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あれは、東原清吉(ひがしはら せいきち)と婚約を交わしてから五年目のことだった。 私たちが結婚の準備を進めていたその時、彼の初恋が戻っ...

Chương (1)

第1章

あれは、東原清吉(ひがしはら せいきち)と婚約を交わしてから五年目のことだった。 私たちが結婚の準備を進めていたその時、彼の初恋が戻ってきた。 それ以降、彼が私にしてくれたすべての約束は、無意味なものになった。 初恋のために、彼は私のすることなすこと全てを嫌うようになった。 あの人の前では、私は何の価値もない存在だった。 もう疲れてしまって、私は身を引く決心をした。 彼らの幸せを願い、自ら姿を消した。 清吉の人生から、完全に。 なのに――​ 彼は後悔して、泣きながら私を追いかけてきた…… 第1話 「おばあさん、決めました。清吉との婚約を解消します。お誕生日を見届けたら、北城市を去ります」 森青葉(もり あおば)がそう告げると、東原清吉(ひがしはら せいきち)のお祖母さん・東原友子(ひがしはら ともこ)は深いため息をついた。 「清吉がこの頃ひどくふらふらしていて、あなたには辛い思いをさせたわね。ここ何年ものあなたの努力、おばあさんは全部見てきたよ。 でもね、清吉の心にもあなたがいないわけじゃないと思うんだ。あの子はただ迷っているだけ。もう少し待ってみたら、きっと戻ってくるでしょう。 本当に婚約を解消するつもりなのかい?おばあさんの誕生日まであと十日あるけど、もう一度考えて?」 青葉は首を横に振り、きっぱりとした口調で言った。 「おばあさんと私の五年の約束が、もうすぐ終わります」 青葉の母が、彼女を連れて京極家という億万長者の家に嫁いだのは、七歳の時だった。​ 「厄介者」と呼ばれた青葉は、京極家の人々から冷たく扱われ、虐げられた。 母はただ「お利口にしなさい」「私の立場を理解しなさい」と繰り返すばかり。 七歳の誕生日、無理やり大量の海鮮を食べさせられ、ひどいアレルギー反応を起こした。 あのとき、友子が病院に連れて行ってくれなければ、青葉の命はなかったかもしれない。 それ以来、友子が人前で堂々と口にしてくれたおかげで、京極家での彼女の暮らしは少しだけましになった。 青葉はその恩を、ずっと忘れたことはなかった。 だからこそ、友子が孫の清吉との婚約を提案し、婚約者として彼を支え、泥沼から救ってほしいと頼まれたとき、彼女は迷わず了承した。 それは、彼女がずっと願ってきたことだった。 彼女は、清吉を愛していた。 けれども、今になってようやく気づいた。 「愛だけでは、どうにもならないこともある」と。 青葉はもう疲れ果てていた。だから、諦めることにしたのだ。 清吉が大学二年の時、初恋の三崎真琴(みさき まこと)が突然、何の前触れもなく姿を消した。 戸籍も抹消され、まるでこの世からいなくなったように。 清吉は受け入れられず、あらゆる手段を使って真琴を捜し続けた。 だが、真琴は煙のように消え、どこにもいなかった。 ついには心が壊れかけ、精神も不安定になった。 独り息子が狂っていくのを見ていられなかった東原家は、友子が青葉にこう頼んだ。 「お願い、清吉を助けてやって。婚約して、彼を泥沼から引き上げてあげて。一生を犠牲にしろとは言わん。たった五年でいい。 五年経ったら、清吉の状態がどうであれ、婚約解消したいなら、おばあさんは必ず応援する。 これまでのばあさんの世話への恩返しだと思って、頼めないか?」 青葉は一切の迷いなく、承諾した。 それほどまでに、清吉という人を深く、愛していたのだ。 