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君が織った、愛という名の嘘
啓介と付き合って三年目のことだった。 盛大なプロポーズが行われ、悠はまさに幸せの絶頂にいた。 ……そのはずだった。 けれど――思いがけ...
Chương (1)
第1章
啓介と付き合って三年目のことだった。
盛大なプロポーズが行われ、悠はまさに幸せの絶頂にいた。
……そのはずだった。
けれど――思いがけず耳にしてしまった、彼とその友人たちの会話が、すべてを壊した。
第1話
神崎啓介(かんざき けいすけ)と付き合って三年目のことだった。
盛大なプロポーズが行われ、悠はまさに幸せの絶頂にいた。
……そのはずだった。
けれど――
思いがけず耳にしてしまった、彼とその友人たちの会話が、すべてを壊した。
「啓介さん、まさか本当にあの女と結婚するつもりっすか?」
「ありえねーだろ。あいつなんて、真雪(まゆき)に許してもらうためのただの道具だよ」
その言葉に、朝霧悠(あさぎり ゆう)の心臓はぎゅっと締めつけられた。
握っていたドアノブの手が、細かく震えはじめる。
中では、ソファにだらしなく腰掛けた啓介がスマホをいじりながら、ニヤリと笑っていた。
否定の言葉は……どこにもなかった。
「どういうこと?」
別の男が興味津々に口を挟む。どうやら事情は知らない様子だった。
「お前ら知らねえの?あれだよ、真雪と啓介さんがケンカ別れしたときの話。真雪が啓介さんに言ったんだ。悠を99回傷つけたら、戻ってやるってな」
「ってことは、今ので何回目?」
「最初はさ、あいつの親の形見がなくなったってウソついて、冬の屋外プールに飛び込ませたんだ。あのバカ、8時間も探して、挙げ句の果てに一週間も高熱で寝込んでやんの。
27回目は、わざと絵をダメにしたやつな。卒業危なくなるくらい大事な作品だったのに、あいつ泣きもせずに啓介さんを慰めてんの。マジ、笑える。
92回目は、車に轢かせようとしたのを庇って、本人がICU行きだっけ?半月も昏睡してて、手もやられて、もう絵は一生ムリらしいぜ」
「っははは!ざまぁねーな、真雪さんに楯突くからそうなるんだよ、バーカ!」
全員が笑い声に包まれる中、さっきの男がふと思い出したように顔を上げ、啓介の方を見てニヤリとした。
「そうだ啓介さん、最後の一撃、俺めっちゃいい案思いついた。結婚式で薬盛ってさ、スクリーンでライブ配信しちゃうの。盛り上がること間違いなしっしょ?」
その瞬間、グラスを揺らしていた啓介の手がピタリと止まり、顔にうっすらと影が落ちた。
「えっ、まさか……啓介さん、情が移ったとか言わないでくださいよ?真雪さんにどう約束したか忘れてないっすよね?まだ許してもらいたいんじゃなかったっすか?」
すぐに反応しなかった啓介の様子に、男はちょっと驚いたように振り返る。
「ありえねーだろ。どうやったら完璧にやれるか考えてただけだよ」
そして、綾瀬真雪(あやせ まゆき)という名前が出た瞬間――
彼の顔にあったわずかな躊躇は消え去り、冷たい無表情へと変わった。
悠は――
背中を壁に押しつけたまま、身体中が震えていた。
冷たい壁に触れた背中の感触が、心臓の痛みに拍車をかける。
勝手に流れる涙を止めることができない。
胸の奥が重たくて、息ができない。
押し寄せる絶望に、全身が呑み込まれていく。
そのとき、部屋の中の足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。
悠は震える身体をなんとか起こし、ふらつく足でドアの外へと逃げ出した。
ぼやけた視界の中に、彼との過去が次々と蘇ってくる――
あれは三年前のこと。
啓介が彼女の世界に現れたのは、偶然のような奇跡だった。
あの頃、彼は母校に招かれた優秀な卒業生として戻ってきた。
そして、悠はその講演を担当する学生ボランティアのひとりだった。
啓介は彼女を一目見て心を奪われ、すぐさま猛烈なアプローチをかけてきたのだった。
ある祭りの夜、彼は千個を超える灯籠を空に放った。
悠を笑わせたい――その一心で。
何十億もの契約を蹴ってまで、彼は毎朝のように寮の下で朝食を持って待っていた。
彼女が温かい朝ごはんを食べられるようにと。
彼女の名前を、心臓の真上にタトゥーで刻んだときもそうだった。
家からどんなに怒られようと、彼は一切の後悔を口にしなかった。
そして、あの出来事――
ストーカーに狙われた悠を庇って、彼は刺された。
そのとき、悠は泣きながら首を縦に振った。
命を懸けて自分を守ってくれる人なんて、両親以外にもういないと思ったから。
この三年間、彼はいつも優しくて、彼女の言うことをなんでも聞いてくれた。
たとえ時々、何かに巻き込まれて傷つくことがあっても――
「きっと啓介が悪いわけじゃない。ただの偶然」
そう信じていた。
でも――
世の中にそんなに都合のいい「偶然」なんて、あるわけなかった。
全部、真雪のためだったんだ。
悠は最初から最後まで、ただの道具だった。
……そう気づいた瞬間、涙がまた頬を伝った。
けれど、今度は拭いながら、迷いのない手でスマホを取り出す。
そして、ある番号へと電話をかけた。
