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歳々安らかに
「お姉ちゃん、本当にいいの?死んだことにしちゃったら、一平さんは絶対にお姉ちゃんを見つけられなくなるよ……」 斎藤梨央(さいとう りお...
Chương (1)
第1章
「お姉ちゃん、本当にいいの?死んだことにしちゃったら、一平さんは絶対にお姉ちゃんを見つけられなくなるよ……」
斎藤梨央(さいとう りお)は目を伏せ、小さな声で言った。
「うん。もう戻れないから。できるだけ早くお願い」
「……わかった。でも、早くても半月はかかるよ」
梨央の妹・斎藤利香(さいとう りか)は、悲しそうに姉の手を握りしめた。
「一平さん、あんなにお姉ちゃんのこと好きだったのに……どうしてこんなことに……」
梨央は自嘲するように薄笑った。
――そうだね。あんなに私を大事にしてくれた人が、どうして……
彼女と三条一平(さんじょう いっぺい)は幼い頃からの幼なじみだった。
ずっと一緒に過ごし、周りの誰もが、彼がいつか彼女を娶るものと思っていた。だが……
第1話
斎藤梨央(さいとう りお)が七歳のとき、三条一平(さんじょう いっぺい)の母・三条楓(さんじょう かえで)は親戚や友人によく話していた。
「一平ったら、梨央ちゃんの言うことしか耳に入らないんですのよ。指示されたら、迷うことなく動いてしまうんですから。
梨央ちゃんが絵を描いてる時に、周りの子たちが少し騒がしくて眉をひそめたんですけれど、それだけで、あの子ったらすぐに封筒でお口を塞いでしまったんですの」
十四歳のとき、梨央が欲しがっていた絵を誰かが買ってしまった。
するとプライドの高い一平が、何ヶ月もその買い手の家の前に通い詰め、譲ってほしいと頼み込んでいた。
友人に「女のことでそこまで?」とからかわれれば、顔を真っ赤にして殴りかかっていた。
「うるせえ!梨央を他の女と一緒にすんなよ!」
十七歳、梨央が留学で国外に行った。
すると、他の家がこぞって自分の娘を一平に紹介し始めた。
だが、一平の父・三条匡邦(さんじょう ただくに)はきっぱりと断った。
「一平は俺に似て、一途な性格だ。あいつの心には斎藤家の梨央しかいない。勝手に決めたら、大ごとになるぞ」
二十歳で帰国した梨央を、一平はまた三年かけて求め続けた。
甘えたり、すがったり、時には脅したり――とにかく何でもした。
梨央がいる場所には、必ず彼がそばにいた。
ある日、会社の男性同僚から飴をもらったと聞いた彼は、会社の前で待ち伏せしていた。
そして、不機嫌そうに唇をとがらせながら言った。
「もしかして、あいつの気持ちに応えたのか?」
思わず吹き出してしまった。
「しないよ。ずっと、一平だけ」
そんなふざけたやり取りのあと、二人は付き合い始めた。
それからの一平は、まるでスイッチが入ったかのように、彼女に尽くし続けた。
梨央が少しでも興味を示したものは、なんとしてでも手に入れようとした。
プロポーズの日、A市中のバラを買い占め、彼は堂々と宣言した。
「世界で一番大切な宝物を見つけたんだ!」
彼女の薬指に指輪をはめながら、感激のあまり涙をこぼしていた。
梨央も目を潤ませながら、そっと誓った。
「お金があってもなくても、健康でも病気でも、私はあなたのそばにいる。一途な心で、ずっと一緒にいようね」
――けれど。
彼に他の女がいると知った瞬間、その誓いの言葉は、刃となって胸に突き刺さった。
息ができないほどの痛みだった。
一平、嘘をついたのね。
帰り道、梨央のスマホに楓からの電話が入った。
「梨央ちゃん、今夜の夕食、忘れないでね」
楓は、彼女と一平が来るのを楽しみにしていた。
「はい、お義母さん」
一平がどうであれ、楓はずっと梨央を本当の娘のように大切にしてくれていた。
周囲の反対を押し切ってまで、彼女を三条家の嫁として迎えると決めた人だった。
――もう、会えなくなるかもしれない。
そう思いながらも、梨央は三条家へ向かった。
食卓には温かい料理が並んでいた。けれど、楓はすでに十回以上一平に電話していた。
それでも出なかった。料理もすっかり冷めてしまっていた。
「ちゃんと伝えたのに……あの子、そんなに忙しいのかしら」
楓は少し苛立ったように言った。
匡邦は笑いながら梨央に料理を取り分けた。
「先に食べよう。あいつには残りを食わせとけ」
梨央は作り笑いを浮かべながら答えた。
「……仕事が大事ですから」
でも心の中では、本当に仕事なのか、それとも他の女と一緒にいるのか、疑いが拭えなかった。