京極家に入ったばかりの頃、継兄の京極久人(きょうぎょく ひさと)に犬と餌を奪い合えと命じられたとき、止めてくれたのは彼だった。彼がかばってくれた。 学校で「捨て子」と嘲られたとき、真っ先に立ち上がってくれたのも彼だった。「森青葉はこの俺が守る」と、皆の前で言ってくれた。 母でさえ忘れていた彼女の誕生日を覚えていて、ケーキとプレゼントを用意してくれた。 彼に恋をしたのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。 犬小屋から救い出してくれたその日から、彼は彼女の世界でただ一つの光になった。 婚約してからは、彼を宝物のように扱い、心を尽くして支えた。言葉ひとつ、態度ひとつにも気を配り、まるで壊れ物のように大事にした。 彼がやりたいことがあれば、いつだって無条件で背中を押した。 本来ならパソコンに向かいコードを書くのが得意なはずなのに、彼のため、東原家の意向に従い、ビジネスを学び、会社を管理した。 世間では「金目当てのしたたかな女」「ただの厄介者」と罵られていたが、そんな評価もどうでもよかった。 婚約二年目、彼は徐々に回復し、真琴に似たインフルエンサーと付き合い始めた。どこへ行くにも一緒だった。 その子に夢中になった彼は、父に資金支援を頼んで断られると、青葉のもとに来た。 青葉は何の疑いもなく支援した。 「森青葉は彼氏に浮気されても平気」――そんな嘲笑が街中を駆け巡った。 それでも、青葉は信じていた。「いつか彼は自分の真心に気づいてくれる」と。 清吉は結局、そのインフルエンサーとも別れ、「ようやく自分の本心が分かった。これからは、目の前の君を大事にする」と青葉に誓った。 青葉は心から喜んだ。ようやく努力が報われたと思った。自分こそが世界一幸せな人間だと信じた。 ……あの日、真琴が突然、姿を現すまでは。 それ以来、清吉は変わった。 彼は真琴とともに、北城の町を朝から晩まで歩き回った。 彼女と旅行にも行き、青葉には一言の断りもなかった。 青葉が連絡しなければ、十日も半月も何の音沙汰もなかった。 電話をかければ、返ってくるのは苛立ちと叱責ばかり。 青葉はようやく理解した。 これまでの自分の想いは、ただの笑い話だったのだと。 いくら長く寄り添っても、初恋が一度微笑むだけで、すべては無意味になる。 だから彼女は、身を引くことを選んだ。 彼らの幸せを、願うことにしたのだ。 第2話 友子に別れを告げた後、青葉は車を運転して帰宅した。 玄関を開けた瞬間、リビングから聞こえてきたのは―― 絡み合う息づかいと、抑えきれない甘い声。 彼女の全身が硬直したが、どうしても足を止めることができず、リビングへと歩を進めた。 ソファの上では、男女が抱き合い、夢中でキスを交わしていた。 そのうちの一人は、彼女の婚約者・清吉だった。 青葉はその場に硬直したまま立ち尽くし、胸の奥に鋭い痛みを感じた。 真琴は笑いながら言った。 「あなたの家でイチャイチャするのって、なかなかスリルがあるわ。でも、彼女が怒るんじゃない?」 清吉は真琴を抱き寄せ、だるそうに答えた。 「これくらい、何でもないさ。彼女がどれだけ俺のことを愛してるか、君は知ってるんだろ? もっと親密なことをしたって、絶対に怒らないよ」 青葉は、胸に大きな穴が開いたかのように感じ、その隙間から冷たい風が吹き抜けていく気がした。 彼女は自嘲気味に微笑んだ。 彼を愛しているからって、こんなふうに好き勝手に傷つけていいの? 怒らないわけじゃない、ただ彼に怒ることができなかっただけ。 でも、自分だって人間だ。傷つけば、痛むに決まっている。 青葉は感情を抑え、わざと足音を立ててリビングに入っていった。 ソファの二人は彼女を見ても、なお抱き合ったままだった。 清吉は当然のように命じた。 「真琴が酒を飲んだんだ。