「先生。前に言ってた留学の件、受けます」
電話の向こうの声が一気に明るくなる。
「本当か?やっぱり君みたいな逸材が、このチャンスを逃すなんてありえないと思ってたよ!じゃあ、さっそく君の名前を申請リストに載せておくね。出発は……半月後だが、大丈夫かい?」
「はい。問題ありません」
第2話
「何が『問題ありません』って。誰と電話してた?」
電話を切った瞬間、背後から穏やかな声が響いた。
次の瞬間、涼やかな香りのする上着が、そっと悠の肩にかけられる。
……啓介だった。
いつものように優しく、いつものように完璧な恋人のふりをして――
今日の会話を聞いていなければ、悠はきっとまたその優しさにすがっていたかもしれない。
「なんでもないよ……有希奈(ゆきな)に呼び出されて。ちょっと買い物でもって」
無理やり笑みを浮かべて、ありふれた嘘でごまかす。
啓介は特に疑う様子も見せず、黙って彼女の上着をもう一度整えた。
――そして、帰宅。
啓介がバスルームに入ってシャワーの音が響くと、悠は固く唇を噛み締めながら、ベッドサイドに置かれた彼のスマホに手を伸ばした。
啓介は、彼女にはまったく警戒心を持っていなかった。
だから、ロックも何もかけずに使わせていた。
画面を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは――どうやって薬を盛り、人を使って自分を辱めるかを話し合うグループチャットが映っていた。
悠の心臓が、ぎゅっと握り潰されるような痛みに襲われた。
呼吸が浅くなり、指先が震え、必死にそれらのメッセージを自分の端末に転送する。
……そのとき、ふと目に入ったのがひとつの暗号フォルダだった。
Aphrodite――
ギリシャ神話の愛と美の女神の名前。
恐る恐るパスワード入力欄に「真雪」と打ち込むと、フォルダはあっさりと開いた。
そこには、数えきれないほどの真雪の写真が並んでいた。
その一枚一枚に、日付と甘ったるい愛の言葉が添えられていた。
三年前、啓介と出会ったあの日。
「真雪のためなら、嫌いな女に近づくことだってできる」
ナイフで刺された日。
「真雪、演技は成功。やっとあいつが付き合ってくれた。痛かったけど、君の望みなら嬉しいよ」
今日、プロポーズのパーティーの日。
「やっと99回目だよ、真雪。早く会いたい」
シャワーの水音が止まった。
現実に引き戻された悠は、慌ててスマホを元の場所に戻し、目を閉じて寝たふりをした。
啓介は何も気づかず、いつものようにベッドに入り、彼女を抱きしめようとした。
……けれど、悠はさりげなくその腕をかわした。
彼の寝息が静かに響く中、悠の唇から血がにじんでいた。
どれだけ歯を食いしばっても、目尻から流れる涙だけは止められなかった。
そして枕は、静かに濡れていった。
翌朝、目を覚ましたときには、啓介はすでに朝食を作り終えていた。
悠は重度の胃病を抱えており、食事を抜くとすぐに痛みが出る。
そのため、彼は慣れない料理を覚え、毎日朝ごはんを用意していた。
以前の彼女なら、それを「愛」の証だと思っていたかもしれない。
けれど今となっては――ただ、自分の愚かさを笑うしかなかった。
まさか啓介が、真雪のためにそこまでするとは思ってもいなかった。
スマホをいじりながら無邪気に笑う啓介を見て、悠はただ一つ感じた。
――このお粥、なんて苦い。
朝食のあと、啓介は「同窓会がある」と言い、悠を連れて出かけた。
個室のドアを開けた瞬間――
彼は何かを見て目を輝かせ、彼女の腰に回した腕を自然と緩めた。
悠も、すぐにその理由が分かった。
そこにいたのは、真雪だった。
名のとおり、白いワンピースを纏い、柳のようにしなやかなその姿は、まるで可憐な白い花のようだった。
彼女は笑顔で立ち上がり、啓介に熱烈なハグをしたかと思えば、両頬に軽くキスを落とした。
そのあと、悠を見て挑発的に微笑む。
「ごめんね。海外生活が長くてね、こっちの『挨拶』はつい慣れちゃってるの。気にしないでくれる?」
啓介の頬に残った濃い口紅の跡が、悠の目に鋭く突き刺さった。
両手は無意識に拳を握りしめていた。
それでも、悠は静かに微笑んだ。
「平気。気にしてないよ」
その後も、啓介はまるで何かを取り繕うように、彼女の皿に好きな料理を次々と取り分けた。
ただ、その視線だけは――
何度も、無意識のように真雪の方へと向けられていた。
真雪の好きな料理は、何故かいつも一番に彼女の前に置かれていく。
食事も半ばに差し掛かったころ、誰かが「ゲームでもしよう」と言い出した。
運悪く、最初に罰ゲームを引いたのは真雪だった。
皆が彼女のグラスにお酒を注ごうとしたそのとき――
啓介が手を伸ばし、酒杯を止めた。
「もういいよ。真雪の分は俺が飲む」
「さっすが啓介さん。昔から変わんないっすね……その、優しさが」
言いかけた男は、啓介に肘鉄をくらい、慌てて口をつぐむ。
その様子を見ても、悠は何も言わなかった。
むしろ、俯いたまま、ただ黙っていた。
その姿に、啓介は少しばかりの不安を覚えたのか、そっと耳元で囁く。
「悠、真雪は体が弱くて、酒には本当に弱いんだ……知ってるだろ、俺、元クラス委員長だったからさ。同級生を助けるのは当然なんだよ」
