残雪を望むは独りのみ

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残雪を望むは独りのみ

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又村櫻(またむら さくら)は自分に7年の猶予を与えた。もし7年経っても豊田礼人(とよだ あやと)に自分を愛してもらえなければ、彼のもとを去...

Chương (1)

第1章

又村櫻(またむら さくら)は自分に7年の猶予を与えた。もし7年経っても豊田礼人(とよだ あやと)に自分を愛してもらえなければ、彼のもとを去ると決めていた。 それから1か月後の日が、ちょうどその7年の期限だ。 同時に、礼人と三浦雪(みうら ゆき)が結婚する日でもあった。 彼女という負け犬は、もう舞台から降りるべきなのだ…… 第1話 「父さん、飛行機のチケット取って。アメリカに帰る」 又村櫻(またむら さくら)はソファにうずくまり、長く考えた末、海の向こうの父に電話をかけた。 電話の向こうは、しばらく沈黙した。 「それもいいな。ちょうど休学していた分の授業を取り戻せる。すぐに学校に連絡するよ」 「うん」 櫻は淡々と答えた。 「どうして急に戻る気になった?北城ではうまくいってないのか?」 櫻の父が探るように尋ねた。 「別に。ただ……もう離れる時間が来ただけ」 長い沈黙のあと、櫻は目を伏せた。 一筋の涙が、そっと頬を伝った。 7年だった。彼女はもう、豊田礼人(とよだ あやと)を愛したくなかった…… 櫻は自分に7年の猶予を与えた。もし7年経っても礼人に自分を愛してもらえなければ、彼のもとを去ると決めていた。 それから1か月後の日が、ちょうどその7年の期限だ。 同時に、礼人と三浦雪(みうら ゆき)が結婚する日でもあった。 彼女という負け犬は、もう舞台から降りるべきなのだ…… 大学4年の時、櫻は北城に里帰りし、偶然礼人と出会った。 アメリカで彼女を追いかけてきた金髪碧眼のイケメンたちとは違い、礼人の控えめの禁欲的な雰囲気に、彼女は一瞬で心を奪われた。 彼に夢中になった彼女は、学業も、アメリカの家族もすべて捨てて、名前も立場もないただの代用品として、彼のそばにいることを選んだ。 たぶん自分は生まれつきマゾなのかもしれない。 自分を愛してくれない男を愛して、いつか彼が自分を愛してくれることを夢見ていた。 雪が帰国したとき、櫻は初めて自分の愚かさに気づいた。 礼人は、雪のために盛大な歓迎パーティーを開いた。 ヨーロッパから空輸された花だけでも何億円もする。 ましてや彼女の首にかけられたエメラルドは、礼人が自ら競り落としたもので、数十億円の価値がある。 パーティーの日、櫻は遠くから礼人を見つめた。突然、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。 男は女を抱きしめ、愛しげに見つめ合っていた。 彼の目に浮かぶその愛情深い眼差しに、櫻の体は思わず震えた。 礼人は、彼女にそんな眼差しを一度も向けたことがなかった。 彼は愛せないのではなく、ただ、彼女を愛していなかっただけだった。 …… 「ピッ」と、指紋認証のドアロックが鳴った音が、櫻の思考を遮った。 部屋の明かりが灯った。 櫻は細めた美しい目を上げた。その光は少し眩しかった。 礼人が入ってきた。 彼は整った顔立ちで、彫りが深くも鋭すぎず、内に秘めた気品と威厳が自然とにじみ出ていた。 櫻は皮肉めいて思った。自分はきっと、この美しい容姿に心を奪われ、理性を失ったのだと。 「どうして電気をつけない?」 彼は冷たく視線をちらりと寄こし、眉をひそめた。 いつもなら、櫻はすぐに彼に抱きつき、熱いキスを浴びせるほどの情熱を見せていた。 だが今日は、ソファに縮こまり、微動だにしない。 櫻は彼を見上げた。彼は目を細め、壁に寄りかかって立っていた。 いつものように几帳面ではなく、シャツのボタンは二つ開いていて、ネクタイもなく、うっすらと鎖骨と首に残された沢山のキスマークが見えていた。 櫻の心が、ずしんと沈んだ。 「どこに行ってたの?」 嫉妬する女のように、彼女は思わず尋ねた。 礼人は眉をひそめ、顔の半分を闇に隠しながら、何を考えているのか読み取りづらい表情を浮かべていたが、その雰囲気には圧倒的な強引さがあった。 「櫻、自分の立場はわかっているはずだろう」 「……」 櫻は苦笑し、美しい目に自嘲が浮かんだ。 そうだ。彼女は自分の立場をとっくに分かっていたはずだ。 彼女は、雪がいないときの、礼人の気晴らしだ。いつでも捨てられるゴミだ。 彼と自分の間には、体だけの関係しかなかった。 櫻は待っていた。礼人が自分に別れを告げる日を…… だが、彼にそのつもりはなさそうだった。 彼は大股で近づき、彼女をソファに押し戻すと、骨ばった手を肩に置いて、身を屈めた。 「嫉妬するな。いいな?君は雪に勝てない」 「じゃあ、なんで私に会いに来るの?」 櫻の目が潤んだ。 「彼女が帰国した。もうすぐ結婚するなら、あなたは彼女のそばにいるべきよ」 どこかで彼女は、期待していたのかもしれない。 