酔い覚ましのスープを作ってきて」 青葉は耐えながら答えた。 「私たちは婚約してるわ。あなたが他の女性とこうしている姿が広まれば、東原グループの評判に影響が出るし、おばあさんたちにも説明がつかない」 ところが、清吉は突然激怒した。 「おばあさんや両親を盾にして、俺にプレッシャーをかけるな! そもそも、あいつらが無理やり押し付けなきゃ、俺はお前と婚約なんかしなかった! 俺はずっと真琴の帰りを待ってたんだ!」 青葉は心臓を何かに強く握り潰されたような感覚に襲われ、痛みに思わず胸を押さえた。 清吉は苛立った声で言った。 「お前は元気だろ?演技はもういい、さっさとスープを作ってこい。何度も言わせるな」 青葉は心の中で皮肉な笑みを浮かべ、黙って背を向け、キッチンへ向かった。 真琴が姿を消してから、清吉は酒に溺れるようになった。 彼女はわざわざ料理人から、胃にやさしい酔い覚ましスープの作り方を学び、できあがったスープを彼に飲ませ続けてきた。 彼がどれだけ酒を飲んでも、その分スープを作り続け、腕前はプロの料理人よりも上達した。 かつて彼があのインフルエンサーを追い出したとき、「もう君に酔い覚ましスープを作らせることはない」と約束したこともあった。 なのに今、そのスープを真琴のために作れと命じた。 あと数日で、すべてが終わる。 青葉は、リビングから聞こえる声を聞こえないふりをして、すぐにスープを作り、椀によそって持ち出そうとした。 すると背後から、真琴的な声が響いた。 「まさか本気で、私があんたの作ったものを飲むと思ったわけ?」 青葉が振り向くと、真琴が挑発的な表情を浮かべていた。 彼女がまだ何も言わないうちに、真琴は大股で近づき、スープの碗を奪い取ると、自分の体にぶちまけた。 碗は床に落ち、粉々に割れた。 彼女はわざと叫び、苦しそうな顔をした。 次の瞬間、清吉が飛び込んできた。 「どうした?」 真琴の体についたスープと、床に散らばった碗の破片を見た彼は、考える間もなく怒鳴った。 「作りたくないなら作るな、なんで真琴にスープをぶちまけるんだ? 森青葉、お前がこんな悪意のある女だったなんて、思いもしなかった!」 彼は一度も振り返ることなく、真琴を支えて着替えに連れて行った。 真琴は言った。 「清吉くん、彼女は一応あなたの婚約者なんだから、私を快く思わなくても当然よ。そんなに怒らないで」 清吉はますます怒りを募らせた。 「婚約したときから、俺が愛してるのは君だって彼女は知ってた。あいつは、君に腹を立てる資格があるっていうんだ?」 青葉は無表情のまま、キッチンの荒れた光景を見つめながら、二人が階段を上っていく音を聞いていた。 そして心の中で思った。 おばあさんは見誤った。清吉の心の中に、自分は一度たりとも存在したことがなかったのだ。 真琴が戻ってきたその日に、賢く身を引くべきだった。ここに残って、彼の嫌悪を買うべきじゃなかった。 でも、今からでも遅くはない。 おばあさんの誕生日が終わったら、彼女はこの北城を完全に去る。もう二度と戻ることはない。 第3話 青葉は台所の片付けを終えると、二階へ上がって少し寝ようと思った。 自室のドアを開けると、そこには彼女のパジャマを着た真琴がベッドに寝そべっており、清吉がそばに座って薬を塗っていた。 青葉が入ってくるのを見ると、清吉は当然のように命じた。 「客間で寝ろ」 青葉はかすれた声で言った。 「ここは私の部屋」 清吉は冷たく言い放った。 「真琴は一番いい部屋に泊まるべきだ。熱々のスープをぶっかけたんだ。ちゃんと謝罪しろ。それくらいの譲歩は当然だろ」 彼はすでに、彼女の罪を決めつけていた。 青葉は苦笑した。 「じゃあ、私の服を彼女に着せるのも謝罪なの?」 清吉は苛立ちを隠そうともせず言い返した。 