それが言い訳になっているとでも思っているのだろうか。
けれどその後も、真雪の不運は続いた。
ゲームで何度も罰を引き当て、そのたびに啓介が代わりに酒を飲み干していく。
やがて、彼の顔はほんのり赤くなり、少しずつ意識が朦朧としてきた頃――
誰かがふざけて声を上げた。
「啓介さん、『この人生で一番愛した人』って、まさかこの中にいるとか?」
「もちろん」
啓介は、何の迷いもなく答えた。
けれど、その視線は――真雪に釘付けのままだった。
その熱を帯びたまなざしに、真雪は頬を染め、視線を逸らす。
微笑むその様子は、まさに恋人同士そのもの。
……その光景に、悠の呼吸が止まる。
胸に、重たい何かがのしかかるような苦しさ。
席を立ち、適当な理由を口にして部屋を出た。
深呼吸をして、何とか気持ちを落ち着け、戻ろうとしたその時――
背後から突然、腕が彼女の身体を引き寄せた。
酒の匂いを纏った男が、首筋に顔を埋める。
「真雪……会いたかったよ……」
第3話
悠の身体が一瞬で硬直した。
でも、背後の男は気づく様子もなく、一人で勝手に語り続ける。
「久しぶりだな、こうやって抱きしめるの。真雪……知らないだろ?この三年間、どれだけ辛かったか。毎日、愛してもいない顔を見て過ごすのが、どんなに苦痛だったか」
その一言一言が、悠の心に鋭く突き刺さる。
まるで刃物で刻まれるように、心が血まみれになっていく。
「でももう大丈夫。もうすぐ、君はまた俺のもとに戻ってくるから……見てくれよ、これ。三年間、俺が少しずつデザインして作った指輪なんだ。ずっと、君の指につける日を夢見てた」
そう言って啓介は、懐から小さな箱を取り出した。
まるで自慢するように、それを悠の目の前でパカッと開く。
中には、宝石がちりばめられたまばゆいばかりの指輪。
暗闇の中でも、まるで星のように輝いていた。
そして、悠の目はその指輪に刻まれた文字を捉える。
「K&M」
その瞬間、彼女の中で何かがぷつんと切れた。
胸の奥から、引き裂かれるような痛みが湧き上がる。
あまりの衝撃に、足元がふらつく。
彼女はこの指輪を、見たことがあった。
三年もの間、夜な夜な啓介がこのデザインを何度も何度も描き直していた姿を、隣でずっと見ていた。
そのたびに、胸をときめかせていた。
――この指輪は、きっと私のためのものなんだって。
けれど、プロポーズの日に差し出されたのは、既製品の指輪だった。
しかもサイズが合っていなかった。
それでも、悠は自分を納得させた。
「本番の式でちゃんと渡したいって思ってるんだよね」と。
でも、今――
もう、何一つ、自分を騙すことはできなかった。
――この指輪は、最初から自分のものじゃなかったんだ。
そう思った瞬間、悠の口元に苦い笑みが浮かぶ。
目の前の、あまりにも見慣れた顔を見つめながら、こみ上げる感情を押さえきれず、問いかけた。
「啓介……ちゃんと見て。今、目の前にいるのは誰?」
その一言で、啓介の酔いは一気に吹き飛んだ。
目を見開き、目の前に立つ青ざめた悠を見て、彼の動きが止まる。
視線が自然と、自分の手にある指輪の箱へと向かう。
そして、ハッとしたように顔をこわばらせる。
「ゆ、悠、さっきのはその……酔ってただけだ。だから、あれは本気じゃなくて……この指輪だって、君に渡そうと思ってたんだ」
焦ったようにまくしたてながら、何度も悠に口づけを落とし、無理やり指輪の箱を抱かせて――
そのまま、ふらついた足取りで部屋を出ていった。
去っていく彼の背中を、悠は無言で見送った。
ふと、自分の手のひらを見下ろすと、爪が食い込んでいたのか、すでに血がにじんでいた。
その血の痛みにも気づかず、悠はただ小さく、自嘲の笑みをこぼした。
――もう、いい。
その夜、悠はもう一度あの部屋には戻らず、一人でタクシーを拾って帰宅した。
それから数日間、啓介は家に戻ってこなかった。
でも悠の心は、もはや何の波も立たなかった。
静かに、留学の準備を始めた。
それと同時に、いらないものも片付けていく。
二人で撮った写真、ペアで買った服や歯ブラシコップ――
どれも、何の未練もなくゴミ袋に詰め込んだ。
そしてそれを、外のゴミ捨て場に運ぼうとしたとき――
タイミングを見計らったように、啓介が荷物を持って帰ってきた。
「……こんなに片付けて。全部捨てるのか?」
悠の周りに山のように積まれたゴミ袋を見て、啓介の顔にかすかな不安がよぎる。
そして、思わず口を開いた。
「うん、全部もう期限切れのゴミよ。捨て時だっただけ」
悠はあくまで淡々とそう言い、啓介がさらに何かを聞こうとした気配を察して、すかさず話題を変えた。
「……それより、どうして急に帰ってきたの?」
すると啓介は手に持っていた線香や供物を見せながら、少し眉をしかめた。
「忘れたのか?今日はお前の両親の命日だろ?俺、毎年お前と一緒にお墓参りしてるじゃないか」
その言葉に、悠の動きが止まる。
彼女が18歳のとき、両親と旅行に出かけた帰り道――
あの交通事故がすべてを変えた。
両親は、悠を庇って命を落とした。
その事実を知った啓介は、自ら両親を市内で最も良い墓地に改葬し、名のある僧侶に供養を依頼した。
毎年この日には、どんな予定もすべて断って、一緒に手を合わせに行ってくれた。