食後、梨央は先に二階に上がって休んでいた。
そこへ、一平の声が階下から響いてきた。
「梨央!ごめん、すっかり忘れてた!スマホの充電も切れててさ!」
靴も脱がずに駆け上がってきて、彼女をいきなり抱きしめた。
「本当にごめん。お腹すいてない?今日は仕事がバタバタでさ……これからは早く帰るから」
梨央は口元をわずかに引きつらせながら言った。
「ううん、お義母さんが、もう待たなくていいって」
彼はほっとしたように笑った。
「だよな。お前が一番大事だもんな。そうだ、これ見て」
彼は数日前、街で彼女がちょっとだけ褒めたネックレスを差し出した。
そう言いながら、やさしく彼女の首にかけた。
「似合ってる。やっぱり梨央のセンス、間違いないよ」
梨央は静かに言った。
「……私の目に、間違いはないってことね?」
彼は気づかず、うなずいた。
「もちろん」
梨央はしばらく、彼の笑顔を見つめていた。
――どれだけ目がよくても、人の心の中までは見えないのだ。
「ちょっとシャワー浴びてくる。待ってね」
彼は彼女の額にキスをして、バスルームへ向かった。
梨央は無意識に、彼のジャケットを手に取ってクローゼットに掛けようとした。
そのとき、ポケットが少しふくらんでいるのに気づいた。
何気なく中を確認すると、結び目のある使用済みのコンドームが一つ。
そして、それと一緒に三箱分のコンドームのレシート。
彼女の手が、震えた。
遅れた理由はやはり――他の女と一緒にいたから。
梨央は深く息を吸い、涙をこらえた。
そして、彼がシャワーから出てくる前に、静かにそれらをゴミ箱へ捨てた。
第2話
ベッドの上にぽつんと座っている梨央の姿を見て、一平はまだ怒っているのだと思い、あわてて駆け寄った。
彼はしゅんとした顔で口を尖らせ、申し訳なさそうに謝った。
「俺が悪かったよ。叩いても怒鳴ってもいいから、無視だけはしないでくれよ……」
いつもなら、彼がこんなふうに情けない顔を見せるだけで、梨央の心はすぐに和らいだ。
だが、一平の度重なる嘘に、彼女の心はまた固く閉ざされていた。
梨央は彼を見つめながら、ふと若い頃のことを思い出した。
斎藤家では彼女を跡継ぎとして育てられたせいで、他の女の子のように思ったことを自由に口にすることができなかった。
怒っても、傷ついても、それを表に出せなかった。
けれど、一平だけは梨央の気持ちの変化をいつも一番に察してくれて、何度も根気よくなだめてくれた。
傲慢なはずの三条家の御曹司が、彼女の前では迷わず頭を下げるのだった。
梨央はつい、こんなことを口にしていた。
「もし……いつか私のことを愛さなくなったら……」
やはり、本音がひとこと、聞きたかった。
「そんなことないよ!」
彼女が言い終わる前に、一平が即座に遮って、真剣な顔つきで言った。
「俺の心には、梨央しかいない。ずっと梨央のことを愛して、なだめて、守っていくよ。
お前さえそばにいてくれれば、ほかには何もいらない」
梨央の心はすうっと冷え込んだ。
――私を愛してると言いながら、他の女のベッドを離れられないくせに。
彼女は一平を押しのけて言った。
「もういいよ。怒ってなんかないから」
梨央の表情がいつも通りに戻ったのを見て、一平は安心したように笑いながら、外から一枚の油絵を持ってきた。
「この絵をオークションで見て、絶対梨央が気に入ると思ったんだ!」
梨央はちらりと見ただけで、それがモネの初期の作品であり、かなりの価値があることに気づいた。
それでも、彼女は淡々と答えた。
「これは、モネが亡き妻と息子を思って描いたもの。最愛の人を失う直前の悲しみが滲んでるわ……」
話の途中で、一平が眉をひそめて遮った。
「なんか縁起悪いな、この絵。後で処分しよう。お前と離れたくなんかない」
彼は焦るように梨央の手を強く握った。
まるで、そうでもしないと彼女が消えてしまうように。
――縁起の悪いものは捨てるべきか。
確かにその通り。
梨央も、一平を捨てるつもりだった。
翌朝、まだ目が覚めていない梨央は、ふわりと漂ってくる料理の香りに気づいた。
三条家には多くの使用人がいるが、一平がいるときは、必ず自分で料理をする。
梨央が食事をして満足そうに笑う姿を想像するだけで、料理が楽しくなるのだと言っていた。
彼は梨央のためにすることに、決して他人の手を借りようとはしなかった。
「梨央、そろそろ起きて、朝ごはんだよ」
洗面道具も全て手の届く場所に置いてあり、歯ブラシには既に歯磨き粉がつけられていた。
一平は彼女の手を取り、少し嬉しそうに食卓へと連れて行くと、丁寧に箸を左手の側に置いた。
