は隅っこに立っていて、シクシク泣いていた。 小さな顔はトマトのように赤くなって、体はぶるぶる震えていた。 それに対して、隣りにいる冬雪は冷え切った顔をして、その隣にもう一人の女の子とスタイル満点の女もいた。 一目して、美波はわかった。その女が冬雪の初恋相手、緒方梨乃(おがた りの)だと。 彼女は冬雪のそばに立っていて、親しく彼の腕に手を回して、夫婦だと勘違いされるほどお似合いだった。 冬雪のそばにいるその子が、梨乃の子供だった。 美波が入った瞬間、緒方心愛(おがた みあ)は冬雪の腕を掴んで、大声で「平野パパ、音夢ちゃんにいじめられた!」と泣きついた。 「平野パパ」という呼び方を聞いて、音夢は目を丸くした。 彼のことを「パパ」と呼ぶことを、冬雪に一度も許されなかった。 その故、幼稚園の先生達は皆、音夢が片親だと思い込んでいた。 しかし今、他の子供は、彼女の目の前で堂々と「パパ」と呼んでいた。 その上、冬雪は自分の子のように心愛を抱きしめて、優しい声で「大丈夫だ、心愛。パパは守ってあげるから」と慰めていた。 そのような優しい表情、愛に満ちた眼差しは、 一度も音夢に向けたことがなかった。 その視線を彼女に向けた瞬間、またすぐに寒気を覚えさせるような眼差しに変わった。 「幼稚園でクラスメートに手を出すなんて、どこで覚えたんだ?失礼すぎるだろ。すぐに心愛に謝れ!」 その怒りの帯びた口調にびびった音夢は震えが止まらなかった。彼女は泣きながら、「心愛ちゃんが先に私のぬいぐるみを破いたの」と言った。 机の上に、まだその破かれたうさぎのぬいぐるみが置いてあった。 それが昨日酔っ払った冬雪が持って帰ってきた、音夢へのプレゼントだった。 音夢は嬉しくてたまらなかった。一夜も抱きながら寝て、幼稚園にいる時でさえずっと持ち歩いていた。 しかし今、心愛は逆ギレした。 「あんたのぬいぐるみだって?これは平野パパが私にくれたぬいぐるみなの。泥棒!」 「泥棒」という言葉は、五歳児にどれほど重い傷をつけてしまうものか。 音夢の瞼はすぐに濡れて、自分の裾をギュッと掴んだ。 「違うの……」 彼女は焦りながら、助けを求めるような目を冬雪に向けた。 なのに冬雪はただ冷たく目を逸らした。 その時、梨乃が口を開いた。 「昨日冬雪が心愛にいくつかぬいぐるみを買ってくれたけど、心愛はうさぎが好きじゃないから、冬雪が持って帰ったの。 たぶん音夢ちゃんがちょうど同じものを買ったんじゃないかな」 それを聞いて、音夢の目には更に悲しみが溢れていた。 自分が宝物のように大事にしていたぬいぐるみは、他の子に捨てられたものだなんて。 しかし、それでも、あれは父に送られた、唯一のプレゼントだった。 音夢はやはり心を痛めて言った。 「それはパパがくれたもの……」 それを聞いた冬雪は眉を顰めた。 彼は音夢の顔から視線を逸らして、無慈悲に叱った。 「だとしたら?ただのぬいぐるみだし、手を出したほうが悪いんだ。さっさと謝れ」 そう言って、彼はまたすぐに美波の顔を見た。 「これがお前の育ててきた子供か?他の子に手を出して、反省もしないなんて。母として恥ずかしく思わないのか?」 美波の心も冷えてきた。何か言おうとしたところで、 裾がいきなり音夢に小さく引っ張られた。 涙目をしている彼女は、焦った声で言い出した。 「ママとは関係ない。ママは世界一優しいママだから!」 言い終わった瞬間、彼女はまた涙を含んだ目を上げて、美波ににこりと微笑んだ。 「大丈夫、ママ。ちゃんと謝るから」 だって、今日謝らないと、冬雪はそう簡単に諦めなさそうだから。 そうなったら、母も巻き込まれてしまう。 