そんなことがあったからこそ。
悠は彼を、本気で信じてしまったのだ。
そのまま頷こうとした瞬間、啓介のスマホが鳴った。
受話器越しに、真雪の甘えた声がかすかに聞こえる。
啓介はちらりと悠を見て、表情に困った色を浮かべた。
悠はすぐに察して、先に口を開いた。
「行ってあげて。私は一人でも行けるから」
返事の代わりに、車のエンジン音が窓の外から遠ざかっていく。
悠はその音を聞きながら、ゆるく口元に笑みを浮かべた。
――皮肉なほど、静かな笑みだった。
そのあと、彼女は一人でタクシーに乗り、墓地へと向かった。
第4話
墓地で両親に語りかけたあと、悠は家へと戻った。
玄関をくぐった瞬間、目に飛び込んできたのは――
庭で婚礼の撮影をしている啓介と真雪の姿だった。
二人は寄り添い合い、カメラマンの指示に従って、いくつもの甘いポーズを取っていた。
まるで本物の恋人同士のように。
「悠!?違うんだ、誤解しないでくれ。真雪が来たのは、衣装が似合うかどうか、お前の代わりに試着するためで――」
慌てて説明に駆け寄ってきた啓介の手を、悠はさっと避けた。
「うん、分かってる。気にしてないよ。撮影を続けて」
両親の墓参りを終えたばかりで、心も体もすでに限界だった悠は、早く休みたい一心で言葉を切り上げ、そのまま階段へと向かった。
――けれど、その途中でふと視界に入った、真雪の衣装を見た瞬間、足が止まった。
そして、次の瞬間――
全身から怒りが噴き出すように、彼女は真雪のもとへと駆け出していた。
「返してよ!」
勢いよく手を伸ばし、真雪が身にまとっていた服を引き剥がそうとする。
「きゃっ!」
悲鳴を上げた真雪は、恐怖に顔を引きつらせ、必死に抵抗した。
けれど、華奢なその体で、怒りに燃える悠の力に敵うはずもない。
服はすぐに裂け、白い肩が露わになった。
それを見て、悠の目にさらなる怒りの色が灯る。
手元はさらに乱暴になり、叫ぶ。
「脱げって言ってるでしょ!」
その瞬間、啓介がようやく正気に戻ったかのように駆け寄ってきた。
そして、悠を強く突き飛ばし、震える真雪を守るようにその背後に立った。
「悠!お前、正気か!?完全に頭おかしいぞ!」
その一撃には、迷いも加減もなかった。
不意を突かれた悠は、まともに地面に叩きつけられる。
膝と手のひらに、激しい痛みが走った。
なんとか立ち上がろうとしたその時、足首に鋭い痛みが走り、動けなくなる。
彼女はその場に座り込んだまま、顔を赤く染め、真雪の服を睨みつけて、怒声をあげた。
「その服、返して!」
悠の怒りが止まらない中、なおも反省の色を見せない彼女に、啓介はついに堪忍袋の緒を切った。
怒りに震える笑みを浮かべたその瞬間――
彼は迷わず手を振り上げ、彼女の頬を打った。
乾いた音が響き、悠の視界が一瞬揺れる。
強すぎる衝撃に、頬はすぐに感覚を失い、唇の端からは血が滲み出す。
耳もジンジンと鳴り続けていた。
「いい加減にしろ、悠!お前、なんて性格してるんだ。真雪はお前のために、ただ衣装を試着してくれてただけなのに――それを人前で引き裂くなんて、どうかしてるぞ!」
悠はゆっくりと、打たれた方の顔を元に戻し、目を見開いたまま啓介を見つめ返す。
その目には、悲しみと怒りが入り混じっていた。
「啓介……あれは、私の母が残してくれた嫁入り衣装よ。
何年もかけて、一針一針、心を込めて縫ってくれたの。それを、なんであの女に着せるのよ……!」
その言葉に、啓介は明らかに怯えたように一歩、また一歩と後ずさる。
口を開こうとするも、何も言えない。
「……ごめんなさい、啓介。私が悪いの。すぐに脱いで彼女に返すね」
涙を滲ませながらも、真雪はあくまで優しい顔を作り、そう言った。
だがその健気な姿に、啓介の怒りは逆に再燃する。
まるで沸騰した油に水を注いだように。
「もういいだろ、悠。たかが服一枚、真雪が少し着ただけで、何が悪い!
それに今日は、どう考えてもお前が悪いんだ。だから謝れよ。今ここで真雪に謝れば、今回のことはなかったことにしてやる」
「……謝る?」
まるで、彼の言葉が信じられなかったように、悠はその言葉を反復した。
そして、それが何を意味しているのかを理解した瞬間――
胸が締め付けられるように痛んだ。
瞳がかすかに震え、唇が強く結ばれる。
彼女は拳を握りしめ、啓介の怒りに満ちた視線を正面から受け止める。
そして――
微かに唇を上げたかと思うと、その笑みが広がる前に、力強く、はっきりと告げた。
「絶対に、謝らない!」
悠の強い拒絶に、啓介は怒りを噛み殺しながら一言、絞り出す。
「お前……!」
「もうやめて、啓介……私のせいで喧嘩しないで、服を返すから」
いつの間にか、真雪はすでに衣装を脱いでいて、それを悠に渡そうとした。
――けれど、啓介がその手を遮る。
その顔に浮かんだ陰鬱な表情に、悠の胸に不安が広がる。
立ち上がろうとするが、足首の痛みが鋭く走り、動けない。
その瞬間――啓介はその衣装を両手に取り、ビリ、と音を立てて裂こうとした。
「やるじゃない、悠。お前が謝らないって言うなら……この服も、もう必要ないよな?」
「やめて!」
悠は目を見開いて叫んだ。手を伸ばして止めようとする――
でも、届かない。
「ビリッ、ビリッ――」