君を手放したくないと、彼が言ってくれるのを。 だが、その一言で、彼女の期待は粉々に砕けた。 「介添人をやってもらいたいって、雪がそう言った」 彼の瞳は冷えきっていて、表情も冷酷だった。 櫻は惨めに笑った。それが彼の用件だと、彼女はとっくに知るべきだった。 これも雪からの、遠回しな見せつけだったのだ。 7年間、彼女は雪がいなくなった礼人のそばで、虜のように卑屈に生きてきた。 礼人の友人たちに、代用品だと嘲笑されながらも、彼の傍に居続けた。 いま、彼らがよりを戻し、結婚しようとしている。 その結婚式で、自分が介添人だなんて。 彼が別の女を迎える姿を、自分の目で見届けろとでも? そんなこと、彼女にできるわけがない。 しかも、その日は、彼女が彼のもとを去る日でもあるのだ…… 第2話 「申し訳ないけど、私は暇がないの」 櫻は眉をひそめて、はっきりと拒絶した。 「もし俺がどうしても行けって言ったら?」 礼人の鋭い目がさらに冷たくなり、彼の細い手が櫻の顎をぐっと掴むと、熱い息が彼女の顔にかかる。 「以前は俺が言えば、何でもしてくれただろう。今はただの介添人、それすら無理なのか?金が足りないのか?」 礼人は眉を上げた。 「もう二千万出す。どうだ?」 彼の声はいつものように冷たく無関心で、そこに軽蔑さえ含まれていた。 元々青ざめていた櫻の顔色が、さらに真っ白になった。 礼人の目には、自分はただ金のために、どんな屈辱にも耐える代役に過ぎなかった。代役に拒否する権利なんてあるはずがない。 この7年間、礼人の言うことは一度も拒まなかった。彼女は自己犠牲をして、彼のためだけに生きてきた。 でも、今回はもう妥協したくなかった。 「嫌なものは嫌。理由なんてないわ!」 櫻は顔を冷たくして、口元に皮肉な笑みを浮かべた。 「こんなこと、強制できるものか?」 これが、彼女が初めて礼人を拒否した瞬間だった。 礼人は顔をしかめ、しばらく黙り込んだまま、じっと櫻の顔を見つめていた。 しばらくしてから、彼はふっと笑った。 「俺が飼ってるペットが、ノーと言ったか。いいだろう、よく考えてから連絡しろ」 そう言い残して、彼は背を向けて出ていった。 「バンッ」と扉が大きな音を立てて閉まった。 …… 翌日に、櫻は職場に向かった。 この7年間、彼女は非営利団体で働いていて、この仕事をとても気に入っていた。 だが、残念なことに、今日は、辞職のために来た。 会長は残念そうに何度も訊いた。 「櫻、何か仕事で不満でもあったのか?どうして急に辞めるなんて」 「7年も両親と離れていて、二人とも私に会いたがってるんです。ちょうど私も三十歳手前だから、父が見合い相手を紹介してくれて、早く結婚してほしいって」 この数日、櫻の父は彼女に見合いの話を持ちかけていた。 ちょうど条件のいいビジネス婚の相手がいるとのことだった。 櫻は、自分のわがままで長年父に孝行できなかったことを申し訳なく思っていた。今回はもう父を失望させたくなかった。 だから、彼女は即答で承諾した。 その時、同僚の草野詩音(くさの しおん)が慌てて会長室に飛び込んできた。 「会長、最近の寄付金でちょっと問題が……」 「どうしたの?」 「本来、寄付が確定してたんですけど、今朝突然キャンセルされました。この資金がなくなると、山水福祉院が立ち行かなくなって、子どもたちの冬服も用意できないし、食費も払えなくなります!」 山水福祉院は西町にある小規模な児童養護施設で、十数人の障害を持つ子どもたちが暮らしている。必要とする人手も物資も膨大で、収入もないため、常に財政難で、支援も得られていなかった。 櫻と詩音は東奔西走して、ようやくそのための寄付金を集めたところだった。あと少しで救えるはずだったのに、こんなときに問題が起きた。 「寄付をキャンセルした会社は?」 櫻は眉をひそめ、詩音を見つめながら、胸騒ぎを覚えた。 「啓恒建設です」 櫻は目を閉じた。それは礼人の会社だ。 ああ、そういうことか…… あの夜、彼がよく考えろと言ったのは、こう言う意味だったのか。 彼の言うことを聞かず、雪の介添人を拒んだら、寄付を撤回して児童養護施設の子どもたちを飢えさせるということだ。 礼人、あんたって人は本当にひどい! 櫻はスマホを手に取りながら、バルコニーへ出て、礼人に電話をかけた。 子どもたちに彼女のことで被害が及ぶのは、絶対に避けたかった。 何度もコール音が鳴ったが、なかなか出なかった。櫻はイライラして歩き回った。 「もしもし」 ついに、電話の向こうから、礼人の冷たい声が聞こえてきた。まるで最初から待っていたかのように。 「雪の介添人をやるわ。だから、寄付金は福祉院に送ってくれる?」 櫻は単刀直入に言った。 電話の向こうは一瞬沈黙し、その沈黙がかえって彼女を不安にさせた。 「いいだろう。 ただし、結婚式までの間、雪のそばにいて、結婚式の準備を手伝ってもらう。それでいいな?」 櫻は一瞬言葉を詰まらせ、目に涙が滲んだ。 ただの介添人のはずだが、今度は助手として彼女に付き添い、尽くさなければならない。 彼女は分かっていた。雪はこれで自分を辱めようとしているのだ。 彼女の心の傷口に塩を塗るためだ。 