彼女は母を巻き込みたくなかったのだ。 そう言って、彼女は悲しみに満ちた目で冬雪を見て、頭を下げた。 「ごめんなさい、平野さん」 細くてガラスのような声が耳に入ってきて、美波の心はまるで何かに刺されたようにチクッと痛み出した。 彼女は音夢を見て、晴れない憂いが目の底から広がっていった。 「ごめんなさい、心愛ちゃん」 「ごめんなさい、緒方さん」 言い終わって、音夢は美波の手を取って、後ろに向いて帰ろうとした。 急に態度が変わった音夢を見て、先生はみんな驚いて、ぼんやりした。そしてうさぎのぬいぐるみを持って追いついてきた。 「音夢ちゃん、忘れ物よ」 音夢は足を止めて、そのうさぎのぬいぐるみに目を走らせた。 それから涙を流しながら、「もういらない」と言った。 美波は信じられないような顔で彼女を見た。 冬雪も呆然とドアの前に立ち尽くして、何も言わなかった。 ツーンとする感覚が美波の鼻の奥から伝わってきた。 冬雪、チャンスはあと二回だけよ。 第4話 翌日、美波は音夢の代わりに退園届を出すために、幼稚園に来た。 幼稚園の先生は皆驚いた。 「どうしていきなり退園……?」 美波は躊躇うことなく説明した。 「音夢の祖父と祖母は海外に住んでるので、一緒に移民するつもりです」 言い終わった瞬間、冬雪が彼女の後ろに現れた。 曇った顔をした彼は、「移民って?」と言った。 先生が説明しようとした時、美波が先に口を開いた。 「音夢の祖父と祖母は二人共海外へ移民したから、時間があれば音夢を連れて見に行こうかなって」 何故か、冬雪はホッとしたような気分だった。 彼は手に持っている書類を机の上に置いて言った。 「これが心愛の入園書類です」 先生はニコニコしながら受け取って、冬雪への褒め言葉が絶えなかった。 「平野さん、心遣いが上手ですね。自分の子じゃないのに、何でも自ら心愛のために用意してあげて、まさに血よりも深い繋がりですね」 その話を聞いて、美波の心は針に刺されたように、息ができないほど苦しかった。 冬雪が音夢のためにしたことなんて何もなかった。 ちょうど心愛と同じ幼稚園を選んじゃっていなかったら、彼は音夢がどこの幼稚園に通っているかも知らなかっただろう。 そう思って、美波はつい口を挟んだ。 「そうですね。平野さんはいいお父さんですね」 「いいお父さん」という言葉を強調するように、美波はわざとらしくアクセントをつけた。 冬雪は一瞬呆然として、珍しく怒らなかった。ただ黙りこくって立ち尽くしていた。 午後、美波は美術館に行った。 何枚か彼女の作品が美術館で展示されているから、降ろそうと思って行ったのだ。 入ったばかりで、冬雪と梨乃の姿が目に映った。 梨乃は大らかな笑顔を浮かべながら、冬雪と肩を並べていた。隣りにいるのは冬雪が業界で知り合った友人のようだ。 「昔から平野社長が裏で結婚していると聞いたのですが、こちらが奥様ですね? 美男美女で、本当にお似合いですね。平野社長がずっと隠していたのも、奪われるのが心配だったんでしょう」 それを聞いた冬雪は、微笑みながら梨乃の手を握りしめた。 説明する気は全く無かった。 その後ろにいる美波は、自嘲するように笑った。 最初から、冬雪の結婚したい相手は、梨乃一人だった。 今その話を暗黙のうちに認めて、彼女と一緒にあっちこっち回っていたら、その夢も近いうちに叶うだろう。 ただ、自分は何だったの? 一緒に過ごしたこの十年間は何だったの? 死んだはずの心はまたチクチクと痛みだして、美波は涙を堪えながら話しかけた。 「冬雪」 冬雪は冷たい視線を彼女の身に走らせて、警告しているように睨んでいた。 