何度かの音のあと、あの大切な服は、無残にも数枚の布切れとなって地面に散らばった。
悠はその場を這うようにして服に向かって進む。
ざらついた地面に両腕を擦りつけ、血が滲んでも、彼女は痛みを感じていなかった。
手を震わせながら、その破れた布を必死に並べようとする。
けれど、どれだけ並べても、あの服が元に戻ることはなかった。
「ざまぁみろよ、悠」
それだけ言い捨てると、啓介は真雪を抱き上げ、その場を去っていった。
悠は、破れた布を胸に抱きしめながら、その場に膝をつき、声を上げて泣いた。
――お母さん、ごめんなさい。
――私は……人を見る目がなかった。
――全部、私が間違ってた。
そう心の中で繰り返したあと、彼女はその場で、意識を失った。
第5話
次に目を覚ましたとき、鼻を刺すような消毒液の匂いが鼻腔を満たしていた。
真っ白な天井をぼんやりと見つめながら、悠はしばしの間、現実感を失っていた。
けれど、看護師の驚いたような声がその静寂を破った。
「目が覚めたんですね!よかった……!」
手当てを終えたあと、看護師は軽く微笑みながら部屋を後にした。
悠は枕元のスマホを手に取り、画面を点ける――
そこには、何の通知も表示されていなかった。
不在着信も、メッセージも、ゼロ。
「ふっ……」
思わず苦笑が漏れる。
スマホを握る手に、自然と力が入った。
――でも、まだやるべきことがある。
そう思った瞬間、彼女は顔を上げ、退院の準備を始めた。
手続きの順番を待っていたとき、近くから小さな会話が耳に入る。
「ねえねえ、聞いた?17階に入院してる奥さん、ほんのちょっと擦り傷があるだけなのに、旦那さんが大騒ぎしてさ。病院中の専門医を呼び集めて、毎日その人を抱っこして移動してるんだって。床に足もつかせない勢いらしいよ」
「それって、あの神崎グループの社長の奥さんじゃない?マジで羨ましい……うちの病室にいたあの人なんか、あんなに重傷だったのに、誰も見舞いに来なかったって話だよ。ほんとかわいそう」
会話の最後に、もう一人の看護師がそっとその子の腕をつついた。
悠の顔が真っ青なのに気づいたのだ。
「あ、あの、ごめんなさい!そんなつもりじゃ……!」
「……大丈夫です」
悠はかすかに笑って見せた。
心ではわかっている。彼女たちは何も悪くない。
ただ、言っていることが「事実」であるだけだった。
無理に微笑みながら書類を受け取り、その場を離れる。
――けれど、胸の奥にひりひりと広がる痛みは、どうしても無視できなかった。
病院を出たそのとき、スマホが突然鳴った。
電話の向こうから、興奮気味の声が飛び込んできた。
それは、以前に出した絵画コンクールの審査員からだった。
「朝霧!この前出した絵、受賞したよ!しかも一等賞!今夜、授賞式があるから絶対に来てよ!」
その言葉に、悠の胸がふわっと軽くなった。
何度も念押しして、本当に自分が受賞したのだと確信した瞬間――
彼女の顔には、何日ぶりかの、心からの笑顔が浮かんでいた。
スマホの画面に表示された会場の住所を確認すると、彼女は急いでタクシーに乗って家に戻り、準備を整えた。
会場に向かう途中、ちょうど家の近くで、思いもよらぬ人物とすれ違った。
啓介――
彼はどこか急いでいるような足取りで、車を走らせていた。
ふと助手席に目をやると、ちらりと見えたのは、保温弁当箱。
そして、電話中らしい彼の表情は、いつもの冷たい顔とは違い、どこか柔らかかった。
悠はその様子を見て、静かに目を伏せた。
心は、もう何の波も起こさなかった。
信号が青に変わると、二台の車は何もなかったかのように、それぞれ別の道へと走り出した。
会場に到着すると、悠は思わず息をのんだ。
そこにいたのは――啓介と真雪。
お揃いの色合いのペアルックで、笑顔を交わしながら周囲と挨拶をしていた。
そのとき、会場のあちこちから話し声が耳に届いた。
「神崎社長と婚約者さん、本当に仲睦まじいよね。さっきもネクタイがずれてたのを彼女が直してあげてたわ」
「そうそう、聞いた?今日は何十億っていう大きな契約を蹴って、この式に来たんだって。婚約者が表彰されるのを、どうしても見たかったんだってさ」
そのとき、啓介がふと視線を上げ、悠の方を見た。
ドアのそばに立つ彼女に気づいた瞬間、啓介の表情が一瞬止まる。
抱いていた真雪の手が、ほんの少し緩んだ。
すぐに彼女の方へ歩き出そうとしたが――
真雪がそっとその腕を引き止めた。
悠は、その一部始終を見ていたが、まるで何もなかったかのように視線を外し、静かに自分の席へと歩いていった。
やがて、授賞式が始まる。
次々に発表される受賞者の名前に、悠の胸は少しずつ高鳴っていく。
――そして、ついに。
「それでは、今回のコンテスト、栄えある一等賞の発表です!受賞者は――綾瀬真雪さん!」
第6話
司会者の一言が、悠の笑顔を凍りつかせた。
「綾瀬真雪」、その名前が、頭の中で何度も何度も反響する。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく感覚。
壇上で笑顔を浮かべながらスピーチする真雪の姿を見つめながら――
悠は悔しさに唇を噛み、拳をぎゅっと握りしめた。
そして、席を立つ。
――あの女の化けの皮を、今すぐ引き剥がしてやる。