湯気の立つチキンスープ麺はとても美味しそうだったが、梨央にはまるで砂を噛むような味しかしなかった。
そのとき、楓がにこにこと映画のチケットを二枚差し出してきた。
「一平、もっと梨央と一緒にいてあげなさいな。せっかくの週末だし、映画でも見てリフレッシュしなさいよ」
梨央は断ろうとしたが、一平が即座に承諾し、得意げに服選びを始めた。
映画館に着くと、彼は何から何まで準備してくれていた。
チケットを見せたあと、通路には人が多くて少し混雑していた。
一平は梨央を庇うように抱き寄せ、つい声に出して言った。
「ここで講演会がある」
梨央が「どんな講演会?」と聞く前に、軽やかな声が響いた。
「社長!」
大江美奈子(おおえ みなこ)が目を輝かせて駆け寄ってきた。
まさに青春の真っ只中、明るくて無邪気な笑顔だった。
美奈子は今年入社したばかりの社員で、キャンパスリクルーティングで採用され、一平の秘書になった。
最初の頃は、一平は梨央にも彼女がどれだけドジで仕事ができないか文句を言っていた。
同僚たちにも最初は冷たくされていたが、そのうち不思議と何も言われなくなった。
たぶん、一平が彼女の後ろ盾になったからだろう。
梨央に対し、美奈子は「奥さん」とは呼ばず、「斎藤さん」とだけ呼びんだ。
それでも、梨央は特に気に留めなかった。
それから、美奈子は後ろにいる同級生たちを指さしながら、わざと大きな声で言った。
「社長が場所を提供してくださったおかげで、会場が確保できたんです。本当に助かりました!」
その場にいた人たちは一斉にざわつき出した。
「えっ、本当に三条社長が手配してくれの……!」
「やっぱり本当に三条家と繋がってたんだな……あの三条グループに入れるのも納得だよ」
「でもさ、奥さんが隣にいるってのに、まるで子犬みたいにまとわりついて……」
一平の顔が一瞬強張り、梨央の腰に回した手に力がこもった。
「場所を探してるのを見かねて手を出しただけだ。映画館はうちの持ち物だし、使わないままじゃ無駄になる」
彼は焦るように言い訳した。
美奈子は、一平が必死に梨央をなだめている姿を見て、ほんの一瞬、嫉妬の色を浮かべた。
「本当に助かりました。社長って、すごく人のことをよく見てくださるんですね」
その一言で、梨央の周囲の空気が一気に冷たくなった。
一平の顔には曖昧な笑みが浮かんでいたが、その目には梨央への優しさが滲んでいた。
「映画が始まるよ、梨央、行こう」
梨央はうなずいた。
こんな子供じみた手口に、心を乱されることはなかった。
席に着くと、一平は彼女の居心地を気にして、ブランケットをかけたり、ミルクティーを渡したりと、至れり尽くせりだった。
映画が始まった頃は、まだ腕を回して寄り添っていたが、途中から何度もスマホを取り出し始めた。
眉をひそめたり、ふと笑ったり。
時折、入力内容を梨央に見られないように、体をそっと横に傾けていた。
こんなにも見え透いた芝居をするなんて。
プライドの塊だった彼が、今はあの女のために隠しごとをしている。
しかし、スマホに一瞬映った、ピンクのリボンの写真で、彼の嘘が破れた。
面倒そうだった彼の表情が、だんだんと瞳を見開き、顔が赤らんできた。
そして、一平は慌ててスマホをしまい、梨央を見ながらぎこちなく笑った。
「梨央、ちょっと電話がかかってきた。すぐ戻るから」
梨央は黙ってうなずいた。
そして、彼が席を離れたあと、静かに立ち上がった。
第3話
一平は出たあと、一度だけ後ろを振り返り、隣の狭い物置部屋へと足を向けた。
その瞬間、白くて華奢な手が彼のネクタイを掴み、勢いよく中へと引きずり込んだ。
次の瞬間、美奈子が一平の胸元に飛び込み、言葉もなく唇を重ねた。
仕切りの向こうからは、激しい吐息と唇が交わる音が延々と響いていた。
梨央はその扉の外に立ち、やがて美奈子の甘ったるい声を聞いた。
「ふん、奥さんと一緒じゃなかったの?なんでここに来るのよ」
彼女が梨央のことに触れた瞬間、一平の顔から色気が引き、表情が沈んだ。
「彼女の前に現れるなって言ったはずだ。俺の言葉、まだ伝わってないのか?」
美奈子は目を潤ませ、ふくれっ面で言い返した。
「だって、すぐにあなたのこと見つけちゃったんだもん。
褒めてくれなくてもいいけど、怒ることないでしょ?二人一緒にいるなんて知らなかったのよ」
彼女は一平に寄りかかりながら、指先で彼の胸元をなぞっていた。
その指が肌に触れるたびに、自分の存在を彼にねだるような気配が伝わってくる。
確かに、それは偶然だった。だから一平も深くは追及しなかった。