「そのパジャマは元々俺が買ったものだ!たかが服一着でガタガタ言うなよ。お前、真琴を家から追い出したくて仕方ないってわけか?」 彼は冷笑を浮かべた。 「俺はあえて彼女をここに住まわせるぞ。ずっと、毎日な」 真琴が彼の袖を引いた。 「そんな言い方、やめて」 清吉は優しく答えた。 「気にするな。こいつには少し痛い目見せた方がいいんだ」 青葉は、真琴の隣に身を寄せる清吉の姿を見つめ、その光景が胸に深く突き刺さるのを感じた。 だが、この時の彼女はあまりにも疲れ切っていて、もう何も言いたくなかった。 「青葉、聞こえてんのか?」 彼女は虚ろな目でうなずいた。 「ええ」 清吉は意外そうに言った。 「なんて言った?」 「着替えを取りに行く」 彼女は淡々と答え、クローゼットに向かった。 その後を追って入ってきた清吉は、どこかぎこちない口調で言った。 「真琴は客なんだ。それに、そもそもスープをかけたお前が悪いんだろ」 青葉は何も言わず、静かに「うん」とだけ答えた。 清吉は急に逆上した。 「ふてくされてるのか?俺が一番ムカつくのは、その死にそうな目で慰め待ちの態度なんだよ!」 彼は吐き捨てるように言って部屋を出ていき、真琴の隣で何の遠慮もなく大声で喋り始めた。 「明日はどこ行こうか?学校にでも行ってみる?もう五年経ったけど、昔飼ってたあの野良猫、まだいるかな」 荷物をまとめた青葉が部屋を出ようとしたとき、ガラスのショーケースの中に青いサファイアのイヤリングが見えた。 それは、あのインフルエンサーを追い出した後、彼が誕生日に贈ってくれたものだった。 彼はその時、「もう二度と君を悲しませない」と約束した。もし約束を忘れたら、このイヤリングを見せてくれ、必ず反省するから、と。 しかし真琴が戻ってきてから、その約束は何度も破られた。 今さらこのイヤリングを見せたところで、彼にとっては何の意味もないのだろう。 青葉はイヤリングを掌に収め、寝室の前を通ったとき、真琴が清吉に顔を寄せて耳元で囁き、手を肩に置き、まるでキスしているかのような姿が見えた。 その光景に胸が痛んだが、彼女は静かに通り過ぎた。 イヤリングをゴミ箱に捨て、何も言わず客間へと向かった。 第4話 朝早く、青葉は会社に行く準備のために早めに起きた。 隣の客間の前を通りかかると、ドアが半開きになっており、中から清吉のうわ言のような声が聞こえた。「青葉……」 反射的にドアを開けると、ベッドに横たわる彼が、意識が朦朧としたまま彼女の名前を呼んでいた。 真琴を探し回って苦労したせいで、彼の体調はその頃からずっと良くなく、病気になりやすくなっていた。 近づいて額に触れると、やはり少し熱があるようだった。 薬を取りに行こうと身を引こうとしたその瞬間、清吉は意識を取り戻した。 「森青葉?何する気だ?」 その目に浮かんだ警戒と猜疑が、刃のように彼女の心を刺し貫いた。 その瞬間、自分自身が憎くなった。どうしてまだ、彼に名前を呼ばれただけで、胸が高鳴るのか。 こんなにも心を差し出したのだから、踏みつけられて痛むのも、自業自得だ。 彼女は目を閉じて、静かに言った。 「熱があるわ。薬を飲んで」 そう言って背を向け、客間を出ると、そのまま家を飛び出して会社へと車を走らせた。 途中で、清吉から電話がかかってきた。 「森青葉、どこ行ったんだ?家のどこに薬があるかも分からないのに、俺を置いて出ていくだと?」 彼女は淡々と返した。 「薬は一階の収納庫の救急箱の中よ。会社に用があるの。三崎さんに看てもらえば、私よりよほど満足でしょ」 清吉は冷笑を返した。 「それで俺を脅すつもりか?仮に真琴がいなくても、家政婦の方がお前よりよっぽど役に立つ!」 「そうね」と、彼女は静かに答えて電話を切った。 