「彼女は――」
その瞬間だった。
どこからともなく現れた黒服の男たちが、彼女の口を押さえ、無理やり会場の外へと引きずっていった。
必死にもがくが、力では敵わない。
けれど、視界に入った顔――
その顔を見た瞬間、全てが繋がった。
もはや、説明など必要なかった。
悠はふらつきながらもその手を振りほどき、震える声で叫んだ。
「なんで……!なんで、あの賞を彼女に渡したのよ!」
目にはすでに涙が浮かび、頬を赤く染めながら問いかける。
だが、啓介はうんざりしたような顔で彼女を見下ろした。
「たかがコンクールの賞だろ?前に真雪を傷つけたお前への埋め合わせだよ。これくらいで済んで良かったと思え。これからいくらでもチャンスがあるじゃない」
「これから?」
その言葉を繰り返した悠は、口元に虚ろな笑みを浮かべた。
そのまま、力が抜けたように後ろへと二歩下がる。
啓介は眉をひそめ、不機嫌そうに声を荒げた。
「もういい。そんなに欲しいなら、次のコンクールでお前にも賞を用意してやる」
――賞の問題じゃない。
悠は心の中で叫んだ。
けれど、その思いを口にする間もなく、啓介の部下が慌ただしく駆け寄ってくる。
「大変です、神崎社長!綾瀬さんが、倒れました!」
その報告に、啓介は一瞬も迷わず、その場から駆け出していった。
残された悠は、冷たい壁にもたれかかりながら、彼の背中が遠ざかるのを見つめていた。
目には涙がにじみ、震える唇から、かすれた声が漏れる。
「……でも、啓介……私には、もう『これから』なんて……ないんだよ……」
半年前、悠は啓介を庇って交通事故に遭った。
命に別状はなかったが、手は深刻な後遺症を残し、もう二度と絵筆を握れないかもしれない。
だからこそ――
あのコンテストが、彼女にとって最後のチャンスだったのだ。
なのに、その一縷の希望すらも、啓介は真雪のために奪い去った。
――涙が止まらなかった。
次から次へと、大粒の涙が床に落ちていく。
家に戻っても、胸の奥から溢れる悔しさとやるせなさは消えなかった。
「こんなの、納得できない……!」
悠は立ち上がり、部屋中をひっくり返して、描き溜めていたスケッチをかき集めた。
賞を盗まれたことを、コンテストの運営に直接訴えに行こうとしたのだ。
けれど――
その思いは、道半ばで遮られることになる。
路地の途中で、突然数人の不良たちに囲まれたのだ。
「……あんたたち、何するつもり……?」
スケッチを胸に抱きしめながら、悠は怯えた声で問いかけた。
リーダー格の男は薄ら笑いを浮かべながら、悠ににじり寄る。
「悪いな、お嬢さん。俺たちも依頼されたもんでね……押さえつけろ!」
「やめてっ!やめてぇ!お願い、放して……!」
必死に抵抗するものの、男女の力の差はあまりにも大きかった。
悠は力任せに押さえつけられ、なすすべもなくスケッチが真っ二つに破かれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
そのうえ、男の一人がライターを取り出す。
紙に燃え広がる炎――
悠はどこからか湧いた力で男たちを突き飛ばし、火に手を伸ばした。
火傷の危険も構わず、ただ必死に、少しでも画を救い出そうとした。
だが――
紙は容赦なく燃え尽き、黒い灰と化して地面に落ちていく。
悠はその場にへたりこみ、震える肩を何度も上下させながら、崩れ落ちた灰を見つめていた。
でも、それで終わりではなかった。
男たちはそれでも満足せず、リーダーが目配せをすると、悠は再び地面に叩きつけられた。
鋭い痛みに思わず身体を丸めるが、次の瞬間には押さえつけられ――
目の前で、重そうな石が振り上げられる。
「やめてっ――!
――あああっ!」
ゴキリという鈍い音とともに、手の骨が無惨にも砕かれた。
全身に走る激痛、目の前がぐにゃりと揺れ、鼻を突く血の匂いが広がる。
だが男は、それでも止まらない。
石を再び振り上げようとした、そのとき――
「悠――っ!!」
遠くから、啓介の怒声が響いた。
その声を最後に、悠の意識は、真っ暗な闇の中へと沈んでいった。
第7話
どれくらい経っただろうか――
悠はぼんやりと目を覚ました。
耳に入ってきたのは、病室の中で交わされる小さな声。
音量は抑えられていたが、その声に込められた怒気は隠しきれていなかった。
「誰が、あそこまでやれって言った?」
啓介の声だった。
「え?でも啓介さんが、『真雪の受賞の邪魔はさせるな』って……」
電話の向こうの男は、戸惑ったように応じる。
「だからって、手まで潰すなとは言ってない!なんでそこまでやるんだ!」
啓介の声は一気にトーンが上がり、怒気が滲み出していた。
その剣幕に相手も驚いたのか、困惑したように返す。
「ええ……だって、そもそも傷つけろって話じゃなかったんですか?手が潰れたくらいで、そんな怒ること?」
その言葉に、啓介は言葉を詰まらせた。
――なぜ怒っているのか。
自分でもはっきりとは答えられなかったが、胸の中のざわつきはどうしても抑えられなかった。
悠の、あの涙に濡れた瞳と、ぐったりと地面に倒れていた姿を思い出すたびに、胸が苦しくなる。
彼女は絵を描くのが大好きだった。
話すだけで、瞳がきらきらしていた――