彼は自然な流れで彼女の腰を抱き寄せると、声を低くして囁いた。
「よしよし。ちゃんとご褒美をあげるよ。な?ほら、脚を開いて……」
やがて、服の擦れる音とともに、扉が小さく揺れ始めた。
時おり、美奈子のか細い声が漏れてくる。
「や……やさしくして……」
扉を隔てただけなのに、梨央にはまるで別世界の出来事のように感じられた。
知っていたはずなのに、心を鋭い刃で何度も刺されるように苦しくて、呼吸さえうまくできなかった。
彼女は胸を押さえ、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。
ふと、一平との最初のキスを、思い出した。
それは年越しの夜、人混みで賑わう宴会場をこっそり抜け出したときだった。
海辺には多くの人が集まっていて、誰かに押されるようにして、梨央は一平の胸元へと倒れ込んだ。
彼女の目を見たとき、一平は動揺を隠せなかった。
潤んだ唇は危ういほど艶やかで、彼は思わず目をそらした。
「お、俺……その……」
言葉に詰まった彼は、どうしても続けられなかった。
皆の歓声が響く中、梨央は背伸びをして、彼の唇にそっと口づけた。
夜空に花火が打ち上がり、彼の世界が一気に華やいだ。
耳の先まで真っ赤に染まり、冬の海風も、その鼓動を冷ますことはできなかった。
そして、結婚式の日。
少し大人びた一平も、その日はやはり緊張していた。
周囲には、十年以上想い続けた相手と結ばれたのに、今さら怖がってどうするんだと笑われた。
彼は震える手で服を脱ぎ、静かに彼女の上に身を重ねた。
頬を赤らめながら、「いいか?」と優しく尋ねる声には、あふれる愛がこもっていた。
彼女を抱いたその瞬間、彼女の首元に顔を埋め、声を震わせて泣いた。
「梨央……やっと、俺のものになったんだ……」
その想いは、確かに本物だった。
でも、今となっては――もう、愛していないのも事実だった。
梨央は、どうやって席に戻ったのか、自分もわからなかった。
映画が終わる頃、一平が戻ってきた。
表情はごく自然で、服に皺一つなかった。まるでずっと仕事していたように。
彼は梨央の肩に身を預け、甘えた声で言った。
「梨央、もう疲れたよ。仕事なんかやめて、ずっとお前のそばにいたい」
梨央の胸には、冷たい笑いが浮かんだ。
よくそんなことが言えるわね。さっきまであの女と抱き合っていたくせに。
襟元から覗く無数のキスマーク。強く香る香水の匂い。それらが、何度も何度も梨央の心を突き刺した。
一平。本当に、ご苦労さまだね。
隠し事が苦手なあなたが、ここまでして私にバレないようにしたなんて。
でも、もういいの。
あと少しよ。我慢すれば、もう隠す必要なんてなくなるから。
第4話
映画を見終わったあと、二人は近くの料理屋で牛肉うどんを二杯頼んだ。
料理を待つあいだ、一平はなんとか会話を続けようとしたが、梨央の反応は淡々としていた。
ふと、自分の最近の態度に気づいたのか、彼は梨央を見て、少し申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、梨央。さっきは仕事の対応をしてたんだ。今ちょっと忙しいけど、片付いたら一緒に海外へスケッチ旅に行こうか?」
しかし、梨央の表情に笑みが浮かばないのを見ると、焦ってさらに距離を縮めてきた。
ほとんど体が触れそうなほど近づいた彼の身体からは、あまりに濃厚な「エッチ」の匂いがして、梨央は眉をひそめ、吐き気を覚えた。
ちょうどそのとき、女将さんがうどんを持ってきた。
梨央はそのタイミングで彼を押しのけ、感情を抑えながら静かに言った。
「……とりあえず食べましょう」
旨味たっぷりの牛肉の上には、刻まれた青ねぎがたっぷり散らされていた。
一平はすぐに気づき、梨央が言う前に箸で丁寧に取り除いた。
そのとき、梨央のスマホが光り、彼女は画面を開いた。
美奈子からの自撮り写真だった。その胸元にはピンクのリボン。
明るい笑顔に、頬には不自然な赤み――まるで激しくエッチした直後のようだった。
【社長のおかげで、講演会は無事に終わりました】
挑発なのか、それとも宣戦布告か。
梨央は無言でスマホの画面を消した。
その瞬間、一平が覗き込んできた。
「何を見てたの?」
梨央は微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「……たいしたことじゃないわ」
「はいはい、青ねぎは全部取り除いたよ」
そう言って、彼はうどんを梨央の前に差し出したが、梨央はひと口食べた途端、思わず吐き出してしまった。