「何か用?」 他人のような冷え切った口調。明らかに距離感を保とうとしていたのだ。 美波は言いそうになった言葉を呑んだ。 明日は音夢の誕生日だから、来るようにと注意しようとしたが、今からすれば、その必要もなくなったようだ。 梨乃が美波の身に目を留めて、突然「冬雪、知り合いなの?」と聞いた。 「いや」と、冬雪は素早く否定した。 あっさり口に出た言葉だったが、美波にとっては心に刺さるナイフのようだった。 心の底の苦しみを抑えたところで、梨乃がまた口を開いた。 「冬雪の友達ですよね?もうすぐ私達の結婚式が挙げられるから、あなたにも参加してほしいです」 それを聞いて、美波は信じられないような顔で冬雪を見た。 その瞬間、冬雪は発言を拒否しているように、目を逸らした。 しかし梨乃はまるでわざと聞かせるように、言い続けた。 「実は当時、私が海外に行く時、冬雪と『十年の約束』をしたの。十年後、私が帰国したら、結婚してくれるって。 元々はただ適当に返事したって思ったら、まさか冬雪はほんとに十年も待ってくれたなんて。 だから、約束を果たしに来たの」 第5話 胸が何かに締め付けられたような感覚が美波に襲って、彼女は息さえできなかった。 冬雪のそばに十年い続けても、その氷のような心を溶かすことができなかったのは、自分の努力が足りないとかではなく、冬雪はずっと梨乃のことを待っていたからか。 だから、彼女は何をしても無駄だった。冬雪の心に入れるのは、最初から梨乃一人しかいないのだ。 そう思って、美波は自嘲気味に笑った。そして潤んだ声で言った。 「じゃまだ早いけど、結婚おめでとう。幸せになってね」 言い終わって、彼女は振り向いて出て行った。 その後ろ姿を見て、冬雪は何故かもやもやする感じがして、長らくぼうっとしていた。 裾が梨乃に引っ張られるまで、ずっと。 「冬雪、何考えてるの?」 冬雪はその一言で我に返ったが、やはり少しぼんやりしていた。 「いや、何でも。ただいきなり会社の方でまだ用事があるって思い出してな。先に戻るね」 そう言って、梨乃の呼び声を無視して、彼は振り返らずに出て行った。 夜、家に戻った美波は、音夢の晩ご飯の支度をし始めた。 一方、音夢は大人しくリビングで絵を描いていた。 突然、チャイムが鳴って、帰ってきた家政婦だと思ったら、音夢の嬉しそうな叫び声が聞こえた。 「平野さん!」 喜びが抑えられず、音夢は「平野さんが帰ってきた!」と叫んだ。 彼はまだ帰ってくるとは、美波は思わなかった。 梨乃が帰国してから、冬雪はほとんど帰ってくることはなかった。 今回はまさか晩ご飯が出来上がりそうなタイミングで帰ってくるとは。 喜びの余り、音夢は満面な笑顔で、興奮しながら走ってきた。触ろうとしたが、結局怖くて、ただ慎重に隣で立っていた。 そのような音夢を見て、冬雪は少し複雑な気持ちになった。 彼は後ろに隠されたぬいぐるみを取り出して、音夢に渡した。 「ほら」 音夢は驚いた顔で彼を見つめていた。 しばらくしたら、彼女は躊躇いながら聞いた。 「……ほんとう?」と。 冬雪は頷いた。 そのぬいぐるみは、この前破かれたうさぎのぬいぐるみとは、完全に同じものだった。 冬雪は珍しく優しい顔色をして、音夢に向かって口を開いた。 「心愛ちゃんはわざとじゃなかったんだ。これを補償にと、あの子が言ったんだ」 音夢はその言葉の意味がわからず、呆然としていた。 次の瞬間、冬雪はいきなり話題を変えた。 「数日後がお絵描きコンペじゃん。そのチャンスを心愛ちゃんに譲ってあげられないかな?」 音夢の笑顔が固まった。 