その日、青葉は会社で忙しく働き、会議が終わって部屋を出ると、秘書が言いたげにこちらを見ていた。 「どうかしたの?」 秘書は躊躇いがちに言った。 「社長……会議中に、東原さんと三崎さんがオークションに出向いて、『誠実のココロ』という高額の宝石を落札し、その場で三崎さんに贈ったとのことです。 ネット上で非常に話題になっていて、社長と会社のイメージに影響が出ております。東原さん関連の件は、すべて社長に報告するよう言われていましたので……」 すでに気持ちは冷めきっているはずなのに、胸の奥が鈍く痛んだ。 しばらく沈黙してから、彼女は言った。 「今後この手の案件は、広報部に任せて」 一瞬驚いた秘書は、すぐに同情の色を目に宿し、簡潔に返事をして部屋を出ていった。 あと半月でこの会社を離れる——青葉は、すべてをきっちり片づけようとしていた。 友子おばあさんには恩がある。どんなことがあっても、東原グループをきちんと整えてから出て行くつもりだった。 その夜も遅くまで残業し、帰宅すると、ちょうど継妹・京極明香里(きょうぎょく あかり)と鉢合わせた。 彼女は青葉を見るなり、勝ち誇ったように大声で笑った。 「厄介者、ニュース見た?今日、東原さんが三崎さんに『愛』を象徴する宝石を贈ったんだって!捨てられた気分はどう?結局なにも残らなかったわね」 青葉には理解できなかった。 母と一緒に京極家に来てから、母は彼女の存在をひた隠しにし、全寮制の学校に入れ、京極家の前では一切触れようとしなかった。 彼女は京極家では、存在しない人間だった。 明香里兄妹にとって脅威になることもなかったし、何かを求めたこともなかった。 なのに、なぜ彼らはいつも敵意を向けてくるのか。 京極家に来たばかりの頃から、数々のいじめと陰湿な仕打ち。そして今や、面と向かって悪意をぶつけてくる。 かつて彼女は、抵抗したこともあった。 その結果は、母の平手打ちと失望のまなざしだった。 「母さんがあんたを連れて嫁いだことがどれだけ大変だったか分かってる?どうして久人や明香里に手を出すの!」 その時に悟ったのだ。寄人の身である自分には、反撃する資格などないのだと。 それから十数年、黙って耐え続けてきた。 だが今、家を出る日が近づく中で、ふと、もう我慢したくないと思った。 「江口家の御曹司を手に入れた?」 青葉が冷たい口調で尋ねると、明香里の目が一瞬にして鋭くなった。 「死にたいか?」 彼女は手を振り上げて青葉を殴ろうとした。 しかし、青葉は身をかわし、その手首を掴むと、素早く平手を打ち返した。 明香里は激怒し、「このクズ女が、よくも私を……!」と叫びながら手足で攻撃してきたが、彼女は甘やかされて育った深窓の令嬢。喧嘩などできるはずもない。 一方の青葉は、昔から自己管理を怠らず、会社に入ってからもジム通いを続けていた。 本気になった青葉の前では、明香里は防戦一方になり、頭を抱えて悲鳴を上げるしかなかった。 青葉はさらに打とうとした。 そのとき、背後から車のヘッドライトが照らされた。 清吉と真琴が帰ってきたのだった。 「どうした?」 明香里はすぐに立ち上がり、顔の腫れを指差して清吉に訴えた。 「帰ってきたら森さんと鉢合わせて、三崎さんが戻ってきたって言っただけなのに、いきなり逆上して殴られたの!」 青葉が口を開こうとした瞬間、頬に強い痛みが走った。 清吉の手が振り下ろされたのだった。 彼は冷たい目で彼女を見つめながら言った。 「森青葉……俺が一番嫌いなのは、感情を爆発させて周りを巻き込む女だ」 第5話 青葉は静かに目を伏せた。 不思議と、悲しくはなかった。 ただ、幼い頃、明香里に濡れ衣を着せられて母に叩かれた時のことを思い出していた。 そのとき、清吉だけは彼女の前に立ちふさがり、「青葉ちゃんが人を叩くなんてありえない!