彼女はもう身を引くと決めたのに、雪はどうしてここまで追い詰めてくるのだろう。 でも、大丈夫だ。彼女はもうすぐ、ここを立ち去るから。 櫻の美しい顔には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。 「分かった」 第3話 櫻が初めて雪を見たのは、礼人のデスクに置かれた写真の中だった。 写真の中で、雪は微笑みながら礼人に寄り添っていて、バラのように華やかだった。 礼人が彼女を見る目は、櫻が一度も見たことのない優しさと愛情に満ちていた。 櫻の手が思わず震えた…… コーヒーがこぼれて、雪の写真を濡らしてしまった。 礼人が帰ってきて、その濡れた写真を見ると、顔が恐ろしく暗くなった。 彼は櫻に食事を禁止し、三日間も彼女を空腹のままにした。 その時初めて、櫻は雪が礼人にとってどれほど大切な存在かを思い知らされた。 誰もが言っていた。櫻が雪に似ているおかげで、礼人のそばに最も長くいられたと。 今の櫻は、むしろ少しも似ていなければよかったと願っている。 雪からラインが届いた。会員制クラブの住所が書かれていて、すぐに来るようにとのことだった。 櫻は急いで職場を出たが、運悪く外は大雨だった。 タクシーがつかまらず、十数キロも歩いてクラブに到着したとき、彼女は全身ずぶ濡れだった。 彼女が個室に入ると、空気が一気に張り詰めた。そのずぶ濡れた姿に、皆が落ち着かない沈黙に包まれた。 雪は青いワンピースを身にまとい、美しく輝いていた。 「櫻、礼人は車を用意してくれなかったの?こんな大雨の中、歩いて来たなんて!」 雪は驚いたように目を見開き、同情を浮かべたまなざしで言った。 「全部私のせいね。早くあなたに会いたくて。 私がいない長い間、礼人のことを代わりに世話してくれてありがとう。 結婚式もお願いするわね」 「豊田社長と三浦さんのお力になれるのは、光栄なことです」 櫻は顔面蒼白のまま、震える体をこらえながら、紅唇にかすかな笑みを浮かべた。 彼女はいま、まるで冷蔵庫に囚われたかのように、骨の髄まで冷え切っていた。 「みんなが言ってる通り、あなた本当に私に似てるわね……」 雪は白く滑らかな指先で櫻の頬を優しくなぞった。 「でも、残念ね……」 雪は櫻の耳元に顔を寄せ、二人だけに聞こえる声で囁いた。 「礼人が言ってたわ。代用品は代用品。どれだけ媚びても、私の足元にも及ばないって」 言い終えると、またいつものように優雅で魅力的な笑顔に戻り、まるで今の言葉がただの冗談だったかのようだった。 櫻の顔色は一瞬で真っ青になった。 その時、礼人が入ってきて、室内は歓声に包まれた。 「雪、未来の旦那さんが来たよ!」 「豊田社長、おめでとうございます。ついに雪を手に入れましたね!雪のこと、十年以上追い続けたって聞いてますよ!」 「そうそう、あのとき彼女を追うために、九千九百九十九本のバラを空輸したっていうロマンチックな話、今でも伝説ですよ!」 礼人は冷たい目で、ずぶ濡れの櫻に一瞥をくれただけで、それ以上見ることはなかった。そして、視線は雪だけに向けられていた。 櫻は黙ったまま、鼻の奥がつんと痛んだ。 いつも冷たく感情を見せない礼人が、かつて誰かにここまで情熱的だったとは思いもよらなかった。 きっと、それは雪にだけなのだろう。 「礼人、今日は大事な会議があったんじゃないの?どうして来てくれたの?」 雪は喜んで彼の腰に手を回し、その唇に軽くキスをした。 「うわぁ、まだ結婚もしてないのにラブラブすぎて見てられない!」 周りの人たちは目を覆いながら、はやし立てた。 「あのクールな豊田社長が、雪にかかれば氷も溶けるってわけか!」 「キス!キス!」 「やだ、みんな、恥ずかしいわ!」 雪は頬を赤らめながら、照れたように礼人を見つめた。 礼人の目には、優しさと愛情が満ちていた。 彼は身をかがめて、独占欲と情熱にあふれたキスを彼女に贈った。 その瞬間、室内は大きな歓声に包まれた。 櫻はその光景を呆然と見つめ、涙がどうしてもこらえきれなかった。 ほんの少し前、礼人と彼女もまた、こんなふうに激しくキスし合ったことがあった。 彼が彼女の耳元を舐め、熱い息を吹きかけながら、君がいないとダメなんだと甘く囁いたのに。 今や、全てが過去の幻になった。 櫻は涙をこらえながら、個室を飛び出し、廊下の奥へと走った。 彼女は気づかなかった。 礼人の視線が、去っていく彼女の背中を追っていたことに。 その黒い瞳には、かすかな苛立ちがよぎっていた。 なぜかわからないが、櫻のあの悲しそうな顔を見ると、礼人は胸が少し痛んだ。 第4話 まさかのことに、櫻は廊下で数人のチンピラとぶつかってしまった。 「お嬢ちゃん、一人でこんなところに?俺たちと遊ばないか?」 チンピラは凶悪な顔つきで、無遠慮な視線で櫻を見下ろし、不快な笑みを浮かべた。 櫻は吐き気を覚え、すぐさま踵を返して礼人の個室へと駆け出した。 「おや、逃げるのか?追え!」 チンピラは彼女の背後で遠慮なく下品に笑い声を上げ、まるで櫻の身の程知らずを嘲笑っているかのようだ。 櫻は顔を真っ青にして、必死に礼人の名前を叫んだが。だが、個室の中は雑音と歓声であふれていて、その声はまったく彼の耳には届かなかった。 