自分の手にあるぬいぐるみを見て、彼女は一つわかった。 それは冬雪がこれをくれたのは自分のためではなく、心愛のためだということだ。 瞼は一瞬で濡れた。音夢は頭を下げたまま立ちすくんでいた。 冬雪は続けた。 「心愛ちゃんは帰国したばっかりで、まだ慣れてないんだ。それくらい譲ってあげてよ。ただのコンペだし、まだ次があるから」 音夢は唇を噛み締めていた。言葉の代わりに、涙が次から次へと目から溢れ出ていた。 腕に抱えているうさぎのぬいぐるみも今、石のように重く感じた。 音夢は泣きながら問いかけた。 「これをくれたのは、私にチャンスを諦めさせるためなの?」 それを聞いた冬雪は眉を顰めて、少し不快な口調で返した。 「大したコンペじゃないだろ。新しく入った心愛ちゃんに譲るのそんなに嫌か? そんなに心の狭い子に育てた覚えはないんだが」 聞いていられなくなった美波はやってきて、音夢を抱き上げた。 抱えていたうさぎのぬいぐるみが床に落ちて、音夢は拾おうともせず、ただ美波の肩に顔を埋めてシクシク泣いていた。 音夢を部屋に戻したら、美波はぬいぐるみを彼に返した。 「そんなことしなくても、今回のコンペに、音夢は参加しないわ」 冬雪は少し驚いた。 「いいのか?」 美波はきっと音夢の味方でいると、彼は思っていた。 まさかこんなにあっさり納得してくれるとは思わなかった。 美波は静かに言った。 「元々参加する予定もなかったし」 もうすぐ、彼女は音夢を連れて彼の目の前から消えるから。 冬雪、チャンスはあと一回だけよ。 第6話 沈黙がリビングで長らく続いていた。 冬雪は美波の目にためた涙を見て、そのもやもやする感覚はまた襲ってきた。 彼は床に落ちているうさぎのぬいぐるみを拾って、音夢の机に置いた。そして美波に言った。 「今回は俺が悪かった。これから音夢に何か欲しいものやしたいことがあったら、何でも答えるから」 美波は動揺していた。 自分はすでに冬雪のことを諦めたが、母親として、彼女はやはり自分の子供に楽しい誕生日を過ごしてほしかった。 だから、美波は冬雪を呼び止めた。 「ほんとに後ろめたく思っているのなら、明日はちゃんと一日中音夢のそばにいてあげて。知ってるでしょ、音夢はずっとあなたに近づきたかったって」 ドアの前まで行った冬雪は足を止めた。 躊躇いの後、結局約束した。 「わかった」 美波はほっとした。 少なくとも、少なくとも音夢に一日限りの夢を見せられる。 翌日、音夢は朝っぱらから、ワクワクしながらリビングで待っていた。 「平野さん、いつ帰って遊園地に連れてくれるのかな?」 子供とはチョロい生き物だ。遊園地に行って帰ってきたら、嫌なことは何もかも忘れられる。 しかし真昼まで待っていても、冬雪は姿を見せなかった。 美波は何度も何度も電話をかけてみたが、一回も繋がらなかった。 音夢の顔に溢れる楽しみは、徐々に失望と悲しみへ変わっていった。最後、彼女は無理矢理に笑顔を作った。 「大丈夫。ママと一緒に行くのも楽しいよ」 そのような彼女を見て、美波は心が痛くて仕方がなかった。 彼女は決めたのだ。たとえ冬雪が来なくても、音夢に楽しい誕生日を過ごさせると。 けれど、遊園地に着いたばかりで、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。 「心愛は何味の綿あめが好き?みかん味?それともりんご味?」 美波の動きが固まった。そして信じられないような顔で振り向いたら、冬雪が大事そうに心愛を抱き上げて、綿あめの屋台の前で彼女の好みを聞いている光景が目に映った。 それを見た音夢は一瞬で目を濡らして、唇を噛み締めていた。 