彼女は本当にいい子なんだ!」と、無条件に信じてくれた。 でも今の彼は……その信頼すら、もう持っていない。 清吉は、なぜか一瞬だけ胸騒ぎを覚えた。 その違和感を振り払うように、青葉を見据えて言った。 「謝れ」 青葉は無駄な抵抗をせず、明香里の方を向いて言った。 「ごめんなさい。叩いたのは私が悪かった」 明香里は清吉に背を向けながら、嘲るような笑みを浮かべた。口ではこう言った。 「じゃあ、私に二発叩かせて。それでチャラにしてあげる」 彼女も清吉も、青葉が応じるはずがないと思っていた。 だが、彼女は俯いたまま、静かに答えた。 「わかった」 清吉は、さらに不安を覚えた。 この制御不能な感情が嫌でたまらず、真琴の手を取って言った。 「外は寒いから、早く中に入ろう」 彼は真琴と手をつないで別荘の中へ入っていった。 明香里は一歩前に出て、拳で青葉の腹を五発、容赦なく殴りつけた。 青葉はうめき声を漏らし、顔色が真っ青になった。 「これで満足?」 明香里は高らかに笑った。 「いいわ!可哀想だから、もういいや。三崎さんはもうこの家の主役よ。あんたが追い出されるのも時間の問題ね。 所詮ただの犬じゃない。要らないと思ったらいつでも蹴り飛ばせる存在なんだから!」 彼女は笑いながら去っていった。 青葉は殴られた衝撃で胃痛が再発し、激しい痛みに耐えながら薬を飲み、手早くシャワーを浴びてベッドに入った。 夜中、痛みで目が覚めた彼女は、血を吐いてしまった。 意識が朦朧としながらも医者に電話をかけ、病院へ行こうとした。 客間から出ると、主寝室のドアが少し開いており、明かりが漏れていた。 そして聞こえてきたのは、男女の親密な声―― 真琴が家に住むようになった時、青葉はある程度覚悟していた。 でも、現実を目の当たりにしたその瞬間。 身体の痛みと心の痛み、どちらが勝っているのか、自分でも分からなかった。 一階へ降りるには、どうしても主寝室の前を通らねばならない。 唇を噛み締め、血がにじむほど噛んで、彼女はゆっくりと通り過ぎた。 中から真琴のかすれた声が聞こえる。 「……たぶん、森さんがドアの前にいる……」 清吉の声は欲望を抑えきれない調子で響いた。 「頭おかしいんじゃないの?気にすんな。真琴、君が欲しい……」 痛みの極みに至ると、不思議と感覚は麻痺するものだ。 青葉は早足で主寝室の前を通り過ぎ、車に乗って病院へ向かった。 胃からの出血がひどく、即入院となった。 医者からは付き添いを呼ぶように言われたが、彼女はスマホを手にしても、誰に電話すればいいのか分からなかった。 婚約を決めた時、母は彼女が京極家に対抗するためだと思い、婚約を解消しなさいと言った彼女に、耳も貸さなかった。 それ以来、母はまるで青葉が存在しないかのように振る舞っている。 清吉…… 以前なら、電話をすればすぐに来てくれただろう。 でも、もうすべてが変わってしまった。 結局、青葉は会社のアシスタントに五倍の残業料を払って付き添いを頼んだ。 薬が効いて、ようやく眠りについた青葉。 だが、スマホのバイブ音に何度も起こされる。 着信表示には「東原清吉」の名前があった。 通話ボタンを押すと、まず真琴のややかすれた声が聞こえてきた。 「清吉くん、落ち着いて……怒らないで。森さんも、あなたのことが好きすぎるだけなのよ……」 その直後、清吉のよく慣れた、それでいて今は遠い声が、はっきりと耳に届いた。 「森青葉、貴様マジで頭おかしいんじゃないのか? 夜中に起きて盗み聞きするだけならまだしも、部屋に豚の血なんか撒いて、脅すつもりなの? もう一度でもこんな手を使ったら……今すぐ出て行け!」 第6話 青葉は自嘲気味に笑い、落ち着いた口調で言った。 