青ねぎは取り除かれていても、その香りはすでにスープに染み込んでいた。
どうにもならなかった。
その後、梨央は数日間、家に引きこもった。
一平は毎日帰ってきては、彼女と一緒に食事をし、絵を描いて過ごした。
だが、その静けさの下には、とっくに波が立っていた。
ある晩、一平はいつものように梨央を抱いて眠りについていた。
深夜、部屋に響いたスマホのバイブ音がひときわ目立った。
彼は慌てて通話を切り、表示された名前に一瞬顔をこわばらせた。
梨央の目元にキスを落とし、そっと囁いた。
「会社でトラブルがあったみたい。先に寝てて。すぐ確認してくるから」
そう言い残し、音を立てないように部屋を出ていった。
電話の向こうから、美奈子の甘えるような声が聞こえてきた。
「社長……みんなにずっとお酒を飲まされてて……助けに来てくれない? ほんとに、もう無理……」
一平は寝室のドアを一瞥すると、さらに離れた場所まで歩きながら、声をひそめて言った。
「家では連絡するなって言っただろ」
だが、美奈子は涙声で続けた。
「奥さんと一緒なのは分かってた……でも、本当にどうしようもなかったの。あの御曹司たち、私ひとりじゃとても無理だったのよ……」
美奈子のすすり泣く声に、一平の心も揺れ動いた。
「無理に付き合わなくていい。すぐに帰れ」
彼は冷静に言ったが、美奈子は引き下がらなかった。
「でも……彼らは無理やり触ってこようとして……もう帰れないの……お願い、助けに来て……」
そのとき、電話の向こうから鋭い叫び声が聞こえた。
「鈴木(すずき)社長、やめてください……!」
「美奈子、大丈夫か!?」
美奈子の必死な声が響き、一平の表情が一気に強張った。
「待ってろ。すぐ行く」
その言葉は、ほとんど噛み締めるようにして絞り出された。
彼はスマホをポケットにしまうと、寝室へ駆け戻った。
「梨央、会社の案件でトラブルが起きた。今すぐ行ってくる、すぐ戻るから」
梨央は何も言わず、ただ黙って彼を見送った。「美奈子」という名前の表示を、見なかったふりをしたまま。
遠ざかっていく足音を、ただ静かに聞いていた。
出ていく人間なんて、最初から引き留める価値なんてない。
かつて全てを自分だけに向けていた少年は、もうどこにもいなかった。
部屋の壁に飾られた、自ら描いた結婚写真が、やけに滑稽に見えた。
梨央はそれを静かに外した。
すでに薄く埃が積もっていた。
ライターの火を灯すと、青い炎がじわじわと紙を焼き尽くし、二人の思い出もまた燃えて消えていった。
そして彼女が、もうこれ以上心は痛まないと信じたそのとき――一平は、さらに致命的な一撃を与えてきた……
第5話
その日、楓がチキンスープを煮込み、会社に届けてほしいと言った。
梨央は給湯室の前を通りかかったとき、中から話し声が聞こえてきた。
「昨日、社長がレストランで大騒ぎしたんだって。大江さんに手を出した人がいたらしくて、それに怒って、うちと提携してる鈴木グループを完全に敵に回したって話よ」
そう言った女の子に、他の三人は目を見開いた。
「うそ……それって、ただの秘書のために怒ったってこと?」
「何が『秘書』よ。あの子は愛人じゃない?誰だって知ってるでしょ、大江が社長を誘惑したって。奥さんがいるのに」
「奥さんが何だっていうの?本妻がいても、浮気するのも大したことじゃないよ。社長ほどの男が、たった一人の女で満足するわけじゃない?」
梨央は給湯室のドアの陰に隠れ、彼らの会話を聞いていた。
その目の光は、瞬く間に消えていった。
――そうか、みんな知ってたんだ。彼と大江美奈子のことを。
知らなかったのは、自分だけだった。
そのとき、話していた女の子が辺りを見回し、小声で言った。
「大江があんなに堂々としてるのも、社長の愛人だからよ。毎日、これ見よがしに着飾って、まるで……女狐みたい。
奥さんの方がずっと綺麗なのに、大江は甘え上手で、男をその気にさせるのがうまい。奥さんはそういう手を使わないし、社長もそういう女を見慣れてないんだわ。
冷たくて気位の高い奥さんなんて、エッチでもつまらなそうだしね。だから社長が浮気するんでしょ」
彼女はさらに声を落として続けた。
「こないだ資料を届けに行った時、中から……聞こえちゃったの。あれはもう……ヤバかった」
その言葉に、他の女子たちはざわついた。
「それくらいで驚かないで。私なんか会議室に早く行った時、社長と大江さんがいてさ。顔赤くしてるし、隅に下着が脱ぎっぱなしでさ……」
若いインターンの一人がため息をついた。
「そんなことして……奥さんがかわいそう」
「かわいそう?そんなの関係ないわよ」