彼女は急いでスマホを取り出し、礼人に電話をかけた。しかし、コール音が数回鳴ったところで、無情にも通話は切られてしまった。 櫻は眉を顰めながら、もう一度かけたが、再び通話が拒否された。 なぜ出てくれない?そんなに彼女が嫌いなの? 突然、足に鋭い痛みが走り、思わず足をくじいてしまった彼女は、そのまま勢いよく地面に倒れ込んだ。 チンピラたちが駆け寄ってきて、顔にはいやらしい欲望の色を浮かべながら、櫻をじろじろと見つめていた。 「こいつのスタイル、なかなか良いものね。きっと気持ちよくやれるよ」 「兄貴、先にやってください。俺たちは後でいいから」 「豊田礼人は私の恋人よ!私に手を出したら、彼が絶対あんたたちを許さないわ!」 櫻はとっさの状況に追い詰められ、思わず口をついて言葉が飛び出した 「はっ、豊田礼人がお前の恋人だって?」 チンピラたちは大笑いしながら言った。 「奴は中で婚約者とキスしてるぜ!まだ俺たちを騙そうってのか!」 そう言い終わるや否や、男のひとりが櫻の頬を平手で打った。 ほかの数人の男たちが一斉に押し寄せ、櫻の両手を押さえつけた。そして、乱暴に櫻の服を破り、凝脂のような胸元があらわになった。 彼女はほとんど裸にされ、乱暴されそうになって追い詰められた末に、チンピラの腕に噛みついた。 痛みに顔をゆがめたチンピラは、逆上して櫻にくそアマと罵り、腹を一蹴りした。 櫻は激しい痛みを感じ、顔色がたちまち真っ青になった。 「このクソ女、勿体ぶるな?豊田の愛人はできるのに、俺たちの相手はできないってか?どうせただの安い女じゃねえか!」 チンピラたちは怒りにまかせて、櫻を激しく蹴りつけた。 彼女は体を丸めて小さくなり、内臓が裂けるほどの激痛に襲われた。 突然、不意に腹を強く蹴られ、激痛が走ると、下腹から温かい液体が流れ出した。 鮮やかな血がズボンを真っ赤に染め、流れは止まる気配もなく増していった…… 「兄貴、マズいっす!出血が多いぞ。命が危ないじゃないか?」 子分の一人が怯えた様子で、緊張しながら親分を見つめた。 「チッ、運のいい女だ。二度と俺の前に現れるな!」 親分は、人が死んでしまうのを恐れ、子分たちを連れて逃げ出した。 櫻は全身があざだらけで、まるでボロボロのぬいぐるみのように地面に横たわり、意識を失うその瞬間、心の中で問いかけた。 礼人、あなたはどこにいるの?どうして電話に出てくれないの…… あなたが一番近くにいたのに、どうして来てくれなかったの? …… 再び目を覚ましたとき、櫻は消毒液の匂いを嗅げた。 目に映るのは真っ白な世界だ。誰かが彼女を病院に運んでくれていた。 「又村さん、胎児はもう……いなくなりました。もう2ヶ月経っていたのに」 医師は無表情にそう告げた。 櫻は一瞬呆然とし、それから泣きたいのに泣けないような、苦しげな笑みを浮かべた。 そうか。彼女と礼人の間に、命が宿っていたんだ。 だが、その命はたった一蹴りで、奪われてしまった。 愛しい子よ!彼女はまだその心臓の鼓動を感じる間もなく、消えてしまったんだ…… でも大丈夫だ。どうせ礼人にとっては、迷惑な存在だ。 それに、彼女もここを離れるつもりだったから…… 櫻は虚ろな目で天井を見つめていた。 そのとき、隣から看護師たちの話し声が聞こえてきた。 「知ってる?さっき、豊田社長が婚約者のために、病院のフロアをまるごと貸し切ったんだって!」 「え!豊田社長ってイケメンで優しくてお金持ちでしょ?ほんとに奥さん思い!きっと赤ちゃんも可愛くて賢く育つんだろうな!」 櫻はハッとして、胸を誰かに鷲掴みにされたような激しい痛みに襲われた。 なら、彼女の赤ちゃんは? 彼女の子は一体なんだったの? 最初から最後まで、礼人は赤ちゃんの存在すら知らなかった…… そのときスマホが鳴り、櫻は画面を開いた。 そこには雪の投稿があった。 【ありがとう。あなたがいてくれて、そして赤ちゃんも一緒にいてくれて、本当に幸せ】 写真には、女の子が男の肩に寄りかかっている。 その前方には星空が広がっていた。その光景はあたたかく、幸せそうだった。 なるほど。彼女の赤ちゃんが死んだその時、礼人は雪と一緒に星を見ていたのか。 櫻の胸は、激しく締めつけられた。 第5話 櫻は入院せず、お腹を押さえながらそのまま自宅に戻った。 彼女はベッドに横たわっても、眠れぬ夜が続いた。 着信音が鳴り響いた。櫻の父からのビデオ通話だった。 「櫻、ビザの書類はもう準備したよ。来週、大使館で面接を受けてくれればいい」 「うん、わかった、父さん」 「どうした?顔色が悪いな。誰かに虐められたのか?」 ビデオ通話の向こうで、櫻の父は彼女の血の気のない顔に気づき、何かおかしいと感じた。 櫻は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ、明るい声を装って答えた。 「大丈夫だよ。北城で楽しくやってる。ただ、ちょっと疲れただけ……」 「そうか。無理はするなよ。よく休んで」 「うん、父さん、またね」 通話を切った瞬間、櫻は声を上げて泣いた…… もう限界だったのだ! …… 翌朝、彼女は荷造りを始めた。 