美波も目を丸くした。 振り向いた時、冬雪も彼女に気づいて、顔色が急に険しくなった。 心愛を家政婦に渡してから、彼は早足で美波の前まで来て、力強く遠くまで引っ張って、詰問した。 「何しに来たんだ?」 その口調は冷たさと嫌悪を帯びた。まるで美波に怨念があるみたいに。 彼女は涙をこらえながら反問した。 「今日何の日か覚えてる?」 冬雪は眉を顰めた。彼の目からして、彼女はただふざけていた。 子供と一緒に梨乃の前に現れないでと、警告したのに、わざとここまで邪魔しに来るとは。 「何の日だろうが、今すぐ消えろ!」 そう言いながら、冬雪は美波の腕を掴んで出口に引っ張ろうとした。 その時、梨乃の声がいきなり届いてきた。 「冬雪?」 冬雪の動きが一瞬止まった。そして秒で美波の手を放して、警告するように彼女を睨んでから、さり気なく振り向いた。 梨乃が心愛の手を繋いでやってきた。目を美波の身に走らせた時、少し意味深な目つきをした。 「音夢ちゃんのお母さんじゃないですね。奇遇ですね、ここで会うとは。あなたも子供を連れて遊びに来たのですか?」 冬雪は険しい目つきで美波を睨んでいた。 「何か変なことを言い出したら、許さないぞ」と言わんばかりに。 美波は苦笑いを浮かべた。そして冬雪のほうを見て言った。 「そうです。今日はこの子の誕生日ですので」 言い終わった瞬間、冬雪は突然呆然とした。 その時、彼はようやく自分が確かに音夢に誕生日を祝ってあげると、約束したことを思い出した。 ということは、美波は今日邪魔しに来たわけではなく、子供の誕生日を祝いに来たと? それがわかった一瞬、冬雪は気まずそうな目をして、音夢の顔に目を向けた。 小さな女の子は目が涙でいっぱいで、体がぶるぶる震えていた。それを見て、彼の心はまるでパンチを食らったように痛くなった。 梨乃は少し得意げに笑って、親しく冬雪の腕に手を回して言った。 「偶然ですね。ちょうど今日、うちの心愛も誕生日なんです。冬雪は祝ってくれるために、パーティー会場を丸ごと貸し切ってくれたんですよ」 それを聞いた美波は、自嘲するように笑った。 冬雪が約束を破ったのは、心愛の誕生日を祝ってあげるためだったのね。 音夢は彼にとって、所詮赤の他人だった。 それなら、もうここにいる意味もないと、そう思って、美波は音夢を連れて帰ろうとした。 しかしその時、梨乃はいきなり提案した。 「音夢ちゃんと心愛はクラスメートだし、今日バッタリ会ったのも何かの縁だし、いっそ一緒に祝いましょうよ」 第7話 梨乃はただ無邪気に笑っているように見えるが、美波からして、すぐに挑発しているとわかった。 美波は断った。 「いいえ、大丈夫です。自分の予定がありますので」 それを聞いて、梨乃は地団駄踏んで、可哀想な表情をして聞いた。 「まだ前回音夢ちゃんと心愛のことで怒ってるんですか?確かにあの時は主に心愛が悪かったけど、私が代わりに謝るから、子供のことだし、大目に見てあげてくださいよ」 そう言って、彼女はまた冬雪のほうを向いて、自分を責めているように言った。 「私のせいで、急に帰国したから、まだここの生活に慣れてない心愛は、音夢ちゃんと揉んじゃったの」 冬雪はすぐに彼女を腕に抱きしめて、優しい声で慰めていた。 しかし美波のほうを向いた瞬間、またその無情な目になった。 「誕生日が同じなら、一緒に祝ってもおかしくないだろ?」 美波は反論しようとしたが、袖が突然音夢に引っ張られた。 泣き腫らした目で、彼女は小声で美波に言った。 「大丈夫だよ」 実は、音夢も、パパのお気に入り子のこと、もっと知りたいから。 