けれど、もう二度と筆を握れない。
それを知ったとき、どんな顔をするのだろう。
想像するだけで、啓介の中に怒りが再び燃え上がる。
彼は低く、冷たい声で電話の相手に釘を刺した。
「もう二度と、あんなことはするな。絶対にだ」
「え……啓介さん、なんか変っすよ。まさか本気であの女のこと……好きになったとか?」
「ありえない」
即座に否定したが、胸の奥に沈んだ妙な感情は、そう簡単には消えてくれなかった。
そのとき――
電話の向こうから、真雪の声が聞こえてきた。
「啓介。今の会話、全部聞こえてたよ。もう彼女を傷つけたくないっていうなら……いいよ、計画、前倒しにしよう?」
「だめだ、今の彼女は身体が弱ってる。リスクが大きすぎる」
啓介は即座に拒絶した。
「啓介!『私のためなら何でもする』って言ったじゃない!」
真雪の声には、はっきりと涙がにじんでいた。
啓介の額には青筋が浮かび、拳を握りしめる力が強まる。
けれど、その声は冷たく硬かった。
「今は無理だ……あと二日だけ、待ってくれないか」
「やだ!今すぐじゃなきゃ、一生許さない!」
そのまま電話を切ろうとする真雪を、啓介は慌てて呼び止めた。
「待って……わかった。やるよ」
その瞬間、真雪は涙まじりの声を喜びに変え、兄弟たちも歓声を上げる。
「やった!やっとこの日が来たな!」
啓介は、再び釘を刺すように言った。
「……絶対に、余計なことはするなよ」
そのやり取りを、悠は――
ベッドの上で、必死に涙をこらえながら聞いていた。
胸にぽっかりと空いた穴から、冷たい風が吹き込んでくるようだった。
寒くて、苦しくて、体がずっと震えていた。
やがて、何もなかったように目を開けたとき――
病室には啓介だけがいた。
彼はすぐに駆け寄り、優しく支えながら尋ねた。
「どう?少しは楽になったか?」
悠は答えず、ただ包帯でぐるぐる巻きにされた自分の手を見つめた。
その瞳に浮かぶのは、悲しみと虚無。
啓介の目にも、わずかな動揺がよぎる。
そして、やわらかな声で語りかけた。
「大丈夫だ。今の医療なら、きっと治る。治らなかったとしても――俺は絶対にお前を見捨てたりしない。
いっそ、結婚式を早めようか。そうすれば、俺の気持ちもちゃんと伝わるだろ?」
悠はじっと彼を見つめる。
沈黙の後――
小さく、けれどはっきりとうなずいた。
「……うん」
第8話
結婚式について、悠は何の条件も出さなかった。
ただひとつ、海辺のホテルに場所を変えたいとだけ言った。
啓介は、ためらうことなくそれに頷いた。
その後の数日間――
啓介は病院で昼夜問わず悠のそばにつきっきりで看病を続けた。
悠に関することなら、どんな些細なことも自ら手を動かした。
その献身ぶりに、看護師たちからは「まるで理想の夫だ」と称賛の声が上がるほど。
でも、悠はただ微笑むだけで、その言葉には一度も同意しなかった。
――もし、毎晩こっそり病室を出て、真雪に電話して「おやすみ」を囁く姿を知らなければ。
それでも「愛されてる」と、信じていたかもしれない。
けれど今の悠は、スマホに届いた「すべて準備完了」のメッセージを見つめながら、静かに唇を吊り上げた。
そして――
ついに、結婚式当日がやってきた。
白いウェディングドレスに身を包み、ホテルの一室でその時を待つ悠。
そこへ啓介が現れ、思わず目を奪われたように彼女を見つめた。
「悠、朝早かったしお腹空いたろ?牛乳、飲むか?」
差し出されたグラスを受け取った悠は、それを口にせず、ただ指先でカップの表面をなぞる。
しばらくの沈黙ののち――
彼女はようやく口を開いた。
声はかすかに震えていた。
「啓介、私ね……あなたのことが、本当に好き。いや、『愛してる』って言った方がいいのかも。
あなたが私を追いかけてきた時、心が動かなかったわけじゃないの。でも……怖かったの。もし遊びだったらって、そう思ってたから。
でも、あなたが迷いなく私を庇って刺された時……もう、自分の気持ちを抑えられなくなったの。
この人と一緒に生きていくんだって、そう思った。たとえ、あとで傷つけられることがあっても……それでも、構わないって」
啓介は何も言わなかった。
けれど、呼吸は明らかに乱れ、手も強く握り締められていた。
悠はふっと笑って、話を続ける。
「だから、あの時、あなたを庇って手を怪我した時も……私は後悔してなかった。あなたが無事でいてくれたことが、何より嬉しかったから。
……ねぇ啓介、今ここで、私に言っておきたいことって……ある?」
悠は首をかしげ、まっすぐな瞳で啓介を見つめた。
だが啓介は、その視線を受け止めることができなかった。
顔を伏せ、目を逸らしたまま、しばらく黙り込んでいた。
やがて、しわがれた声で呟いた。
「牛乳……冷めちゃうよ。早く飲んで」
悠はそれ以上何も言わず、小さく頷いて、カップの牛乳を一気に飲み干した。
扉が閉じられる。
けれど、啓介が背を向けた瞬間――
悠は飲んだ牛乳をすべて吐き出した。
しばらくして、悠は薬が効いたように、顔を赤らめながら自分の衣服を乱し始める。
その時、扉が再び開かれた。
数人の男たちが、下品な笑みを浮かべながら部屋に入ってくる。
「お嬢ちゃん、とことん可愛がってやるよ」
「いやっ……やめて……やめて、触らないで!