礼人がこれまで贈ってくれた物は丁寧に仕分けし、返すつもりだった。 礼人と一緒に過ごした7年間、彼は写真を撮るのが嫌いだった。 だから、彼女と礼人のツーショット写真は、一枚もなかった。 しかし礼人は、雪とのツーショット写真を、引き出しいっぱいに大切にしまっていた。 それが……愛されていないということなのだろう。 彼は、自分が愛する女としか、写真を撮らないのだ。 まあいい。櫻は口元に自嘲の笑みを浮かべた。 もう、彼女が処理すべきものなんて何もない。 引き出しの中には、厚いスケッチブックが数冊あった。 中身はすべて、礼人を描いたものだった。 付き合い始めたその年から、櫻はずっと彼をこっそり描き続けていた。 冷たい彼、よそよそしい彼、眉をひそめる彼、情熱的な彼…… 彼のいろんな表情を、彼女は絵に閉じ込めた。 何日かおきに1枚を描く。まるで1枚でも多く描けば、ほんの少しでも彼に好きになってもらえるように。 7年間で、合計722枚のスケッチが完成した。 最後の一枚を描いたのは、礼人が雪にプロポーズしたその日だった。 そして、そこで筆を止めた。 「パチッ」と、櫻はライターに火を灯し、愛を注いだそのスケッチたちを、一枚一枚、全て燃やしていった。 彼女と礼人の関係はここで、終わらせるべきなのだ。 礼人が部屋に入ってきたとき、最後のスケッチは火鉢の中で灰と化していた。 彼は眉をひそめて櫻を睨みつけ、冷たい声で問いかけた。 「何してるんだ?」 「別に。ちょっと整理してるだけ」 櫻は彼を見上げた。 その顔には静かな表情が浮かんでいて、何一つ、言葉を加えなかった。 礼人は、家の中が急にがらんとしていることに気づいた。 いつの間にか、櫻の好きだった置物や小物、観葉植物などが、すっかり消えている。 なぜか、彼の胸の奥がザワついた。 櫻の目も、妙に落ち着いていた。 まるで何かが壊れて、光を失ってしまったかのように。 以前の彼女は、彼を見つめるたび、喜びと熱を宿していた。 彼にキスするときは、深く、切なく、情熱的だった。 だが、今の彼女は、ただ青ざめた顔で無表情に彼を見るだけだった。 命の気配すら感じられないほどに…… 彼女と彼の間には、深い隔たりができてしまったようだ。 手を伸ばせば届く距離なのに、心は遥か遠く、天の果てのように感じられる。 彼らの間にはなにかが、静かに消えてしまったのだ。 その時、櫻のスマホが鳴った。 大使館のスタッフからで、ビザ面接についての確認連絡だった。 礼人の整った眉が険しく寄せられた。 疑いの眼差しで櫻を見つめる。 「ビザの手続きしてるのか?」 櫻は軽く笑い、何気ないふうに言った。 「今度、一緒に海外旅行に行こうって、同僚に誘われたから。とりあえず先にビザだけ取っておこうと思った」 彼女はもう行くつもりだった。 でも、それを礼人には知らせるつもりはなかった。 礼人の視線はますます鋭くなり、櫻をじっと見つめながら、なにかがおかしいと感じた。 櫻はそもそも旅行好きな人間じゃなかった。 この7年、彼がいる場所に、彼女は必ずいた。 なのに、今日に限って、どうして…… その時、雪から電話がかかってきた。 「礼人、急にお腹が痛くなって。赤ちゃん、大丈夫かな?」 礼人の思考は中断された。 櫻のことを考える余裕もなく、冷たい瞳に焦りの色が浮かんでいる。 「雪、じっとしていて。すぐ行く!」 そう言うと、彼は振り返ることもせず、櫻の存在を完全に無視してその場を去った。 櫻はその後ろ姿を見つめ、ふと笑みをこぼした。 雪を前にした彼は、まるで別人だ。 昔、櫻が高熱で3日間寝込んだ時、礼人はただ電話で冷たく言い放った。 「具合悪いなら病院行けよ。俺は医者じゃない」 でも、雪はただお腹がちょっと痛いだけで、彼はあんなにも焦り、取り乱していた。 彼女と雪は、彼の心の中で雲泥の差だった。 もういい。彼女はどうして、今まで気づけなかったんだろう? 第6話 月曜日に、櫻は大使館でのビザ面接に赴いた。 手続きは順調に進み、まもなくビザも下りるだろう。 これで本当に、旅立てる日が近づいた。 帰り道、大使館の近くにいくつかの高級なウエディングドレス専門店が並んでいた。 ショーウィンドウには、最新の高級ドレスがきらびやかに並び、思わず足を止める。 かつて、彼女も、その中の一着に心を奪われたことがあったが、誰にも言えなかった。 まさか礼人と結婚しようなんて夢見ていたなんて、きっと誰もが、彼女の身のほど知らずを笑うだろう。 今回は、なぜかふとした衝動で、櫻は試してみようと思った。 これは彼女がかつて、最も純粋だった愛への別れでもあった…… ウェディングドレスに身を包んだ櫻の姿はとても美しく、店員たちも口をそろえて、今まで見た中で一番美しい花嫁だと称賛した。 ちょうど彼女が支払いをしようとしたその時、美しく背の高い女性が、気品あふれるハンサムな男性の腕を取って店に入ってきた。 雪と礼人だ。 櫻は、まさかこんなところで彼らに出くわすとは思ってもいなかった。 雪は、ウェディングドレスを着た櫻の姿を見るなり、美しい瞳をすっと曇らせた。 「櫻、そのウェディングドレス、すっごく綺麗ね!」 