五歳児は「偏り」の意味がわからない。故に親に愛されていないのは、自分が十分優れていないからだと思い込んでしまうのだ。 パーティーの会場に着いたら、その中は童話に出てくるお城のように飾られていた。 心愛は先頭に歩いていて、皆からの称賛の声を浴びていた。それにひきかえ、音夢はただ羨ましそうにそのすべてを見て、心の痛みを堪えていた。 梨乃がいきなり美波に近づいてきて、彼女に耳打ちした。 「実は冬雪とあんたの関係はとっくに知ってるわ」 美波の動きが一瞬固まった。 でも、それほど驚かなかった。幼稚園で梨乃との初対面の時から、彼女はまさかだと思っていたが、先程の反応から見て、間違いないようだ。 ただ、美波はその言葉の意図が分からなかった。 「何が言いたいの?」 梨乃は手にあるグラスを揺らしながら、煽っているような口調で言った。 「ただ、私の代わりに冬雪のそばに十年もい続けられてきた女は、どんなすごい女なのか見てみたかっただけ。 でも今から見れば、大したものじゃないようね。あんたのことなんて、冬雪は全く眼中に置いてないわ」 ナイフのような言葉が美波の心に深く刺さって、 彼女は自嘲するような笑いを浮かべた。 「そうね。私なんて、ただ冬雪の目障りになるだけね」 だから、彼女は空回りすることをやめた。 今日から、彼女は音夢を連れて姿を消すから。 得意げな目をした梨乃は突然冬雪に手を振った。 「冬雪、ダンス用のオーディオは故障したみたい。この方はピアノが弾けるらしいから、私達のダンスに曲を弾いてもらうのはどう?」 それを聞いて、美波は目を丸くして彼女を見た。 この二人のダンスに、ピアノを弾いてあげると? 自慢さが目の奥から溢れ出して、梨乃は冬雪に視線を向けた。 暗黙のうちに認めたように、冬雪は何も言わなかった。 この二人のいちゃつく姿は美波にとっての凶器だった。そこで、彼女は断ろうとしたら、梨乃はいきなり続けた。 「時光さんは弾きたくないなら、音夢ちゃんに代わりに弾いてもらってもいいですよ。音夢ちゃんもピアノ弾けるでしょう」 美波は胸が締め付けられるような感覚だった。 冬雪も相槌を打った。 「ただピアノを弾くだけだろ。それくらいのこと、音夢までできるのに、お前、できないって言うのか?」 美波は彼を見つめて、すべてを諦めたような笑顔を浮かべた。 「わかった。弾くわ」 音夢にそのようなことをさせるわけにはいかない。 音夢に自分の父が、他の女とイチャイチャしている光景を見せてはいかない。 そう思って、彼女は自分を犠牲にした。 階段を降りて、美波は隅っこにあるピアノの蓋を開けた。 梨乃は相変わらず得意げな顔をして、冬雪と肩を並べて、満面な笑顔で言った。 「曲は時光さん次第でいいです。 好き嫌いとかないので、何でもいいですよ」 言いながら、梨乃は手を伸ばして、癖のように冬雪の身に寄りかかった。 美波の心はすでに麻痺していた。 彼女はその光景を見て、ギュッと口角を上げた。 そんなに親しいなら、「夢の中のウェディング」を弾いてあげよう。 指が鍵盤の上に跳ね始めた瞬間、音楽が会場に鳴り響いた。 しかし冬雪の動きが急に固まってしまった。 第8話 美波は真剣に弾いていた。本気で祝福しているように。 冬雪の心臓の鼓動が一瞬で乱れた。 彼は複雑な表情で美波に目を向けて、どうしてよりによってこの曲なんだろうと困惑しているうちに、リズムに合ったはずの動きも知らず知らずズレてしまった。 梨乃の悲鳴を聞いて、冬雪は自分がうっかり彼女の足を踏んでしまったことに気づいた。 彼はすぐに我に返って、梨乃を横抱きに抱え、薬を取りに行った。 