啓介っ!助けて!お願い、助けてぇ!」
悠は必死に抵抗するが、相手は男たち。
力の差は歴然で、あっという間にドレスは引き裂かれ、白い肌があらわになる。
その頃、階下――
モニターの映像を見ていた啓介は立ち上がり、怒鳴った。
「ふざけるな!脅かすだけって話だっただろうが!」
その瞬間、監視モニターの画面が暗転する。
啓介の胸に、不安が渦を巻き始めた。
彼は押しとどめる人々を突き飛ばし、駆け上がろうと車を飛び出した――
だが、次の瞬間、ホテルの上空に火柱が立ち上った。
その光景に、啓介の頭は真っ白になる。
「悠が、まだ中に――!」
彼は躊躇なく突進しようとするが、周囲の男たちに必死で止められる。
「啓介さん、落ち着け!もうすぐ出てくる、やつらは逃げるさ!」
やがて、火にあぶられてボロボロになった男たちが駆け出してきた。
啓介は彼らを押し止め、懸命に問いかける。
「悠は!?彼女は出てきたか!?」
しかし、返ってきたのは、黙って首を振る姿だけ。
その瞬間、啓介の全身から力が抜け――
口元から鮮血を噴き出し、その場に倒れ込んだ。
一方その頃、悠は――
計画していた道具を残し、静かに海へと身を投げた。
海岸に這い上がった後、彼女はすでに手配済みの車に乗り、空港へと向かう。
――神崎啓介。
これで本当に、あなたとはお別れ。
もう、死んでも、生きても、二度と会うことはないわ。
第9話
「悠、行かないでくれっ……!」
啓介は夢でも見ていたのか、突然がばっと起き上がり、大きく息を吸い込んだ。
視界に飛び込んできたのは、真っ白な病院の天井。
数秒固まった後、隣にいた仲間の腕をがしっとつかんで、声を荒げた。
「悠は!?悠はどこに行ったんだっ!」
「啓介さん、落ち着いてください!今、救助隊に捜索頼んでるっす。すぐ連絡が来るはずから!」
その言葉を聞くなり、啓介は点滴の針を引っこ抜き、ベッドから飛び降りて病室を飛び出した。
信号なんか無視して何本も赤を突っ切りながら、着いたのは……
すっかり焼け落ちた、あのホテルの跡地だった。
火はもう消えていた。けれど、立ち込める黒煙が、ここで何があったかを物語っている。
救助隊は装備を手に、崩れた瓦礫の中を必死で捜索していた。
啓介はふらつきながら現場に近づき、真っ赤に充血した目でその様子を見つめた。
病院を飛び出してきたとき、靴なんて履いてる余裕はなかった。
無数の瓦礫が容赦なく足の裏を切り裂いていく。血が溜まり、地面ににじむ。
それでも啓介は痛みなんて気にせず、膝をついて瓦礫に手を伸ばした。
まだ熱を残した破片に触れて、思わず手がびくっと震える。
けれど、それでも彼は掘り続けた。何も考えず、ただただ無心に。
一度、また一度――
そのときだった。
視界の片隅で、何かがきらりと光った。
啓介はぴたりと動きを止め、それをそっと拾い上げた。
泥と灰を指で丁寧に拭い取る。
それは――指輪だった。
表面には「K&M」の刻印。
「……っ!」
その瞬間、啓介の瞳が揺れた。手も小刻みに震え出す。
忘れるわけがない。あの日、自分が酔った勢いで口にしたあの言葉。
その隣には、半分焦げた紙切れが落ちていた。
――「返すね」
「返すね」って、何を――?
一瞬、啓介の思考が止まった。でもすぐに理解した。
それが何を意味していたのか。
その瞬間、顔から血の気が引いた。
……そうか。
だからあの日から、悠はまるで心が壊れたみたいに、
自分と関係する全てのものを――写真も、服も、想い出も、全部――捨ててしまったんだ。
もしかして……あの日から、彼女はもう決めていたのか?
そう思った途端、啓介の手に力が入り、握りしめた指輪の硬いダイヤが、無情にも掌を深く切り裂いた。
赤い血がじわりと滲み出す。
でも、構わなかった。
そうしていないと、壊れそうな胸の内が、どうにかなりそうだったから。
そのときだった。
「見つけた!見つけたぞ!」
救援隊の歓喜の声が、啓介の耳を貫いた。
彼はガタガタと立ち上がり、足元もおぼつかないまま、その声のする方へ駆け出した。
もう、彼の心の中にはたったひとつしかない。
――許されたい。
たとえどれだけの時間がかかっても、
これからの人生をすべて懸けてでも、
彼女に許してもらいたい。そう思っていた。
けれど――
その希望は、あまりにもあっけなく、崩れ去った。
担架の上に乗せられていたのは、血と煤にまみれた、見るも無残な女性の遺体だった。
火の勢いがあまりにも激しかったせいで、顔も身体も原型を留めていない。
でも、ただひとつ――
右手の薬指に嵌まっていた、不格好なサイズの合わない指輪だけが、彼女の証だった。
それはかつて、啓介が自らの手で、悠の指に通したものだった。
その光景を目にした瞬間、啓介の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。
あの日のことを、思い出してしまった。
プロポーズの時、悠はほんの一瞬だけ戸惑っていた。
サイズが合っていなかったせいだ。
それでも彼女は、すぐに笑って、嬉しそうに受け取ってくれた。
まるで、今までの3年間、啓介にどれだけ傷つけられても、
いつも笑顔で許してくれたように。
その笑顔を思い出した瞬間、
その優しすぎる、まっすぐな笑顔が――
胸に鋭く突き刺さった。
苦しみが、全身を焼くように広がっていく。
今になってようやく気づいた。
自分はずっと、ずっと前から――
気づかないふりをして、でも本当は……彼女を、愛していた。
啓介はその場に崩れ落ちた。
膝から力が抜け、二度と立ち上がれないように。
震える両腕で、その冷たい身体をそっと抱きしめる。
だが、どれだけ熱い涙を流そうと――
彼女のぬくもりは、もう戻ってこなかった。
目の前の現実が、啓介の心を容赦なくえぐっていく。
魂の奥から絞り出されるような悲鳴が、空気を切り裂いた。
だけど――
今度こそ、もう誰も、
「大丈夫だよ」なんて、微笑んではくれなかった。