彼女は笑顔を浮かべながら櫻に近づき、礼人に向かって甘えるように言った。 「礼人、たくさんドレスを見たけど、やっぱり櫻が着てるこのドレスが一番好き。もう決めた、これがいいの!」 「申し訳ありません、三浦さん。こちらのドレスは又村さんがすでにご購入されたものです。他のデザインをご覧になってはいかがでしょうか」 店員が恐縮した様子で言った。 「でも、どうしてもこのドレスがいいの」 雪は甘えるように礼人の腕に絡みついた。 「私の欲しいものなら何でもくれるって言ってくれたよね?たとえそれが空の星でも!だったら、櫻にお願いして譲ってもらってよ、ね?」 櫻は無表情のまま礼人を見つめ、口元に薄く皮肉な笑みを浮かべた。 「櫻、雪がこのドレスを気に入ってるんだ。譲ってやったらどうだ?」 やっぱり…… もし以前だったら、櫻はまだ礼人の言うことを聞いていたかもしれない。 でも今日の彼女は、もう聞く気はなかった。 ビザはすでに下りている。 彼女はもうすぐここを去る。 彼女を縛るものなんて、もう何もない。 櫻は礼人をじっと見つめ、指先が白くなるほど力を込めた。 「ごめんなさい。このドレスは私が先に買ったの。譲るわけにはいかない」 「買ったって?」 礼人は冷笑し、冷たい視線を突き刺すように投げつけた。 「君が身につけてるもの、全部俺が買ったんだろうが」 櫻の顔色が一瞬で青ざめた。 彼はいつもこうだ。 人前でも平気で彼女を侮辱し、彼女の気持ちなど気にも留めない。 唇をきつく噛み締めて、彼女はバッグから父からもらった、まだ一度も使ったことのないブラックカードを取り出した。 そして、それを店員に差し出した。 「すみませんが、今回は自分で買う」 目ざとい雪はすぐにそれが、世界でも発行枚数が一桁しかないという無制限ブラックカードであることに気づいた。 櫻のような男に頼って生きている女が、礼人以外の誰に、こんなカードを持たせてもらえるというの? もしや…… 「礼人、見てよ。櫻、こんなすごいカード持ってるよ! あなたが結婚するって聞いて、もうとっくに次の相手を見つけたのね?」 雪はあからさまに軽蔑の表情を浮かべて言った。 礼人の額の青筋がピクリと動き、その冷たい表情はさらに凍りつくように険しくなった。 櫻は、自嘲気味に唇を引き結び、何も弁解しなかった。 弁解なんて、するつもりもなかった。 どうせ、礼人にとってはどうでもいいことだ。 彼に誤解しても構わない。 だがその時、不意に彼女の白く細い手首が、礼人の力強い手にぎゅっと掴まれた。 「このカード、どこで手に入れた?」 「あなたには関係ないでしょ!」 櫻は必死に手を振りほどこうとした。 だが、礼人の手の力はますます強くなった。 「俺がいない間に、そんなに急いで次の金主を見つけたってのか?」 第7話 礼人は目を細め、じっと櫻を見つめていた。 なぜこれほどまでに心が乱れているのか、彼自身でもわからなかった。 だが、胸の中に燃え上がる嫉妬の炎は、野火のように止められなかった。 櫻は必死に彼の手を振りほどこうとした。 その拍子に、右手の薬指に嵌めていた指輪が飛んでいった。 彼女の顔色が変わった。 このペアリングは、彼女が自らデザインしたもので、大切な宝物だ。 かつて彼女は、礼人に男性用のリングをつけてほしいと懇願し、自分は女性用を身につけた。 だが礼人の細長い指を見たとき、そこには何もなかった。 指輪があったはずの場所には、かすかに残る痕跡だけが虚しく残っていた。 櫻は苦笑いした。 彼女が苦労してデザインした指輪は、礼人にとっくにゴミのように捨てられていたのか。 それでも、もういい。 彼女は、もう未練を断ち切ったのだから。 だが、雪は目ざとく気づいた。櫻のその指輪は、彼女が帰国したときに礼人がずっとつけていたあの指輪の女性用のデザインだった。 まさか、二人はペアリングを着けていたか? 雪の胸に、激しい嫉妬の炎が広がった。 そして次の瞬間、わざとらしく笑いながら、櫻の指輪を靴で踏みつけ、粉々に砕いた。 「櫻、ごめんなさい。うっかり踏んじゃったみたい」 雪はわざとらしく謝りながらも、顔には挑発の色が浮かんでいた。 「大丈夫よ、この指輪……別にいらないから」 櫻は微笑みながら、一語一語はっきりと言った。 礼人の表情は引きつり、端正な顔立ちには陰が広がっていった。 あの指輪は、以前の櫻が一番大切にしていたものだ。 彼女は何度も自分に言い聞かせていた。それは、彼への愛そのものだと。 なのに今、いらないだなんて! …… しばらくして、ウェディングドレス専売店の店長がやってきて言った。 「又村さん、申し訳ありませんが、このドレスは売れません。すぐにお脱ぎください。お支払いはすでに返金いたしました」 櫻は驚いて礼人を見つめた。 「あなたがやったの?」 「櫻、君が雪と張り合えると思ってるのか?」 礼人は冷酷に唇を歪めた。 「そう、よくわかったわ」 櫻は涙をこらえながら、ただ静かに頷いた。 「礼人、覚えておいて!私を傷つけるのは、これが最後よ」 …… 櫻は赤くなった目でアパートに戻った。 外は土砂降りの雨だ。 彼女は構わずずぶ濡れになりながら歩いた。 あと一週間ほど我慢すれば離れると、彼女はそう自分に言い聞かせた。 