少し年上の女性が言葉を遮った。
「バレなきゃいいの。上の人たちも言ってた。会社の情報を外に漏らしたら、その時点で終わりだって」
中ではまだ噂話が続いていたが、梨央の耳にはもう何も入ってこなかった。
頭の中で何かが割れるような音だけが響いていた。
彼女はまるで魂の抜けた人形のように、ふらふらと外へ出た。
廊下の先には、美奈子が小さな鏡を手に化粧直しをしていた。
軽やかな足取りでオフィスへと向かう途中、梨央と目が合うと、得意げに微笑んだ。
その瞬間、梨央の足元がわずかにふらついた。
だがすぐに体を支え直し、背筋をまっすぐに伸ばした。
――大丈夫。
もうすぐ、何も私を傷つけるものなんてなくなる。
ビルの下で彼女が帰ろうとしたとき、スマホの画面が光った。
開いてみると、美奈子から画像が届いていた。
濡れた白いシャツを身につけ、一平のジャケットを掴んでいる写真だった。
濡れた布越しに、白い肌が透けて見えた。
続いて、次々と挑発的なメッセージが届いた。
【もう彼はあなたを愛してないわ。妻の席にしがみつくの、みっともない。】
【昨日、私がちょっと困ってただけで、彼はあなたを捨てたのよ。あなたにそんなこと、できる?】
【知らなかった?会社でも、彼の車でも、私たちの痕跡はそこら中にあるのよ】
【離婚を切り出さないのは、斎藤家に波風立てたくないだけ。いや、あなた……斎藤家の娘ですらない。誰にもいられなかった隠し子じゃない」
その文面を読んだ瞬間、梨央の顔から血の気が引いた。
瞳が大きく見開かれ、体の芯まで氷水をぶちまけられたような感覚が襲った。
一平……彼女に何を話したの?
どんな場面で?どんな口調で?
まさかあの過去を、笑い話にでもしたの?
一度は薄れていたあの記憶が、再び梨央の胸を締めつけた。
彼女の視界が涙でぼやけていった。
そのとき、目の前から車がコントロールを失って突っ込んできた。
彼女はぼうっと立ち尽くし、ふと――
「これで、やっと終われる」
そんなふうに感じていた。
直後、タイヤが悲鳴のように鳴り響いた。
そして、誰かの叫び声が混じった。
「梨央っ!やめろ……梨央!」
ドンッ!
ものすごい衝撃が走り、彼女の体は横に吹き飛ばされ、そのまま車の窓に頭をぶつけた。
内側から血が流れていく感覚と、全身を貫く激痛――
意識が遠のいていく中、一平が彼女に駆け寄ってきた。
「……り、梨央、怖がるな……」
目は真っ赤に染まり、彼の手は震えていた。
「医者を呼んでくれ!早く!」
意識を完全に失う直前、梨央は彼の取り乱した姿をぼんやりと見た。
心に込み上げてきたのは、苦く切ない想いだった。
泣くべきか、笑うべきか、わからなかった。
自分が死ねば、彼はもう板挟みに悩まなくて済む。
そう思っていたのに――でも今は、後悔?それとも、愛着?
もう、どうでもよかった。
一平、私たちは……もう終わりだ。
第6話
その後、梨央はずっと昏睡していた。
再び目を開けると、目の前には白い天井が広がっていて、鼻をつく消毒液の匂いに眉をひそめた。
看護師がワゴンを押して入ってきて、薬を交換しにきた。
彼女が目を覚ましたのを見ると、嬉しそうにすぐ近づいてきた。
「奥さん、やっと目を覚まされましたね!
三条社長はずっと寝ずに付き添って、身体を壊すほどでした。妹さんがあなたを使って脅したおかげで、やっと休みに戻ったそうです。
妹さんはお水を取りに行ってます、すぐ戻りますよ」
梨央は軽く頷いた。
戻ってきた斎藤利香は、彼女が目を開けているのを見てほっとした。
「お姉ちゃん、やっと目が覚めたね。一平さんに電話するよ。絶対喜ぶ。ここ数日彼は……」
梨央は手を握り、すぐに遮った。
「電話しなくていい」
彼女はため息をつき、少し迷ったが口を開いた。
「お姉ちゃんは長い間昏睡していた。一平さんはとても心配してた。
A市で一番有名な医者を全部呼んだけど……それでも目を覚まさなかった」
利香の顔には少し影があったが、梨央は気にしなかった。
「彼は昼も夜もずっとそばにいて、一歩も離れなかった。お姉ちゃんが亡くなったのが、よほど怖かったんだと思う。
看護師さんの話では、B市にある白木寺はとてもご利益があるらしく、夜通しで急いで行ったそうだ。
九千九百九十九段の石段を、ひざまずきながら一歩一歩登って、ついに本堂までたどり着いたって」
あんなに強気な一平が、神様を信じるとは思わなかった。
「彼は仏像の前でひざまずき、お姉ちゃんの命が穏やかで幸せなものでありますように、
そう願って、自分の命と引き換えにしてもいいと祈った」
穏やかで幸せ?