音楽が止まって、美波はあの二人の後ろ姿を見て、今回を最後にする決意を固めた。 明日から、彼女は音夢を連れて姿を消すから。 美波がお手洗いで気持ちの整理をしているうちに、音夢はいつの間にかケーキの前に来た。 彼女はそのテーブルに置いてある大きい三段ケーキを羨んでいた。そもそも、冬雪は彼女と一緒にケーキを食べたことすらなかった。 これは自分のためのケーキではないと知りながらも、彼女は衝動を抑えられず、小さい一切れを切った。 パパが自分のために買ってくれたつもりで。 と、音夢は心の中で自分に言い聞かせた。 しかし切ったばかりのケーキは、突然走ってきた心愛に叩き落された。 「この泥棒!これはわたしのケーキなのに!」 音夢の顔色は一瞬で血の気が引いた。そして首を横に振りながら、「泥棒なんかじゃない」と説明した。 彼女はただ、パパの買ったケーキはどんな味なのか、気になっただけだった。 けれど心愛は全然聞く耳を持たず、大声で怒り出した。 「泥棒だよ。パパを盗んだ泥棒! あんたの母も泥棒。ママの彼氏を盗んだ泥棒!二人共悪者、家から出てって!」 美波の悪口を聞いて、音夢はすぐに焦りながら立ち上がって、母を庇おうとした。 「ママは泥棒なんかじゃない!」 喧嘩している中、子供達は扉の前まで揉み合っていった。 音夢よりも力の強い心愛は、そのまま音夢を外に押し出した。 音夢はよろよろとバランスを保とうとしたが、結局花壇に転んでしまって、頭がキーンとなった。 それを見た心愛もびっくりした。 次の瞬間、彼女も転んだふりをして、床で足掻きながらギャーギャー泣いていた。 物音を聞いた美波は駆けつけてきたら、真っ青な顔色をして、頭が血まみれになった状態で花壇に横たわっている音夢を目にした。 あまりにも衝撃的な光景で、彼女は手の震えが止まらなかった。頭がこんがらがったまま、即座に音夢を抱き上げて、冬雪に助けを求めた。 駆けつけてきた冬雪もその光景を見て、一瞬で青ざめた。 音夢の様子を見に行こうとしたその時、後ろから梨乃の声が聞こえた。 「冬雪、心愛が気を失ってしまったわ!」 冬雪は足が止まった。 何秒間躊躇した後、彼は結局振り向いて、心愛のほうへ走っていった。 美波は「信じられない」と言わんばかりに、その後ろ姿を見つめていた。 躊躇いもなく、情もなく。 美波は息苦しくなり、無言のまま腕の中の音夢を抱えながら病院へと駆けていった。 幸い、大した傷ではなかった。ただ、念の為、まだ一夜のアセスメントが必要とのことだった。 深夜になるまで、冬雪は姿を現さなかった。 電話すら一度もかけて来なかった。 美波は後ろめたさと哀れみに満ちた目で、病室のベッドに横たわっている音夢を見つめていた。 それに対して、音夢はただ微笑んで、彼女を慰めていた。 「パパ、来なくてもいいの」 その言葉で、美波は心が痛んだ。 音夢は続けた。 「もういいの、パパに好かれなくても。ママがいれば十分。 ママ、ここを離れよう」 彼女の目から、昔のような未練は完全に消え去った。 その心も、冬雪に殺されてしまったのだ。 彼が躊躇いなく去っていくあの姿は、彼女の頭から離れなかった。 何をしても、冬雪に好かれないのならば、もう離れるしかない。 美波は情緒を抑えられず、涙が滝のように溢れ出して、この子を抱きしめた。 翌朝、美波は退院したばかりの音夢を連れて、空港行きのタクシーに乗った。 行く前に、彼女は冬雪に最後のメッセージを送った。 【もう一生会わないように】と。 そして、彼のすべての連絡先を削除した。 平野冬雪、三回のチャンスは全部使い切ったわよ。 これから、私達はただの赤の他人。