「それは豚の血なんかじゃないわ」 清吉は一瞬沈黙したあと、罵るように言った。 「まだやる気か?家政婦の牛島が言ってたぞ、あれは確かに豚の血だって。 毎日料理してる人間が間違えるわけないだろ? 俺は鍵を替える。もう戻ってくるな、好きにしろ」 青葉が制止した。 「待って」 「今さら謝ったって遅いんだよ……」と清吉が言いかけたところで、青葉が初めて彼の言葉を遮った。 「今日、私の荷物を取りに帰るわ。鍵は替えなくていい。もう戻らないから」 再び沈黙が落ち、やがて彼は冷たく笑った。 「一日だけ猶予をやる」 そう言って電話を切った。 傍にいたアシスタントが慌てて言った。 「社長、今は病状が重くて退院できません。私が代わりに荷物を取りに行きましょうか?」 青葉は首を横に振った。 「私がどれを持ち帰るか、あなたにはわからないわ」 正確に言えば、「どれを処分すべきか」だった。 彼女は点滴を抜き、自宅に戻るとすべての私物を整理し始めた。 燃やせるものは燃やし、燃やせないもの――誕生日にもらった髪留め、婚約記念日に贈られたペンダント…… そしてここ数年、清吉が贈ってくれたブレスレットや腕輪、ブランド品の数々。 それらをすべて丁寧に梱包した。 最後は彼女が清吉に贈った品々。 彼は何かと物をなくしがちだった。 だから同棲後は大事な物も彼女に預けていたのだ。 彼女が手間をかけて作った思い出のアルバム、数年かけて貯めたお金で買った腕時計、自ら作った陶器のカップ…… それらもすべて箱に詰めた。 すべてを片づけ終えると、この五年間暮らしてきた家には、彼女の痕跡が一つも残っていなかった。 荷物を持って家を出ると、道端にいたホームレスに、それまで彼女にとって何よりも大切だった「思い出」をそっくり手渡した。 彼女は再び病院に戻るため車を走らせようとした。 そのとき、一本の電話が入った。 「森様、ご注文いただいたペアリングが完成しました。ご来店いただけますか?それともご自宅へお届けしましょうか?」 青葉と清吉は、今年結婚する予定だった。 彼女は待ちきれずにデザイナーと相談し、海外の職人に依頼してオーダーメイドのリングを作らせた。 けれどそのリングが完成する前に、真琴が戻ってきた。 「意味のない指輪に、わざわざ配達してもらう必要なんてないわ」 そう思い、彼女は自ら店に取りに行った。 リングを受け取り、病院に向かって夜道を走っていると―― 空に花火が次々と打ち上がり、道行く人々の足を止めた。 通りすがりの商業ビルの巨大スクリーンに、清吉の顔が映し出された。 彼は赤いベルベットの指輪ケースを両手で開き、情熱的に語りかけた。 「真琴、神様の悪戯で、俺たちは長い間引き裂かれていた。でもようやく再会できた。 今夜、君のためにこの街に花火を打ち上げた。 この指輪を受け取って、俺にもう一度チャンスをくれないか? 君がAS社の特許を欲しいのは知ってる。 必ず手に入れてみせる。そのとき、一つだけお願いを聞いてくれないか?」 群衆がそのロマンチックな演出に歓声を上げた。 ――AS社、それは彼女が二年前に立ち上げた会社だ。 以前なら、清吉が望むものなら、彼女は何でも差し出しただろう。 けれど今は…… 青葉は、皮肉めいた笑みを浮かべた。 車が橋に差しかかったとき――彼女は手にしていた、心血を注いで作らせた指輪を思い切り川に投げ捨てた。 もう北城を去るのだ。 そして、清吉の人生からも。 第7話 青葉が病院に戻ると、ちょうど友子から電話がかかってきた。 「青葉、清吉は今回やりすぎだよ!さっき電話でガツンと言ってやったからね!気にしないでね」 青葉の心には何の波風も立たなかった。逆に落ち着いた声で彼女を慰めた。 「大丈夫ですよ、おばあさん。彼が三崎さんを愛していることは、私たちみんな知っていましたから」 「まったく、あの子は本当に馬鹿だよ。