そして、銀行から6億を引き出し、一枚のカードに入れた。 これは7年間、礼人が彼女に使った金額と同じだ。 彼に全額返せば、もう何も借りはない。 街路樹の下で、雪玉のようなものがかすかな鳴き声を上げていて、彼女の注意を引いた。 櫻は目を向けると、生まれて間もない子犬が草むらにひとりぼっちで震えていた。 子犬は捨てられたようで、弱々しく、命の灯火が今にも消えそうだった。 それは、どこか傷だらけの彼女自身と重なって見えた。 「泣かないで」 櫻は子犬を抱きしめ、胸元にそっとしまいこんだ。 「たとえ皆があなたを要らないと言っても、私はあなたの味方よ!」 この子犬をアメリカに連れて行こうと、彼女はそう思っていた。 なのに、それすら叶わなかった。 出発前日に、礼人は雪を腕に抱き、櫻のアパートの前に現れた。 櫻は本能的に子犬を隠した。 だが、雪の目は鋭かった。 「わあ、この子犬かわいい!礼人、私この子が欲しい。飼いたいの!」 雪は期待に満ちた眼差しで礼人を見つめ、甘えるように懇願した。 やっぱり…… 櫻は冷笑した。 最後の日まで、この女はなぜ、彼女を追い詰めようとするのか? 礼人は櫻の険しい顔つきを見て、彼女が嫌がっているのを悟った。 だが、雪の期待に満ちた瞳を見ると、心を鬼にするしかなかった。 「櫻――」 「あげないわ!」 礼人が話し終える前に、櫻は強く言い放った。 「礼人、あなたが雪の欲しいものは全部与えるって知ってる。でも……」 彼女は子犬をかばうように抱きしめた。 「この子だけはダメ!私のだから!」 「礼人、櫻がダメって言うなら、良しにしましょう。 私はただつわりで辛くて、ちょっと可愛い子に癒されたかっただけ。 なのに、こんなにケチだなんて……」 雪は弱った様子で彼の腕にすがり、涙を浮かべていた。 礼人は冷たい目で櫻を睨みつけた。 「他にどんな犬が欲しいんだ?もっといいやつ買ってやる。だから、この子を雪に渡せ!」 「嫌よ」 櫻は鼻で笑った。 「私の犬を、なんで彼女に渡さなきゃいけないの?欲しいなら、自分で買えばいいでしょ!」 男の顔に苛立ちの色が走り、黒い瞳が不機嫌に光った。 「櫻!俺の我慢も限界だ。言うこと聞かないなら、痛い目見るぞ」 その言葉とともに、背後に控えていたボディーガードたちが無理やり櫻の胸元から子犬を引きはがした。 第8話 子犬は苦しげに「きゃん、きゃん」と鳴き、細い体を必死にくねらせていた。 櫻は悲鳴を上げ、鋭い声で叫んだ。 「礼人、何してるの!強引に奪うつもり?」 礼人は眉をひそめ、櫻がなぜこんなにも大げさに振る舞うのか理解できなかった。 「たかが動物一匹のために、なぜそこまで取り乱す? 数ヶ月もすれば、雪のつわりも落ち着くだろう。そのとき返してやるよ」 櫻はわかっていた。そんな日が来ることは決してないと。なぜなら、彼女は明日この場所を去るのだから。 そして、雪が彼女の子犬を大切にすることなど、決してあり得ない。 「だめっ!」 彼女は涙を流しながら礼人の足元にひざまずき、彼の足にしがみついた。 「礼人、お願いだから連れて行かないで。お願い。 7年間一緒にいたのに、私、こんなに低姿勢で頼むなんて、初めてだよ!」 彼女が必死に哀願する姿を見て、礼人の心に一瞬のためらいがよぎった。 櫻は必死に額を床に打ちつけた。 「お願い、本当にお願い。この子を連れて行かないでくれるなら、あなたの言うこと何だって聞くから!」 何度も何度も頭を下げ続け、櫻の額からは血がにじみ出た。 そのとき、雪が突然、彼に寄りかかってきた。 「礼人、私、すごくつらいの。この子犬がいないと、妊娠中ずっとうつ病になっちゃう」 礼人は心を鬼にした。 櫻を振りほどき、無言でその手を一本ずつ剥がしていくと、雪を抱いてその場を離れた。 「礼人!」 櫻の目には絶望の色が浮かんでいて、声を張り上げて叫んだ。 「お願い、お願いだから。これが最後のお願いなの……この子を連れて行かないで。 約束するよ。もう二度と、あなたの前に現れないから!」 それでも、礼人は一度も振り返ることなく、立ち止まりもしなかった。 櫻は冷たい床に座り込み、どれほどの時間が経ったのかもわからなかった…… そして翌朝、誰かが彼女の家の前に大きな箱を置いていった。 胸が激しく高鳴り、櫻は震える手でゆっくりと箱を開けた。 中には、雪玉のような小さな遺体が入っていた。 彼女の子犬だった…… 四肢は残酷に切断され、目はえぐり取られ、舌も引きちぎられていた…… まさに惨殺だ! 「いやああああっ!!」 櫻は絶叫した。 雪の仕業だ!間違いない! 彼女の拳は固く握られた。目は血のように赤く染まり、口の中には鉄の味が広がっていた。 櫻はそのまま、雪の結婚式会場へと向かった。 入口では警備員に止められたが、彼女は無理やり中へ押し入った。 会場では、雪が櫻の大切にしていたウェディングドレスを着て、巨大なシャンパンタワーの隣で美しく微笑んでいた。 まるで、彼女が来ることを予期していたかのように。 「三浦、どうして!」 櫻は拳を震わせて叫んだ。 「どうして子犬を残酷に殺したの!あの子が何をしたっていうの!」 「どうして?」 雪は冷たく笑った。 「だって、あなたが分不相応に夢を見てたからよ。礼人を私から奪おうとしたから、あの犬は死ぬべきだったのよ。 それにね、あの日あなたを襲ったチンピラも、私が手配したの。あれであなたを徹底的に辱めるつもりだったのに、まさか流産するなんてね。 ふふ、でもいいのよ。あなたの子は死んだ。私は妊娠してるの。ねえ、神様も私の味方だと思わない?」 雪の美しい顔が、まるで悪魔のように歪んでいた。目には勝ち誇った光が宿っていた。 櫻の唇は青白く、血の気が引いていった。 ただ復讐のために、彼女の子犬は殺されたのか? 彼女の赤ちゃんまでも? 彼らが一体何をしたというんだ! 「ねえ櫻、もし今、私とあなたが同時に倒れたら、礼人はどっちを助けると思う?」 雪は冷笑して、急に櫻に近づいた。そして、礼人がこちらに向かってくるのをちらりと見た。 その後、彼女は櫻の腕を掴み、一緒にシャンパンタワーに向かって倒れ込んだ。 轟音が響き渡ると、数百杯のシャンパンが一斉に崩れ落ち、会場に悲鳴が響き渡った。 第9話 櫻は、砕けたガラス片の上に真っ直ぐ倒れ込んで、骨の髄まで痛みが走った。 無数の鋭利な破片が、彼女の白く柔らかな肌に突き刺さり、赤い鮮血が床一面に広がっていく。 この傷は、たとえ癒えても、醜い傷跡として残るだろう。 一方、雪は礼人の腕の中にしっかりと守られ、かすり傷ひとつ負っていなかった。 櫻は、血の気を失った唇に、かすかな苦笑いを浮かべた。 実のところ、雪はこんなにも大げさに証明しようとする必要なんてまったくなかった。 櫻はとっくに気づいていたのだ。礼人の心の中で、本当に大切に思っているのが誰なのかを! 「櫻、あなたに介添人として式に来てほしかったのに、どうして私を突き飛ばしたの? 礼人がいなければ、私はもう血の海の中だったのよ!」 雪は、彼の胸元で泣き叫んだ。 一瞬にして、無数の軽蔑と非難の視線が櫻に集中した。 「これが三浦さんの替え玉だって?いい度胸ね。結婚式を荒らしに来て、新婦を突き飛ばすなんて信じられない!」 「厚かましいわね!たかが愛人のくせに正妻に喧嘩を売るなんて!泣き真似して同情でも買えると思った?残念、豊田社長は見向きもせず、婚約者だけを守ったよ!」 周囲のささやき声はますます大きくなっていった。 「櫻、もうやめにしたら?早く雪に謝りなさい!」 礼人の整った顔には一切の感情がなく、冷たい黒い瞳が櫻を見据えていた。まさに氷のような冷たさだった。 「謝る?」 櫻は可笑しさをこらえるように笑い、痛みに耐えながら礼人に言った。 「礼人、子犬は私の家の前で、生きたままバラバラにされたのよ!三浦があの子を拷問して殺したの。彼女こそ謝るべきじゃないの? それに、私はさっき彼女を突き飛ばしてなんかない。信じられないなら、監視カメラを調べればいい!」 「礼人、櫻が認めないのなら、もう責めないであげて。 それに、櫻の子犬のことも、本当に私じゃないの。彼女の誤解よ!」 雪は礼人の胸元に身を寄せ、不安そうに櫻を見つめた。 礼人の険しい眉間が、次第に和らいでいく。 「櫻、雪が寛大だから、今回は見逃してやる。 子犬が死んだのなら、十匹でも百匹でも、もっと高級な犬を買ってやるよ。 なにをそんなに落ち込むんだ?ただの犬だろ?」 「……ただの犬だと?」 櫻は礼人を見つめ、嘲るように笑いながら涙を溢れさせた。 「礼人、あなたは本当に何もわかってない。あなたは本当にバカね。いいえ、バカなのは私だった!」 その瞬間、彼女の目の中に残っていた最後の光が、完全に消えた。 彼女はゆっくりと立ち上がり、全身の痛みに耐えながら、一歩一歩、礼人に背を向けて歩き出した。 「櫻、どこへ行くんだ?その傷を治療しないと!」 男の目が彼女をじっと追いかけた。 「もういいの」 櫻は軽く鼻で笑った。 そして、礼人を振り返り、一語一句はっきりと告げた。 「礼人……さようなら……私はもう、あなたの前に二度と現れない」 その言葉に、礼人の心がギュッと締めつけられた。 櫻の言葉の意味は、なんなのか? 彼女の目に映る自分への視線は、あまりに冷たかった。 礼人は首を振り、胸の中の不安を振り払おうとした。 彼女は家で大人しく自分を待っているはずだ。 彼女が行く場所なんて、どこにもない。 …… 式場の前に、長らく待機していたロールスロイスカリナンが静かに止まっていた。 「お嬢様、すべての準備が整っております。どうぞ、お乗りください」 運転手が車から降りて、櫻のためにドアを開けた。 櫻はゆっくりと、櫻の父が手配した車に乗り込んだ。 彼女は車内で簡単に傷の手当てを済ませた頃、電話が鳴り始めた。 発信者は礼人だった。 櫻は無言で電話を切った。 再び、激しく電話が鳴り響いた。 櫻はついに、スマホの電源を切った。 車はスピードを上げ、30分後、北城空港に到着した。 搭乗手続きの前、櫻は先ほどの雪との会話の録音を、礼人に送りつけた。 その後、礼人と雪の連絡先をすべてブロックし、削除した。 最後に、スマホそのものをゴミ箱に放り投げた。 飛行機が離陸した時、北城の空には雪が降り始めていた。 櫻は最後に一度だけ、北城を振り返った。 さようなら、豊田礼人。 これから……もう二度と会うことがないように!