その言葉を聞き、彼女は鼻で笑った。
利香は彼女の穏やかな表情と目の奥にある嘲りに、戸惑った。
梨央は掠れた声で言った。
「彼は私の過去を大江に話した」
広い病室は一瞬で静まり返り、梨央の深い呼吸の音だけが響いた。
封印していた記憶がまた押し寄せてきた。
実は、梨央は斎藤家の本当の娘ではなかった。
梨央は、父・斎藤隆(さいとう りゅう)の隠し子だった。彼女の実の母は隆の妻・斎藤雅子(さいとう まさこ)とほぼ同時に子供を産んでいた。
当時、隆は財産目当てに梨央の母を捨て、斎藤家へ婿入りするつもりだった。
その事実を知った梨央の母は、梨央の未来、そして雅子への復讐のために、二人の子供をすり替えた。
梨央の母は一生良心の呵責に苦しみ、亡くなる間際に真実を告げた。
利香が訪ねてきたその日、梨央はその真実を知った。
崩れ落ちそうなのは自分だけでなく、雅子も激しく動揺した。
夫の裏切りと、十年以上育ててきた娘が偽物だったこと。しかも、それは愛人の子供だった。
梨央は今でも覚えている。
いつも優雅で品のある雅子が、鋭く刺すような声で彼女に罵声を浴びせた。
「ただの下品な浮気相手の子だ……汚い野良犬みたいな子だ」
雅子はヒステリックに、目の前のすべてを壊そうとした。
だが、梨央の苦しみも同じくらい深かった。
残酷な真実と母の憎悪が胸を締め付け、息ができなくなった。
彼女は必死で走った。
あの息苦しい場所から逃げ出した。
その瞬間、梨央はわかった。
自分にはもう家がないのだと。
その後、自分を守るために海外へ逃げた。一平も後を追った。
かつての少年は、熱い愛で彼女の心を溶かした。
帰国後は、すべての悪意を振り払い、反対を押し切って彼女を選んだ。
二人の盛大な結婚式は、世間に広く知れ渡った。
一平の想いに、梨央の出自は関係なかった。
彼が愛したのは、ただ梨央という存在だった。
「梨央に、家を作ろう」
しかし、愛は風のように吹いてきて、そしてまた散っていった……
一平が病室に駆け込んだとき、梨央は彼の疲れた顔に驚いた。
血走った目、無精ひげ、乱れた身なり。
彼は梨央を見て泣きそうになり、強く抱きしめた。
「梨央、もう傷つけないでくれ。お前のいない世界なんて、本当に生きられないんだ!」
梨央は黙って彼に抱きしめられ、震える体温を感じた。
「ずっとそばにいるよね?」
一平はじっと彼女を見つめ、答えを求めた。
彼女は一平を見上げ、言いたかった言葉を飲み込んだ。
先に離れるのは彼なのに、どうして彼女がずっと一緒にいるの?
そして、小さくうなずいた。
一平は安心し、二人は寄り添った。だが二人の心には越えられない溝があった。
その後数日、彼は一歩も離れず、梨央の細かな要求にも気づいた。
唇を結び、水を口元に運び、眉をひそめると、面白い話を話しかけた。
毎日の食事は彼の手作りで、枕の高さも完璧に調整していた。
ある時、彼は思い出したように慌てた顔で聞いた。
「この前帰った時、梨央が描いた結婚写真がなくなってたけど、あれどうしたの?」
梨央は落ち着いて答えた。
「修理に出した」
彼は少しほっとして言った。
「なんで言わなかったんだ。これからは、こういうことは俺に任せてくれよ」
その時、利香からのメッセージが届いた。
【お姉ちゃん、準備できたよ】
でも一平、私たちにはもう「これから」はなかった。
第7話
退院して家に帰ると、玄関はしっかり閉まっていて、使用人たちが両脇に立っていた。
彼らは笑いながら言った。
「奥様、旦那様が回復祝いのサプライズをこっそり用意してくれたそうですよ!」
「そうですね、旦那様は奥様をとても大切にしていて、優しくてロマンチック。こんな人は珍しいですよ」
梨央はあまり反応せず、一平は何か企んでいるように彼女の手を取り、扉を開けた。
家の中は隅々まで花で飾られていて、華やかそのものだった。
彼女が呆然とするのを見て、一平は甘い目で言った。
「ずっとスケッチに行きたいって言ってたよね。花がたくさん咲いてるところに。
だから今、A市中の花を全部梨央のために集めたんだ。嬉しい?」
彼は優しく梨央を見つめていた。
でも梨央は花を指さして、にっこり笑った。
「これ、根っこから腐ってるよ」
花は摘まれた瞬間から、根元から少しずつ腐っていく。人も、同じだ。
「……」
彼女が花のことを言っているのは分かっていたけれど、一平の心はドキリとして、なぜか急に動揺した。
彼は無理に笑って、梨央の手をぎゅっと握った。
「じゃあ、数日後にスケッチに行って、まだ摘まれていない花を見に行こう。いいか?」
「うん」
嘘の返事が自然と口から出てきた。まるで自分を騙しているみたいに。
彼女は知っていた。一平はまだ自分を愛しているかもしれないと。
ただ、彼は自分だけを愛せなかったのだ。
その時、一平のスマホが震えた。
美奈子からのメッセージだった。彼の瞳が一気に暗く沈んだ。
数秒後、彼はスマホを胸にしまい、言った。
「梨央、会社でトラブルがあって、すぐ対応しないと」
だが、彼の声には興奮が混じっていた。仕事の話とは思えなかった。
一平は昔のままだ。嘘もうまくつけない。
「終わったら一緒に行こうな?」
梨央の返事を緊張しながら待ったが、心はもう遠くへ飛んでいた。
梨央はただ静かに彼を見て、うなずいた。
「うん。仕事が大事だもの」
いつも通り優しい彼女に、変わったところはなかった。
でもなぜか、彼の心には違和感と焦りが走った。
一平はその焦りを抑え、彼女の髪を撫でてから、額にそっとキスをした。
「大人しく待っててね」
彼は迷わず振り返り、車のエンジン音とともに去っていった。
梨央のスマホが震えた。美奈子から写真が送られてきた。
妊娠検査薬だった。
判定窓に出る鮮やかな赤い二本線が、彼女の目に刺さった。
【完敗だよ。私はもう彼の子供を宿してる。彼に言ったらすぐ駆けつけてきたよ】
【あなたには愛も子供もない。そんなあなたが、私に勝てると思ってるの?】
【分かるなら、早く身を引いたほうがいいわよ。あなたのためにね】
【怖くなった?三条一平を失ったら、家も居場所もないんだから!】
美奈子は得意げな口調で、三条家に嫁ぐ未来を夢見ていた。
梨央は返事しなかった。
彼女にとって美奈子はもう何の意味もない存在だった。
美奈子がいなくなれば、一平はどうせ別の浮気相手を見つけるだろう。
だからこそ、彼女は静かに去るつもりだ。何も残さずに。
けれど一平は、彼女のいない世界で、罪悪感と後悔、自責の念に苛まれることになる。
一生も。
その後の数日間、一平はずっと美奈子に付き添った。
美奈子は妊娠を利用して、どんどん図々しくなっていった。
毎日、挑発的な写真やメッセージを梨央に送りつけた。
一平が美奈子のために料理を作っている写真には、「旦那が赤ちゃんのために栄養満点の食事を作ってる」という一言が添えられていた。
梨央は、一平が書いた何千通ものラブレターを、迷いなくすべて破り捨てた。
一平が美奈子に買い与えたブランドバッグの写真には、「旦那は私の好きなバッグを、揃えてくれた」という文字が躍っていた。
梨央は、屋敷に飾られていた名画を一枚残らず梱包し、すべて慈善団体へ寄付した。
一平が美奈子とともに産婦人科に行った写真には、「パパとママは君の誕生を楽しみにしてる」と、微笑む二人の姿があった。
梨央は一平との全ての写真を全部探し出した。
写真に愛し合っていた姿を目にしても、もはや未練はなかった。彼女は火鉢に火を入れ、過去すべてを燃やそうとした。
夜、梨央は使用人全員を解散させ、用意したものを鉄の箱に詰めて、「これを必ず一平に渡してください」と頼んだ。
その時、斎藤利香も特別なリアル人形を連れて家に入ってきた。
彼女は書類を取り出し言った。
「すべての準備はできたわ。これが新しい身分証明書類と航空券。梨央はもう存在しなくなるの」
梨央は満足そうにうなずいた。
最後にこの家を見回した。自分で飾りつけた家。
かつて愛で満たした場所を、自分の手で壊すのだ。
彼女は一平に最後の電話をかけた。すぐに繋がった。
「一平、一緒に花見に行こう」
向こうはしばらく黙っていた。
「梨央、数日後に必ず行こう……」
彼が言いかけたところで、梨央は電話を切った。
梨央は笑った。これでやっと自由になれる。
一平、もう二度と会わない。
彼女は最後に、一平が彼女のために作った結婚指輪に触れた。
あの時の彼は言った。「一生、梨央だけを愛す」
ダイヤモンドは今も輝いている。
でも二人の関係はもう戻らない。
利香は彼女の心を読み、ため息をついた。
「本当に何も残さないの?」
「いいの。芝居は全部やらなきゃね」
二人の愛が意味を持たせた指輪は、今はただの石だ。
彼女は指輪を外し、何の未練もなく人形の手に載せた。
そして最後に火鉢を蹴り飛ばすと、炎は勢いよく立ち上った。
燃え盛る火は、かつての美しい思い出すら容赦なく焼き尽くしていく。
炎に照らされた彼女の横顔には、一片の未練もなかった。
もう苦しみも悲しみも、全部この背中に置いていく。
これからは、私、斎藤梨央はただの自分でいる……