私の言うことを聞かないんだから。きっといつか後悔するよ」 青葉は返事をしなかった。 「もうすぐ私の誕生日だけど、来てくれる?」 「もちろんです。お祝いが終わったら、約束通り北城を離れます」 「私の誕生日の次の日は清吉の誕生日でしょ?毎年あなたがそばにいてお祝いしてくれてたのに……」 青葉は静かに言った。 「今は彼に、誕生日を一緒に過ごしたい相手がいます。私なんて歓迎されませんよ。おばあさん、私たちはもう、互いに選んだんです。もういいじゃないですか」 その瞬間から、友子はもう清吉の名前を口にしなくなった。 彼女はそれ以上何も言わず、電話を切った。 電話が切れる直前、「あの子、きっと後悔する」と嘆く声だけが聞こえてきた。 清吉が本当に後悔するかどうかは、青葉には分からない。 だが、自分は後悔しないと、はっきりと分かっていた。 退院後、青葉は黙々と身辺の整理を続けた。時間はあっという間に過ぎた。 友子の誕生日前日、青葉は東原グループのすべての業務を引き継ぎ終えた。 翌日、青葉はひとりで、友子の誕生日会に出席した。 そこには、清吉と真琴が連れだって現れた。 会場に集まったのは、ほとんどが東原家の親戚や知人、そして一部のビジネス関係者だった。 皆が、青葉と清吉の婚約を知っていた。 その前で堂々と真琴を連れて現れ、親に紹介するという行動に、会場の視線は三人に集中した。 青葉は、今日この宴が終わったら北城を去るつもりだった。だから人の視線など気にしなかった。ただ静かに振る舞った。 だが、清吉はその視線に耐えられなかった。 突然マイクを奪い取って叫んだ。 「俺は青葉との婚約を破棄する!」 友子の笑顔が、その瞬間に消えた。 清吉の父親の顔も険しくなった。 清吉は拳を握り締めた。 「ようやく真琴と再会できたんだ!誰にも邪魔させたくない!もし誰かが邪魔するなら、俺は死ぬ!」 場内の空気が凍りつき、誰もが息を呑んだ。 清吉の父は低く叱った。 「何を言ってるんだ!今日はお祖母さんの七十歳の祝いだぞ。こんな場でそんなことを言って、お祖母さんをどう思っているんだ!」 だが清吉はなおも訴えた。 「でもお祖母さん、俺は唯一の孫なんだね。俺が幸せになるのを、願ってくれてるよね? この誕生日会で、この馬鹿馬鹿しい婚約を終わらせて、俺を祝福してくれるよね?」 友子は青葉に視線を向けた。 「青葉、あなたはどう思うの?」 青葉は静かに、だがはっきりと答えた。 「彼がそう言うなら、それでいいです」 場内がざわついた。 清吉の表情が一瞬だけ揺らぎ、そして嬉しそうに言った。 「お祖母さん、聞いた?彼女も同意してるよ!」 友子は怒りを抑えながら、笑みを浮かべて言った。 「いいでしょう。私が許します。今日をもって、あなたと青葉の婚約はなかったことにしよう」 清吉は、なぜか真っ先に青葉を見た。 青葉は静かに彼に微笑んだ。それはもう、二度と交わることのない人生への、最後の祝福だった。 だが、清吉の顔が急に歪み、彼女を睨みつけると、すぐに真琴の方を向き、笑顔で話しかけた。 その後、青葉は宴会の流れに従って、贈り物を渡し、祝いのケーキを食べ、静かに会場を後にした。 空港に向かう車の中、スマホが何度も震えた。 画面を見ると、すべて清吉からのメッセージだった。 【君、わきまえてるじゃないか。今回のことは水に流してやる】 【明日は俺の誕生日パーティーだ。君も来いよ。今年は何を用意してるんだ?】 【青葉、お高く止まってんじゃねぇよ。調子に乗るな】 【さっさと返事しろ!】 青葉は少しの間、その画面を見つめたあと、何も返事をせず、すべての連絡手段をブロックした。 振り返ることなく、保安検査を通過し、